本日は、東京「君が代」裁判第4次訴訟での原告7名についての本人尋問。東京地裁103号大型法廷で、午前9時55分開廷午後4時30分閉廷までの長丁場。充実した、感動的な法廷だった。
10・23通達関連の訴訟は数多いが、そのメインとなっているのが、起立斉唱命令違反による懲戒処分取消を求める「東京『君が代』裁判」。172名の1次訴訟から始まって、現在一審東京地裁民事第11部に係属しているのが4次訴訟。
2010年から2013年までの間に、17名に対して懲戒処分22件が発せられた。その内の14名が原告となって、19件の処分取消を求めている。なお、処分内容の内訳は、「戒告」12件、「減給1月」4件、「減給6月」2件、「停職6月」1件である。
主張の骨格として、第1に、公権力は、立憲主義の構造上、主権者に対して、国家象徴に敬意表明を強制する権限をもたないとする立論(「客観違憲」と呼んでいる)をし、また第2に、個人の権利侵害による違憲違法性として、憲法19条、23条、26条違反ならびに国際条約等に違背する(「主観違憲」)ことを主張している。さらに、本件各懲戒処分が裁量権を逸脱・濫用したものであることを主張している。
申請のとおりに原告13名の本人尋問が採用されて、本日(10月14日)7名、次回(11月11日)に6名の尋問が行われる。
本日7名の原告は、それぞれの立場から処分の違憲違法を基礎づける事実を語った。皆が、児童・生徒を主人公とし、それに向かい合う真摯な教育実践を語り、その教育理念と真っ向背馳するのが、「国旗国歌」ないし「日の丸・君が代」に象徴される国家主義的教育観であり、公権力による教育支配であると述べた。
ある者は、侵略戦争と植民地支配をもたらした戦前の教育の誤りを語り、その轍を踏んではならないとする思いから日の丸・君が代を受容できないとし、またある者は、教員としての良心において、生徒に国家主義を刷り込む行為に加担できないとし、またある者は生徒の前で面従腹背の恥ずべき行為はできないとした。
明らかになったことは、誰もが悩みなく不起立を貫いているのではないこと。多くの原告が、最初は不本意ながらも起立していたという。強い同調圧力と懲戒処分の威嚇効果からである。累積処分が職を奪うことになる恐怖心から不本意な起立を重ねたという原告がほとんど。しかし、やがて真剣に生徒に向かい合おうとする努力の中で、不本意な起立に訣別する。悩みながらも、自分を励まして、起立強制を拒否するに至る。問題の深刻さから体調を崩し、精神的なバランスを崩したりの葛藤の末にである。さながら、感動的な7本の人間ドラマを観ている趣だった。
また、各原告は「10・23通達」体制下で、教育現場がいかに変わったか。都教委の横暴が、現場をいかに荒廃させたかを語った。職員会議での採決禁止通達以来、教員集団の教育力は地に落ち、教員の情熱も自発性も責任意識も、既に大きく失われてしまったとの証言は生々しい。
私が主尋問を担当した教員は、不本意ながらも起立を続けたあと、大きな緊張と決意で不起立に転じた。しかし、5回の不起立は現認処分なく経過し、6回目から処分されるようになった。その後、現認と処分が繰り返され、3度の戒告処分を受けたあと、2度の減給処分を受けている。
この教員は次のように述べている。
「反省なく、不起立を繰り返せば処分を重くするのは当然、という考え方には同意できません。一般的な非違行為であれば、反省を欠くとして繰り返しの処分が重くなることは理解できます。しかし私は、自分の思想や良心に照らして、起立できないのです。非違行為といわれること自体も不本意で、反省の色が見られないと言われても反省のしようがありません。」
「もちろん戒告も納得できませんが、4回目と5回目の処分が戒告ではなく減給になっていることについては、どうしても納得できません。私の思想や良心は不可分の一個のものです。何回目の不起立であろうとも、職務命令に従えなかった理由は、同じ一個の思想・良心に基づくということです。ですから、私の思想良心が変わらない限り、同様の状況で職務命令が出されれば、結果として何度でも不起立とならざるを得ません。私に、『反省して起立せよ』というのは、思想や良心を変えろ、あるいは屈服せよ、ということです。減給処分は、そういう脅しにほかなりません。」
次回(11月11日)午前9時55分から午後4時30分まで、6名の原告尋問が、同じ103号法廷で行われる。関心おありの方には是非傍聴をお薦めする。いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が語られる。貴重な体験となると思う。
(2016年10月14日)
本日(7月27日)午前11時、東京地裁527号法廷で、東京「日の丸・君が代」処分取消請求第4次訴訟の第11回口頭弁論。恒例のとおり、原告のお一人が、熱を込めて陳述をした。いつものことながら原告の陳述は感動的で、裁判官諸氏もよく耳を傾けてくれたと思う。
今日の陳述を担当した渡辺厚子さんは、障がい児教育に情熱を傾けて教員人生を送った方。その陳述内容の前文が後掲のとおり。渡辺さんは、障がい児と接する中でいろんなことを教えられたという。私は、10・23通達関連の訴訟に携わる中で、障がい児教育に携わる教員から大事なことを教わった。
これまでも学校事故の損害賠償請求事件などでは、在学契約における学校の子どもに対する安全配慮義務の内容に関連して、憲法26条に言及してはきた。しかし、「日の丸・君が代」裁判で初めて障がい児教育の何たるかをおぼろげながらにも知った。そこから、教育の本質が見えてくる思いだ。
重度の障がい者に接して、石原慎太郎の如くこんな感想を述べる人物もいる。
「ああいう人ってのは人格あるのかね」「ショックを受けた」「僕は結論を出していない」「みなさんどう思うかなと思って」「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障がいで、ああいう状況になって…。しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな」「人から見たらすばらしいという人もいるし、恐らく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」(「安楽死」の意味を問われた知事は)「そういうことにつなげて考える人も いるだろうということ」「安楽死させろといっているんじゃない」(と否定した。)「自分の文学の問題にふれてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた」(1999年9月18付 朝日)
石原には障がい児教育はできない。障がい児教育を重要とする発想もできない。相模原障がい施設での19人殺害事件犯人と、根底において同じ発想なのだから。
障がい児教育の思想は、その対極にある。教育の成果を国家にも社会にも還元する発想を持たない。子どもを将来の経済社会の担い手として、「人材」と見る目をもたない。教育を経済投資としコストとする思考を拒否してはじめてなり立つ。徹底して、子どもの人格の尊厳から出発する思想だといってよい。
国家や社会に先んじて子どもの尊厳がある。教育とは、そのような尊厳から出発すべきものだというのだ。一人ひとりの障がい児に寄り添うことで、教育の本質が見えてくるのではないか。
その障がい児教育の現場に乱暴に押し入ってきた国旗国歌とは、教育の本質と相容れない国家主義の象徴である。石原都政の時代に、強引に国旗国歌強制が持ち込まれたことは偶然ではないのだ。
本日で主張のやり取りが一応終了して、次回第12回口頭弁論から舞台は103号地裁大法廷に移る。証拠調べ手続にはいる。また、感動的で教訓に満ちた法廷となるものと思う。
なお、次回法廷は、10月14日(金)午前9時55分開廷で、午後4時30分まで。
次々回は、11月11日(金)午前10時開廷で、午後4時30分まで。
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2016年7月27日4次訴訟原告渡辺厚子陳述
2003年10月、大泉養護学校職員会談で、校長より10・23通達の説明がなされました。このときの全教職員の驚愕を私はどう言葉にしていいかわかりません。巣立っていく一人ひとりの卒業生を思い浮かべて、こうしたらいいだろうか、ああしたらいいだろうか、と私たち教員が考え続け、実施しようとしている卒業式が、完全に壊されてしまう。大変な危機感をもって、みんな必至で校長に言いました。
「A君はやっと車椅子をこげるようになりました。いま、その車椅子で証書をもらいたいとフロアー会場で練習をしているんです。」「壇上になったらどうしてこげますか。彼に、自力ではとりにいくな、とでも言うんですか。」
「Bさんは呼吸器をつけています。電源コードを壇上へのばして舞台上手そでから向こうの下手そでまでぐるっと回し降りてくるまで延ばすなんてできません。呼吸器の電源を切らない限り無理です。そんなことをさせるんですか。」
しかし校長は、都教委の命令だから、それに従わなければならない、と苦しそうに答えるだけでした。私達は憤懣やるかたなく、世の中のバリアーフリーに逆行している。命をなんと思っているんだ。通達は、子どもの活動、子どもの権利を潰そうとしている、と言い合いました。ほどなく近藤精一指導部長の、障がい児学校には個別配慮をするという都議会答弁をきき、「そうだよ、都教委だって障がい児にバリアーをつくって動けなくするようなことはしないはずだ」「フロアーを使用できるよう要望してほしい」と校長に訴えました。
校長も、そうだなあ、校長連絡会で聞いてみるよ、と言いました。しかし持って帰ってきた結果は、「だめだ、壇上しか許されない。都議会答弁と実際は違う。スロープ制作予算をつけると言っている」。それっきりでした。
高い壇しかないときに、スロープを通ってのぼれるようバリアーフリーをめざす、というのならわかります。しかし約50年間研究を重ね、子どもたちが主人公となる卒業式のために、バリアーのないフラットな会場を使って対面式の卒業式をしてきたのです。スロープをつくるからいいだろう、ではなく、そもそもバリアーフリーのフラットな会場を使うな、と禁止したことこそ問題です。
フロアーか壇上か、と言った形式の違いの問題としてみられるかもしれませんが、それは本質をみていません。子どもから出発すべき教育の基本を忘れた、いや無視した大問題です。障がい児への合理的配慮に欠ける、なにより子どもの尊厳を奪う事柄なのです。
通達前03年3月卒業式では、どれほど車椅子操作がたどたどしくとも自走して証書をとりにいくのを禁じられることはありませんでした。通達後の卒業式で、生徒が電動車椅子を操作し、フロアーで受け取りたいと、校長に懇願しました。その生徒は唇や舌を噛み切りコントロールできない身体に泣き叫ぶ毎日でした。同じ病気の弟は亡くなりました。本人、親、担任の3人4脚の文字通り涙ぐましい努力で奇跡的にやっとどうにか操作が出来るようになったのです。これは、できるできないというレベルの話ではなく、自分の人生で初めてつかんだ、生きる希望、自らの尊厳でした。しかし、校長から、だめだ、とはねつけられました。その子は泣く泣く担任に押されて壇上に上がりました。担任は悔し涙で、起立しませんでした。
通達が出るまでは当然のこととして営まれてきた子どもの活動です。私たち教員は、子どもの尊厳を守ってやれないばかりか、踏みにじる行為に加担させられます。情けない、悔しい。起立命令を拒否するのは、こんな理不尽には従えない、加害行為に加担したくない、というひりひりとした教員の良心の叫びなのです。
私は本訴訟で停職6ヶ月の処分取り消しを求めています。
子どもたちによって育ててもらった、教員としての私の良心、信念。それを捨てるわけにはいかないとしてきたら、あっという間にこんなに重い処分となってしまいました。
退職の前年度の2009年には、悩み抜いた末の卒業式不起立により停職3ヶ月処分を受けました。そして保護者達から責め続けられ、大変苦しみました。これが30年余自分のすべてを注ぎ込み情熱をもって関わってきたことの答えなのかとほぞを噛む思いでした。
退職の年、教員としてどん底にいた私を、再び信頼してくれる子どもや保護者たちが現れ、私は気を取り直し、最後まで子どもと自分を裏切るまいと思い2011年3月起立しませんでした。
私は障がい児教育の1頁も知らずに飛び込み、初めての学校でありちゃんに出会いました。ありちゃんは、後頭葉が損傷しているため、目が見えませんでした。面会にくるお父さんは、ありちゃんを抱っこしながら、「ありの目が見えたら、世界1周でもしてやりたい」と語っていました。1年ほどたったある日のこと、何気なく転がしたボールを追うように、ありちゃんの顔が上がったのです。私はナースステーションに駆け込み、「先生! ありちゃんが見えているみたいだ」とさけびました。医者も看護師も見に来て、後のカンファレンスで、脳に新たな回路ができ始めたのだろうと言われました。
私は芯から驚きました。不可能と医学でいわれていても、人との関わりが人を変える。私はありちゃんによって教育の力、というものを知らされました。その後も、沢山の子どもによって、人は一人ひとり違い、その違いにこそ価値をおいて教育するべきなのだ、と教えられました。通達と命令は子ども一人ひとりの違いを押しつぶしています。
こどもの権利を侵す間違った命令には従えない。これは私にとって、自分が自分であり続けるために、子どもたちによって育てられた教員の良心を捨てないために、越えてはならない一線なのです。夭折していった子どもたちへ、今後も怠けず、子どものために尽くす、と誓った日を私は忘れるわけにはいきません。
私の初任時代からの近しい友人は、諸事情から命令を拒否できず、苦しみながら起立していました。毎年3月が近づくたびに目が空ろになり、耐えかねてとうとう退職し、そしてほどなくなくなりました。教員はみんな、子どもを第一に考えた教育を実施したいのです。それとは正反対のことをさせられる苦しみ。10・23通達はどの教員の良心にも回復し難い打撃を与えています。
裁判所におかれては、教育というものを熟考し、私達が何故起立できなかったのかに深く思いを致していただきたい。そして子どもや教職員の人権擁護の観点に立った判断を示していただきたいと切に願います。
以上
(2016年7月27日)
都知事選は、今たけなわ。前回までの選挙と違って、千載一遇の勝ちに行ける選挙だ。改憲派の右翼・小池百合子を知事にしてはならない。鳥越俊太郎候補に勝ってもらわねばならない。
鳥越候補の公式ホームページに、次のような呼びかけがある。
「半世紀にわたり、ジャーナリストとして「現場主義」を貫いてきた男がいます。
汗をいとわず、現場に足を運び、一人ひとりの声に耳を傾けること。
今の都政に最も必要で、最も忘れられているのが、この「現場主義の政治」ではないでしょうか。
都政は、都民から離れすぎました。
これからの都政は、街に出ます。あなたの声を聞かせてください。
悩みを、怒りを、不安を、夢を、アイデアを、思いきり語ってください。
彼は、いつだって、市民の側、都民の側に立ちます。
彼には、それしかできない。しかしその思いは、誰にも負けません。」
その彼を信頼して、私も、都民のひとりとして声を上げたい。
今のところ、同候補が公式ホームページで掲げている選挙政策は後記のとおりだ。憲法の理念を実現しようという熱意には溢れているが、教育政策がすっぽりと抜けている。東京都の教育行政は病んでいる。教育現場は疲弊し荒廃している。優秀で真面目な教員が罹病し、退職を余儀なくされている。是非とも、異常な事態にある教育行政の建て直しを公約に掲げていただきたい。
「私は聞く耳をもって、都民のさまざまな意見を聞き、批判を受けとめ、すべての都民が自由に発言できる風通しの良い都庁をつくります。」という、その言やよし。今の都教委は、まったく聞く耳を持たない。自分に不都合となると、都民の声も聞かない。話し合いの呼びかけに応じようとはせず、裁判所の言わんとするところにも、耳を傾ける姿勢がない。
だから、鳥越さん。あなたが頼りだ。私のいうことに耳を貸していただきたい。
第1次アベ政権の時代に、教育基本法が変えられた。アベによって葬られた旧教育基本法には格調の高い前文があった。これを永遠に忘れてはならないと思う。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」
「人権・平和・憲法を守る東京をめざす」というのなら、「人権・平和・憲法」の理念を目指す、教育政策がなくてはならない。今の東京都の教育行政は、「人権・平和・憲法」を蹂躙した石原都政以来のものだ。この東京都の教育行政を糺していただきたい。10・23通達に象徴される都教委の教育内容への不当な支配。職員会議の権限を一切取り上げ、職員会議での採決禁止の通達まで出した異常な現場教員への締めつけ。教員から教科書採択の権限を取り上げての歴史修正主義教科書の採択強行。思想良心を大切にしようとする真面目な教員への恐るべき弾圧、等々。目を覆わんばかりの憲法の理念に反した東京都の公教育の暗部にメスを入れていただきたい。「憲法と闘う」「教育勅語の言っていることは決して間違いではない」と言った知事と、「都教委は石原知事を支える特別な教育委員会」「私の仕事は日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と言った教育委員が、今の教育行政の基本をつくったのだ。
少なからぬ最高裁裁判官が、判決(反対意見や補足意見)で、東京都公立校の「教育現場における紛争が繰り返されている事態」を憂いて、「自由で闊達な教育が実施されるよう」意見を表明している。これに答えるような教育行政を公約していただきたい。都知事の権限で、教育委員会人事を通じての教育行政正常化は可能なのだから。
せめては、「憲法と教育基本法に忠実な公教育の実現」「生徒や子どもたち、一人ひとりを大切にする教育を」「教員の声に耳を傾け、教員とともに教育現場を立て直す」「真面目な教員を大切にする学校現場を再建する」「自由闊達な東京都の教育を目指す」「自律した主権者を育てるにふさわしい教育の実践を」くらいのことは、言っていただきたい。
あなたは、保育園を視察したあと、こう演説をしておられる。
「きょう世田谷区の保育室というところに、現場を見に行って参りました。保育室、これは認可保育所でもない、認証保育所でもない。これは前は病院の中にあったものですが、世田谷区のあるところに区の土地を借りて、平屋を建てて、そこに0歳児・1歳児、2・3・4歳児と2つ部屋が分かれております。そこで子供たちと話をし、それから保育士のみなさんともお話しし、さらにそこにお子さんをお預けになっているお母さんとも話をしてきました。私は本当に保育の現場というのがどれだけ大変なものかというのを、改めて、改めて、肌で感じました。
今日、私は保育の現場を見させていただきまして私が感じたのは、東京都の場合、保育の現場は大変苦しい状況になっている。せっかく子供を育てようという志を持って仕事をしているけれども、しかし現実はなかなか厳しいというのが、私が見たところです。これは何とかしなきゃいけない。」
おそらく、あなたは東京都立校で、都教委から思想良心の弾圧を受けている多くの教員たちの話を聞けば、こう言うだろう。
「きょう都立校の教育現場を見に行って参りました。そこで都教委から処分を受けた教員やその周囲の人たちと話をしてきました。私は本当に、教育という場で、憲法が保障している思想や良心の自由がないがしろにされ、憲法も教育基本法も紙くず同然となっている事態を見て、それがどれだけ大変なものかということを、改めて、改めて、肌で感じました。私が感じたのは、真面目な先生たちが、都民からの委託を受けた子どもたちを育てようという志を持って仕事をしているけれども、しかし現実はなかなか厳しい、むしろ都教委に妨害されている、というのが、私が見たところです。これは何とかしなきゃいけない。」
鳥越候補は、その演説で「私は今回立候補するにあたって3つのスローガンというのを掲げております。『住んでよし、働いてよし、環境によし』の3つを総合的に考えて政策を練っていきたいと申し上げております。市民連合との政策についての話し合いを致しましたが、そのときに市民連合の代表から「実はね、この3つはいいんだけど、もう一つ、『学んで良し』というのも入れてほしい」。その通りです。「学んでよし」というのも入れたい。今日ここから「住んでよし、働いてよし、学んでよし、環境によし」、この4つに変えます。」と言っている。
「学んでよし」は保育園だけではない。小学校も、中学校も、高校もある。そこでの、教育の不当な支配から解放された学校現場。教育本来の自由闊達な学校現場を取り戻すという公約を掲げていただきたいのだ。
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鳥越俊太郎公約「あなたに都政を取り戻す。」
「住んでよし」「働いてよし」「環境によし」を実現する東京を!
私は聞く耳をもって、
都民のさまざまな意見を聞き、
批判を受けとめ、
すべての都民が自由に発言できる
風通しの良い都庁をつくります。
※都政への自覚と責任
都政は、都民が汗水たらして働いて納めた税金で成り立っています。
この原点を忘れた都知事が、2代続けて政治とカネの不祥事で都政を混乱させました。私は「納税者意識」を胸にとめ、都民の負託に応えます。
☆第2の舛添問題を起こさせない体制をつくります。
・知事の海外視察費用・公用車利用のルールを見直します。
・知事の視察等の情報公開を徹底します。
・政治資金規正法の見直しを東京都から国に働きかけます。
※夢のある東京五輪の成功へ
コンパクトでシンプルな2020年のオリンピック・パラリンピックを実現して、東京の可能性や魅力を世界へアピールします。
☆ムダをなくしつつも、平和の祭典としての五輪を成功させます。
・ムダをなくしつつも、平和の祭典としての五輪を成功させます。
・東京の可能性や魅力を世界にアピールできる体制をつくります。
※都民の不安を解消します
医療・介護の充実、子どもの貧困や待機児童の解消に、早急に取り組みます。
がん検診の受診促進や骨粗しょう症対策等で、だれもが、いつまでも社会参加できる健康長寿の東京を目指します。
☆都民のこころとからだの健康をあらゆる施策を通じて実現します。
・東京都のがん検診受診率は現在50%にも達していません。これをまずは50%、最終的には100%を目指します。
・だれもが先進医療を受けられる東京を目指します。
・受動喫煙防止に向けた条例制定に取り組みます。
・保育所の整備をはじめ、あらゆる施策を通じて、待機児童ゼロを目指します。
・保育士の給与・処遇を改善します。
・すべての子どもに学びの場が提供できる環境を整えます。
・貧困・格差の是正に向けて、若者への投資を増やすなど、効果的な対策に取り組みます。
・大介護時代に備え、特別養護老人ホームなど高齢者の住まいを確保します。介護職の給与・処遇を改善します。
・子育て・介護に優先的に予算を配分します。
※安全・安心なまちづくり
耐震化・不燃化の促進、帰宅困難者対策で災害に強い東京をつくります。
再生可能エネルギーの普及で、持続可能な東京を実現します。
☆住宅耐震化率83.8%から100%を、再生可能エネルギー割合8.7%から30%を目指します。
・住宅・マンションの耐震化助成を拡充します。
・民間事業者との連携やITの活用などにより、ハード・ソフト両面からの防災対策を進めます。
・原発に依存しない社会に向け、太陽光やバイオマスなど、再生可能エネルギーの普及に取り組みます。
・テロ・サイバー攻撃などの脅威に対し、万全の備えを確立します。
※笑顔あふれる輝く東京へ
希望する人が正社員になれる格差のない社会を目指し、仕事と家庭の両立を支援します。東京の宝・職人を大切にするマイスター制度を拡充します。
☆働く人の37.5%が非正規社員。正社員化を促進する企業を支援します。
・正社員化を促進する企業を支援し、不本意非正規社員の解消に努めます。また、最低賃金の引き上げを求めていきます。
・長時間労働の是正など、働き方改革で、ワークライフバランスを進めます。
・東京の宝である職人文化をマイスター制度で育みます。
・市区町村への財政支援を強化します。多摩格差を是正し、多摩・島しょ振興を進めます。
※人権・平和・憲法を守る東京を
憲法を生かした「平和都市」東京を実現します。首都サミットの開催や文化・若者交流の推進にもチカラを入れます。
☆多様性を尊重する多文化共生社会をつくります。
・男女平等、DV対策、LGBT施策、障害者差別禁止などの人権施策を推進します。
・非核都市宣言を提案します。
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(2016年7月22日)
本日、服務事故再発防止研修受講を強制されている都立高校教員Yさんに代わって、弁護士の澤藤から、東京都教員研修センターにご意見と要望を申しあげる。
私が申しあげたいことは、何よりも東京都教育行政の異常ということだ。本日の再発防止研修は、今年(2016年)3月の卒業式での国歌斉唱時の不起立を理由とする懲戒処分(戒告処分)にともなうものだ。全教職員に対する卒業式での起立・斉唱を強制する職務命令が異常であり、その違反への懲戒処分が異常であり、さらに服務事故再発防止研修の強制が異常なのだ。この異常に慣れてしまって、異常を異常と感じない感覚もも、これまた異常といわざるを得ない。
戦後の教育は戦前教育の反省から出発した。戦前の、天皇の権威を道具として、国家主義や軍国主義のイデオロギーを注入する教育が否定され、教育が公権力の統制から自由でなくてはならない、という原則が確認された。個人の尊厳は国家に優越する価値であって、国家によって侵害されてはならないという、18世紀市民社会の常識としての個人主義・自由主義が、ようやく20世紀中葉になって我が国の憲法が採用されるところとなり、1947年教育基本法が、教育の国家統制からの自由を宣言した。
こうして、生き生きとした戦後民主主義教育が発展した。その中心をなすものは、子どもの人格の尊重であり、これに寄り添う教師の専門職としての自由の尊重である。憲法と教育基本法がもっとも深い関心を寄せ、あってはならないとするものが、国家の教育支配であり、教育現場への権力の介入である。
国旗国歌こそは権力を担う国家の象徴として、その教育現場での取り扱い如何は、教育が国家からの自由を勝ち得ているか否かのバロメーターであると言わなければならない。
かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。
事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長が、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」も行われた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。
この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。
処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。多くの教員が、やむを得ず強制に服しているが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。
さらに、「服務事故再発防止研修」の異常が強調されなければならない。面従腹背を潔しとせず、自己の教員としての良心の命ずるところに従った尊敬すべき教員に、いったい何を反省せよというのか。
思い起こしていただきたい。10・23通達の異常は、異常な都知事の異常な人事がもたらしたものだ。今、この異常を糺すべく都知事選が行われている。その有力候補者の中の一人が、「人権・平和・憲法を守る東京を」という公約を掲げている。この候補者は「憲法を生かした『平和都市』東京を実現します。」と訴えている。かなり高い確率で、この候補者の当選が見込まれる。憲法の光の当たらない暗い都政と教育行政に、明るい光が射し込もうとしている。異常事態是正の希望が湧きつつある。
状況が劇的に変化しうる事態に、相変わらずの今日の異常な研修なのである。運用に宜しきを得るよう、こころしていただきたい。
異常はいつまでもは続かない。いずれ、知事も教育委員も教育長も変わる。センターの職員諸君に申しあげたい。現在の教育委員会に過度の忠誠を示すリスクについて、よくお考えいただきたい。そして、本日研修を受けるYさんに、敬意をもって接していただくようお願いする。
(2016年7月19日)
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「服務事故再発防止研修」に抗議する声明
本日(7月19日)、東京都教育委員会(都教委)は、3月の卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を理由として懲戒処分(戒告処分)を受けた都立高校教員に対する「服務事故再発防止研修」を強行した。
この「研修」は、自己の「思想・良心」や、教師としての「教育的信念」に基づく行為故に不当にも処分された教職員に対して、セクハラや体罰などと同様の「服務事故者」というレッテルを貼り、精神的・物理的圧迫により、執拗に追い詰め「思想転向」を迫るものである。私たちは、このような憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議するものである。
都教委は、「服務事故再発防止研修」と称して2012年度より、センター研修2回(各210分)と長期にわたる所属校研修を被処分者(受講者)に課している。しかも該当者(受講者)は、既に、4月5日に卒業式処分を理由にした「再発防止研修」を都教職員研修センターで受講させられており、今回で2回目となる。またこの期間に、所属校研修と称して、月1回の所属校への指導主事訪問による研修の受講も強制させられている。
これは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」と判示した東京地裁民事19部決定(2004年7月23日)に反することは明らかである。
また、教育環境の悪化を危惧して、「自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり・・そのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要がある」という最高裁判決の補足意見(櫻井龍子裁判官 2012年1月16日最高裁判決)、「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」と述べ、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている補足意見(2013年9月6日最高裁判決 鬼丸かおる裁判官)などの司法の判断に背く許されない行為である。
受講対象者は、東京「君が代」裁判第四次訴訟原告であり、都人事委員会の処分取消請求事件の請求人でもある。係争中の事案について「服務事故」と決めつけ、命令で「研修」を課すことは、「研修」という名を借りた実質的な二重の処分行為であり、被処分者に対する「懲罰」「イジメ(精神的・物理的脅迫)」にほかならない。
更に重大なのは、教員を本来の職場である学校から引きはがし、「不要不急」の研修を課し、午前中の学校での勤務、特に授業や生徒への指導を不可能とすることによって、生徒の授業を受ける権利を侵害し、かつ「教諭は児童の教育をつかさどる」とする学校教育法や「教員は、授業に支障のない限り…勤務場所を離れて研修を行うことが出来る」とする教育公務員特例法に明白に反していることである。
このように都教委が、教育活動よりも違憲・違法な研修を優先していることは教育条件の整備に責任を持つ教育委員会として断じて許されるものではなく、教育行政に対する都民の期待に背くものである。
私たちは、決して都教委の「懲罰・弾圧」に屈しない。東京の異常な教育行政を告発し続け、生徒が主人公の学校を取り戻すため、広範な人々と手を携えて、自由で民主的な教育を守り抜く決意である。「日の丸・君が代」強制を断じて許さず、「再発防止研修」強行に抗議し、不当処分撤回まで闘い抜くものである。
2016年7月19日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
国旗国歌への敬意強制には服しがたいとして懲戒処分を受け、処分に伴う服務事故再発防止研修の受講を強制されたTさんが、本日これからこの研修センターで不本意な研修を受講する。十分にはものを言える立場にないTさんに代わって、研修センター総務課長に代理人弁護士として抗議と要請の意見を申しあげる。
本日私が申しあげることは、憲法の理念や教育の本質というような、高邁なことではない。極めて卑近で分かり易い都教委のやり口の不条理と不真面目さだ。この不条理から、都教委の体質やホンネが滲み出てよく見えてくる。
本日のTさんの「研修」は、あなた方都教委と研修センターが4月に決めたスケジュールでは、「所属校研修」の2回目ということになっている。所属校研修が所属校で行われず、どうしてTさんに限って、わざわざこのセンターにまで呼び出して行われなければならないのか。もちろん説明もなされていないし、合理的な理由はおよそ考えがたい。
強いて憶測せずとも、本人に可能な限りの大きな負担を与えたいとの、懲罰的な動機が明らかという以外にはない。分かりやすく言えば、都教委の思想統制に従おうとしない教員への報復であり、イジメ・イヤガラセだけを理由とするセンター呼出の「所属校」研修と考えざるをえない。イジメ・イヤガラセによる心理的な負担によって、Tさんに圧力をかけ、その思想・良心を攻撃し、思想や良心を放擲するように仕向けているのだ。
問題は深く大きい。都教委が教員にイジメ・イヤガラセをしているにとどまらず、明らかに、子どもたちの教育を受ける権利を侵害してもいるではないか。
Tさんは、不本意ではあっても、再発防止研修受講を拒否してはいない。授業に差し支えないように配慮して欲しいと真摯に申し入れているではないか。あなた方、教育委員会・教育庁・教育センターは、敢然とこれを無視した。ほんの少しの配慮で、時間と場所を少々ずらすだけのことで、授業に差し支えのない研修は可能なのだ。Tさんの授業が終わったあとの研修設定で何の不都合もない。容易に、子どもたちの授業を受ける権利を確保できるのだ。それなのに、教育委員会・教育庁・教育センターは子どもの教育を受ける権利に何の配慮もしようともしなかった。
今日も、Tさんは、授業からひき剥がされて、まるで授業への妨害を狙った如くのこの時間帯に、このセンターでの服務事故再発防止研修の受講を強制されているのだ。前回6月15日の研修の際には、Tさんがセンターへ呼び出されたために、予定されていた校外活動に半数の生徒が参加できない事態が生じている。
教育に情熱を持ち、子どものためを思い、教育に専念しようとしている教員が、教育委員会から教育活動を妨害されているのだ。真面目な教員が、不まじめきわまる教育委員会に、再発防止研修を強制されている。不都合千万、まったくアベコベではないか。研修の必要も合理性もないどころか、教育活動を妨害する研修の弊害が明白となっている。
それにしても、授業を妨害し、子どもの教育を受ける権利を一顧だにすることのない教育行政とは、いったい何なのだ。教育行政が教育内容に介入することが許されるかなどという高尚な議論をしているのではない。教育行政が、教育を妨害しているこの実態を多くの人に知ってもらわねばならない。
このことは、かつてF教員に対する「授業に出ていたのに処分」事件でも問題となり、都教委は一審で完敗して、控訴もできなかったではないか。
本日の文書による申入れ書の中に、2004年7月の「研修命令執行停止申立事件」における東京地裁決定の説示が引用されている。
「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性がある」というものだ。
ここで研修の受講強制が違憲違法となるメルクマールとされているのは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせること」、「自己の非を認めさせようとすること」、そして「執拗」である。
Tさんに対する研修がこのまま続くのであれば、この違憲・違法の要件は充足しつつあると警告しなければならない。
Tさんは、誰よりも子どもの教育に情熱をもった立派な教員である。研修センターの職員諸君には、本日の研修において、Tさんに敬意をもって接していただくよう特に要請申しあげる。
(2016年7月15日)
今日は7月10日、参院選の投開票の日。まだ、開票結果の確定報はない。しかし、望ましからざる民意が示されたことは疑いがない。日本国憲法の命運は危くなってきた。これはたいへんな事態だ。既に、アベが「憲法改正、憲法審査会できっちり議論」と言い出したと報道されている。
民主主義とは何であるか。またまた、考え込まざるを得ない。私が物心ついたころ、戦後民主主義と平和とは不即不離のイメージだった。戦前には国民主権も民主主義もなかった。だから、誤った軍部に引きずられて民衆が心ならずも戦争の被害者になった。民主主義さえあれば、あの惨禍をもたらした愚かな戦争を再び民衆が望むはずはない。多くの人がそう思い、私もそう思って疑わなかった。
しかし今、アベのごとき人物が民意に支えられて首相になっている。正真正銘「右翼の軍国主義者(a right?wing militarist)」たるアベである。そのアベによる壊憲・教育介入・メディア支配・沖縄の民意蹂躙・原発再稼働・強引な国会運営が強行されている。世は忖度と萎縮に満ちている。にもかかわらず、アベ政権の支持率が下がらない。憲法が想定した民主主義は、どうなってしまったのだろう。
民意が独裁を望み、民意が戦争を辞せずとし、民意が少数派を差別するとき、民主主義とは一体なんなのだ。どうすれば、もすこしマシな、理性的な社会を作ることができるのだろうか。私たちの国の民主主義はどこで間違ってしまったのだろう。どうすれば軌道を修正できるのだろうか。それとも、最初から日本には民主主義が根付く土壌がなかったということなのだろうか。
アベ政権がどのような社会を作ろうとしているのか。自らが分かり易く示している。
7月7日のことと思われるが、自民党がそのホームページに、「学校教育における政治的中立性についての実態調査」というタイトルの記事を掲載した。その本文は、次のとおりである。
《党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』、あるいは『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。》
これには一驚を禁じ得ない。「子供たちを戦場に送るな」との主張は、戦後平和教育の出発点であり、広く国民の支持を受けたスローガンだった。これを、「不偏不党」にも「政治的中立性」にも反し逸脱したというのだ。これでは、「平和は尊い」「戦争を繰り返してはならない」「原爆は禁止すべきだ」も、特定のイデオロギーに染まった結論として排斥されることにならざるを得ない。
自民党は、「子供たちよ、勇ましく戦場を目指せ」と言いたいのだとしか考えられない。もっとも、「子供たちを戦場に送るな」の部分は、その後「安保関連法は廃止にすべき」と、こっそり書き換えられたようだ。姑息千万である。
このホームページの問題はさらに大きい。次のように続けられているのだ。
《そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いします。》として、投稿フォームを設置。氏名や性別、連絡先などとともに、《政治的中立を逸脱するような不適切な事例を具体的(いつ、どこで、だれが、何を、どのように)に記入してください。》という書き込みができる入力欄を設けている。
ちくり、密告の奨励である。子どもたちや父母をスパイに育てようということではないか。あるいは、教員同士の相互監視と密告体制。ジョージ・オーエルの「1984年」を思い出させる。これでは教育が成り立たない。これがアベが取り戻すという「美しい国・日本」の正体なのだ。
(2016年7月10日)
本日は、日本民主法律家協会(日民協)の機関誌「法と民主主義」(法民)の編集会議。
選挙期間中だが、日民協と法民の話題を提供したい。
最新刊の法民2016年6月号【509号】特集は、小沢隆一さんの責任編集で「岐路に立つ日本の大学」。
http://www.jdla.jp/houmin/index.html
「特集に当たって」のリードの中に、小沢さんの次の一文がある。
「今日の大学と学術にかけられている攻撃に対してどのようなスタンスで立ち向かうか。大学で学び、働く者の共同の取り組みが求められている。依るべきものは、日本国憲法の23条「学問の自由」と26条「教育を受ける権利」という二つの柱である。
そしてその際、次のようなユネスコの学習権宣言(一九八五年)も手掛かりにしてはどうだろうか。
学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。」
6月号の目次は次のとおり。
特集★岐路に立つ日本の大学
◆特集にあたって…………編集委員会・小沢隆一
◆現在の大学政策と学問の自由・大学の自治………中富公一
◆学ぶ権利を侵害する学生の生活・労働実態とその克服──奨学金政策の改革を………岡村 稔
◆大学と学生の学びを支える非常勤講師の諸問題と非常勤講師組合の取り組み………松村比奈子
◆国立大学への日の丸・君が代強制に抗する………成澤孝人
◆「政治的中立性」という名の怪物 ──ある市議会からの「攻撃」を受けた、ある憲法研究者の「告発」………三宅裕一郎
◆法学入門科目「現代社会と法」について──法学部教育のあり方が問われる中で………小森田秋夫
連続企画●憲法9条実現のために〈6〉憲法9条擁護のために──急加速の軍学共同とそれとの闘い………赤井純治
特別企画●東日本大震災・福島原発事故と自主避難者の賠償問題・居住福祉課題〈上〉──近時の京都地裁判決の問題分析を中心に………吉田邦彦
司法をめぐる動き・ハンセン病「特別法廷」最高裁調査報告書について………内田博文
◇司法をめぐる動き・4月・5月の動き…………司法制度委員会
◇判決・ホットレポート●三菱マテリアルとの和解について………森田太三
◇メディアウオッチ2016●2016憲法報道・メディア操作にジャーナリズムの姿勢を 争点隠し選挙と改憲問題………丸山重威
◇あなたとランチを〈№18〉………ランチメイト・横湯園子先生×佐藤むつみ
◇委員会報告●司法制度委員会/憲法委員会………米倉洋子/大江京子
◇インフォメーション●6・9「安倍政権と報道の自由」集会アピール
時評●英米流小選挙区制をとおして中華帝国ミニチュア版が再現?………志田なや子
ひろば●安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌………澤藤統一郎
「ひろば」は、日民協執行部や編集委員が回り持ちで自由に執筆する欄。6月号は私が書いた。本欄の末尾に掲載するので、お読みいただきたい。
7月号【510号】の特集は、新屋達之さんの責任編集で「徹底検証『改正』刑訴法・盗聴法」。改正法の解説と徹底批判、そして反対運動を振り返えり、今後を展望する論稿が並ぶとになる。
そして、8・9月合併号【511号】は、参院選の結果を踏まえての情勢討論特集号。10月号【512号】は、「憲法25条・福祉国家論」について。「法と民主主義」健在である。
なお、日民協は 来週土曜日に第55回定時総会を開催する。
日時 2016年7月16日(土)午後1時?6時 終了後に懇親会
会場 プラザエフ8階スイセン
その目玉企画が、広渡清吾さんの総会記念講演
予定時刻 午後3時15分~5時
演題「安倍政権へのオルタナティブを一個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」
ほかならぬ広渡さんの「安倍政権へのオルタナティブ」論である。しかも、参院選直後のこの時期に、参院選の結果を踏まえての講演となる。会員外のご参加も歓迎。無料。できれば、事前に下記まで出席予定のご連絡を。
電話 03(5367)5430 ファックス 03(5367)5431
また、総会では、第12回「相磯まつえ記念・法民賞」授賞式も行われる(午後5時10分?5時30分)。
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「安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌………弁護士 澤藤統一郎
本年5月1日の毎日新聞によると、同紙が実施したアンケート調査で、国立86大学のうち、76大学が今春の式典で国旗を掲揚し、14大学が国歌斉唱を実施したという。その内、新たに国旗を掲揚したのが4大学。新たに国歌を斉唱したのは6大学。斉唱まではしないが、国歌の演奏や独唱をプログラムに入れたのが5大学。じわじわと、「日の丸・君が代」包囲網が大学を押し包んでいくような不気味な空気がある。
国立大学での国旗国歌問題の発端は、昨年(2015年)4月参院予算委員会における安倍首相答弁だった。「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとって、正しく実施されるべきではないか」というもの。知性に欠けるということは恐ろしい。反知性の首相であればこそ、臆面もなく恥ずかしさも知らず、堂々とこんな短絡した「論理」をのたまうことができるのだ。憲法も、歴史の教訓もまったく無視して。
この首相発言を、盟友下村博文文部科学相(当時)が受けとめた。同年6月には、国立大学長を集めた会議で「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」との要請となり、後任の馳浩文は本年2月、岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」という意味不明なコメントを述べている。教育行政を司る部門の責任者の言がこれなのだから、国民の方がまことに恥ずかしい。
だが、愚かな政権の愚かな「要請」の効果は侮れない結果となった。心ならずも政権の意向を汲んで屈服したものは、包囲網に加わる形となって抵抗者を孤立させていく。幾たびも目にしてきた光景ではないか。
愚かな政権の愚かな「要請」は、本来その意図とは逆の効果を生じなければならない。これまで式典に国旗国歌を持ち込んでいた大学も、「文科省に擦り寄る姿勢と誤解されてはならない」「大学の自治に介入する文科省に抗議の意を表明する」として、国旗も国歌も式からなくすという見識が欲しい。
国立大学は結束しなければならない。文科省に擦り寄る大学の存在を許せば、当然に差別的な取り扱いを憂慮しなければならないことになる。大学が真理追究の場ではなくなる虞が生じ、世人の信頼を失うことにもならざるを得ない。
大学とは、学問の場であり、学問の成果を教授する場である。学問とは真理追究であって、大学人には、何ものにもとらわれずに自由に真理を追究しこれを教授すべきことが期待されている。言うまでなく、この自由の最大の敵対者が権力である。したがって、学問の自由とは権力に不都合な真理を追究する自由であり、教授の自由とは時の権力が嫌う教育を行う自由にほかならない。国立大学とは、国家が国費を投じて真理追究の自由と教育の環境を保障した場である。国家は学問と教育の両面に及ぶ自由を確保すべき義務を遵守するが、学問や教育の内容に立ち入ってはならない。こうして、学問は時の政権からの介入や奉仕の要請から遮断されることで、高次のレベルで国民の期待に応えることになる。
国民の精神的自由を保障するために、権力が介入してはならないいくつかの分野がある。まずは教育であり、次いでメディアであり、そして宗教であり、さらに司法である。この各分野のすべてが、濃淡の差こそあれ政権からの攻撃の対象とされている。この各分野への攻撃は、それ自身が目的であるとともに、戦後レジームからの脱却と改憲への強力な手段ともなっている。国立大学での国旗国歌は、政権の国家主義強化の策動を象徴するテーマとなっている。けっして、これを成功させてはならないと思う。
(2016年7月6日)
弁護士の澤藤から、研修センター総務課長に要望と抗議とを申し入れる。
本日、国歌斉唱の職務命令に従わなかったとして懲戒処分を受け、心ならずも処分に伴う再発防止研修の受講を強制されている教員は、自分の思いを口に出せない立場にある。代わって私が、東京都教育委員会と研修センターに、その思いを申しあげるので聞いていただきたい。それだけでなく、私は、当該の教員が担任している特別支援学校小学部3年生のクラスの子どもたちを代弁する立場においても、研修センターに抗議をしたい。
まず最初に、私たちの基本的な立場を確認しておきたい。国旗国歌の強制とこれに従わないことを理由とする懲戒処分は違憲違法だ。本日研修受講の教員に課せられている減給処分は、最高裁判例の立場からも重きに失するものとして裁量権の逸脱濫用としても違法だ。この処分自体の違法に重ねて、これに付随する「服務事故再発防止研修」の受講強制は、さらに重ねて「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじるものといわねばならない。
その上で、本日の研修命令の、日程の理不尽について抗議をしたい。本来本日の研修は所属校研修として、教員が勤務する学校で行われるはずのものだった。それが突然に場所を変え、研修センターに呼び出しての研修受講となった。しかも、その日程が本人に告知されたのが6月6日。当然のことながら教員の本日の授業の日程はびっしり詰まっている。急な呼出は、どうしても授業に差し支える。日程を変更して欲しいとの要請はニベもなく拒絶された。せめて時間をずらして、授業終了後にしてもらいたいというささやかな要請すら拒絶された。今日の授業には、校外での社会科見学の日程もあり、子どもたちは楽しみにしていた。このように、子どもたちの授業を受ける権利を一顧だにしない、およそ教育的配慮とは無縁な東京都教育委員会と研修センターの姿勢に怒りをもって抗議する。
子どもたちから教育を受ける権利を奪い、教員の本務である教育への専念の機会を剥奪して、いったい何のための研修なのか。あなた方のこの日程設定は、教育行政が教育に介入するものとして、いや教育行政が教育の機会を奪うものとして違法といわざるを得ない。仮に、行政に甘い裁判所がかろうじて違法ではないとしても、明らかに不適切ではないか。誰がどう考えても、「違法ではなくとも、不適切」。何よりも大切なこととして最優先させるべきは、子どもたちの教育を受ける権利を全うすることである。その子どもたちの授業を受ける権利をないがしろにして、教員の研修の意味がどこにあるというのか。
本来研修とは、非違行為あった者に対して、その人の良心を呼び覚まし、自覚を促して、再び同様の行為を繰り返さぬように、決意させることではないか。その観点からは、差別発言を繰り返した石原慎太郎、巨額の裏金を受けとった猪瀬直樹、公私混同甚だしい舛添要一、このような歴代の都知事にこそ、研修受講がふさわしい。
しかし、自己の良心の声に耳を傾け、良心に基づく行動をした教員に対して、いったいどのような研修の必要があるというのか。結局は、教員の良心に鞭打ち、思想の転向を強要すること、もっと端的には嫌がらせとイジメだけが、「再発防止研修」の趣旨であり目的ではないか。私は、憲法や教育法体系の理念を踏まえ、人間の尊厳と教育をもてあそぶ都教委と研修センターに、満身の怒りを込めて抗議する。
最後に、本日研修を担当する職員の諸君に申しあげておきたい。
2004年の再発防止研修に関する執行停止申立事件における東京地方裁判所決定は、こう言っている。
「くり返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」
この決定の説示は、司法からの、都教委や研修センターへの警告として受け止めて再確認いただきたい。本日の研修内容は「自己の非を認めさせよようとする」ものであってはならない。いささかも、教員の思想や良心の自由に立ち入って、憲法上の基本権を侵害するものであってはならない。弁護団からも、このことを厳重に警告して、本日の要請とする。
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緊急の研修センター抗議行動。総務課長に申し入れをし、受講のために入構する受講者を激励した直後に、集会参加者間に「舛添要一辞表提出の意向」というニュースが飛びかった。
「またまた、都知事選挙か」「いったい誰が革新側の候補者としてふさわしいだろうか」「納得できる人じゃなくちゃね」「出たがりやさんはゴメン」「今度は勝てる候補者を」「清新なイメージの人でなくては」「猪瀬・舛添・田母神などとよく似た問題を抱えている人はダメ」「前回選挙の『革新』候補も、舛添同様に『選挙運動収支報告書を訂正すれば済む』だものね」。
(2016年6月15日)
本日(5月11日)午前8時35分、雨上がりの水道橋・東京都教職員研修センターの門前。本日の服務事故再発防止研修を命じられている受講者と並んだ私がマイクを握る。センターの総務課長に正対して語りかける。
本日、卒業式での国歌斉唱の際に起立斉唱しなかったとして、心ならずも再発防止研修を命じられ、これから3時間余に及ぶ受講を強制される教員に代わって、代理人の澤藤から都教委に抗議と要請を申し上げます。
私たちは、国旗国歌に対する敬意表明の強制を、これに従えないとする教員の良心にむち打つ心ない行為と抗議を重ねてきました。最高裁裁判官諸氏も、私たちの訴えを半ばは認めているところです。
むち打たれた良心を重ねてさらにむち打つ行為、むち打たれた良心の傷に塩を塗り込むに等しい行為が、今日これから行われようとしている再発防止研修にほかなりません。
自己の良心に照らして恥じない行為を選択した教員、生徒に対して最良の教師であろうとして良心を貫いた教員に、いったいどのような研修が必要というのでしょうか。自分の良心を殺せ、国家に売り渡せ、良心よりは世渡りが大切、生徒には上手な世渡りの見本を見せろ、とでもいうのでしょうか。
本来、服務事故再発を防止するための研修とは、良心に恥じる行為をした公務員に対して、その良心を呼び覚まし、覚醒された良心に従った行動をするよう促すことにあるのではないでしょうか。
そのような見地からは、いま、舛添要一知事こそが、再発防止研修を受けるに最もふさわしい人物ではありませんか。目に余る、彼の公私混同、公費の浪費、そして開き直りは、良心にやましい行為であるに違いありません。仮に良心に恥じないというのであれば、それこそ諄々と説いて聞かせて、良心を呼び覚まし、以後は良心に従った行為をするよう研修を重ねる必要があるのです。
舛添知事は、公費で絵画・美術品を購入して、領収証の作成者には「資料代」と記載するよう求めたと報道されています。心の内では、まずいことをしているという認識があったに違いありません。良心に恥じる行為をしていたのです。この知事のような人にこそ、良心を呼び起こし、良心に従った行動をするよう善導する、服務事故再発防止研修の効果は大いに期待しうるのです。
一方、自らの良心のあり方を探し確認し、悩みながらも覚悟して自らの良心に従うことを選択した教員に、いったい何を反省せよせよというのでしょうか。結局は、思想や良心を投げ捨てよと威嚇するだけのことではありませんか。
私たちは、服務事故再発防止研修を国旗国歌強制の手段としてだけ問題にしているのではありません。それ自体が、思想・良心を侵害する違憲性・違法性の強い行為だと考えています。とりわけ、不起立の理由を執拗に問い質すようなことは、思想・良心の告白を迫る、典型的な思想・良心の侵害行為として大きな問題だと考えています。本日の研修において、けっしてそのようなことがあってはなりません。
今日の研修に携わるセンター職員の皆さまに、お考えいただきたい。
おそらくあなた方は、良心にむち打つ行為に加担することを不本意なことと内心はお考えではないか。それでも、職務だからと割り切り、あるいは諦めて、本日の任務についておられることと思う。
しかし、本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。多大な不利益を覚悟して、良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格ではありませんか。
研修センター職員の皆さんの良心に期待したい。是非、自分のあり方と対比して、尊敬すべき研修受講者に対して、その人格を尊重し、敬意をもって接していただきたい。このことを、代理人としてお願い申しあげる。
(2016年5月11日)
私は、2003年10月23日、石原教育行政の「10・23通達」発出を当日の産経(朝刊)報道で知った。つまり、産経はこの種情報のリーク先として使われ、政権や右翼筋の広報担当となっているのだ。その産経が、本日とんでもない記事を発信した。
「教職員の政治活動に罰則 自民、特例法改正案、秋の臨時国会にも提出」というもの。
http://www.sankei.com/politics/news/160510/plt1605100003-n1.html
自民党は9日、今夏の参院選から選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられることを踏まえ、公立高校の教職員の政治活動を禁じる教育公務員特例法を改正し、罰則規定を設ける方針を固めた。早ければ今秋の臨時国会に改正案を提出する。同法は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」とする国家公務員法を準用する規定を定めているが、罰則がないため、事実上の「野放し状態」(同党幹部)と指摘されていた。
改正案では、政治的行為の制限に違反した教職員に対し、「3年以下の懲役又は100万円以下の罰金」程度の罰則を科することを想定している。
また、私立学校でも政治的中立性を確保する必要があるとして私立校教職員への規制も検討する。これまで「国も自治体も、私立には口出ししない風潮があった」(同党文教関係議員)とされるが、高校生の場合は全国で約3割が私立に通学する実情がある。
党幹部は「私立でも政治的中立性は厳格に守られなければならない」と指摘。小中学校で政治活動をした教職員に罰則を科す「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を改正し、私立高の教職員にも罰則を適用する案が浮上している。
日本教職員組合(日教組)が組合内候補者を積極的に支援するなど選挙運動に関与してきた過去を踏まえ、組合の収支報告を義務付ける地方公務員法の改正についても検討する。
この改正法案の当否以前の問題として、罰則をもって禁じなければならないような「高校教職員の政治活動」の実態がどこにあるというのだろうか。1954年教育二法案制定当時と今とでは、政治状況はまったく違っている。かつての闘う日教組は、今や文科省との協調路線に転換している。「日の丸・君が代」問題でも、組合は闘わない。個人が、法廷闘争をしているのみではないか。
教育二法とは、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(教員を教唆せん動して特定の政治教育を行わせることを禁止)と、「教育公務員特例法」(教員の政治的行為を制限)とのこと。当時の反対運動の成果として、教特法への刑事罰導入は阻止された。それを今、60年の時を経て導入実現しようというのだ。
教育現場での教員の政治的問題についての発言は、残念ながら萎縮しきっていると言わざるをえない。それをさらに、刑罰の威嚇をもって徹底的に押さえ込もうというのだ。闘う力もあるまいと侮られての屈辱ではないか。
「政治的中立」の名をもって圧殺されるものが政権批判であることは、現場では誰もが分かっていることだ。さらに、萎縮を求められるものは「憲法擁護」であり、「平和を守れ」、「人権と民主主義を守れ」、「立憲主義を尊重せよ」という声だ。憲法に根拠をおく常識も良識も党派性を帯びた政治的発言とされてしまうのだ。
教育基本法(第14条)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」と定める。明日の主権者を育てる学校が、政治と無関係ではおられない。18歳選挙権が実現した今となればなおさらのこと。刑事罰導入はいたずらに、政治的教養教育、主権者教育の限りない萎縮をもたらすことが目に見えている。それを狙っての法改正と指摘せざるをえない。
今、教育現場において「教育基本法の精神に基き、学校における教育を党派的勢力の不当な影響または支配から守る」ためには、政権の教育への過剰な介入を排除することに主眼を置かねばならない。
教育公務員も思想・良心の自由の主体である。同時に、教育という文化的営為に携わる者として、内在的な制約を有すると同時に、権力からの介入を拒否する権利を有する。
「教職員の政治活動に罰則」という、教職員の活動への制約は、政権の教育支配の一手段にほかならない。憲法をないがしろにし、教育基本法を敵視するアベ政権が、危険な牙をむいてきたといわなければならない。改憲反対勢力がこぞって反対しなければならないテーマがひとつ増えた。
(2016年5月10日)