澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

違憲訴訟で闘う試みー「安倍内閣・集団的自衛権行使容認違憲訴訟」

6月1日の東京新聞「こちら特報部」が、「違憲訴訟で闘う市民」を紹介している。もちろん、安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定に対する抗議の意思表示。個人での訴訟が少なくとも5件あるという。さらに、閣議決定と戦争法の双方を俎上に載せる集団訴訟を、松坂市長を先頭とする450人が準備中だとも紹介されている。小林節さんが、弁護団長引き受けの予定なのだそうだ。

この記事以来、何人かの方から問合せを受けた。「今度は違憲訴訟やらないんですか」「東京ではそんなことを企てているグループはないんですか」。そして、「もし、私がひとりで原告になろうと決意したら、代理人になっていただけますか」という方も。みんな、なんとかしなければならない。何かをやりたい、という雰囲気なのだ。

東京新聞の記事も、私に連絡をしてきた方たちも、こんな風に考えているのだと思う。
「今は憲法が大きな危機にある。その元凶である安倍政権に立法府が歯止めをかけることが難しそうだ」「それなら、三権の残る一つである司法に期待するしかない」「司法こそは、憲法の番人ではないか」「立法府や内閣は数の力を恃むところだが、司法は数を数えるところではない。純粋に違憲・違法の判断をしてくれるはず」「司法はたったひとりの市民の訴えにも耳を傾けるところではないか」

また、「何よりも、憲法改正の手続を僣脱して、閣議決定で違憲の宣言とは何ごとか」「今国会で進行しているのは、法律で憲法を覆えす試みではないか」「主権者をないがしろにした安倍クーデターだ」「国民世論が国会にも、内閣にも反映していないのだ」「このような事態に裁判所が無力であってよいはずはない」
そのように言いたいことが、とてもよくわかる。しかし、それでも提訴は難しいことになる。

実務法律家は、このような市民の司法への期待を、素人故の見当外れの願望と一蹴してはならない。少なくとも憲法論としてはこれらの見解の真っ当さは明白である。これを司法の場で実現する方法を真剣に検討すべきが筋だろう。

とは言うものの、私にはそのような知恵も能力もない。違憲訴訟立ち上げの運動にまったく参加していないし、東京にそのような運動があるかすらも知らない。この際、違憲訴訟をやってみようという積極的な元気も余裕もない。せいぜい、ブログを書き続けるくらいしか能がない。

もう、24年もまえのことになる。1000名を超える市民が原告になって、東京地裁に市民平和訴訟を提起した。湾岸戦争に戦費を支出するな、掃海部隊を派遣するな、そして原告各自に慰謝料1万円ずつの支払いを求めた。典型的な集団違憲訴訟である。この提訴が、この種訴訟のスタイルを作ったのではないだろうか。私はその弁護団事務局長だった。

1991年3月4日、百人を超える原告が、みんな手に手に一輪ずつの花をもって地裁に集合し提訴した。以来、法廷や集会には必ず、花を持参した。ゼッケンやワッペンにはうるさい裁判所も、さすがに花の持ち込みまでは咎めなかった。

この訴訟の請求の趣旨は、当初以下のとおりだった。
1、被告国は、湾岸協力会議に設けられた湾岸平和協力基金に対し90億ドル(金1兆1700億円)を支出してはならない。
2、被告国は、自衛隊法100条の5第1項についての「湾岸危機に伴う避難民の輸送に関する暫定措置に関する政令」(1991年1月29日公布政令第8号)に基づいて自衛隊機及び自衛隊員を国外に派遣してはならない。
3、被告国は、原告らそれぞれに対し各金1万円を支払え。
4、訴訟費用は被告の負担とする。

後に、「掃海部隊派遣差し止め」が加わり、90億ドルが現実に支出され掃海部隊が派遣されたあとは、「支出行為・派遣行為の、違憲・違法確認請求」に切り替えた。自衛隊機派遣は計画が消え、取り下げている。

市民平和訴訟の形式は、2004年に各地で取り組まれたイラク派遣差し止め訴訟に受け継がれた。

名古屋地方裁判所への提訴の請求の趣旨は以下のとおりである。
1 被告は、『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域並びに周辺海域に派遣してはならない。
2 被告が『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは、違憲であることを確認する。
3 被告は、原告らそれぞれに対し、各金1万円を支払え。
4 訴訟費用は被告の負担とする。

市民平和訴訟で請求の根拠としたものが、憲法前文中に謳われている平和的生存権、そして納税者基本権である。いろんな工夫を凝らしてはみたが、裁判所を説得することはできなかった。この種の違憲訴訟は難しい。現行の訴訟制度の中で、憲法論まで到達することが容易ではない。

何を違憲の対象として特定するのか、被告の選定、原告適格、被侵害利益、訴えの利益、請求権の根拠、どのような請求の趣旨を立てるか…。裁判を土俵に乗せるまでが至難の業なのだ。さらに、土俵上でしっかり組んだと思っても、スルリと体をかわされる。そのうっちゃり技が統治行為論である。

裁判所の頭の中には、東京地裁伊達判決を覆した砂川事件大法廷判決の法理が離れなかったのだろう。最後はこのようにして違憲判決回避という裁判所なのだ。「高度に政治性の高いテーマについては、一見きわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すべきではない」という統治行為論である。つまりは、できるだけ国会や内閣という「民主的機関」の意思を尊重して司法は軽々に違憲判断をすべきではない、というのである。一見きわめて明白な憲法の番人の職務放棄である。

それでも、次々と新しい挑戦者が現れるだろう。イラク訴訟がその典型で、名古屋高裁判決では立派な成果を挙げている。東京と大阪で、安倍靖国参拝違憲訴訟が進行中だが、ここにも新しい試みがある。これまではこの種の国家賠償請求では、請求の根拠として原告の宗教的人格権侵害を挙げていた。いま、平和的生存権の侵害も併せて強力に主張されている。

工夫の積み重ねがやがては力になっていく。新しい挑戦者に期待したい。
(2015年6月3日)

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