戦争法案推進側は冷静で合理的な判断をしているのだろうか。反対世論の圧倒的な盛り上がりを強行突破するリスクをどのように計算しているのだろうか。敢えて、強行採決を辞さないという構えが理解できない。
圧倒的な世論が、「一度廃案にして出直せ」「何をそんなに急ぐのか」「次の会期でも、その次でもよいではないか」と言っている。しかし、政権と与党は、飽くまで今国会成立をゴリ押しの姿勢を崩さない。修正案にすら耳を傾けようとしない。参院特別委は中央公聴会を15日に開くという日程を決めてしまった。報道では、16日に委員会採決強行とか、連休突入前の18日が参院本会議決議のリミットなどと言われている。追い詰められて、これしかないということなのか。それとも、「この運動の高揚もどうせ一時的なもの」と国民をなめきっているということなのだろうか。
本日(9月10日)の毎日朝刊トップには、「安保関連法案:自民が衆院再可決検討」の大見出し。政権中枢は、「参院の与党がぐずぐずしていると、衆院で『60日ルール』を実行して再可決してしまうぞ。そうなれば、参院の存在意義に傷がつく。それがイヤなら参院で早く採決してしまえ」ということなのだ。参院与党への明らかな恫喝。
推進勢力は、実質的にあと10日足らずとの焦り。日程は大詰めだが、参院の議論が煮詰まっているのかといえばそんなことはまったくない。参院段階での新たなテーマがいくつも出てきている。多くの課題を未解明のままで、スケジュールがひとり歩きすることを許してはならない。
参院段階で明らかになったのは、実はこの法案がアメリカの必要が発端で、日米の制服組が枠組みを作り、日本の制服組が法案を練り、政権がこれに乗ったものなのだ。「制服の制服によるアメリカのための」法案。少しずつ、その実態が明らかにされつつあるから、強引に幕引きをしようとしているのだ。公明党に対する創価学会員の批判も、長引けば長引くほど大きくなるという見通しなのだろう。
そのような事態で、本日の朝日が「『違憲』法案に反対する」と題した社説を載せた。立派なものだ。以下、その抜粋。
「法案に対する世論の目は相変わらず厳しい。
朝日新聞の8月下旬の世論調査では法案に賛成が30%、反対は51%。今国会で成立させる必要があると思う人は20%、必要はないと思う人は65%だった。
多くの専門家が法案を『憲法違反』と指摘し、抗議デモが各地に広がる。国民の合意が形成されたとはとても言えない。それなのに政府・与党が数の力で押し切れば、国民と政治の分断はいっそう深まるばかりだ。」
「もう一度、9条のもつ意味を考えてみたい。
時に誤った戦争にも踏み込む米国の軍事行動と一線を引く。中国や韓国など近隣諸国と基本的な信頼をつなぎ、不毛な軍拡競争に陥る愚を避ける。平和国家として、中東で仲介役を果たすことにも役に立つ。
現実との折り合いに苦しむことはあっても、9条が果たしてきた役割は小さくない。
確かに、米軍と自衛隊による一定の抑止力は必要であり、その信頼性を高める努力は欠かせない。そうだとしても、唯一の「解」が、「違憲」法案を性急に成立させることではない。国際貢献についても、自衛隊派遣の強化だけが選択肢ではない。難民支援や感染症対策、紛争調停など多様な課題が山積みである。9条を生かしつつ、これらの組み合わせで外交力を高める道があるはずだ。
数の力で、多様な民意を一色に塗りつぶせば、国民が将来の日本の針路を構想する芽まで奪うことになる。」
毎日社説も、「これでも採決急ぐのか」と小見出しを付けたもの。「参院の役割」に焦点を当てている。
「審議の内容は、採決に踏み切る状況からは依然としてほど遠い。参院は『良識と抑制の府』としての役割を果たすべきだ。」
「参院特別委の鴻池祥肇委員長(自民)は礒崎陽輔首相補佐官がかつて今月中旬の成立に言及した際、「参院は衆院の下部組織や官邸の下請けではない」と批判した。その通りだが、採決を急ぐようでは衆院と変わらない。『先の大戦で貴族院が(軍部を)止められず戦争に至った道を十分反省をしながら、参院の存在を作り上げた。衆院の拙速を戒め、合意形成に近づけるのが役割だ』。これも鴻池氏の言葉である。参院の存在意義を今こそ、示す時だ。」
さらに、毎日社説には、次の具体的な指摘がある。
「法案を審議するほど疑問が深まる構図は変わらない。8日の参考人質疑でも、内閣法制局の長官経験者から重要な疑義が示された。
安保関連法案のうち、他国軍への後方支援を定めた重要影響事態法案と国際平和支援法案は、戦闘作戦行動のため発進を準備する航空機への給油を可能とする。政府はこれまで『認めなかったのはニーズがなかったため』だと説明していた。
ところが参考人として陳述した大森政輔元内閣法制局長官は内閣法制局が政府の内部検討にあたり、この活動を憲法違反だと指摘していたことを明らかにした。
1999年に周辺事態法が制定された当時、大森氏は長官だった。その際、内閣法制局側は給油活動は『典型的な武力行使との一体化事例であり、憲法上、認められない』と主張した。だが、外務省と対立したため『表面上は(米軍からの)ニーズがないからということにしたのが真相』なのだと言う。
これも法案の根幹に関わる問題だ。ところが、政府が十分な説明もしていない段階で、特別委は中央公聴会を15日に開くという日程を決めてしまった。」
これは大問題ではないか。
また、毎日社説は、次のようにも言っている。
「自民党の高村正彦副総裁は講演で『国民のため必要(な法律)だ。十分に理解が得られていなくても決めないといけない』と語った。国民理解は置き去りでいいとでも言うのだろうか。」
この高村の言は、民主主義とは対極の考え方。「国民よりも与党・政権が賢いのだから、任せておけば良いのだ」との思い上がり。主権者の意思を閣議決定で覆してよいという考え方がここにも顔を覗かせている。
論語に、「民は由らしむべし。知らしむべからず」とある。高村や安倍の頭は、この2500年前のレベルなのだ。どうせ民衆は「民衆自身のために必要な法律であることを理解できない」。だから、理解できずとも為政者を信頼して付いて来させればよいのだという思い上がりである。
こんな調子で、違憲の法案を成立させられたのではたまらない。いまや、愚かな安倍政権に、民衆自身が大きな声と力を見せつけるしか方法はなさそうだ。
(2015年9月10日・連続893回)
昨日(9月8日)、司法試験の合格発表があった。試験問題漏洩事件が大きな話題となっている中でのことである。
1850人の合格者すべてに、「おめでとう」などとはけっして言わない。この中に、高村正彦や北側一雄、あるいは稲田朋美、橋下徹などの後輩が確実に潜んでいるからだ。権力や資本にシッポを振ることを恥と思わぬ弁護士や、スラップ訴訟請負常連の弁護士などもいる。
そのような連中を除いて、とりわけ「平和と人権と民主主義」擁護の志を堅持しようという未来の法曹に心からおめでとうと言いたい。これからどのような法律家になろうかと、悩んでいる合格者諸君にも祝意を表して、法律家としての生きがいを探して欲しい。
志ある合格者に「登科後」という唐代の詩を贈る。登科とは科挙に合格すること。作者孟郊は46歳にして進士に合格した。合格翌日の伸びやかな心境を詠ったもの。
昔日齷齪不足誇
今朝放蕩思無涯
春風得意馬蹄疾
一日看尽長安花
読みは、昔日の齷齪(あくせく)誇るに足らず、
今朝放蕩として思い涯(はて)無し。
春風意を得て馬蹄はやし、
一日看尽くす長安の花。
作者は、今朝は昨日までとは打って変わってどこまでも伸びやかな心もち。春風のなか得意満面で軽やかに馬上の人となっている。当時、合格発表は牡丹の季節。科挙の合格者には、長安城内の貴族の家々が牡丹の花を見せた。皆、合格者には一目置いて扉を開けたのだ。作者は、広い長安で、家々の牡丹を見尽くしているというのだ。家々のもてなしは、牡丹だけではなかったのかも知れない。
なお、1858年清末に科挙で賄賂を取っての不正合格が発覚した。驚くべきことに、不正を犯した考査官2名だけでなく、不正合格者も死刑に処せられたという(宮崎市定「科挙」中公新書・101頁)。
私が司法試験に合格したのは、1968年といういまは昔のこと。苦学生だった私が司法試験を目指したのは、誰でも受験が可能で合格すれば司法修習生として公務員に準じた給与の支給を受けられることが大きな魅力だった。
私は文学部の出身だから、授業での法学の勉強はしなかった。当時予備校や塾などという存在はなく(あったかも知れないが知らなかった)、模試すら受けたことはない。友人の司法試験グループに入れてもらって勉強した。いまなら、法学未習コース。司法試験とは、受験まで金がかからず、合格すれば給与が支給された。当時、この制度のおかげで、私のような貧乏学生が法曹になった。
合格して司法修習生として採用になったのが、1969年の4月。最初の給与をもらったときは本当に嬉しかった。それまでは、身を粉にして不定期な学生アルバイトで生計を立てていたのだから。勉強しているだけで、安定した給与の支給を得られるなど、夢のような話しではないか。そのとき、けなげにも思った。私はいま、社会からの恩恵を受けた立場にある。社会は私に、相応の期待をしているのだ。この期待に応え、将来社会に還元しなければならない。そういう意識は、その後弁護士となってからも持ち続け、いまもある。
現在司法修習における給費の制度は廃止されている。貸費の制度はあるようだが、どうせ弁護士は儲け仕事なのだろうと位置づけられたことになる。若い弁護士諸君が給費制復活の運動をしている。日弁連も支援しているが、十分に大きな運動にはなっていない。人権擁護に奉仕しようという弁護士を求める社会の期待はなくなったのだろうか。
いま、全国の弁護士会が、戦争法案反対で大きな運動を巻き起こしている。先年には、特定秘密保護法反対にも熱心だった。平和・人権・民主主義、そして憲法を擁護する姿勢において、弁護士会はきわめて真っ当である。十分に社会からの期待に応える活動をしていると思う。給費制復活の世論が盛りあがってもよいはずではないか。
私は、弁護士とは成熟した市民社会が創造した反権力の職業だと思っている。いざというとき、法を武器にして、弱者の人権のために権力や金力に怯むことなく対抗してたたかう専門職である。在野であることが絶対の基本であり、多数派の同調圧力や常識にもとらわれない、真の意味で自由人としての存在でなければならない。
新合格者諸君。今日は、思う存分牡丹の香りに酔え。明日からはぜひ、人権のために研鑚せよ。
(2015年9月9日・連続892回)
昨日に続いて、東京新聞「平和の俳句」からの話題。
上掲句の投句者は浜松市西区・倉橋千弘(76)とある。敗戦を6歳で迎えた方だ。戦没者のご遺族だろうか。靖国には参拝をする方だろうか。
いとうせいこうの選評は、「死者から賜ったことを次の生者につなぐのは、今生きる我々の責務。」というもの。特に異論あるわけではないが、いつもの的確で鋭さに欠けてもの足りない。このコメントでは、せっかくの「九条」が生きてこない。
もうひとりの選者である金子兜太は、「数百万におよぶ戦死者の霊魂が憲法九条を生んだのだ。忘れるな。」と言っている。同感。僭越ながら、憲法九条に関連して兜太の言を敷衍してみたい。
この句は、よく考え抜かれた、推敲の末の作品だと思う。まずは、「戦死者」「戦没者」ではなく「全戦死者」とされていることに注目したい。
「全」は、曖昧さを残さずに戦没者の差別を認めない姿勢を表している。敵と味方、戦闘員と非戦闘員、積極的加担者と抵抗者、社会的地位や業績の有無に関わりなく、戦争によってもたらされたすべての死を悼む立場が強調されている。
この句では、「戦争」と「すべての命」とが対比されている。ひょんと死んだ名もない兵、爆心地で跡形もなくなった子どもたち、東京大空襲で焼け死んだ無辜の市民、その以前に重慶の爆撃で殺された多くの中国人、日本の炭坑で強制労働を強いられ殺された中国人・朝鮮人、沖縄戦での日米の兵と地元の人たち…。その死は、ひとつひとつすべて等しく悲惨である。
九条は、「すべての命」を等しく貴しとする思想を根底に、すべての戦争を否定している。死を何らかの基準で差別するとき、いかなる命も貴しとする純粋さは失われる。そのことは、いかなる戦争も否定するのではなく、戦争を肯定する思想に結びつくことになる。
この句は、「全」を入れることで、すべての命を大切にし、すべての戦争を否定する姿勢を鮮明にしている。それこそが憲法九条の精神である。
身近な死を悼む気持は誰にもある。遺族が戦没者を悼む気持には誰もが厳粛な共感を持たざるを得ない。この心情を利用しようとして創建されたのが戦前の別格官幣社靖国神社であり、宗教法人靖国神社もその思想の流れをそのまま酌んでいる。
靖国神社(改称前は東京招魂社)とは、内戦における官軍(天皇軍)の戦死者だけを祀る宗教的軍事組織として創建された。上野戦争では賊軍の屍を野にさらして埋葬することを禁じ、皇軍の戦死者のみを神として祀って顕彰した。この徹底した死者への差別、死の意味の差別が靖国の思想である。当然に、天皇の唱導する聖戦を積極的に肯定する意図があってのものである。
遺族の心情を思いやるとき、戦没者の「顕彰」には口をはさみにくい。しかし、その口のはさみにくさこそが、靖国を創建した狙いであり、いまだに国家護持や公式参拝を求める勢力の狙いでもある。それは死の政治的利用であり、戦没遺族の心情の政治利用である。
死は本来身近な者が悼むものである。いかなる戦死も国家が顕彰してはならない。ましてや、敵味方を分け、味方の戦闘員の死だけを、国家に殉じたものと意味づけて顕彰するようなことをしてはならない。
再びの戦死者を出してはならない。全戦死者がそう思っているに違いないというのが、引用句の精神だと思う。
これに反して、戦死者をダシにして、戦争を肯定し、国家の存在を意味あらしめようというのが、戦没者慰霊にまつわるイヤな臭いの元なのだ。
毎年、8月15日には、日本武道館で政府主催で全国戦没者追悼式が行われる。「戦没者を追悼し平和を祈念する」ことが目的とされる。さすがに、靖国神社ほどの露骨さはない。
しかし、今年の式典で安倍晋三は、「皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。」と式辞を述べている。やはり、戦死者の政治的利用の臭いを払拭できない。
同じ式での、天皇の式辞がある。
「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
こちらの方が、政治的利用の臭いが薄い。もちろん、「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」だけの追悼であり、「さきの大戦に対する深い反省」の内容の曖昧さや加害責任に触れていないことの不満はあるにせよ、である。
再びの戦死者を出してはならない。その思いの結実が憲法九条なのだ。
(2015年9月8日・連続891回)
東京新聞一面左肩に毎日掲載の「平和の俳句」。平和を願う多くの人々の感性や知性を代弁して、共感を呼ぶものとなっている。ときに感心し、ときにその句の鋭さにぎょっとさせられる。今日の句にも、ぎょっとさせられた。
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ(9月7日)
60代女性の投句である。この穴の暗さの記憶が、作者の父のその後の人生を呪縛し続けたにちがいない。真面目な人ほど、好人物であるほど、家族にすらいえない辛い暗い記憶に悩み続けることになる。私の亡父にも、口にすることのできない暗い記憶がなかっただろうか。
私が子どものころ、男の大人は、例外なく兵隊の経験者だった。かつて敵と戦場で闘った人たち。銃で武装し鉄兜をかぶって敵を殺す訓練を受けた人たち、私もそういう目で大人を見た。外地で戦って敗れた生き残り…とも。その大人たちは、戦争について多くを語らなかった。「穴を掘った」以上のことを子どもに語りようがなかったろう。伝聞では戦地での暴行や略奪を手柄話に語る大人もいたようだが、私には直接聞いた記憶が無い。
8月28日東京新聞一面のトップに、「元兵員 残虐行為の悪夢 戦後70年 消えぬ心の傷」という、優れた調査報道が掲載されていた。穴を掘った人たちの心の傷が、70年を経た今なお癒えないというのだ。
「アジア太平洋戦争の軍隊生活や軍務時に精神障害を負った元兵員のうち、今年七月末時点で少なくとも10人が入通院を続けていることが分かった。戦争、軍隊と障害者の問題を研究する埼玉大の清水寛名誉教授(障害児教育学)は『彼らは戦争がいかに人間の心身を深く長く傷つけるかの生き証人』と指摘している。」というリード。
「本紙は、戦傷病者特別援護法に基づき、精神障害で療養費給付を受けている元軍人軍属の有無を47都道府県に問い合わせた。確認分だけで、入院中の元兵員は福岡など4道県の4人。いずれも80歳代後半以上で、多くは約70年間にわたり入院を続けてきたとみられる。通院は東京と島根など6都県の6人。
療養費給付を受ける元兵員は1980年代には入通院各500人以上いたが、年々減少。入院者は今春段階で長野、鹿児島両県にも一人ずついたが5、6月に死亡している。
清水氏によると、戦時中に精神障害と診断された兵員は、精神障害に対応する基幹病院だった国府台陸軍病院(千葉県市川市)に収容され、38?45年で1万4百人余に上った。この数は陸軍の一部にすぎず、症状が出ても臆病者や詐病扱いで制裁を浴びて収容されなかった場合も多いとみられる。
清水氏は同病院の「病床日誌(カルテ)」約8千人分を分析。発症や変調の要因として戦闘行動での恐怖や不安、疲労のほか、絶対服従が求められる軍隊生活への不適応、加害の罪責感などを挙げる。
診療記録で、兵士の一人は、中国で子どもも含めて住民を虐殺した罪責感や症状をこう語っている。「住民ヲ七人殺シタ」「ソノ後恐ロシイ夢ヲ見」「又殺シタ良民ガウラメシソウニ見タリスル」「風呂ニ入ッテ居テモ廊下ヲ歩イテイテモ皆ガ叩(たた)キカカッテキハシナイカトイフヨウナ気ガスル」
残虐行為が不意に思い出され、悪夢で現れる状態について、埼玉大の細渕富夫教授(障害児教育学)は「ベトナム、イラク戦争の帰還米兵で注目された心的外傷後ストレス障害(PTSD)に類似する症状」とみる。
清水氏は「症状が落ち着いて入院治療までは必要のない元兵員が、偏見や家族の協力不足などで入院を強いられてきた面もある」と説明。また今後、安全保障関連法案が成立して米国の軍事行動に協力すると、「自衛隊でもおびただしい精神障害者が生じる」と懸念する。」
戦争は残酷なものだ。殺されることも、殺すこともマッピラ。戦争そのものを拒否し、防止しなければならない。
「父が掘った穴」の暗さは個人を蝕み個人の記憶に残るだけではない。人類の文明にポッカリ開いた穴の暗さでもある。あらゆる場で、この穴を塞ぐ努力をしなければならない。
ついでに、印象に残った平和俳句のいくつかを紹介する。
毛髪と爪が父なり終戦日(8月13日)
これも、ぎょっとさせられる系の句。作者の父の死は外地でのこと。輸送船の沈没か地上戦か、あるいは餓死か。混乱の中で、遺骨は届けられない。出生前に、形見として残していった毛髪と爪だけが父のすべてなのだ。終戦記念日に、戦争を深く考えざるをえない。
改憲という声開戦に聞こゆ(8月29日)
まったくそのとおり。言い得て妙ではないか。語呂合わせを越えて、本質を衝いている。
今程の平和でいいと蟇(ひきがえる)(8月25日)
こういうの好きだなあ。いい雰囲気だなあ。「いまほど」でいいんだ。のんびりさせてくれよ。
九条を吸ってェ吐いてェ生きている(7月12日)
これもいいなあ。平和のうちに生きることと憲法九条との一体感が、肩肘張らずに表現されている。
戦争の命日八月十五日(8月14日)
父や母の命日ではなく、「戦争の命日」。この日戦争は死んだのだ。再び、生き返らせてはならない。
国旗よりはためかさせてよ洗濯物(7月6日)
この句では、国旗が勇ましい戦争の象徴、洗濯物が日常の平和の象徴として対比されている。国旗をはためかしても碌なことはない。それよりは、洗濯物をはためかした方がずっと役に立つし楽しいじゃないの。
今後も、ずっと「平和の俳句」に注目したい。そして楽しませていただきたい。
(2015年9月7日)
戦争法案の参院審議は、いよいよ大詰め。95日という常識外れの大幅延長をした今通常国会の会期末(9月27日)まであと3週間。60日ルール適用期間開始の9月14日も、もうすぐだ。「16日採決強行」「18日がリミット」などという観測記事が目につくようになった。強行できるかどうかは、情勢次第、あるいは情勢の読み方次第であろう。
参院の審議では、いよいよ法案のボロが現れてきた。とりわけ、アメリカの意向に沿って制服組が合意し策定した防衛政策を後追いして法案化がなされ審議されていることが浮かびあがってきた。衆院の審議段階では伏せられていた重要資料がいくつも出て来た。立法事実の欠缺が、明確になってきてもいる。
院外の運動のかつてない盛り上がりは続いているが、もう一つ注目されるのがこの時期に行われる大型地方選挙での選挙民の動向。本日の岩手県議選と13日の山形市長選が、全国の耳目を集めることとなった。
岩手県議選がこの時期となったのは、前回選挙が2011年東日本大震災の被害で、予定されていた一斉地方選挙から約5か月延期した事情による。今日は、国政選挙なみの注目を集めるはずだった知事選の投票日としても予定されていたが、はやばやと自民候補の不戦敗になり、現職達増知事の無投票再選となったのはご承知のとおり。結局、県議戦と、釜石市・陸前高田市・山田町の3市町議会議員選挙の投開票が行われた。
県議選は16選挙区。定数48に対し、63人(現職40人、元職3人、新人20人)が立候補した。このうち釜石、八幡平(定数各2)、大船渡、遠野、陸前高田、九戸(同1)で現職8人が無投票当選となった。残り10選挙区、40議席をめぐっての激しい選挙戦となった。岩手の有権者数は107万人。全国の1%規模での大型世論調査と考えることができる。
今回県議選の党派別立候補者数は、自民16、生活9、民主5、共産3、公明1、社民3、無所属26。前回は23人の当選者を出した民主党が、今回は割れている。
8月31日の地元紙岩手日報は、県議選立候補者全員に「安全保障関連法案」への考え方のアンケート調査結果を公表している。「選挙戦は安全保障法案の国会審議と時期が重なり、有権者の注目を集めている」と問題意識からのことである。このアンケートの結果がきわめて興味深い。
候補者63名のうち、「今国会で、安保関連法を成立させるべき」との回答は、わずかに4人(6・4%)。これに対して、「成立を見送るべき・廃案にすべき」は52人(82・5%)に上っている。
「成立させるべき」との回答者4名の内訳は「政府案」「政府案を修正」とも2人(3・2%)ずつで、いずれも自民公明の候補が回答した、という。「今国会で成立させるべき」という意見が4名。うち自民が2人。すると、自民党立候補者のうち14人は、「今国会で成立させるべき」とは回答できないのだ。
これは、地方政治家が自分の支持者をどう見ているかを反映している。有権者の手前、「今国会で、安保関連法を成立させるべき」とは回答できないのだ。そんなことを言ってしまえば、明らかに選挙に不利になる、落選するかも知れないと考えているのだ。来夏には参院選が控えている。参議院議員諸君、とりわけその半数の改選議員諸君。選挙民に、「今国会で、安保関連法を成立させるべきだ」と、堂々と言えるだろうか。
さらに、岩手日報は、「成立に否定的な回答のうち『憲法違反またはその恐れがあり廃案にすべき』が29人(46・0%)、『国民理解が不十分のため成立は見送るべき』は23人(36・5%)となった」と報じている。これが、地方政治家の意識状況なのだ。勝負あったというべきではないか。
詳細な得票状況はまだ分からないが、共産の候補3人が全員当選した。とりわけ、奥州選挙区(定数5、立候補8)での千田美津子候補(新人)のトップ当選が象徴的だ。党の躍進でもあろうが、戦争法案反対運動の成果というべきだろう。
自民党は3選挙区で苦杯をなめている。公明は、盛岡で1議席を確保したが、前回の9722票(4位/10人)から今回は8655票(8位)に票を減らしている。
この結果は、戦争法案反対運動の昂揚を反映したものであろう。
(2015年9月6日)
A アメリカでは、連邦最高裁が今年の6月に同性婚を禁じた州法を違憲と断じて、今や全州が同性婚を認めているそうだね。
B けっこうなことではないか。同性婚の容認は、その社会の寛容度のバロメータだと思うね。個人の精神のあり方やライフスタイルの多様性を尊重するからこその同性婚だ。そんな社会は、個人を縛らない。だから誰にとっても生きやすいのだと思う。
A 何が、非寛容の原因だろうか。
B 一つは社会の多数派の倫理観だろう。これが強固な社会的同調圧力となる。もう一つは一部の宗教的信念だろうね。そのようなものが、政治と結びつくところがやっかいだ。
A 日本では、戦前までは結婚は子をなして家の存続や繁栄をはかるためのものとされた。しかし、現行憲法や戦後の民法は家制度を厳格に廃したじゃないか。いまだに、多数派の強固な倫理観が同性婚に非寛容かね。
B 家制度の残滓はこの社会の至る所にあるではないか。選択的別姓の制度すら、「醇風美俗に反する」という右派の攻撃を受けて実現しない。結婚式は、「ご両家」の主催で誰も怪しまない。女性には、良妻賢母が期待される‥。
A それはともかく、日本では宗教的な理由による強固な反対論は考えにくいが。
B 宗教一般が、同性婚反対というわけではない。しかし、宗教は結婚という制度に深く関わってきた。その宗教が、「神が愛し合うように男女を作り、結婚を祝福した」「同性の愛は神の意に沿わず、祝福の対象とはならない」と説くと、話は面倒になる。
A アメリカでは、法制度としての同性婚は認めても、宗教的信念から個人としては絶対に認めないという、反対派のボルテージも高いようだね。
B それを象徴する事件が起きた。一昨日(9月3日)、ケンタッキー州のある郡の行政担当者が、信仰上の信念から、同性婚に対する結婚証明書発行を拒否したという。連邦地裁からの命令も無視したとして、裁判所は法廷侮辱罪でこの郡の担当者を拘束して収監したとニュースになっている。
A この人、法廷で「神の道徳律と職務上の義務が一致しない。判決に従うことは良心が許さない」と述べたそうじゃないか。「自分の内心が命じる思想や良心」と、「職務上の義務」の不一致は、往々にしてあることではないか。外部からの強制を排して、内心の声に忠実になるというのは立派な行動とは言えないか。
B むずかしい問題を含んでいるが、公務員が明らかに合法で正当な目的をもち、かつ行政に真に必要な自分の職務を拒否することは原則として許されない。結論としては、そう考えざるを得ない。
A たとえば、敬虔なクリスチャン教師が、聖書に書いてあることは真実だという信念から、公立学校の歴史の教科において「天地と生物界は、神が7日かけて創造した」「進化論は間違いである」と教えることはどうなのだ。
B 教員は自己の信念にかかわりなく、文明が真実と確認している事項を生徒に教える義務を負っている。これを教えるべきことは、正当な教員本来の職務だ。それが、教育という営為だし、生徒の学ぶ権利に応えることでもある。たとえ、内心の信念と異なっていてもこれを教える義務を果たさねばならない。
A 要するに、内心の自由よりも、公務員や教員としての職責が優先するということなのか。
B いいや、必ずしもそうではない。上司の明らかに違法な命令には服する必要はない。第三帝国における「ヒトラーの命令だから」、帝国日本の「天皇の命令だから」ということでの残虐行為は免責されない。つまりは、従ってはならない、ということなのだ。
A ジェノサイドや捕虜の虐待の命令なら、内心の良心を優先してこれに従うべきだという話はわかりやすい。しかし、今、そんな極端な違法な命令は考えられない。具体的には、公立校教員の「日の丸・君が代」への起立斉唱命令の拒否について聞きたい。教員としては、公務員である以上は、上司の職務命令に従うべきではないのか。同性婚に結婚証明書発行を拒否することとどこが違うのだ。
B わかりやすい違いは、教員に「日の丸・君が代」を強制することは、教員本来の職務内容ではないということだ。教員は生徒に対して知識と教養を伝える立場にあるが、特定の価値観を注入することは職務内容ではない。「日の丸・君が代」強制とは、教員が率先垂範して生徒に対して国家に対する忠誠や敬意の表明のイデオロギーを注入せよということだ。そのような強制は意識的に排除しなければならない。「従う必要がない」だけでなく、「従ってはならない」と言ってしかるべきなのだ。
A 普通多くの人はそんな大げさなこととは考えずに、軽く立って軽く歌うか、歌うふりをしているんだと思う。日本人なら、当然「日の丸・君が代」を大切にすべきだという考えもあろうに、どうしてそんなに「日の丸・君が代」にこだわるんだろう。
B 同性婚問題と似ているところがある。社会の圧倒的な多数派は、異性間の愛情と結婚を求める。しかし、少数ながら異なる心理や性向をもつ人もいる。「日の丸・君が代」にこだわるグループも少数派だが、少数派の存在も尊重されなければならない。人権とはそういうものだろう。
A そもそも、「日の丸・君が代」とは何なんだ。
B 「日の丸・君が代」という歌と旗はシンボルだ。何を象徴しているかについて、二重の意味がある。一つは、国旗国歌として日本という国家を象徴している。もう一つは、戦前から使われていた大日本帝国の事実上の国旗国歌として、天皇制や軍国主義、侵略戦争や植民地支配という負の歴史を象徴している。
A それで、「日の丸に正対して起立し、君が代を斉唱する」ことをどうとらえるんだ。
B 二重の意味があることになる。一つは、日本国という存在に敬意を表し、尊重するという意味だ。もう一つは、日の丸と君が代が戦意を鼓舞し侵略の小道具となった、あの戦前の歴史を受容するという意味。
A 多くの人はそうまでは思っていないのではないか。
B 真剣にものを考え、熱意ある教育者ほど、この問題にこだわらざるを得ない。少数の考えだから無視してよいということにはならない。
A 職務命令で卒業式や入学式の「日の丸・君が代」が強制され、違反には懲戒処分が続いているそうだが。
B 「日の丸・君が代」の強制とは、国家への忠誠、少なくとも敬意を表明することの強制にほかならない。また、戦前の負の歴史を免罪することへの加担の強制でもある。
ドイツが、学校の生徒にハーケンクロイツへの敬意表明を強制したらどうなると思う? 世界が驚愕するに違いない。実は日本はそれをやっているのだ。国民主権国家になったのに、戦前と同じ「天皇の御代よ、永遠なれ」という「臣民歌」を歌いたくないという人の心情は理解できるだろう。教育の場で、これをすることは子どもたちに、特定のゆがんだ歴史的価値観を押しつけることになる。
A 自分の気持ちにそぐわないから従えないということではないのか。
B もちろん、教員個人の思想良心の核になるところで、受容できないという問題はある。これを受け容れてしまえば、自分が自分でなくなってしまうというぎりぎりのところなのだ。単なる好悪とか気分や好みの問題ではないということだ。
だが、今同性婚証明拒否事件との対比で論じたのは、個人の信条を離れた教員の職責としての問題だ。戦前の臣民教育による洗脳や刷り込みの教育を繰り返してはならないということは、主観的な教員の思いであるよりは客観的な憲法が想定する教員の職務の内容だ。
国家は往々にして間違うものだ。国家のいうことを絶対視してはならない。教育とは、国家に奉仕する人間を育成する場ではない。国家をどう作るかを決める能力のある主権者を育成する場なのだ。
A 理念としては理解できないでもないが、同性婚の証明書発行拒否も、「日の丸・君が代」強制拒否も、同じように自分の思想や信仰を絶対として、公務員としての任務を拒否している感がまだ拭えない。
B 教員が、自分の信念に反するとして進化論を教えることを拒否してはならない。生徒に進化論を教えることは教員の本来的職務に属することなのだから。同様に、同性婚の証明書発行も、その職員の本来的職務に属することなのだから宗教的信念に反するとの理由で拒否することはできない。
しかし、教員に対する「日の丸・君が代」の起立斉唱命令は、教員の本来的職務に属することではないこととして強制し得ない。この理は、憲法の体系と、教育の本質、戦前の教育のあり方に対する戦後教育改革の理念、それが結実した戦後教育法体系によって導かれる結論なのだ。
A 判例はそのことを認めているのかい。
B 最高裁は、今はその半分だけの理解しかない。しかし、やがてはそのことを理解することになるだろう。
(2015年9月5日)
「スタップ細胞はありまーす」「エンブレムは模倣していませーん」には決着がついた。もう一つ未決着なのが、「最高裁は集団的自衛権を認めていまーす」という安倍政権と自公両党の空しい叫び。実は疾うに決着がついているのだが、本人たちが負けを認めない。「あんなに頑張っているのだから、もしかしたら本当なのかも知れない」と思い込みかねない、欺され易い好人物層をたぶらかそうという魂胆が見え透いている。
高村が言い出して安倍が追随し、最初はさすがに「そんな馬鹿な」と言っていた公明党までが最後は乗った泥船。それが、「最高裁は集団的自衛権を認めている」という、無茶苦茶な主張だ。自公以外で、これを支持する意見を私は知らない。見解の相違などというレベルの問題ではない、「牽強付会」「暴論これに過ぎるものはない」「こじつけも甚だしい」と散々の言われ方。四面楚歌どころの話しではなく、まさしく総スカンなのだ。それでも頑張っている安倍政権、立派なものというべきなのだろうか。
高村説の真偽の判断に格別の法律の素養などはいらない。新聞に掲載されている両者の言い分を読み較べることで十分だ。よく分からなかったら、砂川事件最高裁判決と、政府の「72年」見解とをお読みいただけば、疑問は氷解する。
法律専門家としては、まず弁護士会が猛反発した。続いて、憲法学者・行政法学者が挙って批判を展開した。かつての法制局長官諸君も批判の発言を躊躇していない。これで決着がつきそうなものだが、自公の責任者諸君はそれでも頑張っている。と言うよりは、弁護士会や憲法学者や元法制局長官が口を揃えて安保法制の違憲を言うものだから、最後の砦として最高裁を持ち出さざるを得なくなったのだ。
「法案の合違憲の判断は、学者がするものではない。日弁連でも法制局でもない。最高裁だ」と、最高裁に逃げ込んだのだ。ここなら、直接の反撃をしには来ないだろうと踏んでのこと。「最高裁は、まだ集団的自衛権違憲の判断はしていない」にとどめておけば、無難だった。しかし、無難な主張では安保法案審議に国民の支持を得るには不十分なのだ。だから、ウソもハッタリも法案を通してしまえばそれまでのこと、として「最高裁は、集団的自衛権合憲の判断をしている」「それが、1959年の砂川事件大法廷判決だ」と言っちゃった。そういわざるを得ないところに追い込まれたと言うべきだろう。
溺れそうになった自民と公明は、必死になって救命ボートを探したが見つからない。ようやく見つけたのが砂川判決というわけだが、実はこれ、救命ボートでも筏でも材木でもなく、1本のワラでしかない。とても溺れる者を救う浮力はまったくないのだ。高村や北側とて、この判決が実はワラに過ぎないことは百も承知のはず。承知していながら、これにすがるよりほか術がなかったのだ。だから、必死にこのワラをつかんで離せない。
できることと言えば、ウソとハッタリで、ワラを筏か材木だと言い募ること。まさか救命ボートとまでは言えなくとも、丸太か浮き輪と言い張って、国民の目眩ましができればなんとかなるのではないか、法案成立するまで欺しおおせれば万々歳、というわけだ。
弁護士会・学者・元法制局長官からの批判に耐えつつ、砂川最高裁判決というワラにすがって、必死に泳いでいるところに思わぬ伏兵が現れた。「安倍政権がすがっているそいつはワラだ。溺れて当然」と、当の最高裁の元長官が言明したのだ。このインパクトは大きい。
昨日(9月3日)、山口繁元最高裁長官が朝日と共同通信のインタビューに応じて、「集団的自衛権行使は違憲」「砂川判決は集団的自衛権行使を容認したものではない」ことを明言した。政権の言い分を、「論理的な矛盾があり、ナンセンスだ」「何を言っているのか理解できない」とまで言って厳しく批判している。法案沈没の運命だ。
高村・北側は、どう弁明するだろうか。「元最高裁長官などという肩書に欺されてはならない」「問題は判決の論理であって、誰がなんというかではない」とでも言うのだろうか。その言葉はそっくりお返ししなくてはならない。
また、安倍はアベ流の手口でこう考えるかも知れない。「過去の最高裁は問題ではない。ここは未来志向だ。法制局長官だって入れ替えをして言うことをきかせたのだ。最高裁だって、NHKと同様にアベトモを送り込めばよいことだ」。しかしこれは、論理の敗北を認めた上での姑息な対応手段に過ぎない。
まさしく、「スタップ細胞はありまーす」「エンブレムは模倣していませーん」に続く、「最高裁は集団的自衛権を認めていまーす」という自公両党沈没寸前の、空しい叫びではないか。
ところで、「砂川判決の悪用を許さない会」というものがあることを知った。代表世話人は、内藤功、新井章、大森典子、吉永満夫の4氏。そして、屋台骨を支えている事務局長が山口広さんだという。この会が、「砂川判決と戦争法案」という書物を緊急出版した。「最高裁は集団的自衛権を合憲と言ったの!?」と副題がつけられている。そして、本日その書の出版お披露目会を兼ねた、緊急集会「砂川事件判決の真実」が参議院会館内で開かれた。これも、山口さんの奮闘で実現し成功したもの。
私も出席して事件関係者の話を聞いた。「砂川判決の悪用を許さない」というネーミングが当事者と担当弁護士たちの気持ちをよく表している。
山口繁元長官も、同じく、「最高裁判決の悪意ある引用を許せない」という気持になったのであろう。
共同記事は、「元最高裁長官の山口繁氏(82)が三日、共同通信の取材に応じ、安全保障関連法案について『集団的自衛権の行使を認める立法は憲法違反と言わざるを得ない』と述べた。政府、与党が一九五九年の砂川事件最高裁判決や七二年の政府見解を法案の合憲性の根拠と説明していることに『論理的な矛盾があり、ナンセンスだ』と厳しく批判した。『憲法の番人』である最高裁の元長官が、こうした意見を表明するのは初めて。高村正彦自民党副総裁は、憲法学者から法案が違憲と指摘され『憲法の番人は最高裁であり憲法学者ではない』と強調したが、その元トップが違憲と明言した。」と述べている。
なお、共同は次の一問一答を紹介している。
−−政府は憲法解釈変更には論理的整合性があるとしている。
◆1972年の政府見解で行使できるのは個別的自衛権に限られると言っている。自衛の措置は必要最小限度の範囲に限られる、という72年見解の論理的枠組みを維持しながら、集団的自衛権の行使も許されるとするのは、相矛盾する解釈の両立を認めるものでナンセンスだ。72年見解が誤りだったと位置付けなければ、論理的整合性は取れない。
−−立憲主義や法治主義の観点から疑問を呈する声もある。
◆今回のように、これまで駄目だと言っていたものを解釈で変更してしまえば、なし崩しになっていく。立憲主義や法治主義の建前が揺らぎ、憲法や法律によって権力行使を抑制したり、恣意的な政治から国民を保護したりすることができなくなってしまう。
−−砂川事件最高裁判決は法案が合憲だとする根拠になるのか。
◆旧日米安全保障条約を扱った事件だが、そもそも米国は旧条約で日本による集団的自衛権の行使を考えていなかった。集団的自衛権を意識して判決が書かれたとは到底考えられない。憲法で集団的自衛権、個別的自衛権の行使が認められるかを判断する必要もなかった。
また、朝日の記事の中に次の一問一答がある。
―「法案は違憲」との指摘に対して、政府は1972年の政府見解と論理的整合性が保たれていると反論しています。
◇何を言っているのか理解できない。「憲法上許されない」と「許される」。こんなプラスとマイナスが両方成り立てば、憲法解釈とは言えない。論理的整合性があるというのなら、72年の政府見解は間違いであったと言うべきです。
―安倍晋三首相ら政権側は砂川事件の最高裁判決を根拠に、安保法案は「合憲」と主張しています。
◇非常におかしな話だ。砂川判決で扱った旧日米安保条約は、武装を解除された日本は固有の自衛権を行使する有効な手段を持っていない、だから日本は米軍の駐留を希望するという屈辱的な内容です。日本には自衛権を行使する手段がそもそもないのだから、集団的自衛権の行使なんてまったく問題になってない。砂川事件の判決が集団的自衛権の行使を意識して書かれたとは到底考えられません。
―与党からは砂川事件で最高裁が示した、高度に政治的な問題には司法判断を下さないとする「統治行為論」を論拠に、時の政権が憲法に合っているかを判断できるとの声も出ています。
◇砂川事件判決は、憲法9条の制定趣旨や同2項の戦力の範囲については判断を示している。「統治行為論」についても、旧日米安保条約の内容に限ったものです。それなのに9条に関してはすべて「統治行為論」で対応するとの議論に結び付けようとする、何か意図的なものを感じます。
これで、勝負あった。あとは、勝負の結果を多くの人に知ってもらう活動が必要だ。「砂川事件と戦争法案」はそのために大きな役割を果たすだろう。旬報社発行で、定価800円+消費税。今月10日が発行日で、この日以後書店に並ぶことになるという。おそらくは、実践的活用期間がきわめて短い。賞味期間がまことに短いと言えなくもない。その短期間に、戦争法案廃案を目指す運動の道具として大いに活用されてしかるるべきと思う。
それにしても…思う。運動のうねりが次々と新たな事態を切り開いていく。新たに発言する「時の人」をつくり出す。多くの人のたゆまぬ行動が、少しずつ法案に反対する人の輪を拡げ、とうとう元最高裁長官までも動かしたのだ。法案を廃案にするまで、もう一息ではないだろうか。
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一昨日の「DHCスラップ訴訟」の勝訴判決に、多くの方からお祝いや激励をいただいきました。感謝申しあげます。
当日法廷傍聴と報告集会にご参加いただいた内野光子さんの本日(9月4日)付ブログ「DHCスラップ訴訟、澤藤弁護士勝利、東京地裁判決と報告集会に参加しました」をご紹介いたします。ありがとうございます。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/dhc-30de.html
(2015年9月4日)
今年(2015年)は、4年に1度の中学校教科書採択の年にあたる。2016年から19年まで使う各教科の教科書を、各地の教育委員会がほぼ決め終わった。
教科書は全15科目。注目は、社会科3科目(地理・歴史・公民)のうちの歴史と公民の両科目。ここに、今回も歴史修正主義者グループの2社が参入しているからだ。「新しい歴史教科書をつくる会」(作る会)から分裂した「教科書改善の会」が教科書の版元として設立した育鵬社(扶桑社の100パーセント子会社)から、本家の作る会は自由社(藤岡信勝らが関与)から、似たような教科書を作って検定には合格している。
もっとも、自由社版の歴史教科書は、「虚構の『南京事件』を書かず、実在した『通州事件』を書いた唯一の歴史教科書が誕生! 自由社の『新しい歴史教科書』が文科省の検定に合格! 『つくる会』教科書の役割はますます重要に」と自賛する代物。
自由社版の、前回2011年公立学校採択は、石原都政下の都教委が特別支援学校10校について100冊(公民のみ)を採択したのが全国でのすべてだった。若干の私立校の採用があって、シェアは歴史が0.07%、公民が0.05%(文科省公表による)と無視しうる数字。今回、国公立校での採択は皆無となった。私立では、常総学院中・東京都市大等々力中・八王子実践中の3校のみの模様。もっとも、私立は集計が進んでいないようで、これからの増はありうる。
これに反して、育鵬社版の前回シェアは、歴史3.7%、公民4.0%と無視しえない。育鵬社は、今回全国で10%のシェアを目指すと豪語して、採択へ向けての運動を展開した。これを阻止しようとするカウンター運動も盛り上がり、この夏は熾烈な歴史・公民教科書採択の戦いでも熱かった。
結果は、まだ全国集計が確定していないが、冊数ペースで育鵬社系教科書が前回4%から6%強にシェアを伸ばした。10%の目標から見ればアチラも不満だろうが、こちらも危機感を持たざるを得ない。育鵬社の歴史・公民教科書は、安倍晋三の歴史修正主義・改憲路線と軌を一にしているからだ。
のみならず、文科大臣が右翼の下村だ。地教行法が改悪されて、首長の意向がストレートに教委に反映する制度ともなっている。その中で6%に押さえたのは、良識派の健闘と言えるかもしれない。
4年前の衝撃は横浜市と大田区だった。この日本最大の都市と大特別区で育鵬社版が採択となった。今年の衝撃は大阪だ。リベラルなはずだった大阪が、維新にかきまわされて、まったくおかしくなってしまっている。橋下・松井らの罪は大きい。
注目地域である東京、神奈川、大阪、愛媛を順に概観する。
まず東京。石原教育行政の遺物である東京都教育行政の右翼精神はいまだ「健在」である。都立の中高一貫校、特別支援学校の歴史・公民教科書に関して、都教委は前回に引き続いて、今年もはやばやと育鵬社版を採択した。しかし、採択は4対2の評決だったとされる。もうひとりが動けば、3対3となるところ。どうにもならないガチガチの都教委体制が、多少の揺るぎを見せてきている。来期に希望をつなぐ経過ではあった。
特筆すべきは、東京23区全部の教育委員会が育鵬社を不採択としたこと。大田区(28校・3500冊)も逆転不採択となった。都教委の動向や日本会議の首長に引きずられるのではないかと懸念されながらも、その他の各区もすべて不採択となった。教員・父母・地域の真っ当な教育を願う声と運動の成果である。
もっとも、都下では武蔵村山市が前回に引き続いて、小笠原村が今回初めて育鵬社を採択した。残念ながら、東京完勝とはならなかった。
次は大阪。前回の育鵬社採択は東大阪市(公民のみ)だけだったが、今回はこれに下記の各市が加わった。
大阪市、河内長野市(公民のみ)、四條畷市、泉佐野市。
これが、市民・府民の意向の反映とは到底思えない。府政・市政を牛耳った維新勢力の教委への影響力行使の結果と見るしかない。もっとも、大阪市教委は、育鵬社版を採用しながら、帝国書院の歴史教科書と日本文教出版の公民教科書を補助教材として使うことも付帯決議している。育鵬社版の問題点や批判は意識してのことなのだろう。
次いで神奈川である。ここは、松沢成文知事(つい先日次世代を離党)、中田宏横浜市長(これも次世代)という保守政治家の影響下に教育委員が選任されたところ。前回は、県立高2校と、横浜市、藤沢市で育鵬社版が採択されていた。
今回、県教委は県立高の歴史・公民についてともに新たに東京書籍版を採用した。教科書使用部数において日本最大の選択地域である横浜市教委では、今回無記名投票で3対3の同数となり岡田優子教育長の職権で育鵬社版を採択したという。藤沢市も前回に引き続いての採択となった。
次いで、以前から問題の愛媛県。今回は、県都松山市と新居浜市が初めて歴史のみ採択となった。四国中央市と上島町が前回に引き続いての歴史・公民の採択。しかし、今治市は、8月28日歴史・公民とも前回の育鵬社版から変更して東京書籍版を採択している。以上、一進一退のせめぎ合いが続いているとの印象が深い。
なお、都県レベルでの採択は、東京・千葉・埼玉・山口・福岡・香川・宮城(歴史のみ)に及んでいる。神奈川が、逆転不採択となったのは前述のとおり。
また、前回に続いて栃木県大田原市、沖縄県石垣市・与那国町(公民のみ)、広島県呉市、山口県岩国市・和木町、防府市の採択があり、今回新規の採択として、石川県の金沢市(歴史のみ)・小松市・加賀市がある。
一方、逆転して両科目不採択となったのが大田区と今治市だが、島根県益田市では歴史だけについて逆転、広島県尾道市では公民についてだけ逆転不採択となった。
なお、私立での採択は清風中(公民のみ)・浪速中・同志社香里中と、これまでのところいずれも大阪府内の学校のようだ。
全国の公立校の採択地区数は580を数えるという。その内、確認される育鵬社版の採択地区数は、30に満たない。微々たるもののようだが、横浜市・大阪市の比重が圧倒的に大きい。冊数単位では、両市だけで4.1%になるそうだ。それあっての全国シェア6%強である。次回の採択は、自ずから横浜・大阪決戦とならざるを得ない。
もう一つ、今年の特徴として「学び舎」の歴史教科書が出たことがある。「学び舎」版歴史教科書とは何か。下記の産経記事が雄弁に語っている。
「来春から中学校で使われる教科書の検定結果が4月6日に公表された。今回の検定では安倍政権の教科書改革が奏功し、自国の過去をことさら悪く描く自虐史観の傾向がやや改善された。だが、そんな流れに逆行するかのような教科書が新たに登場した。『学び舎』の歴史教科書である。現行教科書には一切記述がない慰安婦問題を取り上げ、アジアでの旧日本軍の加害行為を強調する?。」
産経がそう言っているのだから、よい教科書であることは折り紙付き。太田尭さんが推薦し、教育現場からの評価が高い。残念ながら、今年の公立中学校の採択はならなかったようだが、国立の筑波大付属駒場中、東京学芸大付属世田谷中、私立では、麻布中・獨協中・上野学園中・田園調布学園中等部・青稜中・東京シューレ葛飾中・金蘭会中・建国中・大阪桐蔭中・広島女学院中・活水中が「学び舎」版を採択したという。健闘しているといってよいだろう。こちらは教育委員会ではなく、校長が採択の権限をもっている。この動向が大いに注目される。
「フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です」という育鵬社系のブログでは、「筑駒、麻布といえばわが国有数の進学校で、国家公務員などのエリートを送り出しています。そこが想像以上に左翼体質にむしばまれているのです。教科書改善運動の新たなテーマは学び舎教科書の放逐です」と言っている。彼らなりの危機感である。
4年後の次回採択は、大阪・横浜の大都市地区の奪回と、学び舎版の進出が争点になってくるだろう。教科書が教育のすべてではない。しかし、教科書に何が書かれているかは、すこぶる重要だ。とりわけ、育鵬社の教科書採択運動は、歴史修正主義勢力拡張の運動としてなされていることから、無視し得ない。憲法や民主主義に関心をもつ者にとって、いよいよ歴史教科書・公民教科書の採択は注目すべき運動分野となっている。
(2015年9月3日)
本日(9月2日)午後1時15分、東京地裁631号法廷で、私自身が被告にされている「DHCスラップ訴訟」の判決が言い渡された。被告代理人席も傍聴席も、被告の支援者で満席だった。原告代理人席だけが、ポッカリ空席。その法廷での言い渡し。原告(DHC・吉田嘉明)の請求はすべて棄却となった。被告(澤藤)の全面勝訴である。
たくさんの方から「勝訴おめでとう」と声をかけていただいきました。弁護団の皆さま、支援をしてくださった皆さまに、感謝を申し上げます。この1年余の間、孤独を感じることなく「もっとも幸せな被告」であり続けられたことは、ひとえに皆さまのおかげです。感謝しきれない思いです。
原告両名の、私に対する請求は以下の3点。
1 6000万円の損害賠償
2 ブログ「憲法日記」5本の記事削除
3 謝罪文をブログに掲載せよ
このすべてが、斥けられた。
この件で被告になっているのは形の上では私(澤藤)だが、実は私だけでなく「政治的言論の自由」「政治とカネにまつわる問題についての批判の自由」「消費者利益の擁護に向けた言論の自由」も、私と一緒に被告席に立たされてきた。光前弁護士を筆頭にする被告弁護団は、澤藤を勝訴させるというよりは、表現の自由を擁護するために、かくも熱意をもって訴訟活動をしてくれたのだ。だから今日は、憲法21条の表現の自由が少し微笑み、その輝きを増したように思う。
にもかかわらず、キーワードは「言論の萎縮」だ。のびのびと言論の自由が謳歌される社会でなくてはならない。無責任言論の放任を奨励しているわけではなく、市民の誰もが、権力や経済的・社会的強者に対して、遠慮なく批判の言論を行使できなければならないのだ。強者の側には、言論による批判を甘受すべき寛容が求められる。仮に、誤った言論で攻撃されれば、反論すれば済むことだ。
本件は、典型的な経済強者による、自己に不都合な言論の封殺を狙ってのスラップ訴訟である。判決はスラップとして「却下」までは認めなかったが、被告が当ブログで、本件訴訟をスラップと表現したことを違法ではないとして、一定の理解を示した。今後、「スラップの抗弁」が繰り返され、いつの日か裁判所がこれを認める日が来るだろう。
DHC・吉田は、この訴訟で萎縮効果を狙った。本件と類似の高額損害賠償請求訴訟の提起は10件である。萎縮効果は被告にされた者に限定されない。むしろ、それ以外の多くの市民やジャーナリストに及んでいる。「DHCを批判すると面倒だ」「触らぬ神に祟りなし」という萎縮効果は、言論封殺効果でもある。このような萎縮効果を認めてはならない。言論の自由を実質化するために、DHC・吉田らに対する制裁が必要ではないか。そのような社会的合意の形成に力を尽くしたいと思う。
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あらためて、本日判決の事件の概要をご紹介しておく。
係属裁判所 東京地方裁判所民事第24部合議A係
事件番号 平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)の両名
被告 澤藤統一郎(職業・弁護士)
裁判長裁判官 阪本勝
陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭
被告代理人弁護士 光前幸一外110名(計111名)
請求の趣旨 6000万円の賠償とブログ削除・謝罪広告掲載の請求
原告が違法と主張する被告の言論の内容
吉田嘉明(DHC)が渡辺喜美(みんなの党)に対して
政治資金8億円を交付したことについての批判
(「不透明なカネによって政治を歪める」ことの批判
「行政の規制に服する事業者が政治にカネを出して
規制の緩和を行おうとする」ことへの批判)
この判決が持つ意味
*「政治的言論の自由」を手厚く保障したこと
*「政治とカネ」をめぐる論評の自由が特に手厚く保障されたこと
*消費者利益をめぐる論評の自由が強く保障されたこと
論評の内容はサプリメント販売の規制緩和(機能性表示食品問題)への批判
*公権力だけでなく、経済的社会的強者も言論による批判を甘受すべきとされたこと
*高額損害賠償請求訴訟を提起しての言論妨害(スラップ)について、判決に一定の問題意識が感じられること。
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本日の判決を一読しての印象は、たいへん堅実で緻密な書きぶりであるということ。A3の主張対照表5枚を含む42頁。かなりのボリュームである。最高裁判例の枠組みに従った手固い判断。その枠組みは必ずしも被告弁護団の主張を全面的に取り入れたものではない。しかし、むしろそれ故に上級審での逆転の危うさを感じさせないものになっている。
原告は、ブログ5件中の16個所をつまみ出して、この16個所の記事が違法で名誉毀損に当たると主張した。判決は、そのうち1個所は原告吉田に関わるものでないとして、15個所について判断している。15個所のすべてについて、「事実の摘示」か「意見ないし論評」かを検討して、全部を「意見ないし論評」とした。しかも当該論評がすべて原告吉田の社会的評価を低下させるものと判断した。
私のブログ記事は、ことさらに吉田の社会的評価を低下させることを目的としてなされたものではない。しかし、吉田の行動に対する批判が、吉田の社会的評価の低下を伴うことはやむを得ないことなのだ。そのことに遠慮していては、言うべきことを言えないことになる。
私のブログが吉田の社会的評価を低下させるものではあるが、違法ではないことについて、判決は次のとおり述べている。
「本件各記述(澤藤ブログ)は,いずれも意見ないし論評の表明であり,公共の利害に関する事実に限り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできないから,違法性を欠くものというべきである。」
これだけ読むと随分とハードルが高そうな印象を受ける。
なにしろ、「(1)公共の利害に関する事実に限り」「(2)その目的が専ら公益を図ることにあって」「(3)その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており」「(4)前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ」「(5)人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱していない」ことが違法でないための要件だというのだから。
しかし、意見ないし論評についての公共性・公益性のハードルも、「前提事実の重要な部分について真実であることの証明」のハードルもけっして高くはない。「重要な部分」でよいのだし、仮に真実性の証明ができなくても「真実と信じるについての相当性」があればよい。私の場合は、多くが吉田自身の手記にもとづいて書いているのだからほとんど何の問題もない。むしろ、意識される問題点は「(5)人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱していない」ことだけなのだが、これとて私のブログのレベル(行為の批判はしても、人格攻撃はしない)なら、なんの問題もない。
やや長文になるが、私がサプリメント販売の規制緩和(機能性表示食品問題)に関連して吉田を批判したプログの問題部分と、裁判所の判断を引用しておきたい。
(2014年4月2日ブログ)「サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、『官僚と闘う』の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
これが、おそらくは氷山の一角なのだ。」
(判決)「上記各記述(ブログ記事)は,本件朝日新聞記事の内容に触れ,原告らが,広告を用いて消費者に無用なあるいは安全性の不十分なサプリメントを買わせて儲けようとの意図を持っており,そのために金員の交付を受けた政治家が,必要な規制緩和等を行うという関係があることを指摘し,暗に原告吉田と渡辺議員にもそのような持ちつ持たれつの関係があるのではないかという意見ないし論評を表明したものであるところ,それらの前提としている事実の重要な部分は,…?渡辺議員が平成26年3月31日付けの自己のブログで『DHC会長からの借入金について』と題する記事を掲載し,その中で,原告吉田と渡辺議員との関係について記載したこと,?マスコミを使った大量の広告,宣伝により,サプリメントが販売されている事実,?サプリメント業界において規制緩和を求める動きが存在する事実,?原告会社において,過去に機能性の評価が不十分であったり,安全性に問題があるサプリメントが販売されていた事実である。
そして,証拠(乙2の2)によれば,?の事実が認められ,?の事実は公知の事実である。?の事実については,具体例として,日本経済団体連合会が,平成19年11月,ヘルスケア産業の規制改革要望を提出し,アメリカのように企業の責任で病名を含む効能効果の表現を可能とする表示制度の導入を求めたこと(乙7)や,社団法人日本通信販売協会が,平成20年6月にガイドラインを策定し,表示規制の緩和を進めようとしていたこと(乙10)が挙げられる。?の事実については,原告会社が,シャンピニオンエキスと称する成分を含む食品について,口臭,体臭及び便臭を消す効果が得られるかのように示す表示をして販売していたが,表示の裏付けとなる合理的な根拠を示す資料を提出できず,平成21年に公正取引委員会から排除命令を受けたこと(乙3の8の2),また,平成15年に,原告会社のメリロートが原因と疑われる肝機能障害の事例が報告されたこと(乙3の3),平成16年には,原告会社のメリロートを含む健康食品に,医薬品で定められている1日の服用量の2倍を超えるクマリンが含まれていたこと(乙3の5)が認められる。
そうすると,上記意見ないし論評の前提としている事実の重要部分については,いずれも真実であることの証明があったといえる。」
私には、判決が、企業の事業活動や企業と政治との結びつきを批判する言論に萎縮があってはならない、と呼びかけているように読めるのだが…。
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《DHCスラップ訴訟経過の概略》
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12
2014年3月31日 違法とされたブログ(1)掲載
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)掲載
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)掲載
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
同年4月16日 原告ら提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
以下昨日(9月1日)の第50弾まで
8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月 1日 第8回(実質第7回)弁論 結審
2015年9月 2日 判決言い渡し期日
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《関連他事件について》
DHCと吉田嘉明が連名で原告となって提起した同種スラップ(いずれも、吉田嘉明の渡辺喜美に対する8億円提供を批判したもの)は合計10件あります。その内の1件はDHC・吉田が自ら取り下げ、9件が現在係属中です。
最も早く進行したDHC対折本和司弁護士事件は、本年1月15日に地裁判決(請求棄却)、6月25日の控訴棄却判決(控訴棄却)、その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。
2番目の判決となったS氏(経済評論家)を被告とする事件は本年3月24日に地裁判決(請求棄却)、8月5日に控訴審判決(控訴棄却)、その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。
私の事件が、3番目の地裁判決になりました。10月に、4番目の判決予定があるようです。
DHC・吉田は、関連して仮処分事件も2件申し立てていますが、いずれも却下。両者とも抗告して、東京高等裁判所での抗告審もいずれも棄却の決定。
本日の私の判決を含めて、合計9連敗です。これが、高額請求訴訟の判決結果。
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仮にもし、本日の判決が私の敗訴だったら…。
私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
何度でも繰り返さなければならない。
「スラップに成功体験をさせてはならない」と。
(2015年9月2日)
例年になく熱い8月が終わった。その熱気はまだ冷めやらない。安保法案の成否の決着はこれからだ。情勢に切れ目はないが、暦の変わり目に戦後70年の夏を振り返ってみたい。
70年前の敗戦を契機に、日本は国家の成り立ちの原理を根本的に変えた。この原理の転換は日本国憲法に成文化され、大日本帝国憲法との対比において、明確にされている。
私の理解では、個人の尊厳を最高の憲法価値としたことが根本原理の転換である。国家の存立以前に個人がある。国家とは、個人の福利を増進して国民個人に奉仕するために、便宜的に拵えられたものに過ぎない。国家は国民がその存在を認める限りにおいて存続し、国民の合意によって形が決められる。国民の総意に基づく限り、どのようにも作り直すことができるし、なくしたってかまわない。その程度のものだ。
国民の生活を豊かにするためには、国家の存立が有用であり便利であることが認められている。だからその限りにおいて、国民の合意が成立して国家が存立し、運用されている。それ以上でも以下でもない。
こうしてできた国家だが、与えられた権力が必ず国民の利益のために正常に運営されるとは限らない。個人の自由や権利は、何よりも国家とその機関の権力行使から擁護されなければならない。個人の自由は、国家と対峙するものとして権力の作用から自由でなければならないとするのが自由主義である。この個人の尊厳と自由とを、国家権力の恣意的発動から擁護するために、憲法で権力に厳格な枠をはめて暴走を許さない歯止めをかける。これが立憲主義である。
戦前は、個人主義も自由主義もなかった。個人を超えて国家が貴しとされ、天皇の御稜威のために個人の犠牲が強いられた。天皇への忠死を称え、戦没兵士を神としてる祀る靖国神社さえ作られた。そして、国家運営の目標が、臆面も無く「富国強兵」であり、軍事的経済的大国化だった。侵略も植民地支配も、国を富ませ強くし、万邦無比の国体を世界に輝かす素晴らしいことだった。20世紀中葉まで、日本はこのようなおよそ世界の趨勢とはかけ離れた特異なあり方の国家だった。
70年前の敗戦は、大日本帝国を崩壊せしめた。そして新しい原理で日本は再生したのだ。普遍性を獲得して、国民個人を価値の基本とし、国家への信頼ではなく警戒が大切だとする自由主義の国家にとなった。軍国主義でも対外膨張主義でもない平和と国際協調の国になった。日本は、戦前とは違った別の国として誕生したのだ。かつて6500万年前の太古の世界で、恐竜が滅び哺乳類がこれに代わって地上を支配したごとくに、である。
敗戦とは、戦前と戦後との間にある溝のようなものではない。飛び越えたり橋を渡して後戻りできる類のものではない。戦前と戦後とはまったく別の地層でできており、敗戦はその境界の越えがたい断層とイメージすべきなのだ。この戦前とは異なった新しい国の原理として日本国憲法に顕現されたその体系が、「戦後レジーム」にほかならない。
日本国憲法に込められた、近代民主主義国家としての普遍性と近隣諸国に対する植民地支配や侵略戦争を反省するところから出発したという特殊性と。その両者の総合が、「戦後レジーム」である。
安倍晋三が憎々しげにいう「戦後レジーム」とは、個人主義を根底にこれを手厚く保護するために整序されたシステムであり、実は日本国憲法の体系そのもののなのだ。個人の尊厳、精神的自由、拘束や苦役からの自由等々の基本的人権こそが、国家の統合や社会の秩序に優先して尊重されるべきことの確認。これこそが、「戦後レジーム」の真髄である。
今年は新しい日本が誕生してから70周年。しかし、この夏、建国の理念に揺るぎが見える。いま、なんと「戦後レジームからの脱却」を叫ぶ、歴史修正主義者が首相となり、立憲主義を突き崩そうとしている。しかも、日本国憲法が自らのアイデンティティとする平和主義を壊し、日本を再び戦争のできる国にしようとしているのだ。この夏は、日本国憲法の理念を攻撃し改憲をたくらむ勢力と、70年前の建国の理念を擁護しようとする勢力との熾烈な戦いである。
70年前の国民的な共通体験は、「再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」ことを国是とした。しかし、その国民意識は、自覚的な継承作業なくしては長くもたない。とりわけ加害体験については、「いつまで謝れというのか」という開き直り派が勢を得つつある。
安倍晋三を代表として憲法体系を桎梏と感じる勢力が勢いを増しつつある。しかし、これと拮抗して憲法の理念に賛同して、これを擁護しようとする勢力も確実に勢力を増しつつある。
2015年の夏、その決着はまだ付かない。秋へと持ちこされている。
(2015年9月1日)