なんと私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論期日は明日4月22日(水)となった。13時15分から東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。私は、多くの人にこの訴訟をよく見ていただきたいと思っている。そして原告DHC吉田側が、いかに不当で非常識な提訴をして、表現の自由を踏みにじっているかについてご理解を得たいのだ。
DHC会長の吉田嘉明は、私の言論を耳に痛いとして、私の口を封じようとした。無茶苦茶な高額損害賠償請求訴訟の提起という手段によってである。彼が封じようとした私の言論は、まずは、みんなの党渡辺喜美に対する8億円拠出についての政治とカネにまつわる批判だが、それだけでない。なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供してたのか、という動機に関する私の批判がある。私は当ブログにおいて、吉田の政治家への巨額なカネの拠出と行政の規制緩和との関わりを指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げた。
この制度は、アベノミクスの第3の矢の目玉の一つである。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたものだ。企業は利潤追求を目的とする組織であって、往々にして消費者の利益を犠牲にしても、利潤を追求する衝動をもつ。だから、消費者保護のための行政規制が必要なのだ。これを桎梏と感じる企業においては、規制を緩和する政治を歓迎する。これは常識的なものの考え方だ。
私は2014年4月2日のブログを「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」との標題とした。以下は、その一節である。これが問題とされている。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものだ。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が消費者主権ではなく、生産者主権の下にあることを指摘した。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響をもった。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ー常識となった。
また、消費者法の草分けである正田彬教授は次のように言っている。
「賢い消費者」という言葉が「商品を見分け認識する能力をもつ消費者」という意味であるならば、賢い消費者は存在しないし、また賢い消費者になることは不可能である。高度な科学的性格をもつ商品、あるいは化学的商品など、複雑な生産工程を経て生産されたものについてだけではない。生鮮食料品についてすら、商品の質について認識できないのが消費者である。消費者は、最も典型的な素人であり、このことは、現在の生産体系からすれば当然のことである。必然的に、消費者の認識の材料は、事業者―生産者あるいは販売者が、消費者に提供する情報(表示・広告などの)ということにならざるを得ない。消費者は、全面的に事業者に依存せざるをえないという地位におかれるということである。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生した。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきた。被害を追いかけるかたちで、消費者保護の法制が次第に整備されてきた。私は、そのような時代に弁護士としての職業生活を送った。
それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」である。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」というもの。企業にとって、事業者にとって消費者規制は利益追求の桎梏なのだ。消費者の安全よりも、企業の利益を優先する、規制緩和・撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというのだ。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度、まさしく経済活性化のための規制緩和である。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者は賢くなればよい」「消費者被害には事後救済でよい」ということ。
本日発売のサンデー毎日(5月3日号)が、「機能性表示食品スタート」「『第3の表示』に欺されない!」という特集を組んでいる。小見出しを拾えば、「国の許可なく『効能』うたえる」「健康被害どう防ぐ」「まずは食生活の改善 過剰摂取は健康害す」などの警告がならぶ。何よりも読むべきは、主婦連・河村真紀子事務局長の「性急すぎ、混乱に拍車」という寄稿。「健康食品をめぐる混乱は根深く、新制度によるさらなる被害」を懸念している。これが、消費者の声だ。
この問題で最も活発に発言している市民団体である「食の安全・監視市民委員会」は4月18日に、「健康食品にだまされないために 消費者が知っておくべきこと」と題するシンポジウムを開催した。その報道では、「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」との指摘があったという(赤旗)。まさに、企業のための規制緩和策そのものだ。
あらためて「合点が行く」話しではないか。消費者の安全の強調は、企業に不都合なのだ。私は、そのような常識をベースに、サプリメント製造販売企業オーナーの政治資金拠出の動機を合理的に推論したのだ。消費者の利益を発言し続ける私の口が、封じられてはならない。
(2015年4月21日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は明後日4月22日(水)13時15分に迫っている。舞台は東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。
さて、私は、DHC・吉田から私に対する訴訟を「スラップ訴訟」と位置づけている。この場合のスラップ訴訟とは、権力者や経済的な強者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする提訴のこと。DHC・吉田は渡辺喜美に対して「届出のない8億円を拠出していた」ことを自ら曝露した。多くの論者がこれを批判したが、DHC・吉田はその内10人を選んでスラップ訴訟をかけている。私もそのひとり。トンデモナイ高額請求で、うるさい人物を黙らせようということなのだ。
このようなスラップ訴訟の被害は、フリーランスのジャーナリストや個人ブロガーなど恫喝に弱い立場の者に集中してきた。ところが、大手新聞社もスラップの対象となっている。これは、ジャーナリズム全体に由々しき事態ではないか。既に報道の自由そのものが被害者となっているのだから。
以下は、毎日新聞4月17日夕刊(社会面・第14面)の記事である。多くの読者には目にとまらなかったであろう、小さな扱いのベタ記事。しかし、記事の内容は見過ごせない。
見出しは「サンデー毎日記事巡り稲田氏が本社提訴」というもの。
「サンデー毎日の記事で名誉を傷付けられたとして、自民党の稲田朋美政調会長が発行元の毎日新聞社を相手取り、550万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。17日の第1回口頭弁論で毎日新聞社は請求棄却を求めた。
訴状によると、サンデー毎日は2014年10月5日号で、稲田氏の資金管理団体が10〜12年、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の幹部と行動する8人から計21万2000円の寄付を受けたと指摘。稲田氏について『在特会との近い距離が際立つ』とする記事を載せた。
稲田氏側は『寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない』と主張。記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させる』と訴えている。
▽毎日新聞社社長室広報担当の話 記事は十分な取材に基づいて掲載しています。当方の主張は法廷で明らかにします。」
原告は自民党の政調会長である。安倍晋三にきわめて近い立場にあると見られている人物。このような政権与党の中枢に位置する人物のメディアに対する提訴は、被告が大手新聞社であっても、記事の内容が意図的な事実の捏造でもない限り、言論封殺を目的としたスラップ訴訟とみるべきであろう。また、現時点における複数の報道による限り、提訴の内容はまさしく、「権力者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする」ものと考えてよいと思われる。
問題の「サンデー毎日」2014年10月5日号記事は、『安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月』というメインタイトル。大きな反響を呼んだ記事だ。サブタイトルは、「スクープ 国連が激怒」「自民党がヘイトスピーチ規制に後ろ向きな噴飯ホンネ」「山谷えり子との『親密写真』公開!」「お友達議員にバラ撒かれるカネ」「高市早苗とネオナチ団体」などと賑やかだ。しかし、サブタイトルに稲田の名がないことに注目いただきたい。
使われている写真は、「山谷氏を囲む在特会関係者」「ネオナチと高市氏(左)、稲田氏(右)の写真を報じる海外メディア」と、これは文句のつけようがない。
記事全体としては、「安倍自民と在特会」との蜜月関係を洗い出して、「今さら簡単に断ち切れないほど関係を深めている」「ナショナリズムを政権浮揚に使ってきたツケが回ってきた」と、政権の右翼化を批判したもの。
この記事に出て来る「シンパ議員」の名を挙げておきたい。
安倍晋三・山田賢司・高市早苗・下村博文・山谷えり子・有村治子・古屋圭司・衛藤 晟一、そして稲田朋美だ。稲田の名は最後に出て来る。扱いも、高市や山谷に較べて遙かに小さい。
稲田に関する主要な記事を抜粋してみよう。
「一方で在持会関係者が直接、自民党国会議員ににカネをバラ撒いているケースもある。稲田政調会長の資金管理団体『ともみ組』10〜12年、在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人から計21万2000円の寄付を受けた。稲田氏の事務所は『稲田の政治理念と活動に賛同してくださる個人を対象に、広く浅く浄財を頂いている。事務手続きに必要な事項、法令で定められた事項、政治資金収支報告書に記載された事項以外の情報は確認していない』というが、在特会との近い距離が際立つ。稲田氏といえば、高市総務相とともにネオナチ団体の代表と撮影したツーショット写真が流出し、2人とも『相手の素性や思想は知らなかった』と弁明した。」
この記事にクレームがつけられて、今年の2月13日提訴となっていたことは、4月17日毎日夕刊の記事が出るまで知らなかった。それにしても、疑問が湧いてくる。なぜ、稲田だけが提訴したのだろうか。他の安倍・高市・下村・山谷らは、なぜダンマリなのだろう。
資金管理団体『ともみ組』の政治資金報告書は誰でもネットで閲覧可能である(下記URL参照)が、サンデー毎日記者は、事前に稲田の事務所を取材している。そのコメントも丁寧に記事にしている。手続的に問題はない。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS2020131129.html
毎日新聞の記事による限りだが、原告稲田側は「在特会との近い距離が際立つ」とする記事が怪しからん、ということのようだ。「寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない」にもかかわらず、同記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させた」との主張のようだ。稲田も、在特会と近しいとされることは迷惑なのだ。せっかく「稲田の政治信条と活動に共鳴して政治資金を寄付した」在特会側は、この稲田事務所の連れない言辞をどう受け止めるだろうか。
朝日の報道はやや異なる。
「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられたとして、稲田朋美・自民党政調会長(56)が週刊誌『サンデー毎日』の発行元だった毎日新聞社に慰謝料など550万円の損害賠償と判決が確定した場合の判決文の掲載を求め、大阪地裁に提訴した。」
「稲田氏側は、在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけと主張。さらに『寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない』と訴えた。」
稲田の提訴目的は、いつまでも「在特会と近い関係」と言われることを嫌っての縁切り宣言にあったのかも知れない。それでも、「寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない」は、記事を批判し得ていない。サンデー毎日の記事は、「在特会との近い距離が際立つ」というものである。寄付を受ける者と寄付者との関係を「距離が近い」と言って少しも不都合なところはない。これは典型的な記事の「意見・論評」の部分である。意見・論評には幅の大きな表現の自由が保障される。これでは稲田側の主張が裁判所で認められる余地はない。
「在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけ」との稲田側の主張の真偽は第三者には分からない。しかし、サンデー毎日の記事は、「在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人」となっている。「8人がすべて在特会の会員」と言ってはいない。立証のハードルはきわめて低い。
摘示された事実には真実性が求められるが、「主要な点において真実であればよい」ので、必ずしも完璧な立証が求められるわけではない。また、真実であると信じたことに相当な根拠があれば毎日側の過失は否定される。こうして、表現の自由は保護され、国民の知る権利が保障される。
どう見ても、稲田側の勝訴の見込みはあり得ないが、「自分を批判すると面倒だぞ」とメディアを萎縮させる効果は計算しての提訴ではあろう。それゆえのスラップ訴訟である。
私は、DHC・吉田に対してだけでなく、社会に「スラップ訴訟は許されない」と発言し続けている。是非、毎日も同じように声を揃えていただきたい。
(2015年4月20日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は4月22日(水)13時15分に迫ってきた。法廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されているので、ぜひご参加をお願いしたい。
訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張している。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものである。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーである。そのような人格的な利益を傷つけられる人がいてなお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているのだ。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はない。
視点を変えれば、本来自由な言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになる。DHCと吉田嘉明は、まさしく私の言論による名誉の侵害(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結なのだ。
もちろん、法は無制限に表現の自由を認めているわけではない。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを天秤にかけて衡量している。もっとも、この天秤のつくりと、天秤の使い方が、論争の対象になっているわけだが、本件の場合には、DHCと吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことがあまりに明らかである。
その第1点は、DHC・吉田の「公人性」が著しく高いこと。しかも、吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「公人性」を買って出ていることである。いうまでもないことだが、吉田は単なる「私人」ではない。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーというだけではない。公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物である。しかも、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのだ。
その第2点は、被告の名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることである。無色透明の言論の自由というものはない。必ず特定の内容を伴う。彼が甘受すべきは、政治に関わる批判の言論なのだ。政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているという私の批判の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまう。
さらに、第3点は、私の言論がけっして、虚偽の事実を摘示するものではないことである。私の言論は、すべて吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、論評しているに過ぎない。意見や論評を自由に公表し得ることが、表現の自由の真骨頂である。私の吉田批判の論評が表現の自由をはみ出しているなどということは絶対にあり得ない。
仮に私が、世に知られていない吉田やDHCの行状を曝露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となる。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材に論評したに過ぎない。そのような論評は、どんなに手厳しいものであったとしても吉田は甘受せざるを得ないのだ。
私のDHC・吉田に対する批判は、純粋に政治的な言論である。吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものである。
吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べている。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けている。
もちろん、吉田が「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」など露骨に表現ができるわけはない。しかし、吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の論評である。これは、吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎない。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論である。
私がブログにおいて指摘したのは、吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりである。薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わるものとして、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっている。国民自身に注意義務を課しても実効性のないことは明らかなのだから、国民に代わって行政が、企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしているのだ。国民の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制として軽々にこの規制緩和を許してはならない。しかし、業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務の拡大への桎梏である。規制を緩和すれば利益の拡大につながる。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策する。これはきわめて常識的な見解である。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきた。
吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていた。これは、アベノミクスの第3の矢の目玉として位置づけられたものである。経済を活性化するには、規制を緩和して企業が活動しやすくする環境を整えることが必要だという発想である。緩和の対象となる規制とは、不合理な経済規制だけでなく、国民の健康を守るための社会的規制までも含まれることになる。謂わば、「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線である。業界は大いに喜び、国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがった。
そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をした。まことに適切な指摘ではないか。
なお、その機能性表示食品制度は、本年4月1日からの導入となった。安倍政権の悪政の一つと数えなければならない。安倍登場以前から規制緩和を求める業者の声に応えたのだ。以下は、制度導入を目前とした、3月26日付の日弁連声明である。全文は下記URLを参照いただきたいが、日弁連がこれまで重ねてこの制度導入に反対してきたこととその理由が手際よくまとめられている。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2015/150326_2.html
法廷での主張の応酬は、表現の自由一般の問題から、政治とカネの問題をめぐる政治的言論の自由という具体的な問題となり、さらに規制緩和を求める立場にある企業の政治資金拠出に対する批判の言論の自由の問題に及んでいる。
本件スラップ訴訟は、まずは表現の自由封殺の是非をめぐる問題であるが、具体的には政治資金規正法をめぐる問題でもあり、さらには規制緩和と消費者の利益をめぐる問題でもある。消費者の利益擁護のためにも、きっちりと勝訴しなければならない。
(2015年4月19日)
私が被告として6000万円の賠償金支払いと謝罪文の掲載を求められている「DHCスラップ訴訟」(東京地裁民事第24部係属)。その次回法廷と報告集会のご案内です。
口頭弁論期日は4月22日(水)午後1時15分から、東京地裁631号法廷(東京地方裁判所庁舎6階)です。もちろん、誰でも傍聴できます。
恒例のとおり、閉廷後に東京弁護士会507号室(弁護士会館5階)で、1時間をメドに報告集会を開催いたします。弁護団からの解説や意見交換だけでなく、元朝日新聞の記者でオリコンからスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんに、ミニ講演をお引き受けいただきました。これまで毎回、憲法学者やジャーナリストに有益な講演をお願いしてきました。今回も、興味ある講演になるはずです。
烏賀陽さんは、朝日新聞勤務のあと『アエラ』の記者として音楽・映画などポピュラー文化のほか医療、オウム真理教などを取材し、ニューヨーク駐在の経験もあるそうです。コロンビア大学修士課程に自費留学して、国際安全保障論(軍事学・核戦略)で修士課程を修了という異色の経歴。
スラップ被害の実体験から、フリーランスになってからの執筆ジャンルの一つとして、スラップ訴訟を追っています。「俺たち訴えられました!」(河出書房新社、2010年3月。西岡研介氏と共著)、法律時報2010年6月号「SLAPPとは何か─『公的意見表明の妨害を狙って提訴される民事訴訟』被害防止のために」などが知られていますが、近々スラップに関する新著を出す予定だそうです。スラップの言論萎縮効果の害悪や、これを抑制しあるいは撲滅する制度設計などについて、お話しいただきます。
さて、法廷の進行は、次回が一つの山場となります。場合によっては、結審が見えてくる法廷になるかも知れません。
ちょうど昨年の今ごろ、週刊新潮にDHCの吉田嘉明会長が手記を発表しました。なんと、吉田嘉明から「みんなの党」渡辺喜美代表に対して、政治資金8億円が提供されていたというのです。その内、3億円については借用証が作成されたとのことですが、5億円については貸金であることを示す書類はないようです。カネの動きも、貸金にしては極めて不自然。そのほかにも、渡辺側の不動産を吉田が、渡辺の言い値で購入したことも明らかとなりました。このような巨額のカネが、政治資金規正法にもとづく届出のない裏金として動いていたのです。
この事件について、渡辺だけでなくDHC吉田側をも批判する論評は無数にありましたが、既に当ブログでご報告のとおり、吉田はその内の10件を選んでスラップ訴訟を提起しました。明らかに、自分への批判の言論を封じて、高額請求訴訟提起の威嚇による萎縮効果を狙ってのものです。
東京地裁に提起された訴訟10件の賠償請求額は最低2000万円、最高2億円です。私は当初「最低ライン」の2000万円でしたが、その後ブログに「口封じのDHCスラップ訴訟を許さない」と書き続けて、請求額は6000万円に増額となっています。
その10件のうち、折本和司弁護士(横浜弁護士会)が被告になっている事件は今年の1月15日に第1号判決となり、次いで3月24日に被告宋文洲氏についての第2号判決が、いずれも「原告完敗・被告完勝」の結果となりました。私の事件がこれに続く第3号判決になることが予想されます。
言論の自由は極めて重要な基本権ですが、常に絶対なものではありえません。その言論によって傷つけられる「被害者」側の人格的利益との調整が必要になってきます。その調整の基準が、言論における「事実摘示」と「意見・論評」とで、異なってきます。表現者側から見て、前者で厳しく、後者では緩やかなのです。
私のブログは、原告吉田が手記で自ら告白した行為の動機を、「自分の儲けのために行政規制を緩和しようとしたもの」と表現しました。当然に「意見・論評」に当たるはず。原告はこれを「論評」ではなく、「事実摘示」だと言って争っています。しかし、どちらにしたところで、原告が自ら明らかにした前提事実にもとづいた合理的な推論であり、この推論も真実であるか少なくとも真実と信じるについての相当性があることに疑問の余地はありません。
判断枠組みの基本は、1989(平成元)年12月21日の最高裁判決(長崎教師批判ビラ配布事件)です。「前提としている事実が真実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉侵害の不法行為の違法性を欠く」と明言しました。これは「フェアコメントルール」(公正な論評の法理)を採用したものと評されており、論評型の典型判例です。
前回の法廷で、裁判所はこの判決を念頭に「論評としての域を逸脱してはいないかどうか」が争点だと発言しています。これがメインのストリーム。
さらに、「論評としての域を超えた」は、「人格攻撃にわたるなどの表現の態様の問題」と、「推論の合理性を逸脱している」という両様の問題があり得ますが、どちらについても私のブログが「論評としての域を逸脱していない」ことは、明々白々というべきでしょう。
名誉毀損訴訟における「表現の自由と被批判者の人格的利益の調整」についての判断の在り方は、その言論をとりまく状況によって異なってきます。とりわけ、言論のテーマと批判の対象となる人物の属性が重要な基準。
私は、政治とカネという政治的に最重要のテーマの一つについて、社会的に有益な批判の言論を提供したのです。最も言論の自由が保障されてしかるべきなのです。
原告吉田は、自分を「私人に過ぎない」と言っていますがトンデモナイ。8億円を政党の党首に政治資金として拠出した人物は、高度の「公人」あるいはそれに準ずる者というほかありません。
彼は、自らの手記で、自分が経営する化粧品・サプリメントの事業に関して厚労省の規制チェックを桎梏としていることを臆面もなく語っています。そのような彼が、規制緩和=脱官僚のために巨額資金を拠出したというのですから、合理的な推論として「自分の儲けのために行政規制を緩和しようとしたもの」との批判は甘受しなければなりません。
被告弁護団は、現在作成中の準備書面で規制緩和問題についてもふれ、ブログ記事の論評が正鵠を射たものであること、いかなる意味でも「論評としての域を超えた」ものではないことを論述して、少なくとも裁判所が関心をもつ点についての主張は完了します。
裁判所が今後の進行について次回以後をどう訴訟進行することとするか、4月22日判断があろうと思われ、当日の法廷は一つの山場となるはずです。ぜひ、法廷傍聴と報告集会にご出席ください。
(2015年3月30日)
「被告本人」の称号をもつ澤藤です。
本日の「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴にも、そしてまた法廷後の報告集会にも多数ご参集いただき、まことにありがとうございます。
私は表面的には強がっていますが、本当は気が小さいのです。本日も緊張して法廷にまいりました。そして、法廷に入ってたくさんの方のお顔を拝見し、多くの人に支えられているという実感を肌に感じ心強い思いをあらたにして励まされました。
もちろん、傍聴や集会にご参加の皆さまが、澤藤個人の支援というよりは、DHCスラップ訴訟のもつ民主主義への攻撃に立腹し危機感をもってのこととはよく承知しています。
DHCスラップ訴訟のもつ危険性とは、政治的言論の圧殺であり、カネで政治を買おうという策動の貫徹であり、また規制緩和による消費者利益の侵害でもあり、さらには司法を言論弾圧に悪用することでもあります。皆さまは、それぞれの問題意識から、このDHCスラップ訴訟に関心をもたれていることと思います。
とはいうものの、直接の被害者は私です。攻撃されている民主主義的諸理念を代理して、ほかならぬ私がDHCスラップ訴訟の不当を訴えなければならない、そう思っています。
幸い、多くの方にこの場にお集まりいただいています。同期の弁護士の皆さま、私が所属していた東京南部法律事務所の皆さま、消費者委員会活動で苦楽をともにした皆さま。とりわけ、航空関係労働組合の皆さまや、「日の丸・君が代」訴訟原告団の皆さま、その他たくさんの皆さまからご支援をいただいていることに心から感謝申し上げます。弁護士生活40年にして、どれだけのことをしてきたかの通信簿をいただいているような気持です。
さて、次回の口頭弁論期日は第7回(第1回は被告欠席ですので、実質第6回)となり、いよいよ大詰めとなります。もしかしたら、結審の見えてくる法廷になるかも知れません。日程は下記のとおりですので、是非また法廷傍聴にお越しください。
4月22日(水)午後 1時15分 東京地裁631号法廷です。
恒例のとおり、法廷後に報告集会を開催いたします。場所は未定ですが、決まり次第ご通知いたします。
訴訟の経過については光前幸一弁護団長からご報告があったとおりです。これまで、本件の判断枠組みを「事実摘示型」名誉毀損訴訟ととらえるか、それとも「論評型」と考えるかについて裁判所の態度は不明確でしたが、本日の法廷ではかなり明確に「論評型」ととらえることを表明したものとの印象を受けています。
法廷は口頭弁論の場です。私は常々、もっと当事者と裁判所との率直な意見交換があってしかるべきだと考えています。裁判官はそのときどきの自分の心証の傾きを明確にしながら、さらに両当事者の訴訟活動を促すべきだと考えています。それでこそ、焦点の定まった審理が進行するはずではないでしょうか。
本件では、毎回の法廷において相当に被告弁護団と裁判所との口頭のやり取りがおこなわれます。私も必ず発言することにしています。本日の被告弁護団と裁判所とのやり取りの中で、裁判長は「最高裁判例の判断枠組みに従う」ことを始めて口にしました。「個別のケースごとに事案の内容が違うことは当然として、枠組みは最高裁判例に従う」という趣旨。
すかさず光前さんが、「具体的にはどの判決を念頭に置いて、判例の枠組みと言っておられますか」と質問したところ、裁判所から「平成元年判決」との回答を得ました。その前提で、裁判所は「結局、『論評としての域を逸脱したもの』というのが原告のご主張で、『論評としての域を逸脱していない』というのが被告のご主張と理解しています」とのこと。
1989(平成元)年12月21日判決(長崎教師批判ビラ配布事件)の最高裁判決で、「前提としている事実が真実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉侵害の不法行為の違法性を欠く」と明言しました。これは「フェアコメントルール」(公正な論評の法理)を採用したものと評されており、論評型の典型判例です。
裁判所は、この判決を念頭に「論評としての域を逸脱してはいないか」を、争点に据えたと発言したのです。もちろん、裁判は進行中ですから、裁判所の態度が決定したわけではありません。しかし、原被告双方はこの点を意識して今後の主張立証を積み重ねることになります。
さらに、光前さんから、「『論評としての域を超えた』とは、『人格攻撃にわたるなどの表現の態様の問題』と、『推論の合理性を逸脱している』という両様の問題があり得ると思いますが、裁判所はどのようにお考えでしょうか」との質問に対して、裁判長は「両方ありうるのではないでしょうかね」という曖昧な返事でした。
なお、平成元年最高裁判決に対して、1997(平成9)年9月9日最高裁判決(ロス疑惑夕刊フジ事件)があります。同判決は、「事実を摘示しての名誉毀損」と「意見ないし論評による名誉毀損」との枠組みの違いを明確に意識しつつ、「原告について『犯罪を犯した』とする記事は、事実を摘示するもの」としています。
言わば、論評型の「平成元年判決モデル」と、事実摘示型の「平成9年判決モデル」の二つがあるといって差し支えないと思います。裁判長からは、「平成9年判決も、平成元年判決と趣旨は同じだと理解しています」という「裁判官的発言」もありましたが、結局のところ「本件は論評型として取り扱う」という判断が示されたと言ってよいと思います。
光前さんからご説明あったとおり、被告は次回までに、原告準備書面4に対する全面的な反論の準備書面を提出することになります。その眼目は、名誉毀損訴訟の判断の在り方は、その言論をとりまく状況によって、とりわけテーマと批判の対象となる人物の属性によって異なってきます。平成元年判決と、平成9年判決との違いの理由は、既に準備書面で説明済ですが、あらたな主張整理に基づいて、憲法21条の基本理念から再度説明することとなるでしょう。そのときには、原告吉田は自分を「私人に過ぎない」と言っていますが、トンデモナイ。8億円を政党の党首に政治資金として拠出した人物は、高度の「公人」あるいはそれに準ずるものとなることが強調されるでしょう。また、念のために、澤藤ブログが言及しているサプリメントに関する規制緩和問題についても準備書面で説明し、ブログ記事の論評が正鵠を射たものであることを主張して、必要な書証を提出することになります。
その作業を終えれば、次回でほぼ主張は尽くされることになります。少なくとも、裁判所が関心をもつ点についての主張は完了です。その上で、さて次回をどうするか、どうなるか。一つの山場となるはずです。
また、本日は専修大学の内藤光博教授(憲法学)から、「スラップ訴訟と表現の自由」というミニ講演をいただきました。
民事訴訟とは本来人権保障の一環として侵害された権利を回復するためにある。その本来の使命とはまったく異なり、表現の自由に対する弾圧手段として訴訟を悪用しているのがスラップ訴訟。
スラップ訴訟は勝訴による人権回復を目的とするものではなく、批判の言論に対しての萎縮効果を狙うもの。アメリカの各州の州法にあるような「スラップ被害防止法」が必要ではないか。少なくとも、濫訴者やこれを幇助する弁護士などに何らかの制裁が必要ではないか、とのお話しがありました。
キーワードは萎縮効果です。DHCや吉田の狙いが、批判的言論の萎縮にあることは明らかなのですから、けっして萎縮してはならない。自分にそう言い聞かせています。しかし、これはおそらく私が弁護士だから言えることではないかとも思っています。
私は弁護士ですから、誰に対しても臆することなく萎縮することもなく、言論活動ができる立場にあります。しかし、商売をしている人、勤め先のある人、公務員などにはなかなか難しいことではないでしょうか。私は弁護士として、社会から与えられた「自由業」としての立場に伴う責務を痛感しています。不当な圧力に弁護士が萎縮してしまってはならない。弁護士だからこそ、最前線でこの不当と闘わなければならない。そのような意気込みで法廷の闘いを続ける覚悟です。
是非皆さま、今後とも引き続いて、気の弱い私を支援し励ましていただくようお願いいたします。
(2015年2月25日)
私が被告になっているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論が近づいてきました。日程をご確認のうえ、是非傍聴にお越しください。
2月25日(水)午前10時30分? 口頭弁論期日
東京地裁631号法廷(霞ヶ関の地裁庁舎6階南側)
同日11時00分? 弁護団会議兼報告集会
東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)
今回の法廷では、前回期日での裁判長からの指示に基づいて、
被告が再度の主張対照表を提出し、原告が被告の準備書面4に対する反論の準備書面4を陳述の予定です。
法廷終了後の報告集会兼弁護団会議は、東京弁護士会館507号室で、11時?13時の時間をとっていますが、実際には正午少し過ぎくらいまでになると思います。
報告集会の予定議事は次のとおりです。
☆弁護団長の進行経過と次回以後の展望の説明。
裁判所の求釈明の趣旨と本日陳述の準備書面の内容
当日の法廷を踏まえて、次回以後の審理の展望
☆ミニ講演 「スラップ訴訟と表現の自由」
内藤光博専修大学教授
☆議事1 審理の進行について
本日までの審理の経過をどう見るか。
今後の主張をどう組み立てるか。
☆議事2 DHCスラップ訴訟第1号・折本判決(1月15日・地裁民事30部)をどう評価し、本件にどう活用するか。他事件被告弁護団との連携をどうするか。
☆議題3 今後の立証計画をどうするか。
☆議題4 反訴の可否とタイミングをどうするか。
☆議題5 マスコミにどう訴え、どう取材してもらうか
☆議題6 同種の濫訴再発防止のために何をすべきか
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DHCスラップ訴訟の傍聴に足を運んでくださる方のなかに、「裁判官が何を考えているのか、さっぱりわからない」「被告側もどうしてこんな事件で足踏みをしているのか理解できない」と声がある。いや、ごもっとも。
多くの方が、問題とされている私のブログを読んだうえで、「こんなことで訴えられること自体が信じられない」とおっしゃる。「そんな訴訟が簡単に終わらず、長引いていることも理解しがたい」「いったい何をやっているのか、どうもわからん」ということになる。
何が問題となっているのか、できるだけこの訴訟の構造をご理解いただけるように、私流に訴訟の全体像と現在の争点を解説をしてみたい。それでも「やっぱり、わからない」と言われるだろうと覚悟しながらである。もちろん、「わからない」とは、「論理的に理解できないということではなく、そんな理屈は納得しがたい」ということなのだが。
訴訟上の主張は、まず原告が組み立てる。本件では、原告両名(DHCと吉田嘉明)は被告(私・澤藤)の5本のブログのうちの16個所を切り出して、この「各表現が名誉毀損に当たる」とした。また、そのうちの3個所は「侮辱にも当たる」と主張している。なお、名誉毀損とは、人の社会的な評価を低下させること。侮辱とは人の名誉感情を傷つけること。
原告は、それゆえ被告ブログの表現は違法で、被告は原告らに違法に損害を与えたことになるので、民法709条の不法行為を根拠に、損害賠償(原告両名で合計金6000万円!!)を支払えという請求をしている。
問題は、私のブログの表現が違法なのかどうかである。
言うまでもないことだが、近代憲法は最も重要な基本権として「表現の自由」を掲げてきた。近代憲法の正統な承継者である日本国憲法も、第21条で表現の自由を保障している。権利として自由を保障するとは、人に迷惑をかけない範囲での行動が認められているということではない。誰をも喜ばせ、誰の毒にもならない類の甘い言論なら、自由を保障する必要はない。誰かを怒らせる言論、誰かを不愉快にし、不都合だから差し止めたいと思わせる言論であって始めて、これを権利として保障することの意味がある。
とりわけ、この世の強者である、公権力・経済的富者・社会的多数派の圧力に抗して、これを批判する言論にこそ、基本権として表現の自由を保障する必要性が大きい。また、言論のテーマとしては、何よりも民主主義的な政治過程の正常な展開に不可欠な世論形成のための国民同士の政治的情報や意見の交換の自由が不可欠である。強者を批判する自由、政治的テーマについて遠慮をせずに語る権利、それこそが言論の自由の内実であり真骨頂である。
だから、言論の自由の旗は誇らかに我が手にはためいており、私の言論は、たとえDHCや吉田が私のブログに腹を立て目くじら立てて、「社会的評価を下げられた」「名誉感情を傷つけられた」と主張しても、それだけで違法とされることはない。
しかしもう一方で、個人の尊重を第一義とする憲法が、人の名誉や名誉感情という人格上の法的利益の尊重を無視しているはずはない。
結局は、「表現する側の言論の自由」と「当該言論によって批判される側の名誉」との調整原理が必要となる。できるだけ明確で通有性のある調整の基準。そのような物差しか秤が欲しいところ。もちろん、憲法の趣旨を踏まえた妥当性の高いものでなくてはならないことが大前提だが、多様な事件ごとにバラバラの基準であっては役に立たない。無限に多様な紛争に解決の指針を指し示し、裁判所に判断を仰げば結論が見えるという、そんな基準であって欲しいものである。
名誉毀損訴訟には、一応の調整法理があるとされている。DHCスラップ訴訟の現段階は、この調整原理適用の法理をめぐっての意見の応酬がおこなわれているのだ。そうご理解いただきたい。調整原理の適用について揉めているのだから、出来のよい調整原理ではない。
これまで判例が積み重ねてきた調整原理とは、まず名誉毀損を「事実摘示型」と、「論評型」に分類する。そして、それぞれのタイプに応じた判断をすることによって、「言論の自由」と「個人の名誉」との角逐を調整している。
「事実摘示型」に分類されると、「公然と事実を摘示して人の名誉を侵害したとして原則違法」の扱いを受ける。そのうえで、当該言論が公共の利害に関する事項にかかわるもので、もっぱら公益の目的をもってなされ、かつ、当該言論の内容が主要な点において真実である(あるいは真実であると信じるについて相当な理由がある)場合には、違法性が阻却されて損害賠償の義務はない、とされる。言論者側に過重な負担が掛けられる。立証責任が果たせなければ敗訴の可能性も出て来る。
「論評型」に分類されたら、それだけで名誉毀損非成立というものではないが、名誉毀損成立の確率は限りなくゼロに近づくと言って差し支えない。
論評型の調整法理としては、英米の名誉毀損法における「公正な論評の法理(フェアコメントルール)」が知られている。公共の利害に関する事項または一般公衆の関心事である事項については、何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活曝露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正である限りは、いかにその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあっても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはない」というものである。
アメリカの判例法はさらに、この法理を発展させ、「公正」概念を「客観的公正」であることを要せず、客観的にはいかに偏見に満ち愚劣なものであっても、公共の利害関する事項について真面目な意見を表明するものであれば足りるとされる。多様な言論の並立自体を民主主義に貴重なものとする発想である。その結果、公的人物に関する論評(意見)は、およそ名誉毀損になり得ない傾向にあるとされる。
我が国の最高裁判例は、この点についてのリーディングケースとされる事件において次のように述べている。
「公共の利害に関する事項について自由に批判,論評を行うことは,もとより表現の自由の行使として尊重されるべきものであり,その対象が公務員の地位における行動である場合には,右批判等により当該公務員の社会的評価が低下することがあっても,その目的が専ら公益を図るものであり,かつ,その前提としている事実が主要な点において真実であることの証明があったときは,人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り,名誉侵害の不法行為の違法性を欠くものというべきである。」(長崎・通知表不交付批判ビラ配布事件)
また、最近話題となった小沢一郎の「マンション『隠し資産』報道」事件に関して、東京地裁判決は(高裁もだが、判決が公刊されていない)、記事を掲載した週刊現代(講談社)側の主張を容れて、原告の損害賠償請求を棄却した。その「判例タイムズ」での判決紹介の見出しが「批判の週刊誌記事が、意見ないし論評の表明であるとして、いわゆる『公正な論評』の法理により違法性を欠くとされた事例」というものである。
同事件では、原告側は、週刊誌の記事・見出し・広告を「事実を摘示して原告の名誉を毀損した」と主張した。しかし、判決は「評価について原告と被告の見解が異なるにすぎない」「本件記事は、事実の摘示を含むものとは言えない」「あり得る見方を示す表現の一つにすぎないというべきであり、事実を摘示したものとみることは相当でない」と判断している。
こうなれば結論は目に見えている。
「本件記事は、その性質上、公共の利害に関する事項に係ることは明白であり、記載の内容からみて、専ら公益目的に出たものと認めることができる上、意見の前提とされた具体的な事実の重要な部分が真実であることは明らかでありかつ、論評としての域を逸脱していないというべきであるから,これが違法であるとする原告らの主張は失当である。」
おそらくは、DHCスラップ訴訟・澤藤事件判決も同様のパターンになるものと考えられる。今は、明確な論評型への分類に、裁判所が踏み切る前段階なのだ。
ここで、DHCスラップ訴訟を許さないシリーズの第1弾の一部を再掲したい。
私は改憲への危機感から「澤藤統一郎の憲法日記」と題する当ブログを毎日書き続けてきた。憲法の諸分野に関連するテーマをできるだけ幅広く取りあげようと心掛けており、「政治とカネ」の問題は、避けて通れない重大な課題としてその一分野をなす。そのつもりで、「UE社・石原宏高事件」も、「徳洲会・猪瀬直樹事件」も当ブログは何度も取り上げてきた。その同種の問題として「DHC・渡辺喜美事件」についても3度言及した。それが、下記3本のブログである。
https://article9.jp/wordpress/?p=2371
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
https://article9.jp/wordpress/?p=2386
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
https://article9.jp/wordpress/?p=2426
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
是非とも以上の3本の記事をよくお読みいただきたい。いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」ことへの批判を内容とするものである。
読者の皆さまに、民事陪審員となったつもりでご判断いただきたい。名誉毀損訴訟における調整法理などといっても、所詮は結論を決めてからの説明の枠組み。大切なのは、私のブログの言論を違法と葬ってもよいのかという問いかけである。
政治的言論、政治とカネにまつわる言論、規制緩和に関する言論、経済的強者を批判し、民主主義の要諦を衝く言論を違法として、民主主義が成立するだろうか。
ご支援を御願いしたい。
(2015年2月23日)
私が被告になっているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論が近づいてきました。日程をご確認のうえ、是非傍聴にお越しください。
2月25日(水)午前10時30分? 口頭弁論期日
東京地裁631号法廷(霞ヶ関の地裁庁舎6階南側)
同日11時00分? 弁護団会議兼報告集会
東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)
今回の法廷では、前回期日での裁判長からの指示に基づいて、
被告が再度の主張対照表を提出し、原告が被告の準備書面3・4に対する反論の準備書面を陳述の予定です。
法廷終了後の報告集会兼弁護団会議は、東京弁護士会館507号室で、11時?13時の時間をとっていますが、実際には正午少し過ぎくらいまでになると思います。
報告集会の予定議事は次のとおりです。
☆弁護団長の進行経過と次回以後の展望の説明。
裁判所の求釈明の趣旨と本日陳述の準備書面の内容
当日の法廷を踏まえて、次回以後の審理の展望
☆ミニ講演 「スラップ訴訟と表現の自由」
内藤光博専修大学教授
☆議事1 審理の進行について
本日までの審理の経過をどう見るか。
今後の主張をどう組み立てるか。
☆議事2 DHCスラップ訴訟第1号・折本判決(1月15日・地裁民事30部)をどう評価し、本件にどう活用するか。他事件被告弁護団との連携をどうするか。
☆議題3 今後の立証計画をどうするか。
☆議題4 反訴の可否とタイミングをどうするか。
☆議題5 マスコミにどう訴え、どう取材してもらうか
☆議題6 同種の濫訴再発防止のために何をすべきか
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本件はいくつもの重要な意義をもつ争訟となっています。
(1) まず何よりも、憲法21条によって保障されている「表現の自由」が攻撃されています。この訴訟は、不当な攻撃から表現の自由を守る闘いにほかなりません。
しかも、攻撃されている表現は、典型的な政治的言論です。仮に、いささかでも被告の表現が違法とされるようなことがあれば、およそ政治的言論は成り立ち得ません。
(2) 本件で攻撃の対象とされた表現の内容は「政治とカネをめぐる問題」です。具体的には、「大金持ちが、金の力で政治を左右することを許してはならない」とする批判の論評(意見)です。現行法体系における政治資金の透明性確保と上限規制の重要性が徹底して論じられなければなりません。
(3) しかも、原告の攻撃の直接的対象は、8億円という巨額の金員拠出の意図ないし動機を厚生行政の規制緩和を求めてのものとした常識的な批判なのです。厚生行政における対業者規制は、国民の生命や健康に直接関わる、国民生活の安全を守るために必要な典型的社会的規制です。安易な規制緩和を許してはなりません。行政の規制緩和を桎梏と広言する事業者に対する消費者(国民)の立場からの批判の封殺は許されません。
(4) さらに、言論封殺の手法がスラップ訴訟の提起という、訴権の濫用によることも大きな問題点です。経済的強者が高額請求の訴訟提起を手段として、私人の政治的言論を封殺しようとする憲法上看過できない重大問題を内包するものです。これを根絶し、被害を出さないためにどうすべきかをご一緒に考えたいと思います。
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以上のような、意義ある訴訟の舞台設定は、DHC・吉田側が作ってくれたものです。このせっかくの機会を生かさない手はありません。上記(1)の表現の自由は訴訟の結果としての判決で実現するとして、(2) 以下の各問題については、明らかになった問題点を世に大きく訴え、世論の力で制度改革に繋げたいと願っています。
その第1は、(2)の「政治とカネをめぐる問題」です。DHC吉田は、「政治資金に使われると分かりながら資金提供したことについての道義的責任」に関して、「献金なら限度額が法で定められておりますが、貸金に関してはそういう類の法規制はありません。借りた議員がちゃんと法にのっとって報告しておれば何の問題もないのです」と言っています。もし、そのとおりなら、この事件は政治資金規正法の欠陥が露呈したことになります。金力の格差が政治を歪めてはならないとする民主主義の大原則にも、政治資金規正法の趣旨にも反する脱法についての開き直りを許さないために、法改正を目ざさなくてはなりません。
今、西川農相への複数の献金問題が話題を呼んでいます。そのうちの一つが、農林水産省から補助金交付の決定を受けていた精糖工業会からの献金。これを追求された農相と政権は、「精糖工業会そのものからの献金ではなく、会が入っているビルの管理会社(精糖工業会館)からの献金だから問題ない」と言っています。これも明らかな脱法行為。「こんな脱法が許されれば、誰もが真似をして法は骨抜きとなる」と、厳しく野党からの追及を受けています。
DHC吉田から渡辺に渡ったカネも同じ。「献金ではなく貸金だから、いくら巨額になっても無制限の青天井」では、「こんな脱法が許されれば、誰もが真似をして法は骨抜きとなる」と、厳しく追及を受けねばなりません。脱法を防ぐ法改正が必要なのです。
また、(3)サプリメントの規制緩和問題についても、(4)目に余るスラップ訴訟防止の方策についても、まずはその弊害の実態をよく認識し、その上で知恵を出し合いたいと思います。
是非、次回法廷のあとの報告集会にご参加いただき、意見交換に加わっていただくよう、お願いいたします。
(2015年2月21日)
毎日新聞の「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、本日(2月10日)掲載の末尾18句目に
民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。
その民意反映句として、第4句に目が留まった。
出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
思わず膝を打つ。まったくそのとおり。
過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)
選に洩れた「没句供養」欄の
献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という秀句も面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。
国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。
刑法の賄賂罪における「賄賂」とは、金品に限らない。「有形無形を問わず、いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益を包含する」という定義が大審院以来の定着した判例である。もちろん、「融資」や「貸付」も、「人の需要を満たすに足りる利益」として当然に賄賂たりうる。巨額、無担保、低利であればなおさらのことである。
DHCの吉田嘉明から、「みんなの党」の党首・渡辺喜美(当時)に渡ったカネは、吉田自身が手記に公表した限りで合計8億円。本当に貸したカネなのか呉れてやったカネではないのかはさて措くとしても、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」に当たること、「いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。
前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この8億円は「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「堂々と公表される無償の政治献金」と、「私益を求めてこっそり裏で授受される汚い賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。
原告DHC側の完敗となった1月15日言い渡しの「DHC対折本弁護士」事件判決でも、このことが論じられている。少し詳しく書いておきたい。
原告は折本ブログの次の5個所を名誉毀損の記述と特定した。
?「報道によると,徳洲会の場合,東電病院に絡んだ話なんかもあったし,DHCについても,薬事法の規制に不満を待っていたという話もあるようだが,やはり,何らかの見返りを期待,いやいや,期待どころか,約束していたのではないかと疑いたくなるところだ。」(献金が無償の愛のはずがない)
?「常識的にみて,生き馬の目を抜くようなビジネスの世界でのし上がって来た叩き上げの商売人が,ただ単に政治家個人を応援する目的で多額の金を渡すということは考えにくいからなおさらだ。」(超ケチな社長が献金する理由)
?「おそらく,現実には,金をもらった時点でただの野党の党首にすぎない渡辺喜美については,職務権限という収賄罪の構成要件がクリアされないだろうから,この事件が贈収賄に発展する可能性は低いと思うが,それはそもそも,日本の贈賄罪,収賄罪の網掛けが不十分であり,また,構成要件が厳しすぎるからなのだ。」(献金も 平たく言えば 賄賂なり)
?「だが,ちょっとうがった見方をすれば,当時党勢が上げ潮だったみんなの党が選挙で躍進してキャスティングボードを握れば,政権与党と連立し,厚生労働省関係のポストを射止めて,薬事法関係の規制緩和をしてもらう,とまあ,その辺りを期待しての献金だった可能性だってないとはいえないだろう。」(出すほうは賄賂のつもりだよ献金)
?「まあ,本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが,実際,大企業の企業献金も含めて,かなりのものが何らかの見返りを求めてのものであり,そういった見返りを求めての献金は,実質的には『賄賂』だと思うのだ。」(献金と賄賂の違い霧と靄)
以上の折本ブログの記事について、原告DHC側は、次のとおりに主張した。
「原告吉田が,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下,渡辺に対して8億円を貸し付けたとの事実を摘示しており,この貸付けが何らかの見返りを求めてのものであって贈収賄の可能性があり,実質的には賄賂である旨の法律専門家である弁護士としての法的見解を表明するものであって,原告吉田の社会的評価を低下させている。」
判決は、この原告主張を一蹴して、次のように判示した。
「まず,本件記述?,?及び?は,本件金銭の交付の事実を前提として,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下で,又は見返りを期待して,本件金銭の交付がされたとの疑いを指摘するものであり,上記約束や見返りの存在を明示的に摘示するものでない。しかも,その記述の仕方や表現方法をみても,そのような疑いが,原告会社が薬事法の規制に不満があることや単に政治家個人を応援するという目的だけで多額の献金をすることは考え難いこと等の外形的な事情による被告の推測に基づくものであると読み取ることができ,また,本件各記述においては,『疑いたくなるところだ』,『可能性だってないとはいえないだろう』,『本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが』等の断定を避ける表現が繰り返し使用され,本件記述?と?の間には,政治思想を同じくする渡辺に協力する目的で原告吉田が献金した可能性にも言及されるなど原告吉田の主張に沿う見方も指摘されていること(甲2)からすれば,本件記述??及び?が,上記約束や見返りの存在について暗示的にも断定的に主張するものと認めることはできない。
「そうすると,被告は,弁護士ではあるものの,一私人にすぎず,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述?,?及び?に記述された疑いは,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められないのであるから,それによって,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない。」
「本件記述?は,上記約束や見返りの存否とは異なる職務権限の要件を理由にして,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性が低いこと等を指摘するものであり,また,本件記述?は,見返りを求めてされる政治献金一般に対する被告の論評ないし意見を表明しているにすぎないところ,前記判示のとおり,本件記述?,?,?及び?が,原告ら主張に係る事実を摘示するものでないなどの前後の文脈も併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述?及び?が,上記約束や見返りの存在を前提としているものとして読み取られると認めることはできない。」
「また,本件記述?及び?は,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性を何ら指摘するものではないし,本件記述?での実質的に賄賂であるとの意見についても,飽くまで何らかの見返りを求めてされる政治献金一般に対して述べられたものであり,本件金銭の交付については,前記のとおり,規制緩和の約束や見返りという事実の存在を前提としていないのであるから,本件金銭の交付が実質的に賄賂であるとの意見が表明されているものとして読み取られると認めることもできない。」
「以上によれば,原告らの上記の主張は採用できない。」
判決は、当該言論の「公共性」「公益性」「真実(相当)性」など違法性阻却事由有無の議論に踏み込むことなく、「そもそも名誉毀損言論ではない」と切って捨てたのだ。これは言い渡し裁判所の見識というべきであろう。
判示の中で、最も重要で普遍性のある判断は、「被告(折本弁護士)が,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述の『疑い』は,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められない」「だから,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない」という説示部分である。
もちろん、「社会的評価が低下したと認めることはできない」とは、明示されてはいないものの「法的な救済を必要とするほどの」という限定が付されている。厳密な意味で、「折本ブログが何の社会的影響も与えるものではなかった」「原告にとって痛くも痒くもない」と言っているわけではない。
語尾を疑問形にしようと断定調にしようとも、論評は論評であり、「疑い」は一つの見方の提示以上のなにものでもない。それを法的に「社会的評価が低下した」とは言わないのだ。
だから、遠慮なく民意は語られてよいのだ。「出すほうは賄賂のつもりだよ献金」「献金も 平たく言えば 賄賂なり」と言って誰にも文句を言われる筋合いはない。なんと言っても、「献金が無償の愛のはずがない」のであり、「超ケチな社長が献金する理由」は見え見えで、「献金と賄賂の違い霧と靄」なのだから。
これを、目くじら立てて咎め立てするのは、やましいところあって、自分のことを貶められたかと心穏やかではいられないからなのではないか。不粋という以外に形容する言葉が見つからない。ましてや、スラップとして高額損害賠償の提起においてをやである。
なお、DHCと吉田は対折本弁護士事件判決を不服として控訴したとのこと。恥の上塗りを避けて控訴を断念し潔く負けを認めて謝罪することこそが、傷を浅く済ませる賢明な策だと思うのだが。
(2015年2月10日)
本日(1月15日)午後1時10分、東京地裁611号法廷で、民事第30部(本多知成裁判長)が「DHCスラップ訴訟」での第1号判決を言い渡した。この事件の被告は、横浜弁護士会所属弁護士の折本和司さん。私同様の弁護士ブロガーで、私同様に8億円を政治家に注ぎこんだ吉田嘉明を批判して、2000万円の損害賠償請求を受けた。
予想のとおり、本日の「DHC対折本」訴訟判決は、請求棄却。しかも、その内容において、あっけないくらいの「原告完敗」「被告完勝」であった。まずは、目出度い初春の贈り物。判決を一読すれば、裁判所の「よくもまあ、こんな事件を提訴したものよ」という言外のつぶやきを行間から読み取ることができよう。「表現の自由陣営」の緒戦の勝利である。スラップを仕掛けた側の大きな思惑外れ。
判決は争点を下記の4点に整理した。この整理に沿った原被告の主張の要約に4頁に近いスペースを割いている。
(1)本件各記述の摘示事実等による社会的評価の低下の有無(争点1)
(2)違法性阻却事由の有無(争点2)
(3)相当因果関係ある損害の有無(争点3)
(4)本件各記述削除又は謝罪広告掲載の要否(争点4)
そして、裁判所による「争点に対する判断」は実質2頁に過ぎない。その骨子は、「本件各記述が原告らの社会的評価を低下させるとの原告らの主張は採用できない」とし、「そうすると、原告らの請求は、その余の争点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これらを棄却する」という、簡潔極まるもの。4つのハードルを越えなきゃならないところ、最初のハードルでつまずいて勝負あったということ。第2ハードル以下を跳ぶ権利なし、とされたわけだ。原告側には、さぞかしニベもない判決と映ったことだろう。
折本弁護団は勝訴に際してのコメントを発表した。要旨は以下のとおりである。
折本弁護士のブログは、「DHCの吉田会長が、みんなの党代表渡辺喜美氏に8億円を渡した」という、吉田氏自身が公表した事実を摘示した上で、日本における政治と金の問題という極めて公益性の高い問題について、弁護士の視点から疑問を指摘し、問題提起を行ったものにすぎない。
その記載が名誉毀損にならないものであることは、ブログを読めば一目瞭然であるし、本日の判決も名誉毀損に当たらないことを明確に判断した。
もしもこの記載に対する反論があるならば、正々堂々と言論をもってすれば済むことであるしそれは週刊誌という媒体を通じて自らの見解を公表した吉田氏にとっては容易いことである。にもかかわらず、吉田氏は、言論をもって反論することを何らしないまま、同氏及び同氏が会長を務める株式会社ディーエイチシーをして、折本弁護士に対していきなり合計2000万円もの慰謝料請求を求める訴訟を提起するという手段に出たものである。これは、自らの意見に批判的な見解を有するものに対して、巨額の慰謝料請求・訴訟提起という手段をもってこれを封じようとするものであると評価せざるを得ず、言論・表現の自由を著しく脅かすものである。
かかる訴訟が安易に提起されること自体、言論・表現活動に対する萎縮効果を生むのであり、現に、同氏及び同社からブログの削除を求められ、名誉毀損には当たらないと確信しつつも、不本意ながらこれに応じた例も存在する。
吉田氏及び株式会社ディーエイチシーは、折本弁護士に対する本件訴訟以外にも、渡辺氏に対する8億円の「貸付」について疑問・意見を表明したブログ等について、10件近くの損害賠償請求訴訟を提起している。これらも、自らの意見に沿わない言論に対して、自らの資金力を背景に、訴訟の脅しをもってこれを封じようとする本質において共通のものがあると言わなければならない。
当弁護団は、吉田氏及び株式会社ディーエイチシーが、本日の判決を真摯に受け止めるとともに、同種訴訟についてもこれを速やかに取り下げ、言論には言論をもって応じるという、言論・表現活動の本来の姿に立ち返ることを求めるものである。
2時半から、記者クラブで折本さんと折本弁護団が記者会見を行った。
小島周一弁護団長から、「原告からは人証の申請もなく、判決言い渡しの法廷には原告代理人の出廷もなかった。訴訟の進行は迅速で、第3回口頭弁論で裁判長から結審の意向が明示され、慌てた被告側が原告本人の陳述書を出させてくれとして、第4回期日を設けて結審した。この訴訟の経過を見ても、本件の提訴の目的が本気で勝訴判決をとることにあったとは思えない。表現行為への萎縮効果を狙っての提訴自体が目的であったと考えざるをえない」
「DHCと吉田氏は本日の判決を真摯に受け止め、同種訴訟についても速やかに取り下げるよう求める。」
折本さんご自身は、「弁護士として依頼者の事件を見ているのとは違って、自分が当事者本人となって、この不愉快さ、気持の重さを痛感した」「DHC側の狙いが言論の封殺にあることが明らかなのだから、これに負けてはならないと思っている」とコメントした。
引き続いて、山本政明弁護士の司会で澤藤弁護団の記者会見。山本さんの外には、光前幸一弁護団長と神原元弁護士、そして私が出席し発言した。光前弁護士から、澤藤事件も折本事件と基本的に同様で、言論封殺を目的とするスラップ訴訟であることの説明がなされた。そして最後を「これまでの表現の自由に関する最高裁判例の主流は、判決未確定の刑事被告人の罪責を論じる言論について、その保護の限界に関するものとなっている」「本件(澤藤事件)は、純粋に政治的な言論の自由が擁護されるべき事案として判例形成を目指したい」と締めくくった。
私が事件当事者としての心情を述べ、最高2億から最低2000万円の10件のDHCスラップ訴訟の概要を説明した。神原弁護士からは、植村事件との対比でDHCの濫訴を批判する発言があった。
澤藤弁護団の記者会見は初めての経験。これまで、フリーランスの記者の取材はあっても、マスメディアに集団で報告を聞いてもらえる機会はなかった。
私がまず訴えたのは、「今日の折本事件判決が被告の完勝でよかった。もし、ほんの一部でも原告が勝っていたら、言論の自由が瀕死の事態に陥っていると言わなければならないところ。私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも注目していただきたい。
ぜひ、若手の記者諸君に、自分の問題としてお考えいただきたい。自分の記事について、個人として2000万円あるいは6000万円という損害賠償の訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、具体的に把握していただきたい。
スラップ訴訟は、今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。
(2015年1月15日)
明日(1月15日)午後1時10分、東京地裁611号法廷で、民事第30部(合議係)が「DHCスラップ訴訟」での第1号判決を言い渡す。
DHCはサプリメントや化粧品の製造販売を主たる業とする非上場株式会社。吉田嘉明はそのオーナー会長である。昨年の3月末、自ら週刊誌(「週刊新潮」4月3日号)に手記を発表して、みんなの党・渡辺喜美への政治資金8億円拠出の事実とその経過を曝露した。多くのメディアが、渡辺喜美バッシングに走ったが、吉田自身の責任を追及する声もあがった。吉田はそのうちの少なくとも10件の記事を名誉毀損として、東京地裁に謝罪要求や損害賠償請求の訴訟を提起した。それだけでなく、件数はよくわからないが、民事訴訟提起をちらつかせて少なからぬ数のネット記事の抹消請求をして回ってもいる。
東京地裁への10件の提訴は、明らかに自己の行為への批判の言論を嫌忌してこれを封殺しようとするものである。この種の訴訟を「スラップ訴訟」という。民事訴訟の提起は国民としての権利の行使だという反論はあろう。しかし、経済的強者が、訴訟にかかる経費などは度外視して、自分を批判する記事の執筆者に巨額の金銭請求をするのだ。賠償請求額は最も低額なもので2000万円、最高額は2億円である。パリでは言論の自由が銃弾で攻撃された。ここ日本では、スラップ訴訟が銃弾に代わる役割を果たそうとしている。私は2000万円で提訴され、ブログで提訴自体の批判を続けたために、今では6000万円の請求を受けるに至っている。このような面倒な事態を避けるために、批判の筆を抑えようと考えてはならない。多くの人々が、「DHCや吉田に対する批判は避けた方が賢明だ」と考えるようになったら、それこそ彼らの思う壺なのだから。
この10件のスラップのうち、1件は取り下げで終了している。残る9件のうちの第1号判決が明日言い渡しとなる。被告は横浜弁護士会所属の弁護士である。私同様、ブログで「DHC8億円事件」について、吉田の責任に関わる意見を表明して、これを名誉毀損とされたものである。
名誉毀損とされたのは、同弁護士の2014年3月29日付のブログ。「渡辺喜美が受け取った8億円の意味」と標題がつけられているもの。かなり長文だが、要点を抜粋してみる。これで全体を判断することに危険は残るが、十分に大意を掴めるとは思う。
「みんなの党の渡辺喜美が、DHCの会長から、総額8億円を受け取っていたというニュースが流れた。このお金は、3億円と5億円に分かれていて、両方とも選挙の前に渡辺喜美の側の要請に基づいて渡されたという。しかし、渡辺喜美の収支報告書には、このDHCの会長からのお金は載っていないのだ。
徳洲会にしろ、DHCの会長にしろ、そんな多額のお金を政治家に渡すのは、何のためなのか?…ただ単に政治家個人を応援する目的で多額の金を渡すということは考えにくい…。
(渡辺)本人は、あくまで、個人的な貸し借りだとするが、これは、そういうことでないと政治資金規正法や公職選挙法との関係でアウトになってしまうわけで、金額からしても、嘘臭いというほかないだろう。だが、DHCの会長側は「選挙のための資金」との認識を示しており、金が渡されたタイミングからしても、「個人的な」「貸し借り」という説明は筋が通らないように見える。
DHCの会長が渡したとする5億円については、借用証はないという。…収支報告書にも載らない、借用証もない、そんなお金が、本当に「貸し借り」なのだろうか?この点、渡した方、受け取った方の両者が口を揃えて、「貸し借り」だと言っているのだが、安易に鵜呑みにしてはいけないところだ。なぜならば、仮に、政治活動のための寄付ということであれば、資金管理団体を通していないから、渡した側にも微妙な問題が生じることになるからだ。
うがった見方をすれば、当時党勢が上げ潮だったみんなの党が選挙で躍進してキャスティングボードを握れば、政権与党と連立し、厚生労働省関係のポストを射止めて、薬事法関係の規制緩和をしてもらう、とまあ、その辺りを期待しての献金だった可能性だってないとはいえないだろう。
断定的なことはいえないが、実際、大企業の企業献金も含めて、かなりのものが、何らかの見返りを求めてのものであり、そういった見返りを求めての献金は、実質的には「賄賂」だと思うのだ。しかし、これが、刑法上の贈収賄にならないどころか、おおっぴらに横行してしまっているのが、今の日本の実情だ。」
以上のブログの指摘は極めて常識的で真っ当なものではないか。これをしも違法ということになれば、ものが言えない社会の到来といわざるを得ない。
この弁護士ブロガーは、吉田の行為は実質的に違法との認識を示しながらも、現状では法的責任の追求がなかなかに困難な実情を語っている。
実は、ある雑誌の編集部から吉田に対して昨年4月21日付けの文書による問合せがなされている。そのなかに「吉田会長は政治資金に使われると分かりながら資金提供をされましたが、その資金提供が原因で渡辺氏は本人の意思で党代表を辞任しました。資金提供をされた側として道義的責任をどうお考えでしょうか」という質問事項がある。
問われているのは、巨額のカネで政治がうごかされることを防止しようとする政治資金規正法の趣旨僣脱に関する道義的責任である。当然のことながら、一握りの金持ちの資金によっ政治が左右されてはならない。だから政治献金額には明確な上限規制があり歯止めがかけられている。それが、いかに巨額でも貸金なら問題はないと思うのか、道義的責任を感じないのか、という問合せである。渡辺だけに責任をとらせて、自分の道義的責任についてはどう考えるのか、と問われてもいる。
これに対する吉田の回答が次のとおりである。
「政治資金に使われるとわかりながら資金提供したから道義的責任は感じないのかと、あなたはおっしゃっています。献金なら限度額が法で定められておりますが、貸金に関してはそういう類の法規制はまったくありません。」
彼のアタマには、法的責任だけがあって、道義的責任の言葉はなきがごとくである。法をかいくぐりさえすれば、道義などには関心がない、と言っているのだ。
その彼が回答書の最後を、次のように締めくくっている。
「返済されないかも知れない浄財を、ただ国家のためだけを思い、8億円も投げ出す勇気と大義をあなたはお持ちでしょうか」
おや、貸し借りのはずではなかったの? 私の論評はこれ以上は敢えて差し控えよう。諸賢はこの吉田の言をどう読むだろうか。
以上のやり取りは、10件の訴訟のうち取り下げとなった1件の訴訟で、被告側が提出した書証の一部である。
さて、私が把握している限りだが、「DHCスラップ訴訟」10件は以下のとおりである。すべて、原告は吉田嘉明とDHC。そして、代理人弁護士は、今村憲、山田昭、木村祐太の3名である。
(1)提訴日 2014年4月14日 被告 ジャーナリスト
請求金額 6000万円
訴えられた記事の媒体はウェブサイト
(2)提訴日 2014年4月16日 被告 経済評論家
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体はインターネット上のツィッター
(3)提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(澤藤)
請求金額 当初2000万円 後に6000万円に増額
訴えられた記事の媒体はブログ。
(4)提訴日 2014年4月16日 被告 業界新聞社
請求金額 当初2000万円 後に1億円に増額
訴えられた記事の媒体はウェブサイトと業界紙
(5)提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士
(2015年1月15日一審判決予定)
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体はブログ
(6) 提訴日 2014年4月25日 被告 出版社
請求金額 2億円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(7) 提訴日 2014年5月8日 被告 出版社
(2014年8月18日 訴の取下げ)
請求金額 6000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(8) 提訴日 2014年6月16日 被告 出版社
請求金額 2億円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(9) 提訴日 2014年6月16日 被告 ジャーナリスト
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
(10) 提訴日 2014年6月16日 被告 ジャーナリスト
請求金額 4000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
常軌を逸した、恐るべき濫訴と評せざるを得ない。
名誉毀損とされている各記事の内容は大同小異。「見返りへの期待なしに大金を出すことは常識では考えられない」「8億円の政治資金拠出ないし貸付は、厚生労働行政の規制緩和を期待してのことであろう」「政治資金規正法を僣脱するかたちでの金銭授受には問題がある」としたうえ、「DHC・吉田の行為は、金の力で民主主義的政治過程を歪めるもの」との批判を中心としたもの。典型的な政治的言論なのである。
しかも、いずれも原告が自ら公開した週刊誌の手記の記載に基づいて、誰もが考える常識的な推論を述べているに過ぎない。一部に政治的な言論の範疇にない吉田やDHCの素行についての論及も散見されるが、目くじら立てるほどのものではない。
さて、明日の判決。訴訟進行の経過から見て、請求棄却の判決となることは間違いがない。そして、こんな訴訟を提起したDHCと吉田嘉明やこれを補佐した者たちの責任も追及されなければならない。
判決の内容は明日のブログでご報告したい。
(2015年1月14日)