澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

自爆テロの狂気にどう対応すべきか

人は生きる本能をもっている。生き続けたいという本能的欲求に忠実であることが自然の姿だ。その生を希求する本能を自ら封じる精神状態は狂気というほかない。

いま、ジハードを叫ぶイスラム教徒の一部にその狂気が渦巻いている。自らの死を覚悟して、敢えてする自爆テロ。西欧世界に対する憎悪の情念が、罪のない市民を標的とし、自死に多くの市民を巻き込む弁明の余地のない狂気の行動。

そのような彼らにも耳を傾けるべき言い分はある。
「アメリカもフランスも、アフガニスタンからイラク・シリアにまたがる広範な地域を仮借なき空爆の対象として、無辜の人々を殺し続けてきた」「ずっと以前から戦争は始まって継続しているのだ」「われわれの攻撃は、均衡のとれないごく些細な反撃に過ぎない」と。

彼らに狂気を強いたものは、報復を正当化する憎悪の感情と暗澹たる絶望感であろう。

石川啄木の『ココアのひと匙』の一節を想い起こさずにはおられない。
  われは知る、テロリストの
  かなしき心を―
  言葉とおこなひとを分ちがたき
  ただひとつの心を、
  奪はれたる言葉のかはりに
  おこなひをもて語らむとする心を、
  われとわがからだを敵に擲げつくる心を―
  しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

自爆テロ犯人の狂気の底にも、かなしき心が宿っていたに違いないのだ。

この狂気は、かつて我が国にもあった。先の戦争で、神風特攻隊となることを強いられた若者たちのうちにである。戦況の不利を、死をもっての戦闘で挽回するよう求められた彼ら。その絶望感と悲しき心。

「パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現している」という。欧米の目には両者はまったく同質のものと映っている。

自分の命と引き換えに、可能な限り敵に最大の打撃を与える戦法として両者になんの違いもない。味方陣営からは祖国や神に殉じる崇高な行為と称賛されるが、相手方や第三者の醒めた目からは狂気以外のなにものでもない。

恐るべきは、個人の生き抜こうとする本能を価値なきものと否定し、何らかの大義のために命を捨てよと説く洗脳者たちである。神風特攻隊の場合には、靖國神社がその役割を果たした。下記それぞれの小学唱歌の歌詞は、ことの本質をよく表している。

  ことあるをりは 誰も皆
  命を捨てよ 君のため
  同じく神と 祀られて
  御代をぞ安く 守るべき

  命は軽く義は重し。
  その義を践みて大君に
  命ささげし大丈夫よ。
  銅の鳥居の奥ふかく
  神垣高くまつられて、
  誉は世々に残るなり。

君のため国のために命を軽んじるこを大義と洗脳したのだ。その罪深さを指摘しなければならない。戦後レジームとは、この洗脳による狂気からの覚醒にほかならない。

では、現に続いているジハードの狂気にどう向かい合うか。いま、その一つの回答が世界を感動させている。憎悪に対するに憎悪をもってし、暴力に暴力で報いるのでは、報復の連鎖が拡大し深まるばかりではないか。この連鎖を断ちきろうという明確なメッセージが、テロ犠牲者の遺族から発せられている。「安全のために自由を犠牲にしない」決意まで述べられている。

「私は君たちに憎しみの贈り物をあげない。君たちはそれを望んだのだろうが、怒りで憎しみに応えるのは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは私が恐れ、周囲に疑いの目を向けるのを望んでいるのだろう。安全のために自由を犠牲にすることを望んでいるのだろう。それなら、君たちの負けだ。私はこれまでと変わらない。」(アントワーヌ・レリス)

このような遺族の対応に、心からの敬意を捧げたい。そして、狂気の自爆テロに走った若者たちの悲しき心にも思いをはせたい。事態をここまでにした真の原因を見据えたいと思う。
(2015年11月20日・連続第964回)

「帝国の慰安婦」著者の起訴に韓国社会の非寛容を惜しむ

本日の夕刊を見て驚いた。「韓国のソウル東部地検は18日、慰安婦問題を扱った学術書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』の著者、世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授を名誉毀損罪で在宅起訴した。」(毎日)という。
 同教授は同書で「日本軍従軍慰安婦」を、「売春婦」「日本軍と同志的関係にあった」などと記述したことから、元慰安婦から刑事告訴されていた。起訴は、この告訴を受けてのもののようだ。

毎日の記事によると、「検察は、河野官房長官談話や、2007年に米下院が日本に慰安婦問題で謝罪を求めた決議などを基に『元慰安婦は性奴隷に他ならない被害者であることが認められている』と指摘。著書の内容は『虚偽』と判断した。」という。これでは、表現の自由の幅は極端に狭くなる。

共同通信の配信記事では、「地検は『虚偽事実で被害者らの人格権と名誉権を侵害し、学問の自由を逸脱している』と指摘した。」「同書は韓国で、日本を擁護する主張だとして激しい非難を浴び、元慰安婦の女性ら約10人が14年6月に朴氏を告訴。ソウル東部地裁は今年2月、女性らが同書の出版や広告を禁じるよう求めた仮処分申し立ての一部を認める決定を出し、出版社は問題とされた部分の文字を伏せ、出版した。」という。表現の自由は、既にここまで制約されているのだ。

私は、民主化運動後の韓国を好もしい隣国であり国民と感じてきた。2年前の5月に訪問したソウルは、穏やかで落ちついたたたずまいの美しい街という印象だった。

憲法裁判所の見学や民主的な弁護士らのと交流で垣間見た、この国の民主化の進み方に目を瞠った。そして、これからは韓国社会に学ぶべきところが大きい。掛け値なしにそう思った。

ところが、その後いくつかの違和感あるニュースに接することになる。その筆頭は、産経新聞ソウル支局長の起訴である。同支局長のコラムが、「大統領を誹謗する目的で書かれた」として、名誉毀損罪で起訴され懲役1年6月の求刑を受けている。判決期日は11月26日、大いに注目せざるを得ない。韓国の司法は、大統領府からどれほど独立し得ているのだろうか。

私は、産経は大嫌いだ。ジャーナリズムとして認めない。常々、そう広言してきた。産経にコメントを求められたことが何度かある。そのたびに、「自分の名が産経紙上に載ると考えただけで、身の毛がよだつ」と断ってきた。その私が、産経支局長の起訴には納得し得ない。元来、権力や権威や社会的影響力の大きさに比例して、あるいはその2乗に比例して、批判の言論に対する受忍の程度も高くなるのだ。大統領ともなれば、批判されることが商売といってもよい。中には、愚劣な批判もあるだろうが、権力的な押さえ込みはいけない。

これに続いての朴裕河起訴である。寛容さを欠いた社会の息苦しさを感じざるを得ない。朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版にはざっと目を通して、読後感は不愉快なものだった。不愉快ではあったが、このような書物を取り締まるべきだとか、著者を処罰せよとはまったく思わなかった。よもや起訴に至るとは。学ぶべきものが多くあるとの印象が深かった韓国社会の非寛容の一面を見せられて残念でならない。

もちろん、私は日本軍による戦時性暴力は徹底して糾弾されなければならないと思っている。被害者に寄り添う姿勢なく、どこの国にもあったこととことさらに一般化して旧日本軍の責任を稀薄化することにも強く反対する。しかし、それでも見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない。当然のことながら、私が反対する内容の言論にも、表現の自由を認めねばならない。

産経ソウル支局長も朴裕河も、情熱溢れる弁護活動と、人権感覚十分な裁判官によって無罪となって欲しいと思う。念のため、もう一度繰り返す。私は産経は大嫌いだ。朴裕河も好きではない。「大嫌い」「好きではない」と広言する自由を奪われたくない。そのためには、嫌いな人の嫌いな内容の言論にも、表現の自由という重要な普遍的価値を認め、これを保障せざるを得ないのだ。
(2015年11月19日・連続第963回)

「辺野古代執行訴訟」への注目の視点

辺野古新基地建設に関連して翁長知事が名護市辺野古沿岸海面の埋め立て承認を取り消し、国(国交相)はこの承認取り消しを違法として、福岡高裁那覇支部に「承認処分取消の撤回を求める」訴訟(辺野古代執行訴訟)を提起した。地方自治法に定められた特例の代執行手続としての一環の行政訴訟である。

国交相の沖縄県知事に対する提訴(辺野古代執行訴訟)に関して、本日(11月18日)の東京新聞社説がこう述べている。
「翁長知事が埋め立て承認を取り消したのは、直近の国政、地方両方の選挙を通じて県内移設反対を示した沖縄県民の民意に基づく。安全保障は国の責務だが、政府が国家権力を振りかざして一地域に過重な米軍基地負担を強いるのは、民主主義の手続きを無視する傲慢だ。憲法が保障する法の下の平等に反し、地方の運営は住民が行うという、憲法に定める『地方自治の本旨』にもそぐわない。」

また、同社説は「菅義偉官房長官はきのう記者会見で『わが国は法治国家』と提訴を正当化したが、法治国家だからこそ、最高法規である憲法を蔑ろにする安倍内閣の振る舞いを看過するわけにはいかない。」と手厳しい。

毎日社説は、端的に「国は安全保障という『公益』を強調し、沖縄は人権、地方自治、民主主義のあるべき姿を問いかける。その対立がこの問題の本質だろう。」という。なるほど、このあたりが、衆目の一致するところであろうか。

訴訟では、本案前の問題として、まず訴えの適法性が争われることになるだろう。国は、地方自治法が定めた特別の訴訟類型の訴訟として高裁に提訴している。その訴訟類型該当の要件を充足していなければ、本案の審理に入ることなく却下を免れない。

このことに関連して本日の毎日の解説記事が次のように紹介している。
「承認取り消しについて行政不服審査を請求する一方で代執行を求めて提訴する手法を『強権的』と批判する専門家も多い。不服審査には行政法学者93人が「国が『私人』になりすまして国民を救済する制度を利用している」と声明を出したが、国土交通相は承認取り消しの一時執行停止を決めた。
 この対応について、声明の呼び掛け人の一人、名古屋大の紙野健二法学部教授は『代執行を定めた地方自治法は、判決が出るまで執行停止を想定していない。不服審査請求は、先回りして承認取り消しの効力を止め、工事を継続したまま代執行に入るための手段だった』と推測する。専修大の白藤博行法学部長(地方自治法)は『代執行は他に是正する手段がないときに認められた例外的手段。不服審査と代執行訴訟との両立は地方自治の精神を骨抜きにする』と批判した。」

一方で私人になりすまして審査請求・執行停止の甘い汁を吸っておきながら、今度は国の立場で代執行訴訟の提起。こういうご都合主義が許されるのか、それとも「手続における法の正義は国にこそ厳格に求められる」と、本案の審理に入ることなく、訴えは不適法で、それ故の却下の判決(または決定)となるのか。注目したいところ。

報道されている「訴状の要旨」は以下のとおりである。
「請求の趣旨」は、「被告は、平成27年10月13日付の公有水面埋め立て承認処分の取り消しを撤回せよ」というもの。

請求原因中の「法的な争点」は次の2点とされている。
(1) 不利益の比較(「処分の取り消しによって生じる不利益」と、「取り消しをしないことによる不利益」の比較)
(2) 知事の権限(知事には、国政の重大事項について適否を審査・判断する権限はない)

「翁長承認取消処分」は、「仲井眞承認」に法的瑕疵があることを根拠にしてのものである。つまりは、本来承認してはならない沖縄防衛局の公有水面埋め立て承認申請を、前知事が真面目な調査もせずに間違って承認してしまった、しかも、法には、厳格な条件が満たされない限り「承認してはならない」とされている。事後的にではあるが、本来承認してはならないことが明らかになったから取り消した、と丁寧に理由を述べている。けっして、理由なく「仲井眞承認」を撤回したのではない。

だから常識的には、今回の提訴では「仲井眞承認」の瑕疵として指摘された一項目ずつが吟味されるのであろうと思っていた。しかし、様相は明らかに異なっている。いかにも大上段なのだ。「国家権力を振りかざして」の形容がぴったりの上から目線の主張となっている。東京社説が言うとおりの傲慢に満ちている。メディアに紹介された「要旨」を見ての限りだが、安倍や菅らのこれまでの姿勢を反映した訴状の記載となっいるという印象なのだ。

翁長承認取消処分を取り消すことなく放置した場合の不利益として強調されているものは、「約19年にわたって日米両国が積み上げてきた努力が、わが国の一方的な行為で無に帰し、両国の信頼関係に亀裂が入り崩壊しかねないことがもたらす日米間の外交上、政治上、経済上の計り知れない不利益」である。

そして、知事の権限については、次のとおり。
「(被告翁長知事は)取り消し処分の理由として、普天聞飛行場の代替施設を、沖縄県内や辺野古沿岸域に建設することは適正かつ合理的とする根拠が乏しいと主張するが、しかし、法定受託事務として一定範囲の権限を与えられた知事が、米軍施設・区域の配置といった、国の存立や安全保障に影響を及ぼし国の将来を決するような国政の重大事項について、その適否を審査・判断する権限はない。」

公有水面埋立法の条文や承認要件の一々の吟味などは問題ではない。天下国家の問題なのだから、国家の承認申請を、知事風情が承認取消などトンデモナイと、居丈高に言っているのだ。それは、国(国交相)側が、訴訟上の主張としては無意味な政治的主張を述べているのではない。

おそらくは、担当裁判官にプレッシャーを与えることを意識しているのだ。「これだけの政治的、軍事的、外交的重要案件なのだ。このような重さのある事件で、国側を敗訴させるような判決をおまえは書けるのか」という一種の恫喝を感じる。

砂川事件最高裁判決では、大法廷の裁判体が、事案の重さを司法は受け止めがたいとして裁判所自身の合違憲判断をせずに逃げた。逃げ込んだ先が、統治行為論という判断回避の手法だった。しかも、全裁判官一致の判断だった。辺野古代執行訴訟でも、国は同じことを考えているのだ。

さて、今回の訴訟で、はたして司法は躊躇することなく淡々と公有水面埋立法の承認要件の具備如何を判断できるだろうか。それとも、国の意向に逆らう判決を出すことに躊躇せざるを得ないとするであろうか。

憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めている。「憲法が想定するとおりの地方自治であるか」だけではなく、「憲法が想定するとおりの裁判所であり裁判官であるか」も問われているのだ。
(2015年11月18日・連続第963回)

Mさんに訴えます。私は、天皇の靖國神社への参拝は、けっしてあってはならないことと思うのです。

昨日(11月16日)の毎日新聞「みんなの広場」に、「A級戦犯の分祀を考えよう」と投稿されたMさん(東京都町田市・68歳)。私の感想を申し上げますから聞いてください。問題は、手段としての「A級戦犯の分祀」にではなく、その先の目的とされている「天皇の靖國神社参拝実現」にあります。私は、天皇の靖國神社参拝はあってはならない危険なことと考えています。お気を悪くなさらずに、最後までお読みいただけたらありがたいと思います。

「10日の本紙朝刊に東条英機元首相らA級戦犯の靖国神社からの分祀を提案している福岡県遺族連合会の調査結果が紹介されていた。これによると都道府県遺族会15支部がA級戦犯の分祀に賛成、4支部が反対したとのことです。」

おっしゃるとおり、毎日の報道が注目を集めています。今年2月の共同通信配信記事が、「A級戦犯分祀、容認は2県 遺族会調査、大半は静観」という見出しで、「共同通信が各都道府県の遺族会に賛否を聞いた結果、賛同する意向を示したのは神奈川県遺族会だけで、分祀容認は2県にとどまった。41都府県の遺族会は見解を明らかにしなかった。北海道連合遺族会と兵庫県遺族会は『反対』とした。」としていますから、福岡県連の「共感が広がっている」とのコメントはそのとおりなのでしょう。遺族会の全国組織に、この共感が広がったときに何が起こるのか、具体的な課題として考えねばならない時期にさしかかっていると思います。

「閣僚の靖国参拝が、国の内外から問題視されています。ずっと繰り返しているこの状態を見て思うことは、靖国神社は誰のためのものか、ということです。私は、靖国神社は日本のために戦って命を落とした軍人・軍属やそのご遺族のためのものだと思っています。」

「閣僚の靖国参拝が、国の内外から問題視されて」いることは、おっしゃるとおりです。どのように問題視されているのかと言えば、何よりも憲法違反としてなのですが、現行憲法が厳格な政教分離規定を置いた理由を正確に理解しなければなりません。ことは、近隣諸国に対する侵略戦争の責任や歴史認識に深く関わりますし、天皇を神とした権力の国民に対する精神の支配や、軍国主義植民地主義への国民の反省の有無とも関わります。閣僚らの参拝によって、合祀されているA級戦犯の責任を糊塗することは、歴史認識の欠如を象徴する大きな問題ではありますが、けっしてすべての問題ではなく、本質的な問題でもありません。ですから、けっしてA級戦犯の分祀実現で「閣僚の靖国参拝の問題視」が解決されることにはなりません。

また、「靖国神社は誰のためのものか」とは、靖國神社が現に「誰か」のために存在するもの、あるいは「誰かのためには有益なもの」という前提をおいた発問のように聞こえます。実は、そのような問の発し方自体に大きな問題が含まれているように思われます。靖國神社とは、もともとは内戦における天皇軍の士気を鼓舞する軍事的宗教施設として作られ、日本が対外戦争をするようになってからは国民精神を総力戦に動員する施設となって、日本の軍国主義を支えた軍国神社でした。国民のものではなく、徹底して、天皇軍の天皇軍による天皇軍のための施設にほかならず、基本的にその思想は現在の宗教法人靖國神社に受け継がれています。

「靖國神社とは誰がどのような意図のもとに創建し、侵略戦争と植民地支配の歴史においてどのような役割を果たしてきたのか」このことを厳しく問うことなしに、「日本のために戦って命を落とした軍人・軍属やそのご遺族のためのもの」などという安易な結論を出してはならないと思います。もっと端的に申しあげれば、あの神社に戦没者の霊魂が存在するとか、あの施設を戦争犠牲者の追悼施設として認めること自体が、危険なワナに絡めとられていると思うのです。

戦前靖國神社は、軍の一部であって、国民思想を軍国主義に動員するために、きわめて大きな役割を果たしました。これは争いがたい事実といわねばなりません。その靖國神社は敗戦によって、どのように変化したのでしょうか、あるいは変化してしていないのでしょうか。そしていま、靖國神社は、政治や社会、そして外交や日本人の精神構造などにどのように関わっているのでしょうか。避けることのできない深刻な問題として考え続けなければならないと思います。

「その英霊やご遺族が、政治家の靖国参拝よりも待ち望んでおられるのは天皇陛下のご親拝ではないでしょうか。」
本当にそうでしょうか。「英霊」という用語は、天皇への忠誠死を顕彰する目的の造語ですから仲間内の議論以外ではその使用を避けるべきだと思います。戦没者が天皇の参拝を待ち望んでいるかどうか、これは確認のしようもない水掛け論でしかありません。そもそも、戦没者は「靖国に私を訪ねてこないでください。わたしはそこにいません」と言っているのかも知れません。

遺族の意見も複雑です。遺族会がその意見を集約できるとも思えません。もちろん、「天皇の参拝を望む」遺族の意見もあるでしょう。天皇であろうと首相であろうと政治家であろうと、戦没者を忘れないという行為として歓迎するお気持ちはよく分かります。

しかし、厳しく天皇の参拝に反対する立場を明確にしている遺族もいらっしゃいます。ことは、天皇の戦争責任に関わってきます。A級戦犯の合祀に不快感をもつ遺族が、天皇にはより大きな責任があるではないかと、天皇の慰霊や追悼を拒絶する心情は、自然なものとして理解に容易なことではないでしょうか。

天皇の名で戦争が起され、天皇の名で兵は招集され、上官の命令は天皇の命令だと軍隊内での理不尽を強いられ、天皇のためとして兵士は死んでいったのです。将兵の死にも、原爆や空襲による一般人の死にも、その責任を最も深く重く負うべきが天皇その人であることはあまりに明らかです。東条は戦争に責任があるが、天皇にはない、というねじれた理屈は分かりにくいものではありませんか。しかし、靖國は天皇の戦争責任などけっして認めようとはしません。

世の常識として、会社が労災を起こして社員を死に至らしめたら、あるいは公害を起こしたり消費者被害を起こせば、社長が責任をとるべきが当然のこととされています。「自分は知らなかった」だの、「地位は名目だけのもの」などという言い訳は通用しません。社長は被害者に、心からの謝罪をしなければなりません。しかし、天皇(裕仁)は、ついぞ誰にも謝罪することのないまま亡くなりました。

また、政治家が政治資金がらみの不祥事で検挙されて、「秘書の責任」「妻がやったこと」などというのがみっともないのは常識です。どうしてこの常識が、天皇(裕仁)の場合には共有されないのか不思議でなりません。東条英樹以下の部下に戦犯の汚名を着せて責任をとらせておいて、自らは責任をとらなかったその人を、どうして戦没者の遺族たちが許せるのでしょうか。そんな人に、あるいはそんな人の後継者に参拝してもらってどうして気持が慰謝されるというのでしょうか。

「そして、天皇陛下もそれが実現できる日を心待ちにしておられるのではないでしょうか。」
あたかも、天皇が心の内に望んでいるのだから靖國神社参拝を実現すべきだと言っているように聞こえます。天皇を信仰の対象としている人には理解可能な「論拠」なのかも知れませんが、私には、天皇が心の内で何を考えいるかの忖度にいささかも意味があるとは思えません。天皇の靖國神社参拝が、法的に、政治的に、外交的に、社会心理的に、いったいどのような問題を引き起こすのかが問われなければなりません。

「政治家のやるべきことは自分の歴史認識を確認するための自己満足などではなく、天皇陛下も含めて、全ての日本人がなんのわだかまりもなく靖国神社に参拝できる環境をつくることではないでしょうか。」
これは恐るべき没論理の結論と言わねばなりません。「全ての日本人がなんのわだかまりもなく靖国神社に参拝できる」ことが、なにかすばらしいこととお考えのようですが、けっしてそんなことはありません。ナチスがドイツを席巻したような、あるいは戦前が完全復活したような、世の中が茶色一色に塗りつぶされた恐るべき全体主義の時代の到来と考えざるをえないのです。ぜひお考え直しください。

もちろん、宗教法人靖國神社の信者が祭神に崇敬の念を表すことに他者が容喙する筋合いはありません。しかし、「すべての人にわだかまりなく参拝せよ」とおっしゃるのは他者の思想・良心や信仰の自由に配慮を欠いた、尊大で押しつけがましい態度ではありませんか。ましてや、天皇や首相や閣僚の参拝を求めることは、国家と宗教との結びつきを禁じた憲法の規定に違反する、違憲違法の行為を求めるものとして、あってはならないものと考えざるをえません。また、天皇の参拝は、侵略戦争や植民地政策への反省を欠くことの象徴的できごとととして、いやむしろ侵略戦争への反省を積極的に否定する挑戦的な日本の国事行為として、首相の参拝とは比較にならない外交上の非難と軋轢を生じることになるでしょう。韓国・中国らの近隣諸国だけでなく、米・英を含む第二次大戦の連合国を刺激することも覚悟しなければなりません。

戦争がもたらした内外の無数の人の死は、それぞれに悲惨なものとして悼むべきは当然のことです。敵味方の区別なく、兵であるか一般人であるかの差別もなく、生者は死者に寄り添ってそれぞれの方法で悼むしかありません。靖國神社のように、味方だけ、軍人だけ、天皇への忠死者だけ、という死を差別する思想はけっして国民全体の支持を得ることはできないのです。

戦争を忌むべきものとし、再び戦争を繰り返さない永遠の平和は国民の願いです。しかし、歴史的経過からも、靖國が現に発信する「ヤスクニの思想」からも、平和を願い祈る場として靖國神社はふさわしからぬところと断じざるを得ません。むしろここは、戦争を賛美し軍事を肯定する思想の発信の場としての「軍国神社」にほかなりません。

遺族会がこぞって望めば、戦犯分祀が実現する可能性は高いというべきでしょう。今、靖國神社は公式には「教理上分祀はあり得ない」と言っていますが、これはご都合主義でのこと。神道に確たる教理などあり得ませんから、どうにでもなることなのです。A級戦犯分祀の実現のあとの天皇の参拝を現実的な問題として警戒せざるをえません。

戦前、臨時大祭のたびに天皇は靖國神社に親拝しました。新たな事変や戦争によって、新たな戦死者が生まれるときが、天皇親拝の時だったのです。いま、再び日本が海外での戦争を可能にする法律を作り上げたそのときです。天皇の軍国神社への参拝の実現は、実は、戦後初めての海外の軍事行動による戦死者を弔うためのものとなりはしないか。戦争法と連動した天皇の靖國神社参拝という恐るべき悪夢の現実化を心配せざるを得ません。
(2015年11月17日・連続第962回)

自由民主党の変遷ー60年前の「党の性格」と現状

昨日(11月15日)が、自由民主党の誕生日。1955年11月15日、自由党と民主党が保守合同して、自民党が誕生した。以来60年、自民党は還暦を迎えた。自民党とて、議会制民主主義を是とする政党である。悪役ではあるが、民主主義社会の主要なアクターの一つ。小選挙区制実施以後、とりわけ安倍総裁時代の最近は、すこぶる姿勢がよくないが、必ずしも以前からこうだったわけではない。還暦とは、干支が一巡りして元に戻るということ。安倍自民党を脱皮して。60年前の初心に戻ってもらいたいと思う。

昨日(11月15日)の中央各紙のうち、毎日、読売、東京の3紙が社説で自民党を論じていた。毎日と、東京の社説は読み応え十分。読売は、歯ごたえがないスカスカの社説。東京社説の一節を引用しておきたい。

「昨年の衆院選で全有権者数に占める自民党の得票数、いわゆる絶対得票率は小選挙区で24%、比例代表では17%にすぎない。投票率低下があるにせよ、全有権者の2割程度の支持では、幅広く支持を集める国民政党とは言い難い。
 自民党が安倍政権下での重圧感から脱するには、立党の原点に返る必要がある。党内の多様性を尊重し、よりよい政策決定に向けて衆知を集める。国民の間に存する多様な意見に謙虚に耳を傾ける。それこそが自民党が国民政党として再生するための王道である。」

ところで、60年前の結党時に採択されたいくつかの文書の中に、初心を示す「党の性格」がある。その6項目の自己規定が興味を惹く。結党時のありようと、60年後の現実とを対比してみよう。(一?六が結党時の「党の性格」、1?6が澤藤の見た現状)

一、わが党は、国民政党である
 わが党は、特定の階級、階層のみの利益を代表し、国内分裂を招く階級政党ではなく、信義と同胞愛に立って、国民全般の利益と幸福のために奉仕し、国民大衆とともに民族の繁栄をもたらそうとする政党である。

1. わが党は大企業本位政党である。
 わが党は、国際的グローバル資本と、金融・製造・流通の国内大企業との利益を代表し、その他の階級・階層にはトリクルダウン効果を期待せしめる政党である。すべての部門で市場原理を貫徹し、農林水産業は積極的に切り捨てる。このことこそが、国民全般の利益と幸福のために奉仕する所以であり、民族の繁栄をもたらすものと確信する。なお、我が党の政策には、「三本の矢」「新三本の矢」「一億総活躍」など、検証不可能な曖昧模糊たるスローガンを並べ、国民の目を眩ます努力を惜しまない。

二、わが党は、平和主義政党である
 わが党は、国際連合憲章の精神に則り、国民の熱願である世界の平和と正義の確保及び人類の進歩発展に最善の努力を傾けようとする政党である。

2. わが党は、抑止力至上主義政党である
 わが党は、近隣諸国との信頼関係の構築という生温い手段ではなく、戦争辞せずの覚悟をもって抑止力の整備に全力を尽くすことで国民の安全をはかる。アメリカの核の傘のもと軍備を整え、集団的自衛権行使を容認して、積極的平和主義の名による武力の行使を躊躇しない方針を堅持する。

三、わが党は、真の民主主義政党である
 わが党は、個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する。

3. わが党は、非立憲主義政党である
 わが党は、立憲主義を排撃する。内閣の意によって何時にても憲法解釈を自由に変更することを認める。何となれば、政権こそが直近の民意を反映するものだからであり、その民意の反映を活かすことこそが民主主義だからである。
 経済活動の自由こそが国民の豊さの根源であることから、人類進歩の原動力たる経済活動の自由を神聖なものとして、これを掣肘する労働運動や共産主義、社会主義勢力を強く排撃する。

四、わが党は、議会主義政党である
 わが党は、主権者たる国民の自由な意思の表明による議会政治を身をもって堅持し発展せしめ、反対党の存在を否定して一国一党の永久政治体制を目ざす極左、極右の全体主義と対決する。

4. わが党は、小選挙区制依存主義政党である
 わが党は、民意を正確に議席に反映しない小選挙区制のマジックに依存して政権を維持していることを深く自覚し、小選挙区制を奉戴してその改正を許さない。また、小選挙区制こそが党内を統制して政権の求心力を高める唯一の制度的源泉である。これを最有効に活用して党内反対勢力を一掃し、現執行部の永久支配体制を目ざすものである。そのような多様性排除のプロセスを経て、わが党は、既に極右の全体主義政党になりつつある。

五、わが党は、進歩的政党である。
 わが党は、闘争や破壊を事とする政治理念を排し、協同と建設の精神に基づき、正しい伝統と秩序はこれを保持しつつ常に時代の要求に即応して前進し、現状を改革して悪を除去するに積極的な進歩的政党である。

5. わが党は、小児的精神年齢政党である。
 わが党は、「ニッキョウソどうすんだ!ニッキョウソ」「早く質問しろよ」などと、答弁席から野次を飛ばす総理を総裁と仰ぐ、小児的精神年齢政党である。ナチスの手口を学びつつ、右翼的ファシズムの伝統と政治資金タカリの構造はこれを保持し、常にアメリカと財界の要求に即応して前進する。農家・漁民・小規模商店・中小零細企業、福祉・教育・文化などの、非効率不採算部門を除去するに積極的な進歩的政党である。

六、わが党は、福祉国家の実現をはかる政党である
 わが党は、土地及び生産手段の国有国営と官僚統制を主体とする社会主義経済を否定するとともに、独占資本主義をも排し、自由企業の基本として、個人の創意と責任を重んじ、これに総合計画性を付与して生産を増強するとともに、社会保障政策を強力に実施し、完全雇用と福祉国家の実現をはかる。

6. わが党は、福祉国家理念を放擲した新自由主義政党である
 わが党は、新自由企業と新保守主義の担い手であることを宣言して、企業活動の完全な自由を擁護することを宣言する。福祉国家理念とは、怠け者再生産主義でしかないことが、この60年で明瞭になった。徹底した競争こそが進歩と豊かさの原動力である。競争には敗者がつきもので、勝者と敗者のコントラストの強調こそがよりよい社会を作る。そのゆえ、社会保障政策や完全雇用、さらには福祉国家などの時代遅れの理念や政策は敢然とこれを放棄し、労働者は非正規をもって旨とする。
(2015年11月16日・連続第961回)

子どもの教育を受ける権利を全うすべき教師の義務の視点から「日の丸・君が代」不起立・不斉唱を考えるー樋口陽一講演から

本日は、樋口陽一講演会。「心も命も奪う戦争国家は許さない11・15集会」において、「『戦後からの脱却』の中の教育・個人ー「日の丸・君が代」の何が問題か」と題する中身の濃い講演を聴くことができた。

安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というフレーズの重大性と、自民党改憲草案の非立憲主義的性格のひどさについての講演も貴重な内容だったが、教育問題に限って、内容を要約して紹介する。

レジメはない。録音もしていない。飽くまで私の理解した範囲で、再構成したものとご理解いただきたい。いずれ、録音反訳したものが公開されるだろうと思う。
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大きく分類して教育観には対極的な2種がある。一つが、教育を私事と見る「私事性の教育観」。そしてもう一つが教育を公共の役割に位置づける「公共性の教育観」。

伝統的には教育は私事であった。宗教団体や部分社会が教育を担当し、子の親は自分が属する団体に子の教育を託した。宗教的価値観を含んでの教育が行われることになる。この伝統はアメリカによく生きている。教育の公共性を強調する制度の典型が19世紀以来のフランスで、親から子を引き離しても公共が子らの教育に責任を持つという考え方。今でも、学校は公共の空間であって、フランスの学校は校門の中に親を入れない。政教分離が徹底し、私的な価値観は教育から切り離される。宗教的な象徴を校内に入れないという原則の徹底から、ムスリムの子らのスカーフ着用禁止問題が起きているほど。

この両者それぞれの教育観は、具体的な制度においては混在することになるが、国民の教育を受ける権利の保障や教育の機会均等の視点からは、教育の公共性を無視することはできない。

日本では、国民の教育権と国家の教育権との教育権論争が続けられてきたが、両者ともに「公共性の教育観」を前提にしたその枠内での議論であったといってよい。国民の教育権論における「国民の」とは、日本国憲法下でのあるべき真っ当な国民を想定して、あるべき国民を主体としたあるべき民主的教育論であった。

教育における公共性の重視は、教員に公共的な専門職としての義務を要求することにつながる。教員個々人に、その職務の遂行過程で個人的な思想良心に従った教育を行うことの自由が保障されているわけではない。従って、「日の丸・君が代」強制を違憲と主張する訴訟において、このまま教員たる個人の思想良心侵害の問題を主戦場としてよいのか疑問なしとしない。

それぞれの教員が自分史を積み上げて現に有している思想・良心を対象に、その侵害を許さないとする主張の仕方では、違憲判決獲得に限界があると考えざるをえない。現実にそれぞれの教員がもっている思想・良心ではなく、公共的な役割の担い手としての教員が有すべき職責としての思想・良心を想定して、そこからの逸脱があるか否かを考察しなければならない。そのような枠組みから新たな裁判勝利への道が開けるのではないか。

よるべき憲法条文上の根拠は、教員の思想・良心の自由を保障する憲法19条ではなく、子どもの教育を受ける権利を保障した憲法26条ということになるだろう。子どもの教育を受ける権利が飽くまで主軸となって、子どもの権利を全うするために教員のなし得ること、なさねばならぬことの範囲が決まる。ここで問題となるのは、教員の権利というよりはむしろ教師としての職業倫理に裏付けされた義務ではないか。

人が人を貶めてはならず、人が人を貶めていることを平然と傍観していてもならない。「日の丸・君が代」強制の可否をめぐる局面における教員の義務とは、そのような意味で、傍観者となることなく子どもに寄り添うべき義務であろうと思う。
(2015年11月15日・連続第960回)

「偏向攻撃」という名の怪獣が徘徊したあとに待っている茶色の朝

恐るべし。日本中を「偏向攻撃」という名の怪獣が徘徊している。虎視眈々とあらゆる言論を視野に狙いを定め、猛然と襲いかかっては噛みついて餌食とする。この怪獣は常に、右から左へ一方向だけに突進するのだ。

真に恐るべきは、この怪獣の毒液がもたらす萎縮効果である。噛みつかれるかもしれないと怯える惰弱な精神が、攻撃されてもいないのに過剰に反応して政権批判を自粛する。このような言論の自己規制が怪獣をのさばらせ太らせることになる。

この怪獣を直接に操っているのは知性なき付和雷同の輩であるが、これを生み、育て、陰の司令塔となっているのは、明らかに現政権とその一味である。この怪獣は、政権の後ろ盾でぬくぬくと育って、政権の意向を忖度しつつ成長し、政権の望むように攻撃目標を設定している。

かつてこの怪獣は漫画「はだしのゲン」を攻撃し、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句にまで噛みついた。また、放送大学も立教大学も、噛みつかれる以前に萎縮し自主規制して、闘わずしてこの怪獣の餌食となった。

そして本日(11月14日)の毎日新聞に、「ジュンク堂:民主主義フェア、選書を入れ替え再開」の記事。同書店が9月下旬からはじめた「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアが「偏向」の攻撃で10月下旬に中断され、企画の書棚撤去が話題となっていた。このフェアが、形を変えて再開されたというニュース、なのだが…。

「大手書店『MARUZEN&ジュンク堂書店』渋谷店は13日、先月から中断していたフェア『自由と民主主義のための必読書50』を『今、民主主義について考える49冊』に改めて再開した。店員の書き込みをきっかけに、インターネット上で『偏向している』と批判されたのを受けた措置。中断前から約3分の2の本を入れ替え、『誤解される余地のないようにした』と説明している。

フェアは安全保障関連法成立後の9月下旬に始まり、10月末まで実施する予定だった。しかし、10月中旬に店員がツイッターで『ジュンク堂渋谷店非公式』と題して『年明けからは選挙キャンペーンをやります!夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!』『一緒に闘ってください』と書き込んだところ、ネット上に『書店が特定の思想・信条を支持するのはどうなのか』といった投稿を含め、反対、賛成両論があふれた。渋谷店は10月21日に棚を撤去し、書店のホームページで『本来のフェアタイトルの趣旨にそぐわない選書内容だった』とコメントしていた。

再開したフェアは、安保法反対の活動をした学生団体SEALDsと高橋源一郎さんの共著や、五野井郁夫・高千穂大准教授の本を引き続き選んだが、小熊英二・慶応大教授、中野晃一・上智大教授、映画監督の想田和弘さんらの本を外した。

一方、長谷川三千子・埼玉大名誉教授、佐伯啓思・京都大名誉教授ら保守派の論客や、ジャーナリストの池上彰さんの本を加えた。SEALDsの本は最下段に陳列した。

入れ替えについて広報担当者は『個別の本が良いとか悪いとかではなく、フェアタイトルに合っているかを考えた』と話した。フェアは来月12日まで。今回フェアから外した本も多くは店内で陳列している。」

恐るべき「偏向攻撃」の毒牙は、私企業に過ぎない書店のブックフェアにまで及んでいるのだ。「自由と民主主義のための必読書50」を「今、民主主義について考える49冊」に変えた。「3分の2の本を入れ替え」、「誤解される余地のないようにした」というのだ。小熊英二・中野晃一・想田和弘を消した。そして、「民主主義を考える」コーナーに、なんとも不似合いな長谷川三千子・佐伯啓思を並べたのだ。ついでに、安全パイとして池上彰を右翼の長谷川・佐伯と同列の光栄に浴せしめた。さらに、「SEALDsの本は最下段に」なのだ。

結局のところは、現体制や現政権に不都合な言論は除かれ、政権のお友だち言論に差し替えられただけなのだ。「自由と民主主義のため」が、偏向していると攻撃を受ける時代であることを深刻に受け止めざるを得ない。この「偏向攻撃」という名の怪獣をのさばらせておいては、あたり一面死屍累々たる政権批判言論の墓場となりかねない。そして、この恐るべき怪獣が、政権批判の言論を食い散らかしたそのあとには、茶色の朝がまっているのだ。
(2015年11月14日・連続第959回)

いま、我が国の司法界に「前官礼遇」ありやなしや

「ヤメ検」とは、元は検事だった弁護士をさす。何とも微妙な伝えがたいニュアンスをもった業界用語。その「ヤメ検」のニュアンスに、また一つ影響を与える事件の報道がなされた。

本日の毎日新聞朝刊が、「容疑者の妻連れ 検事総長に面会 弁護士を処分」という記事を掲載した。デジタル版の見出しは、「元最高検総務部長:容疑者妻連れ検事総長面会…戒告」というさして長くない記事なので、全文を引用する。

「元最高検総務部長で横浜弁護士会に所属する中津川彰弁護士(80)が、弁護を担当した強制わいせつ事件の容疑者の妻を連れ、検察トップの検事総長らに面会していたことが分かった。横浜弁護士会は刑事処分の公正さに疑念を抱かせたなどとして、中津川弁護士を戒告の懲戒処分とした。処分は7月8日付。弁護士会によると、弁護士側からの異議申し立てはないという。

日弁連の資料などによると、中津川弁護士は2013年6月に容疑者の弁護人に選任された後、勾留中に容疑者の妻を連れて捜査担当検事や上司、当時の検事総長と面会。「元検察官としてのキャリアや人脈などを強く印象付け、刑事処分の公正に対して疑惑を抱かせた」としている。担当検事には本人の意思を確認しないまま「罪を認めて深く反省」などと記した誓約書を提出していたという。

 横浜弁護士会の佐藤正幸副会長は「検察幹部との面会で手心が加わったかどうかは不明だが、『検察に顔が利く』という過剰な期待を依頼者に抱かせる場を設定したこと自体が問題」と話した。

 中津川弁護士は札幌地検検事正や最高検総務部長などを歴任。退職後の05年に弁護士登録した。」

この記事でも分かるとおり、懲戒事由ありとされた同弁護士の非行は2013年6月のこと。2015年7月に横浜弁護士会が戒告処分とし、同年10月1日付で日弁連が公告した。日弁連機関誌「自由と正義」同月(2015年10月)号に、この広告は掲載されている。言わば旧聞に属することなのだが、毎日の記者が、たまたま何かのきっかけでこの懲戒事由を知ったのだろう。看過できない事件と判断して記事にし、社もこれを全国版に掲載した。指摘されてみれば、なるほど、これは司法に対する社会の信頼に関わる事件であり、法曹の閉鎖性に関わる深刻な問題でもある。

中津川元検事の経歴は下記の如くである。
 昭和36年4月 検事任官
 昭和49年12月 最高裁判所司法研修所教官
 昭和61年4月 公安調査庁 調査第2部長
 昭和63年12月 同庁 総務部長
 平成2年8月 東京法務局長
 平成5年7月 最高検察庁 総務部長検事
 平成17年10月 弁護士登録

申し分のない立派な経歴と言ってよい。多くの部下に指揮命令の権限をもっていたはず。その多くの部下が、今検察の中枢にいることは想像に難くない。その元部下のなかに検事総長もいたのかも知れない。しかし、弁護士として野に下った途端に、その権力も影響力もなくなるのだ。事実上の社会的影響力は、努めて排除しなければならない。弁護士は無位無冠、なんの権力とも、また特権とも無縁なのだから。

「自由と正義」10月号に掲載の「処分の理由の要旨」は以下のとおりである。
(1) 被懲戒者は2013年6月30日に懲戒請求者に接見しその強制わいせつ被疑事件を受任したが、その際委任契約書を作成せず弁護士報酬についての説明も十分しなかった。
(2) 被懲戒者は上記(1)の事件に際し「自己の罪を認めて深く反省し」などと記載した2013年7月18日付けの懲戒請求者名義の誓約書を担当検察官に提出すたが、誓約書の提出に当たり懲戒請求者の意思を確認しなかった。
(3) 被懲戒者は上記(1)の事件に関し懲戒請求者が勾留されている間に懲戒請求者の妻を帯同して担当検察官やその上司である検察官、更に検事総長や検察幹部と面会し、被懲戒者の元検察官としてのキャリアや人脈等を強く印象付け、刑事処分の公正に対して疑惑を抱かせる行為を行った
(4) 被懲戒者は上記(1)の事件に関し被害者との示談交渉の席に懲戒請求者の姉の内縁の夫であったAを同席させ、その後の示談交渉及び書面の作成に関して懲戒請求者の意思を確認し内容を確定して起案するなどの行為を中心となって行わなかった。
(5) 被懲戒者は上記示談交渉に際しAが懲戒請求者から相当額の示談金を受領する可能性を予見できたにもかかわらずこれを回避する措置を採らず、結果として被懲戒者が関与しないまま、Aが懲戒請求者から示談金名目の700万円を受領し保管した。
(6) 被懲戒者は2013年9月7日に上記(1)の事件の弁護人を辞任したが懲戒請求者から弁護士報酬の返還請求に対し脅迫的な意味合いを有し、返還請求をちゅうちょさせるような文言が記載された同年10月11日付けの書面に署名押印した。
(7) 被懲戒者の上記(1)の行為は弁護士職務基本規定第29条及び第30条に上記(2)(4)及び(5)の行為は同規定第46条に違反し上記各行為は弁護士法第56条第1項に定める弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。

刑事事件の一人の依頼者からの懲戒請求があって、6個の非行が認定されたことになるが、報道に値するとされたのは「『検察に顔が利く』という過剰な期待を依頼者に抱かせる場を設定したこと自体が問題」という点である。

いくつかのことを連想する。もう、15年ほども以前のことだが、中国司法制度調査団を組んで訪中し、現地の弁護士と交流したことがある。そのときの話しを聞いて驚いた。有力な弁護士は、ウイークエンドには、判事との夕食会に忙しいのだという。むしろ誇らしげに聞かされた。依頼者には、そのように自分が判事と親しいことをアピールする。あるいは自分が手がけている事件の担当裁判官と同姓であることがアピールの材料となるのだともいう。

裁判も、法治ではなく人治となっていた事情を垣間見た。近代化進む中国のこと。今は、そのようなことはないだろう。むしろ、日本に「顔が利く」ことを誇示する弊風が残っていたのだ。

2012年4月、日民協が韓国司法制度調査団をつくって憲法裁判所などを訪問した。その際、韓国の司法改革が進んでいることを知って驚いたが、李京柱・仁荷大学教授の話しで、同地の「前官礼遇」という悪しき慣行を耳にした。元「官」にいた者が、現在「官」にある者から手厚く遇されるということ。裁判官、検察官の任官経験者が退官後に弁護士となり、後輩として在職している裁判官や検察官から、事件で有利な取り計らいをうけるという悪習。しかも、根深く歴代順繰りに行われてきたのだという。この「『前官礼遇』に象徴される裁判所と在野法曹との癒着や腐敗を一掃すべきという国民の声が司法改革を牽引する力になった」という説明だった。裁判官や検事の座にあった者にとっては、当然に受けるべき既得権と考えられていたのだ。

さて、中津川元検事は、現役時代に、先輩ヤメ検から「前官礼遇」の依頼や要求を受けていたのだろうか。そのような習慣が、実は広く残っているということはないのだろうか。法に携わる者、襟を正さねばならない。

なお、権力を持っていた人物は、その地位を去っても権力を持っていた時代の懐かしさが忘れられない。往々にして、自分にはもともと人に命令する権能が備わっているのだと誤解する。そんな話しは、古今東西ありふれている。権力は魔力を持っている。心して取り扱わねばならない。
(2015年11月13日・連続第958回)

自民党さん、二枚舌はいけません

霊長類ヒト科ヒトの舌は1枚であって、2枚はない。ところが、永田町類保守科自民党には、二枚の舌がある。いや、もしかしたら3枚も4枚もあるのかも知れない。

舌の枚数問題は、臨時国会の開催をめぐる論争において生じている。去る10月21日、民主、維新、共産、社民、生活の野党5党が、憲法53条にもとづいて、臨時国会召集を要求する手続きを衆参両院で行った。あれから、既に20日を経過した。しかし、政府・与党に、臨時国会を開催しようという意欲はまったく見られない。憲法に規定されている内閣の義務だから「ノー」と明確には言えない。「時期の定めがないから」と、のらりくらり「日程調整中」を決めこんでの20日間。自民党と政権の思惑は、「国会開催しても、なんの得にもならない。『3本の矢』どころではなく、無数の槍衾の餌食になりかねない。それなら、36計逃ぐるに如かず」というところ。

朝日新聞が痺れを切らして、本日(11月12日)の社説に「国会召集要求 逃げ切りは許されない」と書いた。「逃げ切り許さず」は言い得て妙。明らかに自民党は逃げまくっている。今のままなら、逃げたことによる世論の風当たりを甘受しても、逃げ切った方が得だ。国会を開いて野党の追及を受けてつく傷よりも、浅い傷で済む。そう、読んでいるわけだ。

昨日の毎日新聞社説は、「閉会中の予算委 たった2日の論戦では」と標題し、「2日間で「野党のガスを抜いた」とばかりに済ませるわけにはいかない。TPP、沖縄基地問題など議論を急ぐべき課題は多い。国会召集に政府が応じざるを得なくなるような活発な提言を野党にも求めたい。」と述べている。

私が20日間にこだわるのは、自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)の53条改正案に「20日以内の招集」と期限が明記されているからだ。
改めて、現行53条と、自民党草案を比較してみよう。

《日本国憲法》
第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

《自民党改憲草案》
第53条 内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない

この改憲案の公式解説である「Q&A」は、次のとおりに述べている。
「53条は、臨時国会についての規定です。現行憲法では、いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣はその召集を決定しなければならないことになっていますが、臨時国会の召集期限については規定がなかったので、今回の草案では、『要求があった日から20日以内に臨時国会が召集されなければならない』と、規定しました。
 党内議論の中では、『少数会派の乱用が心配ではないか』との意見もありましたが、『臨時国会の召集要求権を少数者の権利として定めた以上、きちんと召集されるのは当然である』という意見が、大勢でした。」
とある。

「臨時国会の召集要求権を少数者の権利として定めた以上、きちんと召集されるのは当然」「だから、野党の請求があれば、20日以内に臨時国会を召集する」。全体としては、メチャメチャに評判の悪い改憲愚案だが、ここだけは立派な見識ではないか。ところが、これは自民党の「1枚目の舌」に過ぎないのだ。

2枚目の舌が、安倍晋三のいう、「外交日程、予算の策定、税制についての議論を勘案しつつ、様々な検討を行っている」としゃべる舌。様々な検討を行っているうちに、既に20日は過ぎた。なんとか逃げ切れそうだというもの。

残念だったね自民党。やせ我慢で、自ら提案の20日ルールを遵守していれば、世の中から見直されたのに。やっぱり、自民党は自民党、安倍は安倍。自民党感じ悪いよねー。

立派な舌を看板に、看板に偽りありの二枚目の舌。こんな使い分けをしているうちは、自民党さん、あなたの言うこと、到底信用できません。
(2015年11月12日・連続第957回)

住民訴訟制度の「骨抜き」防止は、法改正と法解釈の両面で

昨日(11月10日)の毎日新聞に、興味深い記事。
見出しは、「住民訴訟:骨抜き回避 首長ら免責、係争中議決を禁止 総務省見直し案」というもの。
「総務省は9日、違法な公金支出をした自治体首長や職員に賠償を求める住民訴訟制度の見直し案を公表した。地方議会が首長らの賠償免除を議決し、裁判所が違法性の有無を判断しないまま住民の訴えを退ける例が目立つことから、係争中の議決を禁止する。
 判決で行政側の責任が明確になることで、訴訟が『骨抜き』になるのを防止し税金の使い道の監視機能を高める効果がありそうだ。」というのが大意。

制度見直しの必要性について、現行制度「骨抜き」の実態をこう説明している。
 「与党が多数を占める議会では、…自治体の賠償請求権を放棄し、支払いを免除する条例を係争中に議決。裁判所が公金支出の違法性を判断しないまま、住民が敗訴する例が相次ぎ、問題視されている。
 係争中の議決を禁止すれば、裁判所は公金支出が違法か適法かの判断を示すことになる。判決確定後、議会が監査委員の意見を聞いた上で、賠償金の支払いを免除することは認めるが、違法性が明確になれば、住民の批判を押し切って賠償免除を議決するのは難しくなる。免除となるのは、当事者の首長らが死去するなど限定的なケースを想定している。」

政府は来年の通常国会でこの内容の地方自治法改正案提出を目指すとしている。共同通信も同内容の短い記事を配信している。この制度の趣旨の「骨抜き」許さない法改正に賛成だ。ぜひ早期に実現してもらいたい。そして、住民訴訟制度が使い勝手のよいものとなって大いに活用されることを望んでいる。

この「住民訴訟制度」は、たいへんに有益なもの。地方自治体といえども、立派な権力である。権力の行使は厳格に適法でなくてはならず、その適法性を住民が監視し、違法あれば声を上げて是正しなければならない。自治体の財務会計上の行為に違法の疑いがある場合、住民であればたった一人でも裁判所に訴えることができる。

例えば、市長に違法な行為があってそのために市が、被害者に損害を賠償すると、市長が市にその賠償支払の金額について違法に損害を与えたことになる。本来は市が市長個人に対して、この穴を埋めるよう請求することがスジではあるが、現実にはなかなか実行されない。こんなとき、住民がたった一人でも、市に代わって「市長(個人)は、市に与えた損害を賠償せよ」と訴訟を提起することができる。このとき、「住民一人の言い分よりも、多くの市民の代表である市長の言い分を聞け。それが民主主義ではないか」という言い訳は通用しない。

地方権力の違法行為の抑止、市民による地方権力監視の実効性確保の手段として有効なこの制度だが、賠償請求権は飽くまで自治体が持っており、原告となる市民は自治体を代位して請求する構造なのだから、自治体が権利を放棄すると裁判が成立しなくなる。

ここに目をつけて、地方議会が首長らの賠償免除を議決し、裁判所が違法性の有無を判断しないまま住民の訴えを退ける例が目立つのだという。まさしく、「制度の趣旨の骨抜き」だ。これを防止するために、係争中の債権放棄議決を禁止するという。けっこうなことだ。

当ブログは、この問題を何度か取り上げている。「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟」の実例を素材にしてのもの。

経過の概要は次のとおりだ。先行する住民訴訟において、東京地裁判決(2010年12月22日)が上原公子元市長の国立市に対する賠償責任を認容し、この判決は確定した。上原元市長は国立市に対する任意の支払いを拒んだので、同市は元市長を被告として同額の支払いを求めた訴訟を提起した。

ところが、その判決の直前に新たな事態が出来した。市議会が、11対9の票差で、裁判にかかっている国立市の債権を放棄する決議をしたのだ。東京地裁判決は、この決議の効果をめぐっての解釈を争点としたものとなり、結論として国立市の請求を棄却した。

「増田稔裁判長は請求を棄却した。同裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)と報じられている。

これこそ、制度骨抜きの典型事例であろう。元市長の行為の違法性の判断ではなく、債権放棄決議の法的効果が争点では、国立市民にとっても不本意な判決であろう。問題は、たった一人でも行政の違法を質すことができるはずの制度が、議会の多数決で、その機能が無に帰すことになる点にある。

仮に債権放棄決議が単なる内部的行為にとどまらず、有効に債権を消滅させる行為であるとすれば、訴訟上確定した国立市の債権3100万円(と遅延損害金分)の放棄決議は、市の財産を消滅させる行為である。当然に賛成票を投じた議員11人の法的責任が生ずることになる。その場合は、経過や動機等の諸事情を勘案して投票行動の、違法性と過失の有無が論議されることになる。そして、この責任も監査請求を経て住民訴訟の対象となり得る。本来、債権放棄決議は、そこまでの覚悟がなければできないことなのだ。

なお、最高裁は、古くから「市議会の議決は、法人格を有する市の内部的意思決定に過ぎなく、それだけでは市の行為としての効力を有しない」としてきた。高裁で分かれた住民訴訟中の債権放棄議決の効力について、最近の最高裁判決がこれを再確認している。

2012(平成24)年4月20日と同月23日の第二小法廷判決が、「議決による債権放棄には、長による執行行為としての放棄の意思表示が必要」とし、これに反する高裁判決を破棄して差し戻しているのだ。

なお、2014年9月25日付け当ブログは、総務省の第29次地方制度調査会「今後の基礎自治体及び監査・議会制度のあり方に関する答申」(2009年6月16日)に触れた。

その結論は、「住民に対し裁判所への出訴を認めた住民訴訟制度の趣旨を損なうこととなりかねない。このため、4号訴訟の係属中は、当該訴訟で紛争の対象となっている損害賠償又は不当利得返還の請求権の放棄を制限するような措置を講ずるべきである。」というもの。今回、これが具体的な制度改革案として成案に至ったのだ。
  https://article9.jp/wordpress/?p=3589

国立市事件の控訴審判決は間近とのこと。「骨抜き」防止は、法改正だけでなく、法解釈においても貫いていただきたい。
(2015年11月11日・連続第956回)

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