(2020年10月26日)
一昨日(10月24日)、国連が、核兵器禁止条約の批准国数が、条約の発効に必要な50ヶ国・地域に達したと発表した。同条約は、90日後の来年(2021年)1月22日に発効することになった。
同条約は、核兵器の開発から使用までの一切を全面禁止する内容だが、非批准国を拘束する効力はない。周知のとおり、米・英・仏・ロ・中の五大核保有国とその核の傘の下にある諸国は条約への参加を拒否している。インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮も。
しかし、国連で成立した条約が核兵器の存在自体を違法としたことの意味は大きい。これが国際規範なのだ。これからは、この条約を論拠として、全世界からの核廃絶を求める運動が可能となる。
問題は、日本である。正確にいえば日本政府の態度である。唯一の戦争被爆国である日本が、米国の「核の傘」に安住した形で、核廃絶に無関心である。この日本政府の姿勢は、核廃絶を求める国際世論にとって理解し難いものであろう。しかし、多くの日本国民が核廃絶を自分の問題として希求している。だから、政府も核廃絶反対とは言えない。そこで、詭弁を弄することになる。
核廃絶を訴える原水禁運動体や被爆者団体の切実や批准要求の声を拒み続けたアベスガ政権である。本日(10月26日)の臨時国会冒頭におけるスガ首相の所信表明演説にも、核禁条約への言及はまったくなかった。
もしもの話だが、スガがこのタイミングで被爆者の思いを語って核廃絶を訴え、核禁条約の発効に祝意を表したうえ、批准の方針を示したとしたなら…、議場は万雷の拍手に包まれたであろう。政権の支持率は20ポイントも上昇したに違いなかろうに。
決して冗談ではない。米中両大国対立時代における日本の立ち位置として、両国への等距離外交選択の余地は十分にあろう。その第一歩としての、日本の核禁条約批准はあってしかるべきではないか。政権が交代したら実現することになるだろう。
もちろん、現実は「批准NO」の一点張りだ。本日の首相所信表明に先立つ、午前の加藤勝信官房長官会見は、「核禁条約は、我が国のアプローチとは異なる。署名は行わない考え方には変わりない」とニベもない。スガの腹の中を忖度すれば、こんなところだろう。
「核兵器禁止条約ね。あれは困るんだ。だってね、あの条約は、核兵器の「使用」や「保有」だけでなく、核による「威嚇」も禁じている。「威嚇の禁止」ということは、「核抑止力を原理的に否定する」と同じことだ。北朝鮮だけでなく中国の核も、我が国を標的にしている。米国の核抑止力に依存せざるを得ないじゃないか。そんな、非現実的なトンデモ条約を受け入れられるはずはない。
この度の条約発効で、日本政府に条約批准を求める圧力は強まるだろう。それが困るんだ。つまり、ホンネは核廃絶なんて時期尚早と一蹴したいところ。でも、国際世論にも国内世論にも配慮しなけりゃならない。対外的にも、対内的にもそんなホンネは口にできないのが辛いところ。そこで、「条約が目指す核廃絶というゴールは我が国も共有している」「ただ、我が国のアプローチが条約とは異なる」「抑止力の維持・強化を含めて現在の安全保障上の脅威に適切に対処しながら、地道に現実的に核軍縮を前進させる道筋を追求していくことが適切だ」「我が国としては、地道に核兵器国と非核兵器国の橋渡しをする」と繰り返し言ってきた。もちろん、口先だけのこと。
ちょっと困っているのが、締約国会議へのオブザーバー参加問題だ。批准して参加国とならないまでも、オブザーバー参加をしたらどうかという問題。そのことを公明党の山口代表が茂木外相に申し入れている。無碍にもしにくいところが悩みのタネだ。ここは、「会合のあり方が明らかになっていないなか、具体的に申し上げる状況にはない。この条約に対する我が国の立場に照らし、慎重に見極めていく」としておこう。
今日の所信表明演説でも、「わが国外交・安全保障の基軸である日米同盟は、インド太平洋地域と国際社会の平和、繁栄、自由の基盤となるものです。その抑止力を維持しつつ、沖縄の基地負担軽減に取り組みます」と言っておいた。
なんと言っても抑止力。抑止力のためには新基地建設を強行しなけりゃならんだろう。沖縄の人々に寄り添うと言いながらも、辺野古の海は埋立てる。核廃絶も同じ。被爆者の声に耳を傾けると言いながら、核禁条約に署名はできない。公明党には、格好つけて本気になってもらっては困るんだ。」
(2020年8月9日)
8月9日、長崎被爆の日である。犠牲者に対する鎮魂の祈りをともにしたい。そして、この犠牲を繰り返さぬための決意を再確認しなければならない。
長崎市には、「原爆被爆対策部」がある。そこに「平和推進課」があって、さらに「総務企画係」と「平和発信係」に分かれているようだ。
「平和推進課・総務企画係」は、原爆資料館・平和会館・永井隆記念館などの維持管理や市民の利用受付を担当し、「平和推進課・平和発信係」の所管業務が、《平和アピールの推進…核実験への抗議、8月9日に市長が発表する平和宣言の作成、広島市や国連と連携した平和事業の実施、インターネットによる平和アピール》《核兵器廃絶を求める国内外のNGOとの連携を図り、平和意識の啓発》《日本非核宣言自治体協議会事務局》《公益財団法人長崎平和推進協会との連携・協力による官民一体となった平和活動の展開》だという。
その「平和発信係」が管理するホームページに本日(8月9日付)の「長崎平和宣言」が掲載された。
https://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html
長 崎 平 和 宣 言
私たちのまちに原子爆弾が襲いかかったあの日から、ちょうど 75年。4分の3世紀がたった今も、私たちは「核兵器のある世界」に暮らしています。
どうして私たち人間は、核兵器を未だになくすことができないでいるのでしょうか。人の命を無残に奪い、人間らしく死ぬことも許さず、放射能による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごい兵器を捨て去ることができないのでしょうか。
75年前の8月9日、原爆によって妻子を亡くし、その悲しみと平和への思いを音楽を通じて伝え続けた作曲家・木野普見雄さんは、手記にこう綴っています。
私の胸深く刻みつけられたあの日の原子雲の赤黒い拡がりの下に繰り展げられた惨劇、ベロベロに焼けただれた火達磨の形相や、炭素のように黒焦げとなり、丸太のようにゴロゴロと瓦礫の中に転がっていた数知れぬ屍体、髪はじりじりに焼け、うつろな瞳でさまよう女、そうした様々な幻影は、毎年めぐりくる八月九日ともなれば生々しく脳裡に蘇ってくる。
被爆者は、この地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で原子雲の下で何があったのかを伝えてきました。しかし、核兵器の本当の恐ろしさはまだ十分に世界に伝わってはいません。新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまで、私たちがその怖さに気づかなかったように、もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気づかなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまいます。
今年は、核不拡散条約(NPT)の発効から 50年の節目にあたります。
この条約は、「核保有国をこれ以上増やさないこと」「核軍縮に誠実に努力すること」を約束した、人類にとってとても大切な取り決めです。しかしここ数年、中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄してしまうなど、核保有国の間に核軍縮のための約束を反故にする動きが強まっています。それだけでなく、新しい高性能の核兵器や、使いやすい小型核兵器の開発と配備も進められています。その結果、核兵器が使用される脅威が現実のものとなっているのです。
“残り100秒”。地球滅亡までの時間を示す「終末時計」が今年、これまでで最短の時間を指していることが、こうした危機を象徴しています。
3年前に国連で採択された核兵器禁止条約は「核兵器をなくすべきだ」という人類の意思を明確にした条約です。核保有国や核の傘の下にいる国々の中には、この条約をつくるのはまだ早すぎるという声があります。そうではありません。核軍縮があまりにも遅すぎるのです。
被爆から75年、国連創設から75年という節目を迎えた今こそ、核兵器廃絶は、人類が自らに課した約束“国連総会決議第一号”であることを、私たちは思い出すべきです。
昨年、長崎を訪問されたローマ教皇は、二つの“鍵”となる言葉を述べられました。一つは「核兵器から解放された平和な世界を実現するためには、すべての人の参加が必要です」という言葉。もう一つは「今、拡大しつつある相互不信の流れを壊さなくてはなりません」という言葉です。
世界の皆さんに呼びかけます。
平和のために私たちが参加する方法は無数にあります。今年、新型コロナウイルスに挑み続ける医療関係者に、多くの人が拍手を送りました。被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者に、同じように、心からの敬意と感謝を込めて拍手を送りましょう。
この拍手を送るという、わずか10秒ほどの行為によっても平和の輪は広がります。今日、大テントの中に掲げられている高校生たちの書にも、平和への願いが表現されています。
折り鶴を折るという小さな行為で、平和への思いを伝えることもできます。確信を持って、たゆむことなく、「平和の文化」を市民社会に根づかせていきましょう。
若い世代の皆さん。新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです。あなたが住む未来の地球に核兵器は必要ですか。核兵器のない世界へと続く道を共に切り開き、そして一緒に歩んでいきましょう。
世界各国の指導者に訴えます。
「相互不信」の流れを壊し、対話による「信頼」の構築をめざしてください。今こそ、「分断」ではなく「連帯」に向けた行動を選択してください。来年開かれる予定のNPT再検討会議で、核超大国である米ロの核兵器削減など、実効性のある核軍縮の道筋を示すことを求めます。
日本政府と国会議員に訴えます。
核兵器の怖さを体験した国として、一日も早く核兵器禁止条約の署名・批准を実現するとともに、北東アジア非核兵器地帯の構築を検討してください。「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念を永久に堅持してください。
そして、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、未だ被爆者と認められていない被爆体験者に対する救済を求めます。
東日本大震災から9年が経過しました。長崎は放射能の脅威を体験したまちとして、復興に向け奮闘されている福島の皆さんを応援します。
新型コロナウイルスのために、心ならずも今日この式典に参列できなかった皆様とともに、原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、長崎は、広島、沖縄、そして戦争で多くの命を失った体験を持つまちや平和を求めるすべての人々と連帯して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることを、ここに宣言します。
2020 年(令和2年)8月9日
長崎市長 田 上 富 久
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平和宣言の掲載に限らず、「平和推進課・平和発信係」のホームページには、真摯さが満ちている。平和と核廃絶を訴える本気さが感じられる。このホームページを閲覧するだけで、原爆の恐怖と、核廃絶に向けた多くの人の努力を知ることができる。
https://nagasakipeace.jp/japanese.html
これに反して、まったく真摯さも本気さも感じさせないのが、いつもながらのアベ晋三の言。本日の式辞は、6日の広島での式辞とほぼ同じ原稿の棒読みでお茶を濁した。「8月6日」を「8月9日」に、「広島」を「長崎」に書き換えた程度のもの。
目の前で、長崎市長が被爆の犠牲者を代理して、「核兵器の怖さを体験した国として、一日も早く核兵器禁止条約の署名・批准を実現するとともに、北東アジア非核兵器地帯の構築を検討してください。『戦争をしない』という決意を込めた日本国憲法の平和の理念を永久に堅持してください」と、悲痛に訴えているのだ。これを聞き流して恥じないのが、アベのアベたる所以。のみならず、「記者会見」は、2社の記者の質問に対して、予め用意した原稿を読み上げるだけのお粗末。
いったいどうして、こんな人物が、いつまでも行政のトップにいるのだろうか。広島と長崎と沖縄を除いて、日本国民は、それほどに安倍政治に寛容なのだろうか。
(2020年8月6日)
1845年8月には、忘れることのできない諸事件が重なった。8月15日は、日本の歴史を分かつ日として、日本人にとって忘れてはならぬ日。これに対して、8月6日は世界の人類全体が戦慄の感情をもって記憶すべき日である。
あれから75年目の8月6日。本日も青い真夏の空の下、広島市の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。コロナ禍のさなかの式典として、規模は縮小された。その準備の過程で、平穏な式典の進行を求める主催者(広島市)と、式典の意義にこだわる市民団体との間に摩擦のあったことが報道されている。
敢えて単純化すればこんなことだろうか。市民団体側は、「平和式典は核廃絶につながるものでなければならない。にもかかわらず、式典主催者は、遺族の慰霊のみを目的とする式典にしようとしているのではないか。式典周辺での拡声器使用自粛要請はその表れにみえる」
これに対して市は、飽くまで「原爆死没者の慰霊」と「世界恒久平和の実現の祈念」の両者を式典の理念とするもので、決して「慰霊」だけを目的としているものではないという。
拡声器の音量については妥協が成立して、平穏に本日の平和式典は進行したようだが、核廃絶のための喫緊の課題は、2017年に国連で採択されたが未発効の「核兵器禁止条約」について締約国を増やすこと、まずは日本政府が「締約国」となるべきことである。そして、もう一つ。黒い雨訴訟の一審判決への控訴期限が迫っている。被爆者救済の切実な具体的問題が眼前にある。
松井一実市長は、平和宣言の中でこの点について次のとおり訴えた。訴える先は、目の前にいるアベ晋三である。
これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。
国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。
そのためにNPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。
日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。
また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。
これに対して、アベ晋三はどう応えたか。
75年前、1発の原子爆弾により廃虚と化しながらも、先人たちの努力で見事に復興を遂げたこの美しい街を前にした時、現在の試練を乗り越える決意を新たにし、平和の尊さに思いを致しています。
広島と長崎で起きた惨禍と、もたらされた人々の苦しみは、繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の努力を前に進めることは、わが国の変わらぬ使命です。
本年は被爆75年という節目の年です。非核3原則を堅持しつつ、立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促し、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしていきます。
核拡散防止条約(NPT)が発効50周年を迎えました。結束した取り組みを各国に働きかけ、積極的に貢献します。
「核兵器のない世界」の実現へ確固たる歩みを支えるのは、核兵器使用の惨禍やその非人道性を語り伝え、継承する取り組みです。わが国は被爆者と手を取り合い、被爆の実相への理解を促す努力を重ねていきます。
原爆症の認定について、迅速な審査を行い、高齢化が進む被爆者に寄り添いながら、総合的な援護施策を推進します。
全てを抽象論でごまかした、恐るべき無内容。完全なゼロ回答である。被爆者や遺族の面前で、「核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めていただきたい」「多くの人々の苦悩に寄り添い、『黒い雨降雨地域』の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。」との訴えの拒絶である。このくらいのシンゾウの強さ、面の皮の厚さでないと、保守政権の維持はできないのだろう。いちいち国民の要望に耳を傾けていては、きりがないと言うことなのだ。
なお、この日注目されたのは、「核抑止論は虚構に過ぎない」という湯崎英彦・広島県知事の挨拶である。これも、アベ晋三の面前での発言として、重みがある。下記は、そのさわりである。
なぜ、我々広島・長崎の核兵器廃絶に対する思いはこうも長い間裏切られ続けるのでしょうか。それは、核による抑止力を信じ、依存している人々と国々があるからです。しかしながら、絶対破壊の恐怖が敵攻撃を抑止するという核抑止論は、あくまでも人々が共同で信じている「考え」であって、すなわち「虚構」に過ぎません。
一方で、核兵器の破壊力は、アインシュタインの理論どおりまさに宇宙の真理であり、ひとたび爆発すればそのエネルギーから逃れられる存在は何一つありません。したがって、そこから逃れるためには、決して爆発しないよう、つまり、物理的に廃絶するしかないのです。
幸いなことに、核抑止は人間の作った虚構であるが故に、皆が信じなくなれば意味がなくなります。つまり、人間の手で変えることができるのです。どのようなものでもそれが人々の「考え」である限り転換は可能であり、我々は安全保障の在り方も変えることができるはずです。いや、我々は、人類の長期的な存続を保障するため、「考え」を変えなければならないのです。
もちろん、凝り固まった核抑止という信心を変えることは簡単ではありません。新しい安全保障の考え方も構築が必要です。核抑止から人類が脱却するためには、世界の叡知を集め、すべての国々、すべての人々が行動しなければなりません。
皆さん、今こそ叡知を集めて行動しようではありませんか。後世の人々に、その無責任を非難される前に。
この知事発言は、子ども代表が朗読した「平和への誓い」と通底している。
血に染まった無残な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。
「あのようなことは二度と起きてはならない」
広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
私たちの未来に、核兵器は必要ありません。
私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。
私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。
被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々が諦めずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。
この二つのメッセージをつなげると、ほら、何とか希望が見えてくるではないだろうか。
石川逸子さんから、「風のたより」第19号をいただいた。2020年1月1日の日付で、「勝手ながら、本誌を、賀状に代えさせていただきます」とある。賀状というには過ぎたる32頁のパンフレット。
その2頁から14頁までが、山本信子著・小野英子訳の「炎のメモワール(原爆被爆手記)」である。その冒頭に、「2018年5月 小野英子」として、こう綴られている。
これは、私の母・山本信子が原爆投下2年後に英文で書き残した手記を日本語に翻訳したものです。……手記はアメリカの「TIME」誌宛に送付されましたが、GHQの検閲に引っかかって没収され、願いはかないませんでした。
山本信子さんは、旧制広島市立女学校の元英語教師。夫の信雄さん(旧制広島二中教師)との間に、洋子(被爆当時8歳)と英子(6歳)の二女をもうけていたが、原爆で夫と長女を失う。その悲惨さが言葉を失うほどに胸に痛い。母が我が子の遺体を探す場面は涙なくして読めない。
「『炎のメモワール』全文の無断転載は禁止されています。」との記載があるので、手記からの引用は遠慮し、この手記に添えられた石川逸子さんの短い詩を転載させていただく。この詩の「幼い少女」が山本信子さんの長女で、訳者・小野英子さんの姉に当たる山本洋子さんである。
幼い少女
ガミガミ言われても お母さんが一番好き
そう言い言いしていた少女
何一つ いけないことをしたこともないのに
なぜ 二日間 火傷したぼろぼろのからだで
熱い 熱いよウ と 苦しみ抜き 水をもとめ
看取るもの だれひとりもないまま
ぼろ冊のように死なねばならなかったか
なぜ なぜ?
どうして?
哀しい 苦しい 母の問いが
いまも 風とともにながれているよ
ー石川逸子
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もう一つ、石川さんの詩をご紹介したい。
「2019.4.5」の日付が入っている詩。そう、令和という元号が発表された直後に作られたものだ。
国書って?
石川逸子
とある国の首相が 鼻高々と申しました
「元号は「令和」
国書から取りました」
え? 「令」も「和」も そもそも
漢字ですよね
その漢字をもたらしたのは ほかでもない
百済の王仁博士
『万葉集』巻5・梅花の歌の
「序」から取ったとありますが
序文は かの王義之の「蘭亭序」を
そっくり模した文ですよね
353年3月 中国・晋の名士41人が
蘭亭で開いた 曲水に盃をながし 詩を詠んだ宴
席文中の「梅披鏡前之粉」
梅は鏡の前の白い粉のように白く咲いて は
梁簡文帝の梅花賦「争楼上之落粉」
あるいは陳後生の梅花落「払牧疑粉散」などを
模したもの とか
見えてくるのは
いにしえの中国・朝鮮の香り豊かな文人たちの
宴に 詩に
300年余の後 はるかに 心を寄せ 敬い
「淡然自放」淡々としてほしいまま
「快然自足」愉快に満ち足りて
酒に酔い 陶然として 梅の花をめで
天から雪がながれくる と詠んだ
大宰府の役人たちの 正月の宴
中国・朝鮮への蔑視を 折々にちらつかせ
2019年 「令和」で あわよくば「時」を支配し
フクシマ原発事故も ジュゴンの死も
なかったことにしようとする
とある国の首相よ
今一度 無心の心で
万葉集巻5・梅花の歌の「序」を読み
アジアの国々の文化を愛おしんだ 往時の役人たちを
見習いませんか
‐2019.4.5
(2020年1月30日・連続更新2495日)
来日中のローマ教皇が話題となっている。その話題性は、伝統や権威の誇示によるものではない。容貌でも服装でも車でもない。平和を希求する真摯なメッセージの内容にある。虚仮威しの臭み芬々だった天皇交替儀式を見せつけられたあとだけに、普遍性をもつ教皇の言葉が実に新鮮に聞こえる。カソリックの信仰をもたない者の胸にも平和を実現しようという言葉の真摯さが響く。
「祈りの長崎」が、教皇の第一声の地にふさわしい。本日(11月24日)爆心地公園でのスピーチの最初の言葉が、「この場所(長崎)は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。」というものだった。
「人間が過ちを犯しうる存在であることを意識させる」象徴的な場所。それが、長崎であり、広島であり、あるいはアウシュビッツであろうか。実は世界中に数限りなくある、人が人を大量に殺すという「過ち」。大量殺人の準備のために危険な武器を備蓄する過ち。相互に不信と憎悪を拡大して軍備拡大を競う、愚かな過ち。
その中でも、核の使用こそが、人類の最も危険な「過ち」であることに異論はなかろう。核を保持し備蓄して威嚇することも同罪である。教皇の長崎メッセージは、「核抑止理論による恐れ、不信、敵意を止めよう」という表題だった。
注目すべきことは、単に祈るだけではない。その言葉の具体性と驚くほどの厳しさだ。「核兵器のない世界を実現することは可能であり必要不可欠なこと」というのみならず、軍拡競争における武器の製造や備蓄を「途方もないテロ行為だ」と厳しく指弾した。
彼は、核兵器を含む軍拡をこう言って非難する。
「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です。」
そして、明確に核兵器を指してこう言う。
核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。…「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」
相互不信を前提とした明確な軍備の均衡による平和の否定、核抑止論の否定である。
「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」というシンプルな原則の宣言に、説得力がある。その上で、こう訴えている。
核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。
二つ目の「過ちの地」である広島ではさらに具体的なスピーチに及んでいる。
「核の傘」の下にいながら平和について語る「偽善」を、強い言葉で非難した。「最新鋭で強力な武器をつくりながら、なぜ平和について話せるのだろうか。差別と憎悪の演説で自らを正当化しながら、どうして平和を語れるだろうか」と。
戦争のために原子力を使用することを、「人類とその尊厳に反し、我々の未来のあらゆる可能性にも反する犯罪だ」と宣言。「次の世代の人々が『平和について話すだけで何も行動しなかった』として、我々の失態を裁くだろう」と警告した。さらに、60年代に核の抑止力を否定し、軍備撤廃を唱えた教皇ヨハネ23世が出した回勅(公的書簡)を引用し「真理と正義をもって築かれない平和は、単なる『言葉』に過ぎない」とも語った。
私は、信仰には無縁の人間だが、教皇のこの平和へのメッセージには賛意と共感を惜しまない。そして思う。抑止論を反駁する教皇のこのスピーチは、9条の精神ではないか。案外、こちらが世のトレンドであり、スタンダードなのではないか、と。
(2019年11月24日)
だれの言葉かは知らないが、「8月は6日9日15日」である。8月こそは、鎮魂の月であり、戦争の悲惨と愚かさを語り継ぐべき時、そして、あらためて平和の尊さを確認して「憲法第9条」擁護を誓うべき季節。なお、「6日9日15日」は、安倍晋三が、気の乗らない挨拶文の朗読を強いられる日でもある。
被爆から間もないじきに、広島の小学校に入学した私には、8月6日は特別の日である。その日の8時15分が人類史の転換点だとも思っている。その時、人類は、種としての自死の能力を手に入れたのだ。
それから74年目の今日。広島平和記念公園で恒例の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式典」が営まれた。雨の中のしめやかな式典だったという。
松井一実市長の平和宣言は、列席した安倍晋三の目の前で朗読され、核兵器禁止条約に背を向ける日本政府に対し、「被爆者の思い」として署名・批准を求めると明確に宣せられた。
安倍晋三首相はいつものとおり、ホントにつまらない、気持ちのこもらない挨拶文を朗読した。紋切りの美辞麗句はあったが、「被爆者の思い」に応えるところはまったくなかった。
記者会見では「核兵器禁止条約には保有国が一カ国も参加していない」としてその実効性を疑問視し、「被爆者代表から要望を聞く会」に臨んでは、被爆者を前に日本政府による核兵器禁止条約の署名・批准を否定する姿勢をあらためて明確にした。この人は、本当に日本の首相なんだろうか。それとも、アメリカの属領長に過ぎない人なのだろうか。被爆者にも、被爆運動にも敵対する、日本の政府とは、首相とはいったい何なのだろう。
今日の式典で、耳目を惹いたのは、湯崎英彦広島県知事のあいさつだった。要点を抜粋してご紹介したい。
絶望的な廃虚の中、広島市民は直後から立ち上がりました。水道や電車をすぐに復旧し、焼け残りでバラックを建てて街の再建を始めたのです。市民の懸命の努力と内外の支援により、街は不死鳥のごとくよみがえります。
しかしながら、私たちは、このような復興の光の陰にあるものを見失わないようにしなければなりません。緑豊かなこの平和公園の下に、あるいはその川の中に、一瞬にして焼き尽くされた多くの無辜の人々の骨が、無念の魂が埋まっています。かろうじて生き残っても、父母兄弟を奪われた孤児となり、あるいは街の再生のため家を追われ、傷に塩を塗るような差別にあい、放射線被ばくによる病気を抱え今なおその影におびえる、原爆のためにせずともよかった、筆舌に尽くし難い苦難を抱えてきた人が数多くいらっしゃいます。被爆者にとって、74年経とうとも、原爆による被害は過去のものではないのです。
そのように思いを巡らせるとき、とても単純な疑問が心に浮かびます。
なぜ、74年たっても癒えることのない傷を残す核兵器を特別に保有し、かつ事あらば使用するぞと他を脅すことが許される国があるのか。
それは、広島と長崎で起きた、赤子も女性も若者も、区別なくすべて命を奪うような惨劇を繰り返しても良い、ということですが、それは本当に許されることなのでしょうか。
核兵器の取り扱いを巡る間違いは現実として数多くあり、保有自体危険だというのが、米国国防長官経験者の証言です。
明らかな危険を目の前にして、「これが国際社会の現実だ」というのは、「現実」という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ、実のところは「現実逃避」しているだけなのではないでしょうか。
核兵器不使用を絶対的に保証するのは、廃絶以外にありません。しかし大国による核兵器保有の現実を変えるため、具体的に責任ある行動を起こすには、大いなる勇気が必要です。
唯一、戦争被爆の惨劇をくぐり抜けた我々日本人にこそ、そのエネルギーと勇気があると信じています。それは無念にも犠牲になった人々に対する責任でもあります。我々責任ある現世代が行動していこうではありませんか。
?(2019年8月6日)
歴史の証人である被爆船第五福竜丸は、東京都江東区夢の島公園の展示館で、多くのことを語り続けている。展示館の老朽化に伴う改修工事が順調に進展して、4月2日(火)に展示を一新してリニューアルオープンの運びとなる。ぜひ、また夢の島まで足を運んで、ボランティアガイドの説明にも、船体自身のつぶやきにも耳を傾けていただきたい。
この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、1954年3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
「第五福竜丸」は、1947年に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年に廃船になったものです。
東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。 <東京都 1976年6月10日開館>
長期にわたる展示館建物改修工事は無事、予定通り終了し、4月2日よりリニューアルオープンを迎える見込みです。
(4月1日は月曜日で休館ですので、お間違えの無いようご注意ください。)
http://www.d5f.org/news/90.html
また、第五福竜丸展示館のある夢の島公園は2020年に開催予定のオリンピック・パラリンピックのため、各所で工事が行われています。ご来館時の工事個所等については展示館までお問い合わせください。
団体見学についてのご案内
http://d5f.org/dantai.html
第五福竜丸展示館では団体見学を受け付けております。
サークル、ゼミなどの団体見学や小、中、高など学校の修学旅行なども多く受け 入れております。周囲は芝生が茂るキレイな公園で、アクセスも良好で大型バス 駐車場などもご用意しております。
ご来館の際には、当館のボランティアスタッフ、学芸員によるガイド(簡単なご 説明、展示紹介、質疑応答など)も行っております。
団体見学概要
ボランティアガイド、学芸員により展示解説20~30分・展示物の見学30分 あわせて凡そ50~60分程度が通常見学時間です。
※場合、混雑により時間調整を行います。必ず事前でのご連絡が必要です。
ご希望の方はTELまたはFAXにてご連絡を下さい。
東京都立第五福竜丸展示館
東京都江東区夢の島2丁目1-1 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
当館の新しいパンフレット(PDF版)のダウンロードはこちら
http://d5f.org/pamphlet.pdf
なお、ありがたいことに、第五福竜丸展示館4月2日リニューアルオープンは、メディアでも話題となっている。
東京新聞3月18日 夕刊
福竜丸展示館 来月新装オープン 船内の3D映像視聴可に
米国によるビキニ環礁水爆実験で一九五四年に被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」を保存する東京都立第五福竜丸展示館(江東区)で、四月の新装オープンに向けた準備が大詰めを迎えている。建物の老朽部分を改修し、船内の3D映像を視聴できるスペースなどを新たに設置。高齢で亡くなる元乗組員も多い中で、被ばくの影響や証言の継承に取り組む。
「屋根の雨漏りがなくなった。これで船も傷まない」。三月上旬、全長約三十メートルの福竜丸で甲板に職員らが上り、手すりや操舵(そうだ)室にたまったほこりを丁寧に拭き取った。
七十年以上前に建造された船体はペンキがはげ、傾きもある。安全や保存の観点から普段は船内に立ち入ることはできない。展示館は今年で開館四十三年。地盤沈下で床はへこみ、天井からは雨水が漏れ出していた。昨年七月から休館し、断熱材の張り替えや照明の改良も含め改修を進めた。
3D映像は、機関室や魚の保存倉庫などをさまざまな角度から撮影して製作。約八分間で、船内を歩いている感覚を味わえるような構成にした。他に元乗組員の証言映像も公開。外国人客への対応として、英語の説明パネルも設置した。
第五福竜丸は五四年三月、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験に巻き込まれ乗組員二十三人が被ばく。廃船後に東京・夢の島の海岸に放置されたが市民の要望を受け都が保存を決めた。重さが約百四十トンあったため周囲を埋め立てて陸揚げし、少しずつ移動させ館内に搬入した。
元乗組員は、今年二月に見崎(みさき)進さんが九十二歳で亡くなり生存者は四人になった。展示館の新装オープンは四月二日で、学芸員の蓮沼佑助さん(28)は「水爆の被害や乗組員の苦労を知ってほしい」と話している。
赤旗3月24日「きょうの潮流」
2020年の東京オリンピック施設整備で突貫工事が続く夢の島公園。同公園内にある都立・第五福竜丸展示館も4月2日のリニューアルオープンに向けて、大規模改修中です▼第五福竜丸はアメリカが1954年水爆実験を強行した太平洋ビキニ環礁まで航海し、被ばくした木造マグロ船の一つです。原水爆禁止を願う運動で保存され、1976年に開館。築43年、激しくなった屋根からの雨漏りを防ぐ工事などを済ませました。ビキニ被ばく65年の節目に第五福竜丸を守る“シェルター”として生まれ変わります▼傷みが目立つ第五福竜丸本体の改修も急がれます。戦争直後の1947年建造。1985年に大改修しました。当時、「木造の大型船が残されていること自体が貴重。文化財保護の理念での改修を」との専門家の助言を受け、同じ材質で、同じ工法で、1年3カ月かけました▼今回新たに「立体画像(3D映像)で歩く船内」や元乗組員・大石又七さんの証言映像、英文案内も加わります▼学芸員の安田和也さんは「展示館は、産業文化遺産と同時に平和遺産です。核兵器の廃絶を願い、第五福竜丸を知らない世代にむけて核の問題を発信し続けたい」と▼2020年は、核実験した核保有大国と核兵器禁止条約に賛成する諸国政府が議論を交わす場になる、NPT(核不拡散条約)再検討会議が国連本部で開かれる年でもあります。展示館は原爆ドームとともに、日本を訪れる世界の人たちに一度は見学してほしい平和の拠点です。
(2019年3月24日)
73年前の8月9日午前11時2分、長崎の上空で核兵器が炸裂し広島に続く阿鼻叫喚のこの世の地獄が出現した。この1発の原子爆弾によって、7万人以上の命が奪われたという。そして、生き残った多くの人々が放射能による不安と苦しみを味わい続けている。
昨日(8月9日)が、長崎の「原爆の日」。長崎の平和への祈りの日でもある。長崎市が主催する原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が執り行われた。
今年の注目点は二つ。
まずは、今年の平和式典に、初めて国連のグテレス事務総長が出席したこと。もう一点が、国連での核兵器禁止条約が採択されて1年。いまだに署名・批准を拒む日本政府に、どう怒りの声をぶつけるか。
グテレス事務総長は、式典での挨拶で、核廃絶を平和と軍縮の課題と一体のものとして、国連の最優先課題と明確に述べた。そして、こうも述べている。
「核兵器保有国は多額の資金を費やして核兵器の最新鋭化を図っています。2017年には1兆7000億ドル以上を軍事費に使い、冷戦終結以来最大となっています。それは世界の人道支援に必要な金額の80倍です。」「一方で、軍縮の過程は遅れ、停止するに至っています。多くの国は昨年、核兵器禁止条約を採択して、その不満を示しました。」「あらゆる兵器の削減が急ぎ求められていますが、ことに核軍縮が必要です。そのことを背景に、私は5月、全世界の軍縮提案を行いました。」「軍縮は国際の平和と安全の維持の推進力です。国家安全保障を確保する手段です。」「私が軍縮で掲げる課題の根拠となっているのは、核による絶滅の危険を弱め、あらゆる紛争を防止し、兵器の拡散や使用が市民にもたらす惨害を減らすような具体的措置です。」「核兵器は世界の、国家の、人間の安全保障を損なうということです。核兵器の完全廃絶は、国連が最も重視する軍縮の優先課題です。」
そして、核兵器禁止条約批准の問題である。
田上富久市長の「長崎平和宣言」は、市民の声を背に政府に対して厳しい。昨年(2017年の平和宣言では、こう言っている。
「核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した『核兵器禁止条約』が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした」「ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています」「核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています」「日本政府に訴えます。核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています」
さて、同じ田上市長による今年(2018年)の長崎平和宣言である。
「核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条約(NPT)で交わした『核軍縮に誠実に取り組む』という世界との約束を果たしてください。
そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国会に条約の署名と批准を求めてください。
日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。」
被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた田中熙巳さんも手厳しかった。
「2017年7月、『核兵器禁止条約』が国連で採択されました。被爆者が目の黒いうちに見届けたいと願った核兵器廃絶への道筋が見えてきました。これほどうれしいことはありません。
ところが、被爆者の苦しみと核兵器の非人道性を最もよく知っているはずの日本政府は、同盟国アメリカの意に従って『核兵器禁止条約』に署名も批准もしないと、昨年の原爆の日に総理自ら公言されました。極めて残念でなりません。」
「紛争解決のための戦力は持たないと定めた日本国憲法第9条の精神は、核時代の世界に呼びかける誇るべき規範です。」
アベは、これらの声を何と聞いただろうか。いたたまれない思いをしなかっただろうか。それとも、何とも思わぬ鉄面皮?
本日の赤旗の報じるところでは、「米西海岸カリフォルニア州の最大都市ロサンゼルス(約398万人)の市議会は8日、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約を支持する決議を全会一致で採択しました。」とのこと。「全会一致」というのがすごい。
なお、アベが頼りの朝鮮半島緊張は、大局的に見て雪解けの展望を開きつつあるではないか。この事態での、核のカサ必要論固執に説得力があるだろうか。田口市長はこの点にも触れている。
「今、朝鮮半島では非核化と平和に向けた新しい動きが生まれつつあります。南北首脳による『板門店宣言』や初めての米朝首脳会談を起点として、粘り強い外交によって、後戻りすることのない非核化が実現することを、被爆地は大きな期待を持って見守っています。日本政府には、この絶好の機会を生かし、日本と朝鮮半島全体を非核化する『北東アジア非核兵器地帯』の実現に向けた努力を求めます。」
アベよ、広島の声を聞け。長崎の声を聞け。被爆者の声を聞け。原爆で亡くなった20万の人の声を聞け。そして、侵略戦争の犠牲となった隣国の人々の声に耳を傾けよ。悔い改めて、核兵器禁止条約に署名と批准を決意せよ。まだ間に合う。遅過ぎることはない。
(2018年8月10日)
1945年8月6日午前8時15分、広島上空で原子爆弾が爆発したそのとき以来、核廃絶こそが人類が取り組むべき最大の課題となった。愚かなことだが、人類は自らを滅ぼす能力を身につけたのだ。以来73年間、その能力を封じ込めることが、人類最大の課題としてあり続け、事態は今も変わらない。
冷戦のさなかに、核廃絶どころか核軍拡競争が続けられて、原爆は水爆となり、また多様な戦術核が開発された。核爆弾の運搬手段は飛躍的に性能を向上させ、人類は核戦争による絶滅の恐怖とともに生存してきた。73年間、人類は、首をすくめ息を潜めた「萎縮した小さな平和」の空間で生き延びてきた。そして今なお、核兵器による相互威嚇の均衡の上にかろうじて、生存を続けている。
すべての武力が有害で無意味であるが、核兵器こそは絶対悪である。今日、8月6日はそのことを確認すべき日にほかならない。
本日(8月6日)、広島市で開かれた平和記念式典で、子ども代表が「平和への誓い」読み上げた。その中に次の言葉があった。
人間は、美しいものをつくることができます。
人々を助け、笑顔にすることができます。
しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。
ほんとうにそのとおりだと思う。美しいものをつくり、人々を助け、人々の笑顔があふれる社会を作りたい。それなのに、どうして人間は、人を傷つけ、人々を嘆き悲しませる武器を作り、軍隊を作り、戦争をするのだろうか。この上なく恐ろしい、核兵器まで作って、これをなくすることができないのだろうか。
苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。
平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。
若いあなた方が救いだ。あなた方が希望の灯だ。被爆のむごさと被爆者の切実な思いの伝承者。核のない世を願う人類の願いを実現する運動の先頭に広島の人々がいることが心強い。今日の式典で「平和への誓い」を読み上げたお二人のうちの一人は、広島市立牛田小の6年生だという。牛田小学校は私の母校だ。私が一年生として入学したのが爆心地に近い牛田小学校で、担任の女性の先生はお顔にケロイドのある方だった。「平和への誓い」が、ことのほか心に沁みた。
松井市長の「平和宣言」は、事前に伝えられたとおりのもの。
世界は「自国第一主義」が台頭し東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況と懸念を示した上で、「核抑止や核の傘という考え方は世界の安全を保障するには極めて不安定で危険極まりないもの」と指摘。昨年(2017年)7月に国連で採択された核兵器禁止条約の発効に向け、日本政府に対し、憲法が掲げる平和主義を体現するため、国際社会で対話と協調を進める役割を果たすよう求めたが、一方で日本が条約に参加していないことについては昨年に続き直接批判はしなかった。今年(2018年)6月に史上初めて実現した米朝首脳会談を念頭に「朝鮮半島の緊張緩和が対話によって平和裏に進む」ことに期待を寄せたほか、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が昨年ノーベル平和賞を受賞したことを受け、被爆者の思いが世界に広まりつつあるとの認識を示した。
以下の言葉は、説得力があり、心に迫るものがあった。
世界にいまだ1万4千発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器が炸裂したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。
被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全てが死滅し、美しい地球は廃墟と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。
日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。
9条改憲をたくらむアベ晋三の耳に、松井市長の平和宣言はどう聞こえたのだろうか。とりわけ、「日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するために」というくだり。
例年のとおり、式場外から「アベやめろ」「アベ返れ」コールが聞こえる中での、総理大臣挨拶であったようだ。感動のない、歓迎されざる「棒読みの式辞」。だが、首相も衆院議長も、この式典には出席せざるを得ないのだ。
その首相の挨拶は、朝鮮半島での新たな情勢の展開についても、国連で採択された核兵器禁止条約についても、一切触れるところがなかった。式典後行われた広島被爆者7団体との面談の席でも、被爆者側の「核兵器禁止条約批准要望」を「条約とは考え方、アプローチを異にしている。参加しない考えに変わりない」と不参加を明言した。
この席で広島県被団協の坪井直理事長は「原爆は人間の悪知恵が作ったもの。われわれが核兵器をなくすような力を発揮しなきゃいけない」と訴え、首相は「(核兵器廃絶という)ゴールは共有しているが、核保有国の参加が必要だ。橋渡し役を通じ、国際社会をリードしたい」と述べたている。
首相の言葉は白々しい。核廃絶というゴールに向けての姿勢が見えないではないか。「橋渡し役」という言葉が空しい。非核保有国でありながら、核保有国の走狗になっているとしか感じられない。言い募れば、詭弁にしか聞こえない。戦争法案審議以来からモリ・カケ問題での国会答弁を通じて、この人の言うことには真実味が欠けるという確信が形成されている。端的に言えばこの人は「嘘つき」と思われてしかるべきなのだ。不徳の致すところというほかはない。
(2018年8月6日)
人類の歴史は、1945年8月6日午前8時15分で、2分される。人類の絶滅という危機を自覚せずに過ごすことができた「前史」と、核によって人類の絶滅という危機の実感とともに過ごさねばならなくなった「後史」とにである。
人類絶滅の危険は瞬間的な核爆発によるものだけではない。核爆発のあとに、長く継続する放射線被害によってももたらされる。地球史の長い長い黎明期は、高放射線環境で生物が生息できる環境ではなかった。ようやく、生物の住める状態にまで自然放射線量が減少したのに、人類は自らの手で、人類の存続を危うくしているのだ。
繰りかえし言われているとおり、核兵器は絶対悪である。核兵器と人類は、共存し得ない。まずは核兵器をなくさなければならない。これが喫緊の課題。そして、核兵器を生み出す戦争をなくさなければならない。さらに、次元の異なる高度放射線被害をもたらす原子力発電も廃絶しなければ、人類の未来はない。
核廃絶運動の最前線に立つ人々が、被爆者である。あの悲劇の瞬間から70余年を経て、悲惨な被爆の実体験者はその数を減らしつつある。実体験を語る活動に参加も難しくなりつつある。我々は、その体験を継承し、その声を伝承しなければならない。
広島・長崎の被爆者は、日本国内だけでなく、韓国にも多くいる。当時、朝鮮は日本領とされていたのだから不思議はないが、朝鮮から渡って広島・長崎に居住していた人の数は、驚くほど多い。そして、戦後帰国した被爆者数も。このことが、あまり認識されていないのではないか。
3月下旬のピース・ツアー参加者の事前学習会で、以下のことを知った。
☆ 1945年8月の被爆直前、日本本土に居住していた朝鮮人数は230万人。うち、広島・長崎の居住者が約10万人だった。
☆ そのうち、約7万人が被爆している。約4万人が死亡、3万人が傷害を負いながらも生存した被爆者となった。被爆者の内2.7万人が韓国に帰国し、約3千人が日本に残った。
☆ 1954年ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被爆し、その後に原水禁運動が興隆した。1956年には、「 被爆者団体協議会(被団協)」が結成され、今日まで約40回に渡る法改正が行われ、運動はさまざまな被害補償制度をつくってきた。
☆ 被爆者運動は、当然のこととして在日の被爆者も加わり、その成果の適用において、在日朝鮮人被爆者は日本人と同等であった(健康管理手当、被爆者手帳、生活保障手当等)。しかし、韓国に帰国した被害者には、何の補償もなかった。彼らは、働くこともできず、疎外され続けてきた。
☆ 1956年以後、日本人の平和団体、被爆者団体から被爆者への支援カンパや自立的な運動のよびかけがなされ、徐々に韓国でも被爆者団体の運動が始まった。
☆ 韓国の被爆者は、日本政府に対し、日本人被爆者と同等の補償や支援を要求したが、日本政府はほとんど何もしなかった。
☆ 繰り返しの運動の「成果」として、”日本政府は、在韓被爆者のうち、日本に来て治療を受ける人への若干の支援をはじめた。しかし、日本に行く費用もない人が多く、実質的に支援を受けることができないまま亡くなっていく人が多かった。
☆90年代に入って、日本政府は韓国政府に対し、40億円の支援を一括して行った。韓国政府は、そのうち20億円で陜川(ハプチョン)に被爆者支援施設を作り、生活困難な被爆者が入居(約70人)できる施設を作り、残金で韓国全土の生活支援基金にした。なお、陜川(ハプチョン)には広島に住んでいた帰国被爆者が多く、『韓国の広島』と呼ばれていた。古い統計ではあるが、1974年に原爆被害者援護協会の陜川(ハプチョン)支部が行った被爆者実態調査によると、同地域の当時の被爆生存者は3867人であった。
☆2015年、日本政府は世界中の被爆者に日本人被爆者と同等の補償をすることになり、日本政府から直接本人に送金する制度になった。厚労省によると、2015年3月現在、日本外に住んでいる被爆者手帳の所持者は約4300人で、このうち韓国居住者は約2500人(北朝鮮居住者1人)だという。被爆者の9割が亡くなってから、ようやく日本政府は腰をあげたことになる。
3月28日(水)、ピース・ツアーは慶尚南道の陜川(ハプチョン)を訪れた。「韓国の広島」の異名をもつ町。
昨年(2017年)完成した原爆資料館の生々しい展示の見学を終えて、前庭で休んでいたら、体格のよい老人に声をかけられた。「どちらからいらっしゃいましたか」。訛のない、正確な日本語だった。14、5分の話しが弾んだ。というよりは、「私の話を聞いてくれ」という熱意がほとばしる対話だった。
私自身が被爆者ですよ。広島で被爆したときは10歳だった。市内の国民学校に通っていました。
代々ハプチョンで暮らしていましたが、幼いころ父と兄に連れられて広島に渡りました。ハプチョンの近くからは、たくさんの人が広島に行きました。兵役で行った人も、徴用で行った人もいましたが、自分の意思で家族と一緒に広島に渡った人が多かったはずです。
自分の意思と言っても、本当の意思ではないと思いますよ。その頃、この辺の農家はみんな貧しかったんです。兵役や徴兵で若い者が少なくなって、なかなか農業が思うようにはできなくなった。日本に行けば何とか仕事があって食っていけると言われて、出かけた者が多かったんです。
で、日本のどこへ行くか。村の人で、広島に行った人が多かった。知っている人が先に行っているから、その人をたよりにして、なんとなくみんな広島に行きましたね。
広島で日本語も覚えましてね、国民学校に上がったけど、勉強どころではなかった。もう少し、きちんと勉強させてもらえたらよかった、あとあとそう思いましたね。
私は学校で被爆しました。爆心地から2キロと少しのところです。あの体験は忘れられません。でも、私自身は大きな怪我をしなかった。幸い、父と兄がすぐ来てくれて、私を連れて火災を避け西の方向に逃げました。6日の晩は野宿して、7日に己斐(こい)中学校の校庭で炊き出しを受け、手当もしてもらうことができました。そのときは、もう裸足でした。
行き道、道路に死体がごろごろと転がっていたんです。死体を踏まないように、除けて歩くという感じでした。そして、死んでいる人だけでなく、死にそうな人が大勢。幽霊みたいに歩いていました。本当に地獄の風景でしたね。
終戦後、間もなく親に連れられて韓国に帰りました。でも、やっぱり生活は苦しかった。そのあと、また日本に行きました。最初は宮崎、そしてそのあとはやっぱり広島。で、またハプチョンに戻りました。そうこうしているうちに、齢を取った。
いまは、陜川原爆被害者福祉会館に住んでいます。この会館は、日本の被爆者の運動で、日本政府が金を出してつくったものです。情けないのは、韓国の政府が十分な動きをしてくれないこと。
それから、もう一つ。どうしても言っておきたいのは、原発のことですよ。福島の事故には震えあがりました。あんな危険なものは絶対に作ってはいけない。私は被爆者一世ですが、子や孫の将来のために、核兵器も原発も絶対になくして欲しいと思います。
この方のお名前を伺ったところ、キム・ドシギと名乗られた。ゆったりと咲く白いモクレンの花の下でのキムさんのお話しを忘れることはないだろう。
(2018年4月9日)