平家物語の名文句「驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し」は、いくつものバリエーションで語られる。そのなかに、「驕る平家は内より崩る」というものがある。奢侈に慣れ驕慢が染みついた一族の愚行から、さしもの権勢も滅びた。滅びの原因は外にではなく内にあったのだという戒めとされる。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。
異朝の故事ではなく今の世のこととして置き換えて読めば、「憲法の定めるところに従わず、議席の数に驕って学者やメディアの提言を無視し、戦争を準備して近隣諸国との軋轢・緊張関係を高めながら、これを世論の憂いと受け止める自覚に欠け、結局は民意と乖離して政権は崩壊する」と示唆している。既に安倍政権は、「偏に風の前の塵に同じ」状態ではないか。平家物語作者の洞察力や恐るべし。
「内より崩る」を「一族の中の突出した愚か者の行為を発端にして瓦解する」と読むこともできよう。平家一族の権勢を笠に着た一門の愚行の例は、その末期症状としていくつも語られている。安倍政権でも、いくつもの末期症状が窺えるではないか。
一昨日(6月25日)の、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。失言としても冗談としても、到底看過し得ない。むしろ、非公開だからとしてホンネが語られたとみるべきだろう。こういう本性をもった輩が、勇ましく先頭に立って戦争法案成立に旗を振っているのだ。
勉強会出席の議員数は、37人だという。この「37人+百田尚樹」の38人衆が、「内より崩る」の愚行の尖兵だ。「安倍政権の内側からの墓堀人」にほかならない。そして、大切なことは、内側からだけでなく外側からも大いに働きかけて、内外相呼応して戦争法案を葬りさるとともに安倍内閣を早期に崩壊させねばならない。
朝日・毎日・東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。明日の社説を注視したい。メディアとしての矜持を保つか、あるいは自ら墓堀人グループの一員として名乗りを上げるか。
「異常な『異論封じ』―自民の傲慢は度し難い」と題する朝日の社説は最近珍しく、ボルテージが高い。「これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。」と言葉を飾らない。毎日も、東京も遠慮するところがない。
この3紙の社説を読んだあと、百田のツイッターを見て驚いた。「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。開き直りも甚だしい。さすがに、内側からの墓堀人の名に恥じない。
当事者性から言えば、まずは「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」(読売だけは、「あの二つの新聞社はつぶさなあかん」と表現している。録音を持っているのではないか)と言われた、沖縄タイムスと琉球新報とである。
沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局長・潮平芳和両名による「百田氏発言をめぐる沖縄2新聞社の共同抗議声明」は、押さえた筆致で、ジャーナリズムの基本姿勢を語って格調が高い。「戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。」という一節が印象深い。ジャーナリストとしての理念を立派に貫いているからこその権力側からの逆ギレ批判であることが良くわかる。
「百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。」とは正鵠を射たもの。安倍政権全体の問題であることが明らかではないか。
そして、本日の両紙の社説の舌鋒が鋭い。憤懣やるかたないという怒りがほとばしり出ている。
琉球新報は、「ものを書くのをなりわいとする人間が、ろくに調べず虚像をまき散らすとは、開いた口がふさがらない。あろうことか言論封殺まで提唱した。しかも政権党の党本部でなされ、同調する国会議員も続出したのだ。看過できない。」と言い、沖縄タイムスは「政権与党という強大な権力をかさにきた報道機関に対する恫喝であり、民主的正当性を持つ沖縄の民意への攻撃である。自分の気に入らない言論を強権で押しつぶそうとする姿勢は極めて危険だ。」「一体、何様のつもりか。」といずれも手厳しい。
政府に批判的な2紙を潰せと言っただけではない。「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。」「文化人が経団連に働きかけてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」「広告を取りやめるように働きかけよう」とまで、政権政党の議員が発言したのだ。報道の自由侵害の問題として、全マスコミの怒りが沸騰しなければならない。たとえば、北海道新聞が「自民の勉強会 マスコミ批判は筋違い」「耳を疑う発言が、また自民党から飛び出した。」というが如く。
愚かな読売社説のように、「地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか。」などと、生温く政権におもねっていてはならない。
そして、メディアの怒りを国民全体の怒りとして受け止めなければならない。メディアの自由は、国民の知る権利に奉仕するためにあるのだから。
沖縄は渾身の怒りを表現するだろう。この沖縄の怒りを孤立させてはならない。日本全土の国民が沖縄の怒りを我が怒りとしなければならない。沖縄の平和は、そのまま日本全土の平和なのだから。
自民党・安倍政権は、まぎれもなく2本の虎の尾を踏んだ。一本はジャーナリズム、もう一本が沖縄である。その痛みは、虎の本体としての日本国民全体のものである。国民の圧倒的な怒りの風を起こして、安倍政権を塵として吹き飛ばそうではないか。
(2015年6月27日)
戦争法案への世論の動向をはかるバロメータとして重要なものの一つが、地方紙の姿勢とその紙面構成である。第2次安倍政権発足直後の96条先行改憲の動きを止めたものが、2013年5月憲法記念日前後の地方紙各紙の圧倒的な批判の社説であった。
中央各紙の姿勢は、ほぼ色分けが固定している。地方紙の動向は、世論をはかる指標として意味が大きく、「地元」選出の議員に影響大なるものがある。だから、機会あるごとに地方紙を読むように心がけている。この感覚は、東京育ちにはつかみにくい。また、有力な地方紙・ブロック紙をもたない大阪人にもわかりにくいのではないだろうか。
本日、たまたま神奈川新聞を読んだ。一面トップ、紙面半分以上のスペースを割いて、「安保法案 自民OBも反対」「藤井氏『自公インチキ』」の記事。
「山崎拓・自民党元副総裁、亀井静香元金融担当相らかつて自民党に所属した議員や元議員の重鎮4人は12日、日本記者クラブで会見し、集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案に反対の考えを表明した。山崎氏は「地球の裏側で後方支援活動をすると憲法違反になる行動を引き起こす。自衛隊と相手方が殺し合う関係になるのは間違いない」と述べた。
ほかに藤井裕久元財務相と武村正義元官房長官が出席した。山崎氏は「問題点が多々あり、十分な審議を尽くすべきで、今国会での成立に反対だ。平和国家としての国是は大いに傷つく」との声明も発表した。‥‥
共同通信の配信記事として、全国の地方紙を大きく飾っているはず。もっとも、トップ扱いの判断や関連記事は、神奈川新聞独自のもの。この記事は、神奈川同様、各「地元」で大きな話題となるだろう。保守系先輩議員からの忠言を、現役の議員諸氏はどう聞くのだろうか。
首都の地方紙・東京新聞は一面左上隅に、「自民OBら 反対表明」の見出しと4人の写真を掲げ、記事は3面にまわした。比較的扱いは小さい。その代わり、社会面のトップに、「砂川事件弁護団再び声明」と記者会見を大きく取り上げた。これまたすばらしい。時宜を得た記事で、これも戦争法案廃案を求める運動に大きく力を与えるもの。
この声明の最後は、「安倍首相や高村正彦副総裁の言説が無価値であり、国民を惑わすだけの強弁にすぎないことはもはや明白であるから、一刻も早く態度を改め、提案している安保法制(改正法案)を撤回して、憲法政治の大道に立ち返られんことを強く要求するものである。」と結ばれている。
記事は、「最高裁判決には集団的自衛権行使の根拠はない」「合憲主張『国民惑わす強弁』」という大見出し。
他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案について、政府が1959年の砂川事件の最高裁判決を根拠に合憲と主張しているのに対し、判決時の弁護団の有志5人が12日、東京都内で会見し、「裁判の争点は駐留米軍が違憲かに尽きる。判決には集団的自衛権の行使に触れるところはまったくない」とする抗議声明を出した。5人はみな戦争を知る白髪の八十代。「戦争法制だ」「国民を惑わすだけの強弁にすぎない」と批判し、法案撤回を求めた。
「白髪の八十代有志5人」の会見の写真が若々しい。坂本修、神谷咸吉郎、内藤功、新井章、山本博の各弁護士。
会見の冒頭。新井章弁護士は眼鏡を外し、鋭いまなざしを子や孫世代の記者たちに向けた。そして「事件の弁護活動をした私らは裁判の内容にある種の証人適格を持っている」と法律家らしく語り始めた…。
あとは省略するが、「集団的自衛権について砂川判決から何かを読み取れる目を持った人は眼科病院に行ったらいい」というフレーズが紹介されている。そう。飛蚊症(ひぶんしょう)という目の病気がある。ないものがあるように見えるのだ。トンデモナイものが、あたかも飛んでいるように見える。高村正彦さん、誰にも見えないものがあなたにだけは見えているようだ。そりゃたいへんだ。早めに眼科の診察を受けることをお勧めする。
(2015年6月13日)
毎日新聞の投書欄に、NHK受信料についての投稿が続けて取り上げられている。NHKに対する不審・不満の人々の気持ちを反映したものであろう。これがおそらくは氷山の一角。
5月2日に宮崎市の66歳無職氏が、「NHK(BS)受信料徴収について」、その不合理・理不尽に抗議している。
「先日から、頻繁にNHKのBS受信料を支払えと言って職員が来ます。ケーブルテレビなどBSが受信できるようになっていれば、視聴しようがしまいが、支払ってもらうということなのです。
これは、頼みもしないのに一方的に商品を送ってきて支払いを強制するのと同じことではないでしょうか。
NHKが公共放送というのなら、本来、だれでも視聴できるべきではないでしょうか。そうでなければ、受信料を徴収する方向ではなく、受信料を支払っていないところは、視聴できないようにしたらいかがでしょうか。デジタル化された今、可能でしょう。徴収する職員の人件費も節約できますよ。」
この投稿者のケーブルテレビ利用はNHKのBS受信のためではない。おそらくは、NHKBSの視聴には興味もないのだろう。それなのに、「視聴しようがしまいが、受信料は支払ってもらう」というのがNHKの高飛車な姿勢。これは不合理だ。世の中の常識では、欲しいものは吟味して、欲しいだけの量を購入して、それだけの代金を支払う。ところが、欲しくもないもの、使わぬものにまで金を支払えとは、理不尽極まる。「頼みもしないのに一方的に商品を送ってきて、支払いを強制する悪徳商法と同じではないだろうか」と率直な感想が述べられている。もっとも至極。健全な消費者感覚ではないか。
とりあえず、この請求には断固拒否すればよい。NHKとご当人との間には、「地上契約」(地デジ受信だけを内容とする契約)だけが存在していて、「衛星契約」(BS受信も内容とする契約)は未締結だと思われるからである。契約未締結では高額な衛星契約受信料支払いの義務は生じない。
もっとも、放送受信規約取扱細則6条2項は、「地上契約を締結している者が、衛星系によるテレビジョン放送を受信できる受信機を設置したときは、衛星契約について所定の契約手続を行うものとする」となっている。「契約手続を行うものとする」は微妙な表現だが、少なくも、契約締結が擬制されるわけではなく、自動的に受信料支払い債務が発生するわけでもない。飽くまで、任意の契約締結が原則なのだ。
この請求を拒否し続けていれば、NHK側の対抗手段としては訴訟の提起をするしかない。視聴者に対して衛星受信契約締結を求め、その契約成立の日以後の契約に基づく受信料を請求するという訴え。NHKにとってかなり難しい面倒な訴訟である。この訴訟における判決の確定までは、受信料支払い義務は生じない。
そもそも、契約とは締結するもしないも自由である。この投稿者の感覚こそが、法常識に適っているのだ。ところが、放送法64条が、本来自由であるはずの受信契約について、「契約をしなければならない」とする不思議な規定を置いた。「協会(NHK)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」というもの。
BS受信だけのことではない。地上波受信の基本契約についても同様に、受信契約締結があってはじめて、受信料支払い義務が発生することになっている。これは、NHKの放送内容やその姿勢に国民が共鳴して、公共放送としてのNHKを国民が自発的に支えることを期待しての制度にほかならない。
仮に最終的には面倒な訴訟手続を経てNHKが受信料を強制徴収できるにせよ、法は国民のNHKに対する信頼を基礎とした任意を支払いを期待しているのだ。だから、普通の感覚からは「そこまでやるの?」「NHKやり過ぎじゃない?」「悪徳商法並みの請求」などと批判されるような請求は控えるべきが当然であろう。
次いで、5月4日「NHK受信料、見た分だけに」という、横浜の主婦66歳の投書が掲載された。
「私はNHKのテレビ番組はほとんど見ません。見るのは天気予報、ニュース、地震速報くらいです。それもNHKだけに頼っているのではなく、民放との見比べです。
歌やサスペンスは好きなので民放では結構見ていますが、NHKの歌番組やドラマはBSを含めてもまず見ません。
昭和時代は、テレビといえばNHKでした。あの頃の番組にはNHKらしい品格、安心感がありました。今でも懐かしく思い出します。
NHKのテレビ番組はほとんど見ない今、2カ月4560円の受信料は年金生活の我が家にとっては、最大の出費です。
私はプリぺイドカードの導入を希望します。電気、ガス、水道、電話のように使用した分だけの料金にしてほしいと思います。」
これも、まことにまっとうな経済感覚ではないか。「必要なものを必要なだけ買いたい」というのが消費者としてのあまりに当然の要求。電気、ガス、水道、電話、みな代金は従量制ではないか。野菜を買っても、魚を買っても、余計なものまで買わせられることはない。抱き合わせで不必要なものまで渡されて、食べても食べなくても代金だけは支払え、などと理不尽なことは言われない。NHKだけがなぜかくも不合理・理不尽を主張できるのか。
2日の投稿者は、「受信料を支払っていないところ(BS)は、視聴できないようにしたらいかがでしょうか」と言い、4日の投稿者はより積極的に、「プリぺイドカードの導入を希望します。使用した分だけの料金にしてほしいと思います」と言う。それがあるべき方向ではないか。
何よりも大切なことは、契約にもとづく受信料支払いの制度の基本が、視聴者にとって魅力のあるNHK、信頼される公共放送であることなのだ。視聴に値する魅力に乏しく、政権への迎合を疑われるジャーナリズムにあるまじき報道姿勢で、しかも人格識見まことに不適格な会長や経営委員人事が実態となれば、国民が任意には受信料を支払いたくないと思うのも当然ではないか。
強制によって受信料の徴収をはかろうというのは邪道なのだ。何よりも、視聴者の信頼を勝ち得なくてはならない。これ以上の不適格はないという現会長を解任し、政権の息のかかった経営委員を交代させ、権力から独立した公共放送としての信頼を取り戻すことが喫緊の最重要課題だと知るべきである。公共放送としての信頼の回復こそが、NHKの経済的な充実の鍵であり、その最大のネックが不適格会長の居座りなのだ。
(2015年5月9日)
毎年、憲法記念日には、各紙(社)の改憲への賛否を問う世論調査結果が気になる。もちろん、世論なる複雑なものを厳密に把握することは不可能であって、いずれの世論調査も科学的というにはほど遠く、客観的なものでもありえない。さはさりながら、各紙それぞれの客観的であろうとする姿勢や努力の差異は見て取れる。また、世論の傾向を解することは可能といえよう。
まずは産経の調査結果である。下記は今年の憲法記念日直前の世論調査の報道(デジタル版4.27 11:50更新)である。見出しは、「【本紙・FNN合同世論調査】戦後70年談話 “未来志向”を60%が「評価」 TPPの交渉進展「期待する」52%」というもの。見出しでは、憲法改正問題については、触れられていないことに注目しなければならない。
http://www.sankei.com/politics/news/150427/plt1504270035-n1.html
この記事は、「産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が25、26両日に実施した合同世論調査」についての報道だが、テーマとしては「戦後70年談話」と「ドローン」と「TPPの交渉」問題について結果を述べ。最後に次のように述べる。
「一方、憲法改正に賛成は40・8%で、反対は47・8%。賛成者のうち9条改正に60・3%、緊急事態条項の新設に88・2%、環境権の新設に82・8%、財政規律条項の新設に72・3%がそれぞれ賛意を示した。」
つまり、産経の調査によっても、明文改憲賛成派は40・8%にとどまり、改憲反対派の47・8%に水をあけられているのだ。しかも、改憲賛成と回答した内「9条改正に賛成した者は60・3%」に過ぎないという結果は衝撃的ですらある。回答者全体を分母としての「9条改憲賛成者」の割合は、24・6%(47・8%×0・603)に過ぎないというのだ。
「(当然のこととして9条改憲反対を含む)改憲反対」派47・8%と、「改憲には賛成だが、9条改憲には与しない」というグループ(40・8×(1?0・60)=16・3%)を合計すれば、64・1%である。つまり、「分からない(DN)」「無回答(NA)」を除外して、明示の「9条改憲賛成派」が24・6%なのに対して、明示の「9条改憲反対派」が64・1%である。その比率は2・6倍。これは大差だ。勝負あったと言ってよいだろう。
ところが、産経はこの「自ら調査した民意」を「不都合な真実」として、直視しようとしない。見出しではまったく触れないこと、記事の末尾でしか触れていないことは既に見たとおりである。できるだけ、読者の印象を薄めようとしているのだ。
それだけではない。上記の記事に続く、同日の世論調査の追加報道(4.27 20:29更新)をご覧いただきたい。見出しは、「【本紙・FNN合同世論調査】民主党支持層は憲法改正『反対』多数」というもの。敢えて全文を引用する。
http://www.sankei.com/politics/news/150427/plt1504270049-n1.html
産経新聞社とFNNの合同世論調査で、自民、公明、維新の3党の支持層では憲法改正への賛成が多数を占めたのに対し、民主党支持層では反対が6割を超えた。平成24年12月の第2次安倍晋三政権発足で憲法改正の機運は高まったが、各党との改憲論議に後ろ向きな民主党の姿勢に拍車がかかりそうだ。
憲法改正に賛成したのは自民党支持層で57・3%、維新の党支持層で54・3%に上り、公明党支持層でも42・0%が賛成した。反対はそれぞれ3割台だった。
民主党は現行憲法に関し「GHQ(連合国軍総司令部)が短期間で作った代物」とする安倍首相の見解を問題視し、衆院憲法審査会での議論に難色を示してきた。こうした民主党の態度を反映するかのように、同党支持層では改憲賛成は26・9%にとどまった。
一方、全体でみると25年4月には6割を超えていた賛成は徐々に減り、昨年3月は反対が賛成を上回る結果に。その傾向は今回も続いた。船田元自民党憲法改正推進本部長は「憲法改正の議論の中身が十分理解されていないため」と分析。「国民のみなさんが十分理解できるような分かりやすい議論を心がける」と述べた。
ごく一般的な言語感覚の持ち主が、この見出しを読めば、「民主党支持層という特殊な範疇の人々の中では憲法改正『反対』の意見が多数」なので、「国民全体では憲法改正『反対』は少数だという世論調査結果が出た」と思い込むだろう。いや、そのような思い込みで全文を読んだあとでも、最初の印象は消せないのではないか。
この記事に拾われている数字は、調査結果を正確に伝えようとするものではない。明らかに読者の誤読を誘おうとするもので、「捏造」とまでは言い難いが、「過剰な演出」の域を遙かに超えている。真実に誠実ならざる報道姿勢がよく表れている。読者に対して罪深いといわざるを得ない。
これに較べて、さすがに朝日の世論調査結果の報道は誠実な姿勢に徹している。しかも、格段に全面的で本格的なものである。産経に比較すること自体が非礼ではあろうが、メディアとしての力量の差は覆いがたい。また、ジャーナリズムの在り方として当然ではあろうが、まったく作為を感じさせるところがない。これは本格的な国民の憲法意識の調査結果として、今後多方面で引用されることになるだろう。
http://www.asahi.com/articles/ASH4H4KBCH4HUZPS003.html
朝日の見出しは、「憲法改正不要48%、必要43% 朝日新聞社世論調査」(15年5月1日21時53分)というもので、結論は産経と大差ない。
冒頭のリードは、以下のとおり。
憲法記念日を前に朝日新聞社は憲法に関する全国郵送世論調査を実施し、有権者の意識を探った。憲法改正の是非を尋ねたところ、「変える必要はない」が48%(昨年2月の調査は50%)で、「変える必要がある」43%(同44%)をやや上回った。
調査手法や質問文が異なり単純に比較できないが、…改憲の是非を聞いた97年の調査以降は賛成が反対を上回ってきたが、安倍政権が憲法解釈を変えて集団的自衛権を使えるようにする議論を進めていた昨年の調査から再び逆転していた。
厖大なアンケート結果の報道量となっているが、とりあえずの重要テーマは「9条改憲」の是非を巡るものである。
◇9条「変えない方がよい」63%
憲法9条については「変えない方がよい」が63%(昨年2月は64%)で、「変える方がよい」の29%(同29%)を大きく上回った。女性は「変えない方がよい」が69%に及んだ。
◇憲法第9条を変えて、自衛隊を正式な軍隊である国防軍にすることに賛成ですか。反対ですか。
賛成 23 反対 69
これも、産経と大差ない。
そして本日(5月4日)の毎日が同様の世論調査結果を発表した。
http://mainichi.jp/select/news/20150504k0000m010056000c.html(最終更新5月3日23時06分)
「本社世論調査:9条改正、反対55%…昨年より増」というもの
毎日新聞が憲法記念日を前に実施した全国世論調査によると、憲法9条を「改正すべきだと思わない」が55%で、「思う」の27%を大きく上回った。昨年4月の調査では「改正すべきだと思わない」51%、「思う」36%だった。政府・与党が集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案の準備を進める中、9条改正慎重派は増えている。
一方、憲法を「改正すべきだと思う」は45%、「思わない」は43%でほぼ拮抗した。
産経、朝日・毎日の各調査の主要な調査結果と、その差を比較してみよう。
憲法9条の明文改正について
朝日 賛成29% 反対63% 2・17倍
(自衛隊を国防軍とすることに
賛成23% 反対69% 3倍)
毎日 賛成27% 反対55% 2・03倍
産経 賛成24・6% 反対64・1% 2・60倍
である。
昨日の当ブロクは、「危機感に溢れた憲法記念日」とした。政権の動きや国会情勢を見る限りでは危機感を持たざるを得ないが、世論調査の結果は、9条明文改憲に反対する、「9条擁護」の世論が確実に国民に根付いていることを明らかにしている。
(2015年5月4日)
本日は68回目の憲法記念日。戦後70周年に当たるこの年の憲法施行記念日でもある。1946年11月3日に公布された新憲法は、国民への周知のための半年の期間を経て68年前の今日が施行日となった。
その日、政府主催の新憲法施行記念式典が催され、記念国民歌「われらの日本」が唱われた。慶祝の花電車が走り、憲法音頭が踊られた。しかし、68年を経て、いま政権は憲法に冷ややかという域を遙かに超えて、敵意を剥き出しにしている。
第1次安倍政権の時期も憲法受難の時代であった。この政権が、2007年7月の参院選挙で与党大敗となり、その直後に安倍晋三がかつてない醜態をさらして政権を投げ出したときには憲法に替わって快哉を叫んだものだ。その後しばらくは、「憲法の安穏」の時期が続いた。しかし、よもやの第2次安倍政権発足以来、毎年の憲法記念日は改憲をめぐって緊張感が高い。
「憲法の危機」は、明文改憲としての危機でもあり、解釈改憲による憲法理念なし崩し抹殺の危機でもある。今、両様の危機の切迫に警戒しなければならない。
本日の赤旗「安倍壊憲政権に立ち向かう」という標題で、森英樹(名古屋大学名誉教授・日民協理事長)がこう述べている。
「容易ならざる事態の中で迎える今年の憲法記念日は、例年と質的レベルを異にするといわざるを得ません。『戦争立法』=壊憲の先に、文字どおりの改憲を公言する安倍政権のもと、それこそ『壊憲から改憲へ』という『切れ目のない』憲法敵視策の中で迎えることになるからです」
ここでは、「壊憲」=解釈改憲・立法壊憲、「改憲」=明文改憲と使い分けられている。その指摘によれば、「改憲」には前科があるという。
「再軍備が54年の自衛隊設置に及ぶや、政府は…憲法を変えようとしました。しかし国民の反撃にあって改憲は失敗します。すると今度は解釈を変えて『必要最小限の個別的自衛権』保持・行使なら憲法に違反しない、と言い始めました。
いま、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を合憲にしようとする『解釈改憲』が問題になっていますが、実はもう前科があるのです。ただ、9条があり、…最初の解釈があるので、これを気にして、せめて海外に出て戦争することはしない、という『専守防衛』の『歯止め』を維持してきました。ここを崩そうとするのが今の解釈改憲です」
森が引用する奥平康弘の言葉が印象に残る。
「1月末に急逝された『九条の会』呼びかけ人で憲法研究者の奥平康弘さんが、生前最後の対談で指摘したように『九条は自衛隊設置を許した「個別的自衛権」で歪められ、「集団的自衛権」で無くされようとしている』(『季論21』26号での堀尾輝久氏との対談)のです」
個別的自衛権という名目で、軍事力の保持を認めたことには二面性がある。わが国が保有できる軍事力を「自衛の範囲のものに限定」し、その活動を専守防衛におしとどめたという一面は確かにある。しかし、森や奥平が鋭く指摘するとおり、一切の軍事力の保持を禁じた9条を解釈と立法で「壊した」もう一面があることは否めない。森は、これを「壊憲の前科」というのだ。
今、安倍政権がたくらむ「壊憲」は、「専守防衛」の「歯止め」まで外して、9条を事実上無にしようというものだという、この重大な警鐘を肝に銘じなければならない。
明文改憲に関しては、今さらの「押しつけ憲法論」が安倍晋三の口から繰り返されている。しかし、戦争と軍国主義、国民監視体制から解放されて、平和と自由を獲得した国民は、明らかに新憲法を歓迎した。この憲法を「押しつけられたもの」と意識したのは、旧体制の支配層の生き残りであったろう。いま、安倍晋三が、その立場と自分を重ねて「押しつけ憲法」というのは、旧憲法体制での「既得権益」の再現を狙うものと解するほかはない。
本日の毎日新聞は、十分なスペースを確保して「日本国憲法制定過程をたどる」「憲法はどう作られ、変えられようとしているか」という、いずれも充実した検証記事を掲載して読み応え十分である。これだけの充実した紙面だと、あらためて「新聞ほど安いものはない」と思わせられる。
憲法制定経過の検証の末の毎日の結論は、「押しつけ(憲法論) 薄い論拠」というもの。そして、社説において「押しつけ改憲にさせぬ」と小見出しを付して、「憲法の根本原理を作りかえ、政治が使い勝手をよくするための『押しつけ改憲』には明確にノーを言いたい」と立場を鮮明にしている。
さらに東京新聞の特集が充実している。
同紙の一面トップは、「平和をつなぐ」と題するシリーズの第1回として、美輪明宏を取り上げている。「憲法や平和について議論を深めよう」などという、中途半端で生温い記事ではない。下記のとおり、改憲の危機意識を露わに、平和と憲法を擁護する立場を鮮明にしてのものだ。
「戦争をしない国」を支えてきた憲法9条は今、危機を迎えている。政府は集団的自衛権が行使できるようにする法整備を着々と進め、その先には改憲も視野に入れる。「これからも憲法を守りたい」。戦争を体験した世代から、20代の若者まで、世代を超えてその思いをつなぎ、広げようと、メッセージを発信する人たちがいる。
三輪を語る記事の標題は、「危機迫る憲法 自作反戦歌 今こそ」というもの。
第2次安倍政権発足以来、三輪のコンサートは、反戦を唱うものに変わったという。それも、徹底した筋金のはいった反戦の姿勢。
ロマンあふれるシャンソンとは趣が違う、原爆孤児の悲しみを描いた歌詞。長崎で原爆に遭った自身の体験を重ねた。70年を経ても拭い去れない悪夢。不戦を誓う憲法を手にした時、「もう逃げ惑う必要がない」と安堵した。その憲法が崩れるかどうかの瀬戸際にある。
「私たちは憲法に守られてきた。世界一の平和憲法を崩す必要はない」。若い世代も多い観客に伝えたくて、反戦歌を歌う。原爆体験や軍国主義への強い嫌悪が美輪さんを駆り立てている。
しかも、三輪の語り口はけっして甘いものではない。「そんな(憲法の危機をもたらしている)政治家を舞台に立たせたのは、国民の選択だった。そのことをもう一度考えてほしいと美輪さんは歌い、語り続けている」とする記事のあと、最後は三輪の次の言葉で締めくくられている。
「無辜の民衆が戦争に狩り出されるのではない。選挙民に重い責任があるのです」
憲法記念日の紙面の、一面トップにこのような記事をもってきた東京新聞の覚悟が伝わってくる。社と記者と、そして三輪明宏に深甚の敬意を表したい。
また、同紙は今日で3日、連続して「戦後70年 憲法を考える」シリーズの社説を掲載している。いずれも読み易く立派な内容である。
戦後70年 憲法を考える 「変えない」という重み (5月1日)
戦後70年 憲法を考える 9条を超える「日米同盟」(5月2日)
戦後70年 憲法を考える 「不戦兵士」の声は今 (5月3日)
戦争と統制に抗う、健全なジャーナリズムを衰退させてはならない。その国家統制や社会的なバッシングによる萎縮を許すとすれば、三輪が言うとおり「無辜の民衆が被害に遭うのではない。国民自身に重い責任がある」のだから。
(2015年5月3日)
私は、国のつく言葉が嫌いだ。国威・国体・愛国・憂国・国士・国粋・挙国・国富・国益・国母・国是・国策・国論・国賊・売国・国禁…。どれもこれも嫌なイメージがつきまとう。
中でも、「国辱」が大嫌い。「我が誇るべき国家の名誉を傷つけた。許せぬ」という、思い込み激しい罵り言葉として使われる。多くの場合、ウルトラナショナリストが激情赴くままに議論を拒絶した発語だから始末に悪い。
しかしときに、なるほどこれこそは「国の恥」にあたる「国辱的行為」ではないかと思いあたることがある。それが国自身のなせるわざで、政権に強く突き刺さる鋭さをもつのであれば、敢えてこれは「国辱もの」と言ってよいのではなかろうか。
本日(4月28日)の朝日が報道する「特派員『外務省が記事を攻撃』 独紙記者の告白、話題に」という記事の内容がまさしくそれ。安倍政権と外務省が挙国の態勢で、憂国の志から碧眼の賊徒を懲らしめ、国威を発揚せんとした愛国美談の一幕。しかし、これこそまぎれもなく国恥であり国辱ではないか。そのような批判の語として用いるのが、「国辱」の正しい使い方であろう。
その記事には、メインの見出しのほかに4本のサブの見出しがついている。「政権批判 総領事が独本社訪れ抗議」「東京滞在5年 離日に際し告白」「記者『昨年あたりから変化』」「識者の人選にも注文」というものだ。紙面に勢いがあふれている。権力批判のジャーナリズム健在を示す記事だ。これは下記のURLで読める。是非とも拡散して、多くの人に読んでもらおうではないか。再びの「国辱」が繰り返されることのないように。
http://www.asahi.com/articles/ASH4P6GZ3H4PUHBI02T.html?iref=comtop_6_06
記事は「昨年来、日本の外務官僚たちが、日本に批判的な外国特派員の記事を大っぴらに攻撃している」と指摘するもの。有り体に言えば、日本の国家総掛かりでの言論への介入である。それも、ドイツやアメリカの有力紙へのもの。おそらくは氷山の一角として明らかになった、ドイツ有力紙元東京特派員の驚くべき告白がメイン。そして、「米主要紙東京特派員」への在米日本大使館からの批判メール事件を紹介している。さすがに、よく行き届いた直接取材で信憑性はきわめて高い。由々しき問題と、憂国せざるを得ない。
主要部分を引用しておきたい。
注目されているのは、独紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)のカルステン・ゲルミス記者(56)が書いた英文の寄稿「外国人特派員の告白」だ。日本外国特派員協会の機関誌「NUMBER 1 SHIMBUN」4月号に掲載された。これを、思想家の内田樹(たつる)さんがブログに全文邦訳して載せ、ネット上で一気に広がった。
ゲルミス氏は2010年1月から今月上旬まで東京に5年余り滞在した。発端となる記事をFAZ紙に掲載したのは昨年8月14日のこと。「漁夫の利」と題し、「安倍政権が歴史の修正を試み、韓国との関係を悪化させているうちに、中韓が接近して日本は孤立化する」という内容の記事だった。これに対し、中根猛・駐ベルリン大使による反論記事が9月1日付のFAZ紙に掲載された。
ここまではよくある話だが、寄稿が明かしたのは、外務省の抗議が独本社の編集者にまで及んでいた点だった。記事が出た直後に、在フランクフルト日本総領事がFAZ本社を訪れ、海外担当の編集者に1時間半にわたり抗議したという。
寄稿によると、総領事は、中国が、ゲルミス氏の記事を反日プロパガンダに利用していると強調。さらに、総領事は「金が絡んでいると疑い始めざるを得ない」と指摘した。また、総領事は、ゲルミス記者が中国寄りの記事を書いているのは、中国に渡航するビザを認めてもらうために必要だからなのでしょう、とも発言したという。
ゲルミス氏は寄稿で、「金が絡んでいる」との総領事の指摘は、「私と編集者、FAZ紙全体に対する侮辱だ」と指摘。ゲルミス氏は「私は中国に行ったことも、ビザを申請したこともない」とも記している。
当事者たちに、現地で直接取材した。昨年8月28日、FAZ本社を訪れたのは坂本秀之・在フランクフルト総領事。対応したのは、ゲルミス氏の上司に当たるペーター・シュトゥルム・アジア担当エディター(56)だった。
シュトゥルム氏によると、同紙に政府関係者が直接抗議に訪れたのは、北朝鮮の政府関係者以来だったという。シュトゥルム氏は「坂本総領事の独語は流暢だった」と話す。総領事は中国のビザ取得が目的だったのだろうと指摘したうえで、「中国からの賄賂が背後にあると思える」と発言したという。シュトゥルム氏は「私は彼に何度も確認した。聞き違いはあり得ない」と話す。
現在勤務する独北部ハンブルクで取材に応じたゲルミス氏は、「海外メディアへの外務省の攻撃は昨年あたりから、完全に異質なものになった。大好きな日本をけなしたと思われたくなかったので躊躇したが、安倍政権への最後のメッセージと思って筆をとった」と話した。
ゲルミス氏が、機関誌に寄稿したのは「日本政府の圧力に耐えた体験を書いてほしい」と、特派員協会の他国の記者に頼まれたからだ。その後、記事への反応を見ると、好意的なものが多かったが、「身の危険」をほのめかす匿名の中傷も少なからずあったという。「日本は民主主義国家なのに歴史について自由に議論できない空気があるのだろうか」と語る。
シュトゥルム氏もこう話した。「我々は決して反日ではない。友好国の政府がおそらく良いとは思えない方向に進みつつあるのを懸念しているから批判するのだ。安倍政権がなぜ、ドイツや外国メディアから批判されるのか、この議論をきっかけに少しでも自分自身を考えてもらいたい」
もう一つは「日本大使館、識者の人選に注文」というもの。記事のコメンテーターへのクレームという話題だ。
米主要紙の東京特派員は、慰安婦問題に関する記事で引用した識者(コメンテーター)について、在米日本大使館幹部から人選を細かく批判する電子メールを受け取った。同特派員は「各国で長年特派員をしているが、その国の政府からこの人を取材すべきだとか、取材すべきでないとか言われたのは初めて。二度と同じことをしないよう抗議した」と話したという。
外務省が嫌ったコメンテーターとは、中野晃一・上智大教授であり、代わって外務省国際報道官室幹部が政権御用達として秦郁彦を推薦するメールを送信しているという。このメール全文までは報道されていないが、メールの存在と内容は外務省が認めているという。
はたして日本に、権力の干渉を受けることなく表現する自由は健在なのだろうか。
おなじみになった、「国境なき記者団」の「世界報道の自由度ランキング 2015」では、日本は180カ国(地域)中の61位である。かつては11位と高位にランクされた時代もあったが、安倍政権になって以来急速に評価を下げ、「先進諸国」中の最下位に甘んじている。アジアでは、台湾(51位)、モンゴル(54位)、韓国(60位)の後塵を拝しする立場。この日本の自由度ランキングは、安倍政権が続いている限りのことだが、来年さらに顕著に順位を落とすことが確実である。
なお、このランキングでは北朝鮮が179位である。ドイツ有力紙の編集者が、日本の総領事の行為について「政府関係者からの直接抗議は北朝鮮以来」と言っているのは示唆に富む。安倍政権は、北朝鮮に比肩されているのだ。
この事態は、安倍政権の末期症状として見るべきなのか、あるいは恐るべき言論弾圧時代の幕開けなのか。憂国の情に堪えない。
(2015年4月28日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は明後日4月22日(水)13時15分に迫っている。舞台は東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。
さて、私は、DHC・吉田から私に対する訴訟を「スラップ訴訟」と位置づけている。この場合のスラップ訴訟とは、権力者や経済的な強者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする提訴のこと。DHC・吉田は渡辺喜美に対して「届出のない8億円を拠出していた」ことを自ら曝露した。多くの論者がこれを批判したが、DHC・吉田はその内10人を選んでスラップ訴訟をかけている。私もそのひとり。トンデモナイ高額請求で、うるさい人物を黙らせようということなのだ。
このようなスラップ訴訟の被害は、フリーランスのジャーナリストや個人ブロガーなど恫喝に弱い立場の者に集中してきた。ところが、大手新聞社もスラップの対象となっている。これは、ジャーナリズム全体に由々しき事態ではないか。既に報道の自由そのものが被害者となっているのだから。
以下は、毎日新聞4月17日夕刊(社会面・第14面)の記事である。多くの読者には目にとまらなかったであろう、小さな扱いのベタ記事。しかし、記事の内容は見過ごせない。
見出しは「サンデー毎日記事巡り稲田氏が本社提訴」というもの。
「サンデー毎日の記事で名誉を傷付けられたとして、自民党の稲田朋美政調会長が発行元の毎日新聞社を相手取り、550万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。17日の第1回口頭弁論で毎日新聞社は請求棄却を求めた。
訴状によると、サンデー毎日は2014年10月5日号で、稲田氏の資金管理団体が10〜12年、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の幹部と行動する8人から計21万2000円の寄付を受けたと指摘。稲田氏について『在特会との近い距離が際立つ』とする記事を載せた。
稲田氏側は『寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない』と主張。記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させる』と訴えている。
▽毎日新聞社社長室広報担当の話 記事は十分な取材に基づいて掲載しています。当方の主張は法廷で明らかにします。」
原告は自民党の政調会長である。安倍晋三にきわめて近い立場にあると見られている人物。このような政権与党の中枢に位置する人物のメディアに対する提訴は、被告が大手新聞社であっても、記事の内容が意図的な事実の捏造でもない限り、言論封殺を目的としたスラップ訴訟とみるべきであろう。また、現時点における複数の報道による限り、提訴の内容はまさしく、「権力者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする」ものと考えてよいと思われる。
問題の「サンデー毎日」2014年10月5日号記事は、『安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月』というメインタイトル。大きな反響を呼んだ記事だ。サブタイトルは、「スクープ 国連が激怒」「自民党がヘイトスピーチ規制に後ろ向きな噴飯ホンネ」「山谷えり子との『親密写真』公開!」「お友達議員にバラ撒かれるカネ」「高市早苗とネオナチ団体」などと賑やかだ。しかし、サブタイトルに稲田の名がないことに注目いただきたい。
使われている写真は、「山谷氏を囲む在特会関係者」「ネオナチと高市氏(左)、稲田氏(右)の写真を報じる海外メディア」と、これは文句のつけようがない。
記事全体としては、「安倍自民と在特会」との蜜月関係を洗い出して、「今さら簡単に断ち切れないほど関係を深めている」「ナショナリズムを政権浮揚に使ってきたツケが回ってきた」と、政権の右翼化を批判したもの。
この記事に出て来る「シンパ議員」の名を挙げておきたい。
安倍晋三・山田賢司・高市早苗・下村博文・山谷えり子・有村治子・古屋圭司・衛藤 晟一、そして稲田朋美だ。稲田の名は最後に出て来る。扱いも、高市や山谷に較べて遙かに小さい。
稲田に関する主要な記事を抜粋してみよう。
「一方で在持会関係者が直接、自民党国会議員ににカネをバラ撒いているケースもある。稲田政調会長の資金管理団体『ともみ組』10〜12年、在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人から計21万2000円の寄付を受けた。稲田氏の事務所は『稲田の政治理念と活動に賛同してくださる個人を対象に、広く浅く浄財を頂いている。事務手続きに必要な事項、法令で定められた事項、政治資金収支報告書に記載された事項以外の情報は確認していない』というが、在特会との近い距離が際立つ。稲田氏といえば、高市総務相とともにネオナチ団体の代表と撮影したツーショット写真が流出し、2人とも『相手の素性や思想は知らなかった』と弁明した。」
この記事にクレームがつけられて、今年の2月13日提訴となっていたことは、4月17日毎日夕刊の記事が出るまで知らなかった。それにしても、疑問が湧いてくる。なぜ、稲田だけが提訴したのだろうか。他の安倍・高市・下村・山谷らは、なぜダンマリなのだろう。
資金管理団体『ともみ組』の政治資金報告書は誰でもネットで閲覧可能である(下記URL参照)が、サンデー毎日記者は、事前に稲田の事務所を取材している。そのコメントも丁寧に記事にしている。手続的に問題はない。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS2020131129.html
毎日新聞の記事による限りだが、原告稲田側は「在特会との近い距離が際立つ」とする記事が怪しからん、ということのようだ。「寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない」にもかかわらず、同記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させた」との主張のようだ。稲田も、在特会と近しいとされることは迷惑なのだ。せっかく「稲田の政治信条と活動に共鳴して政治資金を寄付した」在特会側は、この稲田事務所の連れない言辞をどう受け止めるだろうか。
朝日の報道はやや異なる。
「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられたとして、稲田朋美・自民党政調会長(56)が週刊誌『サンデー毎日』の発行元だった毎日新聞社に慰謝料など550万円の損害賠償と判決が確定した場合の判決文の掲載を求め、大阪地裁に提訴した。」
「稲田氏側は、在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけと主張。さらに『寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない』と訴えた。」
稲田の提訴目的は、いつまでも「在特会と近い関係」と言われることを嫌っての縁切り宣言にあったのかも知れない。それでも、「寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない」は、記事を批判し得ていない。サンデー毎日の記事は、「在特会との近い距離が際立つ」というものである。寄付を受ける者と寄付者との関係を「距離が近い」と言って少しも不都合なところはない。これは典型的な記事の「意見・論評」の部分である。意見・論評には幅の大きな表現の自由が保障される。これでは稲田側の主張が裁判所で認められる余地はない。
「在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけ」との稲田側の主張の真偽は第三者には分からない。しかし、サンデー毎日の記事は、「在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人」となっている。「8人がすべて在特会の会員」と言ってはいない。立証のハードルはきわめて低い。
摘示された事実には真実性が求められるが、「主要な点において真実であればよい」ので、必ずしも完璧な立証が求められるわけではない。また、真実であると信じたことに相当な根拠があれば毎日側の過失は否定される。こうして、表現の自由は保護され、国民の知る権利が保障される。
どう見ても、稲田側の勝訴の見込みはあり得ないが、「自分を批判すると面倒だぞ」とメディアを萎縮させる効果は計算しての提訴ではあろう。それゆえのスラップ訴訟である。
私は、DHC・吉田に対してだけでなく、社会に「スラップ訴訟は許されない」と発言し続けている。是非、毎日も同じように声を揃えていただきたい。
(2015年4月20日)
本日もしつこく、安倍政権の大学に対する国旗国歌押しつけ問題を取り上げる。私は、この10年、教育の場への国旗国歌強制を不当とする訴訟に取り組んできた。この訴訟に携わった者の責務として、この問題では発言しなければならないと肚を決めている。しつこさには、目をつぶっていただきたい。
昨日のブログに、東京新聞の社説がこの問題に触れないことを嘆いた。明けて今日(4月17日)、期待に応えて同紙の社説が政権批判を論じた。これで中央紙の政権批判派が4紙となり、政権への無批判ベッタリ追随派が2紙となった。4対2の色分けは、まだ言論界が全体として健全な批判精神をもっていることを示している。
数だけではない。内容においても、政権批判派は政権ベッタリ派を圧倒している。主張の説得力も格調も段違いだ。社説を比較する限りでのことだが、なぜ、読売や産経のような新聞が淘汰されずに生き延びているのか、不思議でならない。もしかしたら、両紙の読者は、他紙を読んだことがないのかしら、などと思わせる。
東京の社説は、「大学と国旗国歌 自主自律の気概こそ」という、まことに正攻法。真っ向勝負の東京新聞らしい。
冒頭の一節が引き締まっている。
「国立大学の卒業式や入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱を求める安倍政権の動きは、大学の自治を脅かす圧力になりかねない。統制を強めるほど、教育研究は色あせ、学問の発展は望めなくなる。」
その理由や根拠は次のように簡潔に述べられている。
「大学の自治は、憲法が定める学問の自由を守る砦である。教育研究はもちろん、人事や予算、施設管理といった学内の運営に対する外野からの干渉は許されない。だからこそ、九年前の教育基本法の改正では、大学の自主性、自律性の尊重を義務付ける条文が盛り込まれたのではなかったか。」
「大学は世界の平和と人類の福祉に貢献するという原点を忘れないでもらいたい。真理を探究し、新しい価値を創造する。日本の未来のためにも、自治の精神を貫く気概を持つべきだ。」
東京新聞は、露骨に大学の自治への介入を試みている政権を批判するとともに、大学に政権の強要に屈するな、と呼びかけている。私たちも、その両者に目を向ける必要がありそうだ。
昨日は、地方紙の旗手として道新の社説を取り上げたが、新たに神戸新聞、高知新聞、信濃毎日の各社説が目に留まった(そのほかに、東京の親会社である中日新聞は、東京新聞と同じ社説を掲げているがこれは除く)。それぞれに多様な特色があって実に面白い。
まずは、神戸新聞。「国旗国歌の要請/強要でないと言うのだが」というタイトル。飄々としたしたたかさを感じさせる文体。どちらかといえば硬派ではない軟派。直球派ではない軟投派だ。
社説の冒頭で「『お願い』と言いながら威圧的なのが気がかりだ。」という。言われて見ればそのとおり。確かに下村文科省の態度は、「威圧的」だ。到底、人に「お願い」しようという姿勢ではない。
決めつけずに、したたかに次のように言っている。
「国旗国歌法の成立時、当時の小渕恵三首相が『強制するものではない』と述べたことも想起したい。下村氏も『お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない』」とは話している。しかし、単なる『お願い』と受け止めにくい状況がある。国立大の運営費交付金は削減傾向が続いており、大学側からは『教育や研究の質の低下を招きかねない』との悲鳴が上がっている。一方で改革に積極的な大学には交付金を重点配分することも検討されている。そんな中、首相の『税金によって賄われていることを鑑みれば』の発言だ。『要請』は受ける側にとって圧力のように響く。」
次いで、「【国旗国歌要請】大学の自主性に委ねよ」という高知新聞。こちらは硬派だ。直球のストレート勝負。要点を抜き出せば以下のとおり。
「政治が、大学の式典の中身にまで口を挟むのは問題があると言わざるを得ない。」
「政治権力などの干渉を受けず、全構成員の意思に基づいて教育研究や管理に当たる『大学の自治』は、憲法が保障する『学問の自由』に不可欠な制度とされている。2006年改正の教育基本法でも、それまでなかった大学の条文が設けられ、『自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としている。
「国が『お願い』だと主張しても、いまの国立大学は『圧力』と受け止めかねない状況にある。」「兵糧攻めへの恐怖は大きい。」
そして、硬派の硬派たる所以が末尾の一節。
「下村文科相は会見で圧力を否定し、『強要ではない』と強調した。しかし、集団的自衛権行使容認をはじめ、安倍政権に見られる強引な政策展開からは不安は募る。注視し続ける必要がある。」
ごもっとも。よく言っていただいた。腹に据えかねるとして、吐き出された一文ではないか。
そして、信濃毎日新聞である。「大学に国旗国歌 『法にのっとる』のなら」という標題。これは他にない法的ロジックの社説。
「大学の自治を軽んじる動きが続いている。」
「戦前には、大学の研究内容に国家が介入した。例えば滝川事件では京都帝大教授が自由主義的との理由で文相に辞職に追い込まれた。学問の自由が妨げられた反省に立って大学自治の仕組みがつくられたことを忘れてはならない。」
「大学は深く真理を探究する場である。教育基本法もそううたう。続けて『大学については、自主性、自律性が尊重されなければならない』と定めている。法にのっとって、と言うなら、政権の介入こそ慎まなければならない。」
これまで、8紙の政権批判派社説と、2紙の政権ベッタリ派社説を見てきた。7紙が2紙を圧倒していると言ってよい。論点は出尽くした感がある。東京社説の言うとおり、政権を批判する世論を作るとともに、大学人を励ますことも実践の課題となる。
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ここからは、付録。
東京新聞社説の中に、次の一文がある。前後とのつながりは明瞭でない。
「2004年の園遊会での一幕があらためて思い出される。
東京都教育委員だった棋士の故米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが、私の仕事です』と語ると、天皇陛下は『やはり強制になるということでないことが望ましいと思います』と返されたのだった。」
なぜ、唐突に天皇が持ち出されたのか。天皇がこう言ったからどうなんだ、とは書いていない。だから、論評は難しい。が、この「米長対天皇問答事件」は、私に印象が強い。米長と天皇の両者に問題ありとして、当時のブログに2度書いた。今、それを読み返してみると、私は少しも変わっていない。少しも進歩していない。十年一日のごとく同じことを繰り返しているのだ。但し、ペンの切れ味は落ちていると嘆かざるを得ない。
当時は日民協のホームページに連載していた「事務局長日記」、そのアーカイブ2件を再録して披露しておきたい。
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2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する
以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」
共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」
問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。
問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。
問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。
天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。
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2004年10月31日(日)米長君、君に教育委員は務まらない
米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。
君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。
しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。
本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。
君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。
君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。
君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。
これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。
天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。
これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。
もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇の「お気に召す」ことではなかったのだ。
この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。
実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。
もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。
今朝、たまたま聞いたNHK第1放送で経済評論家の内橋克人が語っていた。若いジャーナリストに語りかける内容。この人の言うことには常に耳を傾けることにしている。
内橋は1957年に神戸新聞の記者として、ジャーナリスト人生を歩み始めた。そのとき、尊敬する先輩記者から「記者三訓」を叩き込まれたという。
その先輩記者は、「あの戦争の末期には、特高が同席する新聞社となってしまった」「たくさんの部下が治安維持法違反で検挙された」「再びあの時代を繰り返してはならない」と述懐する人だった。
その人から叩き込まれた記者三訓とは、
「現場で自分の目で確かめろ」
「上を向いて仕事をするな」
「攻める側ではなく、攻められる側に身を置け」
というもの。
「現場で自分の目で確かめろ」とは、権力の発表を垂れ流すな、風評を記事にするな、ということ。「現場に出向いて、自分の目で真実を見極めて記事を書け。それこそが記者だ」ということでもあろう。まさしくジャーナリストの原点。その姿勢あればこそ、われわれはメディアを信用してものを考え発言することが可能となる。その姿勢に対する信頼がなくなれば、ジャーナリズムは崩壊する。それは、民主主義の危機だ。
「上を向いて仕事をするな」の「上」については、「社の内外を問わず」と解説が繰り返された。社外の「上」とは、権力であり、権威であり、社会の多数派であろう。そして、社内にあっては記者としての自分の人事権を握っている上司のこと。真実を伝えることにおいて、権力におもねるな、自社の社長にも遠慮するな、というのだ。
そして、「攻める側に身をおいて、攻められている者の写真を撮るな」「最後まで、攻められる側に身を寄せて、攻められている者のまなざしで攻めている者の表情をカメラに収めよ」という。誰の立場から真実を見つめるべきか、誰の立場にたてば伝えるべき真実が見えてくるか、含蓄のある言葉である。
面白いエピソードが紹介された。
「『社長におもねるな。社長の顔色を見るな』って、ペイペイの私が、社長よりもえらいというのでしょうか」と聞いたら、躊躇なく先輩が答えたという。「そのとおりだ。現場で取材し、事実を把握しているオマエの方が、社長よりエライのだ」
ジャーナリスト魂、というべきだろう。内橋は、この上ない先輩に恵まれて記者修業をしたことになる。今、さてどうだろう。各社にこんな上司がどれだけいるのだろうか。司会を務めているNHKのアナウンサーに聞いてみたい。
「政府が右と言っているのに、左というわけにはいかない」という会長が君臨するNHKにジャーナリズムは健在ですか?
「ジャーナリズムのなんたるかを知らず、知ろうともしない会長よりも、現場で格闘している職員の方がエライのだ」と言ってくれる上司はいますか?
あなたは、政権や会長の意向を意識することなく、ジャーナリストとしての任務をまっとうしている自信がありますか?
内橋は、懐旧談を披露したわけではない。特にNHKを名指しすることはなかったが、現今のジャーナリズムの萎縮を嘆いた。萎縮の結果としての「忖度報道」が横行しているという。
ジャーナリズムの鉄則である権力批判を放棄して、権力(政権)の意向を忖度して自主規制し、書くべきことを書かず、言うべきことを言わず、あるいは切れ味に手加減をする報道。「上を向いて仕事をするな」の記者第2訓に、真っ向から反する姿勢の報道。
記者にしてみれば、「そんな政権批判のガチンコ記事を書けば、上司が渋い顔をするだけ。社が守ってくれる保障はない。危ない橋を渡れるはずがないではないか」ということになるのだろう。上司の方は、「社に権力と事を構える覚悟がないのだから波風立てずにやるしかない」と言い、社の幹部は「官邸からの圧力は相当なものだ。業界が一丸となってこれと闘う雰囲気ではない。時代の空気を読むしかない」とでも言うのだろう。報道の自由も国民の知る権利も危機にある時代なのだ。
それでも、内橋はジャーナリズムの神髄を説いてやまない。東京新聞のコラム「筆洗」を例に挙げて、権力におもねらず「再び戦争を起こしてはならない」「原発再稼働の愚を繰り返してはならない」という気概で一貫している、という。私はジャーナリストではないが、権力や経済力と闘うことを使命とする職業を選んだ者だ。内橋や「筆洗」子の姿勢と覚悟を学びたいと思う。
その上で言いたい。時代の空気は、一人安倍晋三だけが作っているものではない。積極消極の差はあれ、責任の大小の差はあれ、この空気を作ることに国民みんなが加担してはいないか。「上」を忖度することなく、みんなが言うべきことを言わねばならない。でないと、いつの間にか言うべきことを言えなくなる時代がやってこないとも限らない。内橋は、ジャーナリストだけではなく、国民すべてに語りかけているのだと思う。
(2015年4月14日)
「天賦人権・民賦国権」という対句は河上肇の書(「日本独特の国家主義」)に出て来る。当時の日本の「天賦国権・国賦人権」という実態を批判するために用いられた。河上肇は漢詩の名手としても知られた人。さすがにうまいことをいう。
「天賦人権・民賦国権」とは、「人権はほかならぬ天から与えられた生得のものだが、公権力は人民がこしらえたものに過ぎない。ところが、天皇制の我が国ではさかさまだ。まるで、天皇制国家権力が天から授かったもので、人民個人の権利は公権力によって創設されたごとくではないか」という意であろう。
河上自身が、「日本現代の国家主義によれば,国家は目的にして個人はその手段なり。国家は第一義のものにして個人は第二義のものなり。個人はただ国家の発達を計るための道具機関として始めて存在の価値を有す。」「しかるに西洋人の主義は,国家主義にあらずして個人主義なり。故に彼らの主義によれば,個人が目的にして国家はその手段たり。個人は第一義のものにして国家は第二義のものなり。国家はただ個人の生存を完うするための道具機関として始めて存在の価値を有す」と明快に解説している。
これを、ひとひねりして、「天賦民権・民賦国権」と言ってみたい。天をもち出すことにいささかのためらいはあるが、天(自然権)が民権を授け、その民権が公権力をつくったということを表現する端的なスローガンとしてである。
「天賦人権」というときの「人」は、飽くまで個人だ。基本的人権は自然人に生得に存在するという思想を表現する。これに対して、「天賦民権」というときの「民」は集合名詞だ。主権者としての国民総体をいう。前者が人権論に関わり、後者は立憲主義に関わる。「天→民→国」という序列は、それぞれの権利の根拠を表すものでもある。人民が主体となって公権力の根拠たる憲法をつくったという立憲主義を表明するスローガンとして分かり易く適切ではないか。
中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。該当の箇所は以下のとおり。
「世の所謂民権なる者は、自ら二種あり。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜の民権と称すべき者あり。上より恵みて之を与ふる者なり。恢復的の民権は下より進取するが故に、その分量の多寡は、我の随意に定むる所なり。恩賜の民権は上より恵与するが故に、その分量の多寡は、我の得て定むる所に非ざるなり。」
「恢復の民権」とは、「下より進みて之を取りしもの」というのだから、人民が勝ち取った欠けるところのない民権である。これに対して、「上より恵みて之を与ふるもの」という「恩賜の民権」があるという。権力者の妥協によって人民に与えられた欠けた民権といってよかろう。ここで論じられている民権は、明らかに人民主権であって、個人の基本的人権ではない。
河上のいう「民権」が、「下より進みて之を取りしもの」で、「上より恵みて之を与ふるもの」でないことは明確である。民主主義社会において、主権者国民が恩賜の民権をありがたがっている図は滑稽というだけでなく、危険きわまりない。
「恩賜の民権」は、慈悲深い国王という神話を基礎として成立する。かつては、「慈愛深き天皇が臣民たる赤子を慈しんだ」という神話が語られた。植民地支配下の子どもたちにまで、である。いままた、「慈愛深き天皇皇后両陛下が被災住民に心配りをされる」「ペリリュー島で斃れた兵士に哀悼の意を捧げられた」などの、慈悲深い天皇像作りがおこなわれている。これに無警戒であってはならない。
天皇制とは、天皇を傀儡として徹底的に利用した支配層の演出政治であった。国民の理性を封じ、国民の精神生活に深く介入して、国民全体を洗脳しようとした非合理的な体制であった。その演出の基本が、天皇を神格化するとともに、慈愛深い家父長というイメージを作ることにあった。
戦後社会の支配の仕組みにおける、象徴天皇の利用価値を侮ってはならない。現天皇の意思を忖度して君側の奸を攻撃する類の言説をやめよう。親しみある天皇像、リベラルな天皇像、平和を祈る天皇像は、「天賦民権・民賦国権」の思想を徹底する観点からは危険といわざるを得ない。もちろん、「恩賜の民権」などの思想の残滓があってはならない。われわれは、主権者として自立した主体性を徹底して鍛えなければならない。そのためには、天皇の言動だけでなく、その存在自体への批判にも躊躇があってはならない。
(2015年4月13日)