70年前に、未曾有の敗戦の惨禍から日本を再生させた国民は、平和を誓ってこの理念を憲法に刻み込んだ。今度は負けない強い軍事国家をつくろうとしたのではない。誰もが平和のうちに生きる権利のあることを確認し、戦争を放棄し戦力の不保持を宣言したのだ。国の方針の選択肢として戦争を除外する、非軍事国家として再出発した。そのことが、日本を平和愛好国家として権威ある存在としてきた。
それが、今大きく揺るぎかねない事態を迎えている。安倍内閣と、自公両党によってである。憲法に刻み込んだはずの誓いが、憲法改正の手続ないままにないがしろにされようとしている。
人に上下はないが、法形式には厳然たる上下の階層秩序がある。上位の法が下位の法を生み、その妥当性の根拠を提供するのだから、法の下克上は許されようはずもない。
法の階層秩序の最高位に憲法がある。憲法を根拠に、憲法が定める手続で、法律が生まれる。法律が憲法に反することはできない。このできないことをやってのけようというのが、「安全保障法制整備に関する与党合意」にほかならない。しかも、法律ですらない閣議決定を引用し、これに基づいて違憲の立法をしようというのだ。
憲法を改正するには、憲法自身が定める第96条の手続によらなければならない。内閣や国会が憲法の内容に不満でも、主権者が憲法を改正するまではこれに従わなければならない。むしろ、立憲主義は、憲法の内容をこころよしとしない為政者に対峙する局面でその存在意義が発揮されるというべきである。
改憲手続きを経ることなく、閣議決定で許容される範囲を超えて憲法解釈を変更することは、憲法に従わねばならない立場にある内閣が憲法をないがしろにする行為であって、言わば反逆の罪に当たる。憲法の範囲内で行使されるべき立法権が、敢えて違憲の立法をすることは、主権者の関与を抜きにした立法による改憲にほかならない。
解釈改憲や立法改憲が憲法の核心部分を破壊するものであるときは、違法に憲法に致命傷を与えるものとして、憲法の暗殺と言わねばならい。
閣議決定による集団的自衛権行使容認と、その違憲の閣議決定にもとづく安保法制の立法化のたくらみは、まさしく平和憲法の暗殺計画ではないか。立憲主義、平和主義、そして民主主義を擁護する立場からは、この憲法の暗殺を許してはならない。
昨日公表された与党合意、正確には「安全保障法制整備の具体的な方向性について」に関して、本日の各紙が問題の重要性に相応しく大きく取り上げている。報道、解説、社説がいずれも充実している。なかでも、東京新聞の全力投球ぶりが目を惹く。朝日も、さすがと思わせる。
朝日の社説は「安保法制の与党合意―際限なき拡大に反対する」という見出しで、「米軍の負担を自衛隊が肩代わりする際限のない拡大志向」に懸念を表明している。また、「抑止力の強化」の限界を指摘して、「抑止力への傾斜が過ぎれば反作用も出る。脅威自体を減らし紛争を回避する努力が先になされなければならない。」とも主張している。結論は、「戦後日本が培ってきた平和国家のブランドを失いかねない道に踏み込むことが、ほんとうに日本の平和を守ることになるのか。考え直すべきだ。」というもの。異論のあろうはずはない。
しかし、気になる一節がある。
「肝要なのは、憲法と日米安保条約を両立させながら、近隣諸国との安定した関係構築をはかることだ。」という。日米安保条約を「憲法と両立させるべきもの」と位置づけている点。かつて、好戦的なアメリカとの軍事同盟は、我が国を戦争に巻き込む恐れの強いものとして、「アンポ、ハンタイ」の声は津々浦々に満ちた。いま、安倍政権と自公両党がやってのけようという乱暴な企図に較べると日米安保などはおとなしいものということなのだ。
本日の東京新聞の見出しを拾えば、「戦争参加の懸念増す」「事実上の海外武力行使法」「国民不在の『密室安保』」「戦える国作り 加速」「海外派遣 どこへでも」「政府判断でいつでも」などというもの。東京新聞の姿勢が歴然である。
その東京新聞の社説の標題は、「『専守』変質を憂う」となっている。与党合意の内容が、これまでの政府の方針であった「専守防衛路線」から大きく逸脱するものと考えざるをえないと批判するトーンである。「『専守防衛』は、日本国民だけで310万人の犠牲を出した先の大戦の反省に基づく国際的な宣言であり、戦後日本の生き方そのものでもある」とまで言っている。
米の軍事力で我が国の安全を守ろうというコンセプトの日米安保条約も、自衛権の発動以上の戦力を持つことのない専守防衛の自衛隊も、かつては違憲とする有力な論陣があって、政府が専守防衛は違憲にあらずとする防戦に務めていた。ところがいま、安倍政権と自公の与党は、自衛隊を専守防衛のくびきから解放して、世界のどこででも戦うことができる軍事組織に衣替えしようというのだ。
今、自衛隊違憲論者と専守防衛合憲論者とは、力を合わせスクラムを組まねばならない。安倍政権と自公両党による、憲法暗殺計画を共通の敵とし、憲法を暗殺から救出するために。
(2015年3月21日)
本日(3月20日)の朝日「耕論」に、宮川光治さんの聞き書きが掲載されている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11659534.html
一票の格差問題についての、昨日(3月19日)の東京高裁合憲判決を素材とするもの。元最高裁裁判官のものの考え方の枠組みを示すものとして興味深く読んだ。
宮川さんは、こう言っている。
「わが最高裁は、先進国の最高裁判所や憲法裁判所と比べて、国会や内閣に対し最も敬譲を示してきたと思います。ある米国の学者は、『世界で最も保守的な憲法裁判所であるとみなされている』と言っていますが、少なくとも近年まではそのような評価を受けても仕方がありませんでした。」
なるほど、ものは言いようだ。「わが最高裁は、国会や内閣に対して弱腰」とか、「過度に遠慮がある」とか、あるいは「違憲判断に臆病」などとは言わない。「敬意を表し謙譲の姿勢を示している」というわけだ。さすがに、品のよい物言い。
これに続く一文が、いかにも宮川さんらしい。
「『緩い打ちやすいボールを投げれば、的確に打ち返してくれるだろう』という信頼を最高裁が政治の側に持ち続けたからだと、私は考えています。」
わが最高裁の国会や内閣に対する礼節を尽くした接し方は、相手に対する信頼があってのことというわけだ。あからさまに違憲判決を出して立法や行政を批判せずとも、穏当なものの言い方で、最高裁の意のあるところを忖度して呉れるだろう。その上で適切な対応がなされるに違いない。そう思って違憲判断を控えてきた。
このことが「剛速球ではなく、緩い打ちやすいボールを投げてきた」、と表現されている。違憲判決という剛速球で国会や内閣をねじ伏せることは好ましくない。むしろ、結論は違憲判決になってはいなくても、その判決理由に柔らかく問題を指摘しておけば、立法も行政も司法の意を汲んで、的確な反応をしてくれるはず。これが、「最高裁の投げたボールを的確に打ち返してくれるだろう」という表現になっている。
にわかに全面的賛意を表明しがたいが、なるほど上手な説明の仕方だと思う。もちろん、説明がこれで終わっては何の意味もない。宮川さんの真骨頂は、これに続く次の言葉。
「しかし、そのボールが見送られたり、弥縫策というファウルを打たれたりすることが長く続く中で、司法への失望や侮りが生まれました。」
最高裁は、国会や内閣が打ち返しやすいような、バッティングピッチャー役を務めていたというわけだ。きちんと打ち返してもらうように期待を込めて投げた打ち返しやすい球を、打者である立法や行政は打とうともせずに見送ったり、見当違いの方向に打ち返したり、最高裁の期待に外れた対応が長く続いた。まったくそのとおりだろう。その結果、何が起こったか。
何よりも、国民の司法への「失望」である。「最高裁は憲法と人権の守り手」であるはずが、「最高裁は権力の番犬」と揶揄される事態になっている。国民は、「どうせ裁判所へ行っても、政権の言うとおりの腰の引けた判決しか期待できない」と、司法に失望しているのだ。これは裁判所が本質的な意味で国民に見捨てられたことを意味する。この事態は、人権の危機であり、民主主義の危機でもある。
そして、国会や内閣の司法に対する「侮り」である。何をやっても、最高裁が違憲判断をすることはない。立法裁量、行政裁量に歯止めなどないのだ。という、侮りである。これも人権と民主主義の危機である。
宮川さんは、以上のことを意識して、最高裁自身が変わろうとしているという。
「国民の主体意識が高まり、権利のための闘争が広がる。そして、グローバル社会の進展は、普遍的価値を基準とする社会の構築を司法に求める。そうした時代の大きな変化を背景として、明らかに最高裁は様々な課題について積極的に憲法判断をする方向にかじを切りつつあります。『一票の価値』についても、司法の役割を積極的に果たそうという方向性が揺らぐことはないと思います。」
是非、そうであって欲しい。期待したい。
フランス人権宣言第16条が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化して以来、人権を守るための三権分立が、自由主義憲法統治機構の基本構造となった。しかし、三権相互の関係の在り方は、各国それぞれである。我が国の最高裁が、ゆるいボールを投げ続けている間に、立法と行政の侮りとそのことによる司法の劣位が定着してしまったのではないか。ゆるいボールは、はたして的確に打ち返すことを期待してのものであったかにも疑問が残る。
悪名高い「10・23通達」にもとづいて教員に対する「日の丸・君が代」の強制が許されるか。この問題について最高裁は、確かに「緩いボール」を投げる判決を言い渡した。東京都の教育行政に敬譲を示して違憲判断は回避した。しかし、間接的には思想良心の侵害になることまでは認め、戒告を超える懲戒処分は懲戒権の濫用として違法とした。ここには、教育の場に相応しからざる都教委の強圧的姿勢に対する批判を読み取ることができる。多数の補足意見において、その批判はさらに明確である。宮川さんは、これを「的確に打ち返してくれるだろう」との信頼を前提とした判決だというのだろう。10・23通達体制派は、最高裁によって違憲判断はかろうじてまぬがれたが、褒められてはいない。見直しを求められている。
ところが、都教委はこの期待にまったく応えるところはない。そもそも信頼に足りる相手ではない。品格とかディーセントとはまったく無縁の存在。「緩いボール」を投げたところで、投手の意図を忖度できない愚かな打者には意味がない。こんな輩に対しては、剛速球でねじ伏せるしかない。それ以外に都教委のごとき行政の無頼を矯正する手段はないというべきだろう。
次のイニングには都教委にストライク・アウトの宣告をしなければならない。それこそが、国民の司法への信頼を取り戻し、行政の侮りをなくする唯一の道である。
(2015年3月20日)
八紘一宇とは、かつての天皇制日本による全世界に向けた侵略宣言にほかならない。しかも、単なる戦時スローガンではなく、閣議決定文書に出て来る。1940年7月26日第2次近衛内閣の「基本国策要綱」である。その「根本方針」の冒頭に次の一文がある。
「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
紘とは紐あるいは綱のこと。八紘とは大地の八方にはりわたされた綱の意。そこから転じて全世界を表す。全世界を一宇(一つの家)にすることが、皇国の国是(基本方針)というのだ。一宇には家長がいる。当然のこととして、天皇が世界をひとまとめにした家の家長に納まることを想定している。「皇国を中核とする大東亜の新秩序を建設する」というのはとりあえずのこと、究極には世界全体を天皇の支配下に置こうというのだ。
「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」「不逞鮮人」「鬼畜米英」「興亜奉国」「五族共和」「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」等々と同じく、侵略戦争や植民地支配を正当化しようとした造語として、今は死語であり禁句である。他国の主権を蹂躙し、他国民の人権をないがしろにして省みるところのない、恥ずべきスローガンなのだ。到底公の場で口にできる言葉ではない。
ところが、この言葉が国会の質疑の中で飛び出した。3月16日の参院予算委員会の質問でのこと、国会議員の口からである。恐るべき時代錯誤と言わねばならない。
私は世の中のことをよく知らない。三原じゅん子という参議院議員の存在を知らなかった。この議員が元は女優で不良少女の役柄で売り出した人であったこと、役柄さながらに記者に暴行を加えて逮捕された経歴の持ち主であることなど、今回の「八紘一宇」発言で初めて知ったことだ。
この人が「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べている。こんな者が議員となっている。これが自民党の議員のレベルなのだ。しかも党の女性局長だそうだ。安倍政権と、八紘一宇と、愚かで浅はかな女性局長。実はよくお似合いなのかもしれない。
この人には、八紘一宇のなんたるかについての自覚がない。ものを知らないにもほどかある。いま、こんなことを言って、安倍政権や自民党にだけではなく、日本が近隣諸国からどのように見られることになるのか。そのことの認識はまったくなさそうなのだ。
自分の存在を目立たせたいと思っても、哀しいかな本格的な政策論議などなしうる能力がない。ならば、セリフの暗記は役者の心得。世間を驚かせる「危険な言葉」をシナリオのとおりに発することで、天下の耳目を集めたい。そんなところだろう。この発言には誰だって驚く。「八紘一宇」発言は確かに世間を驚かせたが、世間は何よりも発言者の愚かさと不見識に驚ろいたのだ。
発言内容を確認しておきたい。八紘一宇が出てきた発言は、麻生財務相に対する質問と、安倍首相に対する質問とにおいてのものである。質問は、租税回避問題についてであった。歴史認識や教育や教科書採択や、あるいは戦争や植民地支配の問題ではない。八紘一宇が出て来るのが、あまりに唐突なのだ。その(ほぼ)全文を引用しておきたい。
「三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。
『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』
ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。」
「三原参院議員:これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。
総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?」
三原議員は、麻生財務相に対する質問の中で、清水芳太郎『建国』の抜粋をパネルに用意し、これを読み上げた。こんなものを礼賛する感性が恐ろしい。こんな批判精神に乏しい人物を育てたことにおいて、戦後教育は反省を迫られている。この『建国』からの抜粋の部分について、批判をしておきたい。
『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。』
そんな馬鹿な。国際関係を戦前の「家」になぞらえる、あまりのばかばかしさ。世界のどこにも通用し得ない議論。聞くことすら恥ずかしい。「世界が一家族のように睦み合うべき」とするのは、「一番強い家長を核とする秩序」を想定している偏頗なイデオロギーにほかならない。他国を侵略して、天皇の支配を貫徹することによって新しい世界秩序をつくり出そうという無茶苦茶な話でもある。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度」とは、「強い」「弱い」「働いてやる」の3語が、差別意識丸出しというだけでなく、「3・1事件」や関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史に鑑み、虚妄も極まれりといわざるを得ない。こんな妄言を素晴らしいと思う歪んだ感性は、相手国や国民に対する根拠のない選民思想の上にしかなり立たない。
『これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。』
日本こそが、近隣諸国に対して、弱肉強食策をとり、弱い国を搾取し、力によって無理を通して、弱い民族をしいたげてきた。八紘一宇の思想は、その帝国主義的侵略主義、他国民に際する差別意識の上になり立っているのだ。その差別意識は完膚なきまでにたたきのめされて、我が国は徹底して反省したのだ。今にして、八紘一宇礼賛とは、歴史を知らないにもほどがある。
『世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』
あからさまに日本を「世界中で一番強い国」として、自国が世界を支配するときに、世界平和が実現するという「論理」である。中国にも、朝鮮にも、ロシアにも欧米にも、「世界中で一番強い国」となる資格を認めない。日本だけが強い国であり神の国という、嗤うべき選民意識と言わざるを得ない。
いかに愚かな自民党議員といえども、一昔前なら、「八紘一宇」を口にすることはできなかったであろう。露呈された安倍政権を支える議員のレベルを嗤い飛ばす気持ちにはなれない。時代の空気はここまで回帰してしまったのか。民主主義はここまで衰退してしまったのか。自民党安倍政権の危うさの一面を見るようで気持が重い。
もしかしたら、日本の国力が衰退して国際的地位が低下しつつあることへの危機感の歪んだ表れなのかも知れない。それにしても、歴史と現実を踏まえた、もう少しマシな議論をしてもらいたい。
(2015年3月19日)
カネに汚い人間は軽蔑される。カネについてだけではなく、生き方そのものが廉潔性を欠くと推測されるからだ。もっとも、市井の人物であれば、カネに汚くても軽蔑されるだけの問題でおわる。だが、公職にあってカネにまつわる公私混同を指摘される人物は、公的な場で徹底して指弾されなければならない。カネで、職務が左右されることになっているのではないかという疑惑を払拭できないからだ。指弾を受けた上、信用できない人物として辞職してもらうに如くはない。
ことがNHK会長職の問題となれば、なおさらのことだ。NHKとは視聴者国民の信頼があって初めて存立しうる公共放送である。運営の資金は視聴者国民の懐から出ている。金銭の管理に関する綱紀にも、コンプライアンス全般に徹底した厳正さが要求されている。そのコンプライアンスに責任を持つ立場にあるトップには、いささかの瑕瑾も許されない。李下に冠を正さなければならず、瓜田に沓を踏み入れてはならないのだ。籾井勝人にはその自覚がない。
思想信条の如何と、生き方の廉潔性とは無関係である。国家主義ジャーナリストも、権力追随主義国営放送経営者も、カネには潔癖でありうる。廉潔な右翼活動家は珍しくない。しかし、籾井勝人は、その思想において権力に対する批判精神を欠いてるのみならず、高給を食んでいながらカネに汚い。天は籾井から二物とも奪った。籾井勝人ほどNHK会長職に相応しからぬ人物はない。
即刻辞めてもらいたい。できれば、明日(3月19日)を待たずに、今日中の辞職をお勧めする。せめて、散り際の潔さくらいは見せてはいかがか。高給故か、職に恋々としているみっともなさは、さらに惨めな結末をもたらすことになるだろうから。
ことは単純だ。NHKの籾井勝人会長は、今年1月2日私的なゴルフに出かけた。遊びの場所は、名門・小金井カントリークラブ。その際ハイヤーを利用したという。純粋に私用なのだから、ハイヤーの手配は自分ですべきであった。あるいは自分でタクシーを呼べばよいこと。ところが、NHKで使っているハイヤー会社の車両が利用され、ハイヤーの手配はNHKの職員にさせた。ここで既に、籾井勝人は瓜田に沓を入れている。
そのハイヤーの代金は4万9585円。なぜか、籾井はこの私用の代金を当日清算していない。当日清算できない事情があれば、「私用だから代金の請求は、NHKにではなく自分宛てにするよう」指示をすべきが当然であるのに、これもしていない。当然のごとく、業者はこれをNHKに請求し、NHKはこれを支払っている。籾井勝人は、自分では支払う意思がなかったのだとしか考えられない。少なくも、その疑惑を拭うことができない。
ハイヤー業者から籾井勝人への傭車代の直接の請求はなされていない。籾井は、「NHKから請求書が回ってきたから直ぐに支払った」と国会(16日衆院予算委員会・小川敏夫議員の質問に対する回答)で述べている。また、小川議員が「支払ったのは監査委員会の調査の後か」「NHKは立て替えたのか」と質問したのに対し、籾井は「答えは控えたい」と回答している。
籾井自身の説明でも、1月2日の私用ハイヤー代を、3月9日に支払ったというのだ。「こんなことは、民間ならあり得ない」ことではないのか。それともお得意の「よくあること」だというのだろうか。
事件は内部告発によって発覚し、経営委員3人で構成される監査委員会が調査を始めた。この調査が始まったあとで、籾井は金を支払った。調査があったから、慌てて支払ったのだと誰もが考える。内部告発がなければ、あるいは監査委員会の調査が始まらなければ、籾井が金を支払うことはなかったのではないか。そう国民から疑惑を持たれて当然の事態の推移なのだ。
監査委員会を構成する3名が誰かは知らない。が、法律家やコンプライアンスの専門家がいるとは思えない。この道のプロとして、上村達男さんがこのメンバーに加わっていればと残念でならない。
以上が昨日までの情報。今日あらたな重要情報に接した。
まず毎日の報道。「NHKの籾井勝人会長が私用ハイヤー代の請求をNHKに回した問題で、代金を自己負担したのは、監査委員会側から支払いを促された後だったことが17日分かった」というもの。
籾井に代金支払いを督促したのはNHKではなく、監査委員会だったというのだ。内部告発があって、それに基づいて監査委員会が構成されて、一応の調査があっての後に監査委員会が籾井に支払うよう督促したのだ。籾井にこのことがわからなかったはずはない。16日予算委員会における小川敏夫議員に対する回答は、欺瞞に満ちている。
さらに、朝日の報道。
「NHKの籾井勝人会長が私用のゴルフで使ったハイヤー代がNHKに請求されていた問題で、役員が業務の際に使用する乗車伝票が作成され、会長の業務に伴う支出として経理処理されていたことが17日、分かった」
「籾井会長は今年1月2日、東京都渋谷区の自宅と小平市の小金井カントリー倶楽部をハイヤーで往復。車両は午前7時に出庫し、約12時間利用した。伝票上は業務内容として『外部対応業務』と記され、籾井会長名のサインもあった」
この報道は、決定的だ。ことの性質上ニュースソースを出せないだろう。しかし、その記事の具体性から信頼に足りるものと判断してよいだろう。立て替え払いが公私混同で道義的に問題だというレベルではない。プライベートの遊びのカネを「外部対応業務」として、NHKに支払わせたのだ。
籾井勝人は李下に冠を正しただけではなく、スモモの実をもいでいたのだ。そして、あたかも冠を正しただけと繕っていたのだ。せっかくもいだスモモだが、発覚したから返さざるをえなかったということ。「見つかったから返すよ。返したんだから問題なかろう」という例の逃げ口上の常套手段を、またまた聞かされることになったのだ。
籾井君、君はアウトだ。私用の傭車代金をNHKに支払わせたのだ。詐欺罪に当たるのか背任罪なのかはともかく、法的な問題として追求されて当然なのだ。
監査委員会は当初24日に予定していた経営委員会への報告を、19日に開かれる臨時経営委員会で行う、と報道されている。明日(19日)の監査委員会報告に注目したい。どのくらい厳正な調査をおこなったのか、厳正に不適格会長を指弾しているのか。経営委員会側も、その姿勢に関して国民の批判に曝されているのだ。
二つの感想を付け加えておきたい。
一つは、政権と籾井勝人とのつながりの深さについてである。
「菅義偉官房長官は16日午前の記者会見で、籾井会長のハイヤー報道について、『私が承知する限りにおいては全く問題がない』との認識を示した。」と報道されている。
政権は、NHKのコンプライアンスに口出しする立場にはない。ましてや会長の個人スキャンダルをもみ消そうとするかのごとき発言はあってはならないもの。この菅発言は政権と籾井勝人との持ちつ持たれつの関係を露わにするものとなった。おかげで、籾井勝人スキャンダルは、政権の責任を問うものともなっている。
もう一つは、内部告発者の勇気とその功績を称えたいということ。あらためて、内部告発(公益通報)が社会にもたらす有益性を確認したい。そして、この有益な情報を社会に公開するきっかけとなった内部告発者を擁護しなければならないと思う。籾井勝人とその配下の者たちは、内部告発者の犯人捜しをしたり、報復を企てるなどしてはならない。そのようなことがあれば、さらなるNHKの国民不信が深まることになるのだから。
(2015年3月18日)
ロシアのプーチンが、1年前、クリミア半島併合の際に核兵器の使用準備を検討していた、と自ら明らかにした。米国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)との対決に備えての核兵器の使用準備であったという。おぞましくも戦慄すべき発言。身の毛がよだつ。満身の怒りをもって抗議しなければならない。
人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。誰にせよ、核をもてあそぶことはけっして許されない。ましてや、威嚇の手段にすることなど、狂気の沙汰だ。
核の脅しは、その対抗措置としての核の脅しの連鎖となり、その連鎖が核兵器の実戦使用となりかねない。核兵器の実戦使用は、対抗措置としての核兵器使用の連鎖となって、人類を滅亡に導きかねない。プーチン発言は、人類が許してはならないものなのだ。
「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。ましてや、核兵器による威嚇や行使があってはならない。
昨日(3月16日)の朝日川柳に、次の1句。
戦闘に歯止めがあると人の言ふ(三重県 大西裕美子)
自衛隊による集団的自衛権行使やグレーゾーンでの戦闘を念頭においての句ではあろうが、歯止めの掛からぬ戦闘の究極の到達点が核戦争である。
私は、戦後間もないころに、広島の爆心地近くの小学校に入校した。幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。
1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」「原爆マグロ」「ガイガー計数管」などに戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器も被曝も、絶対悪として廃絶しなければならないと、骨の髄まで身に沁みている。
現行日本国憲法を採択した制憲国会において、当時の首相・幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」
プーチンが準備したという核兵器は、その破壊力において、広島・長崎に投下された原爆の比ではなかろう。その核兵器の使用の結果には勝者も敗者もない。人類を滅亡にいざなう破壊がもたらされるだけだ。
いかなる理由をこじつけようと、文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。
本日(3月17日)の朝日と毎日が、この問題を社説で取り上げている。
毎日の結びはこうなっている。
「来月には核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれる。非核保有国の核保有国に対する視線は厳しい。核削減への努力が求められる中で、核の威力を誇示して自国の主張を通そうとする姿勢は国際社会への背信行為である。」
朝日はこうだ。
「力による国境の変更に加え、核による挑発。プーチン氏の行動は、前時代的な大国意識の表れではないか。これ以上、国際秩序に挑むような言動は慎むべきだ。国際社会のロシアへの警戒心は極度に深まっている。」
両紙のいうとおりだ。プーチンは「核の威力を誇示」し、「核による挑発」をおこなっているのだ。国際的に批判されるべきは当然である。くわえて、私たちも小さくても、無数の声を上げねばならない。核兵器に文明を抹殺されることなど、絶対にあってはならないのだから。
(2015年3月17日)
昨日(3月15日)、「九条の会」が都内で全国討論集会を開いた。さすがに、よいタイミングでの企画。集団的自衛権行使容認の「閣議決定」を法律レベルで具体化する安保法制整備の阻止が焦眉の急の課題。法案の大綱は、現在進行中の与党協議の結論として、今月末までに明らかになる。自・公が真剣に議論しているのか、それとも出来レースで議論しているふりをしているのかも。
「九条の会」のこの集会の呼びかけは、1月29日に公表された。以下のような内容。
「安倍政権は、通常国会で、憲法9条の破壊につながる戦争関連法制の改定案や自衛隊海外派兵恒久法案などを提出しようとしています。私たちは、先般の集団的自衛権の政府解釈見直しの不当な閣議決定に沿ったこれらの憲法違反の諸法制を断じて容認できません。これを許せば、日本はまさに『戦争する国』になります。安倍政権のこの危険な企てに対して、九条の会はどのように活動するべきかを語り合うため、『全国討論集会』を開催します。全国からの参加を期待します。声をかけあってご参加ください。
単位「九条の会」は、全国の地域や職域や学園に7500も結成されているという。昨日はその内の280の「九条の会」から452人が参加し、34人が発言したと報じられている。
今朝の赤旗が、この集会を一面トップと、社会面の中段で記事にしている。これは驚くに当たらない。驚いたのは、東京新聞である。1面の左肩で扱っただけでなく、社会面の半分以上の紙幅を割いての、発言内容にまで立ち入った本格的な報道。
しかも、その姿勢が真っ直ぐだ。見出しが、「改憲反対に若い力を」「『九条の会』世論盛り上げ」「いま9条守る」というもの。その報道姿勢が、まことに新鮮な印象。
これまで、大手メディアは、護憲派の運動を報じることに臆病ではなかったか。改憲派の報道と抱き合わせでなくては、護憲派の集会はなかなか記事にならなかったのではないか。今朝の東京新聞の記事は、吹っ切れたという感じがある。同紙が原発報道において脱原発派に正当な地位を認めたように、憲法をめぐるせめぎ合いにおいても護憲派の運動に同様の対応をすることを決意したように見える。
東京新聞は、1面では「憲法九条を守る活動をしている市民団体『九条の会』は15日、全国の会員による討論集会を東京都内で開き、若者へのPRや地域に根差した活動で改憲に反対する世論を盛り上げていく方針を確認した。創設時の呼び掛け人の作家沢地久枝さん(84)と、同じく作家の大江健三郎さん(80)も登壇し『歴史を繰り返さないために』と訴えた」と公式的な報道内容だが、社会面では無名の5人の発言を写真入りで報じている。暖かい報道姿勢だ。
同紙がつけたこの5人の発言のタイトルがよい。
「改憲派にも言葉届けよう」「平和へ保守とも協力を」「東アジアの草の根で連帯」「改憲阻止へ大きなうねり」「障害者こそ平和が必要」というもの。この発言の選択とタイトルの付け方が、記者の共感を物語っている。
「運動の対象を改憲派にも拡げて、改憲派とも語り合おう」「革新・リベラル派だけの内向き運動だけでは勝てない。平和を希求する保守陣営とも協力して憲法を守ろう」「国内だけではなく、東アジアの草の民衆とも連帯しよう」「そして、8月15日には100万人大集会を成功させて改憲阻止へ大きなうねりを作っていこう」という、運動の拡がりを提案する発言が主流となったようだ。そして、「戦争の時代には弱い立場の人権が真っ先に切り捨てられる。障害者自身が弱者にこそ平和が必要だと訴えていきたい」という平和の尊さについての言及。まさしく、草の根の護憲運動が発言している。
なお、毎日もスペースは大きくないが、きちんと報道はしている。共同通信の配信で北海道新聞などの地方紙も報道をしている様子。朝日には関連記事がみあたらない。読売については言わずもがな。産経については「ことさらに『九条の会』を批判する記事」の掲載はないようだとだけ言っておこう。
各紙の報道での私の印象。
当然ではあるが、まずは、護憲派の危機感がとても強いということ。一歩一歩積み重ねられてきた、「戦争のできる国作り」が、いよいよ瀬戸際まで来ているという危機感である。これまでの運動の壁を乗り越えて、あらたな質と規模の護憲を求める国民的大運動を、という声が強い。
その危機感は、とりわけ戦前と戦争を知る世代に強い。「今が戦前に似ている」と語る高齢世代からの緊張感が伝わってくる。その高齢世代の危機感が、若い世代への運動継承の必要の強調となっている。
そして、これまで結束の対象としていた革新リベラルの域を超えて、その外の多くの人々に、改憲阻止の運動に参加を呼びかけようと訴えられている。共闘とは、無理に意見を一致させることではない。一致点での共同行動が第一歩である。
とりあえずは、専守防衛容認派も、瓶のフタとしての安保条約容認論者も、アベノカイケンだけには反対という論者も、閣議決定で実質改憲を許してはならないという一点護憲派も、「いまの安倍政権による改憲には反対」という一致点での共闘は可能であり、それこそが多数を味方に結集して大きな国民的運動を起こせるし、起こさねばならないのだ。
私も、自分の考え方は大切にしながらも、改憲阻止の大きな国民運動のうねりを作るためにはどうすればよいかを意識しつつ、当ブログを書き続けていきたい。
(2015年3月16日)
今日3月15日は、民主主義と人権に関心を持つ者にとって忘れてはならない日。思想弾圧に猛威を振るった治安維持法が、本格的に牙をむいた日である。
多喜二の小説「1928年3月15日」で知られるこの日の午前5時、全国の治安警察は一斉に日本共産党員の自宅や、労農党本部、無産青年同盟、無産者新聞社などを家宅捜索し1568名を逮捕、その内484名を起訴した。第1次共産党弾圧である。被逮捕者に対する拷問が苛烈を極めたことはよく知られている。皇軍の戦地での恥ずべき蛮行と並んで、天皇制政府の醜悪な側面を露呈させた恥部といってよい。
悪名高い治安維持法は、男子普通選挙法(衆議院議員選挙法改正法)とセットで、1925年3月に成立し、同年4月22日施行となった。その第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」であった。後に、法「改正」を重ねて刑は死刑を含むものとなる。
「国体ヲ変革シ」とは、天皇制を否定して国民主権原理にもとづく民主主義国家を建設しようという思想と運動を意味している。これが犯罪、しかも死刑に当たるというのだ。
「私有財産制度ヲ否認スル」とは、生産財を社会の共有にすることによって格差や貧困のない社会を目ざそうということ。これも危険思想故に犯罪とされた。天皇制政府が誰と結託していたかを雄弁に物語っている。
治安維持法は、「3.15」「4.16」、そして多喜二を虐殺した。まずは共産党に向いた治安維持法の牙は、社会民主主義者にも、自由主義者にも、平和主義者にも、労働・農民運動家にも、そして宗教者にも生け贄の対象を拡大していった。そのために、民衆は「滅多な口を利いてはならない」と政府を恐れた。その民衆にさらに容赦なく、天皇制政府は思想統制を強め、過酷な弾圧を続けた。
民衆の立場から、その実態を掘り起こす優れた作業がいくつも公にされているが、その一つとして、松谷みよ子の「現代民話考」の一巻、「銃後」に「思想弾圧」がある。
「現代民話考」は、広い分野にわたって全国の民間伝承を採話したもので、全12巻に及ぶ。初版は立風書房だが、今は筑摩文庫で復刻されているようだ。その第6巻(第2期・?)が「銃後 思想弾圧・空襲・沖縄戦・引き上げ」となっている。なお、第2巻(第1期・?)が「軍隊 徴兵検査・新兵のころ」というもの。民衆の伝承が、これほど戦争に関わるものになっているのだ。
以下は、「銃後」の前書きに当たる「銃後考」の抜粋である。戦争の時代を生き抜いた知性と良心が語る言葉である。児童文学者としての優しさに満ちた感性が、強靱な理性に支えられたものであることがよくわかる。
「安維持法の名のもと思想統制が進められ、労組、農民組合などの運動に参加する人びと、自由人、社会思想を持つ人びとが検挙され、凄じい拷問がくりひろげられた。昭和8年、小林多喜二が築地署で特高による拷問で死亡した事件は心ある人びとに大きな衝撃を与えた。そしてこれらの思想弾圧があってこそ、天皇を神とし、大東亜を共栄圈とする思想も、銃後の思想統一もゆるぎないものにつくりあげられていったのである。その意味で今回、第一章を思想弾圧・禁止とした。」
「あの当時、非国民の恪印は死とつながる恐怖であった。日本国民のあるものは、幼い日からの軍国教育によって、ある者はしんそこ日本は神国であると信じ、大東亜共栄圈の理想を共有した。しかし、ある人びと、前述したクリスチャンや、思想的にこの戦争は正しくないと感じ、何等かのかたちで抵抗した人びともいる。‥無垢の愛に地をたたき、狂うほどの悲しみをあらわにした。「息子を返せ! 東条のバカヤロー」「天皇のヤロウー どんなにしたってきかないから!」これらの言葉が官憲に聞えたらどうなるか、当時を生きた人なら誰でもが知っている。また、福島の‥は、貧農の母が髪ふり乱し「おらの息子を連れて行くな」と出征の行列に泣きすがったと伝える。庶民の心のほとばしりを私は大切に思うのである。」
437頁のこの書には、かなり長い「あとがき」がある。松谷みよ子の息遣いが聞こえてくるようだ。「ちょっと気になること」として、「一つの花」事件の顛末が書かれている。「一つの花」とは、小学校の教科書に載った短編小説の題名。作中のおおぜいの見送りのない出征風景が「捏造」として、産経の批判のキャンペーンにさらされたことが「事件」である。
これを松谷は、「『一つの花』における見送りのない出征風景はこのように、見送りのない出征?戦争の悲惨?アカ、という図式をはめられ、新たなる伝説をつくりあげられていく。バカバカしいことながら、笑ってはすまされないことであった。」
としたうえで、こう続けている。
「先日、京都へ行ったとき、国旗掲揚、君が代が教育の場で強制されてきた、となげく声を聞いた。これは他県ではずいぶん前から聞かされたことであった。国旗があがる間、どこにいてもぱっと直立不動の姿勢をとらされるという話も聞いた。また、昭和61年11月10日には、天皇在位60年を奉祝して、二重橋前から銀座、日本橋などに提灯行列、日の丸、天皇陛下万歳のさけびで湧いた。偶然通りかかった知人は、戦時中のシンガポール陥落の提灯行列を思い浮べ、歳月が40年前に逆戻りしたような恐ろしさを覚えたという。この前の戦争が、天皇を現人神と神格化し、平和を希求する思想をアカときめつけて全国民を戦争への道に駈り立てていった、そのことはすでにあきらかである。この道は、いつかきた道、戦後だ戦後だといっているうちに、あたりの風景は戦前に変りつつあるのではないか。そして、風景を塗り変えようとする手と、「一つの花」事件とが無縁のものとは考えられないのである。国家機密法が繰り返し上程されようとしていることとも無縁ではない。
いま、なにかが水面下で不気味にふくれあがりつつある。「一つの花」見送りのない出征事件は、いまから8年前になる。しかし遠い地鳴りのようなこの出来事を、私たちは忘れてはなるまい。一つ、一つの事件、それはごく小さく、とるに足りぬもののように見える。しかし、その小さな出来事が積み重なることによって、私たちの感性はいつしか馴らされ、気がついてみれば戦争への道をふたたび歩いている。そういうことがないとどうしていえようか。「ねえ、あのとき、どうして戦争に反対しなかったの?」子どもたちにそう問われることのないように、私たちは、常にするどく、感性を磨かねばと思う。卵を抱いた母鳥のように。」
松谷みよ子さんは、2月28日に永眠された。あらためて、警世の人を失ったことを悔やまざるを得ない。この書が上梓されたのは1987年4月であった。松谷さんがたびたび言及している国家機密法(自民党側はこれを「スパイ防止法」と呼んだ)は、1985年に国会上程されて廃案となり、87年ころには再提出が懸念されていた。いま、これに替わって特定秘密保護法が成立してしまった。また、産経の役割は相変わらずである。
松谷さんの言をかみしめたい。「小さな出来事の積み重ねに感性を馴らされてはならない」。しかし、今や安倍政権の所為は、「小さな出来事の積み重ね」の域を超えている。今を再びの戦前とし、後世に再びの「治安維持法・思想弾圧」の伝承を語らせる歴史を繰り返してはならない。
(2015年3月15日)
昨日の当ブログは、教育がビジネスチャンスとされていることを取り上げた。本日は、教育が国民の思想統制手段となる危険について警告を発したい。
文科省は初等中等教育局長名で、各都道府県教育委員会などに宛て3月4日付「学校における補助教材の適切な取扱いについて」と題する通知を出した。同旨通達は1974年9月以来のことという。
この通知を発した動機と趣旨については、こう前置きされている。
「最近一部の学校における適切とは言えない補助教材の使用の事例も指摘されています。このため,その取扱いについての留意事項等を,改めて下記のとおり通知しますので,十分に御了知の上,適切に取り扱われるようお願いします。」「管下の学校に対して,本通知の内容についての周知と必要な指導等について適切にお取り計らいくださいますようお願いします。」
教育は本質的に自由で闊達なものでなくてはならない。専門職としての教師の判断によって、具体的な現場々々に相応しい創意に溢れた手法の採用が尊重されなければならない。かつての天皇制教育は、国定教科書による一方的な知識を詰め込み、思想や価値観までをも画一化しようとした。その反省から、戦後教育改革は国定教科書を排して複数の教科書の採択が可能な体制とし、補助教材の活用も当然のこととした。教育の場に、単一の価値観を押しつけてはならない、ましてや国家によるイデオロギーの注入は許されない。そのような文明世界の常識に従ったのだ。
いま、その原則が揺らいでいる。同通知は補助教材の使用が可能なことは確認している。しかし、決して「検定教科書だけに頼らず社会の多様性を反映した補助教材の積極的活用を」と奨励するものではない。教師による補助教材を活用した授業を牽制し、萎縮させる方向での通知の内容となっている。
たとえば、次のようにである。
「学校における補助教材の使用の検討に当たっては,その内容及び取扱いに関し,特に以下の点に十分留意すること。
・教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従っていること。
・その使用される学年の児童生徒の心身の発達の段階に即していること。
・多様な見方や考え方のできる事柄,未確定な事柄を取り上げる場合には,特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと。」
しかし、これでは何が判断基準なのか不明確極まる。「教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従って」の補助教材使用と言っても、法も学習指導要領の記述も抽象性が高い。もちろん補助教材使用についての具体的な判断基準を意識したものではない。「特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」も同様である。権力が、「特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」と言えば、「時の政権の意見に従え」との意味にほかならないのが常識ではないか。
結局のところ、現場の教師は、上司・校長・教委・文科省、さらには政権の思惑を忖度して補助教材選択の可否を判断することにならざるをえない。萎縮効果は免れず、それこそが文科省の狙いというべきであろう。
さらにこの通知の問題は、次の記述にある。
「教育委員会は,所管の学校における補助教材の使用について,あらかじめ,教育委員会に届け出させ,又は教育委員会の承認を受けさせることとする定を設けるものとされており,この規定を適確に履行するとともに,必要に応じて補助教材の内容を確認するなど,各学校において補助教材が不適切に使用されないよう管理を行うこと。
ただし,上記の地方教育行政の組織及び運営に関する法律第33条第2項の趣旨は,補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく,教育委員会において関与すべきものと判断したものについて,適切な措置をとるべきことを示したものであり,各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること。
なお,教育委員会が届出,承認にかからしめていない補助教材についても,所管の学校において不適切に使用されている事実を確認した場合には,当該教育委員会は適切な措置をとること。」
これは、現場への締め付けであり、恫喝ですらある。
上記記述の第2段落には、確かに「補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく」「各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること」との言い訳は述べられている。しかし、わざわざこの通知が発せられたのはこの部分を強調するためではない。
この通知は、補助教材の使用については、教師は校長に、校長は教委に、事前の伺いを立てるようにせよとの通達として読むこともできる。このようにして、教育現場の管理をさらに徹底しようとする、政権と文科省の意図を読み取らなければならない。
この意図を傍証してくれるのが、本日の産経社説だ。いつものとおりの産経らしく、文科省の意図を忖度して、この通知のホンネを明らかにしてくれている。
タイトルは、「不適切教材 独り善がりの指導やめよ」というもの。その社説の中で、産経が「不適切な教材例」としているのは以下の事例。
「遺体の画像を配慮なく見せるなど教員の良識を疑わせる問題」「公立中学の社会科の授業で教諭が『日本海(東海)』と表記した地図を掲載したプリントを配る例」「高校の定期試験で安倍晋三首相の靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事を問題文に示して、生徒の解答を誘導するような事例」「過激組織「イスラム国」が日本人人質を殺害したとする画像を授業で見せる例」
産経も、「学校教育法で教科書のほかに副読本や教員の自作のプリントなど「有益適切」な補助教材を使うことが認められている」と言い訳めいたことを言っている。しかし同時に、「補助教材の使用にあたり校長の許可を得て教育委員会に届けるルールも守られていなかった」と強調している。
驚いたのは、産経社説の締めくくり。「文科省は通知で適切な教材を有効に活用することも促している。日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材こそ工夫してほしい。独善的な指導は多様な見方や考え方を損なう」というもの。
結局、「靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事」の使用は不可で、「日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材」は可というのだ。前者は独善で不適切、後者は多様な見方や考え方を示すものとして適切。恐るべき産経の独善。おそらくは政権も同意見。
なるほど、ナショナリストには、「日本の豊かな自然、国土や歴史」でなくてはならない。おそらくは、「豊かな」という形容詞は、「自然」だけでなく「国土や歴史」をも修飾するようだ。原発事故で荒れ果てた福島の自然や国土は、教材として取り上げるに不適切ということになろうし、侵略や植民地支配の日本の歴史も「豊か」ならざるものとして「理解を深める」対象から外されることになるのだろう。
教育現場の管理をさらに徹底しようというのがこの通知だが、教育を締めつけて窒息させてはならない。使用教材の適不適の判断には微妙な問題が絡む。最も適切で有効な批判は、現場の教師集団の意見交換の場においておこなわれるべきである。校長や経験豊かな教師、さまざまな信条を持つ教員集団の経験交流や意見交換の充実が何よりの優先課題というべきである。
真に憂うべきは、教育行政が教員の裁量を奪い、教員に対する管理を徹底することによって、教師集団から教育専門職としての力量を奪いつつあることではないか。教育行政は意図的にそのように仕向けているとの憂いを払拭できない。
(2015年3月14日)
昨日(3月12日)は、維新と一体の中原徹大阪府教育長の失態を取り上げた。続いて今日(3月13日)は、安倍政権と一体の下村博文文科相の醜態を取り上げたい。
人格未熟なる者が企業の幹部になったり市長になったりすると、自分がえらくなったと勘違いする。権力行使に伴う快感は麻薬だ。その魔力がパワーハラスメント事件をひき起こす。ナッツ姫によるナッツ・リターン事件に類することは日常的にありふれている。なかなか表面化しないだけ。中原は、なまじ校長や教育長になったのが不幸のもと。大いに傍迷惑ではあるが、こちらは個人的な人格の未熟をさらけ出しただけの事件。
これに較べて文科相の問題は根が深い。構造的な「業界と政界の癒着」「政治とカネ」の問題につながっているからだ。民主党がこの問題をよく追求している。やればできるじゃないか、民主党よガンバレ。
本日配達の赤旗日曜版(3月15日号)トップに、「教育行政利権」「徹底追求」「下村文科相 塾業界と癒着」の大見出し。
「閣僚の「政治とカネ」疑惑が続出する安倍政権。なかでも首相の”盟友”、下村博文文部科学相の疑惑は底無しです。教育行政を動かす力を背景に、塾業界に自分の名前をかぶせた後援組織「博友会」を広げ、票や「会費」などと称する政治資金を集める?。まさに教育分野の”利権あさり”の構図です」とのリード。
法務省や文科省は利権との関わりが小さいような印象だが、どこにだって癒着の対象となる関連業界はある。下村自身が学習塾経営者出身であって、「塾業界」なるものからカネも票ももらっている。世の中、道義を忘れてはならない。とりわけ道徳教育を教科にしようという文科相だ。もらったカネに報いること、「浄財を寄進してくれた篤志の方に真心込めて恩返し」をし、末永く仲良くお付き合いすべきが人としての道、その心得がよく身についているようだ。さすがに立派な教育族。
カネの見返りとしての業界への恩返しの具体的内容が「教育の規制緩和で、ビジネスチャンスを」というもの。カネを媒介にした政治と業界との、持ちつ持たれつのみにくい癒着。折も折、アベノミクスの「第3の矢」である規制緩和策に「学校の公設民営」が盛り込まれている。
指摘されて初めて気が付いた。下村にとっては、また安倍政権にとっても、教育とは何よりもビジネスチャンスなのだ。だから、下村が文科相なのだ。
どの分野でも同じことだが、規制緩和とは業界の要求である。事業者にとってのビジネスチャンス拡大と同義なのだ。だから、下村のような政治家は「教育のビジネスチャンスを」と業者に呼びかけてカネにありつこうとし、また、業者の側は、自分たちに利益をもたらす規制緩和策を実現するために、目星をつけた政治家にカネを提供する。こうして、結局は金ある者のための政治が横行する。
ところで刑法は、第25章を「汚職の罪」とする。その中心に、贈収賄罪が位置している。
「第197条(収賄) 公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する。
第198条(贈賄) 第197条‥に規定する賄賂を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、3年以下の懲役又は250万円以下の罰金に処する。」
いうまでもなく「公務員」は議員を含む。賄賂とは、金品に限らず「人の欲望を満たす一切」を意味する。そして、贈収賄罪の保護法益は、「公務員の職務の公正とこれに対する社会一般の信頼」とするのが、大審院以来の判例の立場である。
つまりは、職務の公正を守るためだけに贈収賄が犯罪となっているのではない。職務の公正に対する社会の疑惑を払拭して、職務の公正に対する社会の信頼を確保しようというのだ。政治資金規正法も同様の趣旨でできている。
もちろん、犯罪の構成要件は厳格にできているから、職務関連性認定のハードルは高く、政治家が事業者からカネを受けとれば、すべてが贈収賄となるわけではない。しかし、政治や職務の公平性に対する社会の信頼を保護しようとする立法の趣旨には反することにはなる。
赤旗の記事の表現を借りよう。
「もともと、下村氏自身が塾を経営。東京都議を経て国会議員になり、塾業界に『ビジネスチャンス』をもたらす、と叫んできました。『ビジネスチャンス』とは?。公教育のさまざまな規制を緩和して、営利企業である株式会社の学校経営参入を広げ、利益をあげられるような仕組みにすること。下村氏は、今国会で、公立学校の運営を民間にゆだねる『公設民営』の法案提出も目ざしています。その裏で、表とカネが動くのです」
資本主義経済における野放しの企業行動の自由は、社会に害悪をもたらす。その経験から、企業活動には種々の規制が設けられている。教育においても然りである。儲けのためにはこの規制を邪魔とする勢力が規制を緩和しようとする。その手段が、政治家にカネと票とを提供することである。これによって、政治を儲けの手段の方向に誘導しようというのだ。仮に、そのような目的がなくても、あるいはその誘導に成功しなくても、カネで政治が歪められているのではないかという社会の疑惑はいっそう深まることになる。
だから、政治の公正や公務員の職務の公正に対する社会の信頼を擁護するために、上限規制を厳格にした個人献金以外の、企業・団体献金は一切禁止すべきなのだ。
(2015年3月13日)
3・11の昨日は憂鬱な気持の一日だった。その夕刻に、秀逸なブログを開いて少し心が和んだ。紹介しておきたい。
タイトルが、「祝『君が代斉唱口元チェック』の中原徹大阪府教育長(橋下市長のご学友)がパワハラで辞任」ーよりによって口元チェック校長を教育長にしたりするからこうなる。http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake
多くの人の思いを代弁する、胸がすくような筆の冴え。まったくそのとおりと思わずうなずき、思わず笑みがこぼれる。私も、中原徹大阪府教育長辞任には、大いなる祝意を表したい。人権と民主主義とあるべき教育のために乾杯。しかも、この重要なタイミングでの維新の党への政治的打撃は貴重だ。
ブログ筆者の宮武嶺さん(ハンドルネーム)とは旧知の間柄。私の方が年嵩だが、ブロガーとしては彼の方が大先輩。器用に写真やデータをあしらった親しみやすいレイアウトを工夫して多数の読者に愛されているご様子。しばらくブログが途絶えていて心配したが、昨年の暮れに復活し、毎日更新を続けている。恐るべきパワー。
同ブログは、「今回弁護士による第三者委員会が2015年2月20日に公表した報告書で、中原教育長の府教委職員らに対する言動が『パワハラに該当する』と認定されていました」と、経過を丁寧に解説したうえで、こう述べている。
「2月23日から始まった府議会で、公明、自民、民主の野党3会派が、パワハラ問題を相次いで追及し、3月2日に中原氏の辞職勧告決議案を議長に提出。10日には、大阪市と堺市を除く府内41市町村教委が『毅然とした対応』を求める要望書を府教委に提出するなど、中原氏の責任を追及する声が高まり、往生際の悪かった中原氏もとうとう観念したものです。
先ほど行われた辞任会見でも、計5人もの人に対するパワハラで辞任するのに、その方々へ謝罪する前に第三者委員会の報告書にケチをつけるなど、最後まで人格劣等ぶりを見せつけました。
言っていること、やっていることがご学友の橋下市長とそっくりで、笑っちゃいけないけど笑ってしまいます。
辞任会見では「『教育改革が道半ばのまま辞任するのは残念』と言っていたそうなんですが、道半ばで良かったよ、ほんと。」
「この中原氏は橋下市長の大学時代の友人で、橋下氏の府知事時代に公募された府立和泉高校の校長を経て、2013年春に教育長に就任した人です。この人も橋下さんと同じく弁護士です。本当にすみません。
ちなみに、この中原氏は校長時代、2012年3月の卒業式では、大阪府君が代条例で起立斉唱を義務付けられた君が代を教職員が実際に歌っているか、和泉高校の教頭らに教員の口元を監視するよう指示して、まるで北朝鮮のようだと大きな批判を受けました。」
「そもそも、橋下・松井維新の会が君が代条例を作って君が代斉唱を徹底しろと教委や教育現場に言ったのがすべての始まりなのに、いざとなると教委に責任をなすりつける姿勢は、橋下氏に関してはいつもどおりなのですが、中原氏も双子のようで印象的でした。こんな調子の人ですから、中原氏が教育委員会入りして教育長になって、全校長に君が代斉唱口元チェックを指示したら、どんなに殺伐とした全体主義的な入学式・卒業式になるのだろうと暗澹たる気持ちになっていたので、中原教育長辞任万歳です。」
「およそ教育現場や教育行政にこれほど不適切な人格の人物もいないわけで、こういう人を学校長にしたり、ましてや教育長にしてきた橋下・松井両首長の任命責任は重大です。」
以上の宮武ブログの紹介だけでよいようなもの。このあとは私の蛇足。
中原徹教育長辞任を求める署名活動は、東京の教育関係集会でも活発に取り組まれていた。東京の教委がひどいことは既に天下に周知だが、下には下があるもの、と妙に感心した次第。大阪のひどさは、また東京とはひと味違っている。橋下徹を中心にした驕慢なお友だち人事の弊害の露呈ではないか。類は友を呼ぶの例えの通りである。
ところで、教育長という職には、教育委員の一人が任じられる。
教育委員会制度は、戦後教育改革の要の一つだった。戦前の極端な中央集権的教育の反省から、戦後改革は、まず教育と教育行政とを切り離した。更に教育行政の主体を国家ではなく自治体単位の教育とし、更に具体的な行政担当を首長から独立した地方教育委員会とした。しかも、教育委員は公選として出発した。
国家からも自治体の首長からも独立した公選制の教育委員会は、重責を負うことになった。しかし、残念なことに住民の公選による教育委員会制度は1956年に頓挫する。教育委員会法は廃止され、その後身として「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)が制定されて現在に至っている。
現行法の第4条に「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する」と規定されている。
教育委員たる者、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもの」とされているのだ。教育をサポートする任務なのだから、当然といえば当然。人格高潔ならざる中原に務まるはずもない。
地教行法第16条は、「教育委員会に、教育長を置く」とし、「教育長は、当該教育委員会の委員である者のうちから、教育委員会が任命する」とある。その任務は、「教育長は、教育委員会の指揮監督の下に、教育委員会の権限に属するすべての事務をつかさどる」「教育長は、教育委員会のすべての会議に出席し議事について助言する」という強力な権限を与えられている。
維新府政は、よくもまあパワハラ人格を教育長に据えたものだ。責任は重大である。
なお、地教行法はこの4月1日から改正法に移行する。教育行政の責任の明確化という名目で、教育委員長と教育長を一本化した新たな責任者(新教育長)をおいて、教育長の権限は更に強くなる。法改正の失敗が施行前に表れた。
中原は、教育長と教育委員の両方の職を辞任した。これは、維新の党にとって政治的打撃が大きい。しかも、統一地方選挙直前のこの時期、さらには5月に予定されている大阪都構想の住民投票への影響も否定できない。
「中原氏は橋下徹大阪市長の大学時代からの友人で弁護士。橋下氏が知事時代に民間人校長として府立高校に着任し、卒業式での「君が代」斉唱口元チェックで批判を浴びました。2013年4月、松井知事が教育長に任用しました」(赤旗)のだから、通常の任命責任という程度のものではない。言わば、維新ぐるみ共同正犯的な関係にある。中原教育長は、維新教育政策のシンボルであり、このうえないみっともない形でのその破綻が、維新の失政でないはずはない。府政も、市政も、実態はこの程度と誰もが考えざるをえないではないか。だから、橋下も不満たらたらだ。次には自分が同じ目に遭いかねないのだから。
松井知事も府議会の維新も辞職の事態は避けようとずいぶん頑張ったようだ。しかし、報じられているところでは、自・公・民3党の追及は厳しかった。とりわけ、公明が重い処分を求める立場で一貫したことが注目される。公明の維新に対する遠慮の有無は、大阪都構想是非の住民投票に大きく影響するからだ。
朝日に、「パワハラ問題に詳しい脇田滋・龍谷大教授(労働法)」が、第三者委員会の報告を受けた段階でのコメントを寄せている。
「‥パワハラでも相当ひどい部類だろう。『どこのブラック企業か』と感じるような内容だ。反省を深めてほしい。再び起きないよう、教育委員会も組織や意思決定のあり方を見直すべきだ」というもの。松井も維新も、結局はかばいきれなかった。自業自得なのだ。
もう一点指摘しておきたい。この事態は、以下の記事のとおり、内部告発をきっかけに展開したものである。この勇気ある内部告発がなければ、中原教育長は今日も安泰で、4月には「新教育長」となり、もっと大きな権限を持つことになっただろう。中原とともに、維新も安泰であったことになる。
「◆涙の内部告発(朝日)
問題が発覚したのは10月29日。府民に公開される教育委員会議で、立川さおり教育委員(41)が中原氏から同21日に受けたとされる発言内容を公表した。府議会の教育常任委員会の打ち合わせで、府が府議会に提出した幼稚園と保育園の機能を併せ持つ『認定こども園』の定員上限を引き上げる条例改正案をめぐり、立川氏が案の内容に反対する意向を明かしたところ、中原氏が強い口調で次のように叱責したという。
『目立ちたいだけでしょ。単なる自己満足』『誰のおかげで教育委員でいられるのか。ほかでもない知事でしょ。その知事をいきなり刺すんですか』『罷免要求を出しますよ』?。
立川氏は会話内容をメモに書き起こし、出席者に配布して公表。メモを読む声は次第に震え始めて涙声となり、「自由に発言できない状況だった」と訴えた。
立川さんにも五分の魂があった。この魂を傷つけられるとき、人は決意してルビコンを渡る。立川さん、よくやった。
(2015年3月12日)