澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「戦争の狂気」はいかに人を蝕むか

東京新聞に、「ドナルド・キーンの東京下町日記」という毎月1回掲載の連載コラムがある。これが毎回なかなかに読ませる。本日(12月4日)は「玉砕の悲劇 風化恐れる」という標題。彼が戦争中通訳として付き合いのあった軍医の思い出を通じて、「戦争がもたらす狂気」の一端を記している。必要なところだけを抜粋して紹介したい。

「太平洋戦争時、米海軍の通訳士官だった私(キーン)がハワイの日本人収容所で知り合った、元日本兵の恩地豊さんが亡くなった。享年百三歳。戦後、敵味方のわだかまりを越えて付き合った元捕虜は何人かいた。一人減り、二人減り、恩地さんが最後の一人。」「戦争末期、恩地さんが陸軍の軍医として派遣されたパラオ諸島ペリリュー島は、最悪の激戦他の一つだった。兵力、装備で米軍は圧倒的。日本軍は押されながらも徹底抗戦して、最後は玉砕した。一万人以上が戦死。恩地さんは奇跡的に生き残り、捕虜になった。」
「収容所は不思議な場所だ。命を懸けて戦った敵国から、戦地よりも快適な生活環境が与えられる。『生きて虜囚の辱めを受けず』と洗脳されていた捕虜のほとんどは『死にたい』『日本には戻れない』と頭を抱えた。だが、恩地さんは堂々としていた。戦前から、海外の医学論文を読んでいたインテリだから、海外事情に通じ、捕虜の扱いを定めたジュネープ条約も知っていたのだろう。尋問にも冷静に応じた。」
「(恩地さんは、戦後)『何であんな戦争をしたのか。国力、科学力の差からして勝てるはずがなかった』『少しでも海外事情を知っている人は、戦争を始めた東条英樹を嫌っていた』とつぶやくことが多かった。同島の激戦は狂気の沙汰だった。日本軍には、本土への攻撃拠点にさせまいとの防戦だったが、より本土に近いフィリピンの島が米軍に占領された段階で戦略的に抵抗は無意味になった。それでも日本兵は『バンザイ』と突撃して、散った。」「その矛盾を恩地さんは頭で理解しながらも、自らの戦いは肯定した。『三日で決着する、と言っていた米軍相手に、三カ月粘った』『捕虜になるまでの二カ月は飲まず食わずで頑張った』」

キーンの筆は冷静に最後を次のように締めくくっている。
「目の前で多くの僚友を失った彼の複雑な心境は分からないではない。だが、そう思ってしまうのも狂気の一部なのだろう。私たちは先の戦争から多くを学んだ。恩地さんのような体験者の死で、それが少しでも風化することを私は恐れる。」

「狂気」は、戦略的に無意味で勝ち目のない戦闘での突撃だけをいうのではない。「粘った」「頑張った」「よく闘った」と自らの戦いを肯定するその姿勢をも「狂気の一部」というキーンの見解が重い。東条を嫌い、国際事情にも通じているインテリにおいて、この「狂気」から逃れられないというのだ。

このキーンのいう「狂気」こそが、実は靖國を支える心情なのだ。戦没者の遺族だけでなく、その戦いでの生存者も、戦死者を貶めたくはない。その死を無意味な犬死とはしたくない。できれば、大義のある死であって欲しいとの思いが、戦闘をあるいは戦争をも意味づけせずにはおかれぬことになる。戦死者を英霊と称えるには、戦争を美化するしかない。歴史を歪曲する心情がここから生まれる。

私は、日本兵の捕虜といえば、盛岡の柳館与吉さんを思い浮かべる。
私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父(澤藤盛祐)も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされてはいる。柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。

その後、柳館さんと親しくなって、戦時中のことを聞いて仰天した。
彼は、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。

戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。

柳館青年は、国家のために命を捨てるか国家に叛いて自らの生を全うするか、国家と個人と極限的な状況で二者択一を迫られた、という葛藤とは無縁だったようだ。

戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながら投降することが可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。

しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1952年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸軍刑法(海軍刑法も同様)は、戦時中猛威を振るった。その第7章「逃亡罪」は以下のとおりである。

第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十六条 党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑、無期若ハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ首魁ハ無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ首魁ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス

第七十八条 第七十五条第一号、第七十六条第一号及前条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
(以上はhttp://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm41-46.htm「中野文庫」で読むことができる)

敵前逃亡は「死刑、無期もしくは5年以上の懲役または禁錮」である。党与して(徒党を組んで)の敵前逃亡の首謀者は「死刑または無期の懲役もしくは禁錮」とされ、有期の選択刑はない。最低でも、無期禁錮である。さらに、「敵に奔(はし)りたる者」は、「死刑または無期懲役・禁錮」に処せられた。単なる逃亡ではなく、敵に投降のための戦線離脱は、個人の行為であっても、死刑か無期とされていたのだ。未遂でも処罰される。もちろん、投降現場の発覚は即時射殺であったろう。

世の中が「鬼畜米英」と言い、「出て来い。ニミッツ、マッカサー」と叫んでいた時代のことである。刷り込まれた戦陣訓や軍の規律への盲従が、死の恐怖にも優越する選択をさせていた「玉砕」の時代のこと。インテリの軍医ですら、最後まで闘ったその時代。当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、適切に状況を判断して生き延びたのだ。見つかれば、確実に死刑となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。

「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。ドナルド・キーンのいう、「戦場の狂気」から逃れることは難しいことだ。しかし、一億一心が狂気となった時代に、柳館さんはこの狂気に染まることはなかった。

私は、「貴重な体験を是非文章にして遺してください」とお願いした。その柳館さんも今は亡い。さて、「ネグロス島・兵営脱走記」は書かれているのだろうか。
(2016年12月4日)

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