澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

炭坑夫出身弁護士・角銅立身さんを偲ぶ

夏、暑中見舞いの季節。何枚もの書状のなかの1枚に目が留まった。福岡県田川市の角銅法律事務所からのもの。

この事務所の主は、角銅立身弁護士。「鉱専卒の元炭坑夫」という異色の弁護士として知られた人。本年6月に亡くなられた。享年85。主を失った事務所から、「事務員」「長女」「二女」3人連名でのご挨拶。文面はまぎれもなく「暑中見舞い」であって、不思議と湿っぽさがない。胸を張っての角銅弁護士死亡通知でもある。

人の評価は「棺を蓋って定まる」という。
もちろん、尊敬すべき人物は生前からしかるべき声望を得てはいる。角銅さんはそのような稀なお一人だった。しかし、この暑中見舞いは、「棺を蓋った後、さらに評価を高めた」ものではないか。亡き角銅さんにお許しを願って、紹介をしておきたい。

暑中お見舞い申し上げます
角銅立身弁護士は、1965年4月、炭鉱で甲種炭鉱上級保妥技術職員として働いていたのをやめ、弱者の味方の弁護士になると一念発起して弁護士になりました。
以来、三井三池三川坑炭じん爆発・三井山野炭鉱ガス爆発による被害者訴訟、カネミ・ライスオイルによる食品被害者訴訟、スモンによる薬害被害者訴訟、水銀中毒によるイタイイタイ病被害者訴訟、不当解雇による労働者の地位保全訴訟、筑豊じん肺訴訟などなど集団訴訟のリーダーとして、心血を注ぎました。その間には福岡県会議員選挙にも立候補しました。
魚釣り、楽器の演奏、ゴルフに観劇、水泳と幅広い趣味を堪能しておりましたが、近年は病魔と闘いながらも弁護士活動とともに憲法9条を死守する平和運動を続けてまいりました。その間の皆様方からのご厚誼には感謝しお礼を申し上げます。
来年は弁護士50周年という節目を前に、本年6月22日ついに人生の舞台の幕を降ろしました。
長い間角銅法律事務所からの季節の便りにお付き合いいただきありがとうございました。
これをもちまして角銅法律事務所劇場は終演です。 2014年盛夏

角銅立身さんは1929年田川市に生まれ、1948年官立秋田鉱山専門学校を卒業、49年古河鉱業大峰鉱業所へ就職している。炭坑の現場で働いた方だ。65年に弁護士登録して、文字通り「働く人の立場に徹して」弁護士としての活動を全うされた。

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10年前、私が日民協事務局長だった時代の「法と民主主義」(2004年4月号)に、角銅さんの訪問記事がある。「とっておきの1枚」シリーズのライターは、そのころからの編集長・佐藤むつみさん。これも、ご紹介しておきたい。

「月が出る時空を超えて?炭鉱太郎故郷に帰る」 角銅立身先生

博多の天神バスセンターから特急バスで七五分、田川の町に着く。国道201号線を走るバスは烏尾峠から田川の町に下って行く。町を取り囲むような低い山、削り取られた山肌。遠くに煙突。田川の町は灰色の中にあった。途中に日本セメントの大きな工場がある。門前に菜の花が咲きそこだけ春が広がっていた。石灰石の採掘で岳の上部が無くなってしまった香春岳(かわらだけ)の異形が目につく。始めてこの山を見た時五木寛之は「日本の中の異国を直感的に感じ」たという。そして地底の廃坑はこの町の下にもう一つ「異国」を造っている。「青春の門」はこの香春岳の描写から始まる。五木寛之は先生の三歳年下、ほぼ同世代のデラシネだった。

 「角銅原」という名のバス停に驚いているとバスは後藤寺の小さなバスターミナルに着いた。「角銅法律事務所まで」と告げるとタクシーの運転手はすぐに了解。日曜日の午後、田川の町にはだーれもいない。

 角銅先生の事務所は木造モルタル三階建て。縦長と横長の古めかしい大きな白い看板に黒々と「角銅立身法律事務所」と大書きされている。一階のレストランはその日はお休み、右端に細い階段がある。一直線にのびた階段は少し傾いている。踏み板は狭くぎしぎしとなる。「ごめんください佐藤です」と叫びながら登って行くと、不思議な踊り場に出る。暗くきしむ板敷きの床がなつかしい。正面に左に登る急な階段がある。階段の登り口には郵便受け、ここが玄関らしい。しずしず登るとやっと事務所にたどり着いた。角銅先生は大きな体で「あなたですか」と近づいてくる。がっちりした体と大きい声、炭鉱太郎と自認する風貌である。カウンターの後ろの窓から高い二本の煙突が見える。「蒸気機関だよ」炭坑節に歌われている旧三井伊田竪坑大煙突である。先生は私を「もっと年を取った人だと思ってた」んだって。それでちょっとどぎまぎしている。

 角銅先生が故郷田川で事務所を開いた一九六九年、三九歳の時だった。田川の地で三六年、生粋の川筋男、「肝が大きく男気に富み思いやりの深い」弁護士としてここで踏ん張り続けてきた。先生はは七五歳。昨年『男はたのしく たんこたろ弁護士』という痛快な奮闘記を発刊し、ジョギング、スイミングと自らの病をねじ伏せ、博多の病院に入院中の愛妻を見舞う日々である。娘が二人。長女は父の職業に反発し医者に。今は母の側の病院にいる。次女は先生と暮らす。長男を二回試験直前に一歳で亡くした。そのことは妻に何も聞かない。

 先生は一九二九年桃の節句に田川に生まれた。筑豊の炭鉱地帯のど真ん中、父も祖父も小さな山を持つ炭鉱一家だった。長男の先生は立身「たつみ」と命名され当然山を継ぐ事になっていた。田川には朝鮮半島から多くの労働者が流入し、部落差別も根強く、炭鉱の活気とともに、荒涼とした荒々しさがある。そんななかで立身君は不自由なく元気にのびのびと育った。

一九四一年に地元の県立田川中学に入学。その年の一二月に太平洋戦争が始まる。持ち山は戦時体制で三井鉱山に併合され、学校は三年から学徒動員に。戦時色一色だった。立身君は立派な鉱山技術者になるため秋田鉱専に進学を希望していた。一九四五年二月、B29の空襲のさ中、田川から汽車に乗り継ぎ、五〇時間もかけて秋田駅にたどり着く。合格したが「現下の情勢に鑑み」七月入学。八月一四日夜から一五日朝にかけ秋田市は土崎大空襲に晒される。防空壕で夜を明かし、その日の昼過ぎ立身君達は秋田鉱専で敗戦放送を聞く。

 「日本の再建には鉄と石炭が必要」校長の言葉に励まされみんな学校にもどった。卒業後、四九年立身君は筑豊古河鉱業大峰鉱業所万才坑に就職する。角銅青年は戦後の石炭ブーム花形産業の若き技術者として現場の労働者とともに坑内に潜り働く。上級保安技術職員の資格も取り、ドイツの先端技術を取り入れ増炭と賃上げを実現。係長補佐の要職に。「角さん」「角さん」とみんなに慕われる職制だった。

 一九五六年、石炭産業の合理化の波は古河大峰にも押し寄せ、ストライキとロックアウトの激しい衝突が起きる。日経連の現地指導のもと、そのあくどさは際だっていた。炭鉱労働者の強制入坑を恐れた会社は、警察の手錠を大量に入手して、キャップランプを手錠で緊縛して強制就労が出来ないようにした。職制としてその場にいた角銅君は『労働者にこんな仕打ちをする事は許せない』と。夜も寝られないくらい悩んだ。その古河大峰闘争支援にきた諫山博先生が三〇〇〇名の炭鉱労働者の前でアジ演説。「スクラムの中に顔馴染みのない人がいたらつまみ出してください。彼らは警察官です」角銅君はうらやましいと心底思った。角銅君二八歳。オレのやってきたことは何だったんだろう。

 一九五九年に退社、三〇歳からの司法試験挑戦だった。中央大学系の勉強会に入会、六二年に合格。その間結婚もして失業保険と貯金、妻の稼ぎで生活を支えた。三交代制の仕事をしてきた切り替え力と集中力、何よりも労働現場を知る強さがあった。六五年めでたく諫山先生のいる福岡第一法律事務所に入所する。「鉱専卒のもと炭坑夫」という異色の弁護士が誕生する。

 炭鉱のガス・炭塵爆発、自然発火等の災害事件、九州各地の塵肺など炭鉱事件は角銅の独壇場。そして水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症、四日市喘息など公害事件に広がる。故郷に帰ると田川地区のあらゆる法律問題が立場の違いを越えて持ち込まれる。「時々ハラハラすることもありましたが、きちんと筋を通しながら、清濁併せのむ大らかな仕事ぶり」だったとの諫山評。弁護士会の活動もこなし地域の革新民主運動まで担った。

 豪放磊落な雰囲気の中に人の心を開かせる人懐こさが角銅先生の魅力。意外に配慮の人で思いやりの深さが心に染みるのである。古いソファで若いときから得意のカメラで写した写真を見せてもらった。「美味しい焼き肉をご馳走するから」。先生の顧問先のタクシー会社の車が呼ばれた。とびっきりの骨付きカルビとミノ、センマイをしこたま食べさせてもらった。さすが田川、半島の匂いがする。その車で空港まで送ってもらう。先生は昔、九州地区初の赤いベンツ190Eに乗っていた。地場の事件屋に何度も車を当てられるので負けないようにするためである。乗ってみたかったな二〇年間二一万キロを走った赤いベンツ。月はどっちに出たのだろうか。(引用終わり)

角銅立身劇場終演の幕を見つめつつ合掌申しあげる。
(2014年8月2日)

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