澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

後味の悪いヘンな起訴と裁判干渉ー産経ソウル支局長無罪事件

枕詞というものがある。あおによし奈良、ちはやぶる神代、ぬばたまの闇、たらちねの母という、あの手の言葉。ギリシャ神話にも、すね当てよろしきアカイア人、全知全能のゼウスなど、いくつも出て来る。私もいくつか「マイ枕詞」を持っている。都教委の10・23通達には、必ず「悪名高い」と冠する。そして産経新聞には「私の大嫌いな」だ。この枕詞が外れることは、しばらくはあるまい。

その私の大嫌いな産経の元ソウル支局長が、韓国大統領の名誉を毀損したとの嫌疑で起訴された刑事被告事件において、昨日(12月17日)ソウル中央地裁が無罪判決を言い渡した。私の大嫌いな産経支局長の事件ではあっても、言論の自由保障の見地から無罪判決は大いに歓迎したい。もともとが無理でおかしな起訴であったのだから。

法制が微妙に違うのでなかなか理解しにくいが、被告罪名は情報通信網法違反であるという。ネットにおける名誉や信用を毀損する言論を取り締まる法なのであろう。この法のなかに、「名誉毀損」に関する罰条があって、元支局長は朴槿恵大統領の名誉を傷つけたとして起訴された。逮捕こそされなかったが、しばらくは日本への帰国は許されず、求刑は懲役1年6月だった。

判決では、産経ネット記事の内容は真実ではないと断定され、真実ではないことについての認識も存在したとされたようだ。争点はもっぱら大統領を中傷する意図の有無に集中し、中傷の意図なしとしての無罪判決と報じられている。

その判決内容はともかく、驚いたことは、判決言い渡しの冒頭に裁判長の信じがたい発言があったこと。韓国外務省から裁判所に、この事件についての「善処」を求める要請があったことが明らかにされた。その「善処」とは、「日本からの要望を考慮すべきこと」だというのだ。

朝日の社説では「異例の措置」と評して「韓国政府が日韓関係や国際批判などを考えて自ら決着を図ろうとしたとも受け取れる」と述べているが、異例といわんよりは異様なことというしかない。

裁判所に外務省からの圧力があった。しかも、その圧力は日本の要望に基づくものだというのだ。司法の独立という理念に照らして、大問題ではないか。このような圧力があったことを判決言い渡しの冒頭に述べた裁判官の感覚が理解できない。

いくつかの著名な先例が思い浮かぶ。
まずは、大津事件だ。明治の中ころ、訪日中のロシア皇太子を日本の警察官が切りつけて怪我を負わせた。旧刑法時代のことだが殺人罪の案件。しかし、大国ロシアにおそれをなした政府は、司法部に「大逆罪」の適用を促した。天皇や皇太子の殺害は既遂でも未遂でも死刑しかなかった。要するに、ロシアへの言い訳に犯人を死刑にせよと圧力をかけたのだ。時の大審院長児島惟謙は、敢然と政府の干渉を拒絶して、謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して被告人に無期徒刑(無期懲役)を言い渡した。死刑ではなかったのだ。以来、児島はロシアへのおもねりや政府の干渉から「司法の独立」を守ったヒーローと持ち上げられている。

児島惟謙と対照的に、外国の干渉をすんなり受容したアンチヒーローが、砂川事件における最高裁長官田中耕太郎。

安保条約に基づく刑事特別法を違憲無効として無罪判決を言い渡した東京地裁の伊達判決に、アメリカは素早く対応した。判決言い渡し翌日の閣議の前に、駐日米国大使マッカーサー(ダグラス・マッカーサーの甥)は藤山外相に会って、「この判決について日本政府が迅速に跳躍上告(控訴審抜きで直接最高裁に上告する例外的な手続)を行うよう」示唆し、同外相はその場で承諾している。さらに、同大使は自ら跳躍上告審を担当した田中最高裁長官とも会って、「本件を優先的に取り扱うことや結論までには数ヶ月かかる」という見通しについての報告を得ている。1959年12月の砂川事件大法廷審理は、マ大使が本国への報告書に記載したとおりの筋書きとして展開し、全裁判官一致の判決となって伊達判決を覆した。

しかし、さすがに田中耕太郎がアメリカからの圧力を公表することはなかった。以上の事実が明るみに出たのは、伊達判決から49年後の2008年4月、ジャーナリスト新原昭治が米国立公文書館で、駐日米国大使マッカーサーから米国務省宛報告電報など伊達判決に関係する極秘公文書を発見したことによる。

ところが、ソウル中央地裁の裁判長は、すんなりと外務省の干渉を受け入れながら、そのことを隠そうともしない。児島惟謙とも違うが、田中耕太郎とも同じではないのだ。

私は、軍事政権を倒して民主化をなし遂げた韓国の人々に敬意を惜しまない。韓国社会には好もしい隣人と親近感を持っている。しかし、今度の一連の動きには、違和感を禁じ得ない。

まずは大統領府の動きがヘンだし、産経記事を告発した「市民団体」もヘンだ。最もヘンなのが言論の自由を圧迫する起訴をした検察庁。そして判決ぎりぎりになって裁判所に干渉した外務省も、この干渉を当然の如く公表してこの干渉を受け入れた裁判所もまことにヘンだ。

私が、大嫌いな産経を応援しなければならないことが、ヘンの極みではないか。これ以上にヘンなサイクルが進展せぬよう願いたい。ヘンな事件よ、これで終われ。

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   DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となりました。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属しています。

その第1回口頭弁論期日は、
 クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
 法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越しください。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行います。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
 午後3時から
 東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちましょう。
 表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加ください。歓迎いたします。
(2015年12月18日・連続第992回)

あなたが健康でありたいと願うなら、「健康食品」はおやめなさいー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第57弾

この私が被告とされ、6000万円の慰謝料請求を受けている「DHCスラップ訴訟」。その控訴審第1回弁論期日12月24日が近づいてきた。

何ゆえ私は被告にされ、6000万円の請求を受けているか。発端は、下記の3ブログである。これが違法な名誉毀損の言論だとされたのだ。何度でも掲載して、ぜひとも、多くの人に繰りかえしお読みいただきたい。はたして、私の言論が違法とされ、この社会では許されないものであると言えるのか。それとも民主主義政治過程に必要な強者を批判する言論として庇護を受けるべきものか、トクとお読みの上、ご判断いただきたい。

  https://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
  「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判 

  https://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
  「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

  https://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
  政治資金の動きはガラス張りでなければならない

以上の私のブログの記事は、政治がカネで動かされてはならないという問題提起であるだけでなく、消費者問題の視点で貫ぬかれてもいる。

例えば、次のようにである。
「(『徳洲会・猪瀬』事件と、『DHC・渡辺』問題とを比較し)徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」
「DHCの吉田は、その手記で『私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した』旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。」(3月31日ブログ)

「たまたま、今日の朝日に『サプリメント大国アメリカの現状』『3兆円市場 効能に審査なし』の調査記事が掲載されている。『DHC・渡辺』事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買いとりたいからなのだと合点が行く。」
「サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、『官僚と闘う』の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。」
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。これが、おそらくは氷山の一角なのだ。」(4月2日)

「DHCの吉田嘉明は…、化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、『官僚と闘う』『官僚機構の打破』にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。」
「自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。」(4月8日)

私は、40年余の弁護士としての職業生活を通じて、一貫して消費者問題に取り組んできた。消費者問題を資本主義経済が持つ固有の矛盾の一つとして把握し、資本の利潤追求の犠牲となる市民生活の不利益を防止し、救済したいと願ってのことである。

もっとも、「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」「スポンサー(DHC)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」などという表現については、ごく少数ながらも「少し言い過ぎではないか」「ややきつい断定ではないのか」という向きもあるようだ。しかし、これは消費者問題に関心を持つ者の間では、誇張でも言い過ぎでもない。まさしく、常識的な見解なのだ。

「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在」「広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい」は、もちろん、必ずしもDHCだけについてだけのことではない。数え切れないほどの「健康食品販売会社」「サプリメント販売業者」あるいはその業界に通有のことである。

健康食品業界の実態が「利潤追求目的だけの存在」「広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けている」ことを裏付ける政府報告を紹介しておきたい。先日、このブログで「フードファディズム」とサプリメント広告規制を論じた。フードファディズムとは、「特定の食品が特に健康によいと言うことはありえない」という穏やかな主張。本日ご紹介する報告は、「健康食品に安全性は保障されていない」「むしろ、危険なエビデンスがいっぱい」というものなのだ。さすがに、政府機関の報告だから、「健康食品おやめなさい」と結論をはっきりとは言わない。「健康食品摂取の際には、正確な情報に基づいてご自分の判断で」というにとどまっている。しかし、どう考えても、「あなたが健康を願うのなら、健康食品の摂取はおやめなさい」としか読めない。

当ブログは、本日を第1回として今後何度も執拗に、この政府報告と関連情報を紹介し続ける。DHCにダメージを与える目的というのではなく、消費者の利益のために健康食品業界全体と闘いたいということなのだ。

食品安全基本法にもとづく内閣府の審議会として、2003年7月内閣府に「食品安全委員会」が設置されている。「国民の健康の保護が最も重要であるという基本的認識の下、規制や指導等のリスク管理を行う関係行政機関から独立して、科学的知見に基づき客観的かつ中立公正にリスク評価を行う機関」とされている。

食品安全委員会は7名の委員から構成され、その下に12の専門調査会が設置され、職員60人のほかに、食品のリスク評価を行う専門家100人を擁しているという。

その食品安全委員会の「いわゆる『健康食品』の検討に関するワーキンググループ」が、このほど「『健康食品』の検討に関する報告書」をまとめて公表した。一昨日(12月8日)のことである。

このことの報道に気が付いた人は少ないのではないか。ネットでは毎日新聞が、12月9日朝刊の記事として下記を掲出している。
見出し「健康食品 リスクを公開 食品安全委員会」
本文「健康食品の摂取リスクなどを検討してきた食品安全委員会(佐藤洋委員長)は8日、「いわゆる『健康食品』に関する報告書」を公表した。これに合わせ「健康食品で逆に健康を害することもある。科学的な考え方を持って、食品を取るかどうか判断してほしい」とする異例の委員長談話を発表し、注意喚起した。同委員会の専門家グループでは、食品のリスク要因を主に▽製品▽摂取者▽情報−−の3点から分析した。その上で「健康食品は医薬品並みの品質管理がなされていない」「ビタミンやミネラルのサプリメントによる過剰摂取のリスクに注意」など、健康食品を選ぶ時に注意すべき項目を19のメッセージにまとめ、ホームページで公開している。」

この報道内容に誤りはない。しかし、いかにも通り一遍の報道。この報告書の重大性や衝撃性は伝わってこない。健康食品やサプリメントを摂取している人への警告という視点がない。広告料収入に頼り切っているメディアの弱みが露呈しているのではないかと勘ぐられてもやむを得まい。もっと大々的に、全メディアが報道すべきなのだ。

この報告書を作成したワーキンググループの13人は、すべて医師ないし自然科学の研究者。報告書は42頁の大部なもの。117の引用論文が掲載されている。内容は、きわめて意欲的なものだ。健康食品やサプリメントが、アベノミクスの「第3の矢」の目玉などという思惑に対する遠慮は微塵も感じられない。この内容が国民に正確に伝われば、健康食品会社もサプリメント業界も生き残れるとは到底考えられない。業界は顔面蒼白になってしかるべきなのだ。それだけの衝撃性を持っている。

この報告書の要約版として「いわゆる『健康食品』に関するメッセージ」が同時に公表され、具体的な「19のメッセージ」が掲載されている。参考とするには、これが手頃だ。さらに食品安全委員会は分かり易い21問の「Q&A」まで作っている。その意気込みがすばらしいと思う。

ぜひとも、下記のURLをクリックして、「報告書」「メッセージ」「Q&A」をご覧いただきたい。これを読めば、健康食品やサプリメントを買おうという意欲はなくなるはずだ。「これまで払った金を返せ」とも言いたくなるだろう。
  https://www.fsc.go.jp/osirase/kenkosyokuhin.html

「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」「スポンサー(DHC)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」などという表現が、けっして「少しも言い過ぎではなく」、「きつい断定というのも当たらない」ことを理解していただけよう。私の見解は、「消費者問題に関心を持つ者」だけの意見ではなく、政府の審議会報告に照らしても、「誇張でも言い過ぎでもない」、まさしく常識的な見解なのである。この報告書の具体的内容については、後日詳細に報告したい。

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   12月24日(木)控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。

その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、午後3時から東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月10日・連続第984回)

「岸井成格」に声援を送る。TBSは不当な圧力に屈するな。

「札付き」という言葉がある。「折り紙付き」の「折り紙」とはちがう、よからぬ「札」が付いている連中のこと。その札付き連中が、TBSの看板番組『NEWS 23』でアンカーを務めている岸井成格を攻撃している。これは看過できない。この攻撃を成功させてはならない。

私は本日の赤旗「潮流」で初めて知った。11月14日産経と翌15日読売に、「私達は、違法な報道を見逃しません」と題した異様な全面意見広告が掲載されている。岸井成格を攻撃して、その報道姿勢を変えようというのだ。その攻撃の理由が、「番組で岸井氏が『メディアは安保法案の廃案に向けて声を上げ続けるべきだ』と発言したのは、放送法4条『政治的公平』に違反すると言うのです」。この真っ当な発言が攻撃対象とされているとは穏やかでない。戦戦争法廃止運動をつぶそうという動きの一環だ。舞台は国会の場から、平和と戦争をテーマとしたメディアの自由をめぐる論争に移された。

この異様な広告の「広告主は“視聴者の会”なる団体。呼びかけ人として7人が名を連ねています。いずれも安倍首相の応援団を自負する面々です。あの手この手でメディア支配をねらう政権。今回の広告は視聴者を装い個別番組と一放送人を標的にしています。異常です」

この7人とは、以下のとおり。
 すぎやまこういち/代表(作曲家)
 渡部昇一(上智大学名誉教授)
 渡辺利夫(拓殖大学総長)
 鍵山秀三郎(株式会社イエローハット創業者)
 ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士・タレント)
 上念司(経済評論家)
 小川榮太郎(文芸評論家)

この7人に付いているのは、「極右」という札だけではなく、「安倍応援団」という札だ。代表となっている、すぎやまこういち(作曲家)とは、安倍晋三の政治団体である晋和会に毎年150万円の法が許容する最高額を寄附し続けている人物。安倍晋三に、「我々日本人が直面している難局を乗り切るリーダーは安倍晋三氏しか考えられません。私達の子孫にこの素晴らしい日本国をしっかりと残して行く責任は重大です。音楽家のひとりとしても、氏の“美しい国を目指す”という宣言にも感動しております」とエールを送ってもいる。

この「安倍応援団」の札付きが、あからさまに「メデイアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という岸井の発言を攻撃のターゲットに定めている。ここが問題の核心だ。

政権と与党には目の上のコブの反戦争法(案)運動の盛り上がり。できることなら、これを弾圧し制圧したいところだが、民衆の反作用も恐ろしい。官邸や自民党が前面には出にくいところ。そこで、官邸主導で使いっ走りを集めたか、パシリの方からその役目を買って出たか、あるいはアウンの呼吸でのことであったか、その辺は定かでない。定かではないものの、官邸の言いたいこと、やりたいことを、この札付き連中が代わってやっているのだ。権力に奉仕の重宝なパシリたち。

いま、TBSという有力な電波メディアの表現の自由が攻撃を受けている。攻撃の尖兵になっているのは社会的勢力としての右翼だが、その背後には明らかにアベ政権の存在がある。さらに重大なことは、攻撃の対象とされているものが、けっしてTBS一社ではなく、我が国の表現の自由そのものであることだ。平和・戦争・安全保障・立憲主義等々のシビアなテーマにおいて、時の政権に批判の立場の言論は許さない、というシグナルが送られているのだ。事態は深刻である。

表現の自由とは、何よりも権力に対峙するものとしてその存在が保障されなければならない。権力を賛美し同調し、あるいは迎合する表現や言論に権力による制約はあり得ない。だからその自由や権利性を論じる意味はない。意味があるのは権力を批判し、権力を攻撃することによって、権力から憎まれる表現についての自由や権利だけである。

すぎやまこういち以下「権力の手先7人衆」が求めているものは、偏向のレッテルを貼り付けることでの、政権批判の自重・自制・自粛にほかならない。この攻撃に屈して、TBSに萎縮があってはならない。そのようなことがないように、全メディアが、いま、こぞって岸井成格とTBSを擁護し支援しなければならない。むしろ、局・各メディアが、より政権批判を強めることで、「権力の手先7人衆」とその背後の政権の意図を挫かなければならない。

読売と産経も同様だ。広告料収入に頬を緩めて傍観していたのでは、明日は我が身のこととなりかねないのだから。
(2015年11月29日・連続第973回)

控訴審・クリスマスイブ口頭弁論後に東京弁護士会で報告集会ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第54弾

当ブログでの記述が名誉毀損とされ、私を被告として6000万円の損害賠償請求がなされている。これが、「DHCスラップ訴訟」。

本年9月2日、その一審判決の言い渡しがあって、請求は全部棄却された。被告の私が勝訴し、原告のDHC吉田は完敗となった。DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))に控訴事件が係属している。控訴審の事件番号は平成27年(ネ)第5147号。

その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日午後2時に指定された。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。地裁庁舎と同じ建物の上階8階に法廷がある。なんの手続も不要で傍聴が可能だ。ぜひ傍聴にお越し願いたい。表現の自由をめぐる闘いの現場で訴訟の推移を見守っていただきたい。表現の自由を守ろうとする被控訴人側の弁護団に心の内での声援をお願いしたいし、DHC・吉田側で代理人として出廷する弁護士の顔などをよく見てやってもいただきたい。

恒例になっている閉廷後の報告集会は、次のとおり。
  午後3時から、東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・B
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。

被控訴人弁護団の会議では、この口頭弁論期日で結審を求める方針。一回結審で来春に判決期日を迎えるということになるだろう。たった一回の口頭弁論期日である。この貴重な機会に、光前弁護団長と被控訴人本人の私の二人が法廷意見陳述ができるよう裁判所に要請している。支援の傍聴が満席であれば、心強いことこの上ない。

「DHCスラップ訴訟」とは、DHC(会長吉田嘉明)によるスラップ訴訟である。DHCは、サプリメント・化粧品販売の大手企業。その企業とそのオーナー会長である吉田嘉明の両者が、私の言論を封じようとして訴訟を提起している。提訴の狙いは、単に私の言論を封じることだけにあるのではない。むしろ、私を被告に訴訟の脅しをかけることで、社会全体に「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と恫喝して萎縮の効果を狙っているのだ。このような提訴をスラップ訴訟という。はからずも私は、典型的なスラップ訴訟の被告とされた。

スラップというこの言葉が、少しずつ社会に認知され浸透されてきた。このような形での訴権の行使は、形式的には裁判を利用する国民の権利の行使だが、実質において法が想定している権利擁護のための提訴ではなく、濫用として違法なものではないのか。金持ちが、カネに飽かせて汚いことをやる、というイメージも次第に形成されつつある。

「スラップ」という言葉の存在が有益だ。DHCがやっているこの訴訟を「スラップ」と呼称することによって、その表現の自由に対する挑戦としての性格と狙いを的確に伝えることができる。そして、スラップと言えばDHCであり、DHCといえばスラップなのだ。何ゆえ企業イメージをかくも貶める愚策を採ったのか理解に苦しむところだが、企業体質が冷静に衆知を集めるという作用機序の働く余地がないのだろうと考えざるをえない。

「スラップ訴訟」とは、「自分に不都合な言論を妨害し萎縮させることを狙った訴訟」と定義して差し支えない。ここで「妨害の対象となる言論」は、一般人の政治的・社会的強者に対する言論が想定されている。政権批判、政治家批判、政策批判、大企業批判、有産者批判、社会的影響力を行使しうる立場にある者への批判、そして政治と金にまつわる厳格な批判である。

無色の抽象的な言論一般は現実には存在しない。現実に存在する言論は、具体的な対象と内容とをもっている。表現の自由として保障(憲法21条)を受けるべきは言論一般ではなく、この世の政治的社会的強者を批判する具体的言論である。スラップ訴訟が嫌悪し封殺の対象とする言論は、このような政治的社会的強者に対する批判の言論にほかならない。したがって、スラップ訴訟の主体は、必然的に政治的権力か、社会的権力そのものである。

当然のことながら、表現の自由は無制限ではあり得ない。その表現が社会的な影響力を持つ以上は、誰かの名誉や信用、名誉感情を必ず侵害する。誰の権利も侵害しない表現について権利性を論じる実益はなく、表現の自由とは侵害される他者の権利を想定したうえでの、表現者の権利の原則的優越を宣言したものである。それでもなお、表現による被侵害権利を無視してよいことにはならない。

問題は、批判の言論の自由と、その言論によって侵害される批判対象の人格的利益との、二つの法的価値の調整である。言論の自由に原則的優越が認められるとしても、それは当該言論の社会的有益性を前提とする。もっぱら他人の人格的利益を侵害するだけの言論に、自由も権利も論じる必要はない。

この調整原理は、シチュエーションによって変わってくる。言論のテーマと、言論が批判の対象とする人の属性が、基本的なファクターと言うべきであろう。当該言論の影響力を加味してもよいかも知れない。

市井のできごとをテーマに、一般人を批判する言論には、相手を傷つけないような相応の配慮が必要である。そのような言論を格別に権利として保障をすべき必要は乏しい。さらに、匿名の「ネトウヨ言論」やヘイトスピーチのごとき弱者に対する差別的言論からは、原則的に権利性を剥ぎ取ってしかるべきである。

しかし、政治的テーマや社会的なテーマに関して、政治権力や社会的権力を持つ者に対する批判の言論は、最大限に保障されなければならない。それこそが、憲法21条「表現の自由」の真骨頂である。そして、この真骨頂としての表現の自由に、真っ向から挑戦するものが、スラップ訴訟なのである。

いま、スラップに対応策が考えられ始めているが、緊急に制度的な対応策の策定はなかなかに難しい。最も現実的な対応策は、スラップに対する社会的非難の世論形成である。スラップ提起を汚いことという社会的な批判を定着させることにより、スラップ訴訟提起者のイメージに傷がつき、到底こんなことはできないという社会の空気を形成することである。

その場合、まずはスラップの被害を受けた当事者が大きな声を上げることが重要である。いま、私はそのような立場にある。社会的な責務として、DHC吉田の不当を徹底して批判しなければならない。その不当と、被害者の心情を社会に訴えなければならない。

そのような責務に照らして、私のブログはどうか。私の批判はまだ足りない、生温い。質的にも量的にも、もっと批判を徹底し、もっと多くの人々にDHCと吉田嘉明の不当・違法を知ってもらい、天下に周知させなければならない。世の中の隅々にまで、「DHCといえば、あのスラップ訴訟の常習者」という常識を広げたい。連想ゲームで、「DHC」といえば、条件反射的にまずは「スラップ」と言わしめなければならない。続いて、「巨額政治資金提供」「裏金」「スラップ」「言論封殺」「厚生行政規制も消費者行政規制大嫌い」「社会的規制の緩和」「敗訴に次ぐ敗訴」などと誰もが口を突いて負のイメージの言葉を発するまでにさせたい。「スラップ訴訟とは天に唾するもの、結局は自らに報いを招くもの」と身に沁みさせて、今後の戒めになるようにである。

だから私は、経過を詳細に当ブログで報告して、多くの人に知ってもらい、言論弾圧の一手段たるスラップ訴訟に対する闘いの一典型を示そうとしている。何よりも、DHC吉田のごときスラップ提訴の常習者に対しても批判の言論の萎縮があってはならないことを示さなければならない。そして、社会悪としてのスラップ訴訟をどうしたらなくすることができるのか、スラップ訴訟提起者や加担者の責任と制裁はどうあるべきか考えていただくよう、問題提起し材料を提供しなければならない。

当ブログに掲載すべきテーマは種々あるが、何よりも「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズの充実が第一である。
(2015年11月25日・連続第969回)

「帝国の慰安婦」著者の起訴に韓国社会の非寛容を惜しむ

本日の夕刊を見て驚いた。「韓国のソウル東部地検は18日、慰安婦問題を扱った学術書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』の著者、世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授を名誉毀損罪で在宅起訴した。」(毎日)という。
 同教授は同書で「日本軍従軍慰安婦」を、「売春婦」「日本軍と同志的関係にあった」などと記述したことから、元慰安婦から刑事告訴されていた。起訴は、この告訴を受けてのもののようだ。

毎日の記事によると、「検察は、河野官房長官談話や、2007年に米下院が日本に慰安婦問題で謝罪を求めた決議などを基に『元慰安婦は性奴隷に他ならない被害者であることが認められている』と指摘。著書の内容は『虚偽』と判断した。」という。これでは、表現の自由の幅は極端に狭くなる。

共同通信の配信記事では、「地検は『虚偽事実で被害者らの人格権と名誉権を侵害し、学問の自由を逸脱している』と指摘した。」「同書は韓国で、日本を擁護する主張だとして激しい非難を浴び、元慰安婦の女性ら約10人が14年6月に朴氏を告訴。ソウル東部地裁は今年2月、女性らが同書の出版や広告を禁じるよう求めた仮処分申し立ての一部を認める決定を出し、出版社は問題とされた部分の文字を伏せ、出版した。」という。表現の自由は、既にここまで制約されているのだ。

私は、民主化運動後の韓国を好もしい隣国であり国民と感じてきた。2年前の5月に訪問したソウルは、穏やかで落ちついたたたずまいの美しい街という印象だった。

憲法裁判所の見学や民主的な弁護士らのと交流で垣間見た、この国の民主化の進み方に目を瞠った。そして、これからは韓国社会に学ぶべきところが大きい。掛け値なしにそう思った。

ところが、その後いくつかの違和感あるニュースに接することになる。その筆頭は、産経新聞ソウル支局長の起訴である。同支局長のコラムが、「大統領を誹謗する目的で書かれた」として、名誉毀損罪で起訴され懲役1年6月の求刑を受けている。判決期日は11月26日、大いに注目せざるを得ない。韓国の司法は、大統領府からどれほど独立し得ているのだろうか。

私は、産経は大嫌いだ。ジャーナリズムとして認めない。常々、そう広言してきた。産経にコメントを求められたことが何度かある。そのたびに、「自分の名が産経紙上に載ると考えただけで、身の毛がよだつ」と断ってきた。その私が、産経支局長の起訴には納得し得ない。元来、権力や権威や社会的影響力の大きさに比例して、あるいはその2乗に比例して、批判の言論に対する受忍の程度も高くなるのだ。大統領ともなれば、批判されることが商売といってもよい。中には、愚劣な批判もあるだろうが、権力的な押さえ込みはいけない。

これに続いての朴裕河起訴である。寛容さを欠いた社会の息苦しさを感じざるを得ない。朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版にはざっと目を通して、読後感は不愉快なものだった。不愉快ではあったが、このような書物を取り締まるべきだとか、著者を処罰せよとはまったく思わなかった。よもや起訴に至るとは。学ぶべきものが多くあるとの印象が深かった韓国社会の非寛容の一面を見せられて残念でならない。

もちろん、私は日本軍による戦時性暴力は徹底して糾弾されなければならないと思っている。被害者に寄り添う姿勢なく、どこの国にもあったこととことさらに一般化して旧日本軍の責任を稀薄化することにも強く反対する。しかし、それでも見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない。当然のことながら、私が反対する内容の言論にも、表現の自由を認めねばならない。

産経ソウル支局長も朴裕河も、情熱溢れる弁護活動と、人権感覚十分な裁判官によって無罪となって欲しいと思う。念のため、もう一度繰り返す。私は産経は大嫌いだ。朴裕河も好きではない。「大嫌い」「好きではない」と広言する自由を奪われたくない。そのためには、嫌いな人の嫌いな内容の言論にも、表現の自由という重要な普遍的価値を認め、これを保障せざるを得ないのだ。
(2015年11月19日・連続第963回)

「偏向攻撃」という名の怪獣が徘徊したあとに待っている茶色の朝

恐るべし。日本中を「偏向攻撃」という名の怪獣が徘徊している。虎視眈々とあらゆる言論を視野に狙いを定め、猛然と襲いかかっては噛みついて餌食とする。この怪獣は常に、右から左へ一方向だけに突進するのだ。

真に恐るべきは、この怪獣の毒液がもたらす萎縮効果である。噛みつかれるかもしれないと怯える惰弱な精神が、攻撃されてもいないのに過剰に反応して政権批判を自粛する。このような言論の自己規制が怪獣をのさばらせ太らせることになる。

この怪獣を直接に操っているのは知性なき付和雷同の輩であるが、これを生み、育て、陰の司令塔となっているのは、明らかに現政権とその一味である。この怪獣は、政権の後ろ盾でぬくぬくと育って、政権の意向を忖度しつつ成長し、政権の望むように攻撃目標を設定している。

かつてこの怪獣は漫画「はだしのゲン」を攻撃し、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句にまで噛みついた。また、放送大学も立教大学も、噛みつかれる以前に萎縮し自主規制して、闘わずしてこの怪獣の餌食となった。

そして本日(11月14日)の毎日新聞に、「ジュンク堂:民主主義フェア、選書を入れ替え再開」の記事。同書店が9月下旬からはじめた「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアが「偏向」の攻撃で10月下旬に中断され、企画の書棚撤去が話題となっていた。このフェアが、形を変えて再開されたというニュース、なのだが…。

「大手書店『MARUZEN&ジュンク堂書店』渋谷店は13日、先月から中断していたフェア『自由と民主主義のための必読書50』を『今、民主主義について考える49冊』に改めて再開した。店員の書き込みをきっかけに、インターネット上で『偏向している』と批判されたのを受けた措置。中断前から約3分の2の本を入れ替え、『誤解される余地のないようにした』と説明している。

フェアは安全保障関連法成立後の9月下旬に始まり、10月末まで実施する予定だった。しかし、10月中旬に店員がツイッターで『ジュンク堂渋谷店非公式』と題して『年明けからは選挙キャンペーンをやります!夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!』『一緒に闘ってください』と書き込んだところ、ネット上に『書店が特定の思想・信条を支持するのはどうなのか』といった投稿を含め、反対、賛成両論があふれた。渋谷店は10月21日に棚を撤去し、書店のホームページで『本来のフェアタイトルの趣旨にそぐわない選書内容だった』とコメントしていた。

再開したフェアは、安保法反対の活動をした学生団体SEALDsと高橋源一郎さんの共著や、五野井郁夫・高千穂大准教授の本を引き続き選んだが、小熊英二・慶応大教授、中野晃一・上智大教授、映画監督の想田和弘さんらの本を外した。

一方、長谷川三千子・埼玉大名誉教授、佐伯啓思・京都大名誉教授ら保守派の論客や、ジャーナリストの池上彰さんの本を加えた。SEALDsの本は最下段に陳列した。

入れ替えについて広報担当者は『個別の本が良いとか悪いとかではなく、フェアタイトルに合っているかを考えた』と話した。フェアは来月12日まで。今回フェアから外した本も多くは店内で陳列している。」

恐るべき「偏向攻撃」の毒牙は、私企業に過ぎない書店のブックフェアにまで及んでいるのだ。「自由と民主主義のための必読書50」を「今、民主主義について考える49冊」に変えた。「3分の2の本を入れ替え」、「誤解される余地のないようにした」というのだ。小熊英二・中野晃一・想田和弘を消した。そして、「民主主義を考える」コーナーに、なんとも不似合いな長谷川三千子・佐伯啓思を並べたのだ。ついでに、安全パイとして池上彰を右翼の長谷川・佐伯と同列の光栄に浴せしめた。さらに、「SEALDsの本は最下段に」なのだ。

結局のところは、現体制や現政権に不都合な言論は除かれ、政権のお友だち言論に差し替えられただけなのだ。「自由と民主主義のため」が、偏向していると攻撃を受ける時代であることを深刻に受け止めざるを得ない。この「偏向攻撃」という名の怪獣をのさばらせておいては、あたり一面死屍累々たる政権批判言論の墓場となりかねない。そして、この恐るべき怪獣が、政権批判の言論を食い散らかしたそのあとには、茶色の朝がまっているのだ。
(2015年11月14日・連続第959回)

「DHCスラップ訴訟」控訴審の口頭弁論期日はクリスマスイブにー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第53弾

私が被告とされ、6000万円の損害賠償を請求されているのがDHCスラップ訴訟。

念のためだが、「DHC」とはテレビや新聞・雑誌で宣伝を繰りかえし顧客を通販の会員に抱え込む手法で、健康食品や化粧品を販売している大手の企業。その会長が吉田嘉明で、大儲けして大金持ちを自称する人物。「スラップ訴訟」とは、「自分に不都合な言論を妨害し萎縮させることを狙った訴訟」のこと。DHCと吉田の両者が、私の言論を妨害する訴訟を提起し、それを通して社会全体に「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と恫喝して萎縮効果を狙っているのだ。

そのDHCスラップ訴訟の一審では完敗したDHC・吉田が控訴し、その控訴審が動きはじめた。控訴審第1回口頭弁論期日がクリスマスイブの日に決まった。なんの根拠もないが、何かよいことありそうな日程。12月24日午後2時から。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。地裁庁舎と同じ建物だが、高裁だけに地裁法廷よりは上階の8階に法廷がある。なんの手続も不要なのだからぜひ傍聴にお越し願いたい。表現の自由をめぐる闘いの現場で訴訟の経過を見守っていただきたい。表現の自由を守ろうとする被控訴人側の弁護団に心の内での声援をお願いしたいし、DHC・吉田側で代理人として出廷する弁護士の顔をよく見てやってもいただきたい。

なお、控訴審の係属部は東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))、事件番号は平成27年(ネ)第5147号である。

今日から、口頭弁論期日まで1か月半。その間の控訴審の進行について、その都度逐一ご報告したい。何が論点になっていて、双方がどのような主張をしているのか。吉田嘉明自身が、どんな陳述をしているか。また、DHC・吉田が起こして負けつづけている他のスラップ訴訟についても、差し支えない範囲で公表したい。事件進行の詳細な公表は、自ずからDHC・吉田に対する批判の材料の提供となろう。貴重な資料だと思う。ぜひ、多くの人に転載し拡散していただくようお願いしたい。

当ブログでは、これまでDHCと吉田嘉明に対する辛辣な批判を55回にわたって行ってきた。そのうち3回は、吉田嘉明が「みんなの党」渡辺喜美に巨額の裏金を提供したことについての批判。残る52回は、DHCと吉田が私の言論を封殺する目的でスラップ訴訟を提起したことについての「DHCスラップ訴訟を許さない」という批判である。

読み直して、私の批判はまだ足りない、生温い、と思う。質的にも量的にも、もっと批判を徹底し、もっと多くの人々にDHCと吉田嘉明の、不当・違法を天下に知らしめたい。世の中の隅々まで、「DHCといえば、あのスラップ訴訟の常習者」という常識を広げたい。連想ゲームで、「DHC」といえば、条件反射的に「巨額政治資金提供」「裏金」「スラップ」「言論封殺」「厚生行政規制も消費者行政規制大嫌い」「社会的規制の緩和」「敗訴に次ぐ敗訴」などと誰もが口を突いて負のイメージの言葉を発するまでにさせたい。「スラップ訴訟とは天に唾するもの、結局は自らに報いを招くもの」と身に沁みさせて、今後の戒めになるようにである。

私のDHC・吉田に対する徹底批判の動機の半分は私憤である。私怨と言ってもよい。私は、喧嘩を売られた。しかも、最初は2000万円、後には6000万円の訴訟上の請求を武器にしてのことである。吉田は、その武器を振りかざして、私を「黙れ」と恫喝したのだ。私は、この汚いやり方に心底怒った。徹底的に反撃せずにはおかないと決意をした。以来、どうすれば、この怒りを最も効果的なDHC吉田に対する打撃に転化できるか、それを考え続けている。この憤りと怨みは永久に消えることはない。この私憤あればこそ私は闘うのだし、多くの人の共感を得ることもできるのだ。

もちろん、私のDHC吉田に対する批判の動機のすべてが私憤というわけではない。半分は公憤であり、理念に基づくものなのだ。私は自らの信念に従った政治的な言論によって、まったく思いがけなくもスラップ訴訟の被告となった。はからずも、憲法上の表現の自由を盾に闘わざるを得ない立場に立たされたのだ。私は、憲法21条の旗を立て、いささかでもこの旗の立つ位置を進めなければならない。

だから、経過を詳細に当ブログで報告して、多くの人に知ってもらい、言論弾圧の一手段たるスラップ訴訟に対する闘いの一典型を示そうとしているのだ。スラップの原告となったDHC・吉田には、結局はスラップの提起が己の不見識を天下に曝す結果となることを自覚してもらわねばならない。社会には、DHC吉田のごときスラップ提訴の常習者に対しても批判の言論の萎縮があってはならないことを示さなければならない。そして、社会悪としてのスラップ訴訟をどうしたらなくすることができるのか、スラップ訴訟提起者や加担者の責任と制裁はどうあるべきか考えていただくよう、問題提起し材料を提供しなければならない。

具体的には、これから当ブログで、改めてDHC・吉田が何をしたのか。それを私が、どのように批判したのか。それに対して、どのようなスラップ訴訟が提起され、原審ではどのような主張の応酬があったのか。そして、一審判決はどのような内容で、これにDHC吉田はどのような控訴理由を書き、控訴審の争点の内容はどのようなもので、双方がどのような主張をしているのか。あと一か月半。細大漏らさず、ご報告したい。ご期待を乞う次第。

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なお、前回ブログの一部を再掲する。経過をご理解いただきたい。

一連の事件の構造は単純なものだ。一方に、政治家に金を出して政治を動かそうとするスポンサー(吉田嘉明)がいて、他方に金をもらって政治活動をしようという政治家(渡辺喜美)がいる。双方の思惑が噛み合って、巨額のカネの授受がなされた。その額8億円。

もちろん、日の当たるところでの金の授受ではない。政治資金規正法上の政治資金収支報告書にも、公職選挙法上の選挙運動費用収支報告書にも記載がない。政治資金や選挙運動資金の流れを可能な限り可視化して国民の批判に曝すことが両法の理念なのだから、もともとは表に出なかったこの8億円は「裏金」といって不都合はない。

この裏金、政治資金あるいは選挙運動資金であることに疑いはない。政治への影響力を意図して、吉田から渡辺に渡されたこの巨額の裏金はいったい何を狙ってのものか。どのような政治を求めてのものであろうか。

DHC・吉田は、企業経営者として労働行政や公正取引ルールなどの一般的行政規制に服するだけでなく、薬事行政や健康食品行政上の規制、消費者行政上の厳格な規制を受ける立場にある。いずれも、主として消費者の健康を守るための、典型的な社会的規制である。まさかDHC吉田が、消費者の健康や労働者の利益のために、規制を強化し厳格化するための政治を求めてカネを出すことなどおよそ考えられない。「行政規制の緩和」のために「官僚と闘う」政治を目指して、吉田と渡辺の思惑は一致し裏金が動いた。こう見るのが、社会の常識というものだ。

いったんは思惑噛み合った両者に、たまたま齟齬が生じて、吉田が週刊新潮誌上に暴露記事を書いた。このことから、裏の金が表に出た。つまりはたまたまの事情で8億の裏金の存在が世に知られた。おそらくはこれが氷山の一角で、政治の裏面には、もっと口の固い連中同士の表に出ない類似の金がうごめいているのではないだろうか。

さらに強調したいことは、この裏で行われた吉田から渡辺への金の授受が、実際には政治資金あるいは選挙運動資金ではあっても、政治家個人に貸したという形式をとりさえすればお咎めなしとするなら、政治資金規正法も公職選挙法も、役立たずのザル法である。本件金銭授受の当事者である両者の行為が、透明性を徹底し量的規正を設けた法の趣旨に反していることは明らかである。こんなやり方の脱法を許してはならない。カネを出した方も、受けとった方も、厳格に処罰できる法の整備が必要だ。そうでなければ、いつまでも金にまみれた薄汚い政治の浄化はできない。

私は、予てから政治とカネの問題に関心をもっていたが、この事件でメディアが渡辺だけを叩いて、スポンサー側のDHC・吉田の行為を弾劾しないことを強く不満に思った。そこで、週刊新潮に吉田の手記が発表された直後に、DHC・吉田の側を批判するブログを3本書いた。下記のとおりである。これが、損害賠償の根拠とされた。

どんな「罵詈雑言」が2000万円の賠償の根拠とされたのか、興味のある方もおられよう。ぜひ下記3本のブログをご覧いただきたい。
  https://article9.jp/wordpress/?p=2371
    「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判 
  https://article9.jp/wordpress/?p=2386
    「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
  https://article9.jp/wordpress/?p=2426
    政治資金の動きはガラス張りでなければならない

いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」とする批判を内容とするものである。

何を血迷ったか、DHC吉田は、この私のブログが名誉毀損に当たる違法な記事だとして、いきなり2000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私だけでなく、同様の批判をした10人に対しても一斉の提訴だった。カネに飽かせた乱暴極まる提訴。敗訴してもともと、「DHC吉田を批判するとこのような面倒になるぞ」という恫喝の実績を狙った、典型的なスラップ訴訟である。

私は、この提訴自体が怪しからんと「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを書き始めた。そしたらどうだ、2000万円の請求金額は6000万円に跳ね上がった。この請求拡張の経過自体が、スラップであることを自ら証明している。ところで、このシリーズは以下のとおり、既に52回にわたっている。下記のURLを開いてたどれば、すべて読める。読み物としてもなかなか面白いのではなかろうか。
  https://article9.jp/wordpress/?cat=12

  2014年7月13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
    14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
    15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
    16日 第4弾「弁護士が被告になって」
   2015年9月2日
      第51弾「全面勝訴・ご支援に感謝 表現の自由が輝いた」
さて、DHC吉田は9月2日東京地裁での全面敗訴判決を得て控訴した。これから、東京高裁での控訴審が始まる。

私は、スラップ常習のDHC吉田の恫喝に屈してはならないと覚悟を決めている。私は理不尽に黙れと言われれば、精一杯の大声を出さねばならないと思うタチなのだ。けっして、DHC吉田に対する批判に、萎縮や遠慮があってはならない。言うべきことを軋轢を恐れて自主規制してはならない。むしろ、もっともっと声を大きく、その不当を糾弾し続けなくてはならない。

ぜひ、ご支援をお願いしたい。そして、政治とカネの問題。消費者利益と行政規制の問題。さらに、政治的言論の重要性と、これを封殺しようとするスラップ訴訟の不当性を重大なこととしてお考えいただきたい。
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          『DHCスラップ訴訟』控訴審にご支援を
このブログに目をとめた弁護士の方で、『DHCスラップ訴訟』被控訴人弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697号)までご連絡をお願いします。

また、控訴審の訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。量的規制は設けませんが、くれぐれも多額に過ぎることのございませぬように。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
(2015年11月10日・連続955回)

今日を「前夜」にしてはならない。ーそのための精一杯の抵抗を

私と梓澤和幸君とIWJの岩上安身さんとの、自民党改憲草案批判をめぐる12回の鼎談を一冊にした「前夜」(現代書館)が初版本を完売したという。今なら、古本市場で相当の高値がついているとか。情勢が動いているから、増刷するよりは版を改めようということになった。今日(10月27日)は、そのために久しぶりで3人顔合わせをして、戦争法を中心に延々4時間にも及ぶ「前夜・増補改訂版」作成のための再鼎談となった。

過去12回の鼎談は、司会の岩上さんの問に私と梓澤君が答えるという形式だった。今日は憲法問題を語るというよりは、情勢を語り運動を語る場となった。さすがに、ジャーナリストとしての岩上さんの発言が冴え、出番も多かった。知らないことを教えてもらって有益だったがいささかくたびれた。

意見が一致したことは、来夏に行われる参院選の重要性である。岩上情報では、安倍政権はこの選挙で本格的に改憲発議を訴える予定だという。この選挙の結果如何では、改憲の具体的なスケジュールが動き出すことになりかねない。2014年は解釈改憲閣議決定の年、15年は解釈改憲による違憲の戦争法が成立した年として記憶されることになろうが、ビリケン安倍は、さらに16年を明文改憲元年としようとしているのだ。

「前夜」とは、開戦の前夜、ファシズム成立の前夜、あるいは憲法が蹂躙される恐るべき時代到来の前夜を意味している。今こそ「前夜」の危険に満ちた時代と自覚せよ、という編集者の警世の思いが書名に表れている。戦争法が「成立した」とされる今、時代が「前夜」のタイトルに追いついてしまった感がある。

茶色の朝が明けてはじめて、昨夜こそが「前夜」であったと気付くことになるが、そのときは既に遅い。その以前に、鋭敏に「前夜」に至る多くの徴候を、嗅ぎわけ、見逃さず、放置せず、ひとつひとつを克服していきたい。

この鼎談の中で、私は「戦争法案成立阻止のたたかいについての私的総括」を語った。そのレジメを抜粋して掲載しておこう。だいたいのところは、察していただけるだろう。

※「戦争法」という呼称について
 「平和安全法」か「戦争法」か。
 運動を統一する呼称の成立が喜ばしいこと。
 あるいは、メディアのいう「安保法制」「安保関連法」「安保法」か。
※戦争法案攻防は、どのような理念をめぐるたたかいであったか
 ☆立憲主義をめぐるたたかい
   民主主義の限界を意識 政権の権限の制約
   選挙での勝利は万能ではない
 ☆民主主義をめぐるたたかい
   「民主主義って何だ?」との問自体の重さ 市民の政治参加の権利と責務
 ☆平和主義をめぐるたたかい
   非武装平和主義→専守防衛路線(安保自衛隊法)→集団的自衛権行使容認へ
   いま、あらためて「平和憲法」(前文を含む全条文が平和主義)の確認
※味方の政治的立場はどうだったか
 A 形式的立憲主義派 集団的自衛権行使は改憲してから
 B 戦後の保守本流 安保も自衛隊も合憲 専守防衛路線
 C 伝統的護憲派 安保も自衛隊も違憲
※たたかいの特徴
 ☆上記Cだけの陣営の狭さを、A・Bが補った。
   幅広い連帯 → これが大きな運動の言動力になった
(共闘はBの見解を押し出した。しかし、運動の核はC陣営だったのでは)
 ☆かつての組織動員型運動から、非組織の市民中心型に(ネット社会化)
   しかし、現実には、政党・市民団体の役割は大きい。
 ☆運動の拡大→新しい参加者の獲得→拡大 の好循環
 ☆戦争法と、原発・TPP・靖国・「日の丸・君が代」・教育問題等との結びつき
※敵は誰だったか
  政権 自公与党 右翼 右派メデイア 財界 ナショナリスト
※敵のイデオロギーは
  我が国を取り巻く防衛環境の変化(=中国脅威論)
  米軍との軍事同盟関係強化による抑止力期待論
※たたかいに負けた原因    
  数の暴力+安倍政権の求心力⇔小選挙区制
  中国脅威論・北朝鮮脅威論・嫌韓論の一定の影響力
※戦争法が成立したことを軽視してはならない
  特定秘密保護法+戦争法 競合症の脅威
  「9条ブランド」の喪失は復元不可能
  戦地への自衛隊員派遣⇒戦死者の靖国合祀問題
  ナショナリズム高揚の危険性
※これからの課題
 ☆本流 選挙協力⇒安倍政権打倒⇒立憲派政権の樹立⇒戦争法廃止
 ☆傍流 ビリケン与党の戦争法賛成議員に対する落選運動
     適切なシチュエーションを選んでの違憲訴訟の提起
※闘い続けるために
  社会的同調圧力に負けずに、ナショナリズムに声を上げることの重要性。
  表現の自由とその行使の重要性。萎縮、自主規制の風潮への警鐘。
  教育・教科書・大学の自治への攻撃を軽視してはならない。「日の丸君が代」も。
  弁護士自治の重要性。その喧伝を。
  政党・労組・民主団体の役割についての正当な評価を。
  真っ当な政権対抗勢力を作る必要。政党嫌いや野党への揶揄の姿勢の克服を。

本日の鼎談を終えて、思う。今なら、まだ間に合う。本当の「前夜」にしないために、表現の自由とその行使の重要性を再確認しよう。政権や大勢に順応することをやめよう。萎縮や自己規制の風潮は危険だ。覚悟を決めて抵抗しよう。このことを大いに発言し続けよう。
(2015年10月27日・連続940回)

放送大学の「表現の自由の抑圧」に抗議するー再び戦争をするための体制作りに加担してはならない

「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった」「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった」

簡潔に、ことの本質をズバリとよく言い得ているではないか。まことにそのとおり。心の底から共感する。今後、私は何度でもこの文章を反芻したいと思う。そして、この文章を何度でも当ブログで引用することにする。

本日(10月20日)の毎日新聞社会面トップの記事によれば、放送大学の佐藤康宏客員教授の上述の文章が不適切として、同大学はこの削除を強行した。同教授は、放送大学のこの措置を不当として、客員教授の任期満了を待たずに辞意を表明している。はからずも、「表現の自由を抑圧し情報をコントロール」される立場に立たされたのだ。この事態を「国民から批判する力を奪う」結果にしてはならない。それは、日本が再び戦争をするための体制作りにつながるからだ。同教授の抵抗を精一杯支援したい。

まず、この一文の内容を確認しておこう。
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」
まったく、そのとおりではないか。現政権は、「戦後レジーム」からの脱却を唱えている。戦後レジームとは、憲法9条が象徴する平和の国家体制である。これに対して、戦前の大日本帝国は、徹頭徹尾「戦争をするための体制」であった。日本国憲法はこれを根底から否定して、平和主義に徹した「戦後レジーム」を構築した。その「戦後レジーム」を否定し、「戦後レジームからの脱却」を掲げる政権を「再び戦争をするための体制を整えつつある」と言うことに一点の間違いもない。現政権が憲法9条を目の仇にしていることは誰もが知っている事実である。現に、安倍政権は、戦後の保守本流が違憲としてきた集団的自衛権を強引に解釈変更して「戦争法」を成立させてしまった。

「平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。」
現政権が、「平和と自国民を守るのが目的」と言いつつ一連の9条破壊策動を続けてきたことは周知の事実。掲げたイデオロギーは、戦力増強による抑止力向上こそが「敵の付け入る隙を防いで平和を守る」という抑止論至上主義。そして、軍事力の整備こそが平和に寄与し、自国民を守るのだという、時代遅れの軍拡路線。うかうかとこの論に乗せられると、軍備を増強すればするほど平和になるという倒錯した論理に陥る。平和を守るためには核武装も辞さない。自国民を守るためには開戦も躊躇しない、ということになる。

「1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった。」
「五族協和」の、「東洋平和」「東亜新秩序」建設のための戦争。そして、「満蒙は日本の生命線」だったのだから、「暴支膺懲」と「八紘一宇」とは重なり合う関係にあった。

「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった。」
台湾出兵・日清・日露・シベリア出兵・15年戦争…。絶え間ない戦争の繰りかえしの歴史には、必ず反戦勢力による反戦運動が伴っていた。信仰から、ヒューマニズムから、国際的な階級的連帯意識から、各種の反戦運動の抵抗が続けられた。戦争政策を推し進めた権力は、『表現の自由を抑圧し情報をコントロールする』ことによって国民から批判の精神を奪った。

佐藤康宏氏が東大の美術史の教授であることが興味深い。ここでは、反戦の檄文や反戦思想の論文の類だけを問題にしているのではない。国民の批判精神を涵養するには、広く美術や文芸を含む多様な表現の自由が確保されなければならない。政府の情報コントロールがあってはならない。権力による表現への統制は、国民に対する精神の統制であり、批判の精神を失わしめるのだ。おそらくは、同教授が最も主張したかったことであろう。

戦争の準備はすべてを抹殺する。人の個性も、個性に溢れた芳醇な芸術も。今、そのような時代にさしかかっていることを感じないか。そのように学生に語りかけているのだ。

報道は次のようなものである。
「今年7月に出された放送大学の単位認定試験問題を巡り、大学側が『現政権への批判が書かれていて不適切』として、試験後に学内サイトで問題を公開する際、該当部分を削除していたことが分かった。この部分は安全保障関連法案を念頭に置いたもので、当時は国会審議中だった。

この問題は、客員教授の佐藤康宏・東京大教授(60)=美術史=が、7月26日に670人が受けた「日本美術史」の1学期単位認定試験に出題した。画家が戦前・戦中に弾圧されたり、逆に戦争に協力したりした歴史を解説した文章から、画家名の誤りを見つける問題だった。」

大学側の削除の理由はこうだ。
「現政権への批判が書かれているが、設問とは関係なく、試験問題として不適切」「現在審議が続いているテーマに自説を述べることは、単位認定試験のあり方として認められない」

佐藤氏は納得していない。
「昨年度から2019年度まで6年間の契約だった客員教授を今年度限りで辞めると大学側に伝えた。佐藤氏は『学生に美術史を自分のこととしてリアルに考えてほしかったので、この文を入れた』と説明した。その上で『大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い』と話す。」

毎日の取材に対して、大学側はこうコメントしている。
「学問や表現の自由には十分配慮しなければいけないが、放送大学は一般の大学と違い、放送法を順守する義務がある。試験問題も放送授業と一体のものと考えており、今回は放送法に照らし公平さを欠くと判断して削除した」

このコメント、「平和を守るという口実で戦争がおこされる」というロジックとよく似ていないか。「大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い」という批判に応え得ているだろうか。放送大学は、「一般の大学との違い」を強調するのではなく、大学教育を受けようと学窓に集う学生の意欲の等質性をこそ強調すべきではないか。大学と名乗る以上はそれにふさわしい場であろうとの努力を惜しんではならない。大学教育を受けるだけの基礎を持った学生たちである。批判の精神と意欲に欠けるところはあるまい。現政権への批判を学内で圧殺して、大学の名に値する教育と言えるのか。

試されているのは、佐藤教授の側ではない。放送大学こそが、試されているのだ。大学の名に値する研究と教育の場であるのか。学問の自由を有しているのか、学問の自由を制度的に保障する大学の自治を有しているのか。

今、放送大学は、佐藤教授の「表現の自由を抑圧し情報をコントロール」に手を染めた。自ら、「国民から批判する力を奪う有効な手段」を行使しているのだ。政権の思惑を忖度して、大学までが追随し萎縮して振り回される時代に危機意識を感じざるを得ない。放送大学の中から、教員や学生の間から、澎湃たる抗議の声が起こることを期待したい。それこそ、時代と切り結ぶ生きた学問の実践ではないか。
(2015年10月20日・連続第933回)

何を今さら、「高校生のデモ参加容認」

昨日(10月5日)、文部科学省は「『高等学校における政治的教養と政治的活動について』(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)の見直しに係る関係団体ヒアリング」を実施した。

一部のメディアが「高校生のデモ参加容認」と見出しを打っているが、多くの高校生が、「えっ? いままでデモ参加はいけなかったの?」と怪訝な思いだろう。「文科省が18歳選挙権の実施に向けて、高校生の政治的活動を全面禁止してきた1969年通知を廃止し、新通知案を発表した。」「全面禁止は見直したものの、禁止・制限を強調する内容」「ヒアリングのあと、今月中にも正式に通知することになる」と報じられている。ところが、新通知案の全文を掲載するメディアが見つからない。

総じての「新通知案」に対するメディアの評価は、「校外での政治活動は一定条件下で容認する」「校内では引き続き高校側に抑制的な対応を求める内容」(毎日)という代物。高校生を未成熟な保護対象としてのみ見る基本姿勢に変更はない。「現政権を支持する票は欲しいが、政治的な意見表明は抑制して、秩序に従順な態度を訓育する」ことに必死なのだ。

いつの世にも、政権は批判を嫌う。主権者からの権限委託が政権の正当性の根拠なのだが、政治批判をするような主権者は大嫌い。温和しく批判精神のない、従順な主権者を育てたくてしょうがない、そのホンネが窺える。

69年通達(「高等学校における政治的教養と政治的活動について」(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)は、いまよく読んでおくべきだ。政府というもののホンネがよく分かる、政治教育の資料として恰好なものではないか。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19691031001/t19691031001.html

「文部省初等中等教育局長通達」として、宛先は「各都道府県教育委員会教育長・各都道府県知事・付属高等学校をおく各国立大学長・各国立高等学校長」となっている。発出の日付は、1969年10月31日。大学紛争影響下の時代、「70年安保」の前年でもあって、「最近、一部の高等学校生徒の間に違法または暴力的な政治的活動に参加したり、授業妨害や学校封鎖などを行なったりする事例が発生しているのは遺憾なことであります」と当時の状況が述べられ、長期的には「このようなことを未然に防止するとともに問題に適切に対処するためには、政治的教養を豊かにする教育のいっそうの改善充実を図る」こと、短期的には「政治的活動に対する学校の適切な指導が必要」と、この通達の動機や趣旨が冒頭に述べられている。

かなりの長文である。「高校生の政治的教養の涵養」について言及しなければならないタテマエと「政治的活動の抑制」のホンネとの結びつけについての苦心の作である。もちろん、ホンネの部分が分厚く語られている。

同通達は「高等学校教育と政治的教養」を教育基本法から説き起こす。
「教育基本法第8条第1項(現行教基法14条1項)に規定する『良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。』ということは、国家・社会の有為な形成者として必要な資質の育成を目的とする学校教育においても、当然要請されていることであり、日本国憲法のもとにおける議会制民主主義を尊重し、推進しようとする国民を育成するにあたつて欠くことのできないものである。」

ここで、「良識ある公民=議会制民主主義の尊重・推進」と矮小化し短絡していることなどは措くとして、国(文科省)も、タテマエとしては高校段階での政治教育を認めざるを得ないことを確認しておく必要がある。

問題は、その政治教育の中身である。ここにホンネが表れる。
「政治的教養の教育は、教育基本法第8条第2項(現行教基法14条2項)で禁止している『特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動』、いわゆる党派教育やその他の政治的活動とは峻別すること。」

「政治的教養教育」と「党派教育・政治活動」との峻別の要求である。おそらく、ここがポイント。教育が、現実の政治を素材とし、生徒の主体性を尊重すれば、「党派教育・政治活動」とレッテルを貼られて非難される。生の素材をことごとく排除し、他人事として授業をすれば、「政治的教養教育」の実践と称賛される。その間に、無限のグラデーションがあることになろう。

同通達は、「高等学校における政治的教養の教育のねらい」を述べている。歯に衣を着せた文章。ホンネの翻訳が必要だ。

「将来、良識ある公民となるため、政治的教養を高めていく自主的な努力が必要なことを自覚させること。」
(将来、従順な被統治者に育つよう、「出る釘は当たれる」「長いものには巻かれろ」と自覚する生徒を育てる)

「日本国憲法のもとでの議会制民主主義についての理解を深め、これを尊重し、推進する意義をじゆうぶん認識させること。」
(直接民主主義的契機の重要性を教えてはならない。選挙の投票日だけが国民が主権者で、そのほかは議員や内閣にお任せしておくのが、議会制民主主義だと叩き込むこと)

「国家・社会の秩序の維持や国民の福祉の増進等のために不可欠な国家や政治の公共的な役割等についてじゆうぶん認識させること。」
(「憲法は権利の体系だ」などと生意気なことは言わせない。大事なのは「秩序の維持」「公共性の尊重」、これが政治教育の核心なのだ)

また、同通達は、「現実の具体的な政治的事象の取り扱いについての留意事項」の項を設けて「特定の政党やその他の政治的団体の政策・主義主張や活動等にかかわる現実の具体的な政治的事象については、特に次のような点に留意する必要がある」と言っている。ここが彼らのホンネのホンネ。ここだけは、全文を掲載しておこう。ホンネ丸見えではないか。

(1) 現実の具体的な政治的事象は、内容が複雑であり、評価の定まつていないものも多く、現実の利害の関連等もあつて国民の中に種々の見解があるので、指導にあたつては、客観的かつ公正な指導資料に基づくとともに、教師の個人的な主義主張を避けて公正な態度で指導するよう留意すること。
 なお、現実の具体的な政治的事象には、教師自身も教材としてじゆうぶん理解し、消化して客観的に取り扱うことに困難なものがあり、ともすれば教師の個人的な見解や主義主張がはいりこむおそれがあるので、慎重に取り扱うこと。
(2) 上述したように現実の具体的な政治的事象については、種々の見解があり、一つの見解が絶対的に正しく、他のものは誤りであると断定することは困難であるばかりでなく、また議会制民主主義のもとにおいては、国民のひとりひとりが種々の政策の中から自ら適当と思うものを選択するところに政治の原理があるので、学校における政治的事象の指導においては、一つの結論をだすよりも結論に至るまでの過程の理解がたいせつであることを生徒に納得させること。
 なお、教師の見解そのものも種々の見解の中の一つであることをじゆうぶん認識して教師の見解が生徒に特定の影響を与えてしまうことのないよう注意すること。
(3) 現実の具体的な政治的事象は、取り扱い上慎重を期さなければならない性格のものであるので、必要がある場合には、校長を中心に学校としての指導方針を確立すること。
(4) 教師は、その言動が生徒の人格形成に与える影響がきわめて大きいことに留意し、学校の内外を問わずその地位を利用して特定の政治的立場に立つて生徒に接することのないよう、また不用意に地位を利用した結果とならないようにすること。
 なお、国立および公立学校の教師については、特に法令でその政治的行為が禁止されている。
(5) 教師は、国立・公立および私立のいずれの学校を問わず、それぞれ個人としての意見をもち立場をとることは自由であるが、教育基本法第六条に規定されているように全体の奉仕者であるので、いやしくも教師としては中立かつ公正な立場で生徒を指導すること。

さらに、同通達は、「生徒の政治的活動が望ましくない理由」を述べている。おそらくは、当局側が生徒や現場教師との「論戦」を想定して、理論付をしたものと思われる。

「生徒は未成年者であり、民事上、刑事上などにおいて成年者と異なつた扱いをされるとともに選挙権等の参政権が与えられていないことなどからも明らかであるように、国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請しているともいえること。」

「心身ともに発達の過程にある生徒が政治的活動を行なうことは、じゆうぶんな判断力や社会的経験をもたない時点で特定の政治的な立場の影響を受けることとなり、将来広い視野に立つて判断することが困難となるおそれがある。したがつて教育的立場からは、生徒が特定の政治的影響を受けることのないよう保護する必要があること。」

「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なつている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくないこと。」

「生徒の政治的活動は、学校外での活動であつても何らかの形で学校内に持ちこまれ、現実には学校の外と内との区別なく行なわれ、他の生徒に好ましくない影響を与えること。」

「現在一部の生徒が行なつている政治的活動の中には、違法なもの、暴力的なもの、あるいはそのような活動になる可能性の強いものがあり、このような行為は許されないことはいうまでもないが、このような活動に参加することは非理性的な衝動に押し流され不測の事態を招くことにもなりやすいので生徒の心身の安全に危険があること。」

「生徒が政治的活動を行なうことにより、学校や家庭での学習がおろそかになるとともに、それに没頭して勉学への意欲を失なつてしまうおそれがあること。」

これを翻訳すれば、(高校生は子どもじゃないか。そこのところをよく弁えて、おとなしく、役所や校長の言うとおりにお勉強だけをしていればよいのだよ。いま、政治に関心をもつと碌な大人にならないよ)。翻訳するまでもないか。

追い打ちをかけて通達は次のように言う。
「生徒の政治的活動の規制」については、「基本的人権といえども、公共の福祉の観点からの制約が認められるものである」から問題ない。

「教科・科目の授業はいうまでもなく、クラブ活動、生徒会活動等の教科以外の教育活動も学校の教育活動の一環であるから、生徒がその本来の目的を逸脱して、政治的活動の手段としてこれらの場を利用することは許されないことであり、学校が禁止するのは当然であること。なお、学校がこれらの活動を黙認することは、教育基本法第8条第2項(現行14条2項)の趣旨に反することとなる。」

「生徒が学校内に政治的な団体や組織を結成することや、放課後、休日等においても学校の構内で政治的な文書の掲示や配布、集会の開催などの政治的活動を行なうことは、教育上望ましくないばかりでなく、特に、教育の場が政治的に中立であることが要請されていること、他の生徒に与える影響および学校施設の管理の面等から、教育に支障があるので学校がこれを制限、禁止するのは当然であること。」

「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動は、一般人にとつては自由である政治的活動であつても、前述したように生徒が心身ともに発達の過程にあつて、学校の指導のもとに政治的教養の基礎をつちかつている段階であることなどにかんがみ、学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然であること。特に違法なもの、暴力的なものを禁止することはいうまでもないことであるが、そのような活動になるおそれのある政治的活動についても制限、禁止することが必要である。」

この最後がすさまじい。「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動」まで、違法・暴力的でなくても、そのおそれがあれば、「制限、禁止することが必要である」という。無茶苦茶と言うほかはない。さすがにここだけは、18歳選挙権の実施の情勢にふさわしくないと、見直されることになるようだ。それで、「高校生のデモ参加容認」ということになる。

こんな通達が、今どき現実にあることに一驚するしかない。日本ははたして、民主主義国家なのだろうか。欧米諸国から、「価値観を同じくする国」と見てもらえるのだろうか。そして、今回、この通達の全体が、どのように見直されるのだろうか。基本的な理念が見直されるのか否か、しっかりと見極めたい。子どもの権利条約や、国際人権規約など国際水準から見て、日本の民主化度や人権確立の程度が測られ試されている。
(2015年10月6日・連続919回)

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