昨日(9月27日)、大阪地方裁判所がヘイトスピーチを違法として損害賠償を命じる判決を言い渡した。原告は在日朝鮮人フリーライターの李信恵、被告はおなじみの在特会・桜井誠(本名・高田誠)である。認容金額は77万円。被告の側は、反訴を提起していたが、これは全面棄却となった。
注目すべきは2点。
判決は、名誉毀損ではなく民族差別を侮辱ととらえた。
そして、人種差別撤廃条約を前面に押し出した。
いずれも、今後に影響が大きい。ヘイトスピーチ撲滅への「価値ある勝利」と言えよう。
報道を総合する限りだが、認定された桜井の侮辱行為の内容は次のようなもの。
街宣活動やネット動画・ツイッターで、原告を「朝鮮人のババア」「朝鮮ババア」「反日記者」「差別の当たり屋」などと表現し、名前をもじって「ドブエ」と連呼した。
このことを通じて、在特会を「在日朝鮮人を日本から排斥することを目的に活動する団体」と断定、「人通りの多い繁華街などで原告の容姿や人格を執ようにおとしめた。論評の域を逸脱した限度を超えた侮辱で、在日朝鮮人に対する差別を助長する意図が明らかだ」「社会通念上許される限度を超える侮辱行為で、原告の人格権を違法に侵害した」と認定した。また、違法の根拠として「日本が加入する人種差別撤廃条約に違反する」と明示的に認めた。
一方、在特会側は「互いに批判し合う表現者どうしの言論のやり取りで、賠償すべき発言ではない」と主張した(NHK)というが、一顧だにされなかった。当然のことだ。
問題になったのは「互いに批判し合う表現者どうしの言論のやり取り」ではない。一方的な差別の言動である。差別の悪罵は、マジョリティからマイノリティに、強者が弱者に向けてする一方通行のもので、その逆はない。これを「相互批判の言論」へのすりかえは、卑怯この上ないというべきである。
さらに、同判決について被告側代理人弁護士は、「在日特権を批判、追及している政治団体への偏見に基づく一方的な判決で不当であり、控訴を検討する」とコメントしたという。このコメントは判決に不満だとは言っているものの、判決のどこが間違っているという指摘ができていない。むしろ、できないことを自白する内容。事実認定にはケチをつけようがない以上、不満は違法の評価にある。
「日本の裁判所の日本人裁判官であれば、『在日朝鮮人を差別し侮辱してけっこうだ』というべきではないか」とコメントすれば、ホンネがよく分かるのだが。
ところで、「公然事実を指摘して、人の社会的評価を低下させる」という名誉毀損の要件の認定には、それなりのハードルを超えなければならない。一方、民族差別の言動を人種差別撤廃条約に照らして違法とし、これを「人格権を違法に侵害した侮辱」ととらえれば、被害者側からの訴訟は簡明になる。今は代理人弁護士が付かなければ提訴は困難だが、やがて代理人不要で定式化された訴状のひな形に、侮辱の言動を補充することで損害賠償請求訴訟提起が可能となる。無数の反差別裁判が日本中に提起されることによって、民族差別がなくなることを考えると痛快ではないか。
判決後、原告は伝統衣装のチマ・チョゴリ姿で記者会見し、「どんな判決が出るのか眠れなくて不安でしたが、民族差別だと認められたのはうれしく、すごく価値のある勝利だと思います。これからも小さな勝利を積み重ねて差別のない社会を作りたい」と喜びを語ったという。
深く同感する。あなたの勝利は価値あるものだ。その「小さな勝利の積み重ね」が差別のない社会に通じる。不義不正の横暴と闘ってこその正義の実現である。面倒な訴訟を勇気をもって提起し、勝訴されたことへの敬意と祝意を表したい。
(2016年9月28日)
戦争と差別は、緊密に結びついてきた。差別こそは、平和や共生の最大の敵である。人種や民族間の差別意識が憎悪や猜疑を生む、これなくしては戦争も戦争準備も成り立たない。だから、戦争や戦争準備をたくらむ勢力は、必ず差別意識の醸成に狂奔する。かつての日本は、「暴支膺懲」「鬼畜英米」、そして朝鮮人にもロシア人にも根拠のない差別感情をむき出しにした。支配勢力の意識的な操作に民衆が呼応したのだ。同時に何の根拠もない、自民族優越の「信仰」が蔓延した。
それゆえ、平和を望む勢力は、差別を振りまく勢力と意識的に闘わなければならない。永年にわたって民衆の中に培われ刷り込まれた、根強くある人種差別や民族差別の意識の払拭に努めなければならない。
差別とは、内と外の峻別を基礎とする。内なる仲間と、外なる他者との明確な区分が不可欠なのだ。その上で、内には仲間意識を醸成して、外なる他者を排撃する。差別主義者には、内と外との境界上にある存在の取り扱いがやっかいとなる。ときに、内なる仲間の純化のために、境界上にあるものが排撃の対象となる。この境界上にある者の典型が、在日であろう。在日に接する態度において、日本に居住する者すべてが、差別に関する感性や、その立場性を問われている。
民進党代表選に立候補している蓮舫に「二重国籍疑惑」が生じているという。例によって、ネトウヨが騒ぎ立て、産経が尻馬に乗っている。私たちの差別意識払拭の程度が試されていると言わなければならない。
蓮舫が中華民国との二重国籍だったらいったい何がどう問題だと言うのか。日本国民の「お仲間意識」から見過ごせないというのが、実は民族的な差別意識のなせる業というものにすぎない。
未開の時代、皮膚の色が異なり言語を異にする人が接すると、お互いがお互いを恐れた。これを克服して理解し合ってきたのが文明の進歩であったはず。国籍の違いは、取るにたりない人為的に付された記号の違いでしかない。国籍の壁が人間相互間の交流や理解を妨げるわけがない。その違いを大袈裟に言い立てる姿勢自体が、野蛮な差別主義と非難されなければならない。
もっとも、今は国民国家が分立している国際情勢下、それぞれの主権国家が定める国籍の取り扱いに従うしかない。それはやむを得ないとしても、それ以上のものではない。日本国籍を持っている蓮舫が、国会議員としても、政党党首としても、さらには内閣総理大臣としても、なんの差し支えもない。仮に、二重国籍であろうとも欠格要件にはあたらない。法的になんの問題もないのだ。
産経の記事では、「首相の資質の根源に関わる国籍に無頓着だったのは致命的といえる。」という根拠のない断定には驚いた。こういう輩が、戦前には戦争協力や天皇制鼓吹の手先となったのだと不愉快極まりない。蓮舫が日本国籍を持っている以上、首相の資格になんの問題もない。「資質の根源に関わる」「致命的」などと大袈裟にいう根拠はなく、差別感情丸出し以外のなにものでもない。
しかも、経過から見て「蓮舫が国籍に無頓着であった」とはいいがたい。朝日が報じる、「蓮舫氏は85年に日本国籍を取得した際、父とともに大使館にあたる台北駐日経済文化代表処を訪ね、台湾籍の放棄を届け出たと説明してきた。7日の報道各社のインタビューで、台湾籍を放棄する書類を再び代表処に提出した理由について『台湾に31年前の籍を放棄した書類の確認をしているが、「時間がかかる」という対応をいただいた。いつまでに明らかになるかわからない』と説明。あくまで『念のため』だと強調した。」で、十分に説明責任は尽くされている。
私は、民進党に関わりはないが、野党第一党の代表選挙には注目している。いま、産経からの言いがかりに民進党がどう対応するのか、試されており国民が注視している。真偽のほどは定かではないが、産経の報道のとおりに、「代表選で蓮舫氏と争う玉木雄一郎国対副委員長の陣営幹部は『ウソを重ねているように映る蓮舫氏に代表の資格はない』と断言。前原誠司元外相の陣営幹部も『きちんと説明すべきだ』と追及する構えをみせる。」ということであれば、この党に未来はない。むしろ、「差別を許さない」「ネトウヨ・産経グループの不当な介入を許さない」と民進党が挙って声を上げれば見直されるのではないか。
こうなれば、蓮舫候補の圧倒的勝利を期待したい。右翼が騒いでも失敗するだけ、反対の結果となるという実績をもう一つ積み重ねていただきたい。
(2016年9月8日)
ハフィントンポスト(日本版)やロイターが、写真とともに生き生きと伝えている。「米ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)サンフランシスコ・フォーティナイナーズのクォーターバック、コリン・キャパニック(28)は1日、サン・ディエゴで行われたプレシーズンの試合前の国歌斉唱時に両手を組んでひざまずき、人種差別や警官の暴力行為に対する抗議の意を示した。キャパニック選手は、有色人種を抑圧するような国の国旗に敬意は払えないとして、国歌斉唱時に不起立で抗議を表明すると述べ、賛否両論を招いている。」
9月1日のゲームは、たまたま、「サルート・ミリタリー・ナイト」と重なった。240人の水兵、海兵隊、兵士たちによるアメリカ国旗の進呈、そして退役した米海軍特殊部隊によるプレゲーム・パラシュート・ジャンプなどのイベントが行われた。そのような場での国旗国歌に対する抗議だったのだ。
米国で警官による黒人への武器使用事件が相次ぎ反差別運動が巻きおこっていることは周知のとおり。キャパニックは、これまでも反差別の意味で国歌斉唱に加わっていなかったが、8月26日の試合で広く注目された。9月1日にはチームメイトのエリック・リードも同調し国歌斉唱時にひざまずいた。そしてシーホークスのコーナーバック(CB)ジェレミー・レインも、9月1日に行われた別のナイトゲームで起立を拒否した、と報じられている。
コリン・キャパニックの名は日本人に広く知られていないだろう。2013年にフォーティナイナーズをスーパーボウルに導いたスーパースターだそうだ。そう言われてもよく分からない。年俸が最高クラスの1,900万ドル(約20億円)と聞けば、その格がほぼ想像が付く。
そのキャパニックは、警察の暴力に言及し、「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」「その国の国旗に対する誇りを示せない」と語っている。
さらに、「同選手は自分の決断が議論を招くことは十分に承知しているとしたうえで、『だれかに分かってもらおうとか、認めてもらおうとかいう意図はない。虐げられている人々のために立ち上がらなければという思いだ』『たとえフットボールを取り上げられても、選手資格を奪われても、正しいことのために立ち上がったと思える』と語った」(CNN日本語版)。
キャパニックの行動が物議を醸し賛否両論があるのは当然として、注目すべきは、けっして彼が孤立していないことだ。
フォーティナイナーズは同選手の決断を尊重するとの声明を発表。「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と表明した。またNFLは声明で、「国歌演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と指摘した(CNN)。
誰もが、1968年メキシコ五輪の男子200m走の表彰式で拳を掲げて抗議したトミー・スミス(金メダル)、ジョン・カーロス(銅メダル)を想起する。この二人はアメリカ国内の人種差別に抗議するために、星条旗が掲揚されている間中、ブラックパワー・サリュート(Black Power salute)という拳を高く掲げるポーズで、国旗国歌に抗議したのだ。
国旗国歌は国民を統合する機能をもつシンポルである。多様な国民を国家という組織に組み込む装置のひとつにほかならない。ところが国民を統合した国家が国民の差別をしているとなれば、そんな国家に敬意を払うことはできないと抗議する国民があらわれるのは当然のことだ。差別される少数の側は、国旗国歌を「差別する多数の側のシンボル」ととらえざるを得ない。自分を差別する国家のシンボルに敬意を表することができないとすることを、いったい誰に非難する権利があろうか。
米国では「国旗(The Stars and Stripes)」だけでなく「国歌(The Star-Spangled Banner)」も「星条旗」と訳される。これを「日の丸・君が代」との比較で考えたい。星条旗は英国からの独立闘争のシンボルであり、合衆国憲法の自由の理念のシンボルでもある。一方、「日の丸・君が代」は、野蛮な天皇制の侵略戦争と植民地支配とあまりに深く結びついたシンボルとなってしまった。この忌まわしい記憶は拭いがたい。
「日の丸・君が代」よりは、象徴するする理念においてずっと普遍性の高い「星条旗」も、差別や出兵への抗議で、そっぽを向かれるだけでなく、焼かれたり唾をかけられた受難の歴史を持つ。しかし、米国の司法は、国旗を侮辱する行為をも表現の自由として不可罰としてきた。日本でも、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制に抵抗感をもつ多くの人が現実にいる。どこの国であれ、国民が国家をどう評価するかは自由でなくてはならない。国家が、国民に「われを讃える旗と歌」を強制することなどあってはならない。社会が個人に、国旗や国歌への敬意表明を強制してはならない。
「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」という、キャパニックの勇気を讃えたい。同時に、日本の社会も「日の丸君が代」への敬意表明強制に従えないという人を孤立させてはならない。ナショナリズムを超えた思想良心の自由に、寛容な態度を学ばねばならないと思う。
(2016年9月5日)