澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ロシア対ウクライナ 戦争の終わらせ方は?

(2022年6月20日)
 「ロシアのウクライナに対する軍事侵攻が始まってから、もうすぐ4か月。この間、毎日のニュースに胸が痛むね」

 「そのとおりだ。戦死者の報道も建物が壊されているのも見るに忍びない」

 「早く戦争が終わるといいね」

 「それはそのとおりだが、戦争が終わりさえすればよいというものでもないんじゃない。終わり方や終わらせ方が問題だよね」

 「えっ? どういう意味?」

 「戦争を仕掛けたのはプーチンのロシアだ。明らかな侵略行為で、国連憲章違反だ。このロシアの責任をうやむやにしたままで、戦争が終わりさえすればよいということにはならないと思う。ロシアの責任を明確にして、現状を侵略行為のない状態にまで回復しなければ正義を貫くことができない。再発も防止できない」

 「そりゃあ、ウクライナが侵略者を打ち負かして、あなたが言うような戦争の終わり方ができればそれに越したことはない。でもね、なかなかそうはならない。いまの戦況では、戦争は長引きそうよね。戦争が長引けば、毎日毎時、多くの人の命が失われることになる」

 「既に多くのウクライナ人の血が流されている。その犠牲はいったい何だったのかということになる。この犠牲を無駄にしないめにも、安易な休戦の妥協は許されない」

 「それを言うなら、ロシア国内の論理も同じ。成果のないままの戦争終了は、ロシアの兵の流した血を無駄にすることになる、と言うに決まっている」

 「その、どっちもどっちと言う理屈が、我慢できない。侵略した側とされた側を同列に置いてどうするの」

 「問題への解答は、結局のところ戦況の現実が決めざるを得ない。今、戦況はロシアに優勢と報じられているし、少なくともこのままでは長引くことは避けられないでしょ」

 「いや、ウクライナが持ちこたえれば、アメリカやNATOの武器援助が間に合うことになる。ロシアに対する経済制裁も次第に利いてくる。そうすれば、ウクライナに勝機があるとボクは思う。侵略戦争にいやいや駆り出されたロシア軍と、自分の国土を守ろうというウクライナ軍とでは、士気がまるで違うはずだから」

 「仮にそうなるとしても、それまでには多くのロシア軍兵士が死ななければならない。多くは、不本意に戦場に引っ張られた若者たち。その悲惨な死には、やっぱり胸が痛む」

 「ボクは、侵略された側のウクライナの民間人や兵の死には胸が痛むけれど、侵略に加担したロシア兵士には同情したくない。彼らが、占領地で行った非道な行為は許せない」

 「あなたは過剰なナショナリズムに毒されているようね。国対国、国民対国民という対立図式だけが頭の中に際立っていて、その枠をはずれた、国家対国民の関係での見方はなく、個別の人間は視野にない。国際的な両国民の平和的連帯を追求する視点なんてまったくないのね」

 「現実に砲弾が飛び交っている戦争を語っているのに、なんというリアリティに欠けことを言うんだい。侵略国ロシアの責任は、一人プーチンにだけあるわけじゃない。プーチン独裁を許したロシア国民全体が責任を負わねばならない。戦前の天皇制国家の侵略の責任が、一人天皇にだけあるのではなく、天皇制を支えた国民全体の責任だったように」

 「その論法は、プーチンや天皇というトップの責任を免罪する常套手段ね。一人ひとりの国民の多くは戦争の被害者なのよ。ロシアの兵士の命だってかけがえのないものでしょう」

 「戦争のさなかでは、そんな甘いことを言ってはおられない。ロシア軍兵士の死を歓迎するとまでは言わないが、やむを得ないと割り切らざるを得ない」

 「あなたが、そんな冷酷な人間だとは知らなかった」

 「ボクも、あなたがそんな夢想家だとは思ってもいなかった」
 

「アゾフ海 みな同朋と思う世に など砲煙の立ちさわぐらん」

(2022年6月15日)
 今朝の毎日新聞朝刊2面「水説」(古賀攻・専門編集委員)を一読して驚いた。「『ロシアの日』を巡る話」という表題のコラム。鳩山由紀夫という人物に対する評価を変えざるをえない。

 6月12日は、「ロシアの日」であった。ロシアにとっての建国の日である。ロシアは侵略戦争のさなかに、「ロシアの日」を迎え、世界の各地で「ロシアの日」を祝う催しを行った。

 東京では、当日が日曜なので平日の9日(木)、麻布台のロシア大使館での開催となった。例年だと各国の外交官ら1000人以上でにぎわうレセプションだそうだが、今年は200人程度だったという。さもありなん。

 そこで「元日本国内閣総理大臣」の肩書で紹介された、主賓・鳩山由紀夫がこう挨拶したという。

 「大事なことは、物事の本質を見極める目を持たなければならないということでございます」「プーチン大統領はウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に入らないよう、東部への軍事活動をやめるよう協定を結ぼうとしましたが、アメリカは一顧だにせずに拒否し、たまりかねてついに戦争になってしまいました」

 鳩山由紀夫の目にだけは、物事の本質が見極められているそうだ。その本質とは、ロシア対ウクライナの戦争の原因は、もっぱらウクライナとアメリカに帰せられるべきもので、戦車を連ねて国境を越えて軍事侵略し、他国の国民に対する殺戮を重ねたロシアの側にはないごとくなのだ。「たまりかねてついに」「やむにやまれぬ」開戦だとされている。

 この鳩山コメントをどう評価すべきだろうか。まさか、「日本社会がロシア糾弾一色に染まっているときの、勇気ある少数意見の吐露」ではあるまい。ロシアに対する、みっともない阿諛追従と言わざるを得ない。侵略戦争を開始したという一点において、ロシアの有責は明白である。いささかも、これを免責してはならない。

 古賀は、鳩山の言を「日米開戦時の旧日本軍とそっくりだ」と評している。なるほど、対米(英蘭)開戦を事実上決めた1941年9月6日の「御前会議」での天皇(裕仁)が口にしたという「四方の海みな同朋と思う世に など波風の立ちさわぐらん」を思い出させる。この歌、祖父・睦仁の作。その引用である。

 波風の張本人が、「など波風の立ちさわぐらん」と言ってみせているのだ。まるで、オレが悪いんじゃないみたいに。オレは、「四方の海みな同朋」と思っているのに、オレの真意を汲もうとしない相手が悪い、というみっともない弁解である。鳩山は、プーチンも裕仁と同じ想いと察したのだろう。

 古賀の文章は厳しい。「どんな背景事情があるにせよ、ロシアの行為は絵に描いたような国連憲章違反だ。しかも『我々の報復攻撃は稲妻のように素早い』と露骨に核兵器で脅す国などロシアと北朝鮮以外にない」「過去のいきさつをことさら強調し、ロシアの過剰で独りよがりな国防観を『個性』であるかのように扱うことは、ロシアなりの大義をおびき寄せる。それは、何の落ち度もなく殺された人びとへの追い打ちにほかならない」という。まったくそのとおりだ。

 だが、古賀の筆はそこで終わらない。「戦争を終わらせるには、高度に政治的な『妥協』が必要になる」という。明言はないが、もしかしたら鳩山には、ロシアを持ち上げておいて、プーチン説得に動く思惑があるのではないか、と示唆しているようにも読めるのだ。

 もし、それに成功すれば、あらためて鳩山由紀夫という人物を評価し直そう。それなくしては、単なるプーチン迎合の「ゴマすり」としか言いようがない。

「本郷湯島九条の会」街頭宣伝ー本日は17名で参院選の意義を訴え

(2022年6月14日)
 途中で小雨がぱらつきましたが、きょうは国民救援会中央本部の方も参加していただき、総勢17名の賑やかな街宣になりました。このくらいの人数になると、道行く人の注目度も上がるような気がします。参院選間近で、弁士も、プラスターを持つ人も、署名板を持つ人も、それぞれ元気いっぱいの声が本郷三丁目の交差点に響き渡りました。
 マイクはロシアによるウクライナへの軍事侵略を糾弾し、火事場泥棒の如く軍事力強化を叫ぶ国内の翼賛勢力を弾劾しました。
 ウクライナ侵略に乗じて「敵基地攻撃」「軍事費2倍化」「憲法9条に自衛隊を書き込め」「核共有の議論を」という大合唱を痛烈に批判し、”軍事対軍事”の悪循環は結局日本を戦争に巻き込むことになる。あくまで9条を基軸に、政治・外交の力で平和を築こうと訴えました。
 さらに、これまでも「異次元の金融緩和」により異常円安をつくり出し、物価高騰を招いたアベノミクスの責任を追及しました。国民生活を守ることと戦争を阻止することが深く結びついた課題であることも訴えました。消費税を下げ、年金の切り下げを止め、高齢者医療負担2倍を止めさせ、戦争のための国債発行を止めることが岸田政権に戦争を止めさせることにもなります。
 間近に迫った参院選は日本の行方を決める選挙です。投票に行きましょう。ぜひ、行ってください。このことを強く訴えました。(以上、世話人・石井彰氏)

 [プラスター]★プーチンは人殺しをやめろ。女・子ども・老人を殺すな。★プーチンは核をつかうな、日本は核を持ち込むな。★破壊も人殺しもイヤ、憲法9条で平和を。★戦争できる国9条改悪ストップ。★軍事費増強NO、軍拡は戦争を招く。軍備で平和は生まれない。★まず分配、財源は法人税、株配当税。

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 近所の弁護士です。私が最後の弁士となります。もう少しお耳を貸してください。明日6月15日に通常国会は閉会します。そして、6月22日来週の水曜日に参議院議員選挙の公示となり、7月10日・日曜日の投開票となります。いつにもまして大切な選挙です。

 もしかしたら、その後の3年間、国政選挙はないかも知れません。この参院選に勝てば、政権にとって選挙による制約のない「黄金の3年間」が始まる、という声が聞こえて来ます。政権がなんでもできるという「黄金の3年間」にしてはなりません。

 今度の参院選は、おそらくはロシアのウクライナ侵攻中の選挙です。日本の平和主義、国民の憲法意識が試される選挙になります。そして、とんでもない物価高が押し寄せ、国民の暮らしが押し潰されそうになる状況下での国政選挙でもあります。争点になるテーマは大きくは二つ。一つは何よりも平和をどう作るべきかという課題であり、もう一つは国民生活防衛の課題です。そして、この二つのテーマは深く結びついています。

 ロシアによるウクライナ侵攻は、明らかなプーチン・ロシアの国連憲章違反の武力行使です。私たちは、全力を上げてロシアの違法を糾弾し、戦争を開始したロシアに対して、即時停戦・軍事侵攻の撤退を求める大きな声を上げ続けなければなりません。そして、侵略戦争の被害に苦しんでいるウクライナの人々への人道支援にも力を尽くしたいと思います。

 さらに、私たちの国の、平和主義・国際協調主義を謳う憲法と、その中核にある憲法9条の理念を再確認しなければなりません。今こそ、今だからこそ、日本の平和を願う立場から、しっかりと憲法9条擁護の姿勢を確認しなければなりません。

 憲法9条の理解は、これを擁護する人々の間で、必ずしも一義的なものになっていませんが、少なくとも「専守防衛」に徹するべきで、「攻撃的な武器は持たない」「軍事大国とはならない」ことは、長く保守の政権も含めての国民的な合意であったはずです。

 ところが、予てから軍事大国化を狙っていた右派勢力が、今を好機と大きな声で「軍事費増やせ」「防衛費を5年以内にGDP比2%以上にせよ」「年間10兆円に」「いや12兆円に」と言い出す始末。

 それだけではありません。「敵基地攻撃能力が必要だ」、「それでは足りない。敵の中枢を攻撃する能力がなければならない」「先制攻撃もためらってならない」「非核三原則も見直し」「核共有の議論を」と暴論が繰り返されています。そして、そのような軍事力の増強に邪魔となる「憲法を変えてしまえ」というのです。

 これまで歴史が教えてきたことは、「安全保障のジレンマ」ではありませんか。仮想敵国に対抗しての我が国の軍備増強は、必ず仮想敵国を刺激し軍備増強の口実を与えます。結局は、両国に際限のない軍拡競争の負のスパイラルをもたらすだけではありませんか。このような愚行を断ち切ろうというのが、戦争を違法化してきた国際法の流れであり、その到達点の9条であったことを再確認いたしましょう。
 平和を守り、その礎としての平和憲法を守ることが参院選の争点の一つとならねばなりません。

 もう一つが、今進行を始めている恐るべき物価高です。6月の統計が発表されれば、前例のないインフレが明らかとなることでしょう。物価が上がりますが、賃金は上がりません。物価は確実に上がりますが、年金のカットは既に決められています。医療費も値上がりします。

 いろんな要因が考えられますが、基本は政権与党の経済政策の失敗です。アベノミクスは、新自由主義的なイデオロギーに基づいて、大企業の活動を自由化し儲けを保障しました。庶民からむしりとった消費税を財源に法人税の大減税までして、優遇したのです。

 まずは大企業を太らせれば、その利益はやがて中小企業や労働者のところにまで、したたり落ちてくるという「トリクルダウン」理論がまことしやかにささやかれました。しかし、結果は惨憺たるものです。大企業の利益は内部留保としてため込まれ、労働者に滴る利益はありません。賃金はまったく上がりません。

 アベノミクスで潤ったのは大企業とその株主の金持ち連中ばかりで、結局庶民には生活苦をもたらしただけ。とりわけ、異次元の金融緩和策が、市場に金余りと円の価値切り下げをもたらしてインフレの原因となってしまいました。インフレは、年金生活者と低所得層に深刻な打撃を与えます。何とかしなければなりません。

 私たちの投票の選択肢は三つあります。一つは政権を構成している自公の与党勢力です。これへの投票は、軍拡と9条破壊そして生活苦の道です。二つ目が、立憲野党です。9条を守り、軍拡を回避して9条を守り、専守防衛からはみ出さない立場。そして、三つ目が、「与党」ではないが「野党」でも「ゆ党」でもない、「悪・党」というべき維新の勢力。そして、労働組合でありながら資本の手先になり下がっている連合と結託した政治家たち。連合の推薦を受けた政治家に投票せぬようお気をつけください。

 ぜひ皆様、大切な選挙にまいりましょう。そして、平和と憲法と暮らしを守るために、立憲野党に投票をしていただくようお願いをして、本郷湯島九条の会からの訴えを終了いたします。

「まさか神よ、あなたもロシア人なのですか!」

(2022年6月10日)
 金曜日には、「週刊金曜日」に目を通す。毎号の巻頭に「風速計」というコラムがあって、まずはここから読むことになる。編集委員7名が持ち回りで書いているが、崔善愛さんの文章からは、知らないこと、気が付かないことを教えられることが多い。

 崔さん執筆の同誌4月8日号同コラムの冒頭に次の一文があって、ギョッとさせられる。「引き裂かれる想い」と題されたもの。

「郊外は破壊され焼き尽くされた。ヤシュとヴィシルはおそらく塹壕で戦死しただろう。マルセルは捕虜になったのが見える。おお神よ、あなたはおいでになるのですか。おいでになるのならどうして復讐してくださらないのですか! それともさらなるロシア人の罪を望んでいるのですか! それとも、まさか神よ、あなたもロシア人なのですか!

 これは、ポーランドの作曲家フレデリックショパンが1831年ドイツ・シュツットガルトで書いた日記の一部だという。崔さんは、「『侵略への怒り』それはショパンのどんなに美しい旋律にも宿っている。なぜ歴史はこうも繰り返されるのか」と綴っている。

 200年後の今、プチャで、マリウポリで、そしてさらにセヴェロドネツクで、「まさか神よ、あなたもロシア人なのですか!」という怨嗟の声が聞こえる。しかし、崔さんは、ロシア糾弾一色の「正義の声」にも不安を隠さない。このコラムの最後は、こう結ばれている。

 「朝鮮半島が再び戦火に見舞われたとき、この国全体が『正義は我にあり』という熱狂に覆われるかもしれない」「ゼレンスキー大統領が日本へ向けて行った演説後、国会議員らが総立ちで拍手するのをテレビで見ながら、こわくなった。」

 表題の「引き裂かれる想い」とは、自分の中にある「侵略者ロシアを強く糾弾する想い」と、「『正義は我にあり』という熱狂を危険で警戒すべきものとする想い」との葛藤ということなのだろう。

 そして、同誌5月27日号の「風速計」が崔善愛さんの執筆である。「国家に左右されないもの」という表題。そのなかに、次の一文がある。

「2カ月前、劇団制作者らが集う会合の席でこんな意見が出された。
 『公演のために準備していた作品の中でロシア民話の部分を割愛することにした』
まるで戦時中の『敵性音楽』扱いだ」
「子供達は絵本の物語を聞くとき、それがどこの国の話なのかなど気にしない。絵本の中の世界に無心に引き込まれていくだけだ」「罪深いのは民話ではない。大人たちが覇権を争い、戦争を仕掛けたこと。そして忘れてならないのはロシアの人々の中にも、平和を愛し、戦争を憎み、戸惑い、嘆く人が少なからずいることだ。
 国家に左右されない民の歌、民の震える声に耳をすまそう」

 ここにも、ロシア糾弾一色という全体状況へのプロテストがある。私も、崔さんに倣って、国家の大声にかき消されそうになる「民の歌、民の震える声」に耳をすまそうと思う。

プーチンに読ませたい、小川未明の「野ばら」

(2022年6月6日)
 本日、関東甲信地方に梅雨入りの宣言。陰鬱で肌寒い日である。雨風ともに強い。ウクライナの戦況は膠着して停戦の希望は見えてこない。被害の報がいたましい。国内では戦争便乗派の平和憲法攻撃と、防衛費倍増論に敵基地攻撃能力論まで台頭している。私の体調もよくない。憂鬱この上ない本日。ものを考えるのも億劫だし、煩瑣な文章を書く気力もない。昔読んだ小川未明の童話を引用して、本日の責めを塞ぎたい。

 たしか、小学校の図書室で小川未明の幾つかの作品を読んだ。そのうちの「野ばら」が鮮明に記憶に残っている。読後感は深刻だった。どうして、人と人とは仲良くできるのに、国と国とは戦争をするのだろうか。国なんかなくなければ人と人とは仲良くできるのか、とも考えた。誰が考えても、戦争はおろかなことではないか。もう、こんなことをやってはいけない。

野ばら 小川未明

 大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣となり合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起らず平和でありました。
 ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
 二人は、石碑の建たっている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
 初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝やいているからでありました。
 ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。
 「どれ、もう起きるか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出でると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝やいていました。
 二人は、岩間からわき出でる清水で口をすすぎ、顔を洗いにまいりますと、顔を合わせました。
「やあ、おはよう。いい天気でございますな。」
「ほんとうにいい天気です。天気がいいと、気持がせいせいします。」
 二人は、そこでこんな立ち話しをしました。たがいに、頭を上あげて、あたりの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感を見る度に心に与えるものです。
 青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした。けれど老人について、それを教わりましてから、このごろはのどかな昼ごろには、二人は毎日向い合って将棋を差していました。
 初めのうちは、老人のほうがずっと強くて、駒を落として差していましたが、しまいにはあたりまえに差して、老人が負かされることもありました。
 この青年も、老人も、いたっていい人々でありました。二人とも正直で、しんせつでありました。二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。
 やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。
 青年は、また勝みがあるのでうれしそうな顔つきをして、いっしょうけんめいに目を輝やかしながら、相手の王さまを追っていました。
 小鳥はこずえの上で、おもしろそうに唄っていました。白いばらの花からは、よい香りを送っていました。
 冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方ほうを恋しがりました。
 その方には、せがれや、孫が住すんでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ。」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます。」と、青年はいいました。
 やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮していた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
 「さあ、おまえさんと私は今日から敵どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください。」と、老人はいいました。
 これを聞くと、青年は、あきれた顔をして、
 「なにをいわれますか。どうして私とあなたとが敵どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方ほうで開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。
 国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。野ばらの花が咲さいて、みつばちは、日が上がると、暮れるころまで群っています。いま戦争は、ずっと遠くでしているので、たとえ耳を澄ましても、空をながめても、鉄砲の音も聞こえなければ、黒い煙の影すら見られなかったのであります。老人はその日から、青年の身の上を案じていました。日はこうしてたちました。
 ある日のこと、そこを旅人が通りました。老人は戦争について、どうなったかとたずねました。すると、旅人は、小さな国が負けて、その国の兵士はみなごろしになって、戦争は終ったということを告げました。
 老人は、そんなら青年も死んだのではないかと思いました。そんなことを気にかけながら石碑の礎に腰をかけて、うつむいていますと、いつか知らず、うとうとと居眠をしました。かなたから、おおぜいの人のくるけはいがしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして馬に乗ってそれを指揮するのは、かの青年でありました。その軍隊いはきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。
 老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったく夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯かれてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。

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 小川未明の作品は、既に著作権の保護期間が終了している。転載自由である。青空文庫本を多くの人に読んでいただきたい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51034_47932.html

パロディはいくつもある。下記は、公開されている才能溢れたマンガの一作。
https://rookie.shonenjump.com/series/pGBIkZk5Ffc/pGBIkZk5Ffk 

 今、この国境をはさんだ二人の兵士の話は、ロシアとウクライナ両国兵士の関係として連想せざるを得ない。両国の国民と国民とが、兵と兵とが、殺し合うほど憎しみ合っているはずはない。プーチンに読ませたいと思うが、無理だろうか。

プーチン・ロシア政権の強権体質に見えてきたほころび

(2022年5月31日)
 一昨日(5月29日)の東京新聞第4面に「ロシア地方議員 侵攻批判」「極東の沿岸『孤児増え、若者死ぬ』」という囲み記事。また、昨日(5月30日)の毎日に、内容をふくらませた続報。いずれも、現地紙の報道をニュースソースとしている。

 小さな記事だが、これは注目に値するニュース。プーチン政権のウクライナ侵攻に、議会で公然たる批判の声が上がっているのだ。この批判の声には支持者のグループがある。当然に、氷山の一角と見なければならない。表面化せずに水面下に沈潜した批判のマグマは巨大なものでありうる。このただならぬ事態を政権は封じ込めることができるだろうか。

 記事の大要は以下のとおりである。

 「ロシア極東の沿海地方議会で27日、プーチン政権の『体制内野党』とやゆされてきた共産党のワシュケービッチ議員が、特別軍事作戦と称するウクライナ侵攻を批判する一幕があった。政界から非戦の訴えが上がるのは異例だが、議員らはその場で議場から退場させられた。独立系メディア『メドゥーザ』などが伝えた。
 ワシュケービッチ氏は、議案審議中に突然、プーチン大統領に宛てたという声明を読み上げ『作戦をやめなければ、孤児が増える。国に貢献できたはずの若者たちが死んだり、障害を負ったりした。軍の即時撤退を要求する』と述べた。
 同地方のコジェミャコ知事はこの発言に怒り、議会側との申し合わせの上、ワシュケービッチ氏と賛同の拍手をしたとみられる議員を退場させた。」

 「沿海地方州(の議会)」が、固有名詞なのか普通名詞なのかよく分からない。しかし、とある地方議会で、「体制内野党と揶揄されてきた野党・共産党」の議員が公然と反戦・反プーチン演説をしたことだけはよく分かる。しかも、議員1人の行為ではない。「ANNニュース」は、「共産党の議員ら3人が連名で」と報道している。

 毎日新聞は、「野党・共産党のワシュケービッチ議員は軍の即時撤収を呼びかけるプーチン大統領宛ての声明文を読み上げ、これに対し、政権与党『統一ロシア』に所属するコジェミャコ知事は『ナチズムと戦うロシア軍の名誉を傷つける。裏切り者だ』と非難。知事の要求に応じ、議会はワシュケービッチ氏と賛同した議員の発言権を奪う議案を可決した」と報じている。

 プーチン政権を支える与党は、「統一ロシア」で、ロシア共産党はプーチン政権の『体制内野党』と揶揄されてきた少数野党なのだ。

 ロシアは複数政党制で多数の政党があるというが、ロシア連邦議会ロシア連邦議会の国家院(下院)に議席をもつ主要政党は6党だという。
 2021年9月、5年に一度の選挙の結果、定数450のうち、与党「統一ロシア」が324、野党「ロシア連邦共産党」57、「公正ロシア」27、「ロシア自由民主党」21という議席配分、これに「市民プラットフォーム」「政党エル・デー・ペー・エル」が続いている。イデオロギー的には、極左から極右まで、ロシア連邦共産党公正ロシア祖国統一ロシア市民プラットフォーム政党エル・デー・ペー・エルの順に並ぶとされるが、何が右で何が左か、さっぱり分からない。

 いずれにせよ、ロシアにも議会があり、野党があるのだ。ロシア共産党はけっして取るに足りない存在ではない。2021年ロシア下院選挙では得票率21.7%だったという。地方議会の共産党3議員の反乱は、もしかしたら燎原の火となるかも知れない。

 なお、このニュースを報じる毎日が、併せて「ロシア南部の軍事裁判所は従軍を拒否して除隊処分となった兵士らによる異議申し立てを棄却した。ロシア国内で軍事侵攻に賛同しない声や動きが相次いで露呈している」と記事にしている。 〈ウクライナへの従軍を拒否して除隊処分となる兵士ら〉がいるのだ。しかも、果敢に異議申し立てまでしている。それが、ニュースになって民衆の耳目を集めてもいるのだ。 ロシアのあちこちに、少しずつだが、破綻が見えてきているといえるだろう。

歌壇に見る非戦の訴え

(2022年5月30日)
 ロシアのウクライナ侵攻以来、各紙の歌壇に戦争を詠う歌が取りあげられている。戦争の悲惨さや理不尽を、我が国の戦争を思い起こす形で詠うものが多い。いかなる戦争も他人事ではないのだ。昨日(5月29日)の「朝日歌壇」。永田和宏選の冒頭3首が、そのような歌として胸に響く。

 軍隊は軍隊をしか守らない交戦国のどちら側でも
 (東京都)十亀弘史

 軍隊は何を守ために存在するのか。国民を守ることがタテマエだが、実はそうではない。いざというときには、住民を見捨てる。のみならず、住民を殺害さえする。誰のために? 結局は軍隊を守るために。そして、「大の虫を生かすためには、小の虫を殺すのもやむを得ない」とうそぶくのだ。我々は、これを沖縄戦での32軍の蛮行として、また終戦時の関東軍の卑劣な逃避行として記憶してきた。あたかも、皇軍だけの特殊事情のごとくに。しかし、この歌は「交戦国のどちら側でも」と、戦争と軍隊の本質を言い当てている。
 ウクライナへの侵略戦争で、負傷して歩けないと口にしたロシア兵が、足手まといとして上官から射殺されたという。「軍隊は軍隊をしか守らない」とは、闘う能力を喪失した味方の兵士をも守らないのだ。この非情さが戦争の本質なのだ。戦争をしてはならない。軍隊を肥大化させてはならない。

 戦争で兵の生死は数値だけ戦死になるか戦果になるか
 (筑紫野市)二宮正博

 あらためて言うまでもなく、兵とてかけがえのない「人」である。その人の生死が数だけに置き換えられる。そして、その数は「戦死になるか戦果になるか」なのだ。自軍には「戦死者数」として報告されるが、相手国では「戦果」とされてその死が喜ばれる。決して悼まれることはない。
 殺人は忌むべき人非人の行為である。通常殺人者は唾棄すべき人物として糾弾される。殺人の被害者は、その非業の死を悼まれる。ところが、戦争ではそうではない。相手国の戦死は「戦果」となり、「戦果」を挙げた自国の殺人者は殊勲者となる。こんな人倫に反する戦争をしてはならない。軍隊を肥大化させてはならない。

 顔も無く名も無くきょうの数となるコロナ禍の死者ウクライナの死者
 (所沢市)風谷螢

 コロナ禍の死者については措く。「ウクライナの死者」についての無意味さと、それ故の哀惜の情が伝わってくる。戦争では、兵士も民間人も「顔も無く名も無」いままに死者となる。その多様であつた生は切り捨てられ、与えられた無機質な死が数として数えられるのみ。戦争の大義も兵や市民の勇敢も語られず、敵と味方の区別さえない「数となった死」のむなしさ。こんな悲劇をもたらす戦争をしてはならない。軍隊を肥大化させてはならない。

馬場あき子選の歌5首は以下のとおり。

 はなっから話し合う気は無いみたいプーチンの卓あのディスタンス
 (岡山市)曽根ゆうこ

 追放の大使館員ら発ちて行く一人一人に罪は無けれど
 (一宮市)園部洋子

 ハエ一匹通さぬやうに封鎖せよと地下には母子あまた集ふを
 (小松市)沢野唯志

 ロシアとの漁業協定成りし夕銀鮭ふた切れこんがり焼ける
 (久慈市)三船武子

 朝日歌壇に反戦詠みし女性たち皆「子」が付く名戦争を知る子
 (春日部市)酒井紀久子

佐々木幸綱選3首。

 「高齢者、地方在住、低所得」プーチン支持層嗤えぬ私
 (中津市)瀬口美子

 軍隊は軍隊をしか守らない交戦国のどちら側でも
 (東京都)十亀弘史

 荒廃の街に天指す教会の十字架かなし戦車横切る
 (春日井市)吉田恵津子

高野公彦選4首。

 ゼレンスキー大統領がネクタイを締める日の来よ 良きことのあれ
 (鳥取県)表いさお

 地下鉄のエスカレーターくだりつつ深さ確かむシェルターとして
 (名古屋市)植田和子

 青と黄に塗り替えられた琴電が讃岐平野の麦畑行く
 
(高松市)伊藤実優

 パーキンソンに悩むプーチンか振顫をかくさむとして机をつかむ
 
(西之表市)島田紘一

 なるほど、歌には言霊が宿っている。人の心に訴える力をもっている。

今こそ、防衛費増額論に「NO!」の世論を。

(2022年5月25日)
 バイデンが駆け足で韓・日と訪問し、一昨日(5月23日)帰米した。日本に残していったのが防衛費増額の宿題。同日の両首脳共同会見で、岸田は「日本の防衛費の増額を確保する決意」を表明してこの宿題を抱え込んだ。

 「聞き耳」自慢の岸田ではなかったか。まずは国民の声を聞き、国民に提案して、国民から政府方針転換と負担増の了承を得るべきが当然だろう。それを他国の首脳に「決意表明する」など、完全に順序が間違っている。この人の耳は、アメリカの腹の中や、右翼のつぶやきを聞き取るようにできているのだ。

 「わたしからは、日本の防衛力を抜本的に強化し、その裏付けとなる防衛費の相当な増額を確保する決意を表明し、バイデン大統領からは、これに対する強い支持をいただいた」って? 主権を持つ国の首脳としては、なんとも情けなく、みっともない記者会見での発言。

 ところが、右翼陣営や自民党・維新からは、批判の声は聞かれない。むしろ、歓迎して「防衛費の相当な増額」とは倍増だという威勢のよい声が上がっている。

 2月24日のウクライナショックは、大きかった。一時は、「ウクライナよ正義のために果敢に闘え」「ウクライナに軍事的・非軍事的支援を」という声一色となった。「不正な侵略には戦わざるを得ない」「それ見たことか、非軍事での防衛など絵空事だ」「独立国家に自衛力は不可欠だ」「強国との強力な軍事同盟あっての平和ではないか」と護憲派が矢面に立たされた。これに乗じて、「敵基地攻撃能力」(反撃能力)だの、攻撃対象を拡大せよだのという火事場泥棒的防衛力増強論が大手を振る事態。

 3か月経って、世論は少し落ち着きを取り戻しつつある。が、この岸田の「防衛費の相当な増額」決意に、野党もきちんと批判し得ていない。これで、大丈夫だろうか。

 既に事実上の与党となっている国民民主は「防衛費の相当な増額」に事実上容認の立場。自民よりも右のポーズをとることで世論の受けを狙っているポピュリスト維新は、今や改憲・軍拡路線の尖兵。「積極防衛能力」の整備を唱い、具体策として防衛費の国内総生産(GDP)比2%への増額を主張している。

 問題は、立憲民主党である。これまでの経緯からは当然に「防衛費増額に反対」と声を上げるのかと思ったら、どうもそうではない。泉健太党首は、24日、「『昨今の安保環境で言えば(防衛費は)増えることになる』と首相の方針に理解を示し、『参院選の争点にならない』との見解まで示した」「立憲民主党は必要な防衛費は整備すべきだと考えている」と強調。「防衛費がその結果として前年を上回ることは十分あり得る」とし、防衛費増額は「必要だ」とも明言した、と報じられている。

 どうなっちゃんだ、立憲民主党。ウクライナショックの深い傷が未だ癒えていないごとくである。

 元来が、平和主義(パシフィズム)という言葉には軟弱な印象がつきまとう。とりわけ今は、プーチン・ロシアの非道が際だって、「不正な侵略には、断固戦うべし」という論調が優勢である。この論調に後押しされる形での防衛費増強論が大手を振っている。「我が国だって、凶悪な隣国から、いつ不正な侵略を受けないとも限らない。これに備えた軍備増強なければ、枕を高くして眠れないではないか」。立憲民主党も、威勢のよいこの論調に抗しがたいと考えているのだろうか。

 平和主義者は、今こそ敢然と非戦論を掲げなければならない。軍事的な抑止力論や、軍事的均衡による平和論が、際限のない軍拡競争の負のスパイラルに陥るという歴史的教訓の到達点が「9条」に結実している。「9条の精神」は、「軍備で平和は生まれない」「軍拡は戦争を招く」ことを教えている。

 軍備増強・防衛費増額論には、「断固NO!」の世論を形成したいものと思う。
 

スウェーデンのNATO加盟に反対の野党見解もある。

(2022年5月24日)
 これまで軍事的中立を国是としてきたフィンランドとスウェーデンが、相次いで NATO 加盟申請に踏み切った。ロシアのウクライナ侵略を脅威と感じた世論が大きく動いた結果だが、残念でならない。

 とりわけスウェーデンは、200年も続けてきた軍事同盟非加盟の外交方針を転換することになる。もっと熟慮あってしかるべきとも思うが、如何ともしがたい。

 とは言え、国内がNATO加盟支持一色ということではないという。3月の世論調査では加盟支持が51%と初めて過半数に達してはいるが、市民の間には中立政策を捨てることへの懸念が広がっているとも報じられている。

  NATO加盟をめぐる議会審議では、「左翼党」と「緑の党」が明確な反対意見を表明した。スウェーデン政府は、5月13日に安全保障政策の見直しに関する報告書「安全保障環境の悪化?スウェーデンへの影響」を発表したが、これには「左翼党」と「緑の党」の見解が収録されている。赤旗が、これを掲載しているので、その一部を抜粋して転載する。なお、議会の全349議席中、左翼党は27議席、緑の党は16議席を占めているという。

「安全保障状況を悪化させる」 左翼党

 「スウェーデンの軍事同盟不参加は、スウェーデンが何世代も平和に暮らすことを保障するのに役立ってきた。我々が支持できない戦争や紛争に関与してきた国家グループと永続的な軍事同盟を構築することは、リスクを増大させる。各同盟への加盟は我々の安全保障状況を著しく悪化させるだろう。NATOの戦争や紛争にスウェーデンを関与させることになる。
 NATOに加盟申請をすれば、我が国の安全保障政策の大部分を米国に委ねることになる。米国はNATOの行動に拒否権を持っており、NATO内で他国を自国の利益に沿って行動させることができる。
 NATOはアフガニスタン・イラク・リビアという大失敗した三つの戦争を遂行した。それは欧州連合(EU)の難民危機に繋がり、ISの出現に繋がった。
 NATO加盟は、NATOの各ドクトリンを信奉することを意味する。ロシア?NATO間の緊張関係は、核兵器の抑止効果に対する信仰を増大させることになる。
 大国や軍事同盟が、核抑止をその安全保障政策の基礎としている限り人類は全面的破壊破滅の脅威にさらされたままである。」

 このような明確な軍事同盟拒否・中立政策擁護の野党勢力が健在であることが頼もしい。「ロシアの野蛮な侵略的姿勢を見よ、あのような国と外交することも、あれに譲歩を迫る交渉をすることも、非現実的な選択肢ではないか」 というのが当世の風潮。要するに果敢に闘うしかないという圧倒的な世論の中での、落ちついた意見にホッとする。我が国でもこうありたい。

「仲裁者の役割疑問視される」 緑の党

 「緑の党はスウェーデンが核兵器のない世界を目指して取り組む上で推進力となる。我々は、それがNATOに加盟しないことで最もよく行われると考える。NATO に加盟することは、核兵器を脅迫として使用することにスウェーデンが同意することを意味する。
 NATO加盟は、民主主義や人権などの基本的価値を推進するスウェーデンの外交能力に影響を与えかねない。
 スウェーデンの仲裁者としての役割は、一定の文脈で疑問視されることになるだろう。」

 一つは、核兵器廃絶の立場から、NATO 加盟は核兵器を脅迫として使用することへの加担だとしての反対論。そしてもう一つが、これまでスウェーデンが果たしてきた国際紛争解決の仲介者としての役割への否定的影響に言及しての反対理由。これは、我が国の外交のあり方について、示唆に富む見解ではないか。

 1952年日本が独立したときの全面講和論を採用していたら…、あるいはその後に日米安保条約を廃棄していたらてん、さらには憲法9条を遵守していたら…。日本こそが、世界の各国からの信頼を得て、国際紛争の仲裁者としての権威を確立し得ていたのではないだろうか、などと夢想してみるのだが。

侵略を許さない「正義」派と、「命どぅ宝」派との停戦の可否をめぐる葛藤。

(2022年5月23日)
 琉球新報の昨日(5月22日)付社説が、波紋を呼んでいる。遠慮なくいえば、評判がよくない。右からも左からも叩かれている。
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1521022.html

 私は、よくぞ問題提起をしてくれたと思う。しかし、全面的に賛成とは言いにくい。さりとて、反論する気持にもなれない。自分のことながら、煮え切らないのだ。ただ、この社説を叩く側にまわりたくないとは思う。

 社説の表題は、「マリウポリ『制圧』 今こそ停戦交渉の好機だ」というもの。今なら、双方が和解交渉のテーブルに着ける。今を逃せば、戦闘は長引き、痛ましい犠牲が際限なく重なることになる。今こそ、国際社会は両国に停戦をうながすべきだ、という。何よりも人命尊重という立場からの、説得力をもつ提言だと思う。

 この社説は、主としてロシア側の事情を述べる。「ロシア軍はウクライナ南東部のマリウポリを完全制圧した。…今ならロシアは戦果を強調できる」「製鉄所で抵抗したアゾフ連隊はロシアが「ネオナチ集団」と呼ぶ部隊。その拠点を制圧したことで国内に戦果をアピールできる」というだけでなく、「ロシア兵の戦死者は約1万5千人に上り、部隊は疲弊しているという。西側諸国の経済制裁でロシア国民の生活も苦しいとみられる」ともいう。タテマエもホンネも、ここがプーチン政権にとっての拳の下ろしどころだというのだ。

 一方、「ウクライナ側も激しい反撃で『負けていない』とアピールできる」「マリウポリは制圧されたが、黒海に面し穀物の主要積み出し港があるオデッサは制圧されておらず経済的な致命傷には至っていないもよう」「しかし、民間人の死者は数万人に上り壊滅状態の街も多いという」。ウクライナにとっても、戦争の継続はとてつもなく苦しい。お互いに「まだ負けていない」と言える状況にある今だからこそ、停戦へのテーブルに着くリアリティがある。「残された課題についての交渉やロシアの戦争犯罪への追及は停戦した上で、時間をかけて話し合い、解決を模索すればよい」というのがこの社説の説くところ。

 最後は、こう結ばれている。「ウクライナ侵攻は住民の4人に1人が亡くなった沖縄戦と重なる面が多い。『命どぅ宝』の観点からも一日も早い停戦こそが最善の道だ」

 「正義」を第一義と考える立場からは、「マリウポリをロシアに譲っての停戦は、侵略によって獲得した利益の享受を認めることになり、とうてい容認できない」ことになろう。「少なくとも、2月24日開戦以前の原状に復すことがなければ、侵略という不正義に成功を許すこととなる。この不正義を認めてはならない」という立論。これが、間違った見解であるはずはない。

 しかし、「命どぅ宝」を第一義とすれば、琉球新報社説のごとき別の意見となる。「市民であれ兵士であれ、またウクライナ・ロシアの国籍を問わず、人の命は、全てかけがえのないものではないか」「停戦の条件があれば、まずは停戦を第一選択とし、その余のことは停戦後に、粘り強く交渉で解決すべきではないか」。この見解も、非難さるべきところはない。

 「正義」を重んじて不正義の停戦を拒絶する立場には、「停戦を先延ばしにしての国民の犠牲を厭わないのか」「この世に、生命以上に大切がものがあるのか」「領土や国境にいかほどの意味があるのか」「大きな譲歩には屈辱が伴うだろうが、プライドより命がずっと大切だろう」「祖国や民族のために死ねと言うのか」などという反論が予想される。

 それには再反論があり得る。「いや、停戦を拒否して戦うのは、大切な自分と身近な人の命を守るためなのだ」「一人では戦えない。自分の命を守るためには強大な軍事力を作って、自分もその任務の一部を担って戦うしかないのだ」と。もちろん、「命どぅ宝」派がそれで納得はしない。「結局、為政者が国民を戦争に動員する理屈と同じではないか」

 ゼレンスキー大統領は、ウクライナからの成人男性の出国を認めることを求める請願書について、「この請願書は誰に向けたものなのか。地元を守るために命を落とした息子を持つ親たちに、この請願書を示せるのか。署名者の多くは、生まれ故郷を守ろうとしていない」と不快感を示したと報道されている。この姿勢に、右派は喝采するだろうが、リベラルは鼻白む。「靖国の英霊」を利用して、戦争を拡大した皇軍と同じ論法なのだから。

 結局、戦争が始まってしまえば、停戦は難しい。個人が戦争から逃げることも難しい。容易に抜け出す出口は見えて来ない。教訓は、絶対に戦争は避けなければならないということ。そのための努力を惜しまず、知恵も働かせたい。

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