澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

第90回メーデーの日に新天皇即位。私は祝わない ― 祝意の押しつけはごめんだ。

5月1日。労働者の祭典メーデーである。
代々木公園・中央メーデー会場の足場はぬかるんでいたが、空は明るく晴れわたって初夏の陽射しがまぶしかった。風のさわやかな気持ちのよいメーデー日和。その後、天候は崩れて夕刻には雨となったが、天は労働者に味方したかのよう。

会場入り口で手渡された、ミニポスターには、
「8時間働いて暮らせる賃金・労働条件を」を、という切実なもの。これが、一番の要求なのだろう。均等待遇要求」という手作りのプラカードを持った人とすれ違う。今の、労働環境をよく物語っている。

メインスローガンは、以下のとおりだ。

安倍9条改憲反対 戦争法廃止!
市民と野党の共闘で安倍政権退陣を

許すな!裁量労働制の拡大、高度プロフェッショナル制度。
8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立。
なくせ貧困と格差。大幅賃上げ・底上げで景気回復、地域活性化
めざせ最賃1500円、全国一律最賃制の実現。

消費税10%増税の中止。年金・医療・介護など社会保障制度の拡充。
安倍「教育再生」反対
被災者の生活と生業を支える復興。
原発ゼロ・再生可能エネルギーへの転換

軍事費削って、くらしと福祉・教育・防災にまわせ。
STOP!戦争する国づくり。辺野古の新基地建設反対 
オスプレイの全国配備撤回。核兵器禁止条約の批准を

まずは、「安倍9条改憲反対」。そのための、「市民と野党の共闘で安倍政権退陣を」が、トップのスローガン。最初の挨拶が、市民連合を代表する広渡清吾さん。野党共闘の成否を握る要石の立場にある。

私が、はじめてメーデーに参加したのは、1962年大学生になりたてのころ。級友に誘われてのことだった。なるほど、「労働者階級」というものは、単なる観念ではなく、実在するのだ。と、強烈な印象を受けた。このとき、宣伝カーの上からの、野坂参三の演説を聴いた。闘士然としたタイプではなく、諄々と理を説く穏やかな好感の持てる人だった。参院選間近だったはずだが、私には選挙権はなかった。

最近メーデーにはご無沙汰だったが、今年は、久しぶりに参加しようと決めていた。政権が5月1日に、新天皇の即位の日をぶつけてきたからだ。

5月1日には、「赤旗」がふさわしい。しかし、政府はこの日に、「日の丸」を掲揚して、祝意を表明せよという。何しろ、「赤旗」を振るような国民は、統治の対象として面倒この上ない輩。これに反して、「日の丸」を掲揚して天皇の権威を受容する国民とは、この上なく統治しやすい権威に弱い国民なのだから。先月(4月)2日に、こんな閣議決定をして、全府省に通達した。

?平成31年4月2日閣議決定

御即位当日における祝意奉表について

御即位当日(5月1日)、祝意を表するため、各府省においては、下記の措置をとるものとする。

1 国旗を掲揚すること。
2 地方公共団体に対しても、国旗を掲揚するよう協力方を要望すること。
3 地方公共団体以外の公署、学校、会社、その他一般においても、国旗を掲揚するよう協力方を要望すること。

以上の第1項が、内閣からその直接の管轄下にある各国家機関への指示であり、第2項が直接には命令権がない地方公共団体に対しての「要望」であり、第3項が「国家機関・地方公共団体以外のその他一般」に要望せよという指示である。

これを受けて、文科省は4月2日、藤原誠事務次官名で、全国の教育委員会はじめ所管の教育機関に「日の丸」掲揚を求める通知を出した。が、それにとどまらない。

文科省は、さらに4月22日、永山賀久初等中等教育局長名で、全国の教育委員会に、天皇退位と皇太子即位に際しての「学校における児童生徒への指導について」とする通知を発出した。「天皇代替わり“祝意の意義理解させよ”」というのだ。閣議決定における指示は、「国旗掲揚して祝意を表明せよ」にとどまるが、文科省通知は、国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにすることが適当と思われますので、あわせてよろしく御配慮願います」としている。

「天皇退位と皇太子の即位について、何ゆえに祝意を表明すべきことであるのか、児童・生徒にその意義を理解させよ」というのである。これは、至難の技といわねばならない。何がめでたいのか、実は誰にも分かってはいないのだから。

人と人との関係において、けっして強制になじまないもの、強制してはならないものがいくつもある。まず、愛情を強制することはできない。「私を愛せ」という強制があり得ないことは分りやすい。「私を尊敬せよ」「私に敬意を表せよ」も噴飯物だ。愛も尊敬も、自ずから湧いてくる全人格的評価であって、強制にはなじまないのだ。まったく同じく、「国を愛せ」も、「民族を愛せ」も、そして、「天皇を愛せ」も噴飯物なのだ。愛国心の強制は、面従させることはできても、それは飽くまで腹背を伴ってのものでしかない。

祝意も弔意も、個人の自然な感情の表出である。これも強制になじまないし、また強制してはならない。クリスマスは、キリスト教徒にとっては聖なる祝日であろうが、他宗の徒には他の364日と変わらない。ユダヤ教の過ぎ越しの祭も、日蓮宗のお会式も、縁なき衆生にとっては目出度くもなんともない。

多様な日本人や国民を一括りにして祝意の強制など、あってはならない。ましてや、公権力が主体となって、天皇代替わりの祝意の要請など、とんでもない。国民の中には、その信仰や歴史観において、天皇を受け入れがたいとする心情をもつ人が少なからず存在する。これを無視して、新天皇即位の祝意を強制することは、日本国憲法の根幹の原理を侵害することとしてけっして許されることではない。

本日、外出して目についた限りだが、「日の丸」を掲揚しているのは、警察署と交番だけ。メディアが演出している、祝賀の雰囲気は、庶民の生活とは無関係のようだ。

目についた違和感は、本日(5月1日)の「赤旗」。一面の題字の横に、本日の西暦表記とならべて、新元号を()の中に表記している。元号の変わり目が、元号表記をやめるチャンスだったろうに、残念。

そして、小さな次の短い記事がある。
「日本共産党の志位和夫委員長は、次の談話を発表しました。
 ◇
 新天皇の即位に祝意を表します。
 象徴天皇として、新天皇が日本国憲法の精神を尊重し擁護することを期待します。」

えっ? 共産党も新天皇即位に「祝意」? やれやれ。

(2019年5月1日)

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