澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

高市早苗発言のホンネ

私、高市早苗です。総務大臣のポストにあって、微力ながらもけなげにアベ政権を支えています。甘利さん、島尻さん、丸川さん、岩城さんなど、アベ政権を支える閣僚の不祥事や問題発言、そして無能ぶりが話題になっています。しかし、私に関しては不祥事とも、問題発言とも無縁です。もちろん無能とも。私の発言はすべて計算ずく、言わば確信犯なのですから、島尻さんや丸川さん岩城さんなどと一緒にされるのは、迷惑至極と言わねばなりません。

アベ政権の反知性の姿勢が批判の対象となっていますね。島尻さん、丸川さん、岩城さんなどは、いかにも「反知性」を感じさせますが、飽くまでも私は別格です。私は、アベ政権の知性を代表して、アベ政権を支えるために日夜奮闘しているのですから。

総務省って昔の自治省と郵政省を統合したもので、郵政省が管轄していた電波監理行政は今総務大臣である私の手の内にあります。NHKも民放も、放送法の縛りの中での免許事業ですから、私の意向を忖度しながら動かなければなりません。それが当然、当たり前のことではありませんか。

放送に携わる多くの方には、私が何を考えているか、どうすれば私の意に沿う放送内容になるのか、またどうすれば私の逆鱗に触れることになるのか、よくご理解いただいています。それくらい気がきかなければこの世界で生き抜いていくことが出来るとは思えませんものね。「憲法9条を守れ」だの、「解釈改憲は怪しからん」だの、「アベ政権の姿勢はおかしい」「アベノミクスは大失敗」だのといえば、免許権を持っている官庁との間に無用の摩擦が生じてものごとが面倒になる、そのくらいのことは大人の分別をお持ちの方ならよくお分かりのはず。

でも、今に限っては、「よくお分かりのはず」では不十分なのです。テレビやラジオの放送事業に携わる者の大部分はものわかりのよい方ばかりですが、ごく一部ではありますが変わり者もいます。「ジャーナリズムの真髄は政権批判にある」などと訳の分からぬことを言う人たち。普段ならともかく、今はこういう確信犯的人物の出番をなくさねばなりません。そのために、放送事業者に絶えずシグナルを送り続けなければならないのです。

何しろ、これから無理をしてでも、国民に不人気な明文改憲をやろうというアベ政権なのです。今のメディアの状況が続けば、アベ政権批判が噴出して、もたないことになるかも知れない。その危機感は閣内全体のものとなっています。だから、私がアベ政権を支える立場から、メディアの政権批判を抑制するよう火中の栗を拾わなければならないのです。

私は知性派ですから、必要な限りでホンネを発言しつつ、突っ込まれても躱せるように、切り抜け策を十分に準備しています。それが、「忖度と萎縮効果期待作戦」あるいは「ホンネチラ見せ戦術」と言うべきものなのです。私の独創ではなく、敏腕の政治家や官僚の常套手段といってもよいのではないでしょうか。

「おまえ、人を殺すようなことをするなよ」とか、「嘘を言うものじゃないよ」と言えば、言われた方は怒ります。「オレを人殺しだというのか」「嘘つきだというのか」と。でも、「『人を殺すようなことをしてはいけない』も『嘘を言ってはいけない』も、当然のことを言ったまでのことで、あなたを人殺しや嘘つきと決めつけたわけではない。だからなんの問題もない発言」と切り返すことを準備しているのです。これがアベ政権の悪知恵、いや知能犯、でもなく知性のあるやり方なのです。

私は、2月8日の衆院予算委員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と確かに言いました。でも、飽くまで、一般論を述べただけ、「人を殺すようなことをしてはいけないのは当たり前だろう」と開き直って切り抜けられるように計算した発言なのです。何が政治的な公平性を欠くものか、どこの局のどのような番組にその虞があるのか、具体的な決め付けは何もしていません。

それでも、停波可能性発言のあとに、「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と続けました。ここまで言っておけば、放送事業者には私の真意を十分に忖度していただけるはず、そして萎縮してくれることが十二分に期待できるのです。

当たり障りのないことを言っているようで、実は萎縮狙いの効果抜群の私の発言。知性派である私なればこそ出来ることで、私がアベ政権をけなげに支えていると申しあげた意味も十分にお分かりいただけるものと思います。

ところで、「政治的な公平性」とは何か、誰が判断するのか、ということがにわかに議論となってまいりました。

「政治的な公平性」あるいは「公平性を欠く」という判断は誰がするのか。その判断の権限は、主務官庁の責任者である私にあることは明らかです。私は、逃げることなくその判断をいたします。

考えてもいただきたい。民主主義の世の中です。選挙で主権者の多数からご支持をいただいて政権が出来ています。私の職責も、主権者国民から委託されたものなのです。私がその職責を果たさないことは、国民を裏切ることになろうというものです。

では、「政治的な公平性を欠く」とはどういうことか。私が申し上げましたとおり、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」で十分だと思います。これで、多くの放送事業者はものわかりよく、「憲法を守れ」「9条改憲反対」「アベ政権は非立憲」などと言ってはいけないのだと、正確に呑み込んでいただけるはず。これをアウンの呼吸とか、魚心あれば水心というものでしよう。これにツッコミを入れるなんて野暮というものではありませんか。

えっ? なんですって? 「あなたの目は結局政権だけに向いていて、国民の方には向いていないのか? とおっしゃるのですか」

その質問がおろかなのです。国民が選んだ政権ではありませんか。アベ政権こそが、国民の意思を体現しているのです。ですから、軽々にアベ政権批判は慎んで戴きたいという私の真意は、国民の意思を尊重することでもあるのです。お分かりでしょうか。

ああ、私って、なんて知性派。
(2016年2月14日)

若者よ、安倍晋三の反知性に学ぶな。サンダースのカネに綺麗な格好良さに学べ。

アメリカ大統領選挙の予備選挙から目が離せない。2月9日のニューハンプシャー州予備選開票結果が、ひときわ興味津々たるものとなった。

まずは共和党。
「9日夜、支持者の前で勝利宣言したトランプ氏は開口一番、『なんて素晴らしいんだ。我々は偉大な米国を取り戻しつつある』と誇らしげに語った。トランプ氏が掲げるスローガンは、『偉大な米国を取り戻す』。政治経験はなく、イスラム教徒入国禁止や全不法移民の即時強制送還など、過激で現実離れした主張が目立つが、政治家としての『経験』よりも『変化』を望む共和党支持層に浸透した。」(読売)

ならず者トランプのスローガンは、「偉大な米国を取り戻す」なのだ。いま、「偉大な米国」は、何者かによって奪われ、失われている。その認識を前提に、奪われた「偉大な米国」を「何者かの手から」取り戻さねばならない。そう、大衆のナショナリズムの感性に訴えて、支持を獲得しているのだ。反知性の「にわか政治家」が、反知性の大衆に語りかけるには、「偉大な米国」を「取り戻す」という論法がうってつけだというわけだ。

「偉大なアメリカ」を「美しい日本」に置き換えれば、安倍晋三の論法そのままである。「活力ある大阪」に置き換えれば橋下流だ。「偉大なアーリア人国家」を「ユダヤ人の手から取り戻せ」といえば、ナチスのスローガン。すべて、兄たりがたく弟たりがたし。

そして、真っ当な政治戦で歴史的な開票結果となった民主党。
「サンダース氏は9日夜、大歓声をあげる支持者を前に笑顔で手を振り、『偉大な我が国の政府は、一握りの裕福な選挙資金提供者のものでなく、すべての人々に属するものだ』と強調。同氏はウォール街など一部富裕層と政治の癒着を指摘。ウォール街への課税強化や貧富の格差是正、公立大授業料無償化、国民皆保険導入などを訴え、この日も「勝利は、まさに『政治革命』の始まりに他ならない」と訴えた。」(朝日)

さすがサンダース。政治とカネの真髄を語っている。「一部富裕層と政治の癒着」こそが諸悪の根源なのである。クリントンは「一部富裕層と癒着した政治の担い手」として、この選挙に敗れたのだ。この意味は、とてつもなく大きい。まさに、革命的というべきではないか。

政治資金と賄賂、本質的にその差はない。人が政治にカネを注ぎ込むのは、政治からの見返りを求めてのことである。政党や政治家がカネを受けとれば、スポンサーに利益を還元する政策を実行しなければならない。だから、「一握りの裕福な選挙資金提供者」はウォール街に利益をもたらす政治を求めて、莫大な政治資金を提供するのだ。大企業が累進課税に抵抗し逆進性の高い消費増税を求めて、企業献金をしているのだ。アベ政権がそれに応えて、貧乏人への増税で財源を捻出し、大企業と大金持ちに減税しているではないか。企業経営者が、企業への規制緩和の政治を求めて巨額の裏金を提供している例もある。

古今東西を問わず、カネをもらえば縛られる。カネを出したら報われる。スポンサーと政治家の持ちつ持たれつの醜悪な関係が結局政治のあり方を決めてきた。アメリカ大統領選挙こそ、資金力が当落を決め、スポンサーを潤す政治が行われた典型例として怪しまれなかったではないか。

サンダースの選挙はこれまでの常識を逆転した。政治資金の潤沢は、「一握りの裕福な選挙資金提供者との癒着の証明」となった。企業や富裕層からの支持は、マイナスイメージに暗転した。社会を貧富対立の階級構造から見る立場からすれば、当たり前のことだが、今までなかったことが実現したのだ。

これから先、クリントンの巻き返しを予想する声も高い。それでもなお、ニューハンプシャーの開票結果は、持たざる陣営に限りない希望を与えるものとなった。富裕層からのカネで買われない候補者が、格差や貧困をなくする政治を実現する希望である。がんばれサンダース、熟年の星。

ところで、本日の東京新聞「こちら特報部」の欄で、「高校生未来会議」なる存在を初めて知った。明らかにシールズ対抗を意識した体制派動員組織。というよりは、アベお手盛り組織。こちらの方に、文科省や教育委員会がいちゃもん付けることはないのだろう。

3月に全国から150人を集めて2泊3日の「全国高校生未来会議」なる合宿イベントを行うという。場所は、衆議院第一議員会館。見逃せないのは、「交通費も宿泊費も支給する」と明言していること。その金の出所は企業の寄付金なのだ。要するに、紐のついた金で、金をもらうことに抵抗感のない無自覚な高校生をあつめて、アベ流の政治教育をしようというのだ。

サンダースが、カネに綺麗なことでアメリカの若者にアピールしている一方で、日本の若者が体制派に金で釣られようとしている。日本の若者よ、サンダースを見よ。サンダースを支持しているアメリカの若者たちを見据えよ。

「全国高校生未来会議」に集おうとしている高校生諸君に言いたい。
キミたち、格好悪いぞ。キミたち意地汚いぞ。キミたち、みっともないぞ。精神が貧しいぞ。
そして、忠告しておきたい。金をもらえば縛られるのだ。高校生未来会議なんぞに関わると未来が失われる。人生の大損をするぞ。

人の精神は若いときほど自由でしなやかなのだ。キミたちは、いま何ものにもとらわれず、自由に誰の意見をも等距離で聞いて自分を形成することができる。当然に反体制、反アベの選択も自由。実はこれが、若さの大きな特権なのだ。年を経るにしたがって、人は次第にしがらみを身につけていく。このしがらみは、精神の自由をも奪う。考え方も表現や行動も自由でなくなるのだ。現にあるこの社会の体制に適合せざるを得ないと自ら自由を捨てることが、多くの人にとって大人になるということだ。悲しいがそれが現実だ。キミたちは貴重な精神の自由を謳歌せよ。安倍晋三ごとき者の策略に乗って、金をもらって縛られる愚挙をやめよ。歴史修正主義として名高く、自ら「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら、そう呼んでいただきたい」などという人物の手の内で躍ることをいさぎよしとしてはならない。

安倍晋三の反知性ではなく、サンダースのカネに綺麗な格好良さを学ぼうではないか。
(2016年2月10日)

「機密解禁文書にみる日米同盟」(末浪靖司著)から見えてくる、日米安保体制と9条擁護のたたかいの構図

本日は、日民協憲法委員会の学習会。末浪靖司さんを講師に、「『機密解禁文書にみる日米同盟』から読み解く日米安保体制と私たちのたたかい」というテーマ。

末浪さんは精力的にアメリカの公開された機密公文書を渉猟して、日本側が隠している安保関係の密約文書を世に紹介していることで知られるジャーナリスト。『機密解禁文書にみる日米同盟』は、その成果をまとめた近著である。

最初に、アメリカの文書開示制度と国立公文書館についての解説があった。
1789年フランス人権宣言15条には、「社会は、その行政のすべての公の職員に報告を求める権利を有する」と明記されている。フランス革命に先立って、独立革命をなし遂げたアメリカ合衆国第2代大統領アダムズ(独立宣言起草に参加)は、「政府が何をしているかを知るのは国民の義務」とまで述べ、これが公文書公開制度のモットーとなって、1967年制定の「情報の自由法」FOIA(The Freedom of Information Act)に生きている。その充実ぶりは、日本の外務省の外交文書公開の扱いとは雲泥の差。この10年アメリカ公文書館その他に通って、大要下記のことを確認した。

※アメリカ政府の憲法9条改憲の内的衝動と米軍の駐留
☆アメリカ政府内で最も早い時期に改憲要求を明確化したのは、ジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官(国際法学者)である。
アメリカの核独占体制がソ連の核実験によって破られ中華人民共和国が成立するという状況下の1949年11月4日、機密文書「日本軍隊の復活に関する覚書」の中で、「日本再軍備の決定は、憲法の『戦争と軍隊の放棄』をどうするかという決定と無関係ではない」とし、同月10日には、国務長官宛の機密覚書で、「日本軍復活に関して国務省のとるべき態度」との表題をつけて「米の援助と日本の資金・労力は米軍の駐留と強力な警察部隊の維持にあてられるべき」と述べている。
ハワードは、国務長官をはじめ国務省、国防総省などに論文、報告書をばらまいて自分の考えを売り込んだ。彼は、9条改憲を望みながらも、改憲が実現する前に米軍駐留を合憲とする理屈を考えた。50年3月3日付の極秘報告「軍事制裁に対する日本の戦争放棄の影響」には、「外国軍隊は日本国憲法9条が禁止する戦力ではない」「外国軍事基地は憲法の範囲内の存在」という、その後の安保そして砂川判決の論理が明記されている。

☆日本の再軍備と改憲要求は米軍司令部から出てきている
1950年8月22日ブラッドレー統合参謀本部長から国防長官宛の機密覚書「主題:対日平和条約」には、「アメリカは非武装・中立の日本に生じる軍事的空白を容認し続ける立場にはない。それ(軍事的空白の解消)は、万一世界戦争が起きた際に、アメリカの戦略と世界戦争に良い結果をもたらすだろう」
また、同年12月28日付統合参謀本部への機密文書「アメリカの対日政策に関する共同戦略調査委員会報告」では、「米国の軍事的利益は日本の能力向上により得られる。そのために憲法変更は避けがたい」と9条改憲の意向が明確化されている。
さらに、51年3月14日統合参謀本部宛の海軍作戦部長の機密覚書には、「日本が合法的に軍隊を作れるようになる前に、憲法の改定が必要になる」とされている。

☆1951年8月8日 統合参謀本部から国防長官へ、極秘覚書、主題:対日平和条約に関する文書 「行政協定により、ダレス訪日団が準備した集団防衛に参加する」。12月18日統合参謀本部から国防長官宛の機密覚書には、「統合参謀本部は、戦時には、極東米軍司令官が日本のすべての軍を指揮する計画である」。52年2月6日文書には、「行政協定交渉で米側提案:軍事的能力を有する他のすべての日本国の組織は、米国政府が指名する最高司令官の統合的指揮の下に置かれる」とされている。
こうして、旧安保条約が成立した。

※安保改定秘密交渉で改憲問題はいかに議論されたか
1958年8月1日 マッカーサー?(ダグラスマッカーサーの甥。)大使から国防長官へ、秘密公電は「適切な措置をとることが、安保条約を改定し、日本の軍隊を海外に送り出すことを可能にする憲法改定の時間をわれわれに与えてくれるだろう」としている。
8月26日 マッカーサーから国務長官への極秘公電には、「岸は自分が考えていることを大統領に知ってもらいたいと言って、友人としての最初のフランクな会話をしめくくった。——私は個人的には、岸が好む線で日本との安保関係を調整することが、われわれ自身の利益になると考える。」とある。
その岸は、同年10月15日に、NBC放送のインタビューで「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果たすために、憲法から戦争放棄条項を除去すべき時がきた」と述べている。

☆58年10月4日帝国ホテルで藤山愛一郎とマッカーサーの秘密交渉が開始され、安保改定の原案が固まった。藤山は東京商工会議所会頭で、海軍省の顧問であり、東条内閣の終末を決めた岸とは親友の間柄。

折り合わなかったのは、藤山が安保条約第3,5,8条を「憲法の枠内」「憲法の制約の範囲内で」と提案。アメリカ側は「憲法の規定に従うことを条件として」という対案。結局アメリカ案で決着するが、この間の文書が興味深い。たとえば、59年6月18日マッカーサーからディロン国務長官への機密公電「われわれが提案した(「憲法の規定に従うことを条件として」などの)文言を[日本側が]受け入れることが難しいのは、憲法に自衛力に関するいかなる規定もないことからきている。反対に、憲法第9条では、陸海空軍を、その他の戦力とともに、日本が維持することを絶対的に禁止している。日本国憲法は、固有の自衛権を、したがって自衛隊の必要性を否定していないと解釈されている一方で、そうした能力が「憲法の規定に従うことを条件として」維持され発展させられるということは、法的に不可能である。なぜなら、憲法にはそうした規定がないからである。」

☆マッカーサー大使の情勢観
ダグラス・マッカーサー?(駐日大使)は、沖縄をはじめ、九十九里浜、内灘、妙義山、砂川、北富士、横田、立川、新潟、小牧、伊丹、木更津などの基地反対闘争、原水爆禁止と核持ち込み阻止を求める日本国民の運動に手を焼いたジョン・フォスター・ダレスにより日本に送り込まれた。マッカーサーが57年2月に東京に着任した時、日本はジラード事件や米兵犯罪で米軍に対する怒りが渦巻いていた。
危機感をもったマッカーサーは、4月10日岸信介と長時間にわたり密談し、「このままでは、米軍は日本から追い出される」と長文の秘密公電で日本の情勢を報告している。

報告はもっと多岐にわたるが、上記のことからだけでも、以下の事情がよく分かる。
1947年に施行となった日本国憲法は、その直後の冷戦開始以来、日米両政府から疎まれ改憲が目論まれる事態となっている。そのイニシャチブは常にアメリカ側にあり、改憲論を裏でリードし続けたのがアメリカ政府の意向であった。旧安保条約、改定安保条約が基本的にそのようなものであり、そしてガイドライン、新ガイドライン、さらには新新ガイドラインも同様である。

憲法を侵蝕する安保条約、ないしは安保体制の実質的内容は、アメリカの意向と日本の国民の闘いとの力関係で形づくられてきた。これが、末浪報告の核心だと思う。アメリカの意向とは、アメリカの軍事的世界戦略が日本に要求するところだが、実は軍産複合体の際限の無い戦争政策である。そして、これに対峙するのが、核を拒否し米軍基地のない平和を願う日本国民の戦後の平和運動である。

アメリカにおもねりつつ、9条改憲をねらっていた岸政権を倒した60年安保闘争が、あの時期の改憲を阻止した。そしていま、また安倍政権が、9条改憲をねらっており、その背後にはこれまでのようにアメリカがある。

末浪報告で、戦後の歴史の骨格が見えてきたように思える。詳細は、「機密解禁文書にみる日米同盟?アメリカ国立公文書館からの報告」(末浪靖司・高文研)を参照されたい。
(2016年2月5日)

頑張れ原告・弁護団! 「安倍靖國参拝違憲訴訟・関西」1月28日大阪地裁判決を読む

明文改憲を呼号する安倍晋三の反憲法的性格は、戦争法だけのものではない。教育基本法・地教行法の改悪、特定秘密保護法の制定や武器輸出3原則の清算、NHKの人事統制等々多岐にわたる。靖國神社公式参拝も顕著な反憲法的姿勢の表れである。

2013年12月26日、安倍晋三は内閣総理大臣の公的資格をもって靖國神社参拝を強行した。国内外からの強い反対論、明白な憲法違反の指摘を押し切ってのことである。安倍は、公用車で靖國神社に向かい「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳したうえ正式に祓いを受けて昇殿参拝した。政教分離を規定した憲法第20条3項に違反することは自明といわねばならない。

最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は、愛媛県知事の靖國神社への玉串料奉納を違憲と断じている。多数意見13人対反対意見2人の大差であった。この孤立した反対意見者のひとりが当時最高裁長官だった三好達、現日本会議議長である。

県知事の玉串料奉納ですら違憲なのだ。ましてや内閣総理大臣の靖國神社公式参拝が違憲であることに疑問の余地はない。なお、最高裁判決で首相の靖國参拝の合違憲に触れた判決はまだないが、仙台高裁(仙台高判1991年1月10日)が岩手靖國違憲訴訟で明確に違憲判断をして以来、高裁・地裁での違憲判断はいくつかある。もちろん、合憲判断は皆無である。

この安倍晋三の違憲行為に司法の場で制裁を加えようとの果敢な試みが、「安倍靖國参拝違憲訴訟」として東京と大阪の両地裁で行われ、大阪訴訟の審理が先行して、2015年10月23日結審、本年1月28日(木)午前10時に判決言い渡しとなった。注目の判決だったが、はからずもDHCスラップ訴訟控訴審判決日と重なり、内容紹介のブログ掲載が遅れた。

ご存じのとおり、判決主文では敗訴であった。が、判決を一読した印象において、さしたる敗北感がない。判決は憲法判断を回避したが、無理をしてでも憲法判断はしたくない、という姿勢が見え見えなのだ。

「原告団一同」の名による判決への抗議声明が出されている。その冒頭の一節をご紹介する。
「本日大阪地裁は、安倍靖国参拝違憲訴訟に対して極めて不当な判決を出した。判決は、小泉首相靖国参拝違憲訴訟の2006年最高裁判決にいう、「人が神社に参拝をしても他人の権利を侵害することはない。これは内閣総理大臣が靖国神社を参拝したとしても変わりがない」をなぞるだけのものであった。
 しかし、ここにいう「人」は、違憲の戦争法をごり押しし、憲法そのものにも敵対しこれを破壊する意図を明確にしている内閣総理大臣の安倍晋三である。「神社」は、殺し合いを強いられた人を天皇に忠義を尽くした人として顕彰し未来の戦死を誘導する靖国神社である。このことを踏まえれば、これを「人が神社に参拝する行為」と一般化同列化することができないことはだれが見ても明らかなことである。
 安倍靖国参拝はそれが単に政教分離規定に反する違憲行為として内心の自由等の権利を侵害するのみならず、いわば戦争準備行為なのであり、平和的生存権も侵害する行為である。」

ここに怒りはあっても、敗北感はない。原告らの抗議の声は「安倍靖國参拝は戦争準備行為であり、平和的生存権を侵害する」となっている。安倍晋三の9条改憲の野望と軌を一にするものとして、靖國神社参拝が位置づけられている。これまでの靖國違憲訴訟にはなかったトーンである。

言うまでもなく、靖國神社は、国家神道における軍事的施設であり、軍国主義における宗教的施設である。軍国主義からの訣別を宣した日本国憲法の政教分離とは、時の政権と靖國との癒着を禁じたものと読むべきなのだ。いま、安倍政権の戦争推進政策の中で、新たな危険な意味合いをもった政教の癒着として靖國神社公式参拝が強行されているのだ。

この訴訟と判決が注目されたのは、政教分離問題としてだけでなく、戦争法違憲国賠訴訟、あるいは自衛隊派兵差止訴訟提起の試みに関連してのものである。国民ひとりひとりが持つ平和的生存権を根拠として訴訟の提起が可能か否か。

これまで、靖國公式参拝を政教分離に反するとする訴訟は、主として国賠請求事件として争われてきた。その場合の請求の根拠とされたものは宗教的人格権の侵害である。先に引用した抗議声明の文中にある「2006年最高裁判決」とは、2006年6月23日第2小法廷判決。その理由中に、「人が神社に参拝する行為自体は,他人の信仰生活等に対して圧迫,干渉を加えるような性質のものではないから,他人が特定の神社に参拝することによって,自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし,不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」「このことは,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから,本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。」という一文がある。この論理を克服しなければならないのだ。

安倍靖国神社参拝違憲訴訟・関西の原告は765名。
被告は、安倍晋三・靖國神社・国の3名。

「請求の趣旨」は以下のとおり、3個の請求からなる。
1 (差止請求) 被告安倍晋三は内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
2 (差止請求) 被告靖國神社は、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
3 (賠償請求) 被告(安倍・靖國・国)らは、各自連帯して、原告それぞれに対し、金1万円及びごれに対する2013年12月26日から支払済みまで年5バーセントの割合による金員を支払え。

分離を求められている政(権力)と教(宗教)とは、公式参拝をめぐっては安倍晋三と靖國ということになる。その安倍には、「靖國神社に参拝してはならない」とし、靖國には「安倍晋三の参拝を受け入れてはならない」とする。この形で、両者の癒着の禁止を命じる判決を求めるのが、第1項と第2項の請求。

そして、安倍と、安倍が代表する国と、靖國との3者に対して、違憲違法な行為によって原告らにもたらされた精神的損害の賠償を求めるのが第3項の請求。

以上の3個の請求を認容するためには、いくつかのハードルを越えねばならない。
担当裁判所は、そのハードルを8個として、次のとおりに整理した。これが各「争点」である。

(1) 本件参拝は公務員が職務を行うについてされた行為といえるか。
(2) 本件参拝は政教分離原則に違反し違法か。
(3) 本件参拝により損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(4) 本件参拝受入れにより損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(5) 原告らの損害
(6) 被告安倍の個人責任の成否
(7) 本件参拝差止請求の必要性
(8) 本件参拝受入差止請求の適法性及び必要性

このハードルを全部越えることができれば、前記の3個の請求が全部認容されることになる。原告にとって、最大の関心事は、憲法問題としての「(2)本件参拝は政教分離原則に違反し違法か」という点である。他と切り離して、これだけでも真っ先に判断してもらいたいところ。ところが、この8個のハードルの並べ方、つまり判断の順番は裁判所の裁量に任されている。どのような順番でもよいのだ。

だから、憲法判断を真っ先にして違憲であることを確認し、しかるのちに「その他の損害賠償の要件が認められない」「安倍参拝は違憲ではあるが、差し止めの要件が調っているとは言えない」などとして、請求を棄却する判決はあり得る。もちろん、多くの実例もある。

しかし、本件ではそうはならなかった。重い、違憲判断は避けられた。整理された争点の(1)と(2)の判断に裁判所が触れるところはまったくなかった。もちろん、安倍参拝を合憲とは言わない。裁判所は憲法判断を回避した。敢えて言えば逃げたのだ。

裁判所の判断は、もっぱら、(3)と(4)「安倍の本件参拝、ならびに靖國の参拝受け入れにより、原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか」に集中することになる。

前述のとおり安倍晋三の靖國参拝が違憲であることは明々白々であるが、問題はそのことを裁判で争うことが出来るかどうか、である。裁判とは、原告の権利が侵害されたときにその回復を求めてするもの。自分の権利侵害ないのに抽象的な法令違反を糺すための制度とはなっていない。だから、安倍の参拝によって法的な意味で各原告らの権利、または法的保護に値する利益の侵害がなければならない。それあると言えなければ、訴訟として成立し得ないことになる。このハードルをクリアーするためのキーワードが、宗教的人格権であり、平和的生存権である。各原告がそれぞれに持っているこの権利(あるいは権利と言えないまでも、法的な保護に値する利益)が侵害されたとの認定がなければ、憲法判断に到達できない公算が高くなる。

したがって、関心はもっぱら被侵害利益の有無に集中する。原告らの主張は、概要以下のようなものだった。
(1) 宗教的人格権の侵害 
原告らは、被告安倍の本件参拝及び被告靖國神社の参拝受入れによって、内心の自由形成の権利、信教の自由確保の権利、身近な死者を回顧し祭祀することについての自己決定権を侵害された。
>(2) 平和的生存権侵害
本件参拝等によって、原告らの平和のうちに生きる権利が侵害された。現代社会においては、平和なしにはいかなる個人の権利も実現することができない。平和的生存権に対ずる侵害によって生ずる損害は、人格的生存の根幹に関わるものである。
 靖國神社の歴史的経緯等に加え,被告安倍が憲法9条の改正を政治家としての目標に掲げていることからすれば,本件参拝は靖國神社という戦前の軍国主義・全体主義を承認するばかりか、称揚鼓舞する行為である。さらに,被告安倍が,これまでの内閣法制局の見解を無視し集団的自衛権の行使について憲法に反しないと主張している事実、訪米時に「私を右翼の軍国主義青と呼びたければそう呼んでいただきたい」と発言した事実等に鑑みれば,本件参拝は、靖國神社の有していた戦前の軍国主義の精神的支柱としての役割を現在において積極的に活用しようという意図のもと行われた、「戦争の準備行為」にほかならない。

しかし、判決は、安倍の靖國神社参拝によって、原告らに法的保護に値する利益の侵害があったとは認められないとした。

まず、宗教的人格権について。
「原告らは、人が神社に参拝する行為と、内閣総理大臣が靖國神社に参拝する行為は異なるとして、被告安倍が内閣総理大臣として憲法9条の改正等を目標としていることや靖國神社の歴史的経緯等に照らせば、本件参拝及び本件参拝受入れは,大々的に喧伝されることによって,国又はその機関が靖國神社を特別視し, あるいは他の宗教団体に比べて優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ,原告らを含む個人の内心の自由形成、信教の自由確保,回顧・祭祀に関する自己決定に対し,重大な圧迫,干渉を加え,原告らの内心の自由形成の権利,信教の自由確保の権利,及び遺族原告らの回顧・祭祀に関する自己決定権を侵害するものであると主張する。
確かに,靖國神社は,その歴史的経緯からして一般の神社とは異なる地位にあることは認められ、また、行政権を有する内閣の首長である内閣総理大臣の被告安倍が本件参拝をすることが社会的関心を喚起したり,国際的にも報道されるなど影響力が強いことは認めることができる。しかしながら、被告安倍が参拝するという行為は、それが参拝にとどまる限度において,原告らの特定の個人の信仰生活等に対して、信仰することを妨げたり,事実上信仰することを不可能とするような圧迫,干渉を加えるような性質のものでないと解される。
そうであれば,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても,原告らが、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」

また、平和的生存権については、次のように言及されている。
「平和に生存する権利の具体的な内容は曖昧不明確であり,認定事実を前提としても、憲法第3章に規定する基本的人権として保障される権利自由とは別に平和的生存権として保障すべき権利,自由が現時点で具体的権利性を帯びるものとなっているかは疑問であり,裁判所に対して損害賠償や差止めを求めることができるとまで解することはできない。
したがって、原告らの主張する平和的生存権を根拠として, 裁判所に対し,損害賠償や差止めを求めることはできないというべきであり,本件参拝及び本件参拝受入れによって, 原告らの平和的生存権が侵害されたとの主張は理由がない。」

超えられなかったハードルは相当に高い。そのことは率直に認めざるを得ないだろう。しかし、原告や弁護団にとっては、想定の範囲のものといってよい。むしろ、裁判所の判断はけっして説得力を持ったものとなってはいない。既にある結論ののための理屈づけにしても、けっして成功していない。今回は実を結ばなかったにせよ、ハードルを超えるための工夫も積み重ねられている。

原告団は控訴の意向である。そして、東京地裁の判決も今秋には出ることになろう。敗訴判決にめげていない、原告団と弁護団の努力に声援を送りたい。
(2016年2月2日)

「安倍晋三とは一緒に飯を喰う仲だ。甘利を評する筆が甘くなるのはやむを得ないさ」

「労働運動は場末のパブから始まった」とは社会史が語るところ。「労働組合は、安酒の麗しき結晶である」とは、私ひとりの語るところ。資本主義の勃興期に、法の保護なく過酷な搾取に喘いだ工場労働者たちがパブで不満を語り合う。これが労働運動と労働組合の起源なのだ。

だから、私が弁護士になった当時、労働運動に寄与したいと志す若手の弁護士には、「労働者と酒を飲め」「団結も信頼も、アルコールから生まれる」などと教えられ、実際によく飲んだ。私の付き合いの範囲では、組合費で幹部が酒を飲むことはなかった。もちろん接待もない。すべて自腹の割り勘の「団結と連帯の酒」だった。

酒食をともにし語り合うことで信頼関係が生まれる。同じ席で同じものを飲みかつ喰うことが、仲間と認めあう儀礼となっているのだ。「同じ釜の飯を喰う」「一宿一飯の恩義」などの言葉のニュアンスがよく分かる。「俺の酒が飲めないっていうのか」という酔漢の気持ちも、だ。

多くの「一流」マスコミ人が、安倍ら「二流」政治家と酒食をともにしているという。こちらは場末の安酒ではない。豪勢な料亭や寿司屋、あるいは一流のレストランでの話し。アベ友、スシ友、フグ友、飲み友の会席。この席で、政権とメディアとの「団結と信頼」「個人的な友情」あるいは「醜い癒着」の関係が育まれているのだ。勘定は誰が持っているのか、などと問題にするのは「ゲスの勘繰り」の類。

その効果は着実に現れている。NHKや産経・読売だけにではない。私の愛読する「毎日新聞」にもである。

本日の毎日新聞朝刊2面の「風知草」。このコラムは毎週月曜日に掲載されるが、この空間には他の記事とは違う風が流れている。「アベ風」の匂いである。本日のタイトルは、「ゲスの極み」。二流政治家と酒食をともにする「一流記者」山田孝男の筆になるもの。

「風知草」とは、風のまにまになびく草。疾風の中の勁草の対極である。もっとも、風向きを知る草に罪があるわけではない。風はいろんな方向から吹く。権力から吹く風もあれば、民衆が起こす風もある。そよ風も、突風も、爆風もある。いったい「風知草」はどこからの風を読もうとしているのか。風の向きを知って、覚悟を決めてこの風に抗おうというのか、それとも風に流されようというのか。

本日の「ゲスの極み」は、政権からの風を知って、暖かい迎合の風を返しているようだ。「一飯の恩義」を感じて、「スシ友へのエール」として書いた記事。

甘利明事務所に「1200万円のワイロが流れたという『週刊文春』特報」に関して、「違法な金銭授受は間違いなさそうだが、その意味と背景について、正確に見定める必要がある」という趣旨。こんな記事は、サンケイか夕刊フジに任せておけばよい。毎日新聞の紙面に、どうしてこんな「アベへのヨイショ」が躍るのか。

暴かれた「甘利スキャンダル」の威力は、アベ政権直撃のメガトン級。いまやその影響は激震となっている。アベの取り巻き連中が、この衝撃を緩和し、過小評価しようとして躍起になっている。

その典型が山東昭子の「ゲスの極み」発言であり、高村正彦の「わなにはめられた」論である。山東の発言はとりわけ悪質である。「ゲスの極みというような感じで、まさに、両成敗でただしていかなければならない気がする」。これは、告発者に対する「おまえも無傷では済まないぞ」という威嚇である。この威嚇は、今回の告発者に限られたものではなく、今後同様の例を抑止しようという効果を狙ったものである。

覚悟の告発を「ゲスの極み」とする山東に、「政権の疑惑を隠す暴言」などと批判が集中しているのは当然のことだが、アベと酒食をともにする「スシ友・山田孝男」は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という。山田は、「ワイロは、もらう側も渡す側も、どだいゲス(下種(げす)=心卑しき者)の極み。だから両成敗……。いかにも芸能界出身の山東らしい機知だ。」と、山東の言わぬことまで付け加えて山東を持ち上げている。

それはおかしい。山田孝男の言の意味と背景を吟味すれば、政権擁護の弁でしかない。
山田は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という理由を「なぜなら、一見、捨て身と見える告発者の所属企業は実態不明、あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである。」という。これは、高村の「わなにはめられた」論とまったく同じである。

「告発側も疑え」? いったい何をどう疑えというのだ。「政敵の陰謀にはめられた」とでも言いたいのだろうか。あちらこちらでの陰謀説には食傷だが、仮に陰謀であつたとしても、甘利の罪責が軽減されることにはならない。陰謀であろうとなかろうと、現金700万円を収受しているのは犯罪である。甘利は、50万円の現金を2回にわたって、自らのポケットに入れたと具体的に告発されて、これを否定できないのだ。

もしかしたら、今回の件は陰謀であれはこそ、表に出てきたのかも知れない。甘利に限らず、多くの政治家が、口利き料をポケットに入れて、「陰謀でないから裏に隠れたままになっている」のかも知れない。それなら、陰謀バンザイだ。

賄賂罪は、「公務員の職務の公正」と「公務員の職務の公正に対する国民の信頼」を保護法益とするものとして、贈賄も収賄もともに犯罪とされている。この犯罪は表に現れにくい。「アンダー・ザ・テーブル」といわれるように、賄賂の収受は隠密裡に行われるからである。疑惑ありとの指摘に対しては、贈賄側も収賄側も、団結固く口裏を合わせて否認することが通例で、立件は難しい。摘発には、リニエーションの制度導入が効果的だ。これは裏切りの奨励である。どちらか、先に犯罪を申告した方の立件を免除する制度である。賄賂罪摘発を容易にすることで、賄賂の収受をなくそうという発想である。

あっせん利得罪は、「賄賂罪」ではない。が、口利きをしてその報酬として利得を収受する政治家(甘利)だけでなく、政治家に口利きを依頼して利得を供与する者(S社)の行為も犯罪になる。S社は、このことをよく知りながら、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切っている。山田の「あざとい印象」よりも、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切ったことでの政治家の犯罪暴露を積極評価すべきが当然ではないか。

また、「告発者の所属企業は実態不明」はなかろう。政治資金収支報告書から社名も所在地も直ぐに分かる。新聞記者が可能な調査を手抜きして「実態不明」と「印象」を語るのは怠慢の誹りを免れまい。「あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである」とは驚いた。海千山千の政治家を相手に、このくらいのことをしても少しの不思議もない。この程度の「印象」で、山東を弁護し、甘利の罪責を薄めて政権を擁護しようというのだ。

山田のコラムに漂っているものは、政権中枢に位置する者に対する「捨て身の告発」への不快感である。そして、極端な言を避けつつ、告発者を誹ることで、被告発者を相対的に弁護し、告発の影響をできるだけ小さくしようとの政権への配慮が見える。この不快感は、アベ政権の不快感を毎日新聞の紙上に映したものといわざるを得ない。

なるほど。一緒に飯を喰うことの効果はあるものだ。信義に厚い。さすがは高級店での「君子の交わり」である。
(2016年1月25日)

アベ晋三ホンネの施政方針演説

アベ晋三です。衆参両院本会議で、両院の議員の皆さまに、ややホンネの施政方針を申しあげたいと存じます。

(軍事大国へ挑戦する国会)
改憲か、護憲か。
戦後70年間、日本は、その基本方針すら決められませんでした。終わらない議論、曖昧な結論、そして責任の回避。憲法にこだわって衰退していく国家を見つつ、ワタシは、こう嘆いています。
 「一言以て 国を亡ぼすべきもの ありや、
  『憲法は不磨の大典、それゆえこれを拳拳服膺すべし』と云う一言、これなり
  戦後の国家が衰亡の一途をたどったるは この一言にあり」
国民から富国と強兵の負託を受けた私たち国会議員は、「憲法を変えてはならない」「憲法を守ろう」「憲法99条の憲法順守義務を大切にしよう」などという退嬰的な態度ではいけません。自分たちの手で、強い日本、繁栄する日本、そして一億国民が一体の火の玉となる強固な国民統合をなし遂げるためには、「どうにでもして憲法を破る」努力をしなければならないのです。既に、ワタシが手本を示したとおりにです。

憲法にそぐわない現実を直視し、憲法を現実に服せしむべく解決策を示し、そして実行する。憲法の解釈を変え、さらには憲法自体を変えていく、そのような大きな責任があるのです。「憲法守って国亡ぶ」ような愚かな事態は、絶対に避けなければなりません。

自由の美名による人権の濫用を押さえ、個人尊重に隠れた国家の軽視に警鐘を鳴らし、中国や北朝鮮の脅威に備える武力の整備を万全にし、韓国や台湾にも侮られてはならないのです。

厳しさを増す安全保障環境については、どんなに強調しても足りないと言わざるを得ません。自由も人権も、民主主義も平和も、強固な国家が存続していればこそではありませんか。精強な軍事力、精強な軍隊、精強な武器、そして軍隊や軍人に対する国民の尊敬や協力、さらには可能な限りの軍事予算が、この国を護り国民の安全と安心を守るのです。

報道も、教育も、学問も、産業も、文化も、スポーツも、すべては国家あってのその一分枝に過ぎないことを、国民は以て銘すべきなのです。

いま、この国会に求められていることは、こうした新たな政権の方針を真正面に掲げて「挑戦」することであり、その答えを出すことであります。

口先の批判だけに明け暮れ、対案を示さず、何かと言えば、「日本国憲法にはこう書いてある」「政府は憲法軽視だ」「危険な反立憲主義」などと政権に反対ばかりする、そういう態度は、国家と国民に対して誠に無責任といわねばなりません。

私たち自由民主党と公明党の連立与党は、断固として改憲を掲げて、決してぶれることはありません。「憲法軽視」「反知性主義」という悪罵に怯みません。逃げません。安定した政治基盤の下、そして、この三年間の大きな違憲の政策を積み上げた実績の上に、改憲がいかに困難な課題であるとしても果敢に「挑戦」してまいります。

(新しい成長軌道への挑戦)
いままさに、アベノミクスの化けの皮が剥がれようとしています。世界経済の不透明感が増し、いくら政府資金の投入をしても、金融市場の操作が困難になってきています。その煽りで株価連動内閣が危うくなっているのです。

安倍政権は、これまで3本の矢を的に当てると喧伝して、国民の支持率を確保して参りしたが、結局は格差と貧困をつくり出す結果に終わっています。しかし、こんなときほど、慌ててはなりません。泰然自若を装って知恵を出さねばなりません。「3本の矢」が折れたら、「新3本の矢」を作ればよいのです。これも的を外れたら、「新々3本の矢」さらには、「新々々30本の矢」でもよいではありませんか。要するに、目先を変えて、国民の皆さまの目眩ましが続くところまで頑張ればよいのです。どうせ皆さん、「餅を食ったら去年のことは忘れる」人たちではありませんか。

こうして、イノベーションによって新しい付加価値を生み出し、持続的な成長を確保する。「より安く」ではなく、「より良い」に挑戦する、イノベーション型の経済成長へと転換する、二十一世紀にふさわしい経済ルールを世界へと広げる、などと、私自身もよく分からない無内容なことを「大いなる挑戦」と言っておけばよいのです。

経済になんの関係もありませんが、唐突に「伊勢神宮、美しい入江。日本の長い伝統や文化、豊かな自然を感じられる」と前振りして、伊勢志摩の地で開く五月のサミットを「基本的価値を共有する主要国のリーダーたちと、世界経済の未来を論じ、新しい「挑戦」を始める。そのようなサミットにする決意であります」。多分こんな程度で、国民は十分気分をよくするのだと思います。

(TPPは大きなチャンス)
「TPPによって農業を続けることができなくなるのではないか」。多くの農家の皆さんが不安を抱いておられます。これはもっともなことです。建前としては、「米や麦、砂糖・でん粉、牛肉・豚肉、そして乳製品。日本の農業を長らく支えてきた重要品目については、関税撤廃の例外を確保いたしました。2年半にわたる粘り強い交渉によって、国益にかなう最善の結果を得ることができました。」と言っておきましょう。もちろん、誰も信じてはくれません。私自身も、信じてはいません。

「生産者の皆さんが安心して再生産に取り組むことができるよう、農業の体質強化と経営安定化のための万全の対策を講じます」とは一応申し上げますが、これは農家の皆さまの自助努力なしにできることではありません。「美しい田園風景、伝統ある故郷、助け合いの農村文化。日本が誇るこうした国柄をしっかりと守っていく」これは、ひとえに皆様のの努力にかかっています。努力が実らない場合はやむを得ません。今の農家の皆さまには総退場していただくしかありません。

農業に参入して、生産性の高い農業経営をしたいという、新規参入希望者は国の内外にたくさんいるのです。結局その方々に、農業をお任せいただくのが、国家全体の利益になるものと考えざるをえません。実は、TPPはこのような新規参入希望者へのチャンスなのです。この辺のところをよくお考えください。

TPP交渉は担当の甘利大臣が、よくやってくれました。週刊誌では、政治力を利用しての口利きで1200万円をもらったことが、何か悪いことをしたように書かれています。しかし、彼ほどの政治家が1200万円程度のはした金をもらったことで騒ぐ方がおかしいのです。山東昭子議員がいみじくも言ったとおり、「ゲスの極み」のしわざで、有能な政治家を失脚させてはなりません。

(希望の同盟)
我が国の外交の基軸は、日米同盟にあります。
目下の同盟国である我が国は、強大な米国の核の傘を借りる身として分を弁え、その意に従わざるを得ないのです。アメリカ様が、普天間基地を返してくださるというのですから、ありがたく返していただけばよろしいのです。代わりに、辺野古に新基地を作れと言われれば、その指示に従わざるを得ないのです。思いやり予算にしても同じこと。オスプレイの配備も、オスプレイの購入も、アメリカ様の言いなりにならざるを得ないのです。

それをこともあろうに、「沖縄の民意は基地のたらい回しを許さない」などと、身の程知らずの沖縄現地は、親の心子知らず、と言うほかはありません。どんな手を使ってでも、徹底して押さえつける覚悟を申し述べておきます。

(積極的平和主義)
自衛隊は、積極的平和主義の旗の下、国際平和に力を尽くすという名目で、これから世界に展開いたします。これを可能にした戦争法は、「平和安全法制」と呼ぶべきなのです。軍事力を世界に展開するということは、当然に敵である武力を向ける相手が、世界に存在するからであります。我が国と利害を共通にする同盟国からは歓迎されますが、それ以外の多くの国からは疎ましいと思われることでしょう。

でも、軍隊は平和のためにあるのです。戦争は平和のためにするのです。軍隊を大きくすればするほど、世界に展開する武力の規模が大きくなればなるほど、それは平和を意味するのです。日本の不景気も、軍需産業の復興で息を吹き返すことができるでしょう。

先般、北朝鮮が核実験を強行したことは、アベ政権の僥倖です。よくぞやってくれた。これで、改憲の世論も大きくなり、内閣の支持率も上がることが確実です。天敵同士が実は共存関係にあることはよく知られたこと。アベ政権としては、瀬戸際政策をとり続ける北朝鮮の現政権がいつまでも存続することを願わざるを得ません。同様の意味合いで、テロも大歓迎なのです。

(おわりに)
継続こそ力。改憲策動も三年間を経過し、今後もぶれることなく、この道をまっすぐに進んで行きます。明文改憲のための、両院の3分2、国民の過半数という、困難な課題にも真正面から「挑戦」し、結果を出してまいります。

戦後初めて、内閣法制局長官のクビをすげ替えてまでして閣議で解釈改憲をし、戦争法を強行成立させたワタシは、これからは明文改憲の「挑戦」に、その一身を捧げます。いかなる困難に直面しても、決して諦めず、不退転の強い信念で、明文改憲への「執念」と「挑戦」を続けます。
 「為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必らず成らん」
アベ内閣は、諦めません。明文改憲による「戦後レジームからの脱却」の目標に向かって、諦めずに進んでいきます。

皆さん、共に改憲に「挑戦」しようではありませんか。そして、改憲の「結果」を出していこうではありませんか。それが、私たち国会議員に課せられた使命であります。
御清聴ありがとうございました。
(2016年1月22日)

「釧路議会広報問題」と「岸井成格誹謗問題」ー ひとつひとつに批判の発言を重ねよう

本日の赤旗・社会面の以下の記事に目が留まった。
「共産党2氏質問 一転掲載」「特別委の委員長謝罪」「『政権批判』と拒否 市民が批判 北海道 釧路議会広報」の見出し。

記事の内容は以下のとおり。
「北海道釧路市議会は15日、会派代表者会議と議会広報特別委員会を相次いで開き、日本共産党の松永俊雄、梅津則行両氏の質問を『不適切だ』などとして議会広報に掲載しないとしてきた態度を改め、掲載することを決定し、金安潤子広報特別委員長は2人の議員に公式に謝罪しました。

掲載が決まった両氏の質問は、昨年12月議会で行われたもので、松永氏は、蝦名大也市長の政治資金の報告漏れを指摘。梅津氏は、政権批判を口実にした道教委による組合活動への不当な介入問題について、市教委の見解をただしていました。

広報特別委員会は、梅津氏が質問で触れた『アベ政治を許さない』の文言が『政権批判であり、議会広報になじまない』として、松永氏の質問とともに掲載を拒否。市民から『検閲だ』『政治に対してモノを言えなくなる』など強い批判があがっていました。

日本共産党釧根地区委員会の村上和繁委員長(釧路市議)は『議会多数派が多数を力に強行しようとした暴挙が、市民世論と運動、日本共産党の反撃で完全敗北した。勝利した最大の力は、市民の反対の声、マスコミや識者からの厳しい批判だ』とコメント。引き続き市議会で奮闘する決意を表明しました。」

赤旗以外に記事はないものかとネットを探したら、毎日新聞・北海道版の本日(1月17日)朝刊にも、ほぼ同内容の次の記事が掲載されたという。

「北海道・釧路市議会広報 共産市議の質問 一転掲載へ」「市民から批判意見 多数寄せられ」

「北海道釧路市議会の共産党市議2人の質問が『特定政党への批判にあたる』などとして議会広報への掲載が拒否された問題で、同市議会は15日、一転して掲載を認めることを決めた。
 この問題を巡っては、議会の不掲載決定を受け、共産市議らが抗議の意味を込めて広報の持ちスペースを空欄にすると主張。市民からも議会の対応を批判する意見が多数寄せられたことから、各会派代表者会議が決断した。不掲載を主導した議会広報特別委員会の金安潤子委員長は『混乱を招き責任を感じている。2人におわびする』と述べた。
 掲載を拒否されていたのは、道高校教職員組合が組合員に配布した『アベ政治を許さない』と書かれたクリアファイルに関する市教育委員会の対応をただした質問と、蝦名大也市長の資産公開での記載漏れを指摘した質問。昨年12月の議会で質問した後、今月29日に発行される広報2月号への掲載を求めていたが、広報特別委が不掲載を決めた。
 市議会には13日までに不掲載を批判する意見がファクスやメールで37件寄せられた。賛成意見は1件もなかったという。共産市議の質問欄が空白のまま広報が発行された場合、さらに批判が高まることが予想されていた。
 不掲載決定が撤回されたことについて、共産党市議団の松永俊雄団長は『自由であるべき質問を多数決で抑えつけるのは許されることではない。市議会が本来の姿を取り戻した』と評価した。」

これはよいニュースだ。
アベ政権が醸しだす時代の雰囲気に迎合する、「忖度」と「萎縮」の蔓延が目に余る。釧路市議会も、アベ政権や自公与党だけでなく、アベ一強への擦り寄りを世論が許すとの読み違いがあったのだ。不掲載を主導した議会広報特別委員会の金安潤子委員長の所属会派は自民党。定数28のうち、自民党の議席が7、公明が4である。共産の議席は4。多勢に無勢は否めない。しかし、正論が、傲慢アベ政権の釧路版を許さなかった。痛快事というべきではないか。

昨年の12月17日付で、日本共産党釧路市議会議員団(松永俊雄団長)が、釧路市議会議長(月田光明)に宛てて次の申し入れをしている。

「議会だより」のルールを尊重した公正・公平な編集を求める申入書
市議会のようすをつたえる「議会だより」2月号編集にあたり、わが党の梅津則行議員の「アベ政治を許さない」と書かれたクリアファイル問題と、松永俊雄議員の市長の政治資金借入、資産公開訂正の問題の本会議質問をともに不掲載とする方針を示していることは、これまでの釧路市議会のルールを踏みにじるものであり、とうてい容認できるものではありません。
「アベ政治を許さない」は、流行語大賞にもノミネートされ安保関連法案をめぐる運動のなかでひろく知られた表現であり、それのどこが「議会だより」になじまないのか、理解に苦しむものです。
一方、市長の政治資金借入は市長が市議会で陳謝、資産公開を訂正すると明言し新聞などでも報道されました。いずれも、市議会としては当然の議論であり、これまでのルールを踏みにじり当人の意志を無視して不掲載とすることなど許されません。
議会は「言論の府」であり、自由な議論を制限することなどあってはなりません。これは誰もが認める道理であり、何人も否定できない原則です。議会広報委員長、議長が提起している不掲載との方針はこの原則を投げ捨てるばかりでなく、まるで「検閲」のような理不尽極まりないものといわなければなりません。
よって議長におかれては、「議会だより」編集にあたって2つの本会議質問を不掲載とする方針をあらため、これまでのルール通り両議員の質問を掲載するよう公平に取り扱うことを強く求めます。

この正論にはいかんとも反論しがたいものがある。にもかかわらず、議会内「忖度派」がもっともこだわったのが、「アベ政治を許さない」のクリアファイル。そしてもう一つが「市長の政治資金借入、資産公開訂正の問題」。政権トップと、市政のトップに対する批判を封じようというトンデモナイ振る舞い。こんなことが、可能だと思っている人物が議員になり、委員長にもなり、議会がそれを許しているのだ。

共産党が果敢に抗議をしたことは当然として、決め手になったのは、「不掲載を批判する意見がファクスやメールで37件寄せられた。賛成意見は1件もなかった」(毎日)という市民の批判であったようだ。「多数決がなんでもできるわけではない」「議会内での多数も、実は市民世論の中での少数」という教訓の実例として意義のある、明るいニュース。

昨日の毎日新聞報道「岸井成格氏 『スペシャルコメンテーター』就任へ TBS」も明るいニュースと言ってよいのだろう。

「TBSは15日、報道番組『NEWS23』や『サンデーモーニング』に出演している岸井成格氏(71)=毎日新聞特別編集委員=が、『スペシャルコメンテーター』に就任すると発表した。4月1日付。

TBSによると、スペシャルコメンテーターは同局との専属契約で、番組の垣根を越えてさまざまな報道・情報番組に出演し、ニュースについて解説や論評をする。就任は岸井氏が初めて。『サンデーモーニング』などの報道番組に引き続き出演し、選挙特番などにも幅広く出演する。4月にリニューアルするNEWS23には、コメンテーターとして随時登場するという。
 岸井氏は、毎日新聞で政治部長、論説委員長、主筆などを歴任。スペシャルコメンテーター就任について「報道の第一線で発信を続けていくことになった。その責任・使命の重さを自覚し、決意を新たにしていく」とコメントした。」
「市民団体が11月中旬の読売新聞と産経新聞に、9月16日放送の『NEWS23』で『(安保関連法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ』とした岸井氏発言を、「(放送法の)重大な違反行為」とする意見広告を出した。TBSは、岸井氏が番組内で見解を示すことについて『これまでも多くの視聴者に受け入れられており定着している』としており、今回の契約については『意見広告の前から話し合ってきた。岸井氏の発言とは全く関係ない』と説明している。」

こちらは、「忖度」や「萎縮」の域を大きく超えた、アベ政治応援団による言論弾圧のお先棒である。ナチスも、天皇制政府も、戦争遂行のために人心を掌握し統制する労苦を厭わなかった。上からの統制に下からの呼応があって、戦時体制を支えるファシズムが形づくられた。アベ政治への擦り寄りや、アベ政治批判の言論への弾圧に、一つ一つの闘いが重要なのだと、改めて思う。
(2016年1月17日)

改憲阻止の闘志を燃やそう アベ政権の改憲策動に負けることなく

新聞投書欄は百花繚乱の趣き。多種多様で玉石混淆なところが面白い。時に、短い文章で深く共感する投書に出会うことがある。例えば、1月14日毎日新聞投書欄の「首相発言に闘志が湧いてくる」(会社員岡島芳彦)。「闘志が湧いてくる」が素晴らしい。多くの読む人を励ます内容となっているではないか。

「安倍晋三首相が年頭の記者会見などで、今夏の参院選で憲法改正を訴えると発言している。首相は、具体的に憲法のどこをどのように改正するのかという点までは言及してはいないようだが、特定秘密保護法で国民の知る権利を制限し、気に入らない報道には見境なく介入し、安全保障法制で憲法9条を骨抜きにした政府与党が目指す憲法がどのようなものかは、おおよそ察しがつく。」

「憲法改正を訴えるとは言うものの、具体的に憲法のどこをどのように改正するのかということは言わない」。この指摘は実は重要ではないか。「どこをどのように改正する」ことを言わずに、「どこでもよい。とにもかくにも、憲法を変える」という発言は、無責任でオカシイのだ。アベは、憲法の条文にも理念にも、頭から尻尾まですべてに反対なのだ。できることなら、日本国憲法を総否定することで「戦後レジームから脱却」し、大日本帝国憲法と同じ条文に変えることによって「日本を取り戻そう」としているのだ。しかし、それは望んでもできることではない。小ずるいアベは、次善の策として「どこでもよい。少しでも変えることのできるところから、憲法を変えていこう」と虎視眈々というわけなのだ。

これまでアベ政権のやってきたことは、何から何まで非立憲で反民主、そして反平和主義、人権軽視の最悪政治。この政権と与党が目指す改正憲法が、リベラルで民主的で平和を指向するものであるはずがない。そのダーティーな内容は、誰にも「おおよそ察しが」つこうというもの。

「80年ほど前、ドイツでは、ベルサイユ体制からの脱却をスローガンに掲げ、大規模な公共事業で失業者数を減らすことに成功したナチスが、熱狂的な支持を得て合法的にワイマール憲法を葬り去ったが、その手口を学ぶべきだったのは、安倍首相よりもむしろ我々国民の方だったのかもしれない。」

おっしゃるとおりだ。日本国民は、いまやナチスが政権を取ったその手口をよく学び心に刻まなければならない。「ベルサイユ体制からの脱却」とは、ドイツを取り囲む戦勝国への敵意を剥き出しに、報復をなし遂げることにほかならない。アベの歴史修正主義の信条にぴったりではないか。

ナチスは大規模な公共事業で失業者数を劇的に減らすことに成功したのだ。取り上げたユダヤ人の財産の配分という実益も小さくなかった。こうして、ドイツ国民は熱狂的にナチスを支持した。かつての臣民が、熱狂して天皇と軍部を支持した如くにである。そして、3度の選挙と国会放火という謀略で、全権委任法を成立されることによって、ワイマール憲法を葬り去った。この手口は、アベノミクスで国民の集団的自衛権を取り付け、緊急事態条項を憲法に入れることによって憲法の構造を変えてしまうことによって、模倣が可能となる。われわれは、ドイツの歴史に学んでその轍を踏むことのないよう国民全体が賢くならねばならない。

「首相は先日、『批判を受ければ受けるほど闘志が湧いてくる』と発言していたが、私は『戦後レジームからの脱却』『憲法改正』という首相の発言を闘けば聞くほど、闘志が湧いてくる。」

よくぞ、言ってくれた。アベが改憲の闘志を湧かすなら、国民の側はそれにもまして改憲阻止の闘志を燃やそう。立憲主義、民主主義、平和主義、そして人権尊重の日本を創るために、アベとその取り巻きに負けない闘志を燃やし続けよう。

さて、闘志を燃やして、どう行動に移すか。投書子は、毎日新聞に投稿した。どんな場でも、黙っていないで「改憲阻止」「反アベ政治」を口に出そう。文章に綴ろう。果敢に人に伝えよう。集会にも足を運ぼう。そして、明日からは宜野湾市長選挙だ。八王子市長選もある。全国からの選挙支援の具体的方法はいくつもある。闘志さえあれば。
(2016年1月16日)

自治体はヘイト集会への施設使用を拒否しなければならないー東京弁護士会バンフレットの普及と活用を

昨日(1月10日)の毎日新聞に、「ヘイト集会拒否できる」「東京弁護士会がパンフ 自治体向け」の記事が掲載されている。ヘイトスピーチの集会に公共施設が利用される事態を防ごうと、東京弁護士会が利用申請を拒否する法的根拠をまとめたパンフレット「地方公共団体とヘイトスピーチ」を作製し自治体向けに配布している、との内容。

このパンフの内容となっている「地方公共団体に対して人種差別を目的とする公共施設の利用許可申請に対する適切な措置を講ずることを求める意見書」の発表は、昨年(2015年)9月7日のこと。以来4か月、東京弁護士会は、東京都内の全自治体や議会事務局、全国の弁護士会に配布してきたという。東京以外からも「参考にしたい」との問い合わせが相次ぎ、これまでに全国の25団体に送付。具体的な取り組みについて、東京弁護士会の担当弁護士と話し合いを始めた自治体もあるとのこと。

パンフの内容となっている意見書の全文は、東京弁護士会の下記URLで読むことができる。表現は慎重で穏やかだが、ヘイトスピーチの撲滅が国際条約上の国の義務となっているにもかかわらず政府は無為無策、これを放置している人権後進国日本の現状がよく分かる。
  http://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-412.html

国がなんの施策も行おうとしない現状で、自治体がヘイト集会への会館使用を拒否することは、ヘイト対策として実効性のある手段の提供としてその着眼がすばらしい。しかも、このパンフは、実によくできている。表現の自由にも慎重な目配りをしたうえでの具体的な提言である。説得力がある。今後の課題は、これを全国の自治体に普及して啓発し、遵守してもらうよう粘り強く働きかけること、さらにはその実現のための実効的措置を追求すること、だと思う。

東京弁護士会は、日本が締結し批准もしている人種差別撤廃条約を根拠に、「自治体は差別行為に関与しない義務を負って」おり、「公共施設が人種差別に利用されると判断される場合には会館等の利用を拒否できる」だけではなく、「会館等の利用を拒否しなければならない」と指摘している。

もちろん、要件は厳格でなければならないが、昨今問題となっているヘイトスピーチの集会に、会館等使用を許可すれば違法となり、当該自治体の住民の誰もが、自治体の財産管理における違法を主張して、住民監査請求から住民訴訟を提起することができることになる。

また、この東京弁護士会の「反ヘイト・バンフ」が普及してくれば、自治体の首長や責任者がヘイト集会に会館使用を許可したことは、違法というだけでなく、過失の認定も容易になる。集会と、それに引き続くデモなどで精神的被害を受けたという被害者にとって国家賠償請求が容易になると考えられる。このような事後的な法的支援についても、具体的な方策が考えられてしかるべきではないか。

東京弁護士会意見書の意見の趣旨は以下のとおりである。読み易いように、カギ括弧などを入れてみた。

地方公共団体は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約」及び「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」に基づき,人種差別を撤廃するために,人種的憎悪や人種差別を扇動又は助長する言動など,人種差別行為を行うことを目的とする公共施設の利用申請に対して,「条件付許可」,「利用不許可」等の〈利用制限その他の適切な措置〉を講ずるべきである。」

この意見書の下記の言及は、襟を正して読まねばならない。

ヘイトスピーチなどの人種差別行為の放置は,社会に深刻な悪影響を与える。差別や憎悪を社会に増大させ,暴力や脅迫等を拡大させる。国連人種差別撤廃委員会が2013年の一般的勧告「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」で強調しているように,それらの放置は,「その後の大規模人権侵害およびジェノサイドにつながっていく」。ナチスによるホロコーストやルワンダにおける民族大虐殺等だけでなく,日本においても,1923年に発生した関東大震災で,朝鮮人が暴動を起こしているとの流言飛語が広まり,日本軍や,民間の自警団によって少なくとも数千人の朝鮮人が虐殺された。これは,1910年に朝鮮半島を植民地とした後,被支配民族としての朝鮮人に対する蔑視と,植民地化に対する朝鮮人の抵抗運動に対する恐れから,日本国内で朝鮮人に対するヘイトスピーチが蔓延した結果であった。日本にもこのような過去があることが想起されなければならない(2003年8月25日付け日弁連「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件」勧告書参照)。

人種や民族間の差別意識は、人為的に創られ煽られて生じる。植民地支配や戦争の準備と重なる。アベ政権の好戦的な憲法改正の策動と切り離せない問題といわざるを得ない。

ナチスはユダヤ人をホロコーストの対象とした。その数、500万人を超す。一般のドイツ人がそのことを知らなかったわけではない。ある日ユダヤ人が消える。その財産は、ドイツ人に分け与えられる。あるいは消えたユダヤ人が占めていた地位をドイツ人が襲うことになる。こうして、ホロコーストは、ドイツ人に現実的な利益をもたらしたのだ。

社会の中の特定の集団を敵として、多数派が寄ってたかっていじめるとはそういう実利に結びつくことなのだ。恥ずべき泥棒根性といわざるを得ない。いま、ヨーロッパでもアメリカでも、そしてもちろん日本でも、弱い立場の人種や民族に対しての非寛容な空気の醸成がおぞましい。ヘイトスピーチの抑制は、平和に通じるのだ。東京弁護士会の試みを、成功を念じつつ見守りたい。

なお、紹介されている具体例を挙げておく。
公共施設の利用拒否が可能になり得る具体的な例。
・人種差別集会を繰り返している団体や個人から申請があった
・施設の利用申請書に特定の民族を侮辱する表現が含まれていた
・集会の案内状に人種差別をあおる内容が書かれていた

施設の利用拒否が可能な人種差別行為の具体例
・「○○人は犯罪者の子孫」などの発言を繰り返す
・「○○人を殺せ」などのプラカードを掲げる
・「○○人のゆすり・たかりを粉砕せよ」などと告知して集会を開く

ここを出発点に、ヘイトスピーチ撲滅の動きを作り出せそうな気がする。
(2016年1月11日)

水島朝穂「直言」が語る「メディア腐食の構造―首相と飯食う人々」

水島朝穂さんのメルマガ「直言」は、胸のすくような鋭い切れ味に貴重な情報が満載。教えられることが多い。
  http://www.asaho.com/jpn/index.html

その最近号は、明日(2016年1月11日)付の「メディア腐食の構造―首相と飯食う人々」というタイトル。ジャーナリストたる者が、「首相と飯食う」ことを恥ずべきことと思わず、むしろ、ステイタスと思っている節さえあるのだ。この人たちに、アベとともに喰った飯の「毒」が確実にまわっているという指摘である。その指摘が実に具体的であるところが切れ味であり、胸のすく所以である。

かなりの長文なので、私なりに抜粋して要点をご紹介する。ぜひ下記の原文もお読みいただきたい。
  http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0111.html

水島さんは、「10年でメディアの批判力はここまで落ちたのか。劣化度は特にNHKに著しい」と嘆く。アベ政権は、「政府が右と言うときに、左とはいえない」という会長人事や、経営委員会に百田・長谷川のような右翼を送り込むだけでなく、論説委員や記者への接触によって籠絡していることを具体的に語っている。

批判力の劣化を嘆かざるを得ないNHK政治部記者3人の名が出て来る。まずは、ご存じ岩田明子(解説委員・政治部)。
この人は、安倍首相の「想い」を懇切丁寧に読み解いて、「安倍総理大臣は、日本が再び戦争をする国になったといった誤解があるが、そんなことは断じてありえないなどと強調しました。安倍総理大臣は行使を容認する場合でも限定的なものにとどめる意向で、こうした姿勢をにじませ、国民の不安や疑念を払拭すると同時に、日本の平和と安全を守るための法整備の必要性、重要性を伝えたかったのだと思います」と言っている。客観報道ではなく、「忖度報道記者」なのだ。

ついで、田中泰臣(記者・政治部)。
「その『解説』はひどかった。例えば、採決を強行した安倍首相を次のように『弁護』していた。
『安倍総理大臣とすれば、安全保障環境が厳しさを増しているなか日米同盟をより強固なものにすることは不可欠であり、そのために必要な法案なので、いずれ分かってもらえるはずだという思いがあるものとみられる。また集団的自衛権の行使容認は、安倍総理大臣が、第1次安倍内閣の時から取り組んできた課題でもあり、みずからの手で成し遂げたいという信念もあるのだと思う。』」
これも典型的な忖度記者。

そして3人目が、島田敏男(NHK解説副委員長)。この人の名は、まずはアベの「寿司友」の一人として出て来る。もっぱら、西新橋「しまだ鮨」での会食なのだそうだ。

「メディア関係者との会食も、歴代政権ではかつてなかった規模と頻度になっている。このことを正面から明らかにしたのは、昨年の『週刊ポスト』5月815日号である。それによると、安倍首相は2013年1月7日から15年4月6日まで、計50回、高級飲食店で会食している。記事の根拠は、新聞の「首相動静」欄である。首相と会食するメンバーは、田崎史郎(時事通信解説委員)、島田敏男(NHK解説副委員長)、岩田明子(同解説委員)、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読賣新聞論説主幹)、石川一郎(日本経済新聞常務)、粕谷賢之(日本テレビメディア戦略局長)、阿比留瑠比(産経新聞編集委員)、末延吉正(元テレビ朝日政治部長)などである。

首相とメディア幹部がかくも頻繁に会食するという「腐食の構造」は、それまでの政権には見られなかったことである。「毒素」は、メディアのなかにじわじわと浸透していった。」

島田敏男への「毒素」のまわり具合については、水島さん自身の体験が語られている。
「NHKの『日曜討論』に呼ばれたのは、安保法案が衆議院で採決される4日前という重要局面だった。『賛成反対 激突 安保法案 専門家が討論』。控室での打ち合わせの際、司会の解説委員(島田敏男・澤藤註)は、『一つお願いがあります。維新の党の修正案には触れないでください』と唐突に言った。参加した6人の顔ぶれからして、私に向けられた注文であることは明らかだった。自由な討論のはずなのに、発言内容に規制を加えられたと感じた。実際の討論でも、私が発言しようとすると執拗に介入して、憲法違反という論点の扱いを小さく見せようとした節がある。結局、『法案が成立したら自衛隊は国際社会で具体的にどう活動していくか』という方向で議論は終わった。採決を目前にして、『違憲の安保法案』というイメージを回避しようとしたのではないか。それを確信したのは、帰り際、送りのハイヤーに乗り込んだ私に対して、その解説委員がドア越しに、『維新の修正案は円滑審議にとてもいいのですよ』と言ってにっこり微笑んだからである。車内でその言葉の意味に気づくのにしばらく時間がかかった。」

こうして、水島さんは「『日曜討論』は私の『島』だという顔をしている島田解説副委員長」について、「これ以上、『日曜討論』の司会を彼に続けさせてはならない。」ときっぱり言っている。はっきりものを言うことのリスクを承知の上での発言である。

さらに、水島さんは、浅野健一著『安倍政権言論弾圧の犯罪』(社会評論社、2015年)を高く評価して、その一読を勧める書評の中で、こう書いている。
「本書は著者(浅野)の最新刊。『戦後史上最悪の政権』が繰り出す巧妙かつ露骨なメディア対策の数々を鋭く抉りながら、他方、メディア側の忖度と迎合の実態にも厳しい批判を速射する。特に、一部週刊誌が暴露した安倍首相とメディア関係者のおぞましい癒着の実態を、本書はさらに突っ込んで剔抉する。」
「本書によれば、安倍首相は第2次内閣発足後、親しいメディア関係者と30数回も会食している」「時事通信解説委員(田崎)が最も多く首相と会食しているが、彼はTBSの番組で、『政治家に胡蝶蘭を贈るのは迷惑。30ももらって置くところがない。もらってくれと 言われ、もらった。家で長くもった』と言い放ったという。こんなジャーナリストは米国では永久追放になる、と著者は厳しく批判する。政権とメディアの関係を正すためにも、本書の一読をおすすめしたい。」
「米国では永久追放になる」という「こんなジャーナリスト」には、NHKの3記者も含まれることになるのだろう。

ジャーナリズムは、社会の木鐸っていうじゃないか。権力を叩いて警世の音を響かせるのが役目だろう。政権の監視と批判が真骨頂さ。権力と癒着しちゃあおしまいよ。安倍晋三なんぞと親しく飯喰って、それでズバリと物が言えるのかい。自分じゃどう思っているか知らないが、世間はそんな記者も、そんな記者を抱えているメディアも、決して信頼できないね。

民俗学では共同飲食は祭祀に起源をもって世俗的なものに進化したというようだ。「一宿一飯」「同じ釜の飯」という観念は世俗社会に共有されている。酒食を共にすることは、その参加者の共同意識や連帯感を確認する社会心理的な意味を持つ行為である。親しく同じ飯を喰い、酒を酌み交わしては、批判の矛先が鈍るのは当然ではないか。ジャーナリストが、権力を担う者と「親しく同じ席の飯を喰う」関係になってはいけない。

産経のように、ジャーナリズムの理念を放擲し政権の広報紙として生き抜く道を定めた「企業」の従業員が、喜々として首相と飯を喰うのなら、話は別だ。しかし、仮にもジャーナリズムの一角に位置を占めたいとするメディア人の、「腐食の構造」への組み込まれは到底いただけない。とりわけ「公正」であるべきNHKのアベ政権との癒着振りは批判されなけばならない。

アベ政権だけにではなく、アベと癒着したメディアに対しても、冷静な批判の眼を持ち続けよう。
(2016年1月10日)

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