澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を! 賛同署名のお願い

定刻になりましたので記者会見を始めます。
本日の会見の司会を担当する、弁護士の澤藤です。この席には、アピールの呼びかけ人16名のうち、私の他に、池田香代子(ドイツ文学者・翻訳家)、上西充子(法政大学教授)、中野晃一(上智大学教授)、濱田邦夫(元最高裁判事 弁護士)、浜田桂子(絵本作家、画家)、堀尾輝久(東京大学名誉教授)の6名が出席しています。

それぞれの立場からの訴えをさせていただきますが、まず私からアピールの内容を要約してご紹介いたします。

アピールの全文は、起・承・転・結の4節からなっています。

第1節では、民主義国家における主権の行使には、正確な情報が不可欠であることを説き起こしています。官僚から国民への正確な情報提供には適切な公文書の管理が必要であり、国民が正確な公文書の管理を求めることは、憲法上の知る権利にもとづき公文書管理法に定められたところです。

にもかかわらず、安倍政権のもとでは公文書・公的情報の隠蔽・改竄、廃棄・捏造が横行し、権力のウソやごまかしによって国民主権や民主主義を支える土台が破壊されようとしています。その指摘が第2節。具体的問題として取りあげたものは、森友・加計の各学園問題、南スーダンPKO日報問題、そして裁量労働制データ問題。

第3節では、このまま反省のない「安倍政治」を続けさせたのでは、「大本営発表」時代の歴史を繰り返すことになりかねず、議会制民主主義の危機をさえ危惧せざるを得ない事態であることを指摘し、

結論としての第4節では、私たちは、この時代を生きる主権者として、民主主義を求める声をひろく集め、真実を明らかにし、ウソとごまかしの「安倍政治」に今こそ終止符を、と訴えるものです。

このアピールに多くの方からの賛同署名をいただき、公文書の杜撰な管理問題や政権中枢による行政の私物化という問題の幕引きはけっして許さないとする世論を作っていこうではありませんか。署名は、下記URLからお願いいたします。

https://www.change.org/p/内閣総理大臣-安倍晋三-いまこそウソとごまかしの-安倍政治-に終止符を-7c29c855-209c-49c3-b93d-a95a9e76d1ee

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いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を!

1 公文書は私たち国民が共有する知的資源
  私たち国民が政府の諸活動などを十分かつ正確に知ることは、この国の主権者として様々な物事を決めたり判断するために必要不可欠なことであり、国民主権や民主主義を成り立たせるための最低限のルールです。
そのため、日本国憲法は国民の「知る権利」を保障し、公文書管理法は公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけ、その適正な管理等を通じて国等の「諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにする」としています。また、情報公開法も、国民主権の理念に則って「政府の有する諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」としています。

2? 公文書の隠蔽・改竄、廃棄・捏造は国民主権・民主主義を破壊する
  しかし、安倍政権のもとで、公文書・公的情報の隠蔽・改竄、廃棄・捏造が横行し、権力のウソやごまかしによって国民主権や民主主義を支える土台が破壊されようとしています。
森友学園へ約8億円もの値引きをした上で国有地が払い下げられた件で、安倍首相は「私や妻が関係していれば、首相も国会議員もやめる」と答弁しましたが、その後、財務省によって、安倍昭恵氏の名前などが記載された決裁文書が廃棄や改竄されていたことが明らかとなりました。
加計学園に半世紀ぶりの獣医学部設置を認可した件でも、安倍首相は「私がもし働きかけて決めているのであれば、責任を取る」と答弁しましたが、その後、内閣府が「総理のご意向」「官邸の最高レベルがいっている」と述べたとする文科省文書や、2015年2月に安倍首相が加計孝太郎氏と面会し新しい獣医学部を「いいね」と述べたとする愛媛県文書などが相次いで発覚しました。
南スーダンの首都ジュバで発生した武力紛争を「戦闘」と記録した南スーダンPKO派遣自衛隊日報が廃棄、隠蔽されていた問題に続き、稲田朋美防衛相(当時)が「ない」と答弁していたイラク派遣自衛隊日報も、実は存在し、そのことが1年以上も隠蔽されていたことも明らかになりました。働く人の健康と命にかかわる「働き方改革」の件でも、「裁量労働制で働く方の労働時間は平均的な方で比べれば一般労働者よりも短いというデータもある」という安倍首相の答弁は、根拠とされた厚労省「平成25年度労働時間等総合実態調査」のデータを政府に都合のいいように加工し捏造したものであることが発覚しました。

3 「大本営発表」の歴史を繰り返すことを拒否する
  権力者が自らに都合の悪い情報を隠したり、虚偽の情報を流したりすれば、国民は本当のことを知らないまま、権力の意図する方向に流され、いつの間にか取り返しのつかない事態に陥ってしまう。これが歴史の教訓です。日本でも、戦果を捏造した「大本営発表」が国民を総動員する手段として利用され、悲惨な戦争へと突き進み、あの破局と悲劇をもたらしました。それだけに権力のウソやごまかしは絶対に許されることではありません。
しかも、この間の公文書や公的情報の隠蔽や改竄、廃棄や捏造などの一連の出来事の背景には、安倍首相をはじめとする安倍政権の中枢を担う政治家や官僚が、公権力を私物化し、国民の血税で自らの利益を実現しようとしている構図が透けて見えます。
この問題の本質は、権力の私物化と国民の「知る権利」の侵害、そして国民主権や民主主義の破壊であり、主権者である国民に対する重大な背信行為にほかなりません。
日本国憲法は前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言」していますが、権力のウソやごまかしによって国民主権や民主主義が失われるとき、戦前のような社会が再び到来することにもなりかねません。

4? ウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を
  安倍首相は「膿を出し切る」といったことを述べるだけで、これまで明らかにされてきた事実に真摯に向き合うことをせず、疑惑解明のための具体的な行動もなにひとつ取ろうとしません。さらには、自身の都合が悪くなると、前記の森友学園に関する答弁について「贈収賄は全くない、という文脈で一切関わっていないと申し上げた」と言を左右し、加計学園に関する首相発言を記録した愛媛県文書についても「伝聞の伝聞」としてごまかすなど、自身の発言に責任を持つという政治家としての最低限の責務すら放棄しています。これらは、真相の徹底解明をのぞむ多くの国民の声を無視し、まるで、時が経てば国民は忘れる、とでも考えているかのような態度といわざるをえません。
私たちは、国民主権や民主主義といった私たちの社会の土台が蝕まれ、破壊されようとしている危機を黙って見過ごすわけにはいきません。
この時代を生きる私たちは、主権者として民主主義を求める声をひろく集め、真実を明らかにし、ウソとごまかしの「安倍政治」に今こそ終止符を、と訴えます。

2018年9月10日
<呼びかけ人>
青井未帆(学習院大学法科大学院教授)、浅倉むつ子(早稲田大学大学院法務研究科教授)、池田香代子(ドイツ文学者・翻訳家)、右崎正博(獨協大学名誉教授)、上西充子(法政大学教授)、上脇博之(神戸学院大学法学部教授)、阪口徳雄(弁護士)、澤藤統一郎(弁護士)、寺脇研(京都造形芸術大学教授 元文部官僚)、中野晃一(上智大学教授)、濱田邦夫(元最高裁判事 弁護士)、浜田桂子(絵本作家、画家)、前川喜平(前文部科学事務次官)、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、山口二郎(法政大学教授)、横湯園子(元中央大学教授)

(2018年9月10日)

ウッドワード・オバマ・ムーアらの「言葉」は、トランプの岩盤支持層に届くだろうか。

ドナルド・トランプは、御難続きである。すべては身から出た錆であり、因果応報として甘受せざるを得ないところ。

ボブ・ウッドワードの内幕本「Fear」では「小学5、6年の理解力しかない」と秘密を暴かれ匿名の政府高官によるニューヨーク・タイムズ紙への寄稿でも厳しく批判された。大統領の人格と政策を「衝動的かつ敵対的、狭量で効果がない」という政権内にいる多数の高官がトランプ大統領の言動の危うさを認識し、大統領が掲げる政策について実現を阻止しようと政権内で画策してきた、ともいうのだからトランプが怒るわけだ。

これまで発言を控えてきたオバマが、これに追い打ちをかけている。「トランプは、敵意と恐怖で国民をあおっている。トランプの下で「健全な民主体制」を支える三権分立が機能しなくなっている。世界の国で唯一、パリ協定から脱退した」、などと批判し、「トランプ擁護の共和党はもはや保守とはいえない。過激派だ」とまで言ったのだから、よほどの覚悟。

そして、本命は、常に話題作を提供するマイケル・ムーアの最新作だ。原題「Fahrenheit 11/9」。これが、邦題「華氏119」として11月に全国で放映される。これが見物だ。中間選挙を前に、トランプに頭の痛い作品。

ムーアの2004年作品が、「Fahrenheit 9/11」。これが「華氏911」の邦題になった前例を踏襲しての「華氏119」。「華氏911」は、9・11同時多発テロをきっかけにしたイラク戦争の批判だが、ブッシュ(子)政権に対する痛烈な批判でもある。今度の「華氏119」は、それ以上に徹底したドナルド・トランプ批判だという。

「華氏119」の「華氏」は、ブラッドリーの小説「華氏451度」からのイメージ借用。書物の燃え上がる温度だという、デストピアの暗喩。「119」は、トランプが大統領選で勝利宣言をした2016年11月9日を意味している。この日が、知性も理性も燃え尽くすデストピアの始まりという意味なのだろう。

そういえば思い出す。あの大統領選のさなか、ムーアは大手メディアの予想を真っ向から否定して、「残念ながらトランプが勝つ」と言っていた。

ムーアによれば、「トランプは“悪の天才”。感心するほどの狡猾さを持っていて、トランプを笑う私たちでさえ彼の術中にはめられている」という。彼は、本作でそのトランプを当選させたアメリカ社会に斬り込むとの前評判

キャッチコピーは、次のようなもの。
2016年11月9日、トランプは米国大統領選の勝利を宣言―その日、米国ひいては世界の終りは始まった?! なぜこうなった?どうしたら止められる?ムーア節炸裂! 宿命の戦いに手に汗にぎるリアル・エンターテイメント!

これが、第43回トロント国際映画祭ドキュメンタリー部門オープニング作品として現地時間9月6日夜に初上映された。話題性十分で、11月中間選挙の結果をも左右しかねない。

しかし、あんなトランプをホワイトハウスの主たらしめているのは、実はアメリカ国民の支持である。彼の明らかな失策にも揺るぎを見せない岩盤支持層あればこそである。まさしく、こんなアベ政権を続けさせている我が国の不幸な事態とまったく同様の構造なのだ。

さて、どうしたら、オバマのいう「健全な民主体制」を取り戻すことができるのだろうか。到底楽観し得ない。トランプやアベを支持する国民層に届く言葉を発し続ける工夫と努力を継続するしかないが、今のところ、われわれはその成功の展望を見出し得ない。「トランプやアベを支持する国民層に届く言葉」を探しあぐねている段階ではないか。ウッドワード・オバマ・ムーアらの「言葉」は、そのような観点から、有効なものとなりうるだろうか。
(2018年9月9日)

「いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を!」 ― アピール運動呼びかけ会見のお知らせ

報道関係者 各位

いま、真面目に政治を考える多くの人にとって、安倍政治の継続が苛立ちを禁じえないものとなっています。

「あったものも、なかったことになる」のが安倍政治。政治と行政の私物化、公文書・公的情報の隠蔽、改竄、捏造、虚偽答弁…。「ウソとごまかしの安倍政治を終わりにしたい」ということが、多くの良識ある人々の意見のはず。

ところが、内閣支持率は下げ止まりました。メディアの批判的報道も、国会の追求も、検察の捜査さえも、すべてが最後の決め手を欠いて、安倍政治を永らえさせています。このままでは、健全な議会制民主主義の土台が揺るぎかねません。

私たちは、いまこそ、ウソとごまかしの安倍政治を終わりにするための大きな世論を作りあげる運動がぜひとも必要になっていると考え、そのためのアピールを作成しました。下記の日時・場所で、これを多くの心ある国民に訴えるための記者会見を行います。

よろしく取材と報道の程、お願い致します。

 

<呼びかけ人>

青井未帆(学習院大学法科大学院教授)、浅倉むつ子(早稲田大学大学院法務研究科教授)、池田香代子(ドイツ文学者・翻訳家)、右崎正博(獨協大学名誉教授)、上西充子(法政大学教授)、上脇博之(神戸学院大学法学部教授)、阪口徳雄(弁護士)、澤藤統一郎(弁護士)、寺脇研(京都造形芸術大学教授、元文部官僚)、中野晃一(上智大学教授)、濱田邦夫(元最高裁判所判事、弁護士)、浜田桂子(絵本作家、画家)、前川喜平(前文部科学省事務次官)堀尾輝久(東京大学名誉教授)、山口二郎(法政大学教授)、横湯園子(元中央大学教授)

 

日 時  9月10日(月) 午前10時30分?11時30分

場 所  衆議院第1議員会館 地下1階第6会議室

出席者  池田香代子、濱田邦夫、上西充子、澤藤統一郎(司会)、中野晃一、浜田桂子、堀尾輝久

(お問い合わせ先)

東京南部法律事務所(弁護士 舩尾徹)

電話 03‐3736?1141

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報道関係者にお願いです。あわせて、皆様にもお知らせです。

森友問題も加計問題も、なんの解決にも至っていません。疑惑の解明は中途半端の尻切れトンボ。国民のイライラは募るばかりです。にもかかわらず、疑惑の張本人とその取り巻きは、もう済んでしまった過去の問題であるかのような涼しい顔。

森友・加計に見られる政治の私物化だけではありません。南スーダン日報問題でも、「働き方改革」審議における裁量労働制のデータの問題にしても、資料と事実が政府の都合に合わせて、隠されあるいはねじ曲げられてしまっています。到底国民のための政治が行われているとは思えません。ウソとごまかしの、政権の政権よる政権のための政治。

ことは民主主義の根幹にかかわります。このまま幕引きを許すことは、同じことが繰り返される危惧を残すというにとどまらず、議会制民主主義の土台が崩壊してしまうのではないかという危機感を禁じえません。自浄のできない政権には、退陣してもらわなければなりません。

そのような国民多数の声を集めてかたちにしようと、「いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を!」と標題するアピールの運動を呼びかけます。

アピールの案文は、まず現政権の公文書の取り扱いのひどさを指摘します。公文書とは、私たち国民が共有する知的資源であるにもかかわらず、この政権の取り扱いはあまりにひどい。公文書の隠蔽・改竄、廃棄・捏造は、国民主権・民主主義の破壊をもたらしかねません。そして、私たちは「大本営発表」の歴史の繰り返しを拒否します。主権者である国民が、政権の情報操作によって踊らされる存在であってよいはずはありません。

その上で、私たちは、国民主権や民主主義といった私たちの社会の土台が蝕まれ、破壊されようとしている危機を黙って見過ごすわけにはいきません。
この時代を生きる私たちは、主権者として民主主義を求める声をひろく集め、真実を明らかにし、ウソとごまかしの「安倍政治」に今こそ終止符を、と訴えます。

9月10日(月)の会見で、アピール文を発表し、この署名運動を始めます。会見では、呼びかけ人が、それぞれにその思いを語ります。

是非、会見の取材をお願いいたします。
(2018年9月8日)

憲法と落語(その3) ― 「天狗裁き」は、〈沈黙の自由〉を語っている。

『天狗裁き』は、実によくできた面白い噺。奇想天外なこのストーリーを考え出した才能には脱帽するばかり。志ん生が得意とする演目という印象だが、実は典型的な上方話で、今も上方で語られているという。

寝ていた八五郎が女房に揺り起こされる。
「おまえさん、どんな夢を見ていたんだい?」
「夢なんか見ちゃいないよ」
「いいや見ていた。女房に隠し事をするのかい」
「ほんとうに見ていないんだってば」
「見たけど言いたくないんだろう。なんて人だ」

夫婦喧嘩に長屋の隣人が割って入る。
「まあまあ、ここは俺に任せて」
「ところで八五郎。どんな夢を見ていたんだい?」
「いやだな、夢なんか見ちゃいないんだよ」
「女房には話せなくても、兄弟分のオレになら話せるだろう」
「見てないものは話せないじゃないか」
「何だこの野郎、どうしても話せないっていうのか」

押し問答から喧嘩に。大家が仲裁に入る。
「ところで八五郎。大家になら話せるだろう。どんな夢を見ていたんだ?」
「困ったな大家さん、ほんとうに夢なんか見てないんだ」
「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然。親に隠しごとをするのか」
「なんと言われても、見てねえ夢の話しはできない」
「そこまで言うんなら、奉行所に訴え出てしゃべらしてやる」

「これ、八五郎。どんな夢を見た? 奉行になら話せるであろう」
「夢なんか見てないんだ。話しようがないじゃありませんか」
「不届きな奴。お前は奉行が恐くないのか」
「お奉行様は恐い。天狗様の次に恐い」
「ならばこの件、天狗に裁かせよう」

哀れ、八五郎。縛り上げられて山奥の木のてっぺんに吊るされてしまう。現れたのは大天狗。
「八五郎。ここでなら、だれに聞かれる心配もない。ワシだけに、どんな夢を見たか話してみよ」
「困ったな。ほんとうに夢を見ていないんだから話しようがありません」
「この期に及んで隠しごとをするとは怪しからん。八つ裂きにしてやる」
八五郎は絶体絶命。

うなされた八五郎は女房に揺り起こされる。
「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」

噺が最初に戻る、きれいな「回りオチ」を意識しての筋立て。志ん生のCDを聞くと、こうなっていない。女房が「お眠りよ。縁起のよい夢を見て運をつかみな」「お眠りってば」で始まる。終わり方も違う。天狗に脅された熊五郎(志ん生の噺での主人公)は、天狗を欺して羽団扇を取りあげ空中遊泳する。そればかりか、長者の娘を助けてその家の婿に収まる…、ところで目が覚める。「夢だったか」。

「夢オチ」だが、「回りオチ」にはなっていない。志ん生は、オチのかたちにこだわらなかったのだろう。庶民の「夢」の話し、少しは明るく楽しい夢のサービスをしてくれたのかもしれない。

さて、この噺。笑ってばかりもいられない。外からは窺い知ることができないのが人の内心。その窺い知ることができない他人の内心を知りたいのが人情というもの。家族や友人が好奇心から教えてくれという程度ならともかく、社会的な強者や権力者が内心を明かせと強制するとなると、ことは重大である。

この噺でしゃべれと言われたのは「夢」だったが、権力者が最も知りたいのは、人の内心にある思想であり信仰である。橋下徹や野村修也がアンケートで回答を強制したのは、労働組合活動歴や政治家の応援への参加歴だった。どんな内容であれ、人は自分の内心をさらけ出す義務はない。だれにも、内心の探知を拒否する権利がある。思想・良心の自由の重要な一側面として、「沈黙の自由」が保障されているのだ。自分の精神の主人は自分以外にあり得ないのだから、当然と言えば当然のこと。

「夢」だって、人に話したくなる夢ばかりではない。話したくないものは話さなくてもよい。究極は、犯罪を犯したことを知られたくはない。その自白を拒否する自由も保障されている。犯罪に限らず、自分を不利に陥らせることについて、「自己負罪免責特権」が認められている。人格の尊厳がなによりも大切だからだ。

だから、八五郎。本当は夢を見ていたによ、いないにせよ。夢のことはしゃべらないでよい。「どんな夢を見たか話せ。話さなければ縛り上げて木に吊す」などと強要してはならない。「しゃべらないと処罰するぞ、処罰されたくなければしゃべれ」は沈黙の自由の侵害である。「踏み絵を踏め。踏まなければ処罰するぞ」「起立・斉唱して国旗国歌に敬意を表明せよ。でなけば処分するぞ」も、同様である。

八五郎の時代と今と。権力の建前は大きく変わった。しかし、権力の実態は果たしてどれだけ変わっただろうか。奉行と裁判所と、実はこちらも旧態依然ではないだろうか。

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昨日(9月6日)早朝、最高震度7の激震が北海道胆振地方を襲った。関西での台風被害報道に引き続く震災報道。次第に明らかになってくる自然の猛威と被害の甚大さに唖然とするばかり。深甚のお見舞いと復興を祈念申し上げたい。

阪神・中越・三陸・熊本・大阪、そして今回は北海道。日本中、どこで起きても不思議のない震災被害。その対策のための防災予算措置は微々たるものだという。防衛予算5兆円超とはなんと勿体ない。イージス・アショアもオスプレイも、辺野古の新基地も、思いやり予算も要らない。地震や台風への万全の備えのためにこそ、国家予算を使うべきだろう。災害対策の費用は、防衛費と違って、けっして無駄金にも捨て金にもならないのだから。
(2018年9月7日)

「Yes,Nike」「No,DHC」 ― ナイキのキャパニック起用に拍手

これは快挙だ。米スポーツ用品大手のナイキが、新広告キャンペーンのイメージキャラクターに、渦中のNFL選手コリン・キャパニックを起用した。キャパニックといえば、米国の黒人差別に抗議して国家への敬意表明を拒否したスーパースター。国歌斉唱中に起立せず、片膝を付く姿勢(Take a Knee)をとり続けた叛骨の人。その影響力から、俗物トランプとその取り巻きのバッシングを一身に受けて、一歩も引かない人物。今や二つに分かれたアメリカの、理性の半面を象徴する立場となった。

このキャパニックを指して、「国旗を侮辱した人がいた時に、『あのバカ者をフィールドから降ろせ。あいつはクビだ! あいつはクビだ!』とNFLのオーナーが言うのを聞きたいと思わないか?」と演説したのが、ドナルド・トランプという保守派のポピュリスト。アメリカの暗愚の半面を象徴する人物。

アメリカは広い。懐は深い。愚かなトランプ支持者だけがアメリカではないのだ。キャパニックやこれを支持するナイキが、もう一面の別のアメリカを構成している。ナイキのキャパニック起用は、この二つのアメリカが衝突するテーマ。それだけに、ナイキの並々ならぬ決意が窺える。

今回ナイキが発表したキャンペーンの画像では、大写しのキャパニックの顔写真に、“Believe in something, even if it means sacrificing everything”というメッセージが添えられている。我流で、「信じよう。たとえ全てを失っても守るべきものがあることを」と訳してみた。そのsomethingとは、自らの信念に忠実であることの価値、あるいは人種や民族や宗教や言語の差異を超えて人はすべて平等であるという信念、であろう。国家や社会の圧力に屈することなく、たとえ非難を受け、職を失っても、自己の信念に忠実であれという刺激的メッセージ。このキャパニックとナイキの心意気を素晴らしいと思う。

消費者とは、品質と価格だけで商品選択をする存在ではない。少なくも、自覚的な賢い消費者は、市場での商品選択を通じて、社会をよりよいものとする努力をすべきなのだ。ナイキが、人種や民族の平等の価値を意識的に自らのブランドとしているのであれば、人間の平等の実現に賛意を表する消費者は、ナイキの商品を積極的に選択しなければならない。

一方、その正反対に民族差別を公言して恥じない経営体であるDHC・吉田嘉明などの商品を買ってはならない。DHC商品を買うことは、社会の差別を容認し助長する恥ずべき行為なのだ。もちろん、DHCの問題性は差別だけではない。デマとヘイトとスラップとで3拍子揃った反社会性、これに政治家への裏金問題を加えればグランドスラム。「買ってはいけないDHC」「良い子は買わないDHC」なのだ。

ところで、キャパニックの行為は、国家に対する敬意表明の拒否であり抗議でもある。キャパニックの信ずるものは、人の平等という前国家的な価値である。白人も有色人種も同じ尊厳をもつ人間として、国家から平等に扱われなければならない。ところが、米国という国家は、この価値を貶めているものとして敬意を表明するに値しないのだ。極めてわかりやすい。

これに対して、キャパニックの行為を非難する者たちの理由や根拠は分かりにくい。敢えて言えば、国家というものの神聖性というしかない。国家とは、人種差別をしようが、他国を侵略しようと、国家であるだけで神聖であって国民はこれに敬意を表明することが当然で、国家への抗議などもってのほかなのだ。これは、一神教の神に対する信仰以外のなにものでもない。

キャパニックの行為を非難するアメリカの半分は、国家の神聖性という信仰をもっているのだ。トランプを初めとする多くの人々の、知性と理性を投げ捨てた、暗愚な精神に棲み着いた信仰。そう、かつての大日本帝国の時代に、天皇を神として、ご真影や「日の丸・君が代」に、盲目的な敬意の表明を強制したあの時代のごとくに。

日米とも、今なお国家至上主義の信仰と闘っている、理性の人々がいる。星条旗に抗議する人々、「日の丸・君が代」起立斉唱の強制を受け容れない人々に、深く敬意を表する。彼らは、「it means sacrificing everything」を覚悟して、「Believe in something」の姿勢を貫いているのだ。
(2018年9月6日)

アベ首相 自衛隊幹部に「改憲決意」訓示の禁じ手

今さら言うまでもないことだが、公務員には憲法を尊重し擁護する義務がある。公務員が公務員に、100%公的な場で、「憲法変えた方があなたたちが働きやすくなるでしょう」「だから、私はがんばって憲法を変える決意だ」などと発言することは考えられない。今どき、そんなあり得ベからざることが現実に起こった。しかも、発言者は内閣総理大臣、その発言を訓示として聞かされた側は自衛隊幹部の面々。アベ政権のもとでは、なんでもありなのだ。

まずは、昨日(9月4日)の東京新聞朝刊記事から。
「首相、自衛隊幹部に訓示 『改憲前のめり』批判 共産・小池氏」
安倍晋三首相は3日、防衛省で開かれた自衛隊高級幹部会同で訓示し「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える。これは今を生きる政治家の責任だ。私は責任をしっかり果たしていく決意だ」と強調した。憲法への自衛隊明記に重ねて意欲を示した発言とみられる。野党からは、閣僚らに課された憲法尊重擁護の義務に反するとの批判も出ている。

毎年開かれる会同には今回、自衛隊の将官ら約180人が出席した。首相は直接、改憲に言及しなかったが、自衛隊の違憲論を念頭に「心無い批判にさらされたこともあったと思う。自衛隊の最高指揮官、政治家としてじくじたる思いだ」と語った。これに対して、共産党の小池晃書記局長は「憲法の尊重擁護義務を土足で踏みにじる暴言だ。改憲に向けてあまりに前のめりだ」と批判した。

憲法99条は閣僚、国会議員、公務員に憲法の尊重擁護義務を定めている。今回の訓示は、首相自ら国家公務員である自衛隊員に改憲への意欲を示した形となる。」

同じ問題についての共同通信配信記事は以下のとおり。
「首相訓示は『憲法擁護に反する』 野党批判、自民議員も困惑」
 安倍晋三首相の自衛隊高級幹部会同での訓示に関し、野党や有識者から3日、行政府の長として憲法改正に意欲を示した形で問題だと批判が相次いだ。共産党の小池晃書記局長は「憲法99条が定める閣僚らの憲法尊重擁護義務に反している」とした。自民党ベテラン議員も「全く望ましくない。理解に苦しむ」と困惑している。

首相は同日「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える。これは今を生きる政治家の責任。私は責任をしっかり果たしていく決意だ」と述べた。
 小池氏は記者会見で、会合の性格を考慮すれば、自民党総裁でなく首相としての発言なのは明白だとして非難した。

東京新聞も共同通信も、まことに真っ当な記事を書いたと言うべきだろう。両者とも、憲法99条を引いている。憲法の視座から見て、アベの訓示に問題あることは一目瞭然である。

赤旗の「首相“改憲表明” 小池氏が批判」の記事は、以下のとおり。
 日本共産党の小池晃書記局長は3日、国会内で記者会見し、安倍晋三首相が同日の「自衛隊高級幹部会同」で行った訓示で、「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える、これは今を生きる政治家の責任だ」と発言したことについて、「明らかに安倍首相の持論である憲法9条に自衛隊を明記するとの主張を述べたものだ」と指摘し、「憲法尊重擁護義務を踏みにじる発言だ」と厳しく批判しました。

 小池氏は、憲法9条への自衛隊明記は「何の制限もなく海外での武力行使を可能にするものであって、自衛隊員の誇りとは何の関係もない」と強調。防衛省の公式発表によっても、同省の政策方針を自衛隊高級幹部に周知徹底させることなどが高級幹部会同の目的なのに、安倍首相の訓示は自民党総裁としてではなく「内閣総理大臣」として行ったものであり、「このような発言をする場ではない」として、「憲法99条が定める国務大臣、国会議員の憲法尊重擁護義務に明らかに違反する」と重ねて批判しました。

 その上で、「集団的自衛権行使を可能にする安保法制で海外で殺し殺される戦争に自衛隊員を駆り立てることを許さないことこそ、『今を生きる政治家の責任』だ」と主張しました。

小池批判は、単に「99条違反」を指摘するだけでなく、「自衛隊員の誇り」を口実に、実は「海外で殺し殺される戦争に自衛隊員を駆り立てること」がたくらまれているとしている。改憲陰謀を持ちかけられたかたちの自衛隊の面々。本懐だっただろうか。それとも、迷惑だっただろうか。

憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定める。これは、立憲主義を体現した条文と理解されている。内閣総理大臣たるもの、ひたすらに主権者の命令である憲法を誠実に尊重し擁護する義務を負うのであって、憲法が気に入らないから改正しようなどと言い出してはいけない。内閣は国会に対して法案の上程はできるが、もとより憲法改正の発議権はない。憲法改正手続は、最も国民に近い位置にある国会議員が行うもので、内閣も総理大臣も改憲手続きには関与しない。

にもかかわらず、アベが内閣総理大臣として、「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える。これは今を生きる政治家の責任だ。私は責任をしっかり果たしていく決意だ」と発言したのは、小池晃書記局長のいうとおり、「憲法の尊重擁護義務を土足で踏みにじる暴言だ。改憲に向けてあまりに前のめりだ」と批判されなければならない。

官邸のホームページに、この自衛官会同の訓示がアップされている。正確には、第52回自衛隊高級幹部会同 安倍内閣総理大臣訓示」というようだ。これを検証してみよう。https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2018/0903kunji.html

まず、訓示者の肩書である。「自衛隊最高指揮官 内閣総理大臣安倍晋三」となっている。憲法99条にいう「国務大臣」の訓示であることに疑問の余地がない。靖国神社参拝や玉串料奉納の際に「私人として行った」、あるいは「改憲発言は総裁としてのもの」という言い訳は通用しない。

中で、正確にはこう言っている。

 本日、我が国の防衛の中枢を担う幹部諸君と一堂に会するに当たり、自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣として、一言申し上げたいと思います。
(略)
? 国民のために命をかける。これは全国25万人の自衛隊員一人一人が自分の家族に胸を張るべき気高き仕事であり、自分の子や孫たちにも誇るべき崇高な任務であります。
 幹部諸君。それにもかかわらず、長きにわたる諸君の自衛隊員としての歩みを振り返るとき、時には心無い批判にさらされたこともあったと思います。悔しい思いをしたこともあったかもしれない。自衛隊の最高指揮官、そして同じ時代を生きた政治家として、忸怩たる思いです。
 全ての自衛隊隊員が、強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える。これは、今を生きる政治家の責任であります。私はその責任をしっかり果たしていく決意です。

この原稿は、明らかに官僚の「助言と承認」によって作られている。したがって、あからさまに「憲法を改正します」「自衛隊を憲法上明確にする」とまでは、さすがに言っていない。しかし、彼の訓示はこう読む以外にはない。

「自衛隊員の諸君は、時には『自衛隊は違憲の存在だ』という心無い批判にさらされたこともあったと思います。悔しい思いをしたこともあったかもしれない。自衛隊の最高指揮官、そして同じ時代を生きた政治家として、普通の読み方をすれば自衛隊は憲法違反の存在とする憲法9条を、今日まで改正することなく放置してきたことに忸怩たる思いです。
 全ての自衛隊隊員が、憲法違反との誹りを受けることなく、強い誇りを持って国民のために命をかける任務を全うできるよう環境を整えるために、憲法9条を改正して自衛隊が違憲の存在だという余地をなくする。このことが、今を生きる政治家の責任であります。私は、一日も早く憲法9条改正を実現することによってその責任をしっかり果たしていく決意です。」

アベは、アベ改憲のたくらみと決意を自衛隊に吹き込んだのだ。これは、許されない危険な行為。禁じ手ではないか。やはりアウトだ。アベシンゾー。
(2018年9月5日)

佐喜真淳候補は、辺野古新基地建設を容認するのかしないのか。

沖縄知事選から目が離せない。
昨日(9月3日)の当ブログで、佐喜真候補の討論会出席拒否を、候補者としての資格がないと厳しく批判した。一夜明けたら、「佐喜真氏、一転討論会参加へ 批判受け方針転換 『事務方の不手際で誤解』」という。やはり、批判はすべきものだ。

ここで堂々と、佐喜真は「できれば論争を避けようとした自らの姿勢を反省し、県民にお詫びするとともに、以後は歴史的な2018年沖縄県知事戦の候補者として恥ずかしくない論戦に挑みます」というべきだった。そうすれば、汚名挽回できたのだ。いま「正直」が政治家倫理の最重要徳目ではないか。ところが、「事務方の不手際で誤解」は、「正直」とはほど遠い不誠実な取り繕い。「秘書が」「妻が」「事務方が」との責任転嫁はみっともない。

そもそも、「事務方の不手際で誤解」は意味不明だ。佐喜真の言う「さまざまな行き違いで、討論会について事務方の不手際でマスコミに誤解を与えた」とはいったい何のことだ。マスコミが何をどう「誤解」したというのか。

確認しておこう。マスコミの理解は、以下のとおりである。これが誤解か。
「自民党沖縄県連は2日、沖縄県政記者クラブが出席を求めた県知事選立候補予定者討論会に対し、前宜野湾市長の佐喜真淳氏(54)が参加しないことを文書で回答した。「日本青年会議所(JC)が予定する討論会に一本化する」とし、マスコミ各社の討論会や座談会には一律で応じない。これに対し県政与党が擁立する衆院議員の玉城デニー氏(58)の陣営は「マスコミからの出席の要請には積極的に臨む」として候補者が露出する機会に前向きで、姿勢が分かれている。(琉球新報)」

重要なことは、拒否回答が文書で行われたことだ。文書の内容は、「投票まで残り1カ月もない超短期決戦の中で、1人でも多くの県民と直接、対話を重ねたいところから、日本青年会議所の討論会に一本化して対応したい」(琉球新報)という、愚にもつかない文面。この文書の読み方に、誤解の生じようがないではないか。

しかも、この文書の作成は、佐喜真擁立の最大母体である自民党沖縄県連。「事務方」とは、自民党のことなのだ。常識的に、「知事選立候補予定者討論会不出席。但し、極右団体の討論会を例外とする」。こんな非常識で、重要な方針決定が候補者抜きで決められていることは考えられない。それとも、佐喜真は自民党の操り人形に過ぎないということなのだろうか。

自民党県連も佐喜真も、信用ならぬというほかはない。佐喜真という人物、今後都合が悪くなると、「事務方の不手際で誤解」を繰り返すことに、きっとなる。そのような私の判断を誤解とは言わせない。

「自民県連が不参加と回答した報道を受けて県連に批判が相次いだため、方針を変更した」という、各紙の報道内容が正確なところだろう。ここからは私の推測だが、この批判は身内からのものが多かったに違いない。「こんな候補者の姿勢では、まったく意気が上がらない」「これでは選挙にならない。初めから負けいくさだ」という批判ないし抗議。真面目な運動員としては、せざるを得ないではないか。玉城陣営としては、幸先のよい願ってもない事態。涼しい顔で見守っていたというところだろう。

さて、知事候補佐喜真淳(自・公・維の推薦)が政策を発表した。メディアの報ずる内容は以下のとおりである。

「普天間飛行場の一日も早い返還を政府に求め、日米地位協定の改定を具体的に提言する」と強調した。一方で、最大の争点である名護市辺野古新基地建設の是非には触れなかった。「県民の暮らし最優先」を掲げ、全国平均並みの県民所得300万円の実現や子どもの保育費、給食費、医療費の無償化、跡地利用の推進などを打ち出した。

 普天間飛行場の辺野古移設について「最も重要なのは固定化を避けることだ。返還までの基地負担の軽減と危険性の除去を県民に訴えたい」と語った。辺野古移設の是非に触れないことについて、県が埋め立て承認を撤回したことで今後、政府が法的措置を検討していることを挙げ「法律的にどうなるか注視しなければいけない」と説明した。(琉球新報)

米軍普天間飛行場について「返還作業への即時着手と速やかな運用停止を求める」と明記したが、辺野古新基地建設の是非について触れなかった。国と連携し新たな沖縄振興計画の策定や経済特区、税制を実現する考えを示した。

辺野古新基地建設の是非に言及しない理由について、県が辺野古の埋め立て承認撤回をし、国が法的措置を取る構えを示していることを挙げ「法律的にどうなるのか注視しなければならない。一日も早い返還、それまでの負担軽減と危険性の除去を県民に訴えたい」と説明した。(沖縄タイムス)

妙な錯覚に襲われる。この佐喜真という候補者、沖縄県知事選を闘っているという自覚があるのだろうか。相変わらず宜野湾市長選を闘っている感覚のままなのではないだろうか。「世界で一番危険な・普天間飛行場」の返還・撤去について、沖縄県民に異論があろうはずはない。問題は、そのための条件とされた辺野古新基地の建設強行を認めるか否か。それこそが最大の争点ではないか。玉城は、断固阻止といっている。佐喜真はどうなのか。阻止にせよ、容認にせよ、あるいはその他の選択肢にせよ、意見をはっきりと言わねばならない。それが今、沖縄県知事選の候補者に求められている最低限の誠実さと言わねばならない。それなくして、沖縄県民の選択ができないではないか。

佐喜真や自民党は、このまま県民をごまかし、自民・公明の支持者もごまかしたまま票を掠めとろうというのか。佐喜真支持者諸君、自民党県連と佐喜真候補に、再びの抗議を集中されたい。辺野古新基地建設の是非について明確な政策を打ち出すように、と。
(2018年9月4日)

佐喜真淳の討論会出席拒否 ― 候補者としての資格がないぞ

注目の沖縄知事選。「オール沖縄」陣営からの玉城デニーと、「チーム沖縄」からの佐喜真淳との事実上の一騎打ち。最大の争点は、アベ政権が強行する辺野古新基地建設を許さないとする県民意思を確認するのか容認するのか。

さて、前宜野湾市長佐喜真淳とは何者であるか。宜野湾市で知られてはいても、沖縄全県で知られた存在ではない。ましてや、全国では無名の人。佐喜真は、自分が何者であるか、どのような政治思想を持ち、どのような県知事としての政策を持っているのか、有権者に対して明らかにする責任がある。沖縄に国民の注目が集まっている以上、ひろく国民にも明らかにしていただきたい。

とりわけ、宜野湾市の利益と沖縄全県の利益との関係微妙な「基地移転」の問題について、宜野湾市長選での「県外移転」公約を維持するのか変更するのか、明確にしなければならない。そのためには、立候補予定者討論会を重ねることが最も適切であろう。

ところが、彼は立候補予定者討論会には参加しないという。「沖縄県政記者クラブが主催する立候補予定者討論会への参加を断る方針を決めた。佐喜真氏側は『異例の超短期のため日程がつかない』との理由で、マスコミ各社が個別に主催する討論会や対論番組にも一切出席・出演しない対応を取っている。(琉球新報)」

要するに、議論を避けて逃げているのだ。これはみっともない。まるで、総裁選での討論を避けているアベとおんなじではないか。討論しても恥をかくだけ。票が増える見込みはない。票を減らすことが明らかなのだから、討論会や対論番組に出席・出演することのメリットはない。そんな時間があれば、県内右翼団体の挨拶回りをして票を固めた方がよい、との割り切った判断なのだ。

しかし、沖縄県民は、この佐喜真陣営の姿勢を民主主義政治における公職の候補者としてあるまじきものとして批判しなければならない。選挙の主体は、飽くまでも有権者である。有権者が正しい選択ができるように、候補者は自らが何者であるかを有権者に積極的に語って知ってもらわねばならない。それは、候補者の責務である。

消費者が市場で商品を購入するに際しては、ためつすがめつ商品の説明をよく聞き、よく調べなくてはならない。複数の商品あれば比較検討しなければならない。これは消費者にとっての、商品説明を受け、正しい選択を受ける権利である。商品の説明を拒否するような売り手は、市場から駆逐されなければならない。まさしく、佐喜真という知事選市場に並んだ商品は、その商品吟味を拒否するのだから、市場から退場してもらわねばならない。

さらに、興味を掻きたてるのは、佐喜真が、「日本青年会議所(JC)沖縄ブロック協議会が主催する公開討論会だけには出席する」としていること。要するに、佐喜真にとっては、「日本青年会議所(JC)」だけがホームで、他のすべてがアウェイなのだ。佐喜真は、「討論会はアウェイでは困る。イヤだ」「日本青年会議所(JC)の討論会なら、主催者との事前の打ち合わせが十分にできて、恥をかかずに済ませることができるから、これだけはやる」という算段なのだ。卑怯千万。佐喜真の何たるかをよく物語っている。

伊波洋一と争った2012年宜野湾市長選の際に話題となったことだが、佐喜真淳とは日本会議に所属する真正右翼である。いや極右であって、保守本流や創価学会・公明党が推せるような代物ではない。一方、「日本青年会議所(JC)」も同様の極右。佐喜真とJC。琴瑟相和する仲。あるいは、腹心の友の間柄。

JCとは何であるか。「日本青年会議所」をウイキペディアで検索するとよい。『「日本商工会議所」、「日本青年団協議会」、「日本青年協議会」、「日本都市青年会議」、あるいは「日本青年社」とは異なります。」との注意があり、編集部からの註が付いていて、「大言壮語的な記述になっています。宣伝広告的であり、中立的な観点で書き直す必要があります」とされているが、それでも「問題となった事件・不祥事」欄に次の件が記載されている。
1998年 旭川女体盛事件
同 年 横浜セクハラ問題
2003年 東京JC日本振興銀行事件
強制わいせつ事件
2006年 八尾JC傷害致死事件
2007年 靖国神社アニメ制作問題
2008年 憲法タウンミーティング運営トラブル
2018年 「宇予くん」問題
批判ブログ著者への圧力
受動喫煙解雇撤回問題

一見して相当にいかがわしい。興味ある方はぜひウイキペディアの本文をお読みいただきたい。とんでもない団体であることがよく分かる。

今年にはいってから問題となった。「宇予くん」問題についてだけウイキペディアの記載を引用しておきたい。
「宇予くん」とは、本年2月、日本青年会議所国家戦略グループの内部組織である「憲法改正推進委員会」が、年初から「宇予くん」と称するキャラクターを用いたTwitterアカウントを運用し、「対左翼を意識し、炎上による拡散も狙う」というコンセプトの元で、関係ない機関・団体への誹謗中傷や品性を欠いた内容ばかり投稿していたとして、外部から批判を受けた。日本青年会議所はTwitterアカウントを削除し、2月28日「不適切だった」として謝罪した。

「宇予くん」とは、「右翼君」の転訛なのだろう。日の丸2本を背負った、いかにも品性と知性を欠いた、右翼っぽい男の子のキャラクター。このことも、リテラが要領よく書いている。以下を参照されたい。

公益社団法人日本青年会議所(通称JC)が、Twitter上で「宇予くん」なるキャラクターを通じ、ネトウヨ丸出しの暴言を連発していたことが発覚した問題。あらためてはっきりしたのは、JCという組織のトンデモぶりだ。
http://lite-ra.com/2018/03/post-3836.html

佐喜真とは、このトンデモJCと蜜月なのだ。お互い、紛れもない改憲右翼。
もちろん、思想は自由である。右翼にも、破廉恥団体との親密者にも、立候補の自由がある。しかし、それを有権者に隠してはならない。正々堂々と、「ワタシは日本会議に属する右翼です」「日本の右翼は、左翼・リベラルの主張の反対を信条としていますから、彼らが辺野古新基地建設反対を言う以上、ワタシは賛成です」「ワタシは、アベ内閣同様アメリカの走狗として甘んじる覚悟ですから、海兵隊もオスプレイも沖縄にいていただいてけっこうです」と正直に言うべきなのだ。

ところが、討論会に出ないとは、自らを有権者の前に曝して、適切な選択をしてもらおうという姿勢ではない。身内には、右翼的姿勢を強調して見せ、一般有権者にはその思想や体質を隠し通そうという邪悪な魂胆。

こういう人物は、民主主義社会における政治家として、そもそもの資質を欠いている。正直・公正に欠けた人物には、用心深く接しなければならない。商品説明の不足を追求せず商品の吟味不十分であったがために、あとになって欠陥住宅をつかまされたり、詐欺商法に泣くことにならぬように。
(2018年9月3日)

アベに対する「政治と行政の私物化」「隠蔽・改竄・口裏合わせ」「説明責任放棄」の批判に躊躇があってはならない。この批判を人格攻撃として封じることを許してはならない。

今年(2018年)9月は、沖縄県内各自治体の選挙の月となった。
「この1カ月間で県知事選挙、宜野湾市、本部町、伊是名村、大宜味村の4首長選挙、那覇、うるま、石垣の3市区の県議会議員補欠選挙、名護市や沖縄市をはじめとする29市町村議会選挙が実施される予定だ。ほぼ毎週選挙の告示、投開票があるという前代未聞の事態となっている。」(琉球新報)

とりわけ、9月30日投開票の沖縄知事選の結果は極めて重要だ。国政にも、アベの改憲策動にも大きく影響する。我がこととして、オール沖縄派候補勝利のために、力を尽くさねばならない。その立場から、このブログでも選挙運動に参加しようと思う。

その重要な沖縄県知事選の10日前に、自民党総裁選がある。こちらは、その結果が「極めて重要」ではない。自民党の総裁選びは、明らかに他人事。アベと石破、どちらの候補にも肩入れするつもりはない。しかし、事実上次期首相を決める選挙なのだから、無関心ではおられない。本日のブログでは、現時点での幾つかの感想を述べておきたい。

石破の総裁選パンフの表紙に大きく「正直、公正、石破茂」の文字。誰が見てもアベの政治姿勢批判である。「ワタクシ・石破茂は正直で公正である」というアピールは、「キミ・安倍晋三は、嘘つきで、アンフェア」という明確なメッセージ。「さあ、総裁選有権者である自民党の皆さま。正直で公正であるワタクシ・石破茂と、嘘つきでアンフェアな安倍晋三のどちらを選びますか」と争点化したのだ。

これに対して、アベ陣営から、「個人攻撃は好ましくない」「個人の人格攻撃は控えるべきだ」との批判が出たとのこと。石破支持を表明している竹下派の吉田博美参院幹事長も「相手への個人的なことでの攻撃は非常に嫌悪感がある」などと述べたと報道されている。私にとっては他人事なのだから、真面目に反論するのも大人げないが大きな違和感を禁じえない。やっぱり、「正直・公正」のアピールは、アベ個人に対する、その人格への攻撃として有効なのだ。党内、だれもが、そう思っている。ここまではよく分かる。

しかし、「安倍氏個人に対する人格攻撃は好ましくない」「個人的なことでの攻撃は非常に嫌悪感がある」はまったく理解できない。対立候補者の個人的資質や政治的活動歴に対する批判の言論は選挙戦の王道である。これを好ましくないと避けては、選挙運動は成り立たない。

ましてや、一対一の選挙戦。政治姿勢のあり方が対決点となるべき政治状況である。有権者の適切な選択を可能とするための、基礎的な情報の提供は不可欠である。互いに、自らの政治姿勢やその実践を語ると同時に、対立候補の政治姿勢やその実践歴を語らずして、いったい何のための選挙なのだ。

言論の自由は、とりわけ政治的言論の分野において議会制民主主義を支える基礎としての重要性をもつ。選挙運動とは、最高度に自由が保障された言論戦でなくてはならない。「ワタシは正直で、キミは嘘つきだ」「ワタシは国民のために公正な政治を行うが、キミは腹心の友のために政治を歪めている」「ワタシは、ガラス張りの政治を行い説明責任を果たしてきたが、キミは不都合を隠蔽し説明するすると言ってしないではないか」。このように彼我の姿勢と行動の比較・対照を訴えるのが、真っ当な選挙戦だ。「お互い、痛いところにはさわらないようにしよう」という馴れ合いは、選挙の体をなさない。

アベは、今回の総裁選に限らず、今後の選挙すべてにおいて、「不正直、不公正」を攻撃されることになる。もっと具体的には、「政治と行政の私物化」「隠蔽・改竄・口裏合わせ」「説明責任の放棄」の批判に曝される。これを、「個人攻撃だから好ましくない」と言ってはぐらかし通すつもりなのか。そんなことでは、自民党を議会制民主主義政党と呼んでよいのか、根幹にかかわる問題ともなる。

こんな分かりきったことなのに、自民党の中で「『正直・公正』は、個人攻撃として好ましくない」という声が出たことの意味には、二通りの理解が可能である。

一つは、アベ陣営の余裕のなさのなせる業との見方。「石破が本気になってアベの不正直・不公正を衝いてこられると相当なアベの痛手となる」「好ましくないとは、そういう意味だ」「どうせ勝てない石破ではないか。せめてアベの面子を潰さないように配慮した方が利口ではないか」「アベ攻撃に手加減の魚心あれば、選挙後にはそれなりの水心が期待できるぞ」という文脈。

もう一つは、石破陣営の高等戦略に乗せられた説。「単に『正直・公正』を掲げるだけではあまりにも平凡にすぎてインパクトに乏しい」「これにアベ派の『正直・公正を政策に掲げるのは怪しからん』というクレームを引き出すことができれば、俄然このキャッチが話題性を帯びることになる」「しめしめ。まんまとうまくことが運んだ」という見方。

吉田博美は、石破陣営にあってアベへの配慮を演じて見せたようで、その実、アベの味方を演じたフリをして、うまうまと『正直・公正』の話題化に成功したというのだ。石破が一時「正直・公正」のフレーズを降ろす可能性を示唆したのも、計算された演出だというのだが、さていかがなものか。

いずれにせよ、石破は「正直、公正」のフレーズを大きな話題にすることに成功し、しかもこれを堅持する方針を固めたのだ。ここまで大きくポイントを稼いだ。一方、「嘘つき・アンフェア」をあらためて印象づけられたアベ陣営は、藪をつついて蛇を出した失態。

なお、石破陣営の主観的意図は知らないが、日本社会全体に「正直、公正」が失われていることが大きな問題となっている。アベに象徴される「不正直・不公正」とこれに伴う「隠蔽・改ざん・口裏合わせ」のダーティーさは、政界にとどまらない。障がい者雇用に見られる官界の「ウソとごまかし」が衝撃だったが、産業界にも、スポーツ界にも、メディアにも、今やウソやごまかしやデマやフェイクがまかり通っている。いま、「正直、公正」の価値は重要で、これを争点とする意味は大きい。

このことに関連して8月28日の「リテラ」の記事を引いておきたい。いつもながら、よく情報を集めて切れ味がよい。「安倍独裁化で首相批判が完全タブーのディストピア」を次のように語っている。

「石破氏の『正直、公正』撤回示唆発言を受けて、Twitter上には「#石破氏の新キャッチフレーズ」なるハッシュタグが登場。これがいわゆる大喜利状態となり、こんな盛り上がりを見せていた…。

「憲法違反はしません!」
「お友だちを優遇しません」
「国民を“こんな人達”と呼びません!」
「強行採決を繰り返しません」
「災害時に宴会はしません」
「自分のフェイスブックへの差別的書き込みを放置しません」
「ネトウヨ作家をNHK経営委員にしません」
「ヤクザに汚れ仕事は依頼しません!!」
「公文書は改竄せずに保存しておきます!」
「聞かれたことに答えます」
「約束を守ります」
「自由と民主主義」

このままではマスコミや市民が「ウソで国民をごまかす政治はやめろ」「えこひいきのない公正な政治を求める」と、民主主義国家としてごく当然ことを言っただけで、誰もが「安倍首相への個人攻撃」なるレッテルを貼られ、政権から弾圧されてしまう。なかにはこんなツイートまで見られた。
〈自由、民主主義、寛容、報道の自由、地方分権、開かれた政治、国民第一、弱者にやさしい政治、格差是正、公金の適正支出、討論・対話重視、誠実、三権分立、権力を私物化しない… ダメだ。何を言っても安倍への個人攻撃になってしまう。〉

まったく、そのとおり。付言することはない。

もう一つ。今や絶好調の「日刊ゲンダイ」の記事(8月27日)も引いておこう。「出馬表明を生中継 “安倍チャンネル”と化したNHKの過剰演出」の見出し。

 いやはや、異常な連携プレーだ。NHKが26日、視察先の鹿児島・垂水市での安倍首相の自民党総裁選への出馬表明を生中継。午後3時45分から緊急番組を組む熱の入れように、安倍首相も視聴者が恥ずかしくなるほどの露骨なカメラ目線で応じた。
 スタジオには“安倍首相べったり”の政治部の岩田明子記者が陣取る鉄壁の布陣である。彼女は「鹿児島での出馬表明は地方創生を重視する姿勢を打ち出すため」「今年は明治維新から150年。明治維新ゆかりの地、鹿児島を(出馬表明の)発信の地とすることで“新しい国づくり”への意欲を示す狙いもあったのかと思う」などと解説。安倍首相の出馬表明が5分足らずだっただけに、言い足りない部分をしっかりフォローし、政権のスポークスマンとしての役目を十分に理解しているかのようだった。

 今や「皆様」ではなく、「アベ様」のNHKに成り果てている。NHKの不気味なまでの“安倍チャンネル化”は、鳥肌が立つほどである。

同様の違和感を金平茂紀も述べている。昨日(9月1日)の毎日新聞「週刊テレビ評」欄での、「総裁選出馬の緊急特番への違和感 首相と党総裁は別の職務」というNHK批判の記事。

NHKのアベのための「総裁選出馬緊急特番」記事に、ことさらに「安倍総理大臣は…」と繰り返していたことを問題視し、「安易に首相と党総裁の呼称をまぜこぜにして用いることは公正ではない」と指摘した上、自民党の総裁選挙管理委員会が新聞・通信各社に対して総裁選挙について、「公正・公平な報道」を求める文書を配布したことを問題視している。

金平は、「こんな文書を一政党のトップ選びで配布すること自体が問題」とする。これが8月28日のこと、見方によっては、NHKが安倍出馬特番を放送したのを見越してからの申し入れ。この選管は、NHKには抗議の一つもしてはいない。

露骨にアベと結ぶNHK。あるいはNHK政治部。ここにも、「正直・公正」が欠けているのだ。
(2018年9月2日)

9月1日は、「国恥の日」。

敗戦と平和を考える8月が去って、9月になった。本日は、個人的に「国恥の日」と名付ける9月1日。1923年の今日、関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲った。死者10万5千余といわれる、その甚大な被害はいたましい限りだが、震災は恥とも罪とも無縁である。3・11津波の被害を「天罰」と言った愚かで無責任な都知事がいたが、この言こそ不見識の極み。自然災害自体に可非難性はない。

私が「国民的恥辱」「日本人として恥を知るべき」というのは、震災後の混乱のなかで日本人民衆の手によって行われた、在日朝鮮人に対する大量集団虐殺である。これは、まぎれもなく犯罪であり刑罰に値する行為。人倫に反すること著しい。その事実から目を背け、まともに責任を追求しようとせず、反省も、謝罪もしないままに95年を徒過したことを「国恥」といわざるを得ない。そして、今なお、この事実に正面から向き合おうとしない日本社会の排外主義容認を「国恥」というのだ。

もちろん、日本の歴史に真摯に向き合おうという日本人も少なくない。日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺した事実を直視し、自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと願う人々。

そのような思いの人々が、毎年9月1日に、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑前で、「朝鮮人犠牲者追悼式典」を開催している。今年も行われた、本日11時からの式典に参加した。多くの友人に遭って、挨拶を交わした。

「おや小竹さん、沖縄へお出かけと聞いていました。お忙しいのにご苦労様です」「忙しいんだけれど、小池都知事のあの態度でしょう。無理しても出席しなけりゃいけないと思ってね」こういう会話が多かった。

あの石原慎太郎でさえ、この式典には都知事としての追悼文を寄せていたのだ。ところが、小池百合子は昨年から敢えて朝鮮人犠牲者に対する追悼文の送付を中止した。歴史に向き合うことをせず、反省などするものか、という姿勢と批判されてもやむを得まい。今年も追悼文なしと報道されて、その都知事の姿勢への批判の高まりを反映して、追悼式参加者数は、昨年を大きく上回る700人に上った。メディアの取材もかつてなく規模が大きかった。

今年の式典での追悼の辞で特徴的だったのは、やはり小池知事の姿勢への批判。そして、朝鮮半島情勢変化の兆しの中で排外主義や民族差別を克服していこうという呼びかけ。参加者の真剣さを反映してか、いつにもまして感動的な追悼集会だった。

ところで、関東震災後の朝鮮人虐殺には、軍と警察が深く関わっていたことが広く知られている。軍と警察が民衆を煽った責任のあることは論を待たない。しかし、恐るべきことは、自警団という名の民衆が武装し、積極的に朝鮮人狩をして、無抵抗の人々を集団で撲殺し刺殺し縛って川に投げ込むなどの蛮行におよんだことである。特殊な右翼思想集団や狂信的国粋主義者の犯罪ということではない。犯罪者集団や犯罪傾向をもった集団が、殺人・傷害に走ったということでもない。平凡な普通の日本人民衆が、残虐な殺人・傷害を重ねたのだ。

関東一円に無数にできた自警団とは、町内会や自治会であり商店会にほかならない。ごく普通の地域住民がそのメンバーであった。つまりは、おぞましい集団虐殺の実行犯は私たちの父祖自身なのだ。なぜこんなことを起こしたのか。正確に知り、記憶しなければならない。そのための、「国恥の日」である。

この点に関して、東京新聞8月29日夕刊文化欄「大波小波」というコラムに、「『千田是也』の名の由来」という記事が出ている。これに、知人が「千田是也のペンネームの由来が、千駄ヶ谷で朝鮮人に間違えられて虐殺されそうになった。という話は聞いたことがありましたが、千田是也が虐殺側の人間だったという事は知りませんでした」とコメントを寄せてきた。

同コラムは、「 劇団燐光群公演『九月、東京の路上で』(坂手洋二作・演出、今月5日まで)は、今の路上に溢れるヘイトと分断の禍々しい声から、95年前の朝鮮人虐殺という惨劇を黒々と呼び起こしてみせた。」と始まるが、中に次の記述がある。

「演劇人・千田是也の名が、震災直後の千駄ヶ谷で朝鮮人(コリアン)に間違えられ殺されそうになった体験に由来するのはよく知られている。ただし千田はそのとき、武器を持ち朝鮮人を求めて走っていた。千田は被害者になりかかった加害者だったのである。」

なんとなく、朝鮮人狩や集団虐殺に踊らされたのは「無知な大衆」であって、知識階級は別だ、という思い込みがありはしないだろうか。多くの学者や文人が、そのような目でこの事件を語っている印象がある。しかし、千田是也までが実はそのとき、「武器を持ち朝鮮人を求めて走っていた」となれば、事態はより深刻といわねばならない。

これについては、千田自身が書いた、詳細な手記が残されている。「潮」1971年9月号の『日本人100人の証言と告白』に掲載のものだという。千田の正直さと、問題の深刻さを教えられる。

「私のセンダ・コレヤという芸名の由来である(千駄ヶ谷をとって“千田” 朝鮮人つまりコーリアンをもじって“是也”というわけである)千駄ヶ谷で朝鮮人に間違えられて殺されそうになった事件の起きたのは、大震災の二日目の晩だったとおぼえている。
 町々の炎が夜空を真っ赤にそめ、ときどきガソリンや火薬の爆発する無気味な音が聞こえ、余震が繰り返され、担架や荷車に乗せた負傷者たちの行列がつづく状況のなかで聞くと、朝鮮人が日ごろの恨みで大挙して日本人を襲撃しているとか、無政府主義者や社会主義者が井戸に毒を投げ込んだり、通り端で避難民に毒まんじゅうを配ったりしているとかいうバカバカしいデマが、いかにもほんとうらしく思えてくる。また、別な方面からの情報によれば、軍は目下、多摩川べりに散開して神奈川方面から北上中の強力な不逞鮮人集団と交戦中だという。
 そこで私も勇みたって、二階の長持ちの底から先祖伝来の短刀を持ち出して、いつでも外から取れるように便所の小窓のかげにかくし、登山ヅエを持ってお向かいの息子さんといっしょに家の前の警備についた。
 そのうち、ただ便々と待っているのも気がきかぬ気がして、敵情偵察かなにかのつもりで、千駄ヶ谷の駅にちかい線路の土手をのぼって行くと、後ろのほうで「鮮人だ、鮮人だ!」という叫びが聞こえた。ふりかえると、明治神宮の、当時はまだ原っぱだった外苑道路のヤミのなかを、幾つもの提灯が近づいてくるのが見えた。それを私はてっきり「不逞鮮人」をこっちへ追ってくるものと思い込んで、はさみ打ちにしてやろうと、そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向き直ると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア!」と叫んでいる。
 登山ヅエを構えて後ずさりしたら「違うよ!違いますったら」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振り回しながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。
 そのうち、提灯たちが集まってきて、ぐるりと私たちを取り巻いた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅の前に住む白系ロシア人の羅紗ラシャ売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私のほうは、そうもいかない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹ヤリだのマキ割りだのを持った、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が「ちくしょう白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」と私をこずきまわすのである。「いえ日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。このとおり早稲田の学生です」と学生証を見せても、いっこう聞き入れない。
 そして、マキ割りを私の頭の上に握りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが、歴代天皇名をいえというのにはよわった。どうせ、この連中だってよく知っていまいと度胸をすえ、できるだけゆっくりと「ジンム、スイゼイ、アンネー、イトク、コーショー、コーアン、コーレイ、カイカ、スージン、スイニン、ケーコー、セイム、チューアイ……」
 もうその先は出てきそうもなくなったとき、ありがたいことに、誰かが後ろのほうから、「なぁんだ、伊藤さんのお坊っちゃんじぁねぇか、だいじょうぶです。この人なら知っています」といってくれた。近所の酒屋の若い衆である。すると、もう一人「そうだ、伊藤君だ」と青年団の服を着た男が前に出てきた。これは千駄ヶ谷教会の日曜学校にかよっていたころの友だちだった。
 私の場合のようにこうあっけなくすんでしまえば、ただのお笑いぐさだが、あの朝鮮人騒ぎではずいぶんたくさんの何の罪もない朝鮮人が殺された。朝鮮人に似ているというだけで――もともと大した区別はないのだから、その場の行きがかりで、ただ朝鮮人と思い込まれたというだけで多くの日本人が殺されたり、負傷したりした。いま思えば、あれは、ナチスのユダヤ狩りと同じように、震災で焼け出され、裸にされた大衆の支配層に対する不満や怒りを、民族的敵対感情にすり替えようとした政府や軍部の謀略だったのだろう。
 それにしても、私は一方的に被害者だったかのような事件の顛末であったが、その私自身も自警団のマネをして加害者たらんとした気持ちを動かしたのである。このときの経験から、朝鮮問題はあちらの立ち場からの把握、理解をすることがいかに大切であるか、つくづくと思い知ったのである。(同氏の文章と談話をまとめた)」

改めて、日本人の中にある差別や排外主義の根深さを痛感するとともに、それを克服するために、「朝鮮問題は、あちらの立ち場からの把握、理解をすることがいかに大切であるか」を実践しなければならないと思う。ことあるごとに、繰りかえし、辛い歴史を見つめ直し、語り継がねばならない。今日、9月1日はそのための「国恥の日」である。
(2018年9月1日)

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