橋下徹の大阪都構想が頓挫した。市長の補完勢力となっていた公明党が維新大阪を見限ったことによって、大阪市議会で橋下が完全に孤立したからだ。これまでも、維新の落ち目は明らかだったが、これで決定的な挫折が明らかとなった。橋下は、事態の打開を目指して辞職し、新たな市長戦に打って出る意向とのこと。この出直し市長選で敗れた場合には、「橋下徹・松井一郎の2人とも政界を去る」と明言をした。是非とも、潔く完全に政界を去っていただきたい。それが、日本の民主主義のためなのだから。
この間、私は民主主義とは何かを考え続けてきた。民主主義に代わる政治形態はあり得ないが、民主主義が万能であるわけはない。国民の政治意識の成熟なくして、民主主義は容易にポピュリズムに転化する。民主主義が独裁をすら生みだしかねない。その危うさを橋下維新に見てきた。橋下の台頭は民主主義への警鐘であり、橋下の挫折は民主主義の辛勝を意味する。
民主主義とは権力形成の手続である。集団の成員が特定者に対して、権限・権能・権威を委託する手続と言ってもよい。その手続において、集団全体の意思をできるだけ正確に反映する権力を形成することが想定されている。それが、成員全体の利益になるはずという予定調和が想定されている。
しかし、そうして形成された権力が成員全体の利益を実現するとは限らない。むしろ、権力が成立した瞬間から個々の成員との対立矛盾が生じることになる。予定調和は幻想に過ぎないのだ。多くの現実例によって、多数派形成の権力が少数者の人権を侵害するものであることを明らかにしている。
とりわけ橋下である。彼は、ことあるごとに「民意は我にあり」と強調してきた。民意は選挙に表れている、選挙に勝つことこそ万能の権力の源泉、と振る舞ってきた。しかも、彼の民意獲得の手法は、意識的に選挙民を煽って「民意の敵」をつくり出すというもの。「敵」とされるものは、大企業でも高額所得者でもない。公務員であり、教員であり、労働組合なのである。鬱屈している民衆の身近にいる羨望の対象。これを「敵」と規定し、容赦ない攻撃によるカタルシスを選挙民にもたらす。こうした非理性的な集票手段によって成立する権力が、教育委員会制度を破壊し、極端な「日の丸・君が代」強制を実行し、職員の思想調査や、不当労働行為を頻発している。
大阪都構想は、本質的には、財界が新自由主義的な社会保障切り捨て策として待望している道州制へのステップである。しかし、選挙民の感性レベルでは、東京に対抗意識の強い大阪人のプライドをくすぐる策でもある。民主主義的理性に訴えるのではなく、民衆の感性と憎悪の感情に訴えることによって保たれる権力は、暴走の危険を孕むものである。橋下維新の危うさは、今や革新と保守とを問わず、大阪市議会で維新以外の全政党政派の共通認識になった。そのことが維新の決定的な孤立をもたらしている。
願わくは、来るべき大阪市長選挙おける反橋下統一候補の擁立である。都知事選の轍を踏むことなく、候補者選定の過程をオープンにし、各会派の共闘に知恵を集めていただきたい。民主主義の大義のために。
(2014年2月1日)
亡父の誕生日が1914(大正3)年1月1日。五黄の寅の元日の生まれは、易では運気が強いとされるようだ。が、父は特に名をなすこともなく、市井に生き市井に埋もれた。2度招集され、極寒のソ満国境で関東軍の下士官として越冬している。その間母は心細くも銃後を守った。父母ともに、まともに戦争と向かいあった「割を食った世代」だった。それでも、父が一度の戦闘に参加することもなく敗戦を内地で迎えることができたのは、もって生まれた運気のお蔭だったのかも知れない。加えて、戦後は3男1女を一人も欠けることなく育てる平穏に恵まれている。これ以上望むべきことがあろうか。人生の後半は平和の恩恵を噛みしめた世代でもあった。
その父が生きていれば、今年の正月で満100歳。その生年の100年前とは、はるかに遠い昔のような、案外にそれほどでもないような。その100年前の世界の国際情勢が、今話題となっている。波紋を呼んだ、安倍晋三のダボスでの記者会見によってである。
巧みに書かれているので、本日の「毎日」の福本容子論説委員の記事の一節を引用する。
「世界経済フォーラムのためスイスのダボスに集まった各国の有力な経済人や政治家やメディアは、安倍さんの発言に安心の材料を見つけたかったのだと思う。だから怖くなった。『あるわけないでしょ』が当然返ってくると思いイギリスの記者が聞いた『日中の武力衝突は考えられますか』に、即全面否定がなく、世界大戦に発展した100年前のイギリスとドイツの関係を自分で話題にしたのだから。いくら同じ失敗はしない、が真意だったとしても、米ウォールストリート・ジャーナル紙は、『世界経済を動かす人たちが、全面戦争を本物のリスクとして語りだしたこと自体、心配な動き』と書いた。」
亡父が極東の島国で生を受けた100年前。ヨーロッパでは、国際経済交流の活発化と相互依存の経済関係が意識されるようになり、もう戦争は起こらないのではとさえ囁かれていたのだという。にもかかわらず、偶発的な事件の連鎖がヨーロッパを二分する大戦争になり、やがてはアメリカをも巻き込んだ。日英同盟を締結していた日本も参戦して、「日独戦争」を戦っている。
ダボスで安倍晋三の口から語られたことは、その二の舞はあり得ないという否定としてではなく、第1次大戦と同様、日中の戦争はあり得るというメッセージと受けとめられた、というのだ。
おなじ福本容子論説委員の記事に次の一節がある。
「『ものの1時間で、経済と政治の方程式は、アベノミクスからアベゲドンのリスクに変わった』。安倍晋三首相の靖国神社参拝後、香港の英字紙、サウスチャイナ・モーニング・ポストに載った論評だ。」
「アベゲドン」(あるいはアベマゲドン)という造語は、アベノミクスの行きつく先に予想される経済の破局を意味するものだった。名付け親は、世界的な投資銀行として知られるUBS銀行の最高投資責任者アレックス・フリードマンという人物だと聞く。投資家ならずとも、アベノミクスの破局的終焉は多くの人が危惧するところ。ところが、同じ言葉が、経済のみならず、政治的な破局、あるいは平和の終焉をも意味する用語として使われ始めている。
福本が引用する香港紙に語られているのは、経済ではなく「政治の方程式」、あるいは「戦争と平和の方程式」である。安倍の靖国神社参拝は、政治的な破局としてのアベゲドンにつながるリスクをもった行動として論評されている。
第二次大戦後の国際秩序の基本構造は、ファシズムの枢軸側と反ファシズムの連合国との争いに、反ファシズム勢力の勝利をもって決着したところから出発している。ナチスはニュールンベルグで、天皇制日本は東京裁判で、その平和に対する罪を裁かれた。その結論を承認することが、敗戦国の国際社会への復帰の通過儀礼となった。そのようにして、日本は国際社会に復帰し国連にも加盟した。
靖国史観は、この戦後世界の国際秩序を認めない。アジア太平洋戦争が侵略戦争であったことを否定し、植民地支配への反省もない。東京裁判を勝者の裁きとして、その正当性を認めようとしない。安倍が参拝したのは、そのような軍国神社なのである。これまでの安倍の言動と相俟って、この靖国参拝は、戦後の国際秩序の基本構造への挑戦であり、新たな戦争準備であると各国に映っているのだ。それが、政治的意味でのアベゲドンのリスクと認識されている。
父の生きている間に、世界は2度の大戦と無数の小戦争を経験した。人類の進歩を信じたい。100年前に戻って、再びの戦争の歴史を繰り返したくはない。アベゲドンはまっぴらだ。安倍のような危険人物にこの国の運命を委ねていてはならない。人がこの世に生を受けて、その貴重な人生を戦争に蹂躙されることがないよう、揺るがぬ平和を築くために微力を積み重ねたい。
(2014年1月31日)
特定秘密保護法の問題点は無数にある。そのひとつとして、同法違反の刑事被告事件において被告人の防御権を保障できるのかという難問がある。185臨時国会では、政府はこの問題にフタして強引に押し切ったが、本日の「毎日」が、「秘密のまま裁判、困難」「法案検討時 警察庁など懸念」と、同紙が情報公開請求で入手した資料をもとに、改めてこの問題を提示している。今通常国会では、同法の廃止法案が論戦の舞台に上る。毎日の姿勢を大いに評価したい。
周知のとおり、特定秘密保護法の原型を形つくったのは、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」である。同会議のメンバーは以下のとおり。ことあるごとに記して記憶を新たにしておかねばならない。
縣公一郎(早稲田大学)
櫻井敬子(学習院大学)
長谷部恭男(東京大学)
藤原静雄(中央大学)
安富潔(慶應大学)
同会議は、2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。
その報告書の23?24ページに、「第7 立法府及び司法府」という節がある。国会議員や裁判官に、「特別秘密」(これが法制定時には「特定秘密」となる)の守秘義務をどう課するべきか、罰則の適用をどうするかが、以下のとおり検討されている。
「立法府及び司法府がそれぞれの業務上の必要性から特別秘密の伝達を受け、国会議員や裁判官等がそれを知得することが想定し得るため、然るべき保全措置が取られることが本来適当である」
この業界語を日本語に翻訳すれば、以下の如くである。
「国会議員や裁判官には、特定秘密を触らせたくはない。だから、できるだけ議員や裁判官には特定秘密を明かすことなく仕事をしてもらう。しかし、国会や裁判所の業務の必要から、やむなく特別秘密を明かさねばならないこともあるだろう。そのときのために、国会議員や裁判官にも罰則を設けてそれ以上は秘密が漏れないようにしなければならない」
これを前提として、
「司法府については、裁判官には罰則を伴う守秘義務が設けられていない一方、弾劾裁判及び分限裁判の手続が設けられている。特別秘密に係る裁判官の守秘義務の在り方を検討するためには、上記のことも踏まえ、司法府における秘密保全の在り方全般と特別秘密の保全の在り方との関係を整理する必要があると考えられる。しかし、このような検討は、行政府とは独立の地位を有する司法府の在り方に多大な影響を及ぼし得るため、司法制度全体への影響を踏まえて別途検討されることが適当と考えられる。」
ここには、秘密の保護に性急なあまり、司法本来の役割への配慮を見ることができない。裁判官は、うっかり特定秘密に触れると、その漏えいが厳罰の対象となってしまう。それなら、公判で特定秘密を明らかにするような訴訟指揮は、できるだけしたくはないということになるだろう。その結果、国民は、特定秘密保護法違反に関しては、被疑事実をヒ・ミ・ツとされたまま、逮捕され、捜索差押えされ、勾留され、そして刑事公判においてもヒミツを明らかにされないまま有罪判決を受ける虞を払拭できないこととなる。
極論すれば、「被告人を懲役10年に処する。その理由はヒミツ」という判決が危惧されるのだ。このようなことがあってはならないとして、憲法37条は「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」とされ、さらに82条1項は「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」、同条2項は「裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」としている。公開とは、当然のこととして実質的な意味での公開であるのだから、傍聴者やメディアを含めた誰にも、被告人がどのような罪で訴追されているかが分からなければならない。公訴事実秘密のままで国民の基本権に関わる裁判をすることは許されないのだ。
このことは、特定秘密保護法の法案提出以前から問題点として意識されていた。
日本弁護士連合会2013年(平成25年)9月12日「『特定秘密の保護に関する法律案の概要』に対する意見書」では、次のように指摘されている(22ページ)。
「国家秘密を秘匿したままの裁判では,被告人がどのような事実で処罰されるのか分からない状態で裁判を受けることとなり,実質的な防御権・弁護権を奪われるおそれがある。弁護人は,弁護活動のため秘匿された国家秘密にできるだけ接近しようとするであろうが,関係者への事情聴取等の調査活動,資料の収集活動も教唆,共謀等に問われるのだとすれば,弁護活動も著しく制約されることになる。これは弁護人選任権,公正な裁判の否定である。
基本的人権侵害の最後の救済が裁判を受ける権利であるが,これはあくまで事後的救済であり,犯罪として捜査,起訴されただけでも回復不可能な重大な人権侵害となる。その上さらに,特定秘密の保護に関する法律に違反した犯罪では,裁判を受ける権利が否定されかねず,事後的救済すら不十分なものとなる」
この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にした。たとえば、次のように。
「森雅子国務大臣 先ほどから申し上げている通りですね、刑事訴訟法上のですね、秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えばですね、その秘密文書のですね、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております。」
こんな答弁で納得できようはずもない。被告人の権利はどうなる。弁護権はどうなる。裁判の公開の原則はどうなってしまうのか。この人にかかると、すべてのことがあまりに軽くなってしまう。憲法上の重大な原則を、こんなに軽んじられてはたまらない。
今日の「毎日」の調査報道は、警察庁が開示した文書によるもの。「法案検討時に、警察庁や法務省が、特定秘密保護法違反の刑事裁判について、『秘密の内容を明らかにせずに有罪を立証をすることは困難』と指摘していたことが分かった」という趣旨。「憲法が定める裁判公開原則との整合性についても結論が先送りされており、同法が司法制度との間に矛盾を抱えたまま成立した実態が浮かび上がった」としている。
興味深いのは、「法務省刑事局が『弁護人の争い方や裁判所の考え方次第では、外形立証では対応しきれず、特別秘密(現特定秘密)の内容が法廷で明らかになる可能性がある』などとする意見書を、法案を作成した内閣情報調査室(内調)に提出していた」というのだ。
「内調の橋場健参事官は取材に「従来も外形立証は行われており、特定秘密の漏えいも外形立証で証明可能と考えている」と説明。また、法務省刑事局は外形立証への見解に関し「警察庁の文書について回答する立場にない」、警察庁警備企画課は「公判手続きに関わる事柄なので答える立場にない」と回答した」とのこと。
まだ特定秘密保護法施行前の今だから、情報公開請求でこれだけの事実が浮かびあがってくる。記者の取材も可能だ。特定秘密保護法施行後には、こんなことも「特定秘密」に指定されることにならないだろうか。
いずれにしても、この日下部聡記者の署名記事。よく切り込んでいるではないか。記者冥利に尽きる記事と言えよう。
(2014年1月27日)
2013年12月26日の安倍靖国参拝については、12月26日と27日のブログで意見を述べておいた。
https://article9.jp/wordpress/?p=1776(26日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1783(27日)
この安倍参拝の違憲性を、集団訴訟で明確にしようという動きが各地であるようだ。その一つの動きとして、私の許にも下記の文書が回ってきている。「転送歓迎」となっているので、発信者の役に立ちたいと思う気持ちから、全文を転載する。
***********************************************************************
安倍内閣の危険な体質を危惧されているすべての皆様へ
安倍靖国参拝違憲訴訟の原告になりませんか
(仮称)安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京
2013年12月26日、安倍晋三首相は靖国神社を参拝しました。
礼装し、公用車で靖国神社に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳し、正式に昇殿参拝しました。これは公式参拝であり、日本国憲法20条(政教分離)に明らかに違反をしております。私たちは具体的な形で安倍首相に批判の声を届けなければなりません。安倍靖国参拝違憲訴訟を起こしたいと思います。
この訴訟は違憲確認、将来にわたる公式参拝差し止めを求める裁判ですが、「政教分離」だけでなく、平和的生存権はもちろん、「秘密保護法」成立の強行、「集団的自衛権」「武器輸出」推進、その他社会全般に及ぼうとしている安倍内閣の危険な政治を総合的に問う訴訟にしたいという考えも出ております。
私たちは、この訴訟提起が、市民が法的な面から直接に安倍内閣に異議申し立てができる数少ない道の一つではないかと考えております。
この訴訟に多くの方が加わってくださること(原告、支援の会)が訴訟を強力にする道と思い、呼びかけを送ります。訴訟は4月21日(靖国神社春季例大祭の日)に提訴することを予定しています。
訴訟の内容(会の代表、原告代表、事務局、費用など)は、現在協議中ですが、この訴訟に加わりたい方、関心のある方、下のmailアドレス・FAXにて連絡ください。今までの資料や原告募集等の書類などお送りいたします。もちろん訴訟関係の事務局会議に参加くださることも歓迎します。
安倍首相は「平和を祈って参拝した」などと述べています。今回、安倍首相は、靖国神社の中にある「鎮霊社」にも参拝しました。鎮霊社は、1853年(ペリー来航)以降の全世界の戦争の死者のうち、靖国神社に合祀されていない人々を「慰霊するための施設」としてつくられたものです。そこは、ヒトラーもアウシュビッツの死者も、靖国神社に合祀されていない空襲や原爆の死者も、等しく「慰霊」する場所なのです。もし靖国神社に合祀されていない故人があなたの親族にいれば、ヒトラーと等しく勝手に「慰霊」されています。
この会は東京で立ち上げましたが、東京や首都圏だけの方でなく、全国どこからでも原告になれます。外国籍の方も原告になれます。
<呼びかけ人>(アイウエオ順)
蒲信一(僧侶)・辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動)・関千枝子(ノンフィクションライター)・坂内宗男(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)・山本直好(ノー!ハプサ・合祀絶止訴訟事務局長)・吉田哲四郎(神奈川平和遺族会共同代表)
連絡先 「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」
FAX 03・3207・1273
mailアドレス;noyasukuni2013@gmail.com
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このような運動を立ち上げている方々には、敬意を惜しまない。が、私自身が参加するするかどうかは判断しかねている。もう少し考えてみたい。
首相の靖国神社参拝は、外圧への対応や国益擁護の観点から論じられるべき問題ではなく、なによりも憲法原則に関わる問題である。歴史認識の所産として主権者が確定した日本国憲法を、権力者が遵守するか否かが問われている。靖国を語ることは歴史認識を語ることであり、この国が侵略戦争や植民地支配の歴史を反省しているのか否かを問うことでもある。
安倍首相の靖国神社参拝が、日本国憲法が定める政教分離原則(憲法20条3項)に違反することは疑いの余地がない。にもかかわらず、裁判所に提訴して違憲判断の判決を獲得することは、けっして容易ではない。そのような訴訟の類型が予定されていないからだ。そのことで私は提訴を躊躇している。「自分自身が勝訴の確信を得ることができないままでの提訴では、十分な運動とすることはできないのではないか」。訴訟を立ち上げようとされている人々は違う。「そんなことは承知の上で、できる手段を追及するしかない」と覚悟を決めておられる。
憲法の政教分離原則が最も関心を寄せる対象として、かつての別格官弊社靖国神社があった。靖国神社こそが、「天皇制」と「軍国主義」の両者を結節する存在であった。現在の宗教法人靖国神社は、いまだに戦前の靖国史観をそのままに、歴史修正主義の拠点となっている。また、露骨に国家との象徴的な結びつきを求める姿勢を変えてはいない。東京裁判で刑死した東条英樹以下14人のA級戦犯を合祀する場でもある。首相も天皇も、けっしてこのような宗教施設と関わりを持ってはならない。公的資格における参拝は明らかに違憲違法。しかし、だからどんな裁判ができるかというと、簡単に答は出てこない。
これまで、政教分離違反を争う訴訟の類型としては、「住民訴訟」と「違憲国賠訴訟」が試みられている。前者の典型が、津地鎮祭訴訟、岩手靖国訴訟、愛媛玉串料訴訟である。いわゆる客観訴訟として、原告の権利・利益侵害が提訴の要件とならない。この中で、岩手靖国参拝違憲訴訟が、唯一公式参拝の違憲性を住民訴訟で主張した事案で、高裁判決で主文では請求棄却ではあったが、理由中で明確な「公式参拝違憲」の判断を得た。
岩手靖国が住民訴訟として成立したのは、特殊な事情があったからで、国家機関である首相や天皇の靖国神社参拝を地方自治法上の住民訴訟で争うことはできない。結局、靖国参拝違憲訴訟は違憲国賠訴訟とならざるを得ないが、これまで「中曽根参拝違憲訴訟」(3件)と「小泉参拝違憲訴訟」(7件)の実績がある。国家賠償訴訟を提起するには、首相の参拝行為の公務性、違法と過失だけでなく、原告となる者の権利または法律上保護される利益侵害の存在が必要とされるというのが、最高裁の立ち場である。違憲確認請求、公式参拝差し止め請求とするのはなおのこと難しい。
国家賠償請求においては、宗教的人格権の侵害という構成が工夫されてきた。「静謐な環境の下で、特別の関係のある故人の霊を追悼する法的利益が侵害された」と表現されるものである。最高裁は、小泉参拝に関して、「上告人らが侵害されたと主張する権利ないし利益が法律上の保護になじむものであるか否かについて考える」とした上で、「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。したがって、上告人らの損害賠償請求は、その余の点について判断するでもなく理由がないものとして棄却すべきである」(第二小法廷・2006年6月23日判決)としている。これが克服の対象である。「最高裁判決は間違っている」と言っているだけでは済まされない。最高裁を正面から説得し、あるいは側面から迂回して、このハードルを乗り越えねばならない。
現在進行中の各地での提訴準備が活発化するなかで、このハードルを乗り越える工夫が積み重ねられるだろう。その工夫の成果をもって、反憲法的姿勢を隠そうともしない安倍政権への反撃を試みたいものだ。
(2014年1月26日)
本日の赤旗「潮流」欄は、次の一文から始まっている。
「人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ。この権利にかんする限り、妥協の余地はないー。」
今の私の気持ちにぴったりだ。一瞬、赤旗が私のブログを引用したのかと思ったが、そうではない。「元レジスタンス闘士のステファン・エセルさんが、93歳のときに記した『怒れ! 憤れ!』の一節」だという。「フランスで出版され、30カ国で翻訳された著書は、多くの若者の心を動かし、世界中の大衆運動に火をつけました。ナチの強制収容所を生き延びたエセルさんは戦後、外交官になって、国連の世界人権宣言の起草に加わりました」と続く。
浅学にして、ステファン・エセル氏(1917?2013)が、どのような文脈で「相手が誰であれ」と言ったのかは知らない。潮流でも説明がなく冒頭の引用の一節は、その後の本文とうまくつながっていない。もしかしたら、潮流子は、私のブログを読んで、密かにエールを送ってくれたのかも知れない…、なんてことはあり得ないか。
『怒れ! 憤れ!』は、貴重な提言だ。『怒りと憤り』に満ち満ちた人権侵害の訴えを、「私憤、私怨に過ぎないから耳を傾けるに値しない」と言い放つ人には、ステファン・エセル氏と同氏の言を引用した赤旗の「権威」をもって反論することにしようか。少しは効き目があるかも知れない。
「相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ」は、当然に、その先に怒りの対象を糾弾する行動に立ち上がるべきことが想定されている。実は、これが、場合によっては相当の覚悟を要する難事なのだ。
安倍自民に怒って、赤旗と口をそろえて政権批判をしている分には安楽だ。しかし、「味方」陣営に人権侵害の事実があった場合には、やはりこれを「怒りの対象」として、楽ではなくても、批判の声を上げなければならない。民主勢力の誤りに対する批判や告発なくして、その発展はない。民主主義とは、自浄作用の繰り返しによる永久革命ではないか。民主勢力内部には、幹部批判の言論を保障しこれを貴重なものとして耳を傾ける作風がなければならない。組織や幹部に耳の痛い批判に、「私憤」「私怨」とレッテルを貼って無視することは、民主勢力無謬論の誤りに加担することではないか。
私の『怒りと憤り』の対象の一つが、前回都知事選における宇都宮候補の選挙運動費用収支報告書の記載で明らかになった、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者らに対する運動員買収事案。買収された者は、この2名に限らず「労務者」「事務員」届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収した者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反し、法定刑の最高量刑は懲役3年である。
宇都宮陣営は、この私の指摘に対して、「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言った。ネットテレビの発言としては暮れの12月31日に、文書では1月5日付のもので。ところが、訂正すれば済むはずの選挙運動費用収支報告書のミスの訂正を行わないまま、今回選挙に突入している。私の指摘に対する、宇都宮陣営の真摯な対応を欠く態度にも、私は『怒り憤って』いる。
宇都宮陣営のいう「単なるミス訂正」の実例が問題視されて報道されている。まずは、昨日(1月24日)の神奈川新聞の次の記事。
「昨年10月の川崎市長選で、福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書に、選挙運動に携わったスタッフ11人に「労務者報酬」を支出したとの記載があることが23日、分かった。公選法ではビラ配りなどを行う選挙運動員への報酬を禁じている。後援会事務所の担当者は「実際には金銭の支払いはなく記載ミス」と説明、早急に同報告書を訂正するとした。
同報告書によると、投開票日前日の10月26日に学生、アルバイト、無職の男女11人にそれぞれ7万?14万円(おおむね1日当たり1万円)を支給した。一方で、収入欄には同日、同じ11人から同額の寄付をそれぞれ受けたとも記載、相殺した形を取っている。
事務所担当者は「報告書作成者の認識の誤り。11人が(単純な事務作業を行う)労務者に該当すると思い込み計上してしまった」と違法性を否定。記載する必要がない内容だったとして、収入、支出欄からそれぞれ削除する方針を示した。
公選法では、労務者やいわゆるウグイス嬢、手話通訳者などには法定額の報酬を支給できると規定。しかし、特定の候補者への投票を呼び掛ける選挙運動員には、交通費などの実費弁償を除き無報酬としなければならない。神奈川新聞の取材に対し、福田市長は「認識不足だった」と述べた。」
福田紀彦市長陣営は、「認識不足だった」として、翌1月24日に市選管に訂正届け出をしたようだ。そのことが、本日(1月25日)の朝日と毎日(いずれも地方版)の記事となっている。宇都宮陣営とは違った、「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という誠実な対応ではある。しかし、訂正自体が問題であり、訂正はまた新たな問題を生むことになる。
まずは、福田陣営は、訂正前の収支報告の届出が虚偽であったことを認めたことになる。収入の部で、11人からの寄付がなかったのに、あったように記載したこと。支出の部で、11人の「労務者」への支出がなかったのに、あったように記載したこと。その両記載が、福田陣営の出納責任者における「選挙運動に関する収入及び支出の規制違反」(公選法246条5号の2)にあたる。その法定刑の最高量刑は禁錮3年である。
毎日新聞は、「市選管によると、事務作業などをする単純労務者が無報酬で作業を行う場合は、収支報告書に本来支払われるべき労務費と、その相当額を寄付したと記載する必要」と報道している。とすれば、福田紀彦市長陣営は「無報酬で労務を提供した単純労務者」の有無を再点検しなければならない。宇都宮陣営でも同じこととなるはず。
さらに、もう一つの問題がある。収支報告書に記載された者が労務者ではなく選挙運動者とすれば、未成年者の選挙運動規制の問題が出てくる。未成年者を単純労務者として使用することには問題がないが、公選法137条の2は未成年者の選挙運動を禁止している。違反した未成年者も使用した者も処罰の対象となる。最高刑は禁錮1年である(公選法239条1項1号)。
朝日新聞の報道では、報告書に労務者と記載された選挙運動員を「学生ら11人」と表現している。11人の大半が学生なのだろう。大学の1年生・2年生は未成年であろう。3年生・4年生は就活に忙しいのではないか。いずれにせよ、その確認の必要が出てくる。
宇都宮陣営も、早急に「ミスの訂正」を届けるべきだ。私は、形式的な届け出ミスがあったのではなく、届出のとおり実質的な運動員買収の公選法違反行為があったものと考えている。「ミスの訂正」の届け出が真実と異なれば、新たな虚偽記載罪が成立する。しかも、川崎市長選事案とは違って、宇都宮事案では、「記載ミス」の訂正届出には、新たな届出内容を証する領収証の添付を必要とする。その領収証は、公選法(189条1項、191条1項)で徴収と3年間の保存を義務づけられている。「領収証はありません」は通用しないのだ。
いずれにせよ、宇都宮陣営が「記載ミスを訂正すれば済む問題である」というからには、速やかに届出をすべきだろう。私は、その届け出内容を精査して運動員買収の有無を追及するつもりだ。
本日の赤旗の「潮流」欄は、冒頭のエセル氏の名言の引用のあと次のように続けている。
「生涯を人権のためにたたかったエセルさんは呼びかけます。『歴史の脈々たる流れは、一人ひとりの力で続いていくものである。この流れが向かう先は、より多くの正義、より多くの自由だ。正義と自由を求める権利は誰にでもある』」
赤旗に励まされる。私の追求も「より多くの正義、より多くの自由」につながっているはずだ。正義と自由を求める権利は私にもある。
(2014年1月25日)
憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各会連絡会議」)のホームページには、冒頭に、「憲法をまもり暮らしに生かしましょう」というスローガンが掲げられている。
「憲法をまもり」とは、保守勢力による改憲策動に反対して日本国憲法を改悪させないことを意味するものと理解される。また、「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、憲法を画に描いた餅にせず、その理念を現実化することに力を併せようという呼びかけであろう。
「憲法をまもり」は、比較的意味明瞭である。まずは「日本国憲法」と名称を持つ成文憲法典の改正を許さないこと。つまり、明文改憲に反対の立場である。さらに、形式的に改憲を阻止しても、憲法解釈が変更されて違憲の立法や行政がまかり通る事態を招いてはならない。そこで立法改憲や、解釈改憲を許してはならないことになる。今喫緊の課題は、集団的自衛権行使容認への憲法解釈変更阻止であり、国家安全保障基本法の制定への反対である。
これに比して、「憲法を暮らしに生かしましょう」という呼びかけは、必ずしも意味明瞭ではない。憲法の理念が最終的には暮らしに生かされなければならないことに異論はないが、それでは気の利いたスローガンとはならない。憲法会議がいう「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、暮らしの隅々にまで、憲法の理念を生かそうという呼びかけと理解したいものだ。
近代的な意味における憲法は、自由主義を基調とするものである。国家権力を必要ではあるが危険なものと見なして、国家権力の恣意的発動から国民個人の自由を守ることを憲法の第一任務としている。換言すれば、憲法の名宛て人は国家なのだ。主権者国民が国家に宛てて、その権力発動を規制する命令の体系が憲法だという理解である。
しかし、現代の現実社会においては、このような考え方だけでは「憲法を暮らしの隅々に生かす」には不十分だ。「会社の敷地には憲法はない」「校門をくぐれば、憲法などと言っておられない」「家庭に憲法は無縁」「市民運動内部に憲法なんて持ち出すな」…。憲法会議は、「憲法を暮らしに生かしましょう」というスローガンで、暮らしの隅々にまで、人権や民主主義や平和の理念を生かそうと呼びかけているものと解される。企業も、私的な団体も、もちろん民主運動も、憲法の理念を護らねばならない、というメッセージである。さすがは憲法会議である…と思っていた。昨年の暮れまでは。
ほかならぬその憲法会議が私の言論を封じたのである。「憲法を暮らしに生かしましょう」とモットーを掲げる団体にあるまじきことではないか。
その経過は繰り返さない。下記2件のブログを参照していただきたい。
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)
本日は、その事後処理である。先ほど、下記の書面とともに、8000円の為替を書留便で憲法会議に返送した。意のあるところを酌んでいただきたい。
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2014年1月24日
憲法会議御中(平井正事務局長殿)
澤藤統一郎
本年1月22日付貴信を翌23日夕刻に拝受いたしました。
拝受した貴信の全文は次のとおりです。
「前略
澤藤統一郎先生には、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いいたしましたが、残念なことにその後の事情で掲載断念のやむなきに至りました。
同封した為替(額面8,000円)はご執筆謝礼相当分です。ご査収ください。
領収書を添付しましたので、お手数ですがご返送いただければ幸いです。
それでは失礼いたします。
早々」
貴信の文面では、「掲載断念のやむなきに至りました」となっていますが、これは貴会の責任を糊塗した不正確な表現で納得いたしかねます。「やむなきに至りました」とは、あたかも貴会自身は一貫して拙稿の掲載を希望したにもかかわらず、その希望実現に支障となる外部的な客観的事情が生じたとでも言いたげな物言いです。しかし事実は、私の抗議と説得を敢えて無視して、貴会ご自身の意思において、一方的に貴誌への拙稿掲載の合意を破棄したものであることをご確認いただきたいと存じます。
貴会の否定にもかかわらず、実は、貴会が特定の団体や個人の意向を忖度して拙稿掲載の拒否に至ったのではないかということが、私の推察するところです。そのことが「やむなきに至りました」という表現に表れているのではないかとも感じられます。しかし、この点については、貴会事務局長は1月8日面談の際には、強く否定され、自主的な判断だと言われています。そのとおりであれば、「やむなきに至りました」ではなく、「当会の意思を変えました」と言わねばならないのではありませんか。
同じ理由から、「掲載断念」も不正確です。正しくは、貴会の意思によるものであることを明確にして、「掲載拒否」あるいは「掲載拒絶」「掲載謝絶」「掲載峻拒」と言うべきでしょう。
従って、「いったん、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いしご了承を得ましたが、その後に当会の意思を変更して、一方的に掲載を拒否いたしました」というべきところです。
また、「その後の事情で」掲載断念とされていますが、私がブログ「憲法日記」で、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズの掲載を始めたのは12月21日です。貴会からの執筆依頼は12月27日。そして、一方的な違約の申し出は1月8日でした。「その後の事情」とは私の宇都宮君への批判それ自体ではなく、私の宇都宮君批判が貴会内であるいは貴会の周囲で、話題となり問題として受けとめられるようになったこととしか理解できません。ことは、表現の自由、批判の言論の自由に関わる問題です。もっと率直に、どのような議論があってのことか明らかにしていただかない限りは到底納得できません。
なお、当該合意の履行における私の利益は、靖国問題に関する拙稿を掲載していただくことによって、私の考えや情報を憲法問題に高い関心を寄せている貴誌の読者に知っていただくことにあります。貴会の執筆依頼も私の執筆承諾も、けっして経済的取引の次元における契約ではありません。
私の執筆承諾の動機が執筆謝礼8000円の受領にあるものではないことを明確にし、併せて貴会の一方的な違約によって失われた私の利益が拙稿の貴誌掲載自体にあることを強調するために、さらにはこの問題は重大な教訓を含むものでありながら未解決であることを確認する意味も込めて、「執筆謝礼相当分として送られてきた損害金8000円」は受領を拒絶いたします。そのままご返送いたします。
貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、「8000円の送付で問題解決」と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。
繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。
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早春の妖精スノードロツプ(まつゆきそう)
「庭が雪の下に沈んでしまった今頃になって、急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。それは庭をながめることだ。
それというのもーまあ、聞きたまえー園芸家にはそんなひまがなかったからだ。夏、花の咲いているリンドウをとっくりながめようと思うと、芝生の雑草をぬくために、途中で立ち止まることになる。花の咲いたデルフィニウムの美しさを楽しもうとすると、支柱をあたえることになる。アスターが咲くと、根もとにはえたカモジグサをぬく。バラが咲くと、台芽をとるか、ウドンコ病のしまつをする。キクが咲くと鍬をもって駆け付け、踏み固めた土をほぐして柔らかにする。どうしたらいいのだ?いつもなにかしら、しなければならぬことがある。両手をポケットに突っ込んで庭をながめてなどどうしていられよう?」(カレル・チャペック著「園芸家12カ月」 12月の園芸家より)
「『園芸家にとっては、1月という月も けっしてひまではない』と、園芸の本には書いてある。たしかにそうだ。1月は、天候の手入れをする月だから。天候ってやつは妙なものだ。ぜったいに順調ということがない。・・・園芸家がいちばんおそれるのはブラック・フロストの襲来だ。(黒い霜といっても霜ではない。乾燥した猛烈な寒さがおそってくると、植物の葉や芽が黒くなるからだ。)大地はこわばって、骨まで干上がる。日ごと夜ごとに寒さが激しくなる。園芸家は、石のようにかちかちになった、死んだような土の中で寒さにふるえている根を思い、からからに乾いた氷のような風が、骨の髄までしみ込んでくる枝を思い、秋のうちに持ち物全部をふところにしまいこんだまま、こごえるように寒がっている球根を思う。」(同著 1月の園芸家より)
日本の冬は、カレル・チャペックの生きたチェコの冬と較べると、まるで天国のようだ。特に南関東では、真冬でも、アオキやセンリョウ、マンリョウはつやつやとした赤い実をつけ、青々とした葉を茂らせている。ヤブツバキは赤い花をこぼれるように咲かせている。ロウバイは蝋細工のような黄色い花から、清々しいかおりを大気に放っている。秋に植えた球根も、寒さなんかどこ吹く風とばかり、日本水仙はもう花を咲かせている。日当たりでは、もうチューリップもクロッカスもむっくりと芽をだしている。
それらの中で小さいがゆえに、特に可愛らしいのが、スノードロツプ(まつゆきそう)だ。秋に植えた球根は大豆を二回りほど大きくしたぐらいのサイズで、こんな小さなもののなかに花を咲かせる力がつまっているのかと疑わしくなる。暮れから小さな芽はだしていたが、今日よく見れば、長細い葉がはじけて、花の蕾をつけた茎がこぼれ出ている。高さは10センチに満たない。うっかりしていれば、見過ごす。一球に一茎、その先に一花がプランとぶら下がって咲く。春を告げる高貴で尊い花だ。外向きに開いた細長い3枚の白い花弁の内側に3枚の花弁が小さなカップを作っている。カップの下端に渋いグリーンのハート模様が浮き出る。乳白色の陶器で作られた、さわるとこわれそうな小さな花。固まった雪の雫が落ちてきて、乙女の耳飾りになったかのようだ。早春の妖精のようではあるが、人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」というメッセージになるので注意とは、恐ろしいではないか。
昨秋、チューリップを150球植えてあるので、春の来るのが例年にもまして待ちどおしく楽しみである。準備無ければ花も咲かずである。
(2014年1月24日)
第186通常国会は、明日(1月24日)召集される。会期は6月22日までの150日間。
24日には首相の施政方針演説があり、28〜30日に衆参両院で与野党の代表質問が行われる。政府・与党は首相がソチ冬季五輪の開会式に出発する2月7日までに補正予算案を成立させ、その後、早期に14年度予算案の審議に入る方針。安倍政権は、「好循環実現国会」を掲げて成長戦略関連法案32本の提出を予定し、4月の消費増税による景気の腰折れ防止に全力を挙げる構え。これに対し、民主、共産両党は先の臨時国会で成立した特定秘密保護法の廃止法案を用意し、安倍政権との対決姿勢を強めている、と報じられている。衆参両院の憲法審査会も動き出すだろう。4月には、安保法制懇の答申を受けての集団的自衛権論議が白熱することになるだろう。教育委員会制度を見直す地方教育行政法改正案、労働者派遣法改正案、原発再稼動問題、原発輸出問題などもある。けっして、無風、平穏な通常国会となるはずはない。
ところで国会の招集は天皇の国事行為(憲法7条2号)である。第186通常国会の招集も天皇の「詔書」によって行われる。以下が、天皇の国会召集を伝える本年1月14日付「官報」(号外)の全文。
「詔書」
日本国憲法第7条及び第52条並びに国会法第1条及び第2条によって、平成26年1月24日に、国会の常会を東京に招集する。
御名 御璽
平成26年1月14日
内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 麻生太郎
「詔書」などという言葉が今も生きているのだ。それにしても、ことさらに主語を省いて、「国会の常会を東京に招集する」とは、何とも間の抜けた不思議な文章。
もしかして、「御名 御璽」(ぎょめい・ぎょじ)が分からぬ人がいるのではないだろうか。オリジナルの文書には、「明仁」の自署と、天皇印の印影がある。何故かは分からぬが、「明仁 印」とあからさまにしたのでは畏れ多いのだという。そのような配慮から、名前と印に尊敬語の「御」を付けて、「原文には、ここに天皇のお名前が書いてあり、ご印が押されているのですよ」とする約束事なのだ。戦前から少しも変わっていない。
なお、この天皇印たる「御璽」は金製で3寸四方の角印、重量は約3.55?あるのだという。昔、大学の講義でこのことを聴いたときのことを思い出す。当時は、裕仁が天皇であった時代。「必ず裕仁氏自らこの3キロ半の印を手にして押捺する」のだという。天皇の仕事はけっして楽ではない。「重」労働ですらあるという。大教室に満ち満ちた、当時の学生たちのトゲのある冷笑の雰囲気が懐かしい。
なお、この「詔書」に、内閣総理大臣臨時代理として麻生太郎が副署しているのは、安倍首相が外遊中だったため。
明日1月24日午後1時から10分間の予定で、開会式が行われる。この通常国会を招集した天皇が、自ら招集の「おことば」を述べる。場所は参議院本会議場。かつての貴族院である。その本会議場正面の議長席背後に玉座がしつらえてある。議場を見下ろすこの位置で、天皇は衆参両院の議員を見下しつつ、おことばを述べるのだ。国民の代表が、天皇を見上げつつ、その「おことば」をありがたく「うけたまわる」ことになる。
この玉座、正式には参議院で「御席」というそうだ。旧憲法時代、今の参議院は貴族院だった。天皇は、貴族院の玉座に臨席し、統治権の総覧者として、立法の協賛者である帝国議会の各議員を睥睨した。この建物の構造は、当時の主権者と臣民の位地関係を象徴するものであった。いま、同じ場所が参議院本会議場となり、同じ「玉座」から「象徴である天皇」が、「主権者である国民の代表」に「おことば」を発している。敗戦を挟んで、我が国は本当に変わったのだろうか。
「国会を召集すること」は天皇の国事行為の一つではあっても、「国会の召集」は「詔書」に署名捺印すれば済むことで、国会まで出向いて開会式に臨席し「おことば」を述べるなどは憲法に記されたことではない。
天皇の行為には、憲法に厳格に制限列挙された国事行為と、純粋に私的な行為との2類型がある。本来、この2類型しかなく、「おことば」や「皇室外交」はそのどちらでもない。憲法上の根拠を欠くものである以上、本来行うべきものではない。
ところが、天皇の国事行為と、純粋に私的な行為とは別に、天皇の「公的行為」という中間領域の範疇を認める立ち場があり、開会式のお言葉はこの範疇に属するものとして行われている。皇室外交や、園遊会の主催、国民体育大会、植樹祭への出席等々も同様。当然に、憲法違反だという批判がある。批判があるが、やめようとはしない。
やめようとしないのは、為政者が、天皇の権威主義的国民統合作用を統治の具として重宝と考えているからだ。為政者は、常に「民はもって之を由らしむべし。知らしむべからず」と考えている。天皇制下の擬似家族的連帯意識と家父長の権威に寄りかかる権威主義、そして序列感覚の涵養が、統治しやすい国民の育成にこの上なく便利だからである。
象徴天皇制は、憲法上の制度として軽々に改変することはできない。しかし、天皇の影響力の範囲は一寸たりとも拡大してはならない。また、「内なる天皇制」については、これを克服することが可能である。臣民根性を排して、主権者意識を育てよう。この主権者意識の育成を阻害するものこそ、「前主権者」である天皇制なのだ。まずは、政権による天皇の政治利用、天皇自身による天皇の政治利用をきちんと批判しよう。
開会式への意識的欠席は、議員の見識である。その反対に、国会開会式で天皇に平身低頭する国民の代表がいないか、明日はよく目を光らせようではないか。
(2014年1月23日)
私には、水に落ちた犬まで打とうという趣味はない。しかし、水に落ちていない犬は断固打つべしと思う。それも、タチの悪い獰猛なボス犬であればなおさらのこと。
18日に設置の予定となった都議会百条委員会設置の趣旨は、水に落ちた犬を打とうというものではなかったはず。たまたま表面化した政治と金とのしがらみの実態を議会人の手で暴き出して、金で動かされることのない政治風土を構築しようということだったはず。その意欲やよし、と思っていたら、都知事辞任でポシャってしまった。20日の議会運営委員会で、「猪瀬知事の金銭授受問題の真相究明のため、当初は同日に臨時会を開いて決める予定だった百条委員会の設置を見送った」という。何てことだ。
既に水に落ちてしまった犬の首をとったところで、たいした手柄にはならない。都民が期待したのは、まだ水に落ちていない獰猛なボス犬の責任追及だ。できれば、その首が欲しい。いったい、猪瀬はどうして徳洲会に近づけたのか。誰がどのようにしてこの二人を固い帯封で結びつけたのか。ずいぶん早い時期から、「徳洲会マネーは、首都圏のある知事に3億、ある副知事に5000万円わたっている」と噂された。「ある副知事」の方は事実であった。「ある知事」についてはどうなのか。その徹底解明がなければ徳洲会マネーの都政丸ごと買収の構造は見えてこない。
2度にわたる石原ー猪瀬会談で、猪瀬辞任の方向付けができたという。さぞかし、醜悪な内容であっただろう。おそらくは、疑惑が石原側まで飛び火せぬよう打ち合わせがあり、その結果としての知事辞任だったのではないか。
それにしても、都議会各派のなんとも物わかりのよい豹変ぶりだろうか。
東京新聞夕刊は、「猪瀬知事の辞職表明については、都議会の全会派が『疑惑に対する説明が不十分』との見解を示したが、20日の議運では共産党を除く五会派が設置撤回に賛成した」「百条委での真相究明を決めたばかり。議会の役割を放棄したとの批判も出そうだ」と指摘している。
もしかしたら、「猪瀬の首だけで、疑惑の追及はお終いにする」という、事前の諒解があっての茶番だったのではないか。都議会議員の諸君、それぞれが、脛に傷もあり、叩けばホコリの出る身だったのではないか。
同紙が、吉原修委員長(自民党)の言い訳を掲載している。「知事不在で百条委をつくるのはどうか。名称も『都知事猪瀬直樹君と徳田毅氏との金銭授受等に関する調査特別委員会』で、現職に対するもの。議会として、それ以上踏み込むのは難しい」と理由を説明した」というもの。
知事が辞任したところで、解明すべき疑惑がなくなるわけではない。猪瀬その人が証言できなくなったわけでもない。「知事不在」でも、百条委員会設置の必要性も、有用性もいささかも減じるところがない。「知事不在」(知事辞任)が設置撤回の理由になるとはとうてい納得しかねる。
すくなとも本日現在では猪瀬は現役の知事なのだから、名称に不都合はない。あるいは、「都知事猪瀬直樹君」とは、「疑惑発覚時に都知事である猪瀬君」と解釈すればよろしい。それでは見苦しいというのなら、改めて名称を「都知事」をはずして、「猪瀬直樹君」でもよし、「元都知事猪瀬直樹君」としてもよい。こんな形式的なことを設置撤回の理由に挙げること自体がおかしい。何らかの裏取引があったと勘ぐられることになろう。
同紙が紹介している共産党の大山とも子幹事長談話「名称で設置をやめるのはおかしい。議会は真相を明らかにする役目がある。百条委設置は知事を辞めさせるのが目的だったのか」に共感する。
今回も、水に落ち損ねたボス犬の高笑いが聞こえる。
関連して、今朝の赤旗で市田書記局長が語っている。
「猪瀬都政を支えてきた会派の責任も重大だ。唯一の野党として『革新都政をつくる会』や広範な都民のみなさんと協力して、都政刷新にふさわしい候補者擁立のためにただちに準備に取りかかりたい」
2014年都知事選のスタートである。形だけの共闘で良しとし、統一の実を結ぶことができぬまま惨敗した前回選挙の轍を踏むことは避けたい。「都政刷新にふさわしい候補者の擁立」を心から期待する。
(2013年12月20日)
福嶋常光さんの代理人の澤藤です。福嶋さんは、先ほど、東京地裁民事第19部の法廷において、都教委を被告とする訴訟での「減給6か月の懲戒処分を取消す」という全面勝訴判決を得ました。私からは、取材の皆さまに2点についてお話し申し上げたい。
その第1点は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制、あるいは「日の丸・君が代」強制に従えないとして処分された教員に対する服務事故再発防止研修受講強制の本質について。
私は弁護士です。在野の存在。権力との対峙を職務としています。けっして権力のイデオロギーに屈服してはならない。常に、そう自分に言いきかせています。
皆さんはジャーナリストだ。まさか、権力の垂れ流す情報を右から左に伝えることが職分だとお考えではないでしょう。国家のいうとおりにはならないことこそが、あなた方ジャーナリストの矜持であり、真骨頂だ。
実は教員だって同じこと。戦前の教員は、国定教科書で国家神道のイデオロギーを子どもたちに注入する道具だった。その結果が、「戦争は教室から始まる」といわれる軍国主義教育となって国を亡ぼした。その反省から、教員には、専門職としての教育の自由が保障されている。憲法23条の「学問の自由」がそれだ。教員は、けっして権力の伝声管ではない。子どもたちを、国家権力への従順な僕にしてはならない。そう考える教員は起立・斉唱・ピアノ伴奏に従えない。この点をご理解いただきたい。
とりわけ、累積加重システムとはなにか。起立・伴奏の命令に屈服するまで、際限なく懲戒処分が加重される仕組み。これは、思想や良心を変えるまで処分を加重するという、思想の転向強要システムではないか。再発防止研修の強制も同じことだ。さすがに、最高裁判決も、これはまずいといっている。累積の処分も、加重したら裁量権濫用で違法ということは、さすがに認めている。
今日の判決は、そのような文脈でのもの。最高裁は、「日の丸・君が代」強制を違憲とまではいわないが、思想良心自由を侵害する側面のあることは認めて、戒告を超える過重な処分を違法とした。福嶋さんに対する、本件の服務事故再発防止研修の強制もそのような意味で違法とされ、取り消された。この意味は小さくない。
もう1点。都教委のやり方が、余りにも滅茶苦茶であること。
福嶋さんは、絵に描いたような真面目な教員。都教委は、その真面目な教員に、1日の授業を潰して再発防止研修を受けろと命令した。福嶋さんは、これを拒否しなかったが、指定された日には5時間の授業があった。この授業は他の教員に交代ができない。だから、福嶋さんは、研修の日程を授業のない日に変更してもらうよう申し出た。しかも、候補日を6日も挙げてのこと。信じられないことに、都教委はこれを拒否したのだ。特に理由はない。処分を受けた者に、研修日程の変更を申し出る権利などないということなのだ。
真面目な教員が授業を大切にする立ち場から研修の日程変更を要望し、不真面目極まる都教委が授業などどうでもよい、というのだ。このコントラストが際立っている。結局福嶋さんは、授業を優先せざるを得なかった。それが、減給6か月というのだ。呆れた話しではないか。東京都教育委員会とは、「非教育的委員会」でしかない。
さすがに、こんな滅茶苦茶は裁判所も認めなかった。その意味では、今日の判決は当然の判決。まさか、都教委が控訴することはあるまいと思うが、ほかならぬ都教委のこと、敗訴の確定を少しでも先延ばしにしようと無駄な控訴をするかも知れない。私たちは、「控訴は恥の上塗りとなるだけだ」「税金を無駄にする控訴はするな」と要請行動をする予定。ぜひ、これについても報道していただきたい。
(2013年12月19日)
私が選択した職業は「代言人」ではなく、「弁護士」である。弁護士は、権力から訴追を受ける者に寄り添うことを職務とする。いかなる犯罪者といえども、権力の前には裸の弱者でしかない。その弱者に徹底して味方することを通じての人権擁護と社会正義の実現とが法の期待するところ。
在野・反権力の立場にあって、人を訴追するのではなく弁護することが習いとなり性ともなっている。だから、人には甘い。その人の弁明が身に沁みて分かってしまう。徹底的に人を追い詰め、責任を明らかにすることは、正直なところ性に合わない。言葉を換えれば、いじめられる側に立つことが本分だ。寄ってたかっていじめる側に立つことは本意でない。
もっとも、世の中にはいじめる側に立つことに快感をおぼえる人種もいる。ときには、人をつるし上げることが得意だと吹聴する愚かなゴロツキにもお目にかかる。また、こういう輩と無神経に付き合っていることのできる人も少なくない。私には虫酸が走る。
私にとって、猪瀬直樹という人物は権力を背負った典型的ないじめる側の存在だった。傲岸不遜なその態度は、批判を遠慮してはならないと思わせるもの。しかし、今や、彼はいじめられる側に落ちている。水に落ちた犬を打つのは、私の流儀ではない。むしろ、彼のためにどうすればよいかを考えたい。
最善のアドバイスとして、猪瀬さんに自首をお勧めする。
まずは、請託があったことを認めての受託収賄罪(刑法197条1項後段)の自首。徳洲会側から、都政での便宜を計らっていただきたいとの依頼があってこれを承諾し、その見返りに5000万円を受領したことを認めてのもの。請託を認めなければ、単純収賄罪(刑法197条1項前段)の自首だ。心許す弁護士と相談されるがよい。
自首とは、罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に、捜査機関に対して犯罪を犯した旨を自発的に申告することをいう。自首が成立すれば刑の減軽事由となる(刑法第42条1項)。犯罪が捜査機関に発覚したあとでは自首にならない。だから、自首は一刻も早い方が良い。もっとも、仮に自首の要件を欠く場合にも、酌量すべき情状としては期待しうる。
単純収賄罪について、自首すべき犯罪事実とは、「東京都副知事である猪瀬が、副知事としての職務に関連して事実上の影響力行使の対象となっている東京電力病院入札業務に関して、2012年11月20日、徳田虎雄から賄賂として5000万円を収受した」というもの。
単純収賄罪(法定刑は5年以下の懲役)は、請託の存在を要件とせず、公務員の不正行為も要件ではない。猪瀬が徳洲会に「便宜を図った」か否かは、犯罪成立には無関係である。唯一、賄賂の収受と職務との関連性だけが要件である。その要件で、職務の公正に対する社会の信頼という保護法益を損うに十分とされているのだ。
ここでいう職務は、必ずしも「法令に明記された職務」に限られない。「法令に明記されていない職務」であっても、あるいは、「職務に密接に関連する行為」(「準職務行為」や「事実上所管する行為」)でも、さらには「事実上の影響力を利用して行われる行為」をも含むとするのが判例の立ち場である。
もちろん、東電病院の売却や入札業務は、東京都の業務ではなく、株式会社である東電の業務ではある。しかし、東京都は東電の大株主としてその動向に絶大な影響力を持ち、猪瀬は副知事として自ら東電の株主総会に乗り込んでまでして、東電病院売却を決定させている。この件については猪瀬自身が職務に関連する大きな影響力を持っていたというべきである。この影響力の行使において、職務の公平性についての社会的信用を毀損してはならない。
昨年11月6日に、猪瀬が徳田虎雄に面会した際、徳田は猪瀬に、東京電力病院の取得を目指す考えを伝えた。このとき猪瀬は、自らが東電に売却を迫ったことを話したという。この阿吽の呼吸がぴったりあったその直後(11月20日)に、5千万円は提供された。このことは、関係者の話でわかった旨報道されているが、捜査機関のリークの可能性も高い。おそらく、事実なのであろう。
とすれば、徳洲会が、猪瀬が副知事としての職務権限を背景とする東電の入札事務への影響力に期待して、5000万円を提供したものと考えられ、猪瀬はこれを収受したものというべきである。それなら、収賄罪の職務関連性の要件は充足されたことになる。もちろんそれだけでなく、医療行政上の許認可や、補助金等への配慮への期待も、暗黙の応諾もあったであろう。
なお、11月6日に、請託があれば、罪は加重されて懲役7年以下となる。また、5000万円の提供が、仮に貸金であったとしても、金融の利益自体(しかも、無利息・無担保)が賄賂に当たる。
猪瀬さん、ぜひ、自首を。
(2013年12月18日)