澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

スラップ訴訟被害者よ、団結しよう。?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第14弾

最近、スラップ訴訟被害者の述懐に目が行く。とてもよく分かる。口を揃えて「頭の中が常に裁判のことばかりで気持ちが落ちつかない」と言う。また、「応訴費用の負担がきつい」とも、「訴訟準備に忙殺されて仕事に支障が及ぶのが辛い」とも言う。おそらくは、「応訴がこんなに面倒なら少し筆を控えればよかった」という思いを振り払いながら、耐えているのだろう。

私は、スラップ被害者としてはもっとも恵まれた立ち場だろう。弁護団員も100人を超えた。カンパも順調に集まっている。多くの人が、澤藤個人のためではなく、言論の自由や民主主義のために、心底怒って支援を惜しまない。何とありがたいことかと思う。しかし、その私でさえ被告になったことの煩わしさにはうんざりすることが度々。少し筆を抑えようかという気持ちと、それではいけないという気持ちに揺れたりもする。一刻も早く被告の座から解放されたいとの気持ちは隠せない。

それでも自分を励まして、当ブログを通じてスラップに萎縮していないことをアピールしつつ、スラップ訴訟への警戒心を多くの人に呼び掛けるとともに、反スラップの世論を盛り上げたいと念じている。そのことを通じて、表現の自由と民主主義の擁護に寄与したいと思う。その思いから、多くのスラップ被害者に連携を呼び掛けたい。知恵を共有し、力を合わせることによって、一つ一つのスラップ訴訟に勝ち抜き、言論の自由を封殺するスラップを撲滅しようではないか。

今既に、アメリカの約30の州には「反スラップ法」があるという。その法によって、スラップ被害から市民やジャーナリストを救済する制度が確立しており、抑制の効果も出ていると聞く。その制度のない我が国では、まずは訴権の濫用による訴えの却下によって、被告の座からの早期解放の実現を求める試みが行われてしかるべきであろう。以下、このことについて、述べたい。

私は「DHC・渡辺喜美」事件について、私の意見を3度ブログに書いた。その趣旨は、「カネで政治が動かされてはならない」「政治資金の動きは透明でなくてはならない」という至極常識的で、真っ当な政治的見解である。卓見でもなく、オリジナリティもないが、このブログでの表現内容は、紛れもなく政治的言論であって、政治的言論を離れた人格攻撃などという色彩はまったくない。

DHCとその代表者には、その政治的言論が気に入らなかった。言論の中にある批判が、真っ当なだけに痛かったのだろう。しかし、言論が気に入らなくても、耳に痛くても、それを封殺することは本来なしえない。私の政治的言論の自由が憲法で保障された基本的権利である以上は、甘受せざるを得ないのだ。

あらためて確認しておこう。人に迷惑の及ばないことができるというだけのことを麗々しく「権利」とは言わない。人を褒める権利、人におもねる権利などは、意味をもたない。そんなものは、そもそも権利の名に値しない。人に迷惑かけても、人が嫌がっても、場合によっては具体的な被害を与えても、その被害の受忍を要求できることが「権利」の権利たる所以なのだ。

自由というのも同じこと。他人の自由や権利や利益と衝突しない自由は、無意味な自由に過ぎない。他人の自由や権利や利益と衝突してなお、自分の思うとおりに振る舞えるのが憲法の保障する「自由」である。

私に、DHCとその代表者を批判する権利があるということ、批判の言論の自由があるということは、批判される側の不愉快の感情を押し切る権利であり、自由であるのだ。

もっとも、普通の社会生活を送っている一般人が、他人からの面と向かっての批判を甘受しなければならない場面は想定しがたい。言論による批判を甘受しなければならないのは、原則として、権力や経済力を持って社会に影響力を持つ人だけである。それが、民主主義社会のルールである。

天皇、首相、大臣、国会議員、政治家、高級官僚、大企業幹部などが、その典型として言論による批判を甘受しなければならない人たち。とすれば、DHCとその代表者はどうであろうか。明らかに「一般人」ではあり得ない。日本有数の大企業経営者として社会的な影響力を持っていることから、批判の言論に対してその地位にふさわしい受忍義務(我慢しなければならないこと)の負担を負うと言わねばならない。

さらに強調しなければならなことがある。DHCの代表者は、多額のカネを政治に注ぎこんだのである。しかも、不透明極まる態様において。具体的には、DHCの代表者が、みんなの党の党首渡辺喜美に届出のないカネを渡した瞬間に、DHCの代表者は、公務員や政治家と同等に、国民からの徹底した批判を甘受すべき立ち場となった。公人に準ずる立場に立ったものというべきである。

このような立場の者に対しての国民の批判の言論は、最大限に保障されなければならない。このような人物は、公人と同様に批判の論評を真摯に受けとめ、節度をもって対応しなければならない。

にもかかわらず、直情的に提訴に至ったのは軽挙妄動と評せざるを得ない。この軽挙こそがスラップである。提訴自体が、私の政治的言論に対する攻撃である。このような提訴は、訴権の濫用の典型例というべきである。訴えを起こすことが国民の権利ではあっても、このような政治的言論に対する攻撃を意図し、萎縮効果を狙ったことが明らかな提訴は、訴権の濫用として実体審理に踏み込むことなく却下すべきである。かくして、スラップ訴訟の被害者は早期に被告の座から解放されることになる。
(2014年8月4日)

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スラップ訴訟は両刃の剣?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第13弾

とりあえずスラップ訴訟を、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、運動や言論の弾圧あるいはその萎縮効果を狙っての不当な提訴」と定義する。運動弾圧型と言語的表現弾圧型に分類することが、応訴するものにとって意味のあるものであろう。

恫喝訴訟・威圧目的訴訟・いじめ提訴・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。個別具体的にはもっとふさわしいネーミングが選択できそうだ。業務妨害目的訴訟・労働運動潰し訴訟・公益通報報復訴訟・市民運動制圧訴訟、批判拒否体質暴露訴訟…。

損害賠償請求の形態を取るスラップは、運動や言論への萎縮効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできるのだ。

かつて、武富士が「週刊金曜日」とフリーのルポライター三宅勝久に対して、スラップをかけたとき、当初の請求額は5500万円だった。それを、一審係属中に1億1000万円に請求を拡張している。

このときの口頭弁論期日に、裁判長福田剛久は原告側に「損害賠償の請求拡張はこれでおしまいですか」と聞いている。これに対する武富士代理人弘中惇一?の回答は、「ええ、連載が続かない限り」というものだった。「週刊金曜日誌上に武富士批判の連載が続くようなことがあれば、さらに増額する」という含みの発言なのだ。自ら、言論封殺の意図を明らかにしたものと言ってよい。この企業ありてこの弁護士なのである。

このような訴権の濫用は、スラップ提訴者にとっても両刃の剣である。客観的に見て品の悪いやり方であることこの上ない。古来、「金持ち喧嘩せず」なのだ。権力や経済力を持つ者には、鷹揚に批判に耐える姿勢が求められる。批判の言論にいちいちムキになっての提訴は、それ自体みっともない。のみならず、社会的強者には批判の言論を受忍すべき義務が課せられる。批判拒絶体質丸出しのスラップは、自らのイメージを壊す行為であるだけでなく、受忍義務を敢えて無視したことにおいて違法の評価を受けざるを得ない。

また、社会がすっかり忘れてしまったことを、提訴を契機にあらためて思い起こさせる逆効果もある。この場合、スラップの対象となった言論がよく効いて、しっかり痛みを感じさせていることを社会にアピールすることにもなる。

それでも、勝てればまだまし。敗訴の場合には目も当てられなくなる。スラップを濫発した武富士の場合はどうだったか。

被告にされた言論のうち主なものは、「サンデー毎日」、「週刊金曜日」、「週刊プレーボーイ」、「武富士の闇を暴く」、「月刊ベルダ」、「月刊創(つくる)」の6誌。このうち、「サンデー毎日」、「週刊プレーボーイ」、「月刊ベルダ」、「月刊創」の4誌に関しては、「武富士が盗聴をしている」という記事を中心に、武富士と警察の癒着関係を報じた記事が槍玉に挙げられた。武富士は、この盗聴の記事を事実無根として激怒し拳を振り上げたとされていた。

ところがどうだ。スラップ訴訟係属中に、思いがけなくも武富士の盗聴が明るみに出た。内部告発によるものだった。そして、サラ金の帝王といわれていた武井保雄本人の逮捕という劇的な展開となった。こうして、武富士スラップのうち、盗聴記事関係事件は、訴訟の進行を停止してバタバタと解決した。(「サンデー毎日」訴訟だけは、武井逮捕以前に取り下げと同意によって終了している)

『月刊ベルダ』をめぐる件では、武富士が謝罪し650万円を支払うことで出版社のベストブックと和解、ライターの山岡俊介には本訴請求を放棄し反訴請求を認諾することで訴訟が終了した。「週刊プレーボーイ」訴訟では、反訴がなかったので、原告の請求放棄で終わった。

「創」をめぐる訴訟は、さらに劇的な終わり方となった。3名の被告(創出版・山岡俊介・野田敬生)に対する本訴請求をすべて放棄し、反訴を認諾または主張を認めて和解金を支払った。特筆すべきは武富士は、次のような謝罪広告を「創」誌上に掲載した。

(創出版・山岡俊介宛)「この提訴は、当社前会長・武井保雄指示の下、山岡氏や有限会社創出版の言論活動を抑圧し、その信用失墜を目的に、虚偽の主張をもって敢えて行った違法なものでした」
(野田敬生宛)「本件提訴は、当社が本件記事の内容が真実であると知りながら貴殿が当社を批判するフリーのジャーナリストであることから、敢えて、これらの執筆活動を抑圧ないしけん制する目的をもってなされたものであり…貴殿の社会的信用を失墜させる行為として名誉毀損に該当するものでした」

もっとも、残る「週刊金曜日」と「武富士の闇を暴く」事件は盗聴問題ではなく、武富士の業務の実態のあくどさを暴露するものだった。武井の刑事事件とは無関係として、武富士は徹底抗戦を続けた。そして、いずれも判決において完敗して終了している。

以上の経過は、北健一著「武富士対言論」(花伝社)に詳しい。なお、北さんには、8月20日午前10時半のDHCスラップ訴訟法廷の後、11時から東京弁護士会508号室で開かれる報告集会を兼ねた弁護団会議の席でご報告いただけることになっている。

かくのごとく、スラップ訴訟は両刃の剣。少なくとも武富士の場合、自ら抜いて振りかざした剣で、自らを深く傷つけた。スラップは仕掛けられる方に甚大な被害を与えることは言うまでもないが、仕掛ける方にとっても取り扱いの難しい劇薬である。あるいは、軽々には抜けない妖刀なのだ。

警告しておきたい。うかつな濫訴の提起は身を滅ぼすもとになる、と。
(2014年8月3日)

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言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第12弾

☆ブログを拝読し、DHCスラップ訴訟の件、知りました。
驚愕の事態ですね。気持だけですが、表現の自由のためにカンパをさせていただきます。

★ありがとうございます。多くの方のご支援に励まされています。
ご意見を寄せられる多くの方が、本件を表現の自由に対する悪質な妨害行為、とりわけ政治的言論に対する封殺の問題ととらえていらっしゃいます。私も、私一人の問題ではないと身に沁みて考え、負けられない思いです。

☆ところで、素朴な質問があります。
高江のスラップ裁判との比較で、「運動対抗型とは別に言論封殺型というものがある」とお書きになっている点についてです。高江は前者で、DHCは後者にあたるということだと思うのですが、運動対抗型と言論封殺型に相当するという論理が、よく理解できません。

★スラップを「運動対抗型」と「言論封殺型」とに分けたのは、私流の勝手な理解です。
 いずれも政治的・経済的強者が訴訟提起を手段として不当な意図を完遂しようとする点では同じですが、何を目的とした提訴なのか、あるいは提訴によって侵害されるものが何なのかの違いがあると思うのです。

仮に「運動対抗型」としたのは、市民運動・労働運動・政治運動などの弾圧を目的とした提訴をイメージしています。高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴や、反原発運動の制圧を目的とする経産省前テント撤去訴訟などは、その典型でしょう。マンション建設反対や公益通報に対するスラップも報告されています。「運動弾圧型」「運動つぶし目的型」「運動忌避型」などとネーミングもできるでしょう。

これに対して、純粋に不都合な言論の封殺を目的とする「言論封殺型」スラップ訴訟を分けた方が、闘い方の理論構築に資するのではないかと思うのです。

もちろん、両者の混交タイプはいくらでもありえます。たとえば、「DHCというサプリメントや化粧品の通販会社で、リストラに抵抗して4人が労働組合を作った。その組合のホームページの記載を名誉毀損だとして会社が損害賠償を求め、裁判に疲れた組合側は退職を条件に和解した」と複数のソースが報じています。この件などは、かたちは言論封殺型ですが、真の狙いからは労働運動弾圧型といえるのでしょう。

☆お書きになった記事をよみますと、両者は別個のものと考えられているようです。もしや、運動対抗型は違法性を持つ運動を対象にするものと(読者に)受け取られはすまいかと危惧いたします。両者の違いの強調よりは、共通であることの強調、両者とも表現の自由の侵害なのだと認識することこそが大切だと思うのですが。

★なるほど、私の記事はその点での配慮が足りなかったかも知れません。当然のことながら、運動弾圧型のスラップをいささかも許容するつもりはありません。

むしろ、私は「表現の自由」の対象を、「純粋な言論」と「言論に伴う行動」とに峻別して、純粋な言語的表現だけを手厚く保護しようとする伝統的な考え方には抵抗しているつもりなのです。それは、「日の丸・君が代」に関して、ピアノ伴奏をしたり、起立・斉唱をする行為を、「外部的な行為」に過ぎないとする考え方への反発があるからです。内心の思想・良心とは峻別された「外部的行為の強制は直ちには内心の思想・良心を侵害するものではない」という最高裁判例を容認しがたいという思いが強くあります。

言語的表現である純粋言論も、これに伴う行動も、ともに思想・良心の外部表出として保護されるべきであると思っています。場合によっては、言語的表現以上に身体的行動による表現形態こそが重要なこともありうると思います。

☆高江裁判で、最高裁で敗訴したIさんは、防衛局が敷地内に機材を搬入しようとした際、ゲート前に座り込んだ人々のなかで狙いうちされたのです。搬入を阻止しようとして思わず両腕を真ん前に伸ばして肩の位置まで上げたことが、「国の通路使用を物理的方法で妨害した」と認定されました。住民運動側は、ヘリパッド建設に反対する意思表示、抗議行動は憲法に保障された表現の自由にあたるとして、闘いました。そして今も、連日、灼熱の辺野古でオスプレイ用のヘリパッド建設反対の運動が、繰り広げられています。運動の正当性を支える表現の自由の強調をお願いします。

★了解しました。まったく異存ありません。
ただ、言語的表現を封殺するタイプのスラップは、名誉毀損の違法性阻却要件、あるいは公正な論評の法理などというかたちで、訴訟を舞台での闘い方がパターン化されています。その点では、明らかに「運動弾圧型」とは異なるものとして、少なくとも訴訟技術においては意識する必要があるとは思います。

「運動弾圧型」と「言論封殺型」、どちらも許容しがたいものですが、それぞれ特有の課題があると思います。『DHCスラップ訴訟』は、政治的な純粋言語的表現に対する直接的な封殺行為です。客観的に不当極まる高額な金額の請求をすることで言論の萎縮効果を狙っています。

なお、かつてサラ金業界の盟主だった武富士が、スラップ訴訟受任を常習とする弁護士を代理人として、同時多発的にスラップ訴訟を連発して悪名を馳せました。
被告にされたのは、「サンデー毎日」、「週刊金曜日」、「週刊プレーボーイ」、「武富士の闇を暴く」、「月刊ベルダ」、「月刊創(つくる)」など。

DHCの濫訴の実態は追い追い明らかになるはずですが、その規模において、武富士を上回るものであることは確実です。とりわけ、「政治とカネ」をめぐる批判の政治的言論に対する拒否反応の強さに驚かされます。

高江のヘリパッド建設反対運動への弾圧のスラップも許し難いものがありますが、『DHCスラップ訴訟』も明らかに驚愕の事態。これから、訴訟の進展だけでなく、「DHCスラップ」の全体像についても把握しえた情報をご報告いたします。表現の自由の今日的状況として関心をお持ちいただき、ご支援いただくようよろしくお願いします。
(2014年7月31日)

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経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第11弾

ハードデスクの片隅に、昔執筆した自分の原稿を見つけて読み直すことがある。自ずと、その時代を懐かしく思い起こす。

たまたま、1999年以来の「司法改革」で書いた論稿のいくつかが出てきた。あのとき、自分なりに実務家の立ち場で司法制度を論じた。最大の関心事は、民事訴訟における訴訟費用の敗訴者負担制度の導入の可否であり、私は反対論の急先鋒の一人だった。その趣旨の「自由と正義」への寄稿が、神戸大学入試小論文の素材となって驚いたこともあった。

制度導入を是とする論拠の主たるものが「濫訴の防止」であった。導入を非とする論拠の主たるものが「司法へのアクセスの確保」、あるいは「提訴の萎縮回避」であった。

今私は、スラップ訴訟の被告となった。身をもって濫訴の弊害を実感する立ち場だ。では、敗訴者負担の制度導入に反対したことを後悔しているか。ことはそんなに単純ではない。1999年に書いた論稿の抜粋を紹介しておきたい。

「何よりも市民の権利実現を?『民事司法制度改革』への見解」
※はじめに
私は、弁護士経験30年。主として労働事件・消費者事件・医療事件の分野で、もっぱら労働側・消費者側・患者側で業務に携わってきた。憲法訴訟への関与も少なくない。
実務遂行の過程で、一再ならず不本意な訴訟の結果を甘受せざるを得ず、無念な思いを経験してきた。その原因として自分の弁護士としての力量不足を認めることにやぶさかではないが、訴訟制度の不備・不公正にも過半の責任あることを疑わない。
現行の民事司法制度の改善が必要なことは自明と考え、「司法改革」には熱い期待をもって見守り、また改革の市民運動への関与もしてきた。ところが、次第に明確化しつつある司法改革審議会の「改革」の方向には、いくつかの疑問を呈せざるを得ない。審議会の「民事司法の在り方・取りまとめ(案)」を素材に現場からの意見を述べたい。

※制度改革の立場性
司法制度の改革を望む声は大きいが、誰のために、どのような「改革」を求めるかについては、立場によって大きく見解を異にする。そもそも、訴訟制度の当否は立場を抜きにして語ることができない。訴訟は鋭く対立する当事者間の紛争を取り扱う。裁判所の中立・公平はフィクションに過ぎず、訴訟手続のルール設定自体がそれぞれの立場の妥協的産物である。とりわけ、非代替的な当事者間の争訟においては、双方が完全に納得しうる訴訟手続のルール設定は本来不可能であろう。
一言で言えば、強者は形式的平等ルールを主張し、弱者は実質的平等ルールを求める。民事訴訟手続における形式的平等では、圧倒的に強者が有利で弱者が不利となる。弱者の権利を全うするためには、訴訟手続における実質的な平等原則を現実の訴訟手続において確立しなければならない。私は、弱者の側にあって、実質的平等原則の定着を強く求める立場にある。

※訴訟における「強者」対「弱者」
強者・弱者の指標は経済的力量と専門的知識ないし情報量である。経済的格差及び情報量の格差が、強者と弱者を分けている。
私は、法の目的は弱者の権利擁護にあり、司法の正義は弱者の権利の実現にあると信じて疑わない。社会的な自然状態では、常に強者が利益を独占する。紛争においては、弱者は泣き寝入りするしかない。この自然状態を不合理として是正し、弱者に「権利」を与えるのが法の体系であり、この権利を実現する手続が本来的な司法の使命である。民事訴訟手続は、この使命を全うするものでなくてはならない。
強者・弱者という用語は、当事者の力量格差を相対的に表現したものであるが、典型的には強者を企業、弱者を市民と置き換えることができる。「市民のための司法改革」とは、企業との関係で弱者である労働者・消費者を念頭においた表現であると理解する。「企業を含む市民のための司法改革」という用語法では、強者と弱者の対立構造をことさらに隠蔽する無意味なスローガンとなり、何の問題提起もしていないことになろう。
試みに、訴訟を当事者によって次のように類型化してみる。
?企業対企業の訴訟(以下、第1類型という)
?企業が市民を訴える訴訟(第2類型)
?市民が企業を訴える訴訟(第3類型)
?市民対市民の訴訟(第4類型)
今、強く「改革」が求められているのは、第3類型であって、第1でも第2でもない。このことを明確に意識することが重要だと思う。
あるいは、今求められている「改革」は、市民が企業と対抗する関係において使いやすく真に役に立つ司法を実現すること、と言ってもよい。

※市民のための民事訴訟制度改革とは
企業対企業の訴訟(第1)類型は、力量ある当事者相互において立場が交代しうるものである点で、形式的平等のルールになじむものと言えよう。知的財産権訴訟を典型として、「訴訟の迅速化」にも「グローバルなルール設定」にも特に違和感がない。問題は、この分野での形式的平等原理を、乱暴に第3類型にまで適用することの弊害なのである。
企業が市民を訴える訴訟(第2)類型は、典型的には貸金業者の貸金請求訴訟ないし、クレジット業者の立替金請求訴訟である。また、その延長線上に銀行の抵当権実行手続がある。周知のとおり、今全国の簡裁はクレジット・サラ金業者に占拠されている異常な事態にある。「司法が十分に利用されていない」というのはこの分野については当たらない。経済的力量も債権回収知識も豊富な業者の司法へのアクセス不備を心配する必要はまったくない、と私は思う。
しかし、この分野においても、さらに業者が司法にアクセスしやすく、訴訟費用は市民に負担させて、訴訟は迅速に行い、執行手続きも迅速厳正に行われるべし、という見解は当然立場によってはあり得る。業者の利益を代表する立場と、形式的平等論に立ってこれを擁護する立場とである。審議会の「まとめ(案)」は、その後者に当たるものとなってはいないか。不安を払拭し得ない。
強者である企業が、その活動の過程で弱者である市民の権利を損なうことこそ現代社会における典型的な権利侵害の態様であり、その救済が、第3類型の「市民が企業を訴える訴訟」である。民事司法本来の使命を果たすべき分野であって、かつ「司法改革」を求められている場である。
具体的には、リストラ・賃金不払い・不当労働行為・労災・職業病・性差別・セクハラ等々の労働事件、公害・環境・生活侵害事件、製造物責任・取引型不法行為・多重債務問題等々の消費者事件、医療過誤訴訟、欠陥住宅訴訟等々である。
この分野では、提訴数が絶対的に過小である。その理由を究明し、「市民にとっての大きな司法」を実現しなければならない。訴訟手続、判決内容、判決の執行は実質的な平等原理を実現して市民の権利実現に実効あるものとなっているか、十分に吟味考察しなければならない。

※司法へのアクセス障害の根本原因
司法の利用がトータルで「2割」であることにはさほどの意味はない。問題は、第3類型の市民の訴訟提起が極端に少ないことにある。市民の司法利用が少ないことは、市民の権利の実現がないということであり、市民が司法を見限っていることでもある。
なぜ、司法は市民に利用されないか。とりわけ対企業提訴がなぜ少ないか。それは司法が役に立っていないからである。端的に言って、容易に訴訟に勝てないからである。
好例は、変額保険訴訟の総件数600件の提訴である。これは、やむにやまれずの提訴であった。その600件の先行訴訟を10万と言われる同種被害者が見守った。先行訴訟の勝訴判決が続けば、600件は6000件にも6万件にもなり得たと言ってよい。それが途絶えたのは、残念ながら被告の生保にも銀行にも容易に勝てない司法の現状を知った金融被害者の絶望の結果である。司法救済の限界が司法を市民から遠ざけたのだ。
勝訴に一定の時間と労力がかかるとしても、最終的に勝訴の確率が高ければ、市民は司法にアクセスする。掛けるべき時間と労力と費用が小さくなれば、さらに役立つことになる。役に立つ制度なら市民が利用することは、消費者破産が年間13万件にもなっていることがよく示している。

※弁護士報酬の敗訴者負担に反対
それどころか、「まとめ案」は、市民の提訴を抑制しようとしているごとくである。弁護士報酬の敗訴者負担制度の原則採用である。
周知のとおり、これまで弁護士報酬の敗訴者負担論議は、「濫訴・濫上訴防止」の効果をねらって提案され、それ故に批判されて実現を見なかった。大きな司法を目指すはずの司法制度改革審議会が、小さな司法維持策の道具を採用するとしたことには一驚を禁じ得ない。とってつけたような「権利の減殺・希釈論」は、現場を知らない傍観者の机上の空論というべきである。こんな風に、制度をいじられてはとてもかなわない。
確かに、弁護士報酬の敗訴者負担は、ある種の類型の提訴を増やすことにはなる。当初から証拠資料を取りそろえて勝訴確実なシンプルな訴訟を。貸金業者の貸金請求訴訟がその典型であろう。また、企業が市民を訴える訴訟類型は概ねこれに当たる。
しかし、肝心の第三類型の訴訟には確実に萎縮・抑制効果をもたらす。労働・公害・消費者、そして医療過誤等の訴訟の多くは、勝訴の確信あって提訴に至るものではない。訴訟手続において、模索的に証拠を収集し、法的な構成さえ流動的である。「敗訴の場合は、被告側弁護士報酬も負担」ということになれば、提訴を躊躇せざるを得ない。とりわけ、先駆的な訴訟、不合理な判例にチャレンジする訴訟の提起は困難を極める。
また、政策形成訴訟の多くは原告側弁護士のボランティアによってなされているのが現実であって、原告となる市民が弁護士報酬の出捐能力を持っているわけではない。敗訴の場合は被告側の弁護士報酬を負担するとなれば、提訴不可能となるだろう。
この制度の採用は、企業や行政にとって不都合な提訴の抑制効果をねらってのものとしか考えようがない。「まとめ(案)」は、原則を敗訴者負担として、「例外の範囲と例外的取扱の在り方」について検討するとのことだが、例外の範囲の設定が技術的な困難に逢着することは目に見えている。敗訴者負担の原則自体を撤回するよう、強く求める。
この問題は、他のテーマに比して、際だって市民に分かりやすい。司法改革に期待を寄せてきた多くの弁護士の注目度も高い。司法制度改革審議会のなんたるかを示すリトマス紙として機能することになろう。現状では、「市民に小さく、企業に大きな」司法を目指すものとの指摘を裏書きすることになる。(以下略)

『DHCスラップ訴訟』は、経済的強者の濫訴の典型である。弁護士費用の敗訴者負担制度の導入は、市民の提訴意欲を減殺させるだけで、スラップ防止の効果は望むべくもない。訴訟を道具にした言論封殺には、別の断固とした制裁措置が必要である。

海外には各種の「スラップ禁止法」があるという。スラップを防止し、スラップの提起があった場合には早期に被害者を被告の座から解放し、被害者へは十分な救済措置を、加害者には強力な制裁を科す。

私は、スラップ訴訟による加害行為を絶対に許さない。わが国における反スラップ法の制定をもって宿怨をはらしたいと思う。DHCとの訴訟を通じて、強者による濫訴の防止に実効ある制度の設計を考えたいと思う。これも、「弱者に閉じられ、強者に開かれた司法」ではなく、「弱者のための司法」を実現するための一環なのだ。

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「ウナギと梅干し」の食い合わせは毒か?
今日は土用の丑の日。この日ばかりはと、大枚はたいてウナギを召し上がる人も多かろう。しかしウナギは過度の濫獲によって、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで絶滅危惧種に指定されてしまった。今となっては畏れ多くて、蒲焼きなどにできない貴重種なのだ。「ヨーロッパウナギ」は野生動物の国際取引を規制するワシントン条約の規制対象となって、最も深刻な「絶滅危惧1A類」に指定されている。それなのに日本のスーパーで輸入物として売られており、またまた、グリンピースによって「資源の保護より短期的な利益を優先する姿勢がうかがえる」と非難されている(毎日新聞7月29日)。

「ニホンウナギ」もやはりレッドリストで2番目にリスクが高い「絶滅危惧1B.類」に分類されている。こちらは天然の稚魚のシラスウナギを捕獲して養殖したものが流通しているのだが、年々シラスの捕獲量が減っている。卵から育てる完全養殖も試みられて、幼体の餌や大型流水プールの試行錯誤が行われている。しかし、今の方法では一匹のウナギを育てるのに餌代を含めて数万円かかる(毎日新聞)。食卓への道はまだまだ遠い。

サケも今は卵から稚魚を育てて、川に放す。プールで育てるのではなく、「必ず戻ってこいよ」と広い海に放し飼いにする。各地の漁協が取り組んで成功している。ウナギは海に放しても、戻ってこないのだろうか。
木村伸吾・東京大学教授(水産海洋学)は「水辺再生がウナギ復活につながる可能性はある。河口からの遡上を妨げるせきやダムを含めた川のあり方を考え直すべきだ」と話す(毎日新聞)。

さて、毒の話。昔から「ウナギと梅干し」の食べ合わせは毒になると言われたものだ。本当だろうか?

「時は大正10?12年のころ、栄養研究所のある研究者がみずからをモルモットとしてこの食べ合わせに果敢な挑戦を行った実験の結果を報告しているのである。彼、村井政善氏は第一回にウナギの蒲焼200グラムと梅干し40グラムを朝、昼、晩と1日3回3日間連続、第二回にはウナギの白焼200グラムを梅肉醤油で昼と晩の2回ずつ2日間、第3回はウナギの霜降りを刺身として200グラム夕食に、第四回には未熟な青梅4個とウナギの蒲焼き200グラムを同時に2日間、というように、とにかく手を替え品を替えして、実に綿密にウナギと梅干しを食べつづけ、なんと第八回の実験にまで至るのである。いまだったら、ウナギ代だけで研究室は破産しかねないし、第一ウナギだけでも腹がもたれて参ってしまいそうな実験である。ともあれ、村井氏はあらゆる組み合わせを考えてウナギと梅干し、あるいは梅の実を食べたが、いずれの場合も全く異常を認めることはできなかったと報告した。
この貴重な『食べ合わせ人体実験』から導き出された結論によれば、ウナギと梅干しの食べ合わせの言い伝えには科学的な根拠はまったくなかったことになる」(山崎幹夫著「毒の話」中公新書)

ウナギを食べたあとに梅干しを食して腹痛を起こす。
まるで、ブログを書いた後にスラップ訴訟の被害者となるごとくである。
ウナギを食べたあとの梅干しは毒にはならないことが立証されたが、ブログのあとのスラップ訴訟は有害だ。解毒のための制裁措置が必要である。(2014年7月29日)
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「表現の自由」が危ない?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第10弾

本日は日民協の機関誌「法と民主主義」の編集会議。
10月号まではテーマが決まっている。11月号をどうするか。

編集担当者からの詳細な企画案メモが提出された。タイトルは、「日本国憲法21条の問題状況」。「現代の表現の自由を考える」という副題が付いている。

大きくは、3節から成る。「第1・メディアの現状」「第2・街角の表現の自由」「第3・プライバシーと表現の自由」というもの。各節に5項目のテーマが並んでいる。なるほど、今、「21条の問題状況」は問題だらけ。表現の自由は危機的状況にある。

議論が百出した。意見は容易にまとまらない。
「これだと全体状況はつかめても、メリハリがない」「ここが時代の中心問題だという押し出しが必要だ」「表現の自由をめぐっては、NHK問題が突出した重大性を持っているというべきだろう」「NHK問題は、『権力による表現の自由規制』という図式が分かり易い。しかも、安倍晋三のお友だち人事というメディアの私物化という特徴的な手法が顕著で、時代を象徴する事件だろう」「むしろ、時代を象徴するのは、権力的規制よりは社会的抑制ではないか。明確な権力の発動なくても、社会の雰囲気に言論が萎縮していることが重大だ」「憲法擁護や憲法の学習までが、政治的な色彩を帯びた行為として行政の末端で排斥される現場を励ます理論が必要だ」「表現の自由の現代性を考えるとすれば、ヘイトスピーチ問題を取りあげねばならない」「これは、自由な言論が人権を侵害している構図」「一見そうだが、安倍自民が一強と言われる状況と深く関わっているのではないか」「自由な言論の市場は悪質な言論を淘汰するだろう」「果たしてそう楽観できるだろうか。後戻りできないところまで、事態が進行するリスクは否めないのではないか」「いや、対抗言論と民事訴訟で克服しつつあると見るべきだろう」‥

この議論の中で、表現の自由を危うくするものの一つとして、言論封殺を目的とするスラップ訴訟の濫発が大きなテーマであると確認され、11月号の特集に取りあげられることとなった。

但し、「スラップ」、あるいは「スラップ訴訟」はやや多義的である。一昨日の東京新聞一面トップが、「スラップ訴訟 市民団体が最高裁に抗議」というもの。沖縄県・高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴を「スラップ訴訟」としている。

同紙の記事は、スラップ訴訟を「国や大企業が自らの事業に反対する住民らを訴える」ことによって「言論の自由を抑圧」するものとし、今後の市民運動への濫発を懸念している。スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だというから、市民運動・住民運動・内部告発などに打撃を与えることを目的とした訴訟が広く含まれるということではある。

もっとも、スラップには、運動対抗型とは別に言論封殺型がある。『DHCスラップ訴訟』はその言論封殺タイプの典型である。個人の言論を封殺する主体は直接には公権力ではない。社会的・経済的強者が、裁判所の威を借りて個人の言論を抑制しているのだ。原告にとって不都合な言論をしたとして、提訴による高額の請求は、被告となった個人を萎縮させる圧力として十分である。

『DHCスラップ訴訟』の提起は、政治的言論に対する直接的な敵対行為であることに本質がある。『DHCスラップ訴訟』が嫌忌した言論の内容は、「政治とカネ」をめぐる見解である。もっと具体的に言えば、「カネで政治を左右することは許されない」「政治はカネで左右されてはならない」という民主主義の根幹に関わる政治的意見の表明である。これを原告は封じようとしているのだ。

このことが根幹であり、その余は枝葉の問題にすぎない。『DHCスラップ訴訟』の提訴と応訴とは、政治的言論の自由が真に保障されるのか、それとも打ち捨て去られるのか、という憲法の最重要理念をめぐる厳しいせめぎ合いなのだ。

「法と民主主義」11月号には、今の課題としての「表現の自由」擁護の立場から、具体的なしかるべき論稿が掲載されることになろう。NHK問題やヘイトスピーチ、あるいは言論の萎縮問題などと並んで、『DHCスラップ訴訟』問題も紙幅を割いてもらえるはずである。

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             蓮は泥より出でて泥に染まらず
上野不忍池の蓮が咲き始めた。今が、二分咲きといったところ。大ぶりの蓮の葉を渡る風は一段と涼しい。清々しい葉のうえにスックリと立ち上がった、大きくゆったりとしたピンクの花は「悠久の美」という言葉がぴったりだ。見物人もカメラマンも言葉を発する人もなく静かにみとれている。

不忍池は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた湿地に、根津から藍染川が流れ込んでできた。その余り水は隅田川に流れ出た。入る川も流れ出る川も暗渠となって、今はうかがうこともできない。

いつからその不忍池に蓮が根付いていたかは定かではないが、1677年の「江戸雀」には
 「涼しやと池の蓮を見かえりて、誰かは跡をしのばずの池」
とある。江戸の浮世絵には「不忍池と蓮」がお定まりの図柄となっている。1935(昭和10)年に調査をした大賀一郎博士は、近くに住んだ林羅山か、寛永寺の天海和尚か、不忍池に弁天島を築いた水谷伊勢守が植えたのではないかと推察している。ちなみに博士の調査によれば、当時、植えられていた蓮は10種類であったそうだ。(池畔に立てられた案内板より)

しかし、現在は素人目にはピンクの花が一種類咲いているだけだ。近年、東京都は池の観光整備にのりだした。遊歩道をめぐらせて、新しい種類の蓮を植えることにしたらしい。明鏡蓮(白花)、不忍池斑蓮(白弁をピンクの縁取り)、浄台蓮(ピンク)、大賀蓮(ピンク)、蜀紅蓮(紅花)の五種類。今見るところ小ぶりの浮き葉が水面に浮いているだけ。水面高く立ち上がる巨大な巻き葉(立ち葉)がみえないので、今年は残念ながら花を見ることはできないようだ。

「浮き葉 巻き葉 立ち葉 折れ葉とはちすらし」山口素堂

案内板に書かれていることをメモしていると、隣に立ったおじさんが「俺は土浦の出身なんだ。土浦の蓮はこんなもんじゃない」とのたまう。「レンコンをとるんでしょ」というと、「何で正月にレンコンを食べるか知っているか」と言うので、ちょっと花を持たせて「知りません」と答えた。この辺りから、酒臭いなと思う。「穴が開いているので先が見えるから縁起がいいんだ」という。「そうですか」と言うと「あんた、ほんとはなんでも知っているのに、答えさせたね」とからんでくる。ちょっと、クスッと笑いたくなるのを押さえて、「そんなことありませんよ。ありがとう。」と答えて逃げ出す。

上野というところは朝の7時にご機嫌な人がいる場所だ。酒を嗜んで、蓮の花を愛で、池を渡る風に吹かれるのはどんなに気分がいいだろう。もう少し話し相手になってあげればよかったかなと思う。

しばらく行くと、池のなかから「グェッ、グェッ」とウシガエルの声が聞こえる。立ち上がった緑の葉と美しい花の下には、弱肉強食の現実世界があるらしい。「表現の自由」や「裁判を受ける権利」という美しい花の下に、ヘイトスピーチやスラップ訴訟がうごめいているごとくに。
(2014年7月25日)

私こそは「幸せな被告」?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第9弾

昨日(7月22日)、『DHCスラップ訴訟』弁護団結成集会(弁護団会議)が開かれた。弁護団長を選任し、その他の弁護団体制も整った。これで、ようやくにして本スラップ訴訟への応訴の構えができあがったのだ。本日現在の弁護団参加弁護士数は87名。また、幸いにしてカンパの集まりも順調。多くの方に御礼を申し上げなければならない。

弁護団会議での意見交換は、訴訟上の理論的な検討に終わるものとはならなかった。「スラップ訴訟が市民の言論を萎縮させている現実を踏まえてこれにどのように対応すべきか」「スラップ訴訟提起者にたいする最も効果的な反撃手段は何か」「政治資金の透明性の確保の観点から本件をどう把握すべきか」「サプリメント販売の規制緩和における問題点を本件でどのように押し出すべきか」等々の議論があり、力量ある弁護士が次々と発言した。本訴訟をどう位置づけるかについての著名な学者からの特別報告もあった。

ともかく、これでスラップ訴訟対策弁護団の基本方針が決まり動き出すこととなった。もとより、私のためばかりの弁護団ではない。弁護団参加者は、スラップ訴訟に義憤を感じ、主としては表現の自由を獲得するために馳せ参じている。そのことは心得ているつもりだが、基本的に手弁当の弁護団の熱意に、被告本人として頭が下がる。

このスラップ訴訟の訴状送達を受けてしばらくは、まことに不愉快な思いをしていた。しかし、ようやくにして今私は、この不愉快さを完全に払拭し得ている。もしかしたら、私は、これ以上ない「幸せな被告」になり得たのではないだろうか。

訴訟の全過程と判決において、「私の幸せ」はそのまま「表現の自由の幸せ」であり、「日本国憲法の幸せ」でもある。このまま訴訟の確定まで、幸せであり続けたいとねがっている。なにしろ、それこそが憲法の幸せであるのだから。

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             植物の毒とスラップの毒
前回は動物(昆虫)の毒について書いた。今回は植物の毒について。

近所の公園で、早朝のラジオ体操が始まった。待ちに待った夏休みだ。生き生きとした子どもたちの明るい声で、こちらまで嬉しくなる。

その公園の近くに、家を取り壊した跡の空き地があちこちにある。不思議なことに、つい先日まで敷地の下で、草一本生えていなかったところに、すぐに雑草が生える。その雑草のなかに有毒植物がある。空き地で昆虫採集の子どもたちがそれを口にしないか心配だ。

ヨウシュヤマゴボウはまるでブルーベリーのようなつやつやした紫色の実をつける。いかにも美味しそうだ。しかし、これを食べれば、嘔吐、下痢をし、ひどいときには呼吸障害、心臓麻痺で死に至る。赤い実をつけるヒヨドリジョウゴもラッパのような花をつけ手榴弾のような実をつけるチョウセンアサガオも猛毒を持っており、口にすれば命に関わる。

こう述べてくると、植物とみればすぐ手に取り、時には舐めてみたり噛んでみたりする私は良く生きのびてきたと思う。これまで命の危険はおろか、嘔吐もしたことがない。草刈り中のひっかき傷がせいぜいだ。運がいいのか、チャレンジ精神がまだ足りないのか。夏休み中の子どもたちの心配より、自分の心配をした方が良さそうだ。

ところで、家庭菜園で作ったヒョウタンを食べて、吐き気と腹痛で入院した方についての報道(7月14日)があった。あのユーモラスな形で、完熟すれば水や酒を入れる「瓢(ふくべ)」となるヒョウタンが毒とは知らなかった。ウリ科の果肉に含まれるククルビタシンという成文が悪さをするらしい。海苔巻きにつきものの「かんぴょう」はユウガオを細くむいて乾かしたもの。そのユウガオはヒョウタンから毒性のない、苦みのないものを選別して作られたのだという。だから苦いユウガオは食べてはいけない。

同じウリ科にはキュウリ、ヘチマ、ゴーヤー、カボチャ、ズッキーニ、メロン、スイカなど食材としておなじみのものが多い。これらとて、時には用心が必要だ。ヘチマの若い実も食用になるが、苦いものはやはり食べてはいけない。ゴーヤーの苦みは別成分なので問題はないようだ。スイカの接ぎ木苗の台木にユウガオが使われ、台木のほうに成った実で食中毒を起こした例がある。きっと台木のユウガオがヒョウタンに先祖返りしてしまったのだろう。家庭菜園で野菜を作る方はくれぐれもご用心を。

身の回りにある毒を持った植物はヒョウタンだけではない。夏のあいだ、暑さに負けず花が咲き続けるキョウチクトウも心臓に作用する猛毒を持っている。古代ギリシャのアレキサンダー大王の軍隊やナポレオン軍や太平洋戦争時に南方にいた日本軍兵士もキョウチクトウでたくさん命を落としたといわれる。肉を焼く串に使ったり、料理用の薪に使ったのだ。キョウチクトウはたき火に使ってはいけない。煙も猛毒だ。(文春新書「毒草を食べてみた」植松黎)

美しい花を咲かせるスイセン、スズラン、ヒガンバナ、フクジュソウも用心したほうがいい。スイセンは葉(ニラに似ている)や球根(小さなタマネギのよう)を食べればひどい嘔吐や下痢をする。花に触って湿疹や皮膚炎を起こす人もいる。
スズランの葉や赤い実を食べたり、花をいけた水を飲んだ人は、ひどければ不整脈を起こして心臓が止まる。フクジュソウのもじゃもじゃの根っこにも心臓に作用する毒が含まれている。

ヒガンバナの球根は救荒食物になるというが、食べられるまでには気の遠くなるような行程をこなさなければならない。そのまま食べればひどい嘔吐に悩まされる。

この世は、自然の恵みに満ちてもいるが、実は毒の危険にも満ちているのだ。光あれば闇もあるごとくに。そして、美しい表現の自由の理念もあれば、スラップ訴訟やヘイトスピーチなどという醜い現実もあるごとくに、だ。

もっとも、植物の毒の多くは薬用にも使われる。花岡清州が、チョウセンアサガオ(曼陀羅華)の毒の作用を全身麻酔薬に試みたごとくにである。これと比較すると、スラップやレイシズムなどはひたすら毒性をもつのみ。人を益するところは皆無なのだ。
(2014年7月23日)
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グララアガア、グララアガア?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第8弾

赤旗日曜版の読みどころは断然連載漫画である。かつては、手塚治虫『羽と星くず』『八丁池のゴロ』『タイガーランド』や、永島慎二『れんさいまんが日本むかし話』などの古典と言ってよい作品群があった。中澤啓治も「チンチン電車の詩」を掲載している。近くは、矢口高雄「蛍雪時代」や、山本おさむ「今日もいい天気」の各連載が秀逸だった。

そして今は、ますむらひろしの『宮沢賢治短編集』。賢治作品の理解は読者それぞれだが、猫を借りた人物の描写も、細かく書き込んだ植物や模様も、賢治のイメージをみごとにふくらませている。

ますむらが最初に取りあげたのは「やまなし」だった。この作品は取扱注意だ。私にはいまだに難解に過ぎて分からない。小学生に読ませているのも不可解極まる。ますむらひろし作品も、結局はよく分からなかった。

しかし、「虔十公園林」から俄然おもしろくなった。登場人物の性格描写が生き生きと画に表れている。そして、11回連載の「オッベルと象」が先週終わった。これは文句なくおもしろい。傑作と賞賛してよいと思う。

宮沢賢治の作品の中で、「オッベルと象」はテーマの分かりやすさで群を抜いている。勤労大衆の弱さと強さとを象徴する白象と、支配層ないしは搾取階級のあくどさを象徴するオッベルとの関係の描き方が分かり易いのだ。労農党を支援した賢治の連帯や団結観も見えている。とはいえ賢治の作品である。陳腐な類型化を免れている。決して、オッベルが極悪非道に描かれているわけではない。そして、白象は歯がゆいほどのお人好しなのだ。

冒頭の一節が、全編のトーンを決めている。
「オツベルときたら大したもんだ。稲扱(いねこき)器械の六台も据すえつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。」

そこへ現れた白象を、オッベルはだましだましこき使う。しまいには鎖でつないで、閉じ込めてひどく扱うようにもなる。

そして、「ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、『もう、さようなら、サンタマリア。』と斯う言った。」

月のはからいで、白象から仲間に窮状を訴える手紙が到着する。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」という文面。

さあ、ここからだ。
「象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。
『オツベルをやっつけよう』議長の象が高く叫ぶと、『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。』みんながいちどに呼応する。
さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。」

お終いはこうだ。
「グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
『牢はどこだ。』みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠やせて小屋を出た。」
『まあ、よかったねやせたねえ。』みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう云った。」

物語の終章の空気が静謐である。団結した行動が勝利したことによる高揚感の描写はない。みんなは「しずかにそばにより」、白象が「さびしく」わらうところで幕となるのだ。

ますむらひろしの作画は、賢治のストーリー展開に負けていない。象の大群が仲間を救出する大活劇の迫力をみごとに活写する。そのうえでの、解放された白象の複雑な表情が印象的である。

私も、スラップ訴訟の被告になって、「ずいぶんな眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ」と窮状を訴える立ち場にある。「『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア』みんながいちどに呼応する」となって欲しいと切実に思っている。

白象をひどく扱ったオッベルの運命はといえば、「五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰れていた。」となる。しかし、これは仲間の象が意図的にした結果ではない。

翻って思う。白象にしてみれば、オッベルに対する制裁よりも、完全な損害の填補が関心事ではないか。物語の始まりの「第1日曜」から、終章「第5日曜」までの未払い賃金の支払い、そして虐待に関しての原状回復費用と慰謝料の支払いこそが切実な具体的要求となる。仲間の象たちの日当だって相当因果関係のある損害なのだ。

現実の世界では、賢治の寓話のごとくに、寂しく笑っておわる、というわけには行かない。そう、私もだ。
(2014年7月22日)
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この頑迷な批判拒否体質(3)?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第7弾

私の手許に、「ジャーナリストが危ない」という単行本がある。副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」と付けられている。2008年5月に花伝社から出版されたもの。スラップ訴訟がジャーナリスト・ジャーナリズムへ及ぼしている影響の深刻さが、シンポジウム出席の当事者の発言を中心に生々しく語られている。花伝社は学生の頃からの知人である平田勝さんが苦労して立ち上げた出版社。あらためて、フットワーク軽く良い仕事をしておられると思う。

編者が田島泰彦(上智大学教授)・MIC(日本マスコミ文化情報労組会議)・出版労連の3者。発言者は、山田厚史、烏賀陽弘道、斎藤貴男、西岡研介、釜井英法などの諸氏。

私は、スラップ訴訟とは、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、口封じや言論萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう」と定義してよかろうと思う。恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。同書では、「高額《口封じ》訴訟」としている。

言論の口封じや萎縮の効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできる。このような訴権の濫用は、諸刃の剣でもある。冷静に見て原告側の勝訴の敗訴のリスクは大きい。また、判決の帰趨にかかわらず、品の悪いやり方であることこの上ない。自ら「悪役」を買って出て、ダーティーなイメージを身にまとうことになる。消費者からの企業イメージを大きく傷つけることでもある。

それでも、スラップ訴訟があとを絶たないのは、それなりの効果を期待しうるからだ。
この書の前書きがこう言っている。
「このシンポジウムをとおして浮き彫りになったのは、「裁判」という手段によって、フリージャーナリストに限らず、研究者の発表も市民の発言さえも場合によっては巨額の賠償請求をされる事態が進行しているということであった。裁判の勝ち負けに関係なく、訴えられただけで数百万円もの裁判費用の負担が課せられるのでは、公権力や企業の情報を取材・報道することも困難になるということも明らかになった。すでに表現活動の自由と新自由主義を背景にした企業活動の自由の激しいせめぎ合いが起きていて、その前線に立だされているのは、もはやマスコミの企業ではなくペンやカメラを頼りにしたフリーランスだといっても過言ではない状況だということであった。」

要するに、企業ではなく個人が狙い撃ちされているのだ。もちろん、そのほうが遙かに大きな萎縮効果を期待できると考えてのことなのだ。

シンポジウムで、オリコンから5000万円のスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんが語っている。少し長いが引用したい。
「訴訟そのものを相手の口封じのために利用するという例が、アメリカで70〜80年代にかけて問題になっていることがわかりました。提訴することで、反対運動を起こした相手に弁護士費用を負わせ、時間を食い潰させて、疲弊させて結局潰してしまう。まあ、いじめ訴訟とかそういった感じなのです」
「このSLAPP(スラップ)については、この言葉を考えたデンバー大学の法学部の先生が書いた本が出ています。スラップは、裁判に勝つことを目的にしていないんですね。相手を民事訴訟にひきずりこんで、市民運動や市民運動を率いている人、あるいはジャーナリスト、酷い場合は新聞に投稿した投稿主までを訴えて、業務妨害・共謀罪・威力業務妨害などで、億ドル単位の訴訟を起こす。それによって相手を消耗させる。それがスラップです」
「アメリカ50州のうち、25州でこのスラップが禁止されているんですね。カリフォルニア州の民事訴訟法をみますと、スラップを起こされた側は、これはスラップである、と提訴の段階で動議をまず出せる。裁判所がそれを認めれば、審理が始まらないということになります。そこで止まるんですね。提訴されたほうが裁判のために、時間やお金を浪費しなければならないという恫喝効果が無くなります」
「カリフォルニア州民事訴訟法は、2001年にもう一度、スラップに関する法律を改正しまして、スラップを起こされた側は、スラップをし返していい、ということになったようです(笑)。アメリカってすごいところだな……と思いますね。
「というわけで、日本でも民事訴訟法に『反スラップ条項』というのが必要ではないかと考えます」

この書では、スラップ訴訟の被告になったジャーナリストが、「萎縮してなるものか」と口を揃えている。合い言葉は、「落ちるカナリアになってはならない」ということだ。

これも、そのひとり、烏賀陽さんの発言の要約である。
「一人のジャーナリストを血祭りにあげれば、残りの99人は沈黙する。訴える側は、『コイツを黙らせれば、あとは全員黙る』という人を選んで提訴している。炭坑が酸素不足になると、まずカナリヤがコロンと落ちる…。カナリヤが落ちれば、炭坑夫全部が仕事を続けられなくなる」

私もカナリアの一羽となった。美しい声は出ないが、鳴き止むことは許されない。ましてや落ちてはならない。心底からそう思う。

なお、紹介されている具体的なスラップ訴訟は以下のとおり。
※「原告・安倍晋三事務所秘書」対「被告・山田厚史/朝日新聞社」事件
※「原告・オリコン」対「被告・烏賀陽弘道」事件
※「原告・キャノン/御手洗富士夫」対「被告・斎藤貴男」事件
※「原告・JR総連他」対「被告・講談社/西岡研介」事件
※「原告・武富士」対「被告・週刊金曜日/三宅勝久」事件
※「原告・武富士」対「被告・山岡俊介」事件
※「原告・武富士」対「被告・消費者弁護士3名/同時代社」事件

武富士の3件の提訴が目を惹くが、「なるほど武富士ならさもありなん」と世間が思うだろう。武富士とスラップ。イメージにおいてよく似合う。
その点、DHCも武富士に負けてはいない。こちらもスラップ訴訟提起の常連と言ってよい。まだ、全容は必ずしも分明ではないが、「みんなの党・渡辺喜美代表への金銭交付」に対する批判の言論を名誉毀損として、同社からスラップ訴訟をかけられたのは私一人ではない。この点は、東京地裁の担当裁判所も、「同じ原告から東京地裁に複数の同様事件の提起があることは裁判所も心得ています」と明言している。

同種の訴訟が複数あるということは、当該の批判の言論を嫌忌したことが本件提訴の主たる動機であることを推察する証左の一つとなりうる。また、同種の訴訟の存在は、共通の批判の意見が多数あることによって、批判の意見の合理性を推認する根拠となるべきものでもある。

また、なによりも同種批判が多数存在し、各批判への多数の訴訟提起があることは、原告の頑迷な批判拒絶体質を物語るものである。
(2014年7月20日)

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この頑迷な批判拒否体質(2)?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第6弾

驚くべき事態の展開になろうとしている。このスラップ訴訟の原告側は、徹底して私の口を封じようとしているのだ。その手段として、これ以上ブログでの批判を続けるなという警告がなされ、さらに2000万円の損害賠償では足りず、この金額が増額されようとしている。

7月16日午後7時ころ、この訴訟の原告代理人弁護士から、私宛にファクスが届いた。提訴後、原告の初めての主張となる同日付「原告準備書面1」の送信である。

ごく短いこの書面には、私のブログの新シリーズ「『DHCスラップ訴訟』を許さない」の第1弾(13日)から第3弾(15日)までの3本の記事を記載し、続いて次の主張がある。

文意上、分けて引用すれば次のとおり。
(ブログ記事についての原告の評価)「被告は,原告らに対する名誉毀損を再び繰り返すだけでなく,新たに本件訴訟が不当提訴である旨一般読者に訴えかけ,原告らの損害を拡大させている」
(被告への通告)「本件は既に訴訟係属しており,原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべきであり,訴外において,かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」
(裁判所への注意喚起)「裁判所にも損害が拡大されている現状について主張しておく」

これは、異様だ。頑迷な批判拒絶体質の表れというほかはない。

これに先立つ7月11日に、裁判所に原被告双方の代理人が出席して進行協議が行われた。事実上の第1回期日となる8月20日口頭弁論の進行についての協議だった。その席で、原告代理人の弁護士が「いずれ請求の拡張をする予定」と明言している。

要するに、「2000万円の請求で裁判を起こしてみたが、どうも安すぎたようだ。もっと高額な請求にする」というわけである。

なぜ請求を拡張する必要があるのか。私の理解では、「2000万円の請求では被告がビビっていないようだ。それなら、ビビってもらうに十分な高額請求に切り替えよう」というもの。それ以外の理由は考えられない。唖然とするしかないが、本当にそんなことをすれば、言論封殺目的の訴訟という性格を自ら立証することになるだろう。裁判所も異常だと思うにちがいない。

その時点では、私の「『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズ」は、まだ始まっていない。それでも、原告は請求拡張の意思を明確に表明したのだ。

7月11日請求拡張発言に加えて、原告は7月16日準備書面で、私に対して、「かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」というのだ。これは、私が口を閉じペンを置くまで、際限なく請求金額をつり上げようという予告と解せざるを得ない。

もしかしたら、私の新シリーズの掲載をとらえて、原告はブログの記事一回の掲載ごとに金額いくら、というような算定方法で請求を拡張するつもりなのかも知れない。前代未聞のことだが、あり得ないではない。

かつて、石原慎太郎麾下の都教委が、「日の丸・君が代」強制への服従を潔しとしない教員に対して、懲戒処分量定における累積加重システムをもって対応した。卒業式や入学式での「君が代斉唱時不起立」が1回で戒告、2回目は減給1か月、3回目は減給6か月、4回目は停職1月、次は‥と処分量定を機械的に加重するもの。

都教委の思惑は、「日の丸・君が代」に敬意を表明できないとする教員の思想をあぶり出し、これに累積して過酷な懲戒を科することによって、思想の「弾圧」と「善導」とをはかることにあった。懲戒処分の度ごとに、機械的に処分の量定が重くなる。思想・良心を転向するか、信仰を捨てるまで処分は重くなり続け、ついには教職から追放されることになる。「累積加重システム」は、「転向強要システム」または、「改宗強要システム」にほかならない。

さすがに最高裁もこの累積加重システムの手法を違法として、過酷な処分を取り消した(2012年1月16日第一小法廷判決)。最高裁が違法とした手口の再来を見る思いである。

原告がどのような挙に出るか、是非ともご注目いただきたい。徒手空拳で権力や金権に立ち向かうには、多くの人に訴え、多くの人の目で監視してもらうしか手段はないのだから。

なお、原告がいう「本件は既に訴訟係属しており,原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべき」という通告は、的外れも甚だしい。

「いったん訴訟が提起されたら、関連する主張を訴訟外でしてはならない」などという、一方的に原告に好都合な理屈は成り立ちようがない。原告の訴訟提起の効果として、被告の訴訟外での表現の自由を制約しうるとでも原告は本気で考えているのだろうか。

言うまでもなく、裁判は公開法廷で行われる(憲法82条1項)。当事者には公開の法廷で裁判を受ける権利があり、公開の法廷での裁判の進行に関して各当事者が社会に報告することになんの妨げもない。むしろ、当事者やメディアを含む傍聴人が、公開の法廷での見聞を積極的に社会に発信し意見を述べることは、表現の自由(憲法21条)として保障されるにとどまらず、裁判を公開することによってその公正を担保しようとする憲法の趣旨に適合することなのだ。

そもそも新シリーズにおける私のブログの記事は、「原告らに対する名誉毀損を再び繰り返」してはいない。

また、「新たに本件訴訟が不当提訴である旨一般読者に訴えかけ,原告らの損害を拡大させている」というのは、訴状で問題とされたこととはまったく別の主張である。ここで問題にされている、私の表現は、「2000万円の請求という本件損害賠償請求訴訟が提起された」という事実の摘示と、その事実に基づく「この訴訟提起が高額請求の提訴を手段として被告の言論を封殺しようという『スラップ訴訟』の類型に該当する」という意見である。

この「事実の指摘」と「意見の表明」についても、違法で新たな損害賠償請求の根拠とするという原告の主張は、まさしく提訴に対する批判を許さないとするもので、言論封殺の目的を自認するものに等しい。
(2014年7月18日)

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この頑迷な批判拒否体質(1)?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第5弾

用語の定義は難しい。法における最も基本的な概念である「権利」の定義の成功例を知らない。「法律用語の広辞苑」というべき有斐閣の「法律学小辞典」には、「相手方(他人)に対して、ある作為不作為を求めることのできる権能」とある。これで十分だとは思わないが、権利の本質に迫っているとは思う。

この定義に見られるとおり、権利とは他者との関係において観念される。他者がしたくないことをするように求め得ること、あるいは他者にとって望ましからぬ事態の受忍を求め得ることが権利の本質である。端的に言えば、権利とは「人の嫌がることをなしうる」権能であり、「人の利益を害しうる」地位、ということなのだ。「他者を害しない全てをなし得る」のは当たり前のことで、そこには権利の観念を容れる余地はない。

「言論の自由」、「自由な表現の権利」とは、人を喜ばせる内容の言論をなし得るということではない。品よく人を持ち上げる言論や、阿諛追従の類の言動、あるいは当たり障りなく毒にも薬にもならないことを述べるには、「自由」も「権利」も不要である。そのような言論が自由なのは当然のことで、権利として保護するに値しない。「誰かにとって耳の痛い」表現、「他者の利益を害する」言論こそが、憲法上の権利として国民に保障されているのだ。

言論の自由とは、「その言論を不愉快と思う他者」の存在を想定して、他者の受忍を求める権利である。だから、「言論の自由」を権利と設定することは、反面「言論による不愉快や不利益を甘受すべき義務」の設定にほかならない。一方に言論の自由の行使あれば、他方に言論による不利益の甘受があるということになる。

もっとも、言論の自由の行使によって侵害される法的利益との比較衡量は当然に必要である。言論も多種多様であり、重要な価値が認められるべきものもあれば、価値の低いものもある。一般市民の名誉や信用を故なく攻撃する内容の言論は、傷つけられる名誉や信用に劣る価値しかないものとして、衡量の結果権利性を否定されることになろう。

最も価値の高いものとして保障されねばならないのは、政治的社会的強者に対する批判の言論である。権力を持つ者、経済的な強者の地位にある者への批判は最大限尊重されねばならず、反面これらの強者は、批判を甘受しなければならない立ち場にある。これが、民主主義社会の基本ルールである。

『DHCスラップ訴訟』の原告は、到底「一般市民」ではない。単に経済的な強者というにとどまる者でもない。公党の代表者に巨額のカネを渡して、その政党の方針に自らの意向を持ち込もうとしたのだ。特定政党の支持者の一人の寄付という域を遙かに超えて、その政党の動向を動かし得る巨額である。そのような金額のカネを政治家に渡した瞬間から政治的な力を持つに至って、「一般市民」とも、「私人」ともいえなくなった。権力をもつ「公人」に準じた者となった。当然に批判の言論を甘受しなければならない立場に自らを置いたのだ。

私のブログによる批判を甘受しえないとする原告の批判拒否の姿勢は、以上の点についての認識が乏しいことを示している。

私は、7月13日から、『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズの連載を始めた。リアルタイムで訴訟の進展を報告すると申しあげたとおりである。連日のブログをこのテーマだけで埋めつくすわけには行かないが、相当の頻度で書き続けるつもりだ。

このシリーズの焦点は、スラップ訴訟という手段での言論封殺の不当を社会に訴えることにある。本件では、『カネの力で政治を買おうとした』ことへの批判が気に入らないとし、『カネの力で裁判まで買おう』としているのだ。私も、これまでスラップ訴訟に関心を持たなかったわけではない。被告訴訟代理人として類似の訴訟を担当した経験もある。しかし、自分が当事者となって初めて、スラップ訴訟の不当性と言論萎縮効果が身に沁みてよく分かる。これは、一人私だけの問題ではない。わが国の言論の自由に大きな障害となっている。言論の自由市場の公正を歪め、国民の知る権利を侵害してもいる。

これは、何とかしなければならない。できれば、この事件を契機に、新たな法整備の出発点ともしてみたい。そんな思いで、新連載は、言論封殺を目的とした訴訟の不当性の報告に重点を置いたものとするつもりでいる。

ところで、このシリーズに対する原告側の反応が過剰である。批判拒絶体質の露呈というほかはない。その驚くべき内容については、追い追い明らかにしていきたい。
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