澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

内野光子著「天皇の短歌は何を語るのか」を読む

先日(12月27日)、本欄に「万国のブロガー団結せよ」の記事を掲載した。
これに対する具体的な反応はまだ見えないが、DHCスラップ訴訟弁護団に所属している徳岡宏一朗さんが、法廷に出席したうえご自分のブログ(Everyone says I love you!)で、連続してDHCスラップ訴訟を取り上げてくれた。その圧倒的な情報量に驚かされる。是非ごらんいただきたい。そして、ブログの最後に出て来る「ブログランキング賛成票」にもクリックを。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/01835f65b846168cb7400449f6787515
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0278962f4551fe0531c2218cb9b922d4

また、内野光子さんが、「内野光子のブログ・短歌と地域の可能性を探る」で詳細な「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴記を掲載してくださった。感謝に堪えない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/dhc1-4959.html
「ことしのクリスマス・イブは~DHCスラップ訴訟控訴審(東京高裁)第1回口頭弁論傍聴と報告集会へ」

ところが、内野さんのブログは単発では終わらず、次のように続いた。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html
「ことしのクリスマス・イブは(2) ~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった! 」

これでも終わらない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-9e69.html
「ことしのクリスマス・イブは(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その2)」

さらに続く。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html
「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」

内野さんの「サプライズは、国会開会式出席表明の共産党!」の記事が、私の12月25日ブログ
  http://article9.jp/wordpress/?p=6112
「共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け」と関連あるのかどうかは分からない。しかし、一読すればお分かりのとおり、私よりも遙かに積極果敢に問題の本質に切り込んでいる。共産党の中央委員会に電話までして、疑問をぶつけているその真摯な姿勢には脱帽するしかない。

私の前記ブログは、私の知る限り下記のサイトで引用されているが、各サイトに内野さんのブログの引用がないのが惜しい。
 NPJオススメ【論評】http://www.news-pj.net/recommend-all/reco-ronpyo
 ちきゅう座 http://chikyuza.net/
 Blog「みずき」 http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1706.html#more

内野さんには、「短歌と天皇制」(1988年)、「現代短歌と天皇制」(2001年)、そして「天皇の短歌は何を語るのか」(2013年)の単著3部作がある。このうち、「天皇の短歌は何を語るのか」を、初めてお目にかかった際にいただいた。「2013年12月30日 内野光子」というサインが記されている大切な一冊。ちょうど2年前の今日のことだ。私が「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10」を書いた日に当たる。あれから2年が経っている。

この書は、短歌を通じての天皇・天皇制論。天皇制の本質に深く切り込んでいる書として読むに値する。現代短歌にはほとんど関心のない私にも分かり易く読める。巻末に人名索引があるが10頁に及ぶもの。たいへんな労作でもある。

この書は、下記の4章からなっている。
Ⅰ 天皇の短歌は何を語るのかーその政治的メッセージ性
Ⅱ 勲章が欲しい歌人たちー歌人にとって「歌会始」とは
Ⅲ メディア・教科書の中の短歌
Ⅳ 「ポトナム」をさかのぼる
(「ポトナム」は、戦前からの短歌同人誌)

Ⅰ章の「天皇の短歌は何を語るのか」での、「護憲との矛盾のはざまで」という興味深い一節だけを紹介する。

 天皇・皇后は、…常に憲法を念頭においていることを強調する。皇后も、…「民主主義の時代に日本に君主制が存続しているということは、天皇の象徴性が国民統合のしるしとして国民に必要とされているからであり、この天皇及び皇室の象徴性というものが、私どもの公的な行動の伜を決めるとともに、少しでも自己を人間的に深め、よりよい人間として国民に奉仕したいという気持ちにさせています」と、かなり慎重な表現で、応分の役割と心情を述べている(1998年5月12日、英国など外国訪問前の記者会見)。行き届いた説明をしようとすればするほど、天皇制維持に内在する民主主義との矛盾が露呈するかのようである。護憲志向と天皇制維持の実態との間には大きな矛盾を抱えざるをえない。今や、護憲政党さえどんどん曖昧な姿勢をとり始めている。さらに、今の政府や議会は、この天皇・皇后のやや末梢的とも思える憲法擁護のためのさまざまな試みやパフォーマンスさえ無視し、憲法改正という逆行の姿勢を崩そうとはしない。やはり、この辺で、もう一度、天皇制自体を考え直す時期なのではないか。私見ながら、女帝をなどとは言わず、矛盾や「お世継ぎ」の呪縛から一家を解放し、次代からは、元貴族としてひそやかに、伝統文化の継承などに努めてもらえないだろうか。」
初出の掲載は2004年4月だという。今にして、ますますなるほどと、うなずかざるを得ない。

この書で、「勲章や選者としての地位が欲しい」歌人と、「節を曲げざる」歌人とがいることを生々しく知った。政治家・財界・官僚・学界・芸術・芸能・法曹の世界まで皆同じではないか。権威の体系である天皇制は、このような形で、文芸をも体制迎合的な存在に貶める。勲章も要らない、歌会始の選者の地位も要らない、と言い続けることは、実はそれだけで立派なことなのだ。

もうすぐ歌会始。例年冷ややかに眺めてきたが、今回はとりわけ批判のまなざしで見つめたいと思う。
(2015年12月30日)

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