澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

教皇のスピーチに共感 ― 「軍拡は途方もないテロ行為」「核の傘の下で平和を語る偽善」

来日中のローマ教皇が話題となっている。その話題性は、伝統や権威の誇示によるものではない。容貌でも服装でも車でもない。平和を希求する真摯なメッセージの内容にある。虚仮威しの臭み芬々だった天皇交替儀式を見せつけられたあとだけに、普遍性をもつ教皇の言葉が実に新鮮に聞こえる。カソリックの信仰をもたない者の胸にも平和を実現しようという言葉の真摯さが響く。

「祈りの長崎」が、教皇の第一声の地にふさわしい。本日(11月24日)爆心地公園でのスピーチの最初の言葉が、「この場所(長崎)は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。」というものだった。

「人間が過ちを犯しうる存在であることを意識させる」象徴的な場所。それが、長崎であり、広島であり、あるいはアウシュビッツであろうか。実は世界中に数限りなくある、人が人を大量に殺すという「過ち」。大量殺人の準備のために危険な武器を備蓄する過ち。相互に不信と憎悪を拡大して軍備拡大を競う、愚かな過ち。

その中でも、核の使用こそが、人類の最も危険な「過ち」であることに異論はなかろう。核を保持し備蓄して威嚇することも同罪である。教皇の長崎メッセージは、「核抑止理論による恐れ、不信、敵意を止めよう」という表題だった。

注目すべきことは、単に祈るだけではない。その言葉の具体性と驚くほどの厳しさだ。「核兵器のない世界を実現することは可能であり必要不可欠なこと」というのみならず、軍拡競争における武器の製造や備蓄を「途方もないテロ行為だ」と厳しく指弾した。

彼は、核兵器を含む軍拡をこう言って非難する。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です。」

そして、明確に核兵器を指してこう言う。

核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。…「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」

相互不信を前提とした明確な軍備の均衡による平和の否定、核抑止論の否定である。
「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」というシンプルな原則の宣言に、説得力がある。その上で、こう訴えている。

核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。

二つ目の「過ちの地」である広島ではさらに具体的なスピーチに及んでいる。
「核の傘」の下にいながら平和について語る「偽善」を、強い言葉で非難した。最新鋭で強力な武器をつくりながら、なぜ平和について話せるのだろうか。差別と憎悪の演説で自らを正当化しながら、どうして平和を語れるだろうか」と。

戦争のために原子力を使用することを、「人類とその尊厳に反し、我々の未来のあらゆる可能性にも反する犯罪だ」と宣言。「次の世代の人々が『平和について話すだけで何も行動しなかった』として、我々の失態を裁くだろう」と警告した。さらに、60年代に核の抑止力を否定し、軍備撤廃を唱えた教皇ヨハネ23世が出した回勅(公的書簡)を引用し「真理と正義をもって築かれない平和は、単なる『言葉』に過ぎない」とも語った。

私は、信仰には無縁の人間だが、教皇のこの平和へのメッセージには賛意と共感を惜しまない。そして思う。抑止論を反駁する教皇のこのスピーチは、9条の精神ではないか。案外、こちらが世のトレンドであり、スタンダードなのではないか、と。
(2019年11月24日)

海外軍事産業と安倍政権の目には、「日本はすでに憲法改正」なのだ。

「幕張メッセで大規模武器見本市」のニュースは、聞き流していた。苦々しいことではあるが、今さら騒ぐほどのことでもあるまい。そう高を括っていた。

しかし、本日(11月21日)の赤旗の報道に驚いた。見出しが、「『日本はすでに憲法変更』!? 武器見本市の公式ガイドに」というのだ。これは騒がねばならないことだった。紛れもなく、平和を願う多くの日本人の心を傷つける」イベントなのである。社会面の左肩に4段抜きの記事だが、それでも扱いが小さ過ぎはしまいか。

このイベントの名称は、DSEI Japan 2019」という。英国のイベント企画専門企業が主催し、西正典・元防衛事務次官が実行委員長を務め、防衛装備庁が出展。防衛省、外務省、経済産業省が後援している。「安倍政権の全面支援」で行われていると言ってよい。

読みにくいが、赤旗記事に「公式ガイドブック」の一部の写真が出ている。主催者(Clarion Events)の挨拶と思しき内容。日本語で、こう書いてある。

近年の日本国憲法の一部改正に伴い、軍備拡大、自衛隊の海外派遣、日本の防衛産業のより積極的な海外展開が可能になったこともあり、日本で総合防衛展示会を展開する最適なタイミングだと捉えています。DSEIの知名度を東半球に浸透させることができれば、DSEI Londonよりも、アジア市場からの参加者が遙かに増えることで期待できるとともに、アジア市場への参入の足がかりになります。

イギリスに本拠を置く主催者Clarion Eventsは、自社の説明で、「英国で最も歴史のあるイベント主催企業と知られており、世界各国で高く評価されている主要な防衛・セキュリティ展示会の開催を手掛ける世界最大手です。DSEI(ロンドン)をはじめ、LAAD(ブラジル)、BIDEC(バーレーン)、EDEX(エジプト・カイロ)などの開催の実績を持ちます。」という。「DSEI Japan」は、日本で初めて開催される総合防衛・セキュリティ展示会です。また、DSEIブランドを英国外に初めて展開する展示会となります。」とも説明されている。

本日の赤旗記事を抜粋する。

「18日から20日まで、国内(千葉県・幕張メッセ)で初めて開かれた国際的な武器見本市「DSEI JAPAN2019」の主催者が、日本はすでに憲法を『変更』していると公言し、そうした認識が公式ガイドブックに記されていることが分かりました。

見本市の運営を取り仕切るイベントディレクターのアレックス・ソーア氏はガイドブックに掲載されたインタビューで『最近の日本国憲法の変更(Changes)は、軍備拡大、自衛隊の海外派遣、日本の国内産業(軍需企業)が地球規模で進出することを可能にした』と明言。そうしたことから、日本での開催は『最適なタイミング』であり、『アジア市場への参入の足がかりになる』としています。同インタビューの翻訳文では、憲法の「Changes」を「一部改正」と訳しています。

安倍政権が進める立憲主義破壊の『戦争する国づくり』が、『死の商人』に貴重なビジネスチャンスを与えていることを如実に示しています」「政府として、日本がすでに『憲法を変えた』との認識を認めた責任は免れません。」

英国の死の商人たちの目には、近年日本の平和憲法が「一部改正」(Changes)したと映っている。それゆえ、「軍備拡大、自衛隊の海外派遣、日本の防衛産業のより積極的な海外展開が可能になった」というのだ。だから、今こそビジネスチャンスだと、煽っているのだ。

煽られた企業として、名前が出て来るのは、「IHI、川崎重工業、スバル、日本電気、富士通、三菱重工業、三菱電機を含む日本と欧州の防衛産業を代表する企業をはじめ、中小企業等、60社を超える企業」(第1回 DSEI Japan説明会出席者)なのだ。

さらに重要ななことは、この「憲法改正(Changes)」の言葉が発せられたイベントを、「防衛装備庁が出展。防衛省、外務省、経済産業省が後援しており、事実上『安倍政権の全面支援』で行われている」という事実である。こんなコンセプトのイベントを後援(事実上は主催)した安倍政権の責任は重大である。

安倍改憲とは、「軍備拡大、自衛隊の海外派遣、日本の防衛産業のより積極的な海外展開」を意味することがよく分かる。すべては、防衛予算の拡大を伴うこと。国内外の死の商人たちの牙の前に、弱り目の日本が好餌として差し出されようとしている。安倍改憲阻止とは、「軍備拡大の阻止、自衛隊海外派遣の阻止、防衛産業のより積極的な海外展開の阻止」を意味するのだ。
改憲阻止の重要性が具体的に肌に滲みる出来事ではないか。
(2019年11月21日)

「平和を願う文京戦争展」総括会議ご報告

日中友好協会・文京支部が、8月8日?10日の3日間、文京シビック内のアートサロン(展示室2)で開催した、「平和を願う文京戦争展―日本兵が撮った日中戦争」の総括会議が8月28日夕刻に開かれた。ノモンハンから帰日したばかりの私も参加した。

この企画、3日間で1500人の熱心な入場者を得てたいへんな盛況だった。開会時間は延べ24時間で、1時間当たり55人の入場者が途切れず続いた計算になるという。その盛況の原因の第一は、文京区教育委員会が後援を拒否したことが話題となったから。とりわけ、東京新聞がそのことを大きく記事に取りあげたことから知られるところとなった。この企画を「新聞」で知った方が36%にも達していた。アンケートにそのことに触れた人が多かったことが報告された。

だから良かったかというとそうではない。入場者のほぼ4割が70代以上の高齢者、10代・20代は極めて少ない。教育委員会後援があれば、学校の生徒に呼びかけることができるという。戦争の実態を若者に知ってもらうために、次回は粘り強く各教育委員に要請し説得する活動をしようという意見が交わされた。

任意のアンケート回答要請に、427人の方が回答してくれた。これは、たいへんな高率である。その中に、
☆毎年やってほしい
☆もっと若い人に見てもらえるように
☆全国色々な所で開催して欲しい
☆3日では短い、展示期間をもっと長く
☆もっと広い会場で
などの提案が書き込まれていた。

また、アンケートの中で、次の中学生の感想文が目を惹いた。
「なんでも武力で解決しようとした日本はもう少し他の解決策があったのではないかと思った。」
「日中戦争のことについては、あまりくわしく知りませんでしたが、罪のない人、子どもや老人が沢山殺されてしまったという事実を知り、このようなことは二度と起こしてはいけないと思いました。」
「罪のない人が大勢まきこまれる戦争がもう二度と起こらないようになってほしいと思う。村瀬が残してくれた写真で当時の状況が知ることが出来ました。」
「日本の戦争の仕方や武力で解決しようとする姿勢に納得がいかなかった。」

なお、韓国のテレビ局2社が取材に訪れたという。中国のメディアは来なかった。

意見交換の中で、印象に残ったのは、戦争を語る上での被害面と加害面のどちらを語るかの姿勢の問題についてである。

今回の「文京戦争展」は、文京区(当時は本郷区)出身の兵士が撮った中国戦線での写真展示と、文京の空襲被害の展示と語り部の2本立て。前者には、南京虐殺の現場写真や生々しい従軍慰安婦の写真もある。加害者としての皇軍が映し出されている。後者は、戦争被害による区民の辛苦。おそらく、後者だけなら、文京の教育委員会が後援を拒否することはなかっただろうという。

実は、文京区自身が戦争展をしたことがあるという。その内容は、空襲被害、原爆被害に限られた、徹底した戦争の被害実態についてのものだったとのこと。しかし、侵略戦争による近隣諸国への加害責任を語らずして、あの戦争を全面的に語ることはできない。

我々は、加害責任を避けることなく、戦勝・敗戦に関わりなくすべての国の民衆の戦争被害の悲惨さを、あるがままに訴えよう。官製戦争展が自国の被害だけの展示にこだわるのなら、我々は加害責任をこそ戦争を知らない世代に見てもらわねばならない。そのような合意がほぼできたように思う。
(2019年8月31日)

大草原のノモンハンと、ピリピリ感中国のご報告。

一昨日(8月28日)、ノモンハンへの旅から帰日した。充実した6泊7日。まだ、気持は草原の風に吹かれたままである。日常生活の感覚が戻ってこない。

なるほど、内蒙古の草原は確かに広かった。森も、林も、一本の木立ちもない、見はるかす限りの草地が、視界を遮る物なしにどこまでも続く。木陰というものがない。あるのは、空の青と地の緑だけの世界。この果てしない広さの実感は、高地に登ってこそ分ろうというものだが、その登って見晴らすべき高地が見あたらない。

大草原の中に、アスファルト舗装の道路が、1本だけどこまでも真っ直ぐに続く。ハイラルの街からノモンハンの戦場まで250?300キロだという。東京・仙台間の距離なのだ。街の近くには、樹木がある。しかし、街を出てバスでしばらく走ると、間もなく樹木のない草原だけの、行けども行けども同じ景色。ここで育った人は、自ずと世界観も人生観も違うことにならざるを得ない。

この大草原が、国境紛争の舞台となった。満・蒙の国境である。いうまでもなく、満州国は日本の傀儡国家であり、モンゴル社会主義共和国の背後にはスターリンのソ連がいた。満・蒙の小部隊の衝突が、宣戦布告のないまま、日・ソの本格的な大近代戦となったのがノモンハン事件である。この草地から、石油が出るわけではない。鉱物資源もない。薪にする樹木すらないのだ。定住している人は少なく、街らしい街の争奪をしたわけでもない。いったい何のために、両軍ともに2万を超す死者を出す死闘を繰り広げたのだろうか。何のために、この地でかくも多くの人が死なねばならなかったのか。あらためて、戦争というものの理不尽さを痛感せざるを得ない。

戦跡を訪ねての充実した旅だったが、今の中国についてのいくつか印象に残ったことを書き留めておきたい。私の中国語会話能力は、ほぼゼロに等しい。日本語のできる中国人と会話のできる機会に、いくつかの質問をしてみた。私の主たる関心は3点。中国の選挙事情と、漢族の少数民族に対する差別の有無、それに香港の民衆運動の盛り上がりに対する感想である。中国共産党についての評価などは差し控えてのこと。

全人代議員の選挙は、確かに行われているという。ただし、一選挙区に候補者は党が指名した一人だけ、この候補者に有権者が信任投票をするのだという。どんな人物か、どんな抱負をもっているか、意識したことはないということだった。我々のイメージする選挙とは、およそ異質のもののごとくである。また、漢民族の他の少数民族に対する圧倒的な優越意識は相当のもので、明らかに問題が伏在している。きっと、なにかの折に顕在化することになるのだろう。

そして、驚いたのは、香港の民衆に対する平均的中国人の敵対的感情である。官製メデイアが、香港の民衆を「暴徒」と言っていることには驚かないが、私が会話の機会を得た狭い情報からの推測ではあるが、中国人の大方が同じ論調なのだ。

私が、日本語の達者なある中国人に、逃亡犯条例に対する香港の人びとの嫌悪感を話題にしたところ、「香港は国ではありませんよ。飽くまで中国の一部でしかない」「国法に従うべきが当然」と強い口調で主張された。「香港が国であろうとなかろうと、住民の意思を尊重すべきが民主主義の基本ではありませんか」とやんわり言うと、「ホントにいつまであんなことをやっているのか。早く解決してもらいたい」と、香港の人びとの心情への思いやりも、連帯感もおよそない。なるほど、これが今の中国なのだ。

もう一つ、空港の出入りに際してのセキュリティチェックの厳格さにも驚き不愉快でもあった。10月1日が70年目の国慶節で、大軍事パレードが予定されていることもあるのだというが、国際線以上に国内線のチェックが厳しい。以前にはないピリピリした空気。これも、今の中国なのだ。
(2019年8月30日)

今日は、終日ノモンハンの草原で風に吹かれている。

1975年発刊の五味川純平「ノモンハン(文芸春秋社)の帯に、本文の一節を引用して、次の記載がある。

著者は言う―自分の戦争年間の体験を歴史の時間的順序に配列し直してみて気づいたことは、ノモンハンの時点に、その後数年間の日本の思い上りや、あがきが、集約的に表現されていたことである。ノモンハン事件は、小型「太平洋戦争」であった。ノモンハン事件は太平洋戦争の末路を紛うことなく予告していたのである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か2年3ヵ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずであった。
 ノモンハン――みはるかす大平原に轟いた砲声は、日本にとっては、運命が扉を叩く音であった。日本の指導者たちはそれを聞きわける耳を持たなかった―と。

これは、名文である。戦後になってからだが、ノモンハン事件の重大さを、多くの人が漠然と感じていた。その重大さの本質を的確に表現した一文。ノモンハンの時期は、第2次大戦の直前に当たる。日本は、ソ連と、本格的近代戦の予行演習をしたのだ。五味川は、それを「小型太平洋戦争」と表現した。

その予行演習で、日本軍は手痛い敗北を喫した。それでも、その教訓を生かすことのないまま、英米蘭との開戦に踏み切り、310万人の死者を出して、太平洋戦争を終えた。五味川は、あとがきでこう記している。

? ノモンハン戦失敗の図式は三年後のガダルカナル戦失敗の図式に酷似している。特に作戦指導部の考え方において、そうである。作戦指導の中枢神経となった参謀二名が両戦に共通しているからでもあろうが、当時の軍人一般、ひいては当時の日本人一般の思考方法が然らしめたものであろうか。先入主に支配されて、同じ過誤を何度でも繰り返す。認識と対応が現実的でなく、幻想的である。観測と判断が希望的であって、合理的でない。反証が現われてもなかなか容認しない。

五味川のノモンハン作戦指導部に対する評価は厳しい。
「前線将兵は奮戦しても、後方に在る高級司令部の戦闘構想と戦力補給の関係は画餅に近いものがあった。国が貧しいといえば、すべてそこに起因するが、出来ることまで出来ていないのは、戦争そのものを組織する能力が乏しかったとしか考えられない」。「日ソ両軍の間には・・・戦闘を組織的に遂行するための配慮の密度に甚だしい差があり、戦闘の予備段階で既に直接に勝敗を分つほどの懸隔があった」「この考え方の安易さと粗末さは、これが軍事のプロかと呆れるばかりである」。

「参謀たちは性懲りもなく敵の兵力使用を低く見積っていた。戦って失敗すると、敵の兵力が意外に大きかったという」「この思い上がった愚かしさは、ほとんど理解の外である」「日本軍は、一度やって失敗したことを、同じ方法、同じ兵力で、二度三度やろうとした。他に手がないから仕方がないというのでは、近代的な戦闘を組織することはできないのである」。

こうして、死なずに済んだはずの兵士に代わって、五味川は、高級参謀たちの無能と怠惰を切歯扼腕する。そのとおりだと思いつつ、違和感も禁じえない。戦史を読むときに、いつも感じる違和感。では、もっとセオリーに忠実に、もっと巧妙に、もっと戦意を昂揚して戦闘すべきだったのかという違和感。戦闘に負けたことが責められるべきことで、勝っていればよかったのか。

五味川のノモンハン事件に対する総括的な評価として、国家の面目にかけて、不毛の地の寸土を争い、夥しい鮮血が砂漠に吸い込まれた」という一文がある。これには違和感がない。戦争自体が愚行なのだ。責任を負うべきは、戦闘を起こしたことであって、けっして負けたことではない。

ソ連を相手に近代戦争のなんたるかを知った旧軍が、なぜ、もっと大きな規模で同じ過ちを繰り返して、壊滅的な敗北に至ったか。ノモンハンの現地に行っただけでは分かるはずもなかろうが、考えるきっかけくらいにはなるだろう。

今日は一日ノモンハン。ハイラルから、200?250キロの距離だという。
(2019年8月24日)

ソ満国境で兵役に就いていた、私の父のこと。

本日(8月23日)が、ノモンハンへの旅の2日目。早朝、空路北京から内蒙古のハイラルに飛ぶ。ここが、ノモンハン事件を主導した第23師団司令部があったところ。39年5月の小規模な第1次衝突も、6月からの大規模な戦闘も、師団長(小松原道太郎中将)が、東京の陸軍省、参謀本部の紛争不拡大方針の指示を無視して、現地の判断で決行したものだという。

師団司令部遺跡では、当時の遺品を展示しているという。また、師団司令部だけでなく、旧日本軍の要塞址やハイラル神社も残っているそうだ。本日は、一日ハイラルを見学してハイラル泊となる。

ところで、五味川純平の力作「ノモンハン」の冒頭に、戦場となったノモンハンの風景が、次のように描写されている。

戦場となったノモンハン付近は、満州の西北、興安北省(旧称)が外蒙古と境を接するあたりの砂漠と草原の大波状地帯である。大小の砂丘が無数に起伏している。雑草や低い潅木群が点在するほかは空々漠々としている。戦闘は、日を追って、砂丘地帯と草原と若干の湖沼地帯にわたって展開された。
 気の遠くなるような広さである。見渡す限り平原がひろがっている。単調そのものである。徒歩行軍する部隊にとっては、この単調はやりきれない。早朝野営地を出発するときから、その日の夕刻に到着する地点が見えている。これが、歩いても歩いても距離が縮まらない。兵隊の俗語に「顎が出る」という表現がある。重い装具を背負い、太陽に灼かれ、汗の塩を吹き出しながら、いっこうに近づかない目標を怨めしげに見て歩くのは、確かに顎が出る仕事である。
 後方基地であるハイラルから戦場までは約200乃至250キロ、ソ連側は最も近い鉄道沿線のボルジヤまたはヴィルカから約750キロ、外蒙内の補給基地サンベースからは約450キロである。ソ蒙側に較べてこの補給距離の短いことが、関東軍が作戦を有利と誤判する一因であった。距離差など問題にならない補給力のいちじるしい差をやがて見せつけられることになる。

 愛琿(アイグン)に近かったという私の父の駐屯地も、こんなところであっただろうか。何度も聞かされた、父の話がある。岩手で育った父にとってもソ満国境の冬はとてつもなく寒かった。オンドルを焚いた部屋で窓を開けると、冷たい外気が室内の水蒸気を一瞬で凍らせて、部屋の真ん中に数センチの雪が積もるのだという。

また、現地で満月を2度見たそうだ。満州の月は大きい。盆のような月ではない。それこそタライのような満月だった。それが、地平線から出て、地平線に沈むのだと。

その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。達者な筆で、墨の濃淡を描き分け、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。

ノモンハン事件のあと、関東軍は南進論に転じて、戦友の多くは南方に送られて多くが戦死したという。父は、運良く召集解除となって帰宅し、その後2度まで招集されたが、いずれも内地勤務で、終戦は弘前で迎えた。

幸いなことに、父には実戦の経験はない。「たった一度、『明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ』という通知をもらったことがある。緊張この上なかったが、なにごともなくホッとした」。父にとっては、直接には戦闘の悲惨に遭わず、戦争とは軍隊生活のことだった。懐かしい想い出の一齣のようだった。隊内での演芸会やら、素人芝居やらを、楽しげに語ったことがある。戦後、父はときどきは生き残りの戦友会にも出かけた。

これに較べると母は、心から戦争を憎む様子だった。「戦争は身震いするほどイヤだ」「戦争中よいことなど一つもなかった」と繰り返し言っていた。母の妹は、夫を戦争で失っている。戦争を懐かしそうに語る男たちを、身震いするほどにイヤな奴と思っていたのではなかろうか。
(2019年8月23日)

いざ、モンゴルの大平原へ。ノモンハンへ。

本日(8月22日)、私は内蒙古ハイラルへの旅の途上である。帰京は8月28日夕刻の予定。おそらく、ハイラルでお分かりの方は少なかろう。ノモンハンの近くの街である。戦前、このハイラルに第23師団の本部があった。そして、その近くの満州と蒙古との国境紛争がこじれて、日本とソ連との本格的な近代戦となった。これが、ノモンハン事件。あるいは、宣戦布告なき「ノモンハン戦争」である。

事件は、ちょうど80年前の1939年5月に小規模な現地の衝突から始まる。一旦終熄するが、6月再び大規模な空爆・空中戦・戦車戦となり、9月まで続いて日本軍は手痛い敗北を喫した。このわずかの期間に、日本軍は2万を超す戦死者を出している。双方の死者総数は4万余。大会戦だったといえよう。ソ連側の指揮官が高名なジューコフであった。その戦跡を見学する旅なのだ。

話の始まりは、例によって、ある日吉田博徳さんからお電話をいただいたことにある。「澤藤さん、ノモンハンに興味がありませんか?」と言われる。イエスと答えれば、「では、ぜひご一緒しましよう」となることを承知で、私は「イエス」と答えた。その結果として、本日私は北京に飛んでいる。盧溝橋の戦争博物館を見学して一泊。明日からの3泊4日が、ハイラル・ノモンハンの旅となる。その後北京に泊して、帰京は8月28日の予定。

「ノモンハン・イエス」と答えたには、幾つかの理由がある。
私の父は、招集されて関東軍の兵士となった。ソ満国境の兵営で2年近くを暮らしている。除隊時には叩き上げの曹長だった。駐屯地は愛琿(アイグン)の近くの小さな街とのことだったが、それより詳しいことは分からない。ノモンハンは愛琿の近くとは言い難いが、亡父の過ごしたあたりの風景や空気を感じることができるのではないか。

ノモンハンの戦闘にも興味がある。維新後の日本は、戦争では基本的に成功体験を重ねた。日清・日露そして日独の戦争。その成功体験が日中戦争では、思わぬ長期戦となり、ノモンハンではソ連を相手に明らかな失敗体験となった。にもかかわらず、天皇制日本はこの失敗体験を生かすことなく、対英米開戦に突き進んで、壊滅的な敗戦に至る。いったい、なぜ?

モンゴルの大草原をこの目で見たい。風に吹かれてもみたいという望みもある。吉田さんはいう。「モンゴルの草原の広さはとてつもないものですよ。どこまで行っても、いつまで走っても、まったく景色が変わらない」。日本の景色を箱庭という、その感覚の拠って来たるところを実感してみたい。

そして、最後が吉田さんのお誘いである。これは断れない。吉田さんは、ノモンハン事件の直後、ハイラルの23師団に就役して歩兵連隊の小隊長として2年を暮らしたという。元気なうちに、ハイラル・ノモンハンをもう一度、よく見ておきたいという。98才の吉田さんがそうおっしゃるのだ。「お供します」というほかはないではないか。
(2019年8月22日)

権力や権威を批判する「言論の自由」を死守しよう ― 74年目の敗戦記念日に

8月15日である。74年前のこの日に戦争が終わった。

日中戦争・太平洋戦争が手痛い敗北によって終わったというだけでなく、明治維新以来幾たびも繰り返された、飽くなき侵略戦争もこの日以後はない。あの日以来74年、曲がりなりにも、日本は平和を享受してきた。

戦争こそ、最大の人権侵害であり、最大の環境破壊である。そして、最大最悪の凶悪犯罪でもある。明治維新以来今日まで、およそ150年の前半は、我が国が戦争に明け暮れた歴史だった。野蛮な天皇制が支配する軍国主義国家として侵略戦争を繰り返してきたのだ。富国強兵のスローガンのもと、国民には滅私奉公が強いられた。故なく、近隣諸国民を憎悪し侮蔑する差別感情が煽動される国家でもあった。

74年前の8月、敗戦とともに国家の原理は転換した。ポツダム宣言第6項は、「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。」という。この「勢力」の頂点に天皇が位置することに争いの余地はない。8月14日ポツダム宣言受諾をもって、主権は天皇から国民に転換したものと考えられる。

74年前の敗戦の日は、日本の近代を分かつ日であった。戦争と平和と。天皇主権と国民主権と。国家主義と人権尊重と。戦争終結の記念日は、天皇支配終焉の記念日でもあり、国民主権・民主主義・人権尊重の国家が再出発した記念日とも重なる。

本日。戦争責任を自覚することも表明することもないままに亡くなった当時の天皇(裕仁)の孫が、天皇(徳仁)として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに前天皇(明仁)の式辞とほぼ同文の次の一節がある。

「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、全国民とともに、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」。

この文言が、内閣の助言と承認を経てのものであるかについて疑義なしとしないが、「深い反省」の言葉があることは、注目に値する。同じ場での首相・安倍晋三の式辞には、反省も責任の一言もないのだから、印象際だつものがある。憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることも、同様である。

ただし、天皇の「深い反省」は曖昧模糊としたものである。天皇は、「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べたが、過去を顧み」とは、どのような過去の歴史をどのように顧みたのだろうか。戦争の惨禍をもたらした天皇の責任についての自覚はあるだろうか。過去の侵略戦争が、天皇が唱導した聖戦とされていた歴史的事実を十分に顧みているだろうか。「上官の命令は天皇の命令」として軍規を律した過去についてはどうか。天皇制否定の思想を死刑に値する犯罪とした治安維持法をもって平和運動を弾圧した過去などは、天皇の脳裏にあるだろうか。

「深い反省」とは、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことの反省でなくてはらない。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべきだと考えているのだろうか。

今、私たちは、再び戦前の過ちを繰り返してはならないことを自覚しなければならない。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。

かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者からも、権威あるとされる者からも、操られることを厳格に拒否しよう。

権力や権威を批判する「言論の自由」を死守しよう。そして、一切の差別につながる言論を拒否しよう。平和を擁護するために。次代に、平和な社会を手渡すために。
(2019年8月15日)

74回目の「敗戦の日」を目前に

ご近所の皆様、本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。こちらは平和憲法を守ろうという一点で連帯した行動を続けております「本郷・湯島九条の会」です。私は近所に住む者で、憲法の理念を大切にし、人権を擁護する立場で、弁護士として仕事をしています。

真夏の真昼時、まことに暑いさなかですが、平和を守ろう、憲法9条を大切にしようという熱い願いの訴えです。少しの時間耳をお貸しください。

74年前の8月、東京は度重なる空襲で焼け野原となっていました。1945年8月15日正午、国民に敗戦を知らせる天皇の言葉が、NHKラジオの電波に乗って焼け跡の東京に響きました。国力を傾け尽くし、310万人の自国民死者と、2000万人にも及ぶ近隣諸国の犠牲者を出した末に、ようやくにして悲惨な侵略戦争は終わりました。

こんな戦争を始めなければ、もっと早く戦争を終わらせていれば、何百万もの貴重な命が失われずに済んだはずなのです。多くの人の戦死による記録が残されていますが、とりわけ住民を巻き込んでの地上戦となった沖縄の体験は悲惨でした。沖縄では、多くの中学生・女学生が戦場に動員されなくなりました。

第一高女と師範女子部からなる「ひめゆり学徒隊」の悲劇が有名ですが、実は9校あったすべての高等女学校の生徒が動員されています。第二高女の4年生は、45年の3月から「白梅学徒隊」として、第24師団の野戦病院に配属されました。

読売新聞社会部が1980年に「沖縄 白梅の悲話」という記録集を出版しています。その中から、戦死した二人の女学生の例を紹介いたします。いずれも、15才か16才の年齢。その若さで認めた家族への手紙が事実上の遺書となって記録されています。その内容に驚かされます。

お一人は、大嶺美枝子さん。
白梅学徒隊は、6月4日に現地解散し、「各自行動」の指令となります。その後間もない9日の夜、大嶺さんは直撃彈で戦死。彼女は、動員直前に、母親宛の手紙を書いています。

「お母様、いよいよ私達女性も出動できますことを心から喜んでおります。お母様も喜んで下さい。『皇国は不滅である』との信念に燃えて生き延びてきました。軍と協力して働けるのはいつの日かと待っておりましだ。いよいよそれが報いられたのです。いま働かねばいつの日働きますか。私は暖かいお母様のお教えを生かして一人前の立派な日本女性となる覚悟で居ります。
お母様、私の身軆のすべてを大君に捧げたのです。男でも女でも忠を尽くす信念は一つです。私達の身軆は国が保証して下さるのです。何の心配もなさらないで下さい。散る時には立派な楼花となって散って行きます。その時には家の子は偉かったと賞めて下さいね。」

母親の感想は、掲載されていません。心中いかばかりだったことでしょう。

もう一人は、仲村渠幸子さん。終戦の前年1944年夏頃に、姉(第一次女子挺身隊として沖縄から滋賀の近江航空に動員されていた)に宛てた手紙が遺されています。
姉さん、戦いも益々熾烈を極め、サイパン島玉砕の報を知った時には熱い涙がこみあげ、宿敵米撃ちてし止まむの意気旺盛になり、今迄の生ぬるい生活を断然、制裁しております。
……那覇では近頃、疎開騒ぎで荷車や荷馬車が夜昼となくガラガラと大通りを行くのを見るにつけ此の沖縄が戦場化されると思うと私達が玉砕するのも今年中でせう。おばあさんは相変わらず頑固で、疎開なんかしませんので頼もしい。他府県の人は総引き上げで、級友は6名も転校してしまいました。私達は純粋なる琉球人ですから居残って、ヤンキー共の首の二つや三つは竹槍で刺し殺してから玉砕する覚悟です。上級学校希望も捨てました。代わりに女子整備兵を希望して大いに運動して居ります。?」

彼女の最期については、このようだったと言います。
「彼女は防衛隊の父の戦死を知った夜、『仇を討ってやる』と、石部隊の兵に混じり軍服を着てハチマキを締め斬り込みに行った。家族が止めても止めても聞かなかったという。どの様な最後であったか不明のままである。」

生き残った元学徒からは、その悲劇の原因として、皇民化教育が語られています。無数の悲劇を重ねて、1945年8月15日、戦争が終わります。1931年から始まった長い長い戦争でした。再び、この戦争の惨禍を繰り返してはならない。多くの人々の切実な思いが、平和憲法に結実しました。とりわけその9条が、再びの戦争を起こさないという国民の決意であり、近隣諸国への誓約でもあります。

大日本帝国憲法は戦争を当然の政策と考えた、軍国主義憲法。主権者である天皇の名による戦争を神聖で正当なものとし、国民に戦争参加の義務を押し付けた憲法でした。戦後の日本国民は、きっぱりとこの好戦憲法を捨て去り、平和憲法を採択したのです。以来74年、私たちの国は戦争をすることなく、過ごしてきました。

日本国憲法は、戦争を放棄し戦力を保持しないことを憲法に明確に書き込みました。それだけではなく、この憲法には一切戦争や軍隊に関わる規定がありません。9条だけでなく、全条文が徹頭徹尾平和憲法なのです。戦争という政策の選択肢を持たない憲法。権力者が、武力の行使や戦争に訴えることのないよう歯止めを掛けている憲法。それこそが平和憲法なのです。

ところが、歴代の保守政権は、この憲法が嫌いなのです。とりわけ、安倍政権は憲法に従わなければならない立場にありながら、日本国憲法が大嫌い。中でも9条を変えたくて仕方がないのです。

彼が言う「戦後レジームからの脱却」「日本を、取り戻す」とは、日本国憲法の総体を敵視するという宣言にほかなりません。「戦後」とは、1945年敗戦以前の「戦前」を否定して確認された普遍的な理念です。人権尊重であり、国民主権であり、議会制民主主義であり、なによりも平和を意味します。戦後民主主義、戦後平和、戦後教育、戦後憲法等々。戦前を否定しての価値判断にほかなりません。安倍首相は、これを再否定して「戦前にあったはずの美しい日本」を取り戻そうというのです。

戦後74年、日本国憲法施行以来72年、国民は日本国憲法を護り抜いてきました。それは平和を守り抜くことでもありました。そうすることで、この憲法を自らの血肉としてきました。平和は、憲法の条文を護るだけでは実現できません。国民の意識や運動と一体になってはじめて、憲法の理念が現実のものとして生きてきます。平和憲法をその改悪のたくらみから護り抜き、これを活用することによって恒久の平和を大切にしたいと思います。

そのため、安倍9条改憲を阻止して、「戦後レジームからの脱却」などというふざけたスローガンを克服して行こうではありませんか。夏、8月、暑いさなかですが、そのような思いを新たにすべきとき。憲法9条と平和を大切にしようという訴えに、耳をお貸しいただき、ありがとうございました。

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各 位

「本郷・湯島九条の会」石井 彰

強烈な炎天下での昼街宣になりました。平和運動の方、文京労連の方もご参加いただき13名の方々がマイクでの訴え、署名、リーフ配布とみなさん大活躍でした。みんな汗びっしょりです。ほんとうに頭が下がります。

三度の大戦許すまじの熱い思いた熱暑を払い除けての活躍です。こんな素晴らしい仲間がいることを誇らしく思います。お盆でいつもより人通りは少なくても多くの方が訴えに耳を傾けていただきました。

来月は9月10日(火)12時15分?です。多くの方のご参集をお待ちしています。炎暑はまだ続きます。御身専一にお過ごしくださるようお願い申し上げます。

(2019年8月13日)

文京写真展「日本兵が撮った日中戦争」の出足好調

東京は暑い。熱い。アツ?イ。8月上旬の東京の暑さは尋常ではない。油断していると命に関わる、と言って誇張ではない。

この暑さのさなかに、来年は東京でオリンピックだという。とても正気の沙汰ではない。いったい誰が、こんな無謀なことをたくらんだのか。来年確実に起きるであろう悲劇に、誰がどのように責任をとれるのか。

一旦始まった戦争が、今さら引き返すことなどできないと、国の破滅まで突っ走ったのと、同じ構造ではないか。

その戦争の実態を語り伝えようという、平和を願う文京・戦争展「日本兵が撮った日中戦争」。猛暑のさなかに出足は好調である。昨日(8月8日)午後だけで、ほぼ400人が訪れた。狭い展示室に熱気が感じられる。

アンケートの回収率がとても高いというのが、主催者の感想。みな、戦争に対して一言いわねばならないという気持になっている。

東京新聞の記事を読んで、後援申請を不承認とした文京区教育委員会に抗議の意味で参加という人がかなりいた。あと2日、ぜひご来訪いただきたい。まず、この企画を宣伝したい。

「日本兵が撮った日中戦争」

平和を願う文京・戦争展
文京・真砂生まれの村瀬守保写真展

DVD上映 証言1 侵略戦争
      証言2 中国人強制連行
文京空襲  語り部 小林暢夫さん
(8月10日午後2時より)

と き 8月 8日(木) 13:00?18:00
    8月 9日(金) 10:00?20:00
    8月10日(土) 10:00?16:00
ところ 文京シビック1階 アートサロン(展示室2)
入場無料

2年半にわたり中国各地で撮影し、家族に送られた日本兵の日常

村瀬守保さん(1909年?1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。

?一人一人の兵士を見ると、
?みんな普通の人間であり、
?家庭では良きパパであり、
?良き夫であるのです。
?戦場の狂気が人間を野獣に
?かえてしまうのです。
?このような戦争を再び
?許してはなりません。
村瀬守保 

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この企画展の後援申請を不承認とした文京区教育委員会の委員5名の氏名を再度明示しておきたい。そして、ぜひとも、汚名を挽回していただきたい。
 教育長 加藤 裕一?
 委 員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
 委 員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
 委 員 坪井 節子(弁護士)
 委 員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

なお、教育委員の報酬は月額231,500円である。月一回の定例会に欠席しても全額が支払われる。ぜひ、区民の期待に応える委員であって欲しい。

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河村名古屋市長に抗議し、「表現の不自由・企画展」の再開を求める緊急署名に引き続きご協力を

こちらの緊急署名もぜひご参加よろしくお願いします。

8月1日に愛知芸術文化センターで始まったばかりの「表現の不自由展」。テロを予告した犯人の一人が逮捕されましたが、表現の自由擁護派と妨害派の衝突は、抜き差しならないところまで来ています。

安倍官邸と、河村名古屋市長そして維新の松井・吉村が、歴史修正主義と表現の自由妨害派としてのタッグを組む構図が鮮明になってきました。

「表現の不自由展」を中止のままにしておくことは、今後に禍根を残すことになります。ぜひとも、再開させなければならないと思います。

署名簿は、8月13日(火)に、第一次集約の上、8月15日(木)の午後に署名簿を持参して愛知県知事宛提出と決まりました。記者会見も予定しています。

署名の趣旨は、下記の2点です。

1.主犯者というべき河村名古屋市長に謝罪を求める。

2.企画展を即時、再開すること

この署名は短期・集中的に成し遂げなくてはなりません。

下記の要領で、よろしくお願いします。

 

署名用紙のダウンロード(プリントしてお使い下さい)

→ http://bit.ly/2Ynhc9H

ネット署名 → http://bit.ly/2YGYeu9 メッセージもぜひ

ネット署名に添えられたメッセージ一覧 → http://bit.ly/2LZz0RR

(2019年8月9日)

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