「安倍国葬」は9条改憲への道、戦争に通じる道。
(2022年8月9日)
皆さま、私が最後にお話しをさせていただきます。炎天下の真昼間ですが、もう少しの時間、耳をお貸しください。
政府は安倍晋三の国葬を行うことを決めました。閣議決定で日程は9月27日とされています。えっ? あの安倍晋三を国葬? 冗談も休み休みにしてもらいたい。これが、冗談ではなく本気というなら、「絶対反対」「国葬決定を取り消せ」と怒りの声を上げるしかありません。
そもそも葬儀とは、死者を悼む人たちが営む敬虔な儀式です。国葬とは、国が死者に弔意を捧げる儀式。とは言え、国には人の死を悼む心はありません。人の死を悲しむ感情も、死者に惜別を告げる言葉も、流す涙の一粒ももちあわせてはいません。それでもなお、なぜ国に葬儀をさせようとするのでしょうか。
それは、国を支配する者に魂胆があるからです。国が死者を悼むわけはなく、実は国民みんながこぞって、ある特定の死者を悼むという形を作ろうというのが国葬です。少なくとも国民の大部分が、この死者を悼む気持ちがあるというかたちづくり。そのような優れた人の生前の行いを讃え、国民こぞってその人の遺志を継ぎ、その優れた人が望んでいた国を作る決意を国民的な規模で再確認しよう。為政者がそんなことを企んだときに、ある人の死が、政治的に利用されます。それが国葬です。
とは言え、よりによって安倍晋三の国葬だとは。ばかばかしいにもほどある。こんな人が国葬にふさわしいはずはない。皆さん、安倍晋三とは何者であったか、安倍政治とはいったい何であったか、本当に、国葬に値する人物であったか、国葬に値する業績を残したのか。冷静に考えてみようではありませんか。
内政外交に安倍晋三が遺した業績は皆無と言ってよいでしょう。アベノミクスで格差と貧困を拡げ、アベノマスクで無能無策をさらけ出し、ウラディーミルのお友達としてどこまでも駆けて駆けて駆け抜けた人。
それだけではなく、彼は政治を私物化したとして悪名高い人物です。彼は、忖度という政治文化を蔓延させました。安倍政治とは、公文書の偽造・隠匿・改竄、ウソとゴマカシで特徴付けられ、彼はその民主主義後進国の小さな独裁者でした。国会答弁では明らかなウソを繰り返してきました。ウソつき晋三が国葬にふさわしいはずはありません。そして何よりも、彼は改憲論者でした。日本国憲法を敵視し、とりわけその平和主義をせせら笑って攻撃し、核共有論さえ語っていた人物です。とうてい、国民こぞってその死を悼むことのできる人物ではありません。
極端な保守や右翼と言われる人々の中には、心から安倍晋三の死を悼む気持ちをお持ちの方もいるでしょう。安倍晋三のお友達として本来あり得ない優遇を受けた人々の中には、安倍晋三の死を心底惜しむ人がいても不思議はありません。同志的な連帯意識をもって、日本の軍事大国化に邁進していた人たちや、安倍晋三いればこそ予算も取れたという防衛産業の幹部らなど、安倍晋三の死を悼み、惜しむ人々が集うて、心のこもった葬儀を行えばよいことではありませんか。国葬として、全国民に安倍晋三の死への弔意を強制することが許されてはなりません。
私は民主主義者ですから、社会の変革は国民の意識改革と選挙を通じて行われるべきと確信しています。暴力でてっとり早く政治を変えようという立場を決してとりません。政治的テロを厳しく拒否します。しかし、安倍晋三の死を政治的に利用しようというたくらみを許容することはできません。どのような死に方をしようとも、安倍晋三の生前の所業をごまかしてはならない。ウソつき晋三を国葬という化粧で塗り込め、その罪を覆い隠すことは、決して許されません。
安倍国葬は、安倍晋三の政治路線を美化しようというたくらみです。国民こぞって、非業の死を遂げた安倍晋三の遺志を継いで日本国憲法の改正を実現しよう、などという見透いた策動に乗せられぬよう街頭から「安倍国葬反対」と呼びかけて、ここ本郷三丁目交差点での本郷湯島九条の会の訴えを終わります。