表現の自由は、民主主義社会の血液である。表現の自由が十分に保障されている社会こそが、活性化した民主主義社会である。表現の自由が枯渇するとき、民主主義も窒息し死に瀕する。民主主義社会においては、表現の自由は最大限尊重されなければならない。
表現の自由とは何か。権力を批判する自由のことである。権威に恐れ入らない自由である。社会の多数派に与しない言動の自由である。けっして、安倍政権に忖度をする自由ではなく、天皇に阿諛追従する自由でもなく、国民の時代錯誤の差別意識に便乗して韓国や在日をバッシングする自由ではない。権力や権威や社会の多数派には、相応の寛容の姿勢が求められるのだ。
日本に表現の自由はあるか。国境なき記者団が毎年発表しているのは「世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)」。表現の自由よりは狭い「報道自由」についてのものだが、日本の地位は180か国中67位である(2019年)。安倍政権成立前の2011年が11位。12年が22位だった。安倍政権成立後の13年に突然53位と順位を下げ、以後、59位、61位、そして72位となって、70位前後を低迷している。韓国(41位)、台湾(42位)などの後塵を拝している。さもありなん。
そのことを自覚せざるを得ない事態が今進行しつつある。愛知で行われている「トリエンナーレ 『表現の不自由展・その後』」でのことである。「表現の自由展」ではなく、「表現の不自由展」というタイトルが刺激的である。この展覧会のホームページには、展示の趣旨をこう述べている。
「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。
権力から、権威から、そして社会的多数者の側から排斥された表現、つまりは保護さるべくして保護されなかった表現の実例を集めた「表現の不自由展」なのだ。わが国における表現の自由保障が、いかに形骸化し脆弱であるかの展覧会。ところが、その展覧会自体の成立が危うくなっている。まさしく、忖度や、多数派の暴力的恫喝によってである。わが国における表現の自由の喪失を満天下にさらけ出す事態となった。
主催者側は、「開会初日の8月1日だけでテロ予告や脅迫ともとれる内容を含む批判的な電話が200件とメールが500件」「2日も、ほぼ同数の電話やメールが殺到した」と公表している。この社会は病んでいる。恐るべき事態ではないか。
8月2日、展覧会を視察に訪れた河村たかし名古屋市長は、「平和の少女像」に関して、次のように述べたと報じられている。
「ほんとにまあ、ワシの心も踏みにじられましたわ、これ。ということで展示を即刻中止して頂きたいですね」「芸術かどうかは知りませんけど、10億も使っている」とコメント。「これを反日作品だと解釈しているのは市長の側では?」との質問には「なにを言ってるの。誰でもそう思ってるじゃないですか?」と応じた。
「ワシの心も踏みにじられましたわ」は、舌足らずで意味不明。この「平和の少女像」自体が人の心を踏みにじる作品ではあり得ない。少女像をめぐる一連の論争によって、「ワシの心も踏みにじられた」ということなら、あり得ることだろう。が、近代の日韓の歴史を真摯に見つめようとする立場からは、それこそが心ない物言いというしかない。「ということで展示を即刻中止」という表現の差し止め要求は、表現の自由を蹂躙する傲慢極まりない姿勢と言うほかはない。
日本有数の大都市の市民を代表する市長ともあろう人が、このような粗暴な発言をすることを日本の社会が許容している。いや、むしろこの市長は、韓国民や韓国との協調を望む日本人に不愉快な思いをさせることを承知で、声高にこの少女像の撤去を求める発言をしているのだ。この粗暴な発言が自分の政治的な支持者にアピールすることになると計算してのことである。
表現は、権力や多数派にとって歓迎すべからざる内容であればこそ、その自由を保障することに意味がある。「ワシの心も踏みにじられる」表現こそ、保護されなければならない。「カネを出しているのだから、県や市の意向に従え」と言ってはならない。ましてや、「これを反日作品だと解釈」して、撤去を要求するのは、政治的弾圧というほかはない。日本における表現の不自由はここまで来ている。日本の民主主義は、本当に危うい。
(2019年8月3日)
昨日(5月25日)、ちきゅう座総会に参加した際に、社会評論社の松田健二さんから「評伝 孫基禎」(寺島善一著)をいただいて、興味深く読んだ。著者の立場は公平である。オリンピックやスポーツだけを切りとるのではなく、日本の朝鮮に対する植民地支配の歴史に目を配っている。それだけに読後感はやはり重い。日本人の朝鮮に対する差別意識の底流が露わになっている今だけに、なおさらである。
著者は、近代オリンピズムの崇高さを強調し、孫と同時代アスリートとの交流を「スポーツで築き上げた友情は、国境を越えていつまでも不変」と讃えている。大島謙吉、オーエンス、ハーパー(英・孫に続いてマラソン2位)らとの交流は確かに感動的なのだが、現実の厳しさの方に圧倒される。
国威発揚のナショナリズム、人種差別、そして商業主義の跋扈というオリンピック事情は、1936年当時も現在も、さして大きな変化はないのではないか。
来年(2020年)の五輪は、歴史修正主義者が首相を務める国の、民族差別主義者が知事の座にある首都で、開催される。本当に、東京五輪開催の積極的意味はあるのだろうか。
プロ・アマを問わずスポーツ隆盛の今、若者たちに訴えたい。かつて理不尽な仕打ちを受けていた朝鮮人アスリートがいたことを。日本が朝鮮を植民地としていたが故の悲劇である。その代表的な人物が、孫基禎なのだ。
孫基禎(ソン・キジョ)、1919年8月の生まれ。当時、既に朝鮮は日本の植民地とされていた。貧苦の中で走り続けて、ランナーとして頭角を表し、世界記録保持者として、1936年8月9日ベルリンオリンピックのマラソンに挑んで、金メダルに輝く。当時のオリンピック新記録。なお、このとき朝鮮人南昇竜も銅メダルを獲得している。
その表彰式では、「日の丸」が掲揚され「君が代」が演奏された。これは、孫には耐えがたい屈辱だった。後年、彼自身がこう語っている。
「優勝の表彰台で、ポールにはためく日章旗を眺めながら、『君が代』を耳にすることはたえられない侮辱であった。…果たして私が日本の国民なのか? だとすれば、日本人の朝鮮同胞に対する虐待はいったい何を意味するのだ? 私はつまるところ、日本人ではあり得ないのだ。日本人にはなれないのだ。私自身の為、そして圧政に呻吟する同胞のために走ったというのが本心だ…。これからは、2度と日章旗の下では走るまい。この苦衷をより多くの同胞に知ってもらわなければならない」
孫も南も、表彰式では陰鬱な表情をしてうつむいている。孫は、ユニフォームの胸に付けていた日の丸を勝者に与えられた月桂樹で隠している。表彰式での真正面からの写真では、胸の日の丸が見えない。しかし、斜めからの撮影では日の丸が映ってしまう。この日の丸を消した写真を掲載したのが、8月25日付東亜日報だった。よく知られている「消えた日の丸」事件である。
現地の日本軍20師団司令部が激怒し、直ちに総督府と警察に関係者の緊急逮捕を命じた。こうして、5人の関係者が逮捕され、40日余の残酷な拷問が行われた。その上で、東亜日報は無期限発行停止処分、5人は言論界から永久追放となった。
ところで、孫と南の表彰式の後、日本選手団本部は選手村で祝賀パーティを開いたが、両名とも出席しなかった。「差別と蔑視故の抗議であったろう」という。その時刻両名はどこにいたか。ベルリン在住の安鳳根(アン・ボングン)という人物を訪問していたという。あの安重根(アン・ジュングン)の従兄弟である。
孫は、このとき安鳳根の書斎で、生まれて初めて「太極旗」と対面したのだという。
「これが太極旗なのだ。わが祖国の国旗なのだ。そう思うと感電でもしたように、熱いものが身体を流れていった。太極旗がこうして息づいているように、わが民族も生きているのだという確信が沸き起こってきた」
これが、彼の自伝「ああ月桂冠に涙ー孫基禎自伝」(講談社・1985年)の一節。
その後、孫は徹底して警察からマークされる。到底、金メダリストの扱いではない。彼が日の丸を背負って走ることは2度となかった。指導者たらんと東京高等師範と早稲田の入学を志すが、受験を拒否されている。明治大学だけが、暖かく迎え入れたが、当局はこれを許可するに際して条件を付けた。「再び陸上をやらないこと。人の集まりに顔を出さないこと。できる限り静かにしていること」だという。
明治大学は、箱根駅伝で彼を走らせようとしたが、かなわなかった。息子・孫正寅の語るところでは、2002年臨終の際に残した言葉が、「箱根駅伝を走りたかった」だった。
言うまでもなくマラソンは、オリンピックの華である。必ず最終日に行われる最終種目。この特別の競技の勝者には、特別の敬意が捧げられる。1936年ベルリンオリンピックで、10万の観衆が待ち受けるスタジアムに先頭で姿を現し、最後の100メートルを12秒台で走り抜けたスーパーヒーロー。それが、日本人として登録された朝鮮人・孫基禎だった。
孫は朝鮮民族の英雄となった。民族の団結や連帯の要となり得る立場に立った。日本の当局は、その言動を制約せざるを得ないと考えたのだ。孫に、朝鮮人の民族的な自覚や矜持を鼓舞する言動があるのではないかと危惧したのだ。
明治大学名誉教授である著者は、孫基禎と明治大学の親密な結び付きを誇りとして書いている。慶應も早稲田も東京高師も、この明治の姿勢に敬意を表さねばなるまい。
なお、ご注文は下記まで。
http://www.shahyo.com/mokuroku/sports/essay/ISBN978-4-7845-1569-1.php
(2019年5月26日)
元号が変更になって、3週間が経過した。まったく慣れない。馴染めない。新元号での文書に接すると、心穏やかでなくなる。やがて、動悸が激しくなる。血圧が上がる。呼吸が窮迫する。頭が痛くなる。発疹が出そうだ。
これは、明らかに「令和アレルギー」「令和不適応症候群」である。花粉症の人が、この世に杉の木あることを呪う気持ちがよく分かる。元号よ、この世から消えよ。天皇制とともに、飛んで行ってしまえー。
人権や民主主義を大切にすると看板を掲げている弁護士までが、無神経に元号を使って書面を書いていることが腹ただしい。もっとも、裁判所は不効率極まりない元号の世界。天皇への服属を当然としている不見識。自分の書く書面からはすべて元号を駆逐し得ても、裁判所は無神経に元号を押し通す。何とかならないか。
皆の衆、これを機に元号を駆逐しようではないか。
時も時。春の叙勲である。勲章だの褒賞だの、上から目線でくれてやろうというその姿勢に腹が立たないか。あんな物を、ありがたく頂戴しようという臣民根性を目にすると腹が立つ。不愉快極まる。眩暈をもよおす。これは、明らかに「勲章アレルギー」「褒賞不適応症候群」である。
皆の衆よ、これを機会に、勲章など駆逐しようではないか。
で、折も折、亀卜によって主基田(すきでん)と悠紀田(ゆきでん)が選定された。これが、新天皇を神とする怪しげな儀式、大嘗祭の準備なのだ。そのバカバカしさに腹が立つ。腹が立つだけではない。手足が震える。目も霞む。これは、明らかに「大嘗祭アレルギー」「政教分離違反不適応症候群」である。
皆の衆、これを機会に、大嘗祭をこの世から駆逐しようではないか。
私の「アレルギー」「不適応症候群」の元兇は、明らかに天皇制だ。国民主権に敵対し、差別の根源となっている天皇制。それが、この日本を大手を振って徘徊している。
嗚呼、醜悪なる妖怪が日本国をわがもの顔に徘徊している。象徴天皇制という妖怪が…。敗戦当時気息奄々だったはずのこの妖怪、今また代替わりで、息を吹き返しているごとくである。この妖怪が撒き散らす、毒気と妖気と臭気がアレルゲンとなって、「アレルギー」「不適応症候群」を引き起こしている。
皆の衆や、皆の衆。これを機に、天皇制という妖怪を主権者の力で、押さえ込もうではないか。でないと、民主主義や人権の、被侵害症状はますます増悪して、重篤化するばかり。
(2019年5月22日)
5月18日、私は小雨ふる光州にいた。1980年5月の光州は夏の暑さだったと聞かされたが、あの事件以後、光州の5月18日には雨がふさわしい。国立5・18民主墓地での「5・18光州民主化運動39周年記念式典」に参加して、文在寅大統領のかなり長い演説を聴いた。有能な通訳のおかげでほぼ内容は把握でき、立派なものだと感心した。
通訳を通じての言葉として印象に残ったのは、「光州の5月はけっして悲劇の5月に終わらせない。これからは希望の5月にしよう」という呼びかけだった。
ハンギョレ新聞によると、「大統領の演説は、メッセージ自体よりも、演説途中に20秒間近く続いた“言葉の空白”が話題になった」とされている。その沈黙は、「人権弁護士であると同時に民主化運動家として、光州に対して持ち続けた負債意識の表れであり、国政責任者として光州が再び侮辱される状況を目にしなければならない惨憺たる思いの表現だ」という。
「負債意識」とは、こなれない日本語だが、「負い目」「疚しさ」「呵責」ということなのだろう。ともに闘うべくして闘わず、友人を見殺しにしてしまった、という後ろめたさ。文在寅は、自分の立場が、常に民主主義や自由のために闘った人々の側にあるということを明確にしている。そして、野蛮な暴力と虐殺とで民主主義や自由を蹂躙した公権力の非道を、今や全国民を代表して謝罪しているのだ。
ハンギョレ紙は、こう続けている。
「沈黙の末に再開された記念演説は『1980年、光州が血を流して死んで行く時に、光州と共に(行動)できず、その時代を共に生きた市民の一人として、本当に申し訳なく思っている。公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に、大統領として国民を代表し、もう一度深くお詫び申し上げる』という、より具体的な謝罪につながった。」
この演説の日本語訳をネットで探してようやく見つけた。青瓦台から配布されたテキストを、ソウル在住のジャーナリスト・徐台教氏が翻訳したもの。以下は、飽くまでも私流の、抜粋・要約である。
*********************************************************************
「5.18民主化運動 39周年記念式典式辞」
尊敬する国民の皆さま、光州市民と全羅南道道民の皆さま。今年もまた五月がやってきました。悲しみが勇気として咲きほこる五月です。
決して忘れることができない五月の民主の英霊たちを悼むとともに、厳しい歳月を生き抜いてこられた負傷者と遺家族の皆様の御苦労に心からのお見舞いを申し上げます。
来年は5.18民主化運動40周年になります。そのため、大統領がその時に記念式に参加する方がよいという意見がありました。しかし、私は今年の記念式に必ず参加したかったのです。光州の市民たちに対する、あまりに申し訳なく恥ずかしいという私の思いを、皆さまに訴えたかったのです。
80年5月、光州が血を流し死んでいくその時を私は光州と共にすることができませんでした。そのことが、その時代を生きた市民の一人として、本当に申し訳ない気持でいっぱいなのです。…… あの時、公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に対し、大統領として国民を代表する立場で、もう一度深く謝罪いたします。
今も5.18民主化運動を否定し侮辱する妄言が、はばかりなく大きな声で叫ばれている現実を、国民の一人としてあまりにも恥ずかしく思います。個人的には、憲法前文に5.18精神を書き込むとした約束を今日までに果たすことができていないことをお詫びいたします。
国民の皆さま、1980年5月、私たちは光州を見ていました。民主主義を叫ぶ光州を見、徹底して孤立した光州を見、孤独に死んでいく光州を見ました。全南道庁を死守した市民軍の最後の悲鳴と共に光州の五月は私たちに深い負い目を残しました。五月の光州と共に行動できなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました。そうして私たちは光州の痛みを共に経験しました。
その負い目と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな恩恵を受けました。大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験した者であれば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきた者ならば、誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。
光州が守ろうとした価値こそがまさに「自由」であり「民主主義」でした。独裁者の後裔でない限り、5.18を別の目で見ることはできません。「光州事態」と侮蔑的に呼ばれた5.18が、「光州民主化運動」として公式に呼称されるようになったのは1988年の盧泰愚政府の時でした。金泳三政府は1995年、特別法により5.18を「光州民主化運動」と規定し、ついに1997年に5.18を「国家記念日」に制定しました。大法院もやはり新軍部の12.12クーデターから5.18民主化運動に対する鎮圧過程を、軍事反乱と内乱罪と判決し、光州虐殺の主犯を司法的に断罪しました。
国民の皆さま、こうして私たちはすでに20年も前に光州5.18の歴史的意味と性格について国民的な合意を成し遂げ、法律的な整理まで終えました。もうこの問題についてこれ以上の議論は必要ではありません。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです。
そうしてこそ私たちはより良い大韓民国に向けて互いに競争しながらも統合する社会に近づいていけるでしょう。
しかし、虐殺の責任者、秘密埋葬と性暴力の問題、ヘリからの射撃など明かすべき真実は依然として多くあり、この真実を明らかにすることが今、私たちに求められています。そのようにして、光州が担った重い歴史の荷を下ろし、悲劇の五月を希望の五月に変えていきましょう。
私たちは五月が守った民主主義の土台の上で共に歩んで行かなければなりません。光州に受けた恩義を大韓民国の発展で返さなければなりません。
わが政府は国防部独自の5.18特別調査委員会の活動を通じ戒厳軍によるヘリ射撃と性暴力、性的暴行、性拷問など女性の人権への侵害行為を確認し、国防部長官が公式に謝罪しました。政府は特別法による真相調査究明委員会が発足すればその役割を果たせるように全ての資料を提供し、積極的に支援することを約束します。
光州市民と全羅南道の皆さん、5.18民主化運動39周年の今日、光州は平穏な人生と平穏な幸福を夢見ています。
その年に生まれて39回の五月を過ごした光州の子どもたちは中年の大人になりました。結婚もしたでしょうし、親になってもいるでしょう。真実が常識になる世の中で光州の子どもたちが共に良く暮らすことを私は心から望みます。
民主主義を守った光州は今や経済民主主義と共生を導く都市になりました。労使政それぞれが譲歩し分け合うことで社会的な大妥協を成し遂げ「光州型雇用」という名前で社会統合型の雇用を作り出しました。すべての地方自治体が、第2、第3の「光州型雇用」を模索しています。
五月はこれ以上、怒りと悲しみの五月になってはいけません。私たちの五月は希望の始まり、統合の土台にならなければなりません。
光州が担った歴史の荷はあまりにも重いものでした。その年の五月、光州を見て経験した国民が共に担うべき荷です。
光州により蒔かれた民主主義の種を共に育て大きくしていく事は、全国民の幸せにつながるものとなるでしょう。私たちの五月が毎年かがやき、すべての国民に未来に進む力となることを望みます。
ありがとうございました。
(2019年5月21日澤藤記)
本日はツアー最終日。午前中は釜山の街を見学する観光客となった。まずは港町を一望する竜頭山公園に。
公園の広場に、巨大な李舜臣将軍像が建てられている。将軍が見はるかす先に、影島(ユンド)という島がある。ここが、豊臣政権軍先鋒の朝鮮侵略上陸地なのだという。
小西行長の軍勢が朝鮮に奇襲を掛けたとき、侵略者側は長い戦国時代を経て戦争の技術を磨き抜いた血生臭い武装集団。対する被侵略側は、李朝200年の平和を満喫していた文化国家であった。
1592年5月24日(旧暦4月13日)、早朝6時小西行長麾下の宗義智は影島から釜山の城壁に攻め寄せた。迎え撃った、朝鮮側の将軍は鄭撥。味方の軍船を自ら沈め、兵民とともに城に籠った。
いくさ経験豊富な日本兵は朝鮮側の防衛を圧倒し、鄭撥は果敢に反撃したが被弾して戦死。翌25日午前8時頃には城が落ちたという。
この戦いに参加していた吉野甚五左衛門の従軍記『吉野日記』には、朝鮮側の軍民はほとんど全て撫で斬り、隠れていた兵士も探し出し、ひれ伏した兵士も踏み殺し、「女男も犬猫もみなきりすて、きりくびは3萬ほど」と書かれており、吉野自身が「今思えば武士とは『鬼おそろしや』」と回想しているという。これが、近世における日本と朝鮮の原風景とも言うべき場面。
悪夢は300年の後に繰り返される。1894年日清戦争開戦直前の日本軍による朝鮮宮廷占領、そして95年終戦後の皇后暗殺。その後の植民地化と創氏改名、さらに日本のアジア太平洋戦争への加担の強制…。
本日最後の訪問先は、日本領事館裏の「少女像」。そして、その近くに、新設された徴用工像。朝鮮民族の日本に対する「恨」の思いを受けとめねばならないとする一日。14時発の日航機で帰途に。
5日の旅を終えて、すこしだけでも見聞は拡がった。これまでの韓国への旅では、毎回韓国に好意を積み重ねてきた。今回もそうなった。
私は、かつて中国には何度も足を運んだ。しかし、その都度、中国への好感度は薄れていったと言わざるをえない。中国旅行は漢字の世界、漢字なら読めるし、私はほんの少しだが中国語も分からないではない。それに較べて、まったく読めないハングルの世界は、勝手が違って戸惑うばかり。それでも、韓国の町と人々が作り出している雰囲気は好もしい。
中国の物質的繁栄のテンポの凄まじさには驚嘆するが、最近は韓国の方により強い親しみを感じる。韓国の民主化運動の成果には脱帽して敬意を表するしかない。中国にはそれがないのだ。
今回の旅は、「日本との関係での韓国の歴史」と「現代韓国の民主主義を学ぶ」ものだった。これは、日本の民主主義運動に携わる者にとっての、必須のテーマであるように思う。恐ろしく、多くのことを見聞したように思う。これから、整理をしなければならない。
(2019年5月20日)
本日(5月19日)は、気持が楽だ。陸路、南部の海辺に広がる広大な干潟で有名な順天へ。「順天湾自然生態公園」で干潟の自然を満喫し、その後「楽安邑城民族村」と古寺を見学の予定。その後、再び長駆釜山へ戻って、釜山市内に。2度目になるが、江戸期の日本との交流を伝える 「朝鮮通信使博物館」を見学する。
ところで、「順天楽安邑城(スンチョンナガヌプソン)」とは、李王朝時代の城と村落、市場などが原形そのままに保存された史跡だという。
朝鮮太祖6年(1397年)に倭寇の侵入を受けるや、この地出身の襄惠公金贇吉(キム・ビンギル)将軍が土城を築き、その300年後の仁祖4年(1626年)に忠愍公 林慶業(イム・ギョンオプ)将軍が楽安郡守として赴任し、現在の石城を築いた。他の地域の城郭と異なり、広い平野地帯に1?2メートルの大きさの正方形の石を利用して高さ4メートル、幅3?4メートル、全長1,410メートル、東内、南内、西内など135,537平方メートルに及ぶ3つの村を囲み、400年以上経つ現在も途切れるところなく原形そのままに残されている。今も85世帯がこの中で生活しており、民俗学術資料としてはもちろん、歴史教育の場としても価値が認められている。
ここでも「倭寇」だ。朝鮮と倭とは、切っても切れない宿命の歴史をもっている。
なお、今回の旅も、吉田博徳さんからのお誘いを受けてのもの。2名一室での同宿相手が吉田さん。吉田さんは、先年まで日朝協会都連会長の任にあった人。韓国訪問は、50数回にも及ぶという。韓国語も達者だ。こんな便利な同宿者はほかにない。
吉田さんは、1921年6月23日生まれで、現在97才。もうすぐ98才になる。が、年齢を感じさせないその矍鑠ぶりは人間離れしている。身体も達者だし、好奇心が旺盛。4泊5日の同宿で、長寿と健康の秘密を教えていただきたいところだが、「そんなものは何もない」とおっしゃる。いや、何もないはずはない。この機会に探り当てたいものと思う。
(2019年5月19日)
本日(5月18日)がこの旅のメインの日。「韓国の歴史」ではなく、「現代韓国の民主主義を学ぶ」日。午前中に、事件の舞台となった光州事件ゆかりの地を見学して、政府主催の「光州民主化運動記念集会」に参加。午後には、「光州事件と韓国民主主義への影響」という、現地の講師(金龍哲氏)の3時間を予定したレクチャーを受ける。
1980年5月18日からのこの事件は、当初「光州暴動」と一方的に呼ばれた。その後立場によって、「光州事態」「光州事件」「光州抗爭」「光州民衆抗爭」「光州義擧」などと呼称されたが、1988年以降、「光州民主化運動」として定着したという。
光州事件とは何であるか。韓国の民主化にどのようにつながっているのか。文在寅大統領のドイツ紙(フランクフルター・アルゲマイネ)への寄稿の抜粋から推し量っていただきたい。ぜひ格調の高いこの全文をお読みいただきたい。日本の隣国には、これだけの見識をもつリーダーがいるのだ。
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190505000700882
1 光州
韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。
1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。
ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。
光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。
二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。
残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。
孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。
?2 ろうそく革命、再び光州
私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。
2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のろうそく革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船のセウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。
ろうそく革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。
今の韓国政府はろうそく革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。
平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。
韓国は今、「革新的包容国家」を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています。こうした土台の上で
行われる挑戦と革新が民主主義を守り、韓国経済を革新成長に導くものと信じています。(以下略)
民主主義とは、安閑として与えられるものではない。闘い取るべきものなのだ。韓国の民主化運動は、そう教えているようだ。
(2019年5月18日)
本日は、全羅南道の羅州市を訪れ、東学農民戦争の跡地を訪ね、光州で宿泊する。
東学農民戦争とは、高校時代の歴史の授業では、「東学党の乱」として教えられた。「東学党」とは「西学に対抗する民衆の新興宗教組織」で、「乱」とは腐敗した李氏朝鮮に対する叛乱。大規模な、この民衆叛乱乱の鎮圧の過程で日清戦争が起き、これに勝利した日本が朝鮮を植民地化する。こんなところが、私だけではなく、日本人の多くの認識水準だったのではないか。
この農民の蜂起は、いま韓国では「甲午農民戦争」とも、「東学農民革命」とも呼ばれているという。「戦争」という規模であり、「革命」という理念をもった行動であったという評価なのだ。そして、この蜂起は近代化した日本軍の残虐な大虐殺によって鎮圧される。このときの韓国民衆の怨念が、今なお、対日感情の底流をなしている。この点については、中塚明さん(奈良女子大名誉教授)のいくつもの著書で、多少なりとも蒙を啓くことになった。
以下は、ウィキペディアからの抜粋である。
儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。また、山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。
東学には、不殺生の教えが徹底していたという。戦場でなお、彼らは殺生を避けようとした。これに対する日本軍の殺戮は、仮借のないものだった。本日は、その故地を訪ねることになる。
なお、2019年の「3・1独立運動」に、東学を再興し名称を変更した「天道教」が深く関わっていることはよく知られている。現在なお、南北の朝鮮に多数の信者を有して、一勢力をなしているという。
昨日(5月16日)は、近世日本における秀吉軍の朝鮮侵略。本日(5月17日)は、近代天皇制日本による朝鮮民衆に対する大虐殺。歴史の探訪も気が重い。
(2019年5月17日)
私は、本日(5月16日・木)から5月20日(月)まで、5日間の日程で韓国を旅している。だから、このブログの原稿は予定記事の予約アップということになる。ご了解いただきたい。
私の韓国旅行は4回目。いずれも明確なテーマをもったものだ。
最初が、日民協の企画で韓国の憲法裁判所訪問だった。韓国の司法制度見学というよりは、日本軍「慰安婦」問題での憲法裁判所の判決に関心をもってのこと。これが、衝撃的だった。「日本は韓国に後れを取っている」という印象を強くもった。2度目はチェジュ島の「4・3事件」関連、3度目はソウルを中心に「3・1独立運動」。そして、今回は「5・18光州事件」である。併せて、東学農民戦争の故地を訪ねてこれについても学ぶ旅でもある。
この旅は、ユーラスツアーズが企画した。「東学農民戦争の跡地・光州事件ゆかりの地をめぐる ― 韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」と銘打っての企画。その「魅力とポイント」がこう語られている。
1 光州事件5/18に現地を訪問。映画「タクシー運転手」や光州事件ゆかりの地に
2 現地の専門家、金龍哲先生による「光州事件と韓国の民主主義への影響」についてレクチャー
3 李舜臣将軍の奮闘を偲び、「亀甲船」を見学
4 大規模な反乱のあった羅州で東学農民戦争のゆかりの地をめぐる
5 順天で有名な干潟「順天湾自然生態公園」の見学や釜山で朝鮮通信使の博物館の見学も
訪問先に、ソウル周辺はない。麗水・木浦・羅州・光州・順天・釜山などを訪問する。泊地は木浦・光州(2泊)・釜山である。飽くまで、「5月18日・光州」がメインテーマ。
さて、本日は、釜山空港からバスで長駆麗水まで移動して、その後木浦泊となる。
麗水には、「李舜臣広場」があって、李舜臣が豊臣侵略軍と闘った亀甲船の実物大復元船が展示されているという。これが本日の目玉だ。
第五福竜丸の船体を眼前にしながら、その被爆の実情に思いをめぐらせるごとく、復元船ではあっても、彼の地で亀甲船を目の前にしての説明には、趣き深いものがあるだろう。
日本は何度も朝鮮を侵略した歴史をもつ。「神功皇后の三韓征伐説話」「白村江の戦い」「豊臣政権の侵略」「江華島事件を契機とする近代天皇制政府の植民地政策」。侵略者の走狗となった人物はこれ以上はない侮蔑の対象となり、侵略者と果敢に闘った人物は、民族の英雄となる。
秀吉の侵略軍に対して、水軍を率いて戦い勝利した李舜臣は、憎むべき野蛮な敵国の毒牙から危機に瀕した国を救った「救国の英雄」である。韓国のあちこちで、その像を見ることができる。これに比すべき人物を、日本の歴史で探そうとしてもない。同様のシチュエーションが日本には乏しいからだ。侵略する側のヒーロー像はイメージしにくい。
本日は、侵略される側からの民族の記憶を、その悲劇や説話や知恵や勇気や団結のエピソードの数々に耳を傾けることにしよう。
(2019年5月16日)
巻を措く能わずという形容のとおり、読み始めたらやめることができず、一気に読み通した。もう4年前に出た本。その前には、岩波の『図書』に連載されていたものというから、もっと早くに読めたのにようやく今ごろ…。もっと早く、読んでおくべきだった。
一人の誠実な活動家の生き方の記録としてだけでも読むに値するが、歴史の証言としての内容は、幾重にも衝撃的である。とりわけ、「4・3事件」を生き延びた当事者としての生々しい描写に息を呑む。若い彼は、犠牲者総数3万人を超えるとも言われている事件の全体像を語る立場にはないが、弾圧された側の運動を支えた精神を最も鮮明に語りうる活動家の一人ではあった。
結局蜂起は失敗に終わり、無惨な報復的虐殺の嵐が荒れ狂うことになる。なぜ、チェジュ島でこれほどの暴虐が恣にされたのか。十分には理解しえないもどかしさは残るが、どうしても若い彼の行動と気持に感情移入して、はらはら、ドキドキせざるを得ない。敗北の苦い経験だが、傍観者の事後的評価は慎むべきだろう。「4・3蜂起」といわれる彼らの決起行動を「未熟な冒険主義」などと、傲慢に非難する気持にはなれない。
「賽は投げられる寸前でした。座して死を待つか。立って戦うか。祖国分断への単独選挙が目前に迫るなかで、ぎりぎりの選択が党員(「南労党」)全員にかかってきました。」という、回想が胸に迫る。
彼は、「4・3事件」に決起していったん逮捕され釈放の後、再度の任務を遂行して今度こそ進退窮まる。このときに、普段は飄々としている父親が奔走して、日本への密航船を手配する。父親は別れの時に、こう言ったという。
「これは最後の、最後の頼みでもある。たとえ死んでも、ワシの目の届くところだけでは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」
こうして、彼は、母がつくった炒り豆の弁当と、日本の50銭紙幣の束と、イザというときのための青酸カリをしのばせて、粗末な密航船に乗り込んだ。上陸は瀬戸内の舞子の浜あたりだったという。こうして、その後の人生を在日として生きることになった。
彼は、日本統治下の済州島で、皇民化政策の申し子として育つ。心底からの、天皇崇拝の皇国少年だったと回想している。1945年の「解放」時は、数えで17才。努力して朝鮮人としての自覚を獲得する。ハングルも解放後に学んだという。
彼は、日本へ脱出の後も、アメリカとその傀儡である李承晩政権が圧政を敷く南朝鮮に深く失望し、北に強い憧憬の念を抱く。しかし、次第に北朝鮮の実情を知るに至ってこちらにも失望する。そして、終章の最後をこう締めくくっている。
「新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました。30年にわたって民衆が闘い続けた民主化要求が実って、民主主義政治が実現した大韓民国の国民のひとりにこの私がなれたことを、心から手を合わせて感謝しています」
2003年のこのとき著者は74才になっている。なお、これに「あとがき」が続き、次のような胸に刺さる一節がある。
「この連載を機に、…今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名をなし、その下で成長を遂げた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」
金時鐘氏、1929年の生まれ。在日の詩人。今年90才になる。まぎれもなく、貴重な歴史の生き証人である。
(2019年5月13日)