午前9時10分 研修センター正門前で
東京君が代訴訟弁護団の澤藤です。本日の服務事故再発防止研修受講者に代わって、教育庁の研修課長と本日の研修を担当する東京都教職員研修センターの職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まずは、都教委に対する厳重なる抗議を申しあげねばなりません。
本日の研修は、本来まったく必要のないものです。
不当な命令に屈せず、自らの思想を守り抜く決意のもと、自覚的に「日の丸・君が代」の強制を拒否した教員に対する「再発防止研修」とは、いったいどういう意味をもつものでしょうか。
それは、「日の丸・君が代」の強制を拒否する教員の思想の転向を求めるためのものであるか、さもなくば信念を貫いた教員に対する嫌がらせを通じて、次の機会からは心ならずも強制に屈する選択をさせるための手段のどちらかでしかありません。
周知のとおり、日本国憲法は「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という他国には稀な1か条を創設しました。内心の自由を保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。つまりは、キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。
大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。
国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。国民が主人で、国家はその僕、あるいは国民に使い勝手のよい道具に過ぎません。にもかかわらず、国旗国歌に敬意の表明を強制するなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。
その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。
都教委は、懲戒処分の機械的累積加重システムによって抵抗する教員を封じ込めることができると思い込んでいました。しかし、行政に甘いことで知られる最高裁も、さすがにこれは違法と認めました。私たちが、思想転向強要システムと呼んだ不起立回数が増えれば自動的に処分量定が加重されるという方式はとれなくなった。
その代わりとして考え出されたのが、被処分者に対する服務事故再発防止研修の厳格化ではありませんか。回数を増やし、時間を長くし、密室で数人がかりでの糾問までしている。また、校内研修もくり返し行われる。今や、研修という名の嫌がらせが、思想弾圧の主役になろうとさえしている。
私たちは、厳重に抗議します。
10・23通達を撤回せよ。職務命令も処分もやめよ。
そして、服務事故再発防止研修という名の嫌がらせも止めよ。
次に、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非違行為を犯して懲戒処分を受けた地方公務員だ。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき教員なのです。そのことを肝に銘じていただきたい。
それに引き換え、あなた方、研修センターの職員は、どんな立ち場にあるのか。よくお考えいただきたい。あなた方は、踏み絵を強要した幕府の役人と同じ質のことを今日やろうとしている。治安維持法に基づき「国体を変革し、私有財産を否定する」思想を取り締まった特高警察と同質のことをしようとしている。権力の手先となって、思想弾圧をしようとしているのがあなた方だ。忸怩たる思いをもっていただきたい。恥ずかしいと思っていただかなくてはならない。
ぜひ、尊敬すべき研修受講者に対して、敬意をもって接していただきたい。決して、侮蔑的態度をとってはならない。
本日の研修が、研修受講者の思想信条に踏み込むものとなれば、また、受講者の人格を傷つけるようなことになれば、日の丸・君が代強制だけでなく、研修の在り方そのものの違法が法廷で争われることにならざるを得ません。そのときは、今日のあなた方の一挙手一投足が問題とされることになる。
あなたの良心に期待したい。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう、要請いたします。
(2014年7月9日)