澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

口頭弁論後の報告集会で

本日の法廷に、多数の傍聴ありがとうございます。傍聴席が限られていて、わざわざお出でいただきながら法廷にはいれなかった方にはお詫びを申しあげます。

「日の丸・君が代」強制とそれに派生する服務事故再発防止研修受講強制については、憲法違反であるということが一貫した弁護団・原告団の主張です。条文を挙げれば、思想・良心の自由を保障した19条や、教育の自由に関する26条・13条・23条に抵触する、というものです。ご存じのとおり、この違憲の主張については、一昨年5月以来の一連の最高裁判決が一応の判断を示しています。

最高裁判決は、要約すれば「国旗国歌の強制は、強制される教員の思想・良心を間接的には侵害するものである。しかし、その強制が間接的であることに鑑み厳格な違憲判断を行う必要はなく、緩やかなレベルの判断で合理性と必要性が認められるから、違憲とは言えない」という合憲判断でした。とうてい納得し得ず、その後の訴訟では、なんとかこの理屈を覆そうと、智恵をひねっています。なお、教育の自由の問題に関しては、最高裁は何とも言わず無視し続ける態度です。このことにも納得できません。

我々が今後とも違憲論の旗を降ろすことはけっしてなく、裁判官説得の努力を積み上げることは当然として、もう一つの現実的な勝訴の方策である懲戒権の逸脱・濫用についても併せて主張しています。昨年1月16日に言い渡された、処分取消第1次訴訟の最高裁第一小法廷判決は、原則として懲戒が認められるのは戒告まで、減給以上は特別の事情がない限り懲戒権の濫用として違法になることを認めました。その後の判決は、すべてこの判決が示した線に沿ったものとなっています。

最高裁は、教員の不起立等が怠慢や付和雷同からではなく、真摯な思想・良心の発露として悩んだ末に選択した行為であったと認めて、減給以上の処分は重きに失して原則違法としたのです。下級審の裁判官は、最高裁判決に制約されて違憲論での判決は書きにくいが、裁量権濫用論に基づく判決なら書くことができます。私たちは、この面でも裁判官を説得して適用範囲を拡げたいと努力しています。

そこで強調していることの一つに都教委の処分目的の不当ががあります。最高裁判例は、公務員に対する懲戒権創設の根拠を、公務員秩序の維持のためとしています。公務員に、公務員秩序を乱す非違行為があったときに、秩序を維持するためのものとして懲戒という制度が設けられたというのです。いま、問題は職務命令違反を理由とする懲戒権の行使ですから、乱される公務員秩序とは、整然たる上意下達、上命下服の組織原則そのもののように思われます。しかし、教育公務員の公務員秩序とは、そのようなものと考えてよいのでしょうか。

自衛隊や警察あるいは消防の部門においては、あるべき公務員秩序とは、上意が速やかに整然と下達されること、上司の命令が下僚に貫徹することと言ってよいでしょう。現場では、原則として上命に遅疑逡巡することは許されません。しかし、一般事務部門においては様相が異なると言えます。公務員の職責として、何が国民に奉仕すべき合理的な行為であるのか、職務命令も吟味されなければなりません。少なくとも、上級への盲従が公務員秩序とはいいがたい。

ましてや、教育部門の秩序の内容が、単に上司の命令が下僚に貫徹することや下級が上級の指示に盲従することを意味するはずがありません。これは、教育という営為の本質に関わる問題です。教育とは、盲従を美徳として教え込むものではない。多様な価値観、多様な信条の中から、主体的な選択の能力を獲得し、自分自身を形成していく過程にほかなりません。教員は、子どもとの全人格的な接触によって、そのような営為をともにします。公権力の強制が正しいという保証がないというのみならず、公権力が一定の価値観の注入を強制することは許されないのです。価値観に関わるテーマについての上命下服の公務員秩序などは教育部門には想定することができません。

地公法が処分権者に付与した『公務員関係の秩序の維持のための懲戒権』の行使は、生徒の教育を受ける権利を十分に保障する公務員秩序の維持を目的とする限りにおいて合法性を有します。これまでくり返し主張してきたとおり、10・23通達およびそれに基づく起立斉唱命令並びに懲戒処分は、「特定の価値観、特定の教育観を以て、教育を支配し統制しようとする違法な意図と動機に基づくもの」であって、その目的において違法といわねばなりません。

本日の法廷で、Y弁護士が陳述したとおり、アメリカの歴史上、最も引用されているといわれる1943年の連邦最高裁バーネット判決は次のように言っています。
「もし、我々の憲法という星座の中に不動の星があるとするならば、それは、すべての公務員は、その地位が高いか低いかを問わず、政治、ナショナリズム、宗教その他の事項について、何がオーソドックス(正統)かを定めることができないという点である」
これが、民主主義の普遍的な原理。都教委は、自らの見解のみが正統・適正であるとして、これを全教員と生徒に押し付けて、見解を異にする教員をあぶり出して、機械的に処分を繰り返してきたのです。ですから、そのすべての処分が懲戒権濫用として違法なのです。

まだまだ続く、新装開店のおまけ。

『殲滅戦のこと』
 今日は物騒な皆殺しの話。でもご安心を。庭の植物につく害虫の話。私は科学戦はしない。チョウチョの幼虫がいる。金魚もいるし、近所の猫も来る。小鳥も飛び回るし、人間もいる。だから殺虫剤は使わない。
 緑が濃くなり、気温が上がると、とたんに昆虫の天国だ。まず吸血鬼退治。スモモの木などは幹に緑のフェルトを巻き付けたように、びっしりとアブラムシの行列ができる。みんな若芽の樹液を吸おうと上へ上へと登るのだ。これは箒で掃き落とす。同じく樹液を吸う憎きカイガラムシもブラシで掻きおとす。
 バラにつくのはハモグリバエやチュウレンジバチ。ハモグリバエは一枚の葉っぱの裏と表の間に親が卵を産む。孵った幼虫は組織を食べて進むので、そのトンネルが白いラインを残す。別名エカキムシという名前の由来だ。これは、自分では隠れたつもりかもしれないが、トンネルの終点にいるのはお見通しなので、指で加圧する。
 チュウレンジバチは緑色の尺取り虫のようだ。葉っぱの縁に取り付いて、もりもり食べる。気がつかないでいると、バラは丸坊主の枝だけになってしまう。小さければこれも指で加圧。大きければ、足で加圧。
 ツバキにつくチャドクガは手強い。指などだそうものなら、毒針毛にカブレて医者行きだ。黄色と黒の横縞に毒針の毛で武装した毛虫がおいしそうな若葉に20匹ほどラインアップして食事している姿はちょっとすごみがある。しかし、シャキシャキうまそうな音と雨だれのように糞が落ちる音がするので、居場所はすぐわかる。で、枝きりバサミで枝ごと切り取って、二重のゴミ袋に入れて、ゴミ収集車の助けを借りて火葬の運命。
 ヨトウムシは若葉を食い荒らすだけでなく、茎を根元からバッサリ食い切る。証拠歴然で、仏心は微塵も起きない。夜盗虫(ヨトウムシ)の名のとおり、夜活動するので、懐中電灯で見つけて、これも火葬。
 ナメクジはほんとうに舐める。コチョウランの葉っぱなどをザリザリの舌で舐めとって、大穴を開ける。こいつはほんとうに極楽往生させてやる。深いガラス器にいれたビールをおいておくと酔っ払って溺れて、一巻の終わり。ただし、それを見た人は二度とビールは飲みたくなくなること請け合い。
 しかしながら、毎年毎年、性懲りもなく現れるこれらの虫たちを見ていると、とても勝ち目はなさそうな気分になる。上にあげた虫はほんの一部で、そのほかに、トウガネブイブイ、コガネムシ、アメリカシロヒトリ、ハダニ、ツマグロヨコバイ、名も知らぬ虫、気がつかない虫など数限りない。で、傭兵を雇い入れることにした。スズメやシジュウカラなど小鳥の援軍はまえからある。クモやヤモリのお世話にもなっている。アブラムシにはナナホシテントウ虫が天敵ときいて、捕まえてきて放してみたが、すぐに敵前逃亡したようだ。今年はカマキリの卵鞘を二つ取ってきて、卵が孵るのを楽しみにしている。
 まてよ。一個から数百匹孵るということなので、この狭い庭はカマキリだらけで足の踏み場もなくなってしまうのではないだろうか。そうすると、生態系を攪乱することになるのではなかろうか。心配の種は尽きない。

「日本国憲法時代遅れ論」論者の時代遅れ

肩の力を抜いて、気楽にお読みいただきたい。

改憲論の一つに、「日本国憲法時代遅れ論」がある。制定以来65年余を一度もリニューアルしてこなかったから、日本国憲法は古くさくなって、変化した時代の状況に合わなくなった。そろそろ、時代に合わせた衣替えが必要、という論法である。これを「自民党改憲草案Q&A」では、「時代の要請に即した形での憲法改正」と表現している。

憲法とは現実として既にあるものではない。法的拘束力をもってはいるが、飽くまで理想であり目標である。現実に追い越された理想は時代遅れとなるが、今、現実は憲法の理想に肉薄すらしていない。人権・国民主権・恒久平和という日本国憲法の理想は、現実をリードする規範としてその輝きをいささかも失っていない。私はそう確信している。

とはいえ、憲法制定当時には理想として掲げることができなかった時代の制約がなかったわけではない。今ならこんなことも‥、といういくつかは思いつく。

まずは、天皇制の廃止である。憲法発足の当時、旧臣民の圧倒的多数が天皇制の呪縛下にあった。その時代の制約下に象徴天皇制が憲法の第1章に位置することになった。しかし、これほど古くさく、時代遅れのものは他にあるまい。65年後の今日、日本国憲法の第1章が「天皇」から始まっているのは不自然極まる。憲法のここだけが、まことに座りの悪い時代遅れの古くささを漂わせている。この点のリニューアルなら合理性があろう。

基本的人権の条項には、65年前の主権者が考え及ばなかった新しい権利がありうる。同性婚はその典型。憲法24条が、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とあるのを、「婚姻は異性または同性両名の合意に基づいて成立する」という改正が第一歩。3人以上の婚姻関係を認める状況が成熟しているとは軽々には言えまい。

形式的な人権保障にとどまらず、その権利を実現する手段の保障が追求されなければならない。たとえば、表現の自由を形式的に保障するだけでなく、各自に表現手段のツール保有を現実化させなければばならない。教育を受ける権利は「いかなる公教育も無償とする」と実質が伴わなければならない。さらには、経済的弱者の生存権保障を実質化する財源確保のために、富者に対する社会への利益還元の義務付けなども考えられよう。

また、人権の普遍性が徹底されなければならない。日本国民と非日本国民との国籍による差別なく、すべての人間が日本国憲法適用における人権主体であることが宣言されなければならない。人権の普遍性をして、国境や国籍を超越させよう。

平等原則には、大いに手を入れる必要がありそうだ。「形式的平等から実質的平等へ」「機会の平等から、結果の平等へ」が目指されねばならない。自民党改憲草案では、差別禁止事項として、「障害の有無」を盛り込もうという。もとより、反対の理由はない。しかし、健常者と障がい者が同じ条件で競争する機会を保障することだけでは、障がい者のハンディキャップに十分な配慮をしたことにはならない。このハンディを埋めて実質的な平等をどう実現するかを工夫しなければならない。アファーマティブアクションやクォーター制というものを憲法に取り入れることを考えねばならない。

憲法が時代に合わなくなったというのは、以上のようなテーマについて言えることだ。しかし、改憲論者の本音がそんなところにあるわけはない。だから、「時代の要請」論に乗せられてはならない。自民党改憲草案の復古主義、守旧主義の極端さは目を覆わんばかり。

「現行憲法時代遅れ論」論者の時代遅れの甚だしさ、古くささを見極めよう。選択制夫婦別姓にすら賛成し得ない感性が、憲法の時代遅れを云々する資格はない。

イレッサ判決に思う

私は医療弁護士として、専ら患者側の立ち場で医療過誤訴訟・薬品副作用訴訟に携わってきた。また、消費者弁護士として製造物責任訴訟に関わってもきた。さらに、非小細胞肺がん患者の立ち場でもある。イレッサ訴訟には関心を持たざるを得ない。

「イレッサ」は、肺がん治療に用いられる分子標的剤ゲフィニチブの商品名である。従来の抗癌剤とちがって、がん細胞の増殖に関わる酵素や分子に直接作用することによる抗腫瘍効果を発揮する。だから血液毒性が低く、「副作用の少ない抗がん剤」「夢の新薬」「通院治療で使える」などと発売前から誇大な宣伝がされた。当然薬価も高い。現在1錠(1日の処方量)あたり6526円である。

2002年7月、厚労大臣の輸入承認を得て販売したイレッサは発売直後から、間質性肺炎など重篤な副作用で、多くの服用者が亡くなった。2002年が180例、03年が202例,04年が175例(最高裁判決から)である。夢の新薬は、悪夢の新薬となった。

その副作用死を薬害被害とする損害賠償請求の集団訴訟が東京と大阪で提起された。製薬会社アストラゼネカに対しては製造物責任の追求であり、輸入販売を承認した国の違法についての責任追求である。

製造物責任とは製造物の欠陥に着目して、欠陥ある製造物のメーカーあるいは輸入業者に、欠陥と因果関係のある被害について認められる賠償責任である。消費者法の分野のこの法律を薬品の欠陥として争った、おそらくは初めての事案であろう。

欠陥とは「通常有すべき安全性を欠いていること」であるが、実務上その態様は3種類ある。設計上の欠陥、製造上の欠陥、そして警告表示上の欠陥である。薬剤、とりわけ抗癌剤には本来的な危険が存在し、副作用があっただけでは欠陥があったとは言いがたい。しかし、危険な薬剤を医師が臨床で使いこなすためには、正確な副作用情報が不可欠であり、添付書面にそれが欠けていれば「警告表示」の欠陥である。

東西2件のイレッサ訴訟では、添付書類における間質性肺炎についての副作用警告が適切なものだったか否かが争われた。一審段階では、両地裁とも判決でアストラゼネカ社の添付書類の警告表示として不十分だったことを認めた。「警告」欄がなく、「重要な副作用」の欄にわずか3行だけ。現実に多くの医師が、他の抗癌剤と同程度の危険性と誤信したことを重視して「欠陥あり」とされた。併せて、東京地裁は国の規制権限不行使の責任も認めた。

ところが、高裁段階では、両事件とも被害者側の逆転全面敗訴となった。そして、昨日(4月12日)、最高裁第3小法廷は上告棄却の判決を言い渡し、訴訟としては被害者側全面敗訴で終わった。

最高裁の判決理由を読んでみると、警告表示のあり方について非常に形式的に、「予見し得る副作用の危険性が薬品を取り扱う医師らに十分明らかにされているといえるか否かという観点から判断すべきものと解するのが相当」という。ここでは、「間質性肺炎のひと言あれば、その危険性は医師なら分かるはずだろう」という思い込みが強い。「大事なことだから、薬剤を投与する医師の立場、投与される患者の立場にたって、もっとしっかりわかるように書かなくてはならない」とする一審判決との姿勢の差が大きい。また、「安全な、夢の新薬」と鳴り物入りで宣伝したことについてのアストラゼネカの責任には触れるところがない。

法も訴訟も裁判所も、人を幸せにするためにある。理不尽な不幸から人を救済するためにある。患者が要求する救済の水準と、製薬会社が要求する免責の水準とは常に拮抗する。最高裁は、患者の要求水準を切り下げ、企業の免責水準に肩入れした。

私は、がん患者として、また医療訴訟・消費者訴訟に携わってきた者として、最高裁判決には納得しがたい。製薬会社にも、厚労省にも、そして裁判所にも、不幸な者を救う姿勢を求めたい。とりわけ、最高裁には、である。

本日も、新装開店サービスの続き。
『東京都庁舎のこと』
先日久しぶりに東京都庁へ行ってきた。威圧的で鋭角的でやっぱりなじめない。国会周辺も含めて、政治の場は人が近づかないように、意識的によそよそしく作るのだろうか。内部も無味乾燥で、職員が気分よく働ける場所ではなさそうだ。にもかかわらず、職員は丁寧で、にこやかだ。昔のお役人とはだいぶ違う。
窓の下の新宿中央公園にはホームレスのブルーテントが見える。天国と地獄。
1990年に完成したこの都庁舎は、第1、第2、議会の3庁舎からなり、総工費は1569億円。当時は「バブルの塔」とか「タックスタワー」とか言われたはずだけど、このごろあまりにも大きな数字になれすぎたせいか、だいぶお安く感じる。年間の維持費は40億円。これは高い。23年たって920億円。水漏りがするとかいわれていたけど、直ったのだろうか。
この都庁舎を含めた新宿西口副都心は、1965年、東村山へ移転した淀橋浄水場跡地が再開発された場所にできた。水をたたえた、四角い人工池のことをおぼえている人はまだたくさんいるはずだ。淀橋浄水場は1898(明治31)年、明治政府が近代国家の威信をかけて、帝都の衛生を改善するために建設した。江戸時代からの玉川上水は明治に入って、自殺の名所となり死体や、塵芥の浮かぶ、とても飲用にはできないほどの汚水となってしまった。、1886(明治19)年には、コレラで10万人の人が亡くなったと言われている。お定まりの「鉄管納入不正事件」で知事が辞職するなどの紆余曲折もあったが、完成した水道は主婦には大歓迎された。消防用水としてもおおいに役だった。1923年の関東大震災、1945年の東京空襲を経て、新宿西口副都心の現在につながつている。
東京空襲の前の1944年に、現在の新宿中央公園のなかにある角筈十二社熊野神社の境内に立った今井金吾は「西の道路向こうを見おろすと、十二社花街の大看板が立ち、貸席など並んでいるが、この辺りがその昔の池の跡。広重はこの池の風景を描いて、『大いなる池ありて、山水自然の絶景なり』と述べている」と書いている。(「詳説江戸名所記」社会思想社刊)
たかが150年ぐらいの間のこの激変。そうであるなら、確固不動に見えるこのビル群も、近々廃墟にならないと誰が保証できるのか。そう考えたら、39階の床がユラリとゆれた。

(2013年4月13日)

安倍政権・教育政策の危険度

本日は、日民協と教科書ネットの共催で、「何をめざすかー安倍政権の教育政策」をテーマとしたシンポジウム。

 
第1次安倍政権は教育基本法を改悪し、愛国心と競争を煽る教育に道を開いた。第2次安倍政権は「強い日本をとりもどす」ための「教育再生」を重点政策にかかげて、教育を大きく変えようとしている。子どものための教育ではなく、国家のための教育をめざすもの。そして財界の要求する新自由主義の立場からのもの。憲法を改悪して「強い日本」「戦争のできる国」「経済的強者に奉仕する」国づくりと連動させたもの。そして、そのための「人材」養成としての教育。安倍教育政策の内容と問題点を浮き彫りにするための報告は以下の3件。
 報告1「安倍政権の教育政策は何がどのように危ないのか」
           俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
 報告2「安倍政権のいじめ防止対策の問題点」
           村山 裕(弁護士・東京中央法律事務所)
 報告3「教育制度『改革』の問題点-新自由主義教育改革の新たな段階?」
           世取山 洋介(新潟大学准教授)
各報告の全文が、「法と民主主義」6月号に掲載される。その他の関連論文も掲載予定。ぜひ、同誌を講読して熟読されたい。

以下は、本日のシンポジウム資料として配布された自民党選挙政策からの抜粋。昨年総選挙のものだが、恥ずかしながら、ここまで書き込んでいるとは知らなかった。多くを語る必要もあるまい。戦後教育改革の成果を根底から覆そうというのが、安倍教育改革である。

※わが党は、世界トップレベルの学力と規範意識を備え、歴史や文化を尊重する態度を育むために「教育再生」を実行します。日教組の影響を受けている民主党には、真の教育再生はできません。
※『教育基本法』の理念に基づき、「自助自立する国民」「家族、地域社会、国への帰属意識を持つ国民」「良き歴史、伝統、文化を大切にする国民」「自ら考え、判断し、意欲にあふれる国民」を育成します。
※全国学力・学習状況調査を全国一斉の学力テスト(悉皆(しっかい)調査)に戻し、全ての子どもの課題把握、学校・教職員の指導改善に生かします。
さらに土曜授業を実現します。
※国旗・国歌を尊重し、わが国の将来を担う主権者を育成する教育を推進します。不適切な性教育やジェンダーフリー教育、自虐史観偏向教育等は行わせません。規範意識や社会のルール、マナーなどを学ぶ道徳教育や消費者教育等の推進を図るため、高校において新科目「公共」を設置します。
※中学・高校でボランティア活動やインターンシップを必修化し、公共心や社会性を涵養します。あわせて地域に根差した伝統・文化や、スポーツクラブ、サークル活動などの地域の絆を守り、コミュニティを支える取り組みを支援(「伝統文化親子教室」の創設など)します。
※公教育の最終責任者たる国(文部科学大臣)が責任を果たせるよう、『地方教育行政の組織及び運営に関する法律』を改正します。
※小・中学校卒業時における学力評価や高校での達成度試験の実施を図り、確実に学力を身に付けさせます。あわせて、高校在学中も何度も挑戦できる達成度テスト(日本版バカロレア)の創設や、それを前提とした論文、面接、多様な経験重視で潜在力を評価する入試改革など、大学全入時代の大学入試のあり方そのものを検討します。
※大学の9月入学を促進し、高校卒業から入学までのギャップターム(半年間)などを活用した大学生の体験活動(国とふるさと、環境を守る仕事?例えば、海外NGO、農業・福祉体験、自衛隊・消防団体験等)の必修化や、学生の体験活動の評価・単位化を行い、企業の採用プロセスに活用します。
※教育の政治的中立を確保しつつ、自治体の教育行政に民意を反映させ、効率的・迅速に運営する必要があります。首長が議会の同意を得て任命する常勤の「教育長」を教育委員会の責任者とするなど、国と地方の間や、地方教育行政における権限と責任のあり方について、抜本的な改革を行います。
※多くの教科書に、いまだに自虐史観に立つなど、偏向した記述が存在します。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ための教科書で、子どもたちが学ぶことができるよう、教科書検定制度や、副読本なども含めた教科書採択の構造について、文部科学大臣が各教科書共通で記載すべき事項を具体的に定める等抜本的に改革し、いわゆる「近隣諸国条項」に関しては、見直します。

ところで、新装開店記念のサービスをもう一つ。
  『実生(みしょう)のこと』
 「実生」とは「種」から芽が出たばかりの小さな草木のこと。種を蒔いて芽が出てくるまで、2年以上かかることもある。挿し木や株分けと比べると気の長い人むきだ。根気がいる。何の気配も見えないただの土をじっと見張って、乾いたら水をやらなければならない。水やりも忘れ、何を蒔いたかも忘れた頃に、ぽちんと緑が現れる。それを発見したときの嬉しさといったらない。親と同じ花や実をつけるとは限らない。そのあと花や実をつけるまでになるのには、またまたうんざりするほどの時間がかかる。親と同じ花や実をつけることはない。そこがまた面白いところだ。
 我が明日の命もしれないのに、種まきが好きな人がけつこういる。私も同じ。いま庭をみて、数え上げれば、サンショウ、アボカド、イチョウ(ギンナン)、コナラ(ドングリ)、ウメ、サクラ、ユリノキ、ムベ、フジ、チャ、各種モミジ、各種ツバキ、センリョウ、マンリョウ、クリスマスローズ、各種スミレなどの実生が所狭しと生えている。ほとんどは小鳥のプレゼントだ。アボカドなんかは人間が食べたあとの種を捨て蒔きにしておけば忘れた頃に芽が出てくる。クリスマスローズは花の後、種をそのままにしておけば、根元に実生が生えてくる。
 なかにはそうもいかないものがある。手塩にかけたものは自慢だ。ハンカチノキとヤマシャクヤク。ハンカチノキは知り合いにもらった種を10個ほど蒔いて3個芽が出た。そのうち1本だけ鉢のなかで、いま20センチメートルぐらいに育っている。見上げるような大木になるのだから、「育ったのが一本でよかった」と思う。今年は蒔いてから4年目の春。ヤマシャクヤクはもっとかかっている。今春初めて、花嫁さんの綿帽子のような白い花を見せてくれた。6年目の正直。忘れた頃に、という気分でないとつきあえない。6弁一重の可憐な花を見ていると、またこの種を蒔いて、いつか庭中ヤマシャクヤクの園にしようという気がしてくるような、こないような。
 どだい実生は丈夫だ。その場所が気に入らない限り、芽を出さないのだから。だから実生を山から抜いてきて、自分の庭で育てるのはほとんど不可能だと思ったほうがいい。種をひろってきて、芽が出てくれれば「ひろいもの」だ。
 こんなことを繰り返して、長年猫の額のような庭で楽しんでいるのです。気の長いことで。

選挙運動収支報告書を読む

東京都庁39階の窓から、丹沢・富士の方角を眺める。本日は、かすんで遠くまでの見通しがきかない。この国の現状を見る思い。近くには巨大な高層ビル、そのむこうには見渡す限りびっしりと小さなビルがひしめき並んでいる。よくもまあ、人は短い間にこんなにもたくさんの建造物を作ったものだろう。

200年前、ここは江戸近郊の景勝地だった。熊野神社のまわりに滝や池があり、茶屋や料亭が建ち並んだ花街だったという。浮世絵「名所江戸百景」や、「江戸名所図絵」に、その情緒が描かれている。眼下に見える新宿中央公園のあたりだ。上から見ると、新緑の木々の樹冠がいろとりどりのブロッコリーを置いたようで、人工的ではあるけれど美しい。

さて、このどこまでも広がっている東京都、そしてこの居心地の悪い東京都庁のトップを選任する選挙があったのは、つい4ヶ月前のこと。教育委員会への用事のついでに、初めて都の選挙管理委員会に行ってみた。まずは、総選挙における東京3区・石原宏高候補の選挙運動費用収支報告書を閲覧し謄写の申請をする。ついでに、4か月前の東京都知事選挙における猪瀬直樹、松沢成文、宇都宮健児各候補の報告書も閲覧してきた。3候補の報告書いずれも私には初見で、興味深くもあり驚ろかされるものでもあった。

権力を有している者には国民に対する説明責任があり、情報公開の義務がある。情報公開の制度化は、近年国民が勝ち取ってきた輝かしい成果のひとつである。これから権力者たらんとする公職選挙の候補者についても同じこと。誰からどのように集めた金を、どのように使って選挙を行ったかに関しては、透明性の高い正確な情報公開が必要である。それなくして、腐敗した金権選挙を防止することができない。

公職選挙法は金銭面からの選挙浄化のために、すべての候補者に選挙運動費用収支報告書の作成と選管への提出を義務づけ、選管が受理した日から3年間保存して、「その期間内においては何人もその閲覧を請求することができる」と定めている。権利は行使しなければ錆びついてしまう。大いに閲覧請求をして、市民の目を金権腐敗一掃のために生かさねばならない。

閲覧の場所は都庁第一本庁舎の39階。都選管事務局に申し込めば、誰でも即時に収支報告書の閲覧ができる。もちろん無料。身分証明も印鑑も不要。職員は親切で、嫌がった顔などしない。もっとも、閲覧だけでなくコピーを申請すると、1枚30円の費用を要する。この費用の低額化がこれからの課題。なお、政治団体の政治資金収支報告書の方は、既にインターネットでの公開が実現している。

石原宏高議員の選挙の収入合計は13,413,515円。その内訳は、1300万円までが自民党支部からの寄付。あとの41万円余が個人献金である。この1300万円の中に、税金が変身した政党助成金が資金源となっていると思うと不愉快極まる。

支出は10,843,382円。収支報告書を眺めているだけでは、公選法違反も賭博業者との癒着も見えてこない。報道されていたとおり、人件費欄の事務員の住所として、「東京都大槻市」という記載の不自然に気付くくらいがせいぜい。「墨田区押上」の住所地がスカイツリーであるなどと不自然さを見破った赤旗の記者はたいしたもの。他の情報との突き合わせをしないと違法をあぶり出せない。謄写を申請したので、手許に届いてからじっくりと検証してみよう。

ところで、都知事選3候補の収支報告の感想については、次の機会の記事としたい。
(2013年4月11日)

小選挙区制における究極の一票の格差

安倍内閣が勢いづいている。今は経済優先で人気を維持し、7月参院選の結果次第で牙を剥き出すことになる。羊を狼に変身させてはならない。

ところで、強気に改憲を目論む与党自民党の294議席は「つくられた多数派」であり、安倍内閣は「虚構の上げ底政権」である。このネーミングは、上脇博之さんによるもの。言い得て妙である。一見大きく見える安倍自民党政権も、実は上げ底、実力はそれほどのものではない。
  
どうして「上げ底」が可能なのか、いわずと知れた小選挙区制のマジックにほかならない。
上脇さんによれば、前回選挙における各党の小選挙区得票率と議席占有率とは以下のとおりである。
 自民党  43%  79%
 民主党  23%   9%
 維新    12%   4%
 公明党   1.5%  3%
 共産党   7.9%  0
 社民党   0.8%  0.3%
自民党は、得票率のほぼ倍の議席を獲得している。改憲を目論む安倍内閣は、虚構の多数派に支えられた、上げ底政権にほかならない。

明らかに民意を反映した議会の構成にはなっていない。民意を枉げて、多数派をより手厚く遇してより多数に、少数派をより少数にして切り捨てようとするものが小選挙区制である。

これを別の角度から眺めてみたい。
自民党の得票実数は2564万票である。この票数で237議席を獲得している。1議席当たり10万8000票。約11万人の支持者で1議席を得ている。
ところが、日本共産党はどうだ。得票実数470万票で、獲得議席数はゼロなのだ。470万人の支持が1議席にもつながっていない。全部が死票となっている。

自民党支持者は11万票で1議席を獲得し、日本共産党支持者は470万票で議席ゼロである。仮に、共産党にも自民党並みに「11万票当たり1議席」を配分すれば、470万票では42議席の獲得となる。これに比例区の議席8を加えれば、50人の共産党議員団ができあがる。護憲勢力としての、共産党、社民党などの議席が、得票実数に応じたものとなっていない。切歯扼腕の思いである。

今各地の高裁で違憲判決が相次いでいる「一票の格差」とは、各選挙民の選挙区ごとの格差である。居住地の如何による一票の価値の格差が問題とされているのだ。では、「支持政党の別、あるいは投票先政党の別による一票の格差」は許されるのだろうか。これこそ「究極の一票の格差」である。「民意を議会に正確に反映すべき選挙制度」という代議制の根源的要請と、憲法14条の信条における平等原則がこの格差を許さない。この格差を原理的に解消し得ない小選挙区制は、根本的な欠陥制度として廃止されなければならない。

本日も、恒例となった新装開店サービスのエッセイ。

『安倍のリスク・アベノリスクのこと』

 時事川柳(長谷川 清)
  日銀の人事争い白と黒
  二枚舌アベのみくすっとほくそ笑む
       
 長谷川さんは矍鑠としたご近所のご老体。安倍政権に一貫して腹を立てておられる。目がお悪いのですが、新聞をよく読みます。不正には我慢のならない江戸っ子ぶり。
 日銀総裁が、白から黒に移って、アベノミクスが本格化。新聞に連日、「東証空前の上げ」、「日経平均株価最高値」、などという大活字が飛び交っている。「日銀が国債を1.2兆円購入、毎月7兆円ペースで」、とも書いてある。私たちの生活では毎月電気代が千円上がるとか、国保料が五千円上がるというのが現実感のある話だ。「兆」の単位の話となると、はなから拒絶反応が先に立って、思考停止する。でも、みんなこんなに騒いでいるのなら、蚊帳の外に置かれるのもおもしろくない。ひるむ心をねじ伏せて、新聞を読んで、生かじりしてみた。
 黒田日銀新総裁が、安倍首相の経済政策「アベノミクス」を遂行するために、物価を2パーセント上げようとしている。好景気にして、消費税導入に持ち込みたいというのが目的。よくよく新聞を読んでみれば、つまるところ、日銀で大胆にバンバンお金を刷って、金融緩和をすれば景気回復ができるはずというストーリーらしい。
? 日銀が金融機関から国債などを大量に買う。その金額は半端じゃない。出回っている現金の総量と金融機関が日銀に預けている当座預金の総額(マネタリーベース)は現在139兆円。それを14年末には倍額の270兆円にする。(2パーセント物価上げるために、どんどんひるまずお金を刷り続ける。まるでチキンゲームだ。)
? そうすれば金融機関が日銀内に持っている当座預金の残高が膨らむ。金融機関が金余りになって、株、不動産など融資に回せば景気を刺激する。乗り遅れまいとする人々が物価上昇するのではないかと慌てふためく。バブル気分の醸成だ。
? 値上がりする前に企業は設備投資をし、個人は住宅ローンを借りに走る。こうしたインフレ予測や気分から景気が上向いて、需要が高まり、給料が上がり、雇用が改善する。国民ををその気にできるかできないか、大芝居を打とうというわけだ。
 こんなノーテンキなこと考え出す人たちを「リフレ派」というらしい。通貨を再膨張させて、再びインフレを引き起こそうというのだ。人々がまだまだ物価が下がると思って物を買わないのではいつまでもデフレだ。だから、大胆に金融緩和して、「物が上がっちゃう。だから貯金は下ろして使おう。ローンを組んで家を買おう。」という気分にさせることで、景気回復しようと考えているらしい。
 黒田さん、こんな風に都合良く世の中動かせる自信ありますか。うまくいかなかったら、安倍さんキチンとリスクの責任とりますか。理論通りにいきますか。
 大部分の人は給料は上がらす、年金は減って、子供は派遣で働いて、投資に回せる貯金や余裕なんてありません。2パーセントのインフレも10パーセントの消費税もごめんです。旗を振られても庶民はとうてい踊る気分にはなれません。これが現実です。
 いちはやく時流に乗ってはしゃいでいる富裕層や外国投資家も、いつ食い逃げしようかと虎視眈々としているじゃないでしょうか。
 黒田さんも安倍さんも去ったあとで、結局、国家には、今にも増して膨大な財政赤字、国民には、インフレによる物価高で赤字の家計が残されるのが落ちではないでしょうか。原子力発電所と同じで誰も責任なんかとれっこありません。
 いっそのこと、これから刷る130兆円を1億人で分けちゃったらどうでしょう。一人あたり130万円、使用期限1年間、貯金は厳禁で。利益も不利益もみんなで分けたほうが、公平でいいじゃないですか。

 二枚舌 閻魔が抜いても もう1枚
 ミニバブル ハゲタカ連の おおさわぎ
 
  

自民党改憲草案は「国民の義務」をこう変える

IWJ(インターネット・テレビ)の「自民党憲法改正草案批判」鼎談が6回目となった。本日の私の発言の一端。もっとも、以下の文章のように滑らかにしゃべれたわけではない。考えながらの発言をまとめるとこうなる。

現行憲法に、国民の義務とされている条項が3箇所ある。
26条2項「子女に教育を受けさせる義務」、27条1項「勤労の義務」、30条「納税の義務」である。

自民党の改憲草案では、この義務規定のいずれにも変更はない、‥ように見える。しかし、実は大きく変わるのだ。字面の変更はなくても、位置づけがまったく変わるからだ。

憲法とは国家権力に対する制約の体系である。制約の目的は、国家権力による国民の基本的人権侵害を予防することにある。制約の主たる手段は、人権の目録を作成して、これを国家に遵守させることである。つまりは、国民の国家に対する諸権利の総和が、憲法の主要部分となっている。憲法とは、本来的に「国民の権利」の目録にほかならない。

では、憲法に記載された「国民の義務」とは何なのだろう。それは、本来的な憲法事項ではない。もちろん憲法の主役ではない。必要な存在ともいえない。脇役というほどの重要性ももたない、なくしてしまってもいっこうに差し支えのない影の薄い条項なのだ。

成立の過程を見ても、GHQの原案には3義務の一つもなかった。制憲議会に政府が提出した原案には「教育の義務」だけがあった。あとの二つは、衆議院での審議過程で、つけ加えられたもの。いずれも、存在の必然性をもたない、盲腸みたいなもの。その中身は、権利義務関係の創設であるよりは、宣言的な効果しか考えられず、「国民の3大義務」などと言うほどのことはない。

これに反して、旧憲法時代には、「兵役の義務」(20条)と「納税の義務」(21条)とが、主役級の条項としてあった。教育を受ける義務は勅令上のものではあるが、併せて「臣民の3大義務」とされた。統治権の総覧者である君主、あるいは君主が主権を有する国家に対する「臣民の義務」は、欽定憲法においてふさわしい位置を占めていた。宣言的な効果にとどまらない、国家と臣民の間の権利義務関係創設規定と理解することが可能である。

現行憲法の盲腸にしか過ぎない「国民の義務」規定を、戦前の主役級の権利義務創設規定に格上げしようというのが自民党の改憲草案なのだ。そのような役割を担うものが、同草案102条「全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」という「国民の憲法尊重義務」規定である。

国民の義務が、盲腸ではなくなる例証として、草案の第3条を挙げることができる。憲法に、「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする」と書き込むだけではなく、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」(3条2項)と、国旗国歌尊重義務を謳う。これと同様に、盲腸同然の国民の義務3か条は、具体的な義務創設規定として主役級の位置を占めうることになる。憲法の構造を大転換したことの効果の一つである。
恐るべし、自民党憲法改正草案。

本日も、新装開店大サービス。
 『携帯本のこと』
 電話に固定と携帯があるように、本も同じだ。たとえ片時も離したくないと思っても、「ヒマラヤ植物大図鑑」(吉田外司夫解説 山と渓谷社)とか「入江泰吉写真集 法隆寺」(小学館)などは絶対固定だ。重くて持って歩けやしない。外出したり、旅行するとき持って行く携帯本の筆頭は、カレル・チャペック「園芸家12カ月」(中公文庫)だ。213ページ、140グラムのこの本を出かけるときは必ずバックに入れる。リュックサックにも入れてある。「その絶妙のユーモアは、園芸に興味のない人を園芸マニアにおちいらせ、園芸マニアをますます重症にしてしまう。無類に愉快な本」と裏表紙に紹介されている。たとえば「4月の園芸家」のところは「4月、これこそ本格的な、恵まれた園芸家の月だ。・・・話を芽にもどそう。どうしてだかわからないが、ふしぎなくらい何度でもやる。枯れ枝を一本ひろおうとして、でなければ、いまいましいタンポポの根を抜こうとして、花壇に足を入れる。するとたいがい、土の下にあるユリかキンバイソウの芽をふむ。足の下でポキッという音がすると、おそろしさとはずかしさでからだじゅうが寒くなる。この瞬間には誰でも、自分がまるで、そのひづめで踏んだ場所には草がはえなくなる、なにかの怪物のような気がする。でなければ、最大限の用心深さで、花壇の土をそっとやわらかに耕す。ところが、その結果は、かならずうけあいだ。芽の出ている球根を鍬でこま切れにしなければ、かならずアネモネの芽をシャベルで切り落とす。」といった具合だ。どこを開いてもいい。何回読んでもおかしくて笑い転げる。気分がうきうきしてくる。
 しかしながら、著者のカレル・チャペック(1890年?1938年)はこの本の軽妙洒脱さからはとうてい想像できない生涯をおくった人だ。チェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)の誇る国民的大作家でジャーナリストであった。戯曲「R.U.R」のなかで、ロボットという言葉を作ったといわれている。大作「山椒魚戦争」を書いて、第2次大戦中、アドルフ・ヒトラーとナチズムに渾身の戦いを挑んだ 。残念ながら、1938年病死した。翌年ドイツ軍がプラハを占領して、ゲシュタボがチャペック邸を襲撃したとき、チャペック夫人は夫の死亡を皮肉を込めて告げたという。
 そして、「園芸家12ヶ月」のユーモラスな挿絵を描いているのは、カレルの同士としていっしょに仕事をしてきた実兄のヨゼフだが、彼は占領してきたナチスドイツによって逮捕され、1945年強制収容所で殺されている。カレルだって生きていれば同じ運命をたどったにちがいない。
 そんな気配を微塵も感じさせない「園芸家12ヶ月」は、病めるときも飢えるときも良き生涯の友となってくれるはずだ。今日もお出かけにはこの一冊を。

「日本」の国号はいつから? 「天皇」号は?

先日、50年前のクラス仲間が集まった際に、上海在住で徐福伝説を研究しているS君が発問した。「日本という国号は正式にはいつから使われたのだろう」。誰も正確には答を出せない。

「日本書紀成立よりは以前ということだな」「もとは倭国、いつ日本になったんだろう」「国号だから、対外的な関係が意識されたときなんだろうね」「聖徳太子のときの、国書になかっただろうか」「もっと後、天武の時代だよ」「万葉集には、日本って出てこないのか」

調べてみた。正解はよく分からないが、確実なところでは701年の大宝律令で「日本」の国号を用いているそうだ。文武の時代。そして、対外的に「日本」の文字が表れるのは702(大宝2)年の秋のこと、粟田真人を主席とする遣唐使が楚州の海岸に着いた。この一行が、中国当局に「日本の使」と称したと記録されているとのこと。出典は中国の史書「旧唐書」らしい。

ちなみに、この遣唐使の一行の中に、山上憶良がいた。その帰路に詠んだ歌が、万葉集に出ている。
 いざ子ども 早く日本へ
 大伴の御津の浜松 待ち恋ぬらむ
ここでの「日本」は、万葉仮名の原文でも「日本」の文字が当てられている。これをヤマトと読むのが習わしのようだが、ニッポンあるいはニホンと読んでもおかしくはない。

面白いことに、日本書紀は「日本」を多用しているのに、古事記は「倭」で一貫し「日本」の語をまっく使っていないという。

701年より前には確実な資料がないようだが、おそらくは飛鳥浄御原令(689年)に日本の国号は使われていただろうという。天武の時代である。国号だけでなく、天皇号も同じ時期に制度として成立したものとするのが有力説だそうだ。そして、その由来を、唐の高宗(則天武后の夫)が、短期間ではあるが「皇帝」号を「天皇」号にあらためていることに倣った、との説があるそうだ。圧倒的な文化先進国の模倣に何の不自然さもない。

高校の歴史の時間に、「日本の元号は大宝に始まって現在に続いている」「大宝とは、日本で金が産出したことを祝っての命名」と習った。金が出たとされたのは対馬で、喜んだ朝廷は、関係者に莫大な褒美と位を授けた。ところが、文武期の朝廷を喜ばせた産金は、実は詐欺だった。続日本紀に「後に詐欺あらわれぬ」と記されているそうだ。日本の元号制度はその出発からケチがついている。

以上は、すべて吉田孝「日本の誕生」(岩波新書)の引用。同書は、「日本とは、国号なのか王朝名なのか」と問うてもいる。この知識の宝庫が古本屋でわずか100円。こんなに安い買い物はない。

歴史は正確に把握したい。誰かに気兼ねしたり、誰かの権威のために、都合良くも悪くも枉げてはならない。自民党改憲草案前文の冒頭が、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」から始まるような、そんなご時世だから、なお。

本日も、新装開店記念サービスを。
  『古本のこと』
 本がどんどん殖えていく。足の踏み場がなくなって、そのうち寝る場所もなくなるかもしれない。困ったものだ。
 先日買った本。
 稲垣史生「武蔵武将伝」(歴史図書社・昭和55年) 1050円
 山本大二郎「奥多摩の花」(講談社・昭和57年) 400円
 本田靖春「不当逮捕」(岩波現代文庫・2000年) 600円
ご推察の通りみんな古本。神保町の古本屋さんや東京古書会館の古書展にちょくちょく行く。研究のための本を収集したり、何かのマニアだという大仰なことではない。自分で読んで楽しむために買う。誰かに頼まれた本も探す。宝探しの気分だ。手にとって装丁を見たり、挿絵や写真を見ながらページをめくって楽しみたいのだ。だから通販はあまり使わない。
 10年ぐらい前、欲しい植物図鑑を古本屋さんで格安で入手したのが始まり。どれくらい安いかというと正価の4分の1。この値段なら誰だって病みつきになると思う。時代の流れで、山岳本や植物本を欲しがる人が少なくなっていたのも幸運だった。
 だいたい場所をとって嵩張る本自体、買う人が減っているらしい。まして清潔を好む時代に古本を嫌う人がいても当然だ。でもよく考えてみれば、図書館の本を平気で借りているなら全く問題なしじゃないかしら。
 植物、動物、紀行、旅行、ドキュメンタリー、小説、古典、歴史関係等々。分野にこだわらず、何でも面白そうだと思ったら買う。読めば世界は広がり、時空を超えてわくわくするような冒険に出かけられる。面白い本に出会えば、苦労も悩みも雲散霧消してしまう。
 稀覯本とか書名入りとか初版本なんていうことには全く興味がない。だいたいは古本屋の店の前に出ている均一台の上に乗っている、いわゆるゾッキ本からお宝を発見するのが面白いのだ。だって、文庫本も新書もだいたい100円なんですから。皆さんびっくりするでしょう。持ちきれないほど買ってせいぜい2000円ということさえある。
 それにとどまらず、時には「どうぞお持ちください」と只でくれる本に行き当たることさえある。わたしは「世界歴史」(岩波講座・全31巻)や「現代医学の基礎」(岩波講座・全15巻)を拾ってきたことがある。いくら自転車とはいえ、坂の多い道を上ったり下りたりしながら、無事家に帰り着けるか心細くなったものだつた。古本と一緒に行き倒れになるのかと一瞬思いました。そこまでの困難はお奨めしませんが、古本探しは紙文化でそだった人の定年後には最適の暇つぶしだと思いますがね。
 その前に注意を一言。家族を説得できるかどうか、自信のない人はやめた方がいいかも。

上野の山の八重桜

  『上野の山のこと』
 上野の山はソメイヨシノが散って、あの賑わいは夢のよう。天気荒れ模様の予報もあって、人出が少ない。中国語、スペイン語、英語、サッパリ解らない言葉が飛び交っている。ソメイヨシノは終わってしまったけれど、それ以上に存在感のある八重桜が満開になって、外国からのお客様を歓迎している。
 不忍池の周りには、濃い紅色の関山(カンザン)、クリーム色のポプコーンがはじけたような鬱金(ウコン)、枝の周りに薄いピンクの八重の花をびっしりつけたお掃除ブラシのような紅八重虎の尾(ベニヤエトラノオ)、ピンクの八重の花びらがバレー衣装のチュチュを思わせる紅華(コウカ)、薄ピンクの大きめの花びらの紅豊(ベニユタカ)などが咲いている。
 ソメイヨシノの散ったあとの葉桜だってなかなかのものだ。色とりどりの花綵で囲まれた不忍池はあまりの晴れがましさに戸惑っている。
 五條稲荷神社には、見上げるほどの大木の鬱金桜、目を見張るほど紅色が鮮やかな菊桃。 上野動物園の前には薄桃色の花かんざしで飾り立てたような一葉(イチヨウ)。
 清水寺には秋色桜と固有名詞がついた枝垂れ桜。浮世絵模様を再現して枝を輪に仕立てた松の木はグロテスクで嫌みだけど、清水の舞台から見る不忍池の眺めも一見の価値がある。
 鮮やかな黄色のヤマブキ、薄紫のシャガも花盛りだ。黄色から青にわたる若葉で煙っている新緑の美しさを表すぴったりした言葉を持たない自分の不勉強がじれったくなる。都会のど真ん中にこんな美しいところがあるのは奇跡のような気がする。今日はほんとうに出かけてきて良かった。
 おまけに、路上に水で絵と文字を書いて、サービスしてくれている人にも出会えた。地描(ちびょう)アーティストと称していた。お客さんの方から見て解るように、向かって上の左の方から書き始める。すっきりした線描は世界中のお客さんの鑑賞に十分堪えるものだった。
 最後に、「愛、命、夢」と書いて通じるものは「儚さ」とのこと。路上の水絵が跡形もなく蒸発するように、人と人が出会って別れるように、サクラや新緑の美しさのように。
 またお会いできたらいいですねという言葉に微塵の偽りもない、一期一会。

その「地描アーティスト」氏とやや長話をした。聞けば、元は近県で小中学校の美術の教員だったとのこと。子どもと向かいあったまま、子どもの目線で理解できるように、ノートに逆さまに絵や字を書けるよう練習をしたことが、「地描」の起源だそうだ。管理職になって早期退職をしたが、「子どもと向かいあう教師が少なくなった」と嘆いておいでになる。

話が弾んで、私が東京の「日の丸・君が代」強制の話をしたら、打てば響くように率直な感想が返ってきた。「それは我慢をしなければならないんじゃありませんか。契約によって宣誓までして公務員になった以上は、良いとこばかりとるわけにはいかない。給料をもらっているのですから、嫌なことも我慢をして上司の命令には従わなければならないと思いますがね。従えないなら、別の職を見つけなければ」

さすがに元管理職としての意見ではあるが、社会のマジョリティの考え方を簡潔に集約した意見でもある。常識的な意見とも言えるだろう。特に悪意あっての意見ではない。むしろ、公務員としての採用を、契約関係として捉えているのはセンスがよい証拠。しかし、契約の対価関係にあるそれぞれの義務について詰めて考えた形跡はない。公務員としての採用時の宣誓について「嫌なことも我慢をして引き受ける」確認とお考えのようだった。

公務員の身分を契約関係として捉えた場合、教員側の契約上の義務は、法と条例と内規と職務命令にしたがって労務を提供することである。これと対価関係に立つ学校設立者側の義務は、規定に従って賃金を支払うこと、法に従った公平な処遇をすること、そして教員としての労働環境を整えること、であろう。

契約とは法が強制力を認める制度であるから、法の理念に反する契約は認められない。憲法遵守義務を負う当事者の契約に、憲法違反の義務はありえない。法に従った労務の提供義務として、思想・良心の自由を蹂躙する違憲の義務は想定し得ない。公務員は採用される際に、憲法遵守の宣誓をする。憲法違反の職務命令を遵守する義務までは負担しない。

なによりも、教員の職責は、子どもの教育を受ける権利に奉仕すべきものとしてある。職責を「教育者の本分」といっても差し支えなかろう。戦前と同様に、国家を尊貴なものとし、国家の言いなりになる子どもを育てるのが本分か。それとも、国家も間違いうる、国旗国歌の強制に服してはならない、とすることを身をもって範とすべきが本分か。臣民を育てるのか、主権者を育てるべきなのか。

教育のあり方を真面目にとらえ、子どもに向かい合い、寄り添おうとする教員ほど、「日の丸・君が代」強制の問題を深刻に考えざるを得ない。このような人々を教壇から追ってしまえば、従順な教員だけが残り、従順なだけの国民が育成されることになりはしないか。

そんなことを辛抱強く聞いていただいた。さしたる違和感はなかったご様子。最後に、またいくつかの絵の逆さ書きを見せていただいて、強風の中八重桜満開の上野の山をあとにした。

司法の「メルトダウン」修復のために

同僚弁護士から勧められて、「原発と裁判官」という本を読んでいる。朝日新聞出版社の発行で、本年3月30日が発行の日付。副題が、「なぜ司法は『メルトダウン』を許したのか」というもの。司法自身の「メルトダウン」の分析でもある。

私がこの本を読む問題意識は、「司法は国策に切り込むことができるか」「どうしたら、裁判所から国策批判の判決を得ることができるか」ということ。

私にとって、この二つは弁護士志望以来の根源的なテーマである。私は、「裁判所とは所詮は国家機構の一端。だから司法が国策に切り込むことなどできるはずがない」と絶望してはいない。しかし、その困難さは、身に沁みている。困難であることを知りつつも、「どうしたら、裁判官を説得して、敢えて国策を批判した、憲法の理念に忠実な判決を勝ち取ることができるだろうか」と考えざるを得ない。原発訴訟からもそのヒントが欲しい。

新聞記者2名の執筆になる本書は、原発訴訟の判決を言い渡した裁判官6名への取材を骨格とする。住民側敗訴判決を言い渡した裁判官4名と、貴重な勝訴判決を言い渡した2名の裁判官。住民側敗訴判決を書いた裁判官の証言が問題を考える上でたいへん貴重で参考となる。そして、たった2件ではあるが、井戸謙一さん(志賀原発訴訟・一審裁判長)、川崎和夫さん(もんじゅ訴訟・控訴審裁判長)の勝訴判決は、司法の希望である。

著者は、住民側敗訴判決を書いた裁判官の取材報告全体の章の標題を「葛藤する裁判官たち」とし、4人の各裁判官ごとに、?「科学技術論争の壁」、?「証拠の壁」、?「経営判断の壁」、?「心理的重圧の壁」と、副題を付している。そのいずれの裁判官も、けっして権力盲従者ではなく、むしろ常識人である。3・11の事態に、一様に「驚いた」「ぞっとした」と言い、「自分の判決は甘すぎた」「法律家として一生背負っていく問題」とすら言う。しかし、結果として、このような常識人が、国策に追随し、国策を補完する役割を演じて、福島原発のメルトダウンに自らの責任を感じざるを得ない判決を書いている。

4人の中で、もっとも率直に裁判官一般の心情を語っているのが、今は新潟大学大学院教授の西野喜一さん。「今の訴訟法が国策を争うようにはできていない」と言い、加えて「国策の推進という方針に添った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります」。昇進や任地の人事権を上級に握られている官僚機構の中では、暗黙のうちに国策批判はタブーとなる。人事権の行使について、「最高裁は常に、『適材適所だ』と説明するだけです。明らかに左遷であっても、行政訴訟で国側を負かせたことが理由だ、などとは絶対に認めませんから」。

暗黙のお約束だけではなく、テーマを設定した「裁判官会同」という、担当裁判官を集めての「勉強会」で判決内容を統制する手法もあり、判事と訟務検事の「判検(人事)交流」という手法もある。

先年、日本民主法律家協会で、「最高裁は変わったか」と判例分析のシンポジウムを開催した。その基調報告は浦部法穂さん。この10年のほぼすべての判決を分析しての結論は、次のような簡潔なものだった。
「天下の形勢に影響のないテーマについては、以前より最高裁の合理的な判断が期待できるようになっている。しかし、こと政治的な色彩を帯び、天下の形勢に影響する課題の事案においては旧態依然である」

「天下の形勢に影響する、政治的色彩を帯びた課題」とは、「国策」と言い換えても良い。司法は国策に切り込めてはいないということだ。まったく同感なのだが、同感のままでは問題の解決にならない。もしかしたら「3・11の衝撃は、司法が国策を批判するきっかけとなりうる」のではないだろうか。少なくとも、原発の安全性の問題に限れば‥。

そして、なによりも問題の根源にある司法の官僚制機構に切り込まなければならない。個別の訴訟での工夫だけでなく、司法官僚制そのものを変えて、司法の行政や政治からの独立だけでなく、第一線裁判官の上司や最高裁事務総局からの独立を実現しなければならない。年来のテーマであるが、日民協ではそのための「法曹一元」制を提案している。すべての裁判官を、弁護士経験者から任命するこの制度、この書の中でも話題になっているが、本格的に追求したい。憲法こそが国策を凌駕する司法の準則であることを当然とする司法の実現のために。

新装開店記念サービスエッセイ第5弾。

  『泰山を鳴動させた一匹のネズミのこと』
 「2年前の3月11日のあの日をもう一度思い出してくださいよ」と言って一匹の健気なネズミが感電死した。ボロボロでヨロヨロになって、放射能まみれになったネズミの死骸は福島第一原発の姿そのものだ。
 3月18日夕刻、福島原発の使用済みの燃料プールの冷却ができなくなって、その原因を突き止めるために右往左往して、事故の公表を遅らせて、原因がわかったので「ネズミ捕りを設置します。」ということになつた。この顛末を見れば、東電の本質は2年前と変わらず、2年前の事故はまた起こりうると考えられて当然だ。
 放射能除染、瓦礫の処理も進まず、使用済み燃料の中間処理場の引き受け手もいない。放射能汚染水はどんどんたまり続けている。当然ながら最終処理場のことなど話題にものぼらない。トイレはどんどん詰まって満杯だ。
 放射能被害の賠償問題の解決も遅々として進まない。故郷に帰れないで避難生活をしている方が31万5000人もいる。気の毒なことに、そのなかには永久に帰れない人も数万人の単位でいるに違いない。
 生産農家の必死の努力にかかわらず、福島の野菜の取引は落ち込み続け、値崩れは止まらない。酪農などほかの農産物も同じである。ノリ養殖など漁業も壊滅状態だ。
 東電は農地を汚染しただけでは足りなくて、今度は海まで汚そうとしている。汚染水は貯まりに貯まって36万5000立方メートル、25メートルプール480杯分になっているそうだ。今でも毎日毎日増え続けている。それで困りはてた東電は海洋放出を計画している。「アルプス」という清々しい名前の浄化装置を使って放射性物質を取り除いて、汚染水を海に放出しようと、3月30日に試運転を始めたという。ただし、放射性トリチウムは除去できない。当然のことながら、過去にこっそりと汚染水を放出した前科のある東電への不信感から、地元漁協は大反対だ。地元だけでなく海はどこまでも繋がっているのだから、関東、東北の漁業全体の問題だ。それだけじゃない。消費者の問題でもある。私も大反対だ。
 落ち着いて考えれば、使えば使うほど、手に負えない放射性汚染物質が貯まって、ネズミ一匹でもシャットダウンしてしまう信頼の置けない装置など絶対運転すべきではない。地震、津波、火山爆発を引き金にどんな甚大な被害が出るやも知れない。南海トラフ巨大地震への備えはできているのか。事を荒立てる外交しかできない我が国のこと、原発を標的としたテロやミサイル攻撃の不安も拭えない。
 安倍内閣は、原発による発電がなかったら産業が壊滅する、国益が損なわれると大合唱して、原発を再稼働しようとしている。
 しかし、どう考えてもおかしい。
 電力会社は除染や賠償の費用、動いてもいない日本原子力発電への支払い、はたまた怪しい原子力委員関係のNPOへの支出までひっくるめて、電気料金に転嫁できる。発電所周辺地域に交付されているお金・電源開発促進税も電気料金に上乗せされて徴収されている。これは我々消費者・納税者が否応なしに、気がつかないうちに支払わされているのだ。
 原発による電力は安い安いと宣伝されてきたが、大島堅一立命館大教授の試算によれば、今まで計算に入れられていない部分の費用を発電コストにいれれば、原子力10.68円、火力9.9円、水力7.26円となって、原子力で発電される電気が一番高いということになる。それで終わりではない。これから福島処理のためにいったいどれだけ費用の負担をすることになるか誰も正確な数字は出せない。いずれ廃炉になる全国の原発の処理費は天井知らずだ。この費用を賄う方が、国家的大損失ではないか。

 それでも原発続けますか。「私が責任を持ちます。」と言って大飯原発を再稼働させた野田さん、今はどこにいるのか影も見えません。原発政策は、よってたかって甘い汁を吸ったあげく、誰も責任を持たない悪徳会社の詐欺のような気がしてならない。これでは感電死した健気なネズミも浮かばれまい。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.