澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

Mさんに訴えます。私は、天皇の靖國神社への参拝は、けっしてあってはならないことと思うのです。

昨日(11月16日)の毎日新聞「みんなの広場」に、「A級戦犯の分祀を考えよう」と投稿されたMさん(東京都町田市・68歳)。私の感想を申し上げますから聞いてください。問題は、手段としての「A級戦犯の分祀」にではなく、その先の目的とされている「天皇の靖國神社参拝実現」にあります。私は、天皇の靖國神社参拝はあってはならない危険なことと考えています。お気を悪くなさらずに、最後までお読みいただけたらありがたいと思います。

「10日の本紙朝刊に東条英機元首相らA級戦犯の靖国神社からの分祀を提案している福岡県遺族連合会の調査結果が紹介されていた。これによると都道府県遺族会15支部がA級戦犯の分祀に賛成、4支部が反対したとのことです。」

おっしゃるとおり、毎日の報道が注目を集めています。今年2月の共同通信配信記事が、「A級戦犯分祀、容認は2県 遺族会調査、大半は静観」という見出しで、「共同通信が各都道府県の遺族会に賛否を聞いた結果、賛同する意向を示したのは神奈川県遺族会だけで、分祀容認は2県にとどまった。41都府県の遺族会は見解を明らかにしなかった。北海道連合遺族会と兵庫県遺族会は『反対』とした。」としていますから、福岡県連の「共感が広がっている」とのコメントはそのとおりなのでしょう。遺族会の全国組織に、この共感が広がったときに何が起こるのか、具体的な課題として考えねばならない時期にさしかかっていると思います。

「閣僚の靖国参拝が、国の内外から問題視されています。ずっと繰り返しているこの状態を見て思うことは、靖国神社は誰のためのものか、ということです。私は、靖国神社は日本のために戦って命を落とした軍人・軍属やそのご遺族のためのものだと思っています。」

「閣僚の靖国参拝が、国の内外から問題視されて」いることは、おっしゃるとおりです。どのように問題視されているのかと言えば、何よりも憲法違反としてなのですが、現行憲法が厳格な政教分離規定を置いた理由を正確に理解しなければなりません。ことは、近隣諸国に対する侵略戦争の責任や歴史認識に深く関わりますし、天皇を神とした権力の国民に対する精神の支配や、軍国主義植民地主義への国民の反省の有無とも関わります。閣僚らの参拝によって、合祀されているA級戦犯の責任を糊塗することは、歴史認識の欠如を象徴する大きな問題ではありますが、けっしてすべての問題ではなく、本質的な問題でもありません。ですから、けっしてA級戦犯の分祀実現で「閣僚の靖国参拝の問題視」が解決されることにはなりません。

また、「靖国神社は誰のためのものか」とは、靖國神社が現に「誰か」のために存在するもの、あるいは「誰かのためには有益なもの」という前提をおいた発問のように聞こえます。実は、そのような問の発し方自体に大きな問題が含まれているように思われます。靖國神社とは、もともとは内戦における天皇軍の士気を鼓舞する軍事的宗教施設として作られ、日本が対外戦争をするようになってからは国民精神を総力戦に動員する施設となって、日本の軍国主義を支えた軍国神社でした。国民のものではなく、徹底して、天皇軍の天皇軍による天皇軍のための施設にほかならず、基本的にその思想は現在の宗教法人靖國神社に受け継がれています。

「靖國神社とは誰がどのような意図のもとに創建し、侵略戦争と植民地支配の歴史においてどのような役割を果たしてきたのか」このことを厳しく問うことなしに、「日本のために戦って命を落とした軍人・軍属やそのご遺族のためのもの」などという安易な結論を出してはならないと思います。もっと端的に申しあげれば、あの神社に戦没者の霊魂が存在するとか、あの施設を戦争犠牲者の追悼施設として認めること自体が、危険なワナに絡めとられていると思うのです。

戦前靖國神社は、軍の一部であって、国民思想を軍国主義に動員するために、きわめて大きな役割を果たしました。これは争いがたい事実といわねばなりません。その靖國神社は敗戦によって、どのように変化したのでしょうか、あるいは変化してしていないのでしょうか。そしていま、靖國神社は、政治や社会、そして外交や日本人の精神構造などにどのように関わっているのでしょうか。避けることのできない深刻な問題として考え続けなければならないと思います。

「その英霊やご遺族が、政治家の靖国参拝よりも待ち望んでおられるのは天皇陛下のご親拝ではないでしょうか。」
本当にそうでしょうか。「英霊」という用語は、天皇への忠誠死を顕彰する目的の造語ですから仲間内の議論以外ではその使用を避けるべきだと思います。戦没者が天皇の参拝を待ち望んでいるかどうか、これは確認のしようもない水掛け論でしかありません。そもそも、戦没者は「靖国に私を訪ねてこないでください。わたしはそこにいません」と言っているのかも知れません。

遺族の意見も複雑です。遺族会がその意見を集約できるとも思えません。もちろん、「天皇の参拝を望む」遺族の意見もあるでしょう。天皇であろうと首相であろうと政治家であろうと、戦没者を忘れないという行為として歓迎するお気持ちはよく分かります。

しかし、厳しく天皇の参拝に反対する立場を明確にしている遺族もいらっしゃいます。ことは、天皇の戦争責任に関わってきます。A級戦犯の合祀に不快感をもつ遺族が、天皇にはより大きな責任があるではないかと、天皇の慰霊や追悼を拒絶する心情は、自然なものとして理解に容易なことではないでしょうか。

天皇の名で戦争が起され、天皇の名で兵は招集され、上官の命令は天皇の命令だと軍隊内での理不尽を強いられ、天皇のためとして兵士は死んでいったのです。将兵の死にも、原爆や空襲による一般人の死にも、その責任を最も深く重く負うべきが天皇その人であることはあまりに明らかです。東条は戦争に責任があるが、天皇にはない、というねじれた理屈は分かりにくいものではありませんか。しかし、靖國は天皇の戦争責任などけっして認めようとはしません。

世の常識として、会社が労災を起こして社員を死に至らしめたら、あるいは公害を起こしたり消費者被害を起こせば、社長が責任をとるべきが当然のこととされています。「自分は知らなかった」だの、「地位は名目だけのもの」などという言い訳は通用しません。社長は被害者に、心からの謝罪をしなければなりません。しかし、天皇(裕仁)は、ついぞ誰にも謝罪することのないまま亡くなりました。

また、政治家が政治資金がらみの不祥事で検挙されて、「秘書の責任」「妻がやったこと」などというのがみっともないのは常識です。どうしてこの常識が、天皇(裕仁)の場合には共有されないのか不思議でなりません。東条英樹以下の部下に戦犯の汚名を着せて責任をとらせておいて、自らは責任をとらなかったその人を、どうして戦没者の遺族たちが許せるのでしょうか。そんな人に、あるいはそんな人の後継者に参拝してもらってどうして気持が慰謝されるというのでしょうか。

「そして、天皇陛下もそれが実現できる日を心待ちにしておられるのではないでしょうか。」
あたかも、天皇が心の内に望んでいるのだから靖國神社参拝を実現すべきだと言っているように聞こえます。天皇を信仰の対象としている人には理解可能な「論拠」なのかも知れませんが、私には、天皇が心の内で何を考えいるかの忖度にいささかも意味があるとは思えません。天皇の靖國神社参拝が、法的に、政治的に、外交的に、社会心理的に、いったいどのような問題を引き起こすのかが問われなければなりません。

「政治家のやるべきことは自分の歴史認識を確認するための自己満足などではなく、天皇陛下も含めて、全ての日本人がなんのわだかまりもなく靖国神社に参拝できる環境をつくることではないでしょうか。」
これは恐るべき没論理の結論と言わねばなりません。「全ての日本人がなんのわだかまりもなく靖国神社に参拝できる」ことが、なにかすばらしいこととお考えのようですが、けっしてそんなことはありません。ナチスがドイツを席巻したような、あるいは戦前が完全復活したような、世の中が茶色一色に塗りつぶされた恐るべき全体主義の時代の到来と考えざるをえないのです。ぜひお考え直しください。

もちろん、宗教法人靖國神社の信者が祭神に崇敬の念を表すことに他者が容喙する筋合いはありません。しかし、「すべての人にわだかまりなく参拝せよ」とおっしゃるのは他者の思想・良心や信仰の自由に配慮を欠いた、尊大で押しつけがましい態度ではありませんか。ましてや、天皇や首相や閣僚の参拝を求めることは、国家と宗教との結びつきを禁じた憲法の規定に違反する、違憲違法の行為を求めるものとして、あってはならないものと考えざるをえません。また、天皇の参拝は、侵略戦争や植民地政策への反省を欠くことの象徴的できごとととして、いやむしろ侵略戦争への反省を積極的に否定する挑戦的な日本の国事行為として、首相の参拝とは比較にならない外交上の非難と軋轢を生じることになるでしょう。韓国・中国らの近隣諸国だけでなく、米・英を含む第二次大戦の連合国を刺激することも覚悟しなければなりません。

戦争がもたらした内外の無数の人の死は、それぞれに悲惨なものとして悼むべきは当然のことです。敵味方の区別なく、兵であるか一般人であるかの差別もなく、生者は死者に寄り添ってそれぞれの方法で悼むしかありません。靖國神社のように、味方だけ、軍人だけ、天皇への忠死者だけ、という死を差別する思想はけっして国民全体の支持を得ることはできないのです。

戦争を忌むべきものとし、再び戦争を繰り返さない永遠の平和は国民の願いです。しかし、歴史的経過からも、靖國が現に発信する「ヤスクニの思想」からも、平和を願い祈る場として靖國神社はふさわしからぬところと断じざるを得ません。むしろここは、戦争を賛美し軍事を肯定する思想の発信の場としての「軍国神社」にほかなりません。

遺族会がこぞって望めば、戦犯分祀が実現する可能性は高いというべきでしょう。今、靖國神社は公式には「教理上分祀はあり得ない」と言っていますが、これはご都合主義でのこと。神道に確たる教理などあり得ませんから、どうにでもなることなのです。A級戦犯分祀の実現のあとの天皇の参拝を現実的な問題として警戒せざるをえません。

戦前、臨時大祭のたびに天皇は靖國神社に親拝しました。新たな事変や戦争によって、新たな戦死者が生まれるときが、天皇親拝の時だったのです。いま、再び日本が海外での戦争を可能にする法律を作り上げたそのときです。天皇の軍国神社への参拝の実現は、実は、戦後初めての海外の軍事行動による戦死者を弔うためのものとなりはしないか。戦争法と連動した天皇の靖國神社参拝という恐るべき悪夢の現実化を心配せざるを得ません。
(2015年11月17日・連続第962回)

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Published in 火曜日, 11月 17th, 2015, at 23:03, and filed under 天皇制, 政教分離・靖国, 歴史認識.

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