澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

小選挙区制における究極の一票の格差

安倍内閣が勢いづいている。今は経済優先で人気を維持し、7月参院選の結果次第で牙を剥き出すことになる。羊を狼に変身させてはならない。

ところで、強気に改憲を目論む与党自民党の294議席は「つくられた多数派」であり、安倍内閣は「虚構の上げ底政権」である。このネーミングは、上脇博之さんによるもの。言い得て妙である。一見大きく見える安倍自民党政権も、実は上げ底、実力はそれほどのものではない。
  
どうして「上げ底」が可能なのか、いわずと知れた小選挙区制のマジックにほかならない。
上脇さんによれば、前回選挙における各党の小選挙区得票率と議席占有率とは以下のとおりである。
 自民党  43%  79%
 民主党  23%   9%
 維新    12%   4%
 公明党   1.5%  3%
 共産党   7.9%  0
 社民党   0.8%  0.3%
自民党は、得票率のほぼ倍の議席を獲得している。改憲を目論む安倍内閣は、虚構の多数派に支えられた、上げ底政権にほかならない。

明らかに民意を反映した議会の構成にはなっていない。民意を枉げて、多数派をより手厚く遇してより多数に、少数派をより少数にして切り捨てようとするものが小選挙区制である。

これを別の角度から眺めてみたい。
自民党の得票実数は2564万票である。この票数で237議席を獲得している。1議席当たり10万8000票。約11万人の支持者で1議席を得ている。
ところが、日本共産党はどうだ。得票実数470万票で、獲得議席数はゼロなのだ。470万人の支持が1議席にもつながっていない。全部が死票となっている。

自民党支持者は11万票で1議席を獲得し、日本共産党支持者は470万票で議席ゼロである。仮に、共産党にも自民党並みに「11万票当たり1議席」を配分すれば、470万票では42議席の獲得となる。これに比例区の議席8を加えれば、50人の共産党議員団ができあがる。護憲勢力としての、共産党、社民党などの議席が、得票実数に応じたものとなっていない。切歯扼腕の思いである。

今各地の高裁で違憲判決が相次いでいる「一票の格差」とは、各選挙民の選挙区ごとの格差である。居住地の如何による一票の価値の格差が問題とされているのだ。では、「支持政党の別、あるいは投票先政党の別による一票の格差」は許されるのだろうか。これこそ「究極の一票の格差」である。「民意を議会に正確に反映すべき選挙制度」という代議制の根源的要請と、憲法14条の信条における平等原則がこの格差を許さない。この格差を原理的に解消し得ない小選挙区制は、根本的な欠陥制度として廃止されなければならない。

本日も、恒例となった新装開店サービスのエッセイ。

『安倍のリスク・アベノリスクのこと』

 時事川柳(長谷川 清)
  日銀の人事争い白と黒
  二枚舌アベのみくすっとほくそ笑む
       
 長谷川さんは矍鑠としたご近所のご老体。安倍政権に一貫して腹を立てておられる。目がお悪いのですが、新聞をよく読みます。不正には我慢のならない江戸っ子ぶり。
 日銀総裁が、白から黒に移って、アベノミクスが本格化。新聞に連日、「東証空前の上げ」、「日経平均株価最高値」、などという大活字が飛び交っている。「日銀が国債を1.2兆円購入、毎月7兆円ペースで」、とも書いてある。私たちの生活では毎月電気代が千円上がるとか、国保料が五千円上がるというのが現実感のある話だ。「兆」の単位の話となると、はなから拒絶反応が先に立って、思考停止する。でも、みんなこんなに騒いでいるのなら、蚊帳の外に置かれるのもおもしろくない。ひるむ心をねじ伏せて、新聞を読んで、生かじりしてみた。
 黒田日銀新総裁が、安倍首相の経済政策「アベノミクス」を遂行するために、物価を2パーセント上げようとしている。好景気にして、消費税導入に持ち込みたいというのが目的。よくよく新聞を読んでみれば、つまるところ、日銀で大胆にバンバンお金を刷って、金融緩和をすれば景気回復ができるはずというストーリーらしい。
? 日銀が金融機関から国債などを大量に買う。その金額は半端じゃない。出回っている現金の総量と金融機関が日銀に預けている当座預金の総額(マネタリーベース)は現在139兆円。それを14年末には倍額の270兆円にする。(2パーセント物価上げるために、どんどんひるまずお金を刷り続ける。まるでチキンゲームだ。)
? そうすれば金融機関が日銀内に持っている当座預金の残高が膨らむ。金融機関が金余りになって、株、不動産など融資に回せば景気を刺激する。乗り遅れまいとする人々が物価上昇するのではないかと慌てふためく。バブル気分の醸成だ。
? 値上がりする前に企業は設備投資をし、個人は住宅ローンを借りに走る。こうしたインフレ予測や気分から景気が上向いて、需要が高まり、給料が上がり、雇用が改善する。国民ををその気にできるかできないか、大芝居を打とうというわけだ。
 こんなノーテンキなこと考え出す人たちを「リフレ派」というらしい。通貨を再膨張させて、再びインフレを引き起こそうというのだ。人々がまだまだ物価が下がると思って物を買わないのではいつまでもデフレだ。だから、大胆に金融緩和して、「物が上がっちゃう。だから貯金は下ろして使おう。ローンを組んで家を買おう。」という気分にさせることで、景気回復しようと考えているらしい。
 黒田さん、こんな風に都合良く世の中動かせる自信ありますか。うまくいかなかったら、安倍さんキチンとリスクの責任とりますか。理論通りにいきますか。
 大部分の人は給料は上がらす、年金は減って、子供は派遣で働いて、投資に回せる貯金や余裕なんてありません。2パーセントのインフレも10パーセントの消費税もごめんです。旗を振られても庶民はとうてい踊る気分にはなれません。これが現実です。
 いちはやく時流に乗ってはしゃいでいる富裕層や外国投資家も、いつ食い逃げしようかと虎視眈々としているじゃないでしょうか。
 黒田さんも安倍さんも去ったあとで、結局、国家には、今にも増して膨大な財政赤字、国民には、インフレによる物価高で赤字の家計が残されるのが落ちではないでしょうか。原子力発電所と同じで誰も責任なんかとれっこありません。
 いっそのこと、これから刷る130兆円を1億人で分けちゃったらどうでしょう。一人あたり130万円、使用期限1年間、貯金は厳禁で。利益も不利益もみんなで分けたほうが、公平でいいじゃないですか。

 二枚舌 閻魔が抜いても もう1枚
 ミニバブル ハゲタカ連の おおさわぎ
 
  

自民党改憲草案は「国民の義務」をこう変える

IWJ(インターネット・テレビ)の「自民党憲法改正草案批判」鼎談が6回目となった。本日の私の発言の一端。もっとも、以下の文章のように滑らかにしゃべれたわけではない。考えながらの発言をまとめるとこうなる。

現行憲法に、国民の義務とされている条項が3箇所ある。
26条2項「子女に教育を受けさせる義務」、27条1項「勤労の義務」、30条「納税の義務」である。

自民党の改憲草案では、この義務規定のいずれにも変更はない、‥ように見える。しかし、実は大きく変わるのだ。字面の変更はなくても、位置づけがまったく変わるからだ。

憲法とは国家権力に対する制約の体系である。制約の目的は、国家権力による国民の基本的人権侵害を予防することにある。制約の主たる手段は、人権の目録を作成して、これを国家に遵守させることである。つまりは、国民の国家に対する諸権利の総和が、憲法の主要部分となっている。憲法とは、本来的に「国民の権利」の目録にほかならない。

では、憲法に記載された「国民の義務」とは何なのだろう。それは、本来的な憲法事項ではない。もちろん憲法の主役ではない。必要な存在ともいえない。脇役というほどの重要性ももたない、なくしてしまってもいっこうに差し支えのない影の薄い条項なのだ。

成立の過程を見ても、GHQの原案には3義務の一つもなかった。制憲議会に政府が提出した原案には「教育の義務」だけがあった。あとの二つは、衆議院での審議過程で、つけ加えられたもの。いずれも、存在の必然性をもたない、盲腸みたいなもの。その中身は、権利義務関係の創設であるよりは、宣言的な効果しか考えられず、「国民の3大義務」などと言うほどのことはない。

これに反して、旧憲法時代には、「兵役の義務」(20条)と「納税の義務」(21条)とが、主役級の条項としてあった。教育を受ける義務は勅令上のものではあるが、併せて「臣民の3大義務」とされた。統治権の総覧者である君主、あるいは君主が主権を有する国家に対する「臣民の義務」は、欽定憲法においてふさわしい位置を占めていた。宣言的な効果にとどまらない、国家と臣民の間の権利義務関係創設規定と理解することが可能である。

現行憲法の盲腸にしか過ぎない「国民の義務」規定を、戦前の主役級の権利義務創設規定に格上げしようというのが自民党の改憲草案なのだ。そのような役割を担うものが、同草案102条「全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」という「国民の憲法尊重義務」規定である。

国民の義務が、盲腸ではなくなる例証として、草案の第3条を挙げることができる。憲法に、「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする」と書き込むだけではなく、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」(3条2項)と、国旗国歌尊重義務を謳う。これと同様に、盲腸同然の国民の義務3か条は、具体的な義務創設規定として主役級の位置を占めうることになる。憲法の構造を大転換したことの効果の一つである。
恐るべし、自民党憲法改正草案。

本日も、新装開店大サービス。
 『携帯本のこと』
 電話に固定と携帯があるように、本も同じだ。たとえ片時も離したくないと思っても、「ヒマラヤ植物大図鑑」(吉田外司夫解説 山と渓谷社)とか「入江泰吉写真集 法隆寺」(小学館)などは絶対固定だ。重くて持って歩けやしない。外出したり、旅行するとき持って行く携帯本の筆頭は、カレル・チャペック「園芸家12カ月」(中公文庫)だ。213ページ、140グラムのこの本を出かけるときは必ずバックに入れる。リュックサックにも入れてある。「その絶妙のユーモアは、園芸に興味のない人を園芸マニアにおちいらせ、園芸マニアをますます重症にしてしまう。無類に愉快な本」と裏表紙に紹介されている。たとえば「4月の園芸家」のところは「4月、これこそ本格的な、恵まれた園芸家の月だ。・・・話を芽にもどそう。どうしてだかわからないが、ふしぎなくらい何度でもやる。枯れ枝を一本ひろおうとして、でなければ、いまいましいタンポポの根を抜こうとして、花壇に足を入れる。するとたいがい、土の下にあるユリかキンバイソウの芽をふむ。足の下でポキッという音がすると、おそろしさとはずかしさでからだじゅうが寒くなる。この瞬間には誰でも、自分がまるで、そのひづめで踏んだ場所には草がはえなくなる、なにかの怪物のような気がする。でなければ、最大限の用心深さで、花壇の土をそっとやわらかに耕す。ところが、その結果は、かならずうけあいだ。芽の出ている球根を鍬でこま切れにしなければ、かならずアネモネの芽をシャベルで切り落とす。」といった具合だ。どこを開いてもいい。何回読んでもおかしくて笑い転げる。気分がうきうきしてくる。
 しかしながら、著者のカレル・チャペック(1890年?1938年)はこの本の軽妙洒脱さからはとうてい想像できない生涯をおくった人だ。チェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)の誇る国民的大作家でジャーナリストであった。戯曲「R.U.R」のなかで、ロボットという言葉を作ったといわれている。大作「山椒魚戦争」を書いて、第2次大戦中、アドルフ・ヒトラーとナチズムに渾身の戦いを挑んだ 。残念ながら、1938年病死した。翌年ドイツ軍がプラハを占領して、ゲシュタボがチャペック邸を襲撃したとき、チャペック夫人は夫の死亡を皮肉を込めて告げたという。
 そして、「園芸家12ヶ月」のユーモラスな挿絵を描いているのは、カレルの同士としていっしょに仕事をしてきた実兄のヨゼフだが、彼は占領してきたナチスドイツによって逮捕され、1945年強制収容所で殺されている。カレルだって生きていれば同じ運命をたどったにちがいない。
 そんな気配を微塵も感じさせない「園芸家12ヶ月」は、病めるときも飢えるときも良き生涯の友となってくれるはずだ。今日もお出かけにはこの一冊を。

「日本」の国号はいつから? 「天皇」号は?

先日、50年前のクラス仲間が集まった際に、上海在住で徐福伝説を研究しているS君が発問した。「日本という国号は正式にはいつから使われたのだろう」。誰も正確には答を出せない。

「日本書紀成立よりは以前ということだな」「もとは倭国、いつ日本になったんだろう」「国号だから、対外的な関係が意識されたときなんだろうね」「聖徳太子のときの、国書になかっただろうか」「もっと後、天武の時代だよ」「万葉集には、日本って出てこないのか」

調べてみた。正解はよく分からないが、確実なところでは701年の大宝律令で「日本」の国号を用いているそうだ。文武の時代。そして、対外的に「日本」の文字が表れるのは702(大宝2)年の秋のこと、粟田真人を主席とする遣唐使が楚州の海岸に着いた。この一行が、中国当局に「日本の使」と称したと記録されているとのこと。出典は中国の史書「旧唐書」らしい。

ちなみに、この遣唐使の一行の中に、山上憶良がいた。その帰路に詠んだ歌が、万葉集に出ている。
 いざ子ども 早く日本へ
 大伴の御津の浜松 待ち恋ぬらむ
ここでの「日本」は、万葉仮名の原文でも「日本」の文字が当てられている。これをヤマトと読むのが習わしのようだが、ニッポンあるいはニホンと読んでもおかしくはない。

面白いことに、日本書紀は「日本」を多用しているのに、古事記は「倭」で一貫し「日本」の語をまっく使っていないという。

701年より前には確実な資料がないようだが、おそらくは飛鳥浄御原令(689年)に日本の国号は使われていただろうという。天武の時代である。国号だけでなく、天皇号も同じ時期に制度として成立したものとするのが有力説だそうだ。そして、その由来を、唐の高宗(則天武后の夫)が、短期間ではあるが「皇帝」号を「天皇」号にあらためていることに倣った、との説があるそうだ。圧倒的な文化先進国の模倣に何の不自然さもない。

高校の歴史の時間に、「日本の元号は大宝に始まって現在に続いている」「大宝とは、日本で金が産出したことを祝っての命名」と習った。金が出たとされたのは対馬で、喜んだ朝廷は、関係者に莫大な褒美と位を授けた。ところが、文武期の朝廷を喜ばせた産金は、実は詐欺だった。続日本紀に「後に詐欺あらわれぬ」と記されているそうだ。日本の元号制度はその出発からケチがついている。

以上は、すべて吉田孝「日本の誕生」(岩波新書)の引用。同書は、「日本とは、国号なのか王朝名なのか」と問うてもいる。この知識の宝庫が古本屋でわずか100円。こんなに安い買い物はない。

歴史は正確に把握したい。誰かに気兼ねしたり、誰かの権威のために、都合良くも悪くも枉げてはならない。自民党改憲草案前文の冒頭が、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」から始まるような、そんなご時世だから、なお。

本日も、新装開店記念サービスを。
  『古本のこと』
 本がどんどん殖えていく。足の踏み場がなくなって、そのうち寝る場所もなくなるかもしれない。困ったものだ。
 先日買った本。
 稲垣史生「武蔵武将伝」(歴史図書社・昭和55年) 1050円
 山本大二郎「奥多摩の花」(講談社・昭和57年) 400円
 本田靖春「不当逮捕」(岩波現代文庫・2000年) 600円
ご推察の通りみんな古本。神保町の古本屋さんや東京古書会館の古書展にちょくちょく行く。研究のための本を収集したり、何かのマニアだという大仰なことではない。自分で読んで楽しむために買う。誰かに頼まれた本も探す。宝探しの気分だ。手にとって装丁を見たり、挿絵や写真を見ながらページをめくって楽しみたいのだ。だから通販はあまり使わない。
 10年ぐらい前、欲しい植物図鑑を古本屋さんで格安で入手したのが始まり。どれくらい安いかというと正価の4分の1。この値段なら誰だって病みつきになると思う。時代の流れで、山岳本や植物本を欲しがる人が少なくなっていたのも幸運だった。
 だいたい場所をとって嵩張る本自体、買う人が減っているらしい。まして清潔を好む時代に古本を嫌う人がいても当然だ。でもよく考えてみれば、図書館の本を平気で借りているなら全く問題なしじゃないかしら。
 植物、動物、紀行、旅行、ドキュメンタリー、小説、古典、歴史関係等々。分野にこだわらず、何でも面白そうだと思ったら買う。読めば世界は広がり、時空を超えてわくわくするような冒険に出かけられる。面白い本に出会えば、苦労も悩みも雲散霧消してしまう。
 稀覯本とか書名入りとか初版本なんていうことには全く興味がない。だいたいは古本屋の店の前に出ている均一台の上に乗っている、いわゆるゾッキ本からお宝を発見するのが面白いのだ。だって、文庫本も新書もだいたい100円なんですから。皆さんびっくりするでしょう。持ちきれないほど買ってせいぜい2000円ということさえある。
 それにとどまらず、時には「どうぞお持ちください」と只でくれる本に行き当たることさえある。わたしは「世界歴史」(岩波講座・全31巻)や「現代医学の基礎」(岩波講座・全15巻)を拾ってきたことがある。いくら自転車とはいえ、坂の多い道を上ったり下りたりしながら、無事家に帰り着けるか心細くなったものだつた。古本と一緒に行き倒れになるのかと一瞬思いました。そこまでの困難はお奨めしませんが、古本探しは紙文化でそだった人の定年後には最適の暇つぶしだと思いますがね。
 その前に注意を一言。家族を説得できるかどうか、自信のない人はやめた方がいいかも。

上野の山の八重桜

  『上野の山のこと』
 上野の山はソメイヨシノが散って、あの賑わいは夢のよう。天気荒れ模様の予報もあって、人出が少ない。中国語、スペイン語、英語、サッパリ解らない言葉が飛び交っている。ソメイヨシノは終わってしまったけれど、それ以上に存在感のある八重桜が満開になって、外国からのお客様を歓迎している。
 不忍池の周りには、濃い紅色の関山(カンザン)、クリーム色のポプコーンがはじけたような鬱金(ウコン)、枝の周りに薄いピンクの八重の花をびっしりつけたお掃除ブラシのような紅八重虎の尾(ベニヤエトラノオ)、ピンクの八重の花びらがバレー衣装のチュチュを思わせる紅華(コウカ)、薄ピンクの大きめの花びらの紅豊(ベニユタカ)などが咲いている。
 ソメイヨシノの散ったあとの葉桜だってなかなかのものだ。色とりどりの花綵で囲まれた不忍池はあまりの晴れがましさに戸惑っている。
 五條稲荷神社には、見上げるほどの大木の鬱金桜、目を見張るほど紅色が鮮やかな菊桃。 上野動物園の前には薄桃色の花かんざしで飾り立てたような一葉(イチヨウ)。
 清水寺には秋色桜と固有名詞がついた枝垂れ桜。浮世絵模様を再現して枝を輪に仕立てた松の木はグロテスクで嫌みだけど、清水の舞台から見る不忍池の眺めも一見の価値がある。
 鮮やかな黄色のヤマブキ、薄紫のシャガも花盛りだ。黄色から青にわたる若葉で煙っている新緑の美しさを表すぴったりした言葉を持たない自分の不勉強がじれったくなる。都会のど真ん中にこんな美しいところがあるのは奇跡のような気がする。今日はほんとうに出かけてきて良かった。
 おまけに、路上に水で絵と文字を書いて、サービスしてくれている人にも出会えた。地描(ちびょう)アーティストと称していた。お客さんの方から見て解るように、向かって上の左の方から書き始める。すっきりした線描は世界中のお客さんの鑑賞に十分堪えるものだった。
 最後に、「愛、命、夢」と書いて通じるものは「儚さ」とのこと。路上の水絵が跡形もなく蒸発するように、人と人が出会って別れるように、サクラや新緑の美しさのように。
 またお会いできたらいいですねという言葉に微塵の偽りもない、一期一会。

その「地描アーティスト」氏とやや長話をした。聞けば、元は近県で小中学校の美術の教員だったとのこと。子どもと向かいあったまま、子どもの目線で理解できるように、ノートに逆さまに絵や字を書けるよう練習をしたことが、「地描」の起源だそうだ。管理職になって早期退職をしたが、「子どもと向かいあう教師が少なくなった」と嘆いておいでになる。

話が弾んで、私が東京の「日の丸・君が代」強制の話をしたら、打てば響くように率直な感想が返ってきた。「それは我慢をしなければならないんじゃありませんか。契約によって宣誓までして公務員になった以上は、良いとこばかりとるわけにはいかない。給料をもらっているのですから、嫌なことも我慢をして上司の命令には従わなければならないと思いますがね。従えないなら、別の職を見つけなければ」

さすがに元管理職としての意見ではあるが、社会のマジョリティの考え方を簡潔に集約した意見でもある。常識的な意見とも言えるだろう。特に悪意あっての意見ではない。むしろ、公務員としての採用を、契約関係として捉えているのはセンスがよい証拠。しかし、契約の対価関係にあるそれぞれの義務について詰めて考えた形跡はない。公務員としての採用時の宣誓について「嫌なことも我慢をして引き受ける」確認とお考えのようだった。

公務員の身分を契約関係として捉えた場合、教員側の契約上の義務は、法と条例と内規と職務命令にしたがって労務を提供することである。これと対価関係に立つ学校設立者側の義務は、規定に従って賃金を支払うこと、法に従った公平な処遇をすること、そして教員としての労働環境を整えること、であろう。

契約とは法が強制力を認める制度であるから、法の理念に反する契約は認められない。憲法遵守義務を負う当事者の契約に、憲法違反の義務はありえない。法に従った労務の提供義務として、思想・良心の自由を蹂躙する違憲の義務は想定し得ない。公務員は採用される際に、憲法遵守の宣誓をする。憲法違反の職務命令を遵守する義務までは負担しない。

なによりも、教員の職責は、子どもの教育を受ける権利に奉仕すべきものとしてある。職責を「教育者の本分」といっても差し支えなかろう。戦前と同様に、国家を尊貴なものとし、国家の言いなりになる子どもを育てるのが本分か。それとも、国家も間違いうる、国旗国歌の強制に服してはならない、とすることを身をもって範とすべきが本分か。臣民を育てるのか、主権者を育てるべきなのか。

教育のあり方を真面目にとらえ、子どもに向かい合い、寄り添おうとする教員ほど、「日の丸・君が代」強制の問題を深刻に考えざるを得ない。このような人々を教壇から追ってしまえば、従順な教員だけが残り、従順なだけの国民が育成されることになりはしないか。

そんなことを辛抱強く聞いていただいた。さしたる違和感はなかったご様子。最後に、またいくつかの絵の逆さ書きを見せていただいて、強風の中八重桜満開の上野の山をあとにした。

司法の「メルトダウン」修復のために

同僚弁護士から勧められて、「原発と裁判官」という本を読んでいる。朝日新聞出版社の発行で、本年3月30日が発行の日付。副題が、「なぜ司法は『メルトダウン』を許したのか」というもの。司法自身の「メルトダウン」の分析でもある。

私がこの本を読む問題意識は、「司法は国策に切り込むことができるか」「どうしたら、裁判所から国策批判の判決を得ることができるか」ということ。

私にとって、この二つは弁護士志望以来の根源的なテーマである。私は、「裁判所とは所詮は国家機構の一端。だから司法が国策に切り込むことなどできるはずがない」と絶望してはいない。しかし、その困難さは、身に沁みている。困難であることを知りつつも、「どうしたら、裁判官を説得して、敢えて国策を批判した、憲法の理念に忠実な判決を勝ち取ることができるだろうか」と考えざるを得ない。原発訴訟からもそのヒントが欲しい。

新聞記者2名の執筆になる本書は、原発訴訟の判決を言い渡した裁判官6名への取材を骨格とする。住民側敗訴判決を言い渡した裁判官4名と、貴重な勝訴判決を言い渡した2名の裁判官。住民側敗訴判決を書いた裁判官の証言が問題を考える上でたいへん貴重で参考となる。そして、たった2件ではあるが、井戸謙一さん(志賀原発訴訟・一審裁判長)、川崎和夫さん(もんじゅ訴訟・控訴審裁判長)の勝訴判決は、司法の希望である。

著者は、住民側敗訴判決を書いた裁判官の取材報告全体の章の標題を「葛藤する裁判官たち」とし、4人の各裁判官ごとに、?「科学技術論争の壁」、?「証拠の壁」、?「経営判断の壁」、?「心理的重圧の壁」と、副題を付している。そのいずれの裁判官も、けっして権力盲従者ではなく、むしろ常識人である。3・11の事態に、一様に「驚いた」「ぞっとした」と言い、「自分の判決は甘すぎた」「法律家として一生背負っていく問題」とすら言う。しかし、結果として、このような常識人が、国策に追随し、国策を補完する役割を演じて、福島原発のメルトダウンに自らの責任を感じざるを得ない判決を書いている。

4人の中で、もっとも率直に裁判官一般の心情を語っているのが、今は新潟大学大学院教授の西野喜一さん。「今の訴訟法が国策を争うようにはできていない」と言い、加えて「国策の推進という方針に添った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります」。昇進や任地の人事権を上級に握られている官僚機構の中では、暗黙のうちに国策批判はタブーとなる。人事権の行使について、「最高裁は常に、『適材適所だ』と説明するだけです。明らかに左遷であっても、行政訴訟で国側を負かせたことが理由だ、などとは絶対に認めませんから」。

暗黙のお約束だけではなく、テーマを設定した「裁判官会同」という、担当裁判官を集めての「勉強会」で判決内容を統制する手法もあり、判事と訟務検事の「判検(人事)交流」という手法もある。

先年、日本民主法律家協会で、「最高裁は変わったか」と判例分析のシンポジウムを開催した。その基調報告は浦部法穂さん。この10年のほぼすべての判決を分析しての結論は、次のような簡潔なものだった。
「天下の形勢に影響のないテーマについては、以前より最高裁の合理的な判断が期待できるようになっている。しかし、こと政治的な色彩を帯び、天下の形勢に影響する課題の事案においては旧態依然である」

「天下の形勢に影響する、政治的色彩を帯びた課題」とは、「国策」と言い換えても良い。司法は国策に切り込めてはいないということだ。まったく同感なのだが、同感のままでは問題の解決にならない。もしかしたら「3・11の衝撃は、司法が国策を批判するきっかけとなりうる」のではないだろうか。少なくとも、原発の安全性の問題に限れば‥。

そして、なによりも問題の根源にある司法の官僚制機構に切り込まなければならない。個別の訴訟での工夫だけでなく、司法官僚制そのものを変えて、司法の行政や政治からの独立だけでなく、第一線裁判官の上司や最高裁事務総局からの独立を実現しなければならない。年来のテーマであるが、日民協ではそのための「法曹一元」制を提案している。すべての裁判官を、弁護士経験者から任命するこの制度、この書の中でも話題になっているが、本格的に追求したい。憲法こそが国策を凌駕する司法の準則であることを当然とする司法の実現のために。

新装開店記念サービスエッセイ第5弾。

  『泰山を鳴動させた一匹のネズミのこと』
 「2年前の3月11日のあの日をもう一度思い出してくださいよ」と言って一匹の健気なネズミが感電死した。ボロボロでヨロヨロになって、放射能まみれになったネズミの死骸は福島第一原発の姿そのものだ。
 3月18日夕刻、福島原発の使用済みの燃料プールの冷却ができなくなって、その原因を突き止めるために右往左往して、事故の公表を遅らせて、原因がわかったので「ネズミ捕りを設置します。」ということになつた。この顛末を見れば、東電の本質は2年前と変わらず、2年前の事故はまた起こりうると考えられて当然だ。
 放射能除染、瓦礫の処理も進まず、使用済み燃料の中間処理場の引き受け手もいない。放射能汚染水はどんどんたまり続けている。当然ながら最終処理場のことなど話題にものぼらない。トイレはどんどん詰まって満杯だ。
 放射能被害の賠償問題の解決も遅々として進まない。故郷に帰れないで避難生活をしている方が31万5000人もいる。気の毒なことに、そのなかには永久に帰れない人も数万人の単位でいるに違いない。
 生産農家の必死の努力にかかわらず、福島の野菜の取引は落ち込み続け、値崩れは止まらない。酪農などほかの農産物も同じである。ノリ養殖など漁業も壊滅状態だ。
 東電は農地を汚染しただけでは足りなくて、今度は海まで汚そうとしている。汚染水は貯まりに貯まって36万5000立方メートル、25メートルプール480杯分になっているそうだ。今でも毎日毎日増え続けている。それで困りはてた東電は海洋放出を計画している。「アルプス」という清々しい名前の浄化装置を使って放射性物質を取り除いて、汚染水を海に放出しようと、3月30日に試運転を始めたという。ただし、放射性トリチウムは除去できない。当然のことながら、過去にこっそりと汚染水を放出した前科のある東電への不信感から、地元漁協は大反対だ。地元だけでなく海はどこまでも繋がっているのだから、関東、東北の漁業全体の問題だ。それだけじゃない。消費者の問題でもある。私も大反対だ。
 落ち着いて考えれば、使えば使うほど、手に負えない放射性汚染物質が貯まって、ネズミ一匹でもシャットダウンしてしまう信頼の置けない装置など絶対運転すべきではない。地震、津波、火山爆発を引き金にどんな甚大な被害が出るやも知れない。南海トラフ巨大地震への備えはできているのか。事を荒立てる外交しかできない我が国のこと、原発を標的としたテロやミサイル攻撃の不安も拭えない。
 安倍内閣は、原発による発電がなかったら産業が壊滅する、国益が損なわれると大合唱して、原発を再稼働しようとしている。
 しかし、どう考えてもおかしい。
 電力会社は除染や賠償の費用、動いてもいない日本原子力発電への支払い、はたまた怪しい原子力委員関係のNPOへの支出までひっくるめて、電気料金に転嫁できる。発電所周辺地域に交付されているお金・電源開発促進税も電気料金に上乗せされて徴収されている。これは我々消費者・納税者が否応なしに、気がつかないうちに支払わされているのだ。
 原発による電力は安い安いと宣伝されてきたが、大島堅一立命館大教授の試算によれば、今まで計算に入れられていない部分の費用を発電コストにいれれば、原子力10.68円、火力9.9円、水力7.26円となって、原子力で発電される電気が一番高いということになる。それで終わりではない。これから福島処理のためにいったいどれだけ費用の負担をすることになるか誰も正確な数字は出せない。いずれ廃炉になる全国の原発の処理費は天井知らずだ。この費用を賄う方が、国家的大損失ではないか。

 それでも原発続けますか。「私が責任を持ちます。」と言って大飯原発を再稼働させた野田さん、今はどこにいるのか影も見えません。原発政策は、よってたかって甘い汁を吸ったあげく、誰も責任を持たない悪徳会社の詐欺のような気がしてならない。これでは感電死した健気なネズミも浮かばれまい。

服務事故再発防止研修という名の嫌がらせ

この3月の都立校卒業式において国歌斉唱時に不起立だったとして、6人の教員に懲戒処分が発令された。そのうちの5名が戒告、1名が減給(10分の1・1か月)である。

懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職、そして極刑的な免職まで4段階ある。一昨年まで、都教委は処分量定を累積加重の取扱いとしていた。初回の不起立で直ちに戒告となる。2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月。4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していた。

われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。不起立・不斉唱は思想・良心に基づく行為である。思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになる。

昨年1月16日の最高裁判決(第一小法廷)が、「10・23通達」と起立斉唱命令の違憲判断は避けつつも、さすがに「原則として減給以上は懲戒権の逸脱濫用に当たり違法」として処分を取り消した。結局処分量定の累積加重システムは崩壊し、戒告処分だけが残った。こうして、「10・23通達」による恫喝の脅威は半減したと言えよう。

この判決を承けて、2012年春の処分はすべて戒告だけとなった。当然今年も同様であろうと考えていたところ、不起立4回目の教員が減給となった。都教委は、敢えて、紛争拡大に踏み切ったのだ。この挑戦的な姿勢は、猪瀬選挙の大勝、安倍政権の成立、維新の会の得票増などの保守的空気を読んでのことであろう。最高裁も舐められている。

本日は、懲戒を受けた5名(1名は年度末で退職)について、服務事故再発防止研修が行われた。研修とは、懲戒を受けた者に非違行為の反省を促し、再発の防止に備えるためのもの。パワハラやセクハラ、あるいはイジメ・体罰を行った教員に対しては、反省を求めて研修を行うことには合理性があるだろう。しかし、自らの思想信条、あるいは教員としての良心に基づく行為については反省のしようがない。むしろ、反省をしなければならないのは都教委の方である。研修とは名ばかり。実は嫌がらせ以外の何ものでもない。嫌がらせの目的は、本人に対しては、「思想を曲げろ。次からは命令に従え。おとなしくしろ」とのアピールであり、他の教員に対しては、「言うことを聞かないとこんな目に遭うぞ」という見せしめである。

それでも、本日午前8時20分には、研修センターの入り口に80人を超す支援者が集結して都教委に申し入れと抗議をした。私は、責任者に口頭で申し入れをした。そして、抗議と激励のシュプレヒコールを背に、5人が研修センターの門を入った。

最高裁で累積加重システムを違法とされた都教委の巻き返し策の一つが、嫌がらせの程度をアップさせようという「研修強化」である。しかし、懲戒処分には「思想・良心に介入する再発防止研修が伴う」となれば、新たな処分の違憲理由が生じることになる。また、再発防止研修の態様によっては、懲戒処分とは切り離した法的手段の対象ともなりうる。そのことの強調が肝要であろう。

抗議集会参加者の発言が重い。猪瀬都知事の、「起立して口パクやっていればいいわけ。アホみたいな話だ」という発言の不真面目さに、怒りを込めた抗議の声があがった。

「知事には、教育の何たるかが分かっていない。教育に向き合う姿勢に真面目さがない。私たちは、真剣に生徒と向かいあっている」

思想・良心に対する攻撃に負けずに闘っている教員の真摯さに心を打たれるものがある。私は歴史の現場に立ち会っているのだ。

当ブログ新装開店サービス第5弾。「がんを詠む」
私は5年前に、肺がんの手術を受けた。そのときのことについて、東京弁護士会会報に既発表のものだが、エッセイのような歌のようなもの。

つゐにゆくみちとはかねてききしかと
きのふけふとはおもはさりしを

ご存じ,伊勢物語終章の一首。自分の死を「きのふけふ」と思うことはない。「患ひて心地死ぬべく覚えける」ことのない限りは‥。
昨年の春,「患ひ」の自覚はなかったが肺がんの宣告を受け,業平の如く「心地死ぬべく」の心境を味わった。
10年ほど前,吉川勇一さん(元・ベ平連事務局長)から「いい人はガンになる」という著書をいただいた。飄々たるご自身のガン体験の語り口が滅法面白い。
ガンになったいい人の列伝があって,「ガンにならない人は,ワルイやつ」との結論に至る。まったくの他人事として愉快に読んだ。その私が,唐突に「いい人」の仲間入りとなったのだ。タバコも酒もやらない私が,よりによって肺がんである。
なんの根拠もなく自分ががんになることなどあり得ないと信じ込み,がん検診を無視し続けてきた。のみならず,20 年近く健康診断というものを一切受けていなかった。
健康診断を拒否し続ける心の片隅に,「災難に逢ふ時には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」との良寛の言葉があった。がんの宣告を受けることがあれば,それが我が身の「死ぬ時節」と思い切ればよい。潔さこそ美学ではないか。
ところがどうだ。がんであると分かってのこの私のうろたえようは。命が惜しい。少しでも生きながらえたい。生への執着心は,自分の想像をはるかに超えるものだった。美学なんぞは砕けて散った。
さいわい,私の肺がんは,右肺上葉切除・リンパ節郭清の標準治療で今のところはことなきを得ている。
病理検査で転移なしと聞かされたときの心からの安堵が忘れられない。以来,多少の心の余裕ができてきた。業平に倣って,歌のようなものをひねってみた。そのうちのいくつかを連ねてみることとする。

がんの宣告受けたるその日
大地は鳴動せず日月も欠けず

神在りせば神を怨まん
なんぞかくも気まぐれなるかくも酷薄なる

身じろぎもせずうずくまる人影あり
がん病棟の未明のロビーに

手術前夜腕時計突然止まりぬ
ただそれだけのことにてはあれども

鏡にてつくづくとわが身を眺めいる
傷なきこの背を見おさむるの日

下手人は世に聞こえし手練れなり
逆袈裟一文字に傷は7寸

敢えて毀傷せり身体髪膚
咎むる父母の既に亡ければ

命拾うたと思いし朝
富士は輝やき筑波嶺はやさし

五臓六腑に染みいるモーツァルト
五臓の一は欠けてあれども

病床で読む「病牀六尺」
われに子規を憐れむ多少の余裕あり

嗄声(させい)とは医療訴訟で覚えし語彙
我が身のこととは思わざりしを

忠と孝とについて

長谷川伸といえば、股旅物のジャンルを確立し、義理と人情の世界を描いて一世を風靡した大衆作家。佐藤忠男の「長谷川伸論」(中公文庫)が面白い。

佐藤は、長谷川伸の描く「義理と人情」に関連して、「忠と孝」の考察に頁を割く。そして、天皇制について的確な論評をしている。

「日本近代史最大の思想的発明は、天皇は国民の親である、というテーゼであろう。ここから、ナショナリズムの日本独自のありかたが生れた」「親と子の関係は自然の関係である。ふつう、ごく自然に愛情が存在する。しかし、天皇と国民の関係は、自然の関係ではない。人為的につくられた関係である。近代の日本国家は、この人為的な関係を、親と子のような緊密な愛情で結ばれた関係とみなそうとし、そのために学校を通じて組織的な教育を行った。天皇は国民の親であり、国民はその赤子であるという考え方は強力に浸透した」

佐藤は、忠義とは「義理」の関係でしかないもの。これを、血肉化するためには、天皇を親と思え、という「人情」の関係として把握させる訓練が必要だという。しかし、義理と人情はなかなかに一致し得ない。天皇を親と思って戦場に赴いた兵士の戦後になっての葛藤が、長谷川伸のシナリオを通して語られる。

ところで佐藤は、その著で教育勅語の起案者である元田永孚の「幼学要綱」という書物(修身教科書)を紹介している。1882(明治15)年に天皇から全国の学校に下賜されたこの書の徳目筆頭に挙げられているのは「孝」であって、「忠」ではないそうだ。このことについて「私はこの順序を見たとき、一瞬、自分の目を疑った」という。おそらくは、士族層を除いては当時の国民全体の規範意識として、孝が忠に優先するものであったろう。それが、1890(明治23)年の教育勅語では、「我が臣民克(よ)く忠に、克(よ)く孝に」と、「忠孝の序列」となって確定する。以後は、忠と孝とが矛盾した場合には、忠が絶対優先するものとしてこの順序は狂わない。

浮き世の「義理」と、人間自然の「人情」とは、本来対立するものではあるが、大衆はその関係の一致を理想と考えてきた。そして、その一致がならないときの深刻な悲劇に涙した。佐藤はそう解説する。私は、その着眼点に敬意を表する。ここに陥穽があり、問題の本質があると思う。

誰も皆、人情を貫き通すだけでは生きていけないことを知っている。どこまで義理と折り合いをつけざるを得ないか、そのことを計りながら生きている。義理は強者の論理として押し付けられる。その押しつけは、「義理」と「人情」との円満な一致を求める大衆の心情に付け入ることによって成功する。

義理とは、典型的には「忠」である。封建的身分秩序における「君君たらざるとも、臣は臣たれ」という主君への無限定の忠義であり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ皇運を扶翼すべし」とする天皇に対する絶対忠誠でもある。この「忠」を支えるモデルが「孝」とされた。孝は人情の世界における自然の感情。これに付け入って、「天皇を親と考え、国民を子と考える強力な義理の観念が教育を通じて叩き込まれた」のである。

さらに、「義理」を社会規範、「人情」を個人の尊厳と理解すれば、権力機構や企業社会における個人の自律という問題ともなり、集団と個人との関係についての普遍にして永遠のテーマともなる。

義理と人情、忠と孝、社会規範と個人の尊厳。極めて今日的なテーマではないか。

新ブログ新装開店記念サービス第4弾のエッセイ
春のうららの本日にふさわしく
 『木の芽のこと』
 早蕨(さわらび) 白緑(びゃくろく) 蕗の薹(ふきのとう) 萌葱(もえぎ) 水浅葱(みずあさぎ) 茎立(くくたち) 檸檬(レモン) 鶸(ひわ) 鶯(うぐいす) 枝垂柳(しだれやなぎ) 裏葉柳(うらはやなぎ) 若竹(わかたけ) 
 これらはみんな日本の色の名前。それも若芽から若葉になっていく葉っぱの若緑の名前。弱々しくて、初々しいけれど、立ちはだかるものを押し破っていく力強さを秘めた希望の色。人間は繰り返される自然の営みに魅了され、その細部に目を奪われて、それに順化したいと願いながら生きてきたのだろう。これらの若緑が、風雨にさらされて強さと深みを増し、秋になると目も奪う錦に変わる。そして、その錦繍に恋々とすることなくあっさりと色失って大地に帰って行く。こうした葉の移り変わりゆく時々の色にもそれぞれ美しい名前がつけられている。そんな名前のついた色とりどりの衣装を身にまとって、あこがれの自然に同化したいと人々は願ったのだろうか。
 そこで若葉の話。桜が散ったからと言ってがっかりしている暇はない。ベランダでも公園でも、枯れ枝の先にいつの間にか小さな芽が出てきて、景色は遠目にも緑がかつてくる。早く見ないと、何回か冷たい雨が芽を潤しているうちに、芽はほどけて普通の葉っぱになってしまう。茶色の芽の先にぽっちり緑が見え、それがポップコーンのように膨らんで、やがて小さな葉っぱの形になる。冬の間しっかりと折りたたまれていたので、折り紙のようにヤマとタニの折り目がくっきりと残っている。たいてい裏と表の色が違う。裏は冬の寒さから身を守るために、ビロードのように滑らかな毛が生えていたり、小さな鱗片で覆われてメタリックな金属の作り物かと思うような若葉が多い。そこまで武装していないものも、不純なものはみな跳ね返してやるとばかりに、ガラス細工のようにピカピカまぶしく光っている。
 ハナミズキ、グミ、カエデ、アジサイ、これらは気の早いことに小さな葉の中に大事そうに花の蕾を抱いている。枝垂れ柳なんかは葉が見えるか見えないあいだに、きなこまぶしになった毛虫のような花をプラプラぶら下げて風に揺られている。ツタはちっちゃな掌のような葉をつけて、その手で壁をはい上っているようにみえておかしい。
 コナラやケヤキやイチョウの芽生えはちょっと遅い。だから今からでもまだまだ見るのに間に合う芽生えもある。
 クスノキやキンモクセイなどの常緑樹も盛大に若芽を出している。その若葉は鮮やかな黄色やオレンジ色をしているので、遠目には木全体に花が咲いたように見える。ツバキもピカピカしたとんがった若緑の巻き葉を出して花の終わりを告げている。
 食べられる若葉も忘れてはならない。サンショウはその代表。ベランダに鉢植えを一本置いておけば、佃煮にできるほどの量の葉っぱは採れなくても、若竹煮や冷や奴には大活躍をしてくれる。もしかしたら、アゲハチョウが卵を産んでくれる幸運があるかもしれない。この場合、大食らいの幼虫がサンショウの木を丸坊主にして人間様には葉っぱ一枚残してくれないという不幸も起こりうる。日当たりが悪くて使い道のない垣根にウコギを這わせておけば、クルミと味噌漬け大根のみじん切りを混ぜ合わせて熱々ご飯にのせたウコギ飯が2,3回は楽しめる。この頃はスーパーマーケットに行けば蕗の薹やコゴミやタラの芽も容易に入手できる。クマも冬眠から覚めると、まずこれら苦みのある春の芽を食べるという。このように若芽は生物史上お試し済みの健康食品なのだから、この春一食ぐらいは召し上がれ。

教育勅語とは

春はセンバツから。毎日新聞がつくったキャッチフレーズであろうが、しばらく前までは心地よい響きをもっていた。私の母校は、甲子園の強豪校で、春の甲子園での14連勝の記録をもっている。かつて、母校が首里高校と対戦して21奪三振の記録を作った。私は、その試合を観戦していたが、武士の情けを知らぬ母校ではなく、健気な首里高に声援を送った。ところが今、そのような余裕はなく、「春はセンバツから」というフレーズがむなしい。今日の日記は、わが母校、最近不振の愚痴であり、八つ当たりである。

今年のセンバツも本日でおしまい。特に関心をもたなかったが、準優勝校の校名が済美(サイビと読むようである)であるという。済美の原典は漢籍の古典にあるのだろうが、教育勅語の一節として知られる。該当箇所は「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」というところ。同校のホームページには、その前身である済美高等女学校の開校が1911年とされている。教育勅語の発布から20年ほど後のこと。

「世世、その美を済(な)せる」の内実は、「我が臣民が、よく忠に、よく孝に、心を一つにしている」ことだという。そして、臣民の忠孝の精神こそが、天皇をいただく我が国柄のすばらしさであり、教育の根源がここにある、という。

戦前、忠と孝とが、臣民としての道徳の中心だった。これを「美をなす」ものとし、国体の精華であり、教育の淵源とまで言った。儒家では、おなじみの「修身・斉家・治国・平天下」(「大学」)という。孝という家の秩序と、忠という国家の秩序との整合が求められた。孝の強調は忠のモデルとしてのものである。

勅語は、さらに臣民の徳目を語るが、最後を「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と結ぶ。

「常に国憲を重んじ」とは、天皇が国民に与えた欽定憲法の遵守を命じているのだ。「憲法とは、人民が君主の横暴を縛るために生まれた」「近代憲法とは、主権者国民が国政を預かる者に対する命令である」という考えの片鱗もない。

当然のことながら、この勅語には人権も民主主義も出てこない。人が平等という観念もない。ひたすらに天皇制の秩序に順応して、いざというときには天皇に身を捧げよ、という「臣民根性」を叩き込もうとしている。

天皇制政府は、これを津々浦々の小学校で暗唱させた。「教育の内容・目的を国家が決めるのは当然」との考えに基づいている。しかし、そのような考え方は民主主義社会の非常識である。公権力は、国民に対して教育条件整備の義務を負うが、教育内容を定める権限はない。日本国憲法と教育基本法の採る立場でもある。最高裁判例(旭川学テ事件・大法廷判決)も基本的に同様の立場である。

当然のことながら、今の済美高校に勅語教育の影は見られない。私学経営の常道として、進学率の向上とスホーツの成績に熱心の様子である。

甲子園では、ときに思わぬことに出くわす。これもかなり昔のこと。盛岡一高が甲子園に出場し、勝者となってその校歌が全国に響いた。歌詞は何を言っているのか分からなかったが、そのメロディは明らかに軍艦マーチであった。さすがに米内光政の出身校、と感心した次第。いまでも、変わらないのだろうか。

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さて、新装開店記念のエッセイ第3弾。
                    『ツバキのこと』
 春は桜ばかりがもてはやされるけれど、今の時期、どこの植物園や公園に行ってもツバキが盛大に咲いている。桜は日当たりのよい真ん中で華やかに目を引くが、ツバキは端っこの日陰に押し込められているので目立たない。常緑の葉っぱが黒々として花を隠してしまうのも不利にはたらく。
 ツバキは素人園芸家にとっては様々な利点を持っている。切りつめに強いので場所をとらない形で栽培できるし、乾燥にも強く丈夫で、初心者でも簡単に花を咲かせられる。日陰のベランダでもコンパクトな鉢植えで育てられる。鉢に植えて根っこを窮屈な状態にしておいた方がかえって蕾を持ちやすいのだ。それに、桜の花期が寒桜から八重桜までせいぜい二、三ヶ月なのに対して、ツバキは上手に種類をとり混ぜれば、9月から4月まで八ヶ月もの長い間花を咲かせることができる。丈夫でながもちというところが日本人好みではないと言われてしまうと困るのだが。
 色は、白、クリーム、黄、ピンク、赤、紅、紫、紺、黒と多彩。配色も単色、絞り、覆輪、斑入りなど無数の組み合わせがある。花形も花弁が5から6枚の一重咲きから100枚もの花弁を持った千重咲きまである。花の大きさも開花時の直径4?の極小輪から20?もある極大輪まで様々。雄しべについての分類も詳細である。葉の形状も面白くて、柳葉、柊葉、鋸葉などは想像しやすいが、盃葉や金魚葉などという変わりものもある。香りの追求もされている。室町時代から茶道、生け花とともに発展してきた花木なので、愛玩のされ方も生易しいものではないのだ。
 容易に交配して種ができ、それを蒔いて5年もすれば花が咲く。だから、種類は際限もなく増えていく。日本では花が小ぶりの侘助ツバキが好まれているけれど、西洋では大きくて、花びら数も多いバラやボタンに見まごう豪華絢爛な花が競って作出された。デュマの「椿姫」のカメリアのイメージはどうしても「白侘助」というわけにはいかない。
 一時、ツバキ狂いをして100種類近く集めたことがあった。寝ても覚めても、あれもこれも欲しくて、椿図鑑をめくってはため息をついていたことがあった。一説には日本で4000種、世界で10000種もあると言われているのだから、頭がクラクラした。でも幸い、私は熱しやすく冷めやすいたちなので、今は回復している、と思う。
 好きなツバキをふたつ。
   「酒中花は掌中の椿 ひそと愛ず」 石田波郷
 酒飲みにはこたえられない図でしょう。
 “しゅちゅうか”は白地に紅覆輪、牡丹咲きの中輪。江戸時代から伝わる。
   「落ざまに水こぼしけり花椿」 芭蕉
 この落ち椿はぜったいに真っ赤な五弁のヤブツバキでなくてはならない。普通ツバキといえば第一番にこの花姿がうかぶし、事実圧倒的な人気を誇っているけれど、園芸分類上はヤブツバキという名前は出てこない。これこそヤブツバキとおもわれる、よく似たツバキがたくさんあって立派な名前がついているけれど、素人にはほとんど見分けがつかない。出雲大社藪椿、富泉院赤ヤブ、専修庵、森部赤ヤブ、信浄寺紅、等々日本各地に保存されているとのことである。似ているはずである。みな親がヤブツバキなのだから。
 以上はツバキについてほんのさわりで、話は奥が深くて、混沌として、ヤブノナカなので、またまた迷ってはいけないのでこのくらいで終わり。

排外主義の危険な芽を摘み取ろう

「特定アジア粉砕新大久保排害カーニバル」とは、何のことだかお分かりだろうか。「在特会(在日特権を許さない市民の会)東京支部」を中心とする、新大久保での排外デモを、彼らはこう自称している。
今年に入ってすでに5回。極端なヘイトスピーチが特徴と報告されている。日の丸や旭日旗を打ち振って、憎悪をむき出しの100人?200人の集団が絶叫する。「韓国は敵、よって殺せ」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人、首吊れ毒飲め飛び降りろ」という凄まじさ。新大久保だけではなく、大阪の鶴橋でも行われているという。

石原慎太郎が火をつけた尖閣問題、安倍政権の慰安婦問題が背景にあることは想像に難くない。煽動されたナショナリズムの恐さを実証する右派のデモ。排外主義の危険な芽をここに見ざるを得ない。大事に至らぬうちに、手を打ちたいもの。

「法律家として何とかしなければならない。警視庁に申し入れをしないか」と同期の梓澤弁護士から声をかけられた。急遽の呼びかけで12人の弁護士の呼吸が合い、3月31日5回目デモ直前の3月29日(金)に公安委員会・警視総監宛の申し入れ、東京弁護士会への人権救済申し立て、そして「声明」を携えての記者会見となった。

「声明」は以下のとおりである。
1 本日私たちは、本年2月9日以来4回にわたって東京都新宿区新大久保地域で行われてきた外国人排撃デモの実態に鑑みて、今後周辺地域に居住、勤務、営業する外国人の生命身体、財産、営業等の重大な法益侵害に発展する現実的危険性を憂慮し、警察当局に適切な行政警察活動を行うよう申し入れた。
2 外国人排撃のための「ヘイトスピーチ」といえども、公権力がこれに介入することに道を開いてはならないとの表現の自由擁護の立場からする立論があることは私たちも承知している。しかしながら、現実に行われている言動は、これに拱手傍観を許さない段階に達していると判断せざるを得ない。
このまま事態を放置すれば、現実に外国人の生命身体への攻撃に至るであろうことは、1980年代以降のヨーロッパの歴史に照らして明らかなところである。
3 また、ユダヤ人への憎悪と攻撃によって過剰なナショナリズムを扇動し、そのことにより民主主義の壊滅を招いたヒトラーとナチズムの経験からの重要な教訓を、この日本の現在の全体状況の中でも改めて想起すべきと考える。
4 以上のことから、私たちは当面の危害の防止のため緊急に行動に立ち上がるとともに、マスメディアや、人権や自由と民主主義の行く末を憂慮する全ての人々に関心を寄せていただくよう呼びかける。
5 また、上記の集団行進や周辺への宣伝活動において一般刑罰法規に明白に違反する犯罪行為を現認確認したときは、当該実行行為者を特定したうえ、当該行為者と背後にある者に対して、その責任追及のためのあらゆる法的手段に及ぶことを言明する。

記者会見での梓澤君の迫力はさすがのものだった。私のコメントは大要以下のとおり。

私たち12名は弁護士として事態を座視することができずに立ち上がった。弁護士とは、基本的人権擁護を使命とする職能である。基本的人権とは一人ひとりの人間の尊厳を意味するもので、国籍や人種や民族の如何に関わりのない普遍性をもっている。人権擁護の立場からは、特定の人種や民族に対する偏見や憎悪の言動を看過できない。その言動が、具体的な侮辱・名誉毀損となり、あるいは脅迫・業務の妨害に至れば、被害者の人権擁護の立場から、徹底した法的手段をとることを申し合わせている。

行動に名を連ねた12人の中には、これまでこの問題に関わり続けてきた複数の若手弁護士がいる。その行動力には感服のほかはない。しかし、オウムのときの坂本堤弁護士の悲劇が脳裏をよぎる。彼らを第一線に突出させてはならない。多くの弁護士が立ち上がらねばならない。

幸い、31日の「新大久保排外デモ」は、参加者の数も減り、「殺せ」のコールもなかったという。さらに、心強いことに、ヘイトスピーチをたしなめる市民のカウンターデモが人数でも勢いでも、圧倒したという。排外主義を許さない市民意識の健在に大いに胸をなでおろした。

新装開店記念のエッセイ第2弾
『サクラのこと』
今年、東京ではサクラ(ソメイヨシノ)の開花がはやいと騒がれた。しかし、よくしたもので開花してから急に寒い日が続いたので、散るまでの時間が長くかかって、3月末までお花見ができた。普段は気もつかない公園や校庭の一本桜や街路の桜並木が、手品でも使ったかのように華やいで、見慣れた町が別世界のようになる。毎年のことながら、冬の間ふさいでいた気分がパッと明るくなる。心とは単純にして不思議なものだ。

急に強い風が吹いて、花びらが雪吹雪のように舞い狂う場面に逢ったときなど、目も身体も魔術にかかったようにピタリと動かなくなって、このまま花嵐にさらわれてしまいたいと思う。この気持ちは子供の時から変わらないけれど、一度もさらわれることなく、老齢の域に入ってしまった。残念。

平安   久かたのひかりのどけき春の日にしずこころなく花のちるらん(紀友則)
勧酒   コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ(于武陵「勘酒」井伏鱒二訳)
壮絶   後世は猶今生だにも願わざるわがふところにさくら来てちる
(山川登美子 鉄幹・晶子らと「明星」で活躍。29歳で早世)
奇跡   春ごとに花のさかりはありなめどあい見むことはいのちなりけり(古今和歌集よみびとしらず)
願望   ねがわくは はなのもとにて春しなむそのきさらぎの望月のころ(西行)

多分、これらに歌われたサクラはソメイヨシノではなくてヤマザクラだ。ソメイヨシノよりヤマザクラが好きだという人が多い。わたしも同じ。
ヤマザクラが100本ほど自生した山を持ちたいと思う。ヤマザクラは木によって若葉の色も花の色も少しづつ変異がある。若葉は赤みを帯びた黄緑色が基本だけれど様々で、それと一緒に咲く花の花色もほとんど真っ白から淡い紅色まで少しずつ変化があり、その組み合わせはいくら見ていても見飽きない。春の山を眺めると微妙に色の違った霞がかかったように見えるのはそのヤマザクラのせいなのだ。
そのわたしの持ち山は遠くからは人に見せてあげるけれど、ダレも山の中には入れない。歩かせない。触らせない。花好きは強欲。

「憲法日記」の新装開店

春。新しい出発のとき。引越の季節でもある。
本「憲法日記」は、4月1日の本日、これまで長く間借りしていた日民協ホームページから引越をして、本サイトにての新装開店である。独立を宣言する心意気なのだが、これまでと何がどう違うことになるのかは、まだよく分からない。少なくとも、大家に気兼ねすることなく、独立自尊、のびのびと、言わねばならぬことを言いたいように言えることになる。もの言わぬは腹ふくるる業とか。恐いものなし。なんでも言うことにしよう。

一昨日、久しぶりの同級会を開催した。安保闘争の余韻収まらぬ1963年に大学に入学し、中国語をともに学んだクラス仲間。
ちょうど50年前のことである。西側で中国を承認していたのは、まだイギリス一国のみだった。法・経・文・教の文系学生全部の中から27人の少人数クラス。中国語を選択する者が圧倒的少数派であった時代のこと。

あれから半世紀。立身出世とも名望とも、もちろん富貴とも、無縁の仲間11人があつまった。
紅顔可憐の少年も 今や白髪三千丈
袖摺りあったあの頃の 昔語りの懐かしや

あの頃、学問とは何か、教養とは何かを考えた。今でも良くは分からない。
少なくとも、ひからびた古典を渉猟し、知識を積み重ねるものではないはず。権力に仕える技術を磨くことでもなく、資本に奉仕する業を習得することでもない。自分の生き方を導き、自分の生き方の揺るがぬ指針となるもの。そんなものなのではないか。
とすれば、憲法理念の把握、憲法過程の把握、憲法政治の分析、そして憲法運動の実践などは、学問や教養そのものといえないだろうか。人類史が共通の理想として確認したものが憲法の理念となり、その理念を阻む者と支持する者との対立の中で、自らの態度を決めなければならない。憲法を学び考えるとはそのようなことではないか。自らの生き方と社会や歴史との関係を能動的に認識し、切り結ぶことでもある。

同級会に集まったほぼ全員が積極消極の護憲派。懐旧談だけでなく、原発問題や小選挙区制なども話題になった。私の発言は、当時と何も変わっていない。ブレがないというべきか、進歩がないというべきか。

今後、改憲問題・改憲阻止運動をメインテーマに、ブログを書き続けるつもり。ご愛読をお願いしたい。

(2013年4月1日)

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新装開店のサービスに一編のエッセイを。
    『スズメのこと』
クレア・キップス著の「ある小さなスズメの記録ー人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクレランスの生涯」(文藝春秋)という可愛らしい本がある。第二次大戦後にイギリスで出版されると、世界中で翻訳され大反響を呼んだ。日本では、鳥についての著書の多い児童文学者の梨木香歩さんによる翻訳が2010年に出た。

1940年7月、クレアは丸裸で目もあかないスズメの子を拾ってクレランスと名付けた。ドイツ軍による空爆が始まる少々前のロンドンである。翼と片足に障害のある、このスズメと共寝をして暖めて、ミルクやゆで卵の黄身を与えて見事に育て上げたのだ。市民防衛隊員のクレアにつれられて、この小スズメはその愛らしさで、空襲におびえる人々を慰め、励ますことになった。クレアと綱引きをしたり、両手を合わした「防空壕」へサイレンの合図で隠れるなどいろいろの芸をした。その仕草の愛らしさに、人々は悲しみや恐怖をしばし忘れることができた。子供たちだけでなく英国民全体のマスコットとして有名になった。

戦後二人はピアニストのクレアの伴奏でクレランスが歌うミニコンサートをしたりして、はたも羨む生活を楽しむ。11歳の時クレランスは卒中を起こして、生来障害のあった身体がもっと不自由になったが、クレアの懸命な治療と介護によって回復した。 「不屈の意思をもったこの相棒は決して降参しなかった。」「陽気で熱中しやすく、衝動的で、自分のやりたいことをよく心得ており、目的が容易にぶれることはなかった。周りの環境への適応力は一貫しており、勇気と陽気さは病気で衰弱しているときでさえ、決して失われることはなかった。私に対する誠実は終生疑いようもなかった。」とクレアは述べている。

そしてお別れ。1952年8月23日。クレランスの死因は極度の老衰、12歳7週と4日だった。

この話に深い愛着をおぼえてならない理由は、私も10年ほど前、道端でスズメの子を拾って育てた経験があるからだ。本当に本当に可愛らしかった。食事の時は家族のハシの上を渡り歩いて、黄色いクチバシで自分の好みの食べ物をつついて食べた。カボチャの甘煮や塩ジャケが大好物だった。髪の毛の中が大好きで、モゾモゾと動き回って、居心地よくしつらえて寝入ったものだった。羽が生えそろって飛べるようになると、電灯の笠に止まったり、本棚の隙間でかくれんぼをして遊んだ。
そしてお別れ。夏の暑い日少し開けた窓の隙間から外へ飛び出していって二度と戻らなかった。これでいいのだと思いながら、自分の力で生きていけるかと胸が痛んで、電線や木の上ばかり見て歩いていた。手のひらで動く毛玉の感触がしばらく残っていた。
また、夜中に門柱に止まって震えているヒヨドリのヒナを保護したこともあった。クチバシが長くて柄も大きくて、可愛さの点ではスズメの子に少々劣ったように思う。明くる朝になると大きな昆虫をくわえた勇敢な母鳥が家の中まで入ってきて連れ帰ってくれた。この時はこれ以上ない行き届いた結末に安堵したものだった。

「ぼくとりなんだ」という和歌山静子さんの絵本(日本野鳥の会出版)では、「助けてあげなければ」と拾うと、親鳥から引き離すことになる、といっている。むやみに「ヒナを拾わないで」ということである。

でも、ヒナに羽も生えていず、震えていて、天気が雨もよいの夕方で、上の電線にはカラスがいるというような場合は拾ってもいいのではないでしょうかね。何と言われようと、絶対に拾うと思う。そんな幸運がもう一度訪れてくれますように。

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