東京「君が代」裁判(4次訴訟)の準備書面を起案中である。今回は、被告の積極主張への反論。その一部を紹介したい。弁護団会議の議論を経ての起案だが、最終稿ではない。
被告(都教委)は「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことを、「日の丸・君が代」強制の根拠の一つに挙げている。そもそも、国旗国歌法は「日の丸・君が代」にどのような法的効果を付与したのだろうか。その問題意識からの論稿の一部である。
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政治学的あるいは社会学的に、あらゆる集団の象徴(シンボル)には、対外的な識別機能と対内的な統合機能とがある。日本国の象徴である国旗国歌にも、国際場裡において日本を特定するための対外的な識別機能と、国内的な国民統合機能とがある。
国旗国歌法は、識別機能にだけ着目して、統合機能を有することを意識的に避けた立法であるというほかはない。
統合機能は、当該の集団が共有する理念と結びついてのものである。著名な例としては、フランスの三色旗(トリコロール)において、その成立の過程はともかく、各色が自由・平等・博愛(友愛)という理念を象徴するものと理解されて、そのような理念における国民統合の機能を担ってきた。
翻って、「日の丸・君が代」の場合はどうであろうか。天皇の御代の永遠を言祝ぐ歌と、天皇の祖先とされる太陽神を形象した旗である。戦前には、天皇制国家の国旗国歌として、みごとな統合的機能を発揮した。旧時代の旧体制に、あまりにふさわしい国旗国歌であっただけに、1945年国家の原理が根源的に転換した以後、日本国憲法をもつ国家にふさわしくないとする見解には、耳を傾けるべき合理性を否定し得ない。「ふさわしくない」とは、「日の丸・君が代」が分かちがたく結びついている統合機能上の理念についてのことである。
かつての、「日の丸・君が代」が有した国民統合機能の理念が現行憲法に照らしてふさわしくないことには疑問の余地がない。それでもなお、「日の丸・君が代」は、過去の国民総体の記憶と切り離して、新しい何らかの理念と結びついて国民統合の機能をもちうるだろうか。被告の立場はこれを肯定するもののごとくである。
しかし、国民の記憶に、「日の丸・君が代」と天皇制や侵略戦争との結びつきは払拭しがたい。その結果、国旗国歌法が「日の丸・君が代」に対して、現行憲法に適合的な新たな理念を象徴するものとして、何らかの統合的機能を付与したと理解することには無理があるというほかはない。
国旗国歌法の提案と審議の過程では、およそ「日の丸・君が代」の統合的機能の内実や理念について語られることはなかった。むしろ、慎重に避けられたといってよい。そのようにして、「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法が成立している。このことは、国旗国歌の対外的識別機能は認められても、対内的な国民統合の機能は認めがたいといわざるを得ない。
したがって、「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことが、国民への「日の丸・君が代」ないしは国旗国歌強制に何らの意味をもつものではないというべきなのである。
以上のとおり、「日の丸・君が代」についての被告の主張も、原告主張への反論も失当という以外にない。
(2014年8月19日)
「国旗・国歌に対する国民としての正しい認識」というものがあるという。いったいどういうものか、想像がつくだろうか。国旗国歌への敬意表明を強制し、懲戒処分を濫発して止まないことで話題の都教委は、堂々と次のとおり述べている(東京『君が代』裁判・第四次訴訟答弁書)。
「国旗及び国歌に対する正しい認識とは、
?国旗と国歌は、いずれの国ももっていること、
?国旗と国歌は、いずれの国もその国の象徴として大切にされており、相互に尊重し合うことが必要であること、
?我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着していることを踏まえて、法律により定められていること、
?国歌である「君が代」は、日本国憲法の下においては、日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であること、
を理解することである。」
私には、そのような理解は到底できないが、上記???は国旗国歌についての考え方の、無限のバリエーションの一つとして存在しておかしくはない。馬鹿げた考え方とも思わない。しかし、これを「国旗国歌に対する正しい認識」と言ってのける無神経さには、愕然とせざるを得ない。こういう無神経な輩に権力を担わせておくことは危険だ。
「公権力は特定のイデオロギーを持ってはならない」。これは民主主義国家における権力の在り方についての原点であり公理である。現実には、完全に実現するには困難なこの課題について、権力を担う者には可及的にこの公理に忠実であろうとする真摯な姿勢が求められる。しかし、都教委にはそのカケラもない。
憲法とは、国民と国家との関係をめぐる基本ルールである。国民と国家との関係とは、国民が国家という権力機構を作り、国家が権力作用を国民に及ぼすことになる。常に暴走の危険を孕む国家権力を、国民がどうコントロールするか、そのルールを形づくるものが憲法にほかならない。
だから、憲法の最大関心テーマは、国家と国民との関係なのだ。国家は目に見えない抽象的存在だが、これを目に見えるものとして具象化したものが、国旗国歌である。国家と国民の目には見えない関係が、国旗国歌と国民との目に見える関係として置き換えられる。
だから、「国民において国旗国歌をどう認識するか」は、「国民において国家をどう認識するか」と同義なのだ。「国家をどう認識するか」は、これ以上ないイデオロギー的テーマである。「正しい認識」などあるはずがない。公権力において「これが正しい認識である」などと公定することがあってはならない。
国家一般であっても、現実の具体的国家でも、あるいは歴史の所産としての今ある国家像としても、公権力が「これが正しい国家認識」などとおこがましいことを言ってはならない。それこそ、「教育勅語」「国定教科書」の復活という大問題となる。
ところが、都教委の無神経さは、臆面もなく「国旗国歌の正しい認識」を言ってのけるところにある。もし、正しい「国旗国歌に対する認識」があるとすれば、次のような、徹底した相対主義の立場以外にはあり得ないだろう。
「国家に対する人々の考え方が無数に分かれているように、国旗国歌に対しても人々がいろんな考え方をしています。民主主義社会においては、このような問題に関して、どの考え方が正しいかということに関心を持ちません。そもそも、「正しい」あるいは「間違っている」などという判断も解答もありえないのです。多数決で決めてよいことでもありません。それぞれの考え方をお互いに尊重するしかなく、決して誰かの意見を他の人に押し付け、強制・強要するようなことがあってはなりません」
上記???を「正しい認識」とするのが、話題の都教委である。悪名高い「10・23通達」を発して懲戒処分を濫発したのは、このようなイデオロギーを持っているからなのだ。
?「国旗と国歌は、いずれの国ももっている」という叙述には、国家や国民についての矛盾や葛藤を、ことさらに捨象しようとする姿勢が透けて見える。いずれの国の成立にも、民族や宗教や階級間の軋轢や闘争の歴史がまつわる。その闘争の勝者が国家を名乗り、国旗・国歌を制定している。「いずれの国も国旗国歌をもっている」では、1910年から1945年までの朝鮮を語ることができない。現在各地で無数にある民族独立運動を語ることもできない。
?国旗と国歌は、「いずれの国もその国の象徴として大切にされており」は、各国の多数派、強者のグループについてはそのとおりだろうが、少数派・敗者側グループにおいては、必ずしもそうではない。「相互に尊重し合うことが必要であること」は微妙な問題である。価値観を同じくしない国は多くある。独裁・国民弾圧・他国への収奪・好戦国家・極端な女性蔑視・権力の世襲・腐敗‥。正当な批判と国旗国歌の尊重とは、どのように整合性が付けられるのだろうか。
?「我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着している」ですと? 国旗国歌法制定時には、「日の丸・君が代」が国旗国歌としてふさわしいか否かが国論を二分する大きな議論を巻き起こしたではないか。政府は「国民に強制することはあり得ない」としてようやく法の制定に漕ぎつけたではないか。
わが日本国は、「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言して建国された。したがって、「戦争の記憶と結びつく、旗や歌は日本を象徴するものとしてふさわしくない」とする意見には、肯定せざるを得ない説得力がある。ことさらに、このことを無視することを「正しい認識」とは言わない。むしろ、「一方的な見解の押し付け」と言わねばならないのではないか。
?「君が代」とは、「かつて国民を膝下に置き、国家主義・軍国主義・侵略主義の暴政の主体だった天皇を言祝ぎ、その御代の永続を願う歌詞ではないか。国民主権国家にふさわしくない」。これは自明の理と言ってよい。これを「日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌」という訳の分からぬ「ロジック」は、詭弁も甚だしいと切り捨ててよい。
以上の???のテーゼの真実性についての論争は実は不毛である。国民の一人が、そのような意見を持つことで咎められることはない。しかし、公権力の担い手が、これを「正しい」、文脈では「唯一正しい」とすることは噴飯ものと言うだけではなく、許されざることなのだ。
都教委は権力の主体として謙虚にならねばならない。民主主義社会の基本ルールに従わなければならない。自分の主張のイデオロギー性、偏頗なことを知らねばならい。
教育委員の諸君。都教委がこんな「正しい認識」についての主張をしていることをご存じだったろうか。すべては、あなた方の合議体の責任となる。それでよいとお思いだろうか。あらためて伺いたい。
(2014年7月28日)
猛暑のさなかに「熱気」あふれる集会所にお集まりの皆様、ご苦労様です。
「東京『君が代』裁判第4次訴訟」の概要をお話しさせていただきます。
「東京『君が代』裁判」は、都立校の卒入学式において「国旗起立・国歌斉唱」「国歌伴奏」の職務命令違反を理由とする懲戒処分の取り消しを求める行政訴訟です。1次訴訟から4次訴訟まであり、1次訴訟は2012年1月16日、2次訴訟は2013年9月6日に、いずれも最高裁判決で確定しています。両判決は、22件の減給処分と1件の停職処分を取り消しましたが、もっとも軽い戒告処分については「違憲違法だから取り消せ」という原告側の請求を退けています。今、3次訴訟が一審東京地裁で結審して来年1月16日の判決期日を待っており、4次訴訟が新たに提起されてこれから本格的な審理が始まるところです。
4次訴訟の訴状は約130頁。目次を書き連ねたレジメを用意しましたが、おそらくこれでは平板に過ぎて分かりにくかろうと思われます。メリハリを付けてご質問に答えるかたちでお話しをさせていただきます。
原告側の言い分の最たるものは、訴状の冒頭「本件訴訟の概要と意義」のところに書いてあります。表題のとおり、「これまでの最高裁判決に漫然と従ってはならない」と裁判所に語りかけています。
「裁判所の果たすべき使命」の節に、最高裁判決の中に見られる『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』という警句や、そして、「マルティン・ニーメラー」の述懐を引いています。最近の憲法状況をみるに、人権や民主主義、あるいは平和が危うくなっているという危惧を抱かずにはおられません。厳格に憲法を遵守すべき姿勢の重大性を強調しています。
「漫然と従ってはならない、これまでの最高裁判決」とは、1次2次の各訴訟の判決を指しています。その余の10・23通達関連事件判決も同旨で、「減給以上の重い処分は量定重きに失して違法となるので取り消すが、軽い戒告にとどまる限りは違憲違法とまでは言えない」というのが、最高裁多数意見の見解です。
最高裁の判断は、減給以上の懲戒処分を取り消した限りでは、頑迷固陋な都教委に鉄槌をくだしたものと言えます。あの、行政に甘いことで知られる最高裁ですら、都教委の累積加重の機械的懲戒システムを違法としたのです。都教委は、司法から「違法行為者」という烙印を押された行政機関として恥を知らねばなりません。
しかし、戒告を違憲違法とはいえないとした点で、私たちは、この最高裁多数派の見解を到底受け容れることができません。最高裁裁判官も馴染んできたはずの憲法学界の通説的見解から大きくはずれた判断だからです。
なんとか、戒告についても違憲あるいは違法という裁判所の判断を求めたい。そのために、1次、2次の訴訟とは違った構成の訴状となっていることをご理解ください。
まずは、これまでと同様、憲法19条(思想良心の自由の保障)違反の主張について、手厚く論理を構築しています。ピアノ伴奏強制事件の判決は、「ピアノ伴奏という外部行為の強制は、客観的一般的には内心の思想良心を侵害するものではない」と言っていました。さすがにこれは、評判悪くて持ちこたえられず、1次・2次訴訟判決では、「国旗国歌への敬意表明という外部的行為の強制は、間接的には思想良心を侵害するものである」ことを認めました。しかし、同時に「間接的な侵害に過ぎないから、合憲判断に必要とされる厳格な審査基準の適用は必要なく、合理性・必要性が認められる程度で合憲と認めてよい」としたのです。
「間接的な侵害」に過ぎないという認定の吟味。「間接的な侵害」には厳格な審査基準不要という判断枠組みへの疑問と反論。そして、「必要性・合理性」存否の再点検まで追求しなければなりません。
それだけではなく、別の観点から新しい論点の設定が必要です。訴状では、「客観的アプローチ」、「客観違法」、「客観違憲」の主張をしています。19条違反、20条違反、あるいは23条違反という、「人権を侵害する」ところで行政の違法を把握し、「人権侵害故に違憲違法」とのアプローチを「主観的アプローチ」と呼ぶことにします。これとは異なり、そもそも当該行政機関にはそのような行為をすべき権能がない、という構成を「客観的アプローチ」と言ってよいと思います。
主観的なアプローチとしては一応最高裁の判断があったが、客観的なアプローチにおいての最高裁の判断はまだない、というのが私たちの立ち場です。
客観的アプローチは、立憲主義的アプローチでもあります。憲法とは、公権力と個人との関係を律するものです。先国家的な根源の存在である個人の尊厳こそが最高の憲法価値であって、主権者が後個人的な被造物として作りあげた国家が個人の尊厳に道を譲るべきは当然のことです。
ところで、国旗国歌は国家と等価な存在です。人は国家と等価な国旗国歌と向き合って、自分と国家との関係を形に表します。国家の象徴としての国旗国歌への敬意表明の強制は、国家を個人の尊厳の上に置くものとして、憲法の理念からはあるべからざることと言うしかありません。憲法的視点からは背理であり、倒錯にほかなりません。
この客観的アプローチだけでなく、10・23通達関連事件では最高裁が口を噤んでいる「教育の自由」の問題についても、重厚に論じて行きたいと思っています。
これまで、あらゆる公務員論のネックにあった、猿払事件最高裁大法廷判決の先例性に、堀越事件が切り込んでゆらぎが見えます。「七生養護学校事件判決」も、あらためて教育の自由に言及しています。
「日の丸・君が代」強制問題については、決して、最高裁判例が固まったとは考えていません。「戒告処分も違憲違法」そのような判決を目指していることをご理解ください。
(2014年7月27日)
東京君が代訴訟弁護団の澤藤です。本日の服務事故再発防止研修受講者に代わって、教育庁の研修課長と本日の研修を担当する東京都教職員研修センターの職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まずは、都教委に対する厳重なる抗議を申しあげねばなりません。
本日の研修は、本来まったく必要のないものです。
不当な命令に屈せず、自らの思想を守り抜く決意のもと、自覚的に「日の丸・君が代」の強制を拒否した教員に対する「再発防止研修」とは、いったいどういう意味をもつものでしょうか。
それは、「日の丸・君が代」の強制を拒否する教員の思想の転向を求めるためのものであるか、さもなくば信念を貫いた教員に対する嫌がらせを通じて、次の機会からは心ならずも強制に屈する選択をさせるための手段のどちらかでしかありません。
周知のとおり、日本国憲法は「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という他国には稀な1か条を創設しました。内心の自由を保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。つまりは、キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。
大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。
国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。国民が主人で、国家はその僕、あるいは国民に使い勝手のよい道具に過ぎません。にもかかわらず、国旗国歌に敬意の表明を強制するなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。
その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。
都教委は、懲戒処分の機械的累積加重システムによって抵抗する教員を封じ込めることができると思い込んでいました。しかし、行政に甘いことで知られる最高裁も、さすがにこれは違法と認めました。私たちが、思想転向強要システムと呼んだ不起立回数が増えれば自動的に処分量定が加重されるという方式はとれなくなった。
その代わりとして考え出されたのが、被処分者に対する服務事故再発防止研修の厳格化ではありませんか。回数を増やし、時間を長くし、密室で数人がかりでの糾問までしている。また、校内研修もくり返し行われる。今や、研修という名の嫌がらせが、思想弾圧の主役になろうとさえしている。
私たちは、厳重に抗議します。
10・23通達を撤回せよ。職務命令も処分もやめよ。
そして、服務事故再発防止研修という名の嫌がらせも止めよ。
次に、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非違行為を犯して懲戒処分を受けた地方公務員だ。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき教員なのです。そのことを肝に銘じていただきたい。
それに引き換え、あなた方、研修センターの職員は、どんな立ち場にあるのか。よくお考えいただきたい。あなた方は、踏み絵を強要した幕府の役人と同じ質のことを今日やろうとしている。治安維持法に基づき「国体を変革し、私有財産を否定する」思想を取り締まった特高警察と同質のことをしようとしている。権力の手先となって、思想弾圧をしようとしているのがあなた方だ。忸怩たる思いをもっていただきたい。恥ずかしいと思っていただかなくてはならない。
ぜひ、尊敬すべき研修受講者に対して、敬意をもって接していただきたい。決して、侮蔑的態度をとってはならない。
本日の研修が、研修受講者の思想信条に踏み込むものとなれば、また、受講者の人格を傷つけるようなことになれば、日の丸・君が代強制だけでなく、研修の在り方そのものの違法が法廷で争われることにならざるを得ません。そのときは、今日のあなた方の一挙手一投足が問題とされることになる。
あなたの良心に期待したい。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう、要請いたします。
(2014年7月9日)
本日は東京「君が代」裁判第四次訴訟(原告14名)の第1回口頭弁論期日。係属は東京地裁民事11部。527号法廷の傍聴席は抽籤による傍聴者で埋まり、真摯な緊張感がみなぎった。
本日の法廷では、原告の教員3名と、原告ら代理人を代表した平松真二郎弁護士が、堂々の意見陳述を行った。約30分、合議体の裁判官3名のどなたもが真剣に耳を傾けてくれたという印象がある。
本日に限らないが、原告教員の陳述には襟を正さざるを得ない。多くの原告が、生徒に恥ずべきことはできないという、教育者としての真っ当な自覚から「日の丸・君が代」強制に従えないことを切々と述べることになる。人が人であるために、自分が自分であるために、そして教師が教育者であるために、生徒の信頼を裏切ってはならないとする動機から、「日の丸・君が代」強制に屈することができないというのだ。
書面にして裁判官に読んでも同じことかといえば、決してそうではない。法廷での立ち居振る舞いや肉声は、書面とはひと味もふた味も違った直接のコミュニケーション手段となる。原告3名の今日の意見陳述は、私の胸に重く響いた。
平松弁護士の陳述は、これから審理を担当する裁判所に向かって、「『既に言い渡されている同種事件の最高裁判決を踏襲して処理すればよい』などという安易な態度での審理や判決であってはならない」というもの。懲戒処分をめぐる事実関係は、これまでの最高裁判決事案とは大きく異なってきている。「日の丸・君が代」強制を違憲違法とする法的根拠は多岐にわたるが、最高裁判決は憲法19条論にしか触れていない。本件では最高裁が示した19条解釈の誤りを糺し、さらに公権力の教育への介入禁止などのその他の論点についても十分な審理をお願いしたい、というもの。
既に定年退職された男性教員原告お一人の陳述と、平松弁護士の陳述を抜粋してご紹介する。
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38年間の教員人生の中で、2003年に出された「10・23通達」の衝撃を忘れることはできません。それまでの都立高校では、生徒の目線に立った人学式・卒業式が、創意工夫を凝らして行われてきました。それが突然、一片の通達で「日の丸・君が代」強制の場に変えられたのです。それから10年以上が過ぎました。 今もなお、その強制と処分行政が続いていることに驚きます。
「10・23通達」以前の卒業式を思い出します。私は夜間定時制に長く勤務しましたが、定時制では途中で学校を去っていく生徒も少なくありません。ですから、困難を乗り越えて4年後にゴールにたどり着いた時の喜びは、言葉では言い表せないほどです。卒業式では、卒業証書を高々と掲げる者、ガッツポーズをする者、また、在学中に生んだ子どもを抱えて証書をもらう者、様々で、その姿に一人一人の人生が凝縮されるのです。私たち教師は、自主的に卒業式の役割分担を決め、生徒の動きに合わせて臨機応変に動きました。子連れの生徒の場合は、預かってあやすこともしました。年配の方や車椅子の生徒には近くに行って介助しました。式の会場も体育館ではなく、食堂を使ってフロア形式で行いました。形式的な「儀式」ではない、心を合わせて卒業生を祝うアットホームな式でした。
しかし、「通達」で、卒業式は一変しました。処分と脅しを背景とした職務命令が出され、式の形態や進行は通達通りの画一的なものになりました。会場である食堂に、意味のない「演壇」が持ち込まれ、校長が見下ろす形にされました。各学校の事情や工夫は一切認められず、生徒主体の式は圧殺されました。
生徒にまで「君が代」の起立斉唱が強制され、最近では生徒の「送辞」や「答辞」にも管理職のチェックが及ぶと聞きます。さらに、その命令体制は卒入学式にとどまらず、教育活動の隅々にまで及ぶようになりました。
退職直前の卒業式の時、私は3年生の担任でした。定時制は4年卒業が原則ですが、3年で卒業する道もあるので、3年の担任も卒業生を送り出します。
最後の卒業式で私は、「君が代」斉唱時に起立せず、処分を受けました。
私は「通達」以降、「日の丸・君が代」の強制には強い批判を持ちながらも、あえて不起立はしませんでした。生徒や同僚に与える影響も考え、踏み切れなかったのです。しかし、教育現場はどんどん息苦しくなり、「何を言ってもムダ」という気分が広がっていきました。退職を控え、私が半生をささげてきた都立高校教育とは何だったのか、これでいいのか、と思い悩みました。最後くらいは自分の気持ちに素直でありたい・・これが私の結論でした。
卒業式の2日後に東日本大震災が勃発し、日本国中が大混乱に陥りました。
その夜は職員室にごろ寝し、翌日からは生徒への連絡に忙殺されました。多くの方が津波で亡くなり、原発が爆発するという非常時に、都教委の職員が私の事情聴取のために学校を訪れました。震災の支援どころか、不起立教員への処分を最優先するこの対応は常軌を逸しています。
退職して1年後、私は教え子の卒業する姿を見たくて、副校長に何度も卒業式の問い合わせをし、やっと直前に形ばかりのお知らせが届きました。
当日、3年まで担任をした生徒たちが目の前にいるのに、会場にいる私の紹介は全くありませんでした。都教委の命令によるものです。卒業生退場の時に、私は出口に走って行って、生徒だちと握手して別れを惜しみましたが、退職した後まで不起立教員を排除し、生徒と教師の触れ合いを断ち切ろうとした都教委の卑劣さに、今でも怒りを感じます。
定時制での経験を少々話します。女子のAさんは、いじめをきっかけに中学3年間ほとんど学校に行かず、引きこもりの生活をしていました。定時制入学当初の彼女は、一人で電車に乗ってどこかに行くこともできませんでした。つまり、社会的な経験が極めて少ないのです。そんな彼女でしたが、心の通う友達ができると、休まず学校に通うようになりました。最後は生徒会の役員にまで立候補し、優秀な成績で卒業していきました。引きこもりだった生徒が、定時制というコミュニティーの中で自己を回復していく過程は本当に感動的です。
問題行動の多かった男子のB君は、学校外で事件を起こし、警察に補導され、鑑別所に入ってしまいました。彼はそれ以前も鑑別に入ったことかあり、今度は少年院送致もありうる状況でした。私は、彼を学校に戻したい一念で鑑別所に面会に行き、励ましました。家庭裁判所の審判の日、私も傍聴しましたが、裁判長が私に向かって「B君を学校で受け入れる用意があるか」と質問、私は「全力をあげます」と答えました。休憩を取った後、保護観察との結論が出ました。学校に戻った彼は、しだいに心を開くようになり、無事卒業しました。
生徒がどんな問題を抱えていようと、教師は生徒に寄り添い、彼らの成長のために全力を尽くします。しかし、都教委は、それとはまったく逆に、問題を抱えた生徒は切り捨てる、という姿勢を強めています。現場では自由闊達な教育実践が衰弱し、それが生徒の活動に否定的な影響を及ぼしています。一番の被害者は生徒なのです。この現状こそまさに「10・23通達」以来の職務命令体制の帰結です。生徒と教師の触れ合いを再び教育現場に取り戻すために、裁判官の皆様の賢明な判断をお願いして陳述を終わります
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1 2003(平成15)年10月23日のいわゆる10・23通達以来,東京都の公立学校において,卒業式等の儀式的行事において国歌の起立斉唱が義務付けられ,これに従わない教職員に対する懲戒処分が繰り返されています。これまでに延べ462名の教職員が懲戒処分を受けています。
10・23通達を巡っては,これまでに多数の訴訟が提起され,2011(平成23)年5月から2013(平成25)年9月までの間にいくつもの最高裁判決が出されました。これまでの最高裁判決の結論は,国歌の起立斉唱の義務付けは思想良心の自由に対する間接的制約であるが,義務付けの必要性,合理性があれば憲法上許容されるというものでした。
2 もとより,原告らは,国歌の起立斉唱の義務付け,その義務違反に懲戒処分をもってのぞむこと自体違憲であり,戒告処分を含めたすべての懲戒処分が違法であると考えて本件訴訟の提訴に至りました。
本件訴訟で問われている主要な論点は二つあります。
一つは,教育という社会的文化的営みに,国家がどこまで介入することが許されるのかという問題です。
戦前の教育は,神である天皇が唱導する戦争に参加することこそが忠良なる臣民の道徳であると教え込むものでした。富国強兵,殖産興業,植民地支配といった国家主義的国策の正当性を児童生徒に刷り込む場として教育が利用されました。国家のイデオロギーそのものが教育の内容となり、民族的優越と忠君愛国が全国の学校で説かれたのです。その結果が,無謀な戦争による惨禍となりました。
歴史の審判は既に下っています。教育を国家の僕にしてはならない。国家が教育内容を支配し介入してはならない。国家が特定のイデオロギーを国民に押し付けてはならない。
この普遍的な原理が日本国憲法26条,23条,そして13条として結実しています。そして教基法16条が教育内容に対する「不当な支配」を禁ずることを確認しています。あまりに大きな代償と引き換えに得たこの憲法上の理念をゆるがせにしてはなりません。
10・23通達は,教育内容を教育行政機関が定めるものであって,公権力による教育への支配介入にほかなりません。しかしながら,この重大な問題について、最高裁の各判決は,いまだに判断を示しておりません。
3 本件訴訟におけるもう一つの問題が,個人の精神の内面に国家はどこまで介入することが許されるのかという問題です。
前述のとおり,最高裁判決の結論は,国歌の起立斉唱の義務付けは,その必要性,合理性があれば憲法上許容されるというものでした。私たちは,この点に関する一連の最高裁判決には、その判断の枠組みにおいても、一定の必要性、合理性が認められるという点においても承服しがたいと考えて、司法判断の変更を求めて,本件の訴訟活動をおこなっていく所存です。
4 ところで,一連の最高裁判決には,数々の個別意見が付されています。補足意見においてもその多くが国歌の起立斉唱の「強制」に慎重な姿勢が示されています。
たとえば,2011(平成23)年5月30日第二小法廷判決(平成22年(行ツ)第54号事件)では,須藤正彦裁判官は,
「教育は強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって,……卒業式などの儀式的行事において,『日の丸』,『君が代』の起立斉唱の一律強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると……あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれる」
と述べています。
そのほか,2011年の一連の最高裁判決では竹内行夫裁判官,千葉勝美裁判官,大谷剛彦裁判官,金築誠志裁判官,岡部喜代子裁判官が,2013年1月最高裁判決では桜井龍子裁判官が,2014年9月最高裁判決では鬼丸かおる裁判官がそれぞれ補足意見を述べています。
これらの各最高裁裁判官の補足意見では,国歌の起立斉唱の義務付けを推し進めても,不起立と懲戒処分との果てしない連鎖を生むだけであり,それがもたらす教職員の萎縮と教育現場の環境悪化を憂慮し,その連鎖を断ち切るために,寛容の精神のもとに思想良心の自由の重みを考慮して,「全ての教育関係者の慎重かつ賢明な配慮」を求め,「全ての関係者によってそのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要」が説かれていました。
5 しかるに,都教委は,これらの最高裁判決を真摯に受けとめようとする姿勢を欠き、免罪符を得たとばかりに国歌の起立斉唱命令に従えない教職員に対する圧力を一層強めています。従前よりも処分内容が加重された懲戒処分を科すことにより教職員に対する強制を押し進めています。
本件の原告の中にも,複数回の不起立というだけで減給処分が科せられた者がいます。そこには,ただただ国歌の起立斉唱の義務付けを貫徹しようとする思惑だけが見て取れ、最高裁判決の各補足意見が,教育環境の改善を図るために寛容の精神及び相互の理解を求めたことについての配慮はみじんもみられません。不起立とそれに対する懲戒処分が繰り返される結果,教育現場の環境が悪化しようが,永続的に紛争が続くことになろうが,起立できない教職員に対して徹底的に不利益処分を科し,根絶やしにすることに固執する姿しか見られません。
このような姿は,最高裁裁判官の各補足意見の真意に沿うものではないことが明らかです。
6 それを措いても,本件訴訟においては,これまでの最高裁判決の多数意見の判断,結論に漫然と従って判断されてはなりません。
2011年の一連の最高裁判決以降,都教委の再発防止研修の強化など,より精神的自由に対する制約が強められていること,原告らに科された各懲戒処分の実質的内容が加重されていることなど事実経過を正確に認識したうえで,憲法19条が保障する思想良心の自由が侵害されているか否かが判断されなければなりません。また,都教委による教育内容介入が,教基法16条が禁ずる「不当な支配」に該当するか否かが判断されなければなりません。そして,懲戒処分を繰り返している被告の真の意図を直視した判断がなされなければなりません。
最高裁判決の多数意見の結論のみに漫然と従い,硬直した判断を行うことは,「いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態」を黙過し,各最高裁裁判官が危惧した国歌の起立斉唱の義務付けに端を発する教育現場の荒廃をも容認するものにほかならず,はからずも貴裁判所の判断が,教育環境を悪化させる一端を担う結果となるのです。
訴訟の冒頭に当たって,このことをくれぐれも強調し,教育の本質についての深い洞察に基づいた的確な訴訟指揮を求めるものであります。
この陳述が実る日の来たらんことを。
(2014年6月11日)
バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が、昨日(5月27日)早稲田大学で講演した。同大学が「シェイク・ハシナ首相プロフィール」として紹介するところによれば、「バングラデシュ独立の父・初代大統領ムジブル・ラーマンの長女として生まれる。父、母、兄弟ら一族十数人を軍事クーデタで失い、自身も英国、及びインドで亡命生活を余儀なくされるが、1981年に帰国。野党・アワミ連盟の総裁に。史上最年少で就任し、反政府運動を主導。軍事政権を打倒する。貧困撲滅による社会的公正の達成を信条とした献身的な活動を続けており、1996年に同国首相に就任。2009年から再び首相を務めており、2014年より3期目」とのこと。
同氏は昨日の講演において、亡父ラーマン氏が、独立に伴う1972年の国旗制定時に「日本に魅せられ日の丸のデザインを取り入れた」と述べたそうだ。そのように述べることが、日本への親近感をアピールになるとの思いがあってのことだろう。
以下は毎日新聞の報道。
「バングラデシュ国旗は日の丸とほぼ同じ柄で、豊かな自然を表す緑の地に、独立のために流した血を示す赤い丸が描かれている。ラーマン氏は『農業国だった日本が工業国に発展したように、バングラデシュも将来は工業国になるべきだ』と話していたという。日本とのつながりを強調したハシナ氏は『貧困削減や経済発展には教育が不可欠。日本の援助は喜ばしい』と述べ、友好と経済協力を呼びかけた。」
注目すべきは、バングラデシュ「独立の父」にも、日の丸の赤は血の色を連想させたということである。バングラデシュの「日の丸」は、独立運動家たちが流した尊い血の象徴とされたようだが、さてわが国ではどうだったろうか。
「日の丸の旗はなどて赤い かえらぬ息子の血で赤い」は、よく聞かされたフレーズ。栗原貞子の詩の一節にも取り入れられている。近隣諸国の人々には、侵略戦争の犠牲になった同胞の血の色に見えるだろう。それは、清算され風化した過去のことではない。「かえらぬ息子の血」の色は、まだ拭い去られてはいないのだ。
しかし、もとより白地に赤の「日の丸」は、白い人民の骨の色、赤い人民の血の色をイメージして作られたものではない。素朴な太陽信仰の象形といってよかろう。
異説もあるが、天武朝のころに皇室は太陽を神格化したアマテラスという女性神を皇祖とした。同じ頃、先進国中国に対抗意識をもって日本という国号を使用するようにもなった。後年、そのような歴史的経緯から、「日」のデザインが国旗としての地位を占めるようになる。もっとも、国家の象徴とは無関係に、日の丸のデザインが使用されてはいたようだ。しかし、白地に赤とは限らない。
有名なのは、平家物語「那須与一」の段。ここで弓射の標的とされ射落とされて海に散る日の丸に、神聖なイメージはない。そして、デザインこそ日の丸だが、色は「白地に赤」ではなく、「赤地に金」というのが通説的理解。
平家物語には、「皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたる」が2か所に出てくる。「地の色が『紅』の扇に、金箔で『日』が押し出されているもの」というまだるっこい表現は、日の丸がまだ人々の意識に定着していないことを表しているのではないか。ちなみに、赤ではなく紅。実は、国旗国歌法でも、日の丸の彩色は赤ではなく「紅色」となっている。
いずれにせよ、語り物「平曲」の一番の聞かせどころである。
「沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘、汀へ向いてこぎ寄せけり。磯へ七、八段ばかりになりしかば、舟を横さまになす。『あれはいかに』と見るほどに、舟の内より齢十八、九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日出だしたるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸へ向いてぞ招いたる。」
「与一鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」
金色の丸は頭上に輝く太陽で、日の出の太陽を表すものではない。平家物語を日の丸の起源とすることには無理があろう。日の丸は、その出自において宗教色濃厚なものではあるが、血の色と結びつく好戦的なものではなかった。「日の出の色」を「血の色」のイメージに変えたのは、天皇制政府の責任である。
(2014年5月28日)
春は、卒業式と入学式の季節。それぞれの人生の節目と再出発の、キラキラ光る美しい時。ところが、東京の公立校では、「日の丸」と「君が代」の強制の季節。そして処分の季節だ。少しも美しくない。今年も4人に懲戒処分が発せられた。これで、「日の丸・君が代」強制に服さないことを理由とする処分は461件となった。
懲戒処分を受けた者には、服務事故再発防止研修の受講が命じられる。本日、水道橋の東京都教職員研修センターで、その再発防止研修が強行された。私たちは、これに抗議して、センターの門前に集まって抗議と要請を行い受講者を激励する。
早朝8時半、マイクを握って研修の責任者に申し入れを行う。
「行政機関としての都教委と研修センターに、抗議と要請を申しあげたい。また、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様にもお願いしたいことがある。聞いていただきたい。
本日、服務事故の再発を防止するための研修が予定されているが、いずれの受講者も服務事故を起こしたとの認識はない。もとより、反省とは無縁である。再発防止のためとする研修は、体罰やハラスメントの不祥事を起こした職員には必要であろうが、自らの思想・良心に忠実な行動をした本日の受講者には、まったく無意味で、本来研修は無用である。むしろ、本日の研修受講予定者は、教員としての職業的倫理観と責任感の高い尊敬に値する教育者である。模範に値すると言っても決して過言ではない。
この人たち対して、再発防止研修に名を借りた恫喝は思想良心の自由に対する直接の侵害である。また、その誤りを糺そうと説得を試みることは、行政による思想転向の強要にほかならない。いずれも憲法19条に違反する。また、子どもたちの教育を受ける権利の侵害にもなる。
行政機関は憲法を遵守しなければならない。その憲法は、思想良心の自由を保障している。思想良心の自由の保障は、国民に対してどんな行動も自由だとしているわけではない。しかし、こと国民が国家をどのように位置づけるかについては、絶対の自由が保障されなければならない。国旗国歌への敬意表明の強制は、国家主義否定の思想を侵害することではないか。各個人の歴史認識によって、日の丸・君が代が象徴している大日本帝国の時代を受け容れがたいとする思想を否定してはならない。
戦争の惨禍から新たな国をつくろうとした日本国民は、戦前の国家主義を清算することを新たな国家の礎として憲法を制定した。国家は誤りを犯す、ということが最大の教訓ではなかったか。国家は、特定の価値観をもってはならない。とりわけ、教育の場で、国家に都合のよいイデオロギーを子どもたちに押し付けてはならない。それが憲法の命じる大原則である。
10・23通達と、通達に基づく職務命令、そして職務命令違反を理由とする懲戒処分は、思想良心の侵害であり、子どもたちの教育を受ける権利の侵害でもある。それだけではない。再発防止研修という名の嫌がらせも、思想良心の侵害なのだ。
これまで、あなた方研修センターは、教職員に対する思想良心侵害実施実務の脇役だった。なによりも、懲戒処分の累進加重制度が圧倒的な重みをもつ弾圧手段だった。再雇用拒否も過酷な制裁だった。ところが、行政には甘いことで知られている最高裁も、さすがに累進加重制度を転向強要システムと認めて、これは違法とした。つまり、懲戒処分の制裁効果は最高裁によって縮減された。代わって、服務事故再発防止研修が、「怪しからん教員への嫌がらせ手段」として主役の座に躍り出た。
いま、あなた方の一挙手一投足が注目の的となっている。今日の研修におけるあなた方のやり方が歴史の審判を受けることになる。
400年前のキリシタンに対する踏み絵は、九州の天領や各藩で大規模に行われた。その実施には大勢の役人が動員されている。今、あなた方は、キリシタン弾圧の役人と同じことをやっている。
戦前の憲兵や特高警察は、多くの弾圧立法に基づいて、国家に反逆する者、天皇に逆らう者、私有財産制度を否定する者を徹底的に取り締まった。今、あなた方は、特高や憲兵と本質において変わらないことをやっている。
キリシタン弾圧の役人も憲兵や特高も、残虐非道な極悪人だったわけではない。その時代の常識人として、その時代の常識に基づいて忠実に任務を実行していただけなのだ。いや、使命感に燃えて国家社会のために働いていたとも考えられる。今、あなた方も同じ立ち場にある。任務だからという言い訳は、歴史の審判に耐えられない。
とは言っても、あなた方が、命じられた本日の研修実施任務を放棄することは難しいだろう。だから、申し上げたい。せめて、本日の研修受講者に敬意をもって接していただきたい。あなた方は、自身の行為には忸怩たる思いを抱かねばならない。そして、処分の不利益を覚悟で、自らの思想良心を貫いた教員には、敬意の念を持っていただきたい。それが、せめてもの罪滅ぼしだと認識していただきたい。
私の要請はそのことに尽きる。」
実際は以上のように整然とはしゃべれなかった。時間の制約もあった。早朝、頭も口も滑らかには回らない。言いたかったことを整理して文章にしてみれば、以上のとおり。
(2014年4月4日)
大相撲春場所は本日千秋楽、大関鶴竜の初優勝で幕を閉じた。これで、場所後の鶴竜の横綱昇進が確定。角界の頂点に立つ横綱3名が、いずれもモンゴル出身者となる。
67代横綱が武蔵丸(ハワイ)、68代朝青龍、69代白鵬、70代日馬富士、そして鶴竜が71代目。ここ5代、外国人横綱が続く。最近4代はモンゴル出身者だ。2003年1月に貴乃花が引退して以来11年、日本人横綱は不在のままである。
朝青龍が突然に引退したのが2010年2月のこと。あの不祥事さえなければ、彼は33歳の今も綱を張っていたのではないだろうか。琴欧洲も把瑠都も怪我さえなければとっくに横綱になれた素質だった。
東京の両国国技館には、幕内最高優勝者の全身像を描いた顕彰額が飾られる。その数は32枚。順次掛け替えられて最近32場所の優勝者の額が観客を見下ろしている。この優勝額に日本人力士の姿が消えて久しい。
2004年夏場所以来の最近10年60場所を見てみよう。2011年春場所は八百長問題で中止となっているから、実際は59場所。このうち日本人力士の優勝は2度のみ。2004年秋場所の魁皇と、2006年初場所の栃東。栃東を最後に、この8年間日本人力士の優勝はない。2002年に各部屋1名の外国人力士枠制限を設けて、この事態なのである。
「ウインブルドン現象」という経済用語がある。市場開放によって優れた外国資本に国内企業が席巻されてしまうことをいうが、イギリスの権威を示すウインブルドン・テニス大会で地元選手が優勝できないことを皮肉っての命名。今、テニス界ではイギリス選手は強くなっている。同じ概念を「大相撲現象」と言葉を換えねばならない。
しかし、日本の大相撲ファンは外国人力士の活躍に寛容である。決して差別的な感情で彼らを見ていない。この暖かさ、懐の寛さに救われる思いがする。
とはいえ、おそらくは外国人力士の日本への同化の努力を認めてのことではないだろうか。日本語を喋り、日本文化に敬意を表し、日本人以上に日本的な外国人力士に、その限りで寛容ということではないか。外国人力士が自らの国の文化を強く押し出してなお、日本人は彼らに寛容でいられるだろうか。
ところで、大相撲のプレーヤーとしての外国人力士への差別は見えて来ない。実力の世界と言ってよいだろう。しかし、大相撲ビジネスは「ジャパニーズ・オンリー」の世界である。相撲協会は、公益財団法人となってはいるが、その実態がビジネスであることは常識。日本国籍をもつものでなければ親方にはなれない。親方になれなければ大相撲ビジネスに参加はできない。これは、いかがなものか。非合理な非関税障壁と見なされかねない。
さて、本題である。各場所千秋楽の表彰式の冒頭に行われる、「国歌・君が代へのご唱和のお願い」はなぜ行われるのだろう。長くその理由を不可解と思ってきたが、今や明らかに不自然な事態となっているのではないか。大相撲は、尺貫法をメートル法に切り替え、土俵を拡げ、伝統の四本柱も取り払った。外国人力士の受け入れにも寛容だった。時代にあった諸改革の結果として今日がある。今や、君が代唱和の時代ではない。不自然なことは、すみやかに廃止するに越したことはない。
国際交流の場に参加国の国旗が並ぶことは理解可能である。国際対抗試合で、エールの交歓として両者の国歌演奏はあり得る。国際的競技会の勝者を讃える意味で、国旗を掲揚し国歌を演奏することも、賛否はともかく、意図は諒解可能である。これらは、いずれも自国だけでなく相手国の存在を前提としてのこと。相手国との関係において国旗国歌が機能する。国家の象徴としての国旗国歌が本来的にもつ識別機能に格別の不自然さはなく、他国の国旗国歌への敬意の表明も、強制の要素がない限りマナーとして認められるものであろう。
ところが、大相撲は、相手国の存在を前提としていない。日本人ばかりが集まる場で、日本の国歌を歌うことにいかなる意味があるのだろうか。日本人力士を激励しようというわけではない。これから力士が国際試合に出掛けて行こうというわけでもない。大相撲での国旗国歌は識別機能とは無縁で、象徴がもつ統合機能だけが働くものと想定されている。
つまり、「われらは相撲という文化を核として日本国民であることを自覚する」、あるいは「相撲という民族的文化を核としてわれら日本国民は団結する」というナショナリズムの宣言なのである。
さらには、「かたじけなくも天皇は、日本の国技である相撲の最強力士に賜杯を賜る。その天皇の御代がいつまでも続くことを、国民こぞって祈念申し上げる」という意味もあろう。つまりは、単なる国民統合ではなく、「天皇を中心とした国民統合」が意図されている。「ご唱和をお願い」は、甚だしく押し付けがましいのだ。
大相撲に国旗国歌の識別機能が働く余地はない。強いて識別機能を働かせようとするなら、優勝力士の出身地の国歌を演奏してはどうか。毎回、ここしばらくはモンゴル国歌を聞くことになろうが、それは勝者の権利である以上は甘受せざるをえない。
国旗国歌の統合機能は、自衛隊や官庁に任せておけばよい。客を呼ぶ場所に、ナショナリズムの鼓吹や強制は場違いである。なによりも、これだけ圧倒的な存在感のある外国人力士を抱えながら、「君が代・オンリー」はもはや不自然極まりない。優勝した武蔵丸に「君が代を歌って欲しい」と言った不見識なNHKアナウンサーがいた。武蔵丸は、「そちらこそ、優勝した私を表彰しようというのなら、君が代ではなく星条旗よ永遠なれを」と言い返せない。非対称性明らかなあの発言は、民族的なバッシングであり、ハラスメントである。このところ優勝を独占しているモンゴル勢の諸力士は、けなげに君が代に合わせて口を動かしているようだが、痛々しいことこの上ない。
私には、日本人の他国民への寛容の度合いが試されている問題と見えてならない。
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金魚はトウギョのごとく死闘しないか?
古典的名著「ソロモンの指輪」(コンラート・ローレンツ 早川書房)の一節である。
「ことわざには嘘やあやまりがつきものであるが、それにしても、なんと奇妙な盲信がふくまれていることだろう? キツネはずるいというけれど、けっしてほかの肉食獣以上にずるいわけではない。オオカミやイヌよりも、むしろはるかに愚鈍である。ハトはまるきりやさしくない。そして魚についての話はほとんどが嘘だ。退屈で冷淡な人のことをまるで魚の血のようだというけれども、魚はそれほど「冷血」ではないし、「水の中の魚」といわれるほど健康そのものでもない」
「トウギョはいつでもこのようなみごとな色彩をしているわけではない。鰭(ヒレ)をすぼめてアクアリウムのすみにうずくまっている小さな灰褐色のこの魚は、そんな美しい色どりの片鱗すらしめさない。だがみすぼらしさでは劣らないもう一匹のトウギョが彼に近づき、両者が互いに相手をチラリとみると、彼らは信じがたいほど美しい色どりに輝きだす。その速さといったら電流を通じられたニクロム線が真っ赤になるときとかわらない。鰭は急に傘を開くようにさっと広げられ、素晴らしい飾りに変化する。広げる音が聞こえるような気さえする。それから輝くような情熱のダンスが始まる。それは遊びではない。真剣なダンス、生か死か、未来か滅亡かをかけた激しいダンスだ。それが恋の輪舞となって交尾にいたるものか、それとも血みどろの闘いに移行していくものか、最初は全然わからない。これは奇妙な話だが、じつはトウギョは相手を見ただけでは仲間の性別が見分けられない。」
「その美しさのために、彼らは実際ほど悪者にはみえない。彼らが、死をも恐れぬ勇気と残忍な大胆さの持ち主であろうとは、ほとんど信じられぬくらいだ。にもかかわらず、彼らは血を流して戦うことを知っている。事実、トウギョの闘いは、片方の死に終わることがきわめて多い。ひとたび興奮がたかまって、短刀の第一撃が加えられたならば、わずか数分のうちに鰭がザックリと切りこまれる。・・・ひとたび実力行使にはいったら、多くはわずか数分でかたがついてしまう。闘いあう一方が瀕死の重傷を負い、水底に横たわってしまうのだ。」
我が家のスイレン鉢には、一匹の和金がいる。はじめ5匹いたなかで生き残った強者ゆえ、ラッキーと名付けて可愛がっている。身長10センチぐらいで、たぶん5歳にはなっている。一人暮らしに何の痛痒も感じていない様子にはみえるけれど、時には無聊をかこっているようにもみえる。しかし、「ソロモンの指輪」のなかの血も凍るような魚の闘いを読んでいたので、軽々には新入りの金魚を入れることなどできないと思っていた。ラッキーと新入りの死闘などみたくない。
ところで、近所に「金魚坂」という場所があり、そこには江戸時代創業の金魚屋がある。ラッキーは5年前そこから1匹50円で買ってきた由緒正しい和金である。通りがかれば、その金魚屋をちょいと覗くことにしている。和金のほかに出目金、らんちゅう、りゅうきん、獅子頭など色とりどり、形さまざま、値段ピンキリの金魚が悠然と泳いでいて、いくら眺めていても飽きない。気のいい店員さんが「だいじょうぶ。喧嘩しないですよ」と言うので、なんとなく、うかうかと、1匹100円の和金を2匹買ってきてしまった。
やはり、金魚屋さんは正しかったようだ。どうも金魚はトウギョのように猛々しくないらしい。平和主義者だ。餌をまいたときは、一回り大きいラッキーは他の2匹を寄せ付けまいと、脇腹をつついて追い回すのだが、1匹を追い払っているうちにもう1匹が餌を食べるので、無駄だということを学びつつある。新入りの2匹も、集団的自衛権行使の意図はない。食事時間のほかは、3匹して何事もなかったように平穏に泳ぎ回っている。でもまだまだ油断はできないと思う。
しかし、金魚の雌雄はわからない。繁殖期に、武力による威嚇、または武力行使の事態が起こらないか、その不安は残ったままだ。
(2014年3月23日)
福嶋常光さんの代理人の澤藤です。福嶋さんは、先ほど、東京地裁民事第19部の法廷において、都教委を被告とする訴訟での「減給6か月の懲戒処分を取消す」という全面勝訴判決を得ました。私からは、取材の皆さまに2点についてお話し申し上げたい。
その第1点は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制、あるいは「日の丸・君が代」強制に従えないとして処分された教員に対する服務事故再発防止研修受講強制の本質について。
私は弁護士です。在野の存在。権力との対峙を職務としています。けっして権力のイデオロギーに屈服してはならない。常に、そう自分に言いきかせています。
皆さんはジャーナリストだ。まさか、権力の垂れ流す情報を右から左に伝えることが職分だとお考えではないでしょう。国家のいうとおりにはならないことこそが、あなた方ジャーナリストの矜持であり、真骨頂だ。
実は教員だって同じこと。戦前の教員は、国定教科書で国家神道のイデオロギーを子どもたちに注入する道具だった。その結果が、「戦争は教室から始まる」といわれる軍国主義教育となって国を亡ぼした。その反省から、教員には、専門職としての教育の自由が保障されている。憲法23条の「学問の自由」がそれだ。教員は、けっして権力の伝声管ではない。子どもたちを、国家権力への従順な僕にしてはならない。そう考える教員は起立・斉唱・ピアノ伴奏に従えない。この点をご理解いただきたい。
とりわけ、累積加重システムとはなにか。起立・伴奏の命令に屈服するまで、際限なく懲戒処分が加重される仕組み。これは、思想や良心を変えるまで処分を加重するという、思想の転向強要システムではないか。再発防止研修の強制も同じことだ。さすがに、最高裁判決も、これはまずいといっている。累積の処分も、加重したら裁量権濫用で違法ということは、さすがに認めている。
今日の判決は、そのような文脈でのもの。最高裁は、「日の丸・君が代」強制を違憲とまではいわないが、思想良心自由を侵害する側面のあることは認めて、戒告を超える過重な処分を違法とした。福嶋さんに対する、本件の服務事故再発防止研修の強制もそのような意味で違法とされ、取り消された。この意味は小さくない。
もう1点。都教委のやり方が、余りにも滅茶苦茶であること。
福嶋さんは、絵に描いたような真面目な教員。都教委は、その真面目な教員に、1日の授業を潰して再発防止研修を受けろと命令した。福嶋さんは、これを拒否しなかったが、指定された日には5時間の授業があった。この授業は他の教員に交代ができない。だから、福嶋さんは、研修の日程を授業のない日に変更してもらうよう申し出た。しかも、候補日を6日も挙げてのこと。信じられないことに、都教委はこれを拒否したのだ。特に理由はない。処分を受けた者に、研修日程の変更を申し出る権利などないということなのだ。
真面目な教員が授業を大切にする立ち場から研修の日程変更を要望し、不真面目極まる都教委が授業などどうでもよい、というのだ。このコントラストが際立っている。結局福嶋さんは、授業を優先せざるを得なかった。それが、減給6か月というのだ。呆れた話しではないか。東京都教育委員会とは、「非教育的委員会」でしかない。
さすがに、こんな滅茶苦茶は裁判所も認めなかった。その意味では、今日の判決は当然の判決。まさか、都教委が控訴することはあるまいと思うが、ほかならぬ都教委のこと、敗訴の確定を少しでも先延ばしにしようと無駄な控訴をするかも知れない。私たちは、「控訴は恥の上塗りとなるだけだ」「税金を無駄にする控訴はするな」と要請行動をする予定。ぜひ、これについても報道していただきたい。
(2013年12月19日)
今週の木曜日19日に、「授業してたのに処分」事件訴訟の東京地裁判決が言い渡される。「授業してたのに処分」事件とは、まことに言い得て妙なネーミング。言うまでもなく、教員の本分は授業をすることにある。都立福生高校教員であった福嶋常光さんは、誠心誠意その本分を尽くしていたがために減給6か月の処分を受けた。「授業してたから処分」と言ってもよい。
経緯はこうだ。2005年3月の卒業式において、福島さんは2回目の不起立で減給1か月の処分を受けた。処分を受けると、引き続いて嫌がらせの服務事故再発防止研修の受講を義務づけられる。明らかな思想良心に対する追い打ちの侵害行為だとは思いつつも、これを拒否すればさらなる「職務命令違反」となりかねないのだから、受講せざるを得ない。この再発防止研修は戒告処分者に対しては一般研修で終わるが、減給以上処分を受けた者に対しては、追加して専門研修の受講を命じられる。
福島さんは、滞りなく一般研修は受けたが、専門研修として通知された当日には5時間の授業があった。しかも、どうしても他の教員に代わってもらうことができない。当然の処置として、福嶋さんは都教委に研修の日程変更を申し出た。しかし、都教委は日程変更が可能であったのに、何の理由もなく変更を拒否した。都教委にとって、生徒の授業を受ける権利も、教員がその本分を尽くしたいとする情熱も、何の関心の対象でもなかった。ひたすらに、「日の丸・君が代」強制に抵抗した怪しからん教員に対する徹底した嫌がらせの貫徹だけが関心のすべてであった。
福嶋さんは、戸惑ったが、結局は生徒に対する授業を優先した。こうして、普段通りの授業をしていたことが、減給6月の重い処分となったのである。これが、石原・猪瀬教育行政の実態である。信じられることだろうか。
19日、福嶋さんは必ず勝訴判決を得ることになる。理由を説明するのは煩瑣だが、訴訟の過程が福嶋さんの勝訴が100%確実であることを物語るものとなっている。
予め申し上げておきたい。こんな事件のこんな判決に都教委は控訴してはならない。恥の上塗りをするだけになるのだから。誠実に福嶋さんと生徒や父母たちに謝罪し、こういう馬鹿げた処分をした責任を明確にして、再発防止策を講じなければならない。
ところで同じ19日には、都教委の委員会定期会合が行われる。この席で、7名の教員への再処分が行われる可能性がある。しかし、「授業してたのに処分」事件の如く、都教委の処分はめちゃくちゃであり、既にぽろぽろなのだ。残念ながら、東京地裁判決が13時15分言い渡しであるが、教育委員会は午前10時開催である。だから、よく言っておきたい。その日の午後に、あなた方は全面敗訴の判決を受けることを肝に銘じなければならない。それでも、再処分ができますか。
最高裁で減給処分を取り消された現職の都立高校教員は7名。10月25日、この人たち全員に、改めての戒告処分発令を前提とした「事情聴取」が強行されている。これまで、「再処分をするな」と都教委に申し入れをしてきた。日本共産党東京都議団も都教委第19回定例委員会開催の前日11月27日に「再処分を行わないよう」都教委に申し入れている。
都教委は、最高裁から、違法な行為をした旨断罪された。よくよくのことと、恥じ入らねばならない。謂わば、最高裁からブラック官庁の烙印を押されたに等しい。まずは謝罪し、二度と同じ過ちを繰り返さぬようしっかり反省し、責任者を明確にして、再び違法な処分をすることのないよう再発防止策を講じて公表すべきである。それを、あろうことか居丈高に居直って、再処分とはなんという破廉恥。
よく知られているとおり、憲法39条は、「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」と定める。前段が「遡及処罰の禁止」、後段が「一事不再理」ないしは「二重の危険の禁止」と言われる原則である。後段が本件に直接関わるの問題となる。当然に、本件へのこの条項の適用ないし準用の可否が問題となる。
憲法は、公権力が捜査権や刑罰権という形で発動される刑事事件について定めているが、科刑に類する公権力の発動の場合にも、準用すべきだというのが有力な学説。懲戒処分は当然に含まれると解すべきである。再処分がなされれば、当然にこの点だけで最高裁まで争う大きな裁判になる。
一般職公務員の懲戒処分についての適切な裁判例は見つからない。しかし、「地方公共団体の議会の会議規則中議員懲罰に関する実体規定を、規則制定前の議員の行為に適用し懲罰議決をすることは違法である」とする、1951年4月28日最高裁第3小法廷の除名決議取消請求事件判決(民集第5巻5号336頁)があり、また、1958年9月30日福岡地裁の「地方公共団体の議員に対する議会の懲罰については、刑罰とは異なるけれども、一種の制裁という意味において、同一事実に対し重ねて懲罰を科し得ないという一事不再理の原則が導かれる」としているという判決がある。したがって、すくなくとも、地方公共団体の議員に対する懲罰については、遡及処罰の禁止及び一事不再理という憲法39条の前段後段ともに準用が認められていると言えそうである(「論点体系判例憲法2」など)。
高度な自律権を有している議会の議決において、39条の準用が認められているのであれば、一般職の公務員にたいする自治体の処分についてはなおさら、というべきである。
予め都教委に警告しておきたい。法律論を云々するまでもなく、再処分などはおやめなさい。最高裁裁判官多数の補足意見に耳を傾け、良識ある都民の共感を得る教育行政に姿勢を戻していただきたい。石原後継の猪瀬都政も、この先短いことが明らかではありませんか。 ********************************************************************
人はそれぞれに、独自の関心領域をもっている。関心が人と共通することはなかなかにない。だから、自分の関心事を勢い込んでお話ししても、「それがどうした?」「それって、何か大切なことなんですの?」と言われることがオチ。今日の話題は、典型的なその類のオハナシ。
グーグルの検索サイトで、「憲法」というキーワードを打ち込むと、700万件を超えるサイトの標題が紹介される。どのような基準でその順位が付けられるかについては何の知識もないが、700万件のトップテンとなって、冒頭のページに掲載されるとすれば凄いこと、だろうな。そう、思っていた。凄いことではあろうが、できっこないとも。
それが、できたのである。当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」が、グーグル「憲法」検索サイトで776万件のトップページに掲載された。これは事件だ。但し、極めて個人的なレベルでの「事件」。そして、どう凄いんだか、説明のしようもない。
たまたま、一昨日にトップページ入りに気がついた。本日午前中には、「澤藤統一郎の憲法日記ーarticle9.jp」が第6位。そして、「澤藤統一郎の憲法日記ー日本民主法律家協会」が第7位である。「瞬間最高地位」である可能性が高い。記念に、プリントアウトして保管しておこう。これまで、私のブログをお読みいただいた方には、心から感謝申し上げる。
もし、フロックな順位ではないとなれば、もっと順位が上がる可能性もないではない。ちなみに、不動のトップは「e-gov」の「日本国憲法」。2位が、ウィキペディアの「憲法」。3位が同じくウィキペディアの「日本国憲法」、4位が沖縄タイムスの「憲法講座が花盛り」の記事。そして5位に「憲法条文・重要文書ー国立国会図書館」がある。政府のオフィッシャルな憲法条文提供サイトには勝てそうな気はしないが、もしかしたらウィキペディアを抜くことなら…。今後はウィキペディアがライバルだ、と意気軒昂…。
なのだが、「それがどうした?」「そんなことが、なにか?」と言われれば、「いや、別に。なんということも…」と口ごもるしかないのだが…。
(2013年12月15日)