あるところにな、
強欲で嘘つきの殿様がござらしゃった。
この殿様がたいへんなお方でな、
オオヤケとワタクシと
公金とご自分のお金との区別がつかなんだ。
人の悪口は繰り返すのじゃが、
悪口言われるのは、極端におきらいでな。
そのうえ、みんなで寄り合って作った決めごとを平気で破るお人でな。
うっとうしい決めごとは、自分で作りかえると頑固でな。
この殿様を尊敬するひとは一人としておらなんだ。
みんなが、ヘンなお人と思っておったんじゃ。
じゃがな、殿様は殿様だ。
逆らうと、なにをされるか恐ろしい
うんといじめられるやも知れんじゃろ。
だから、諫めるお人がそばにはおらんじゃった。
それで、この殿様、自分が一番えらくて、
なんでも自分の思うとおりになると思い上がっていらっしゃってな。
何をしても、領民みんなが、ご自分を忖度してくれるものと
本当に信じ込んでおられたご様子で、
だんだんとみんなが、本当に困ったお人と見られていたな。
その殿様にも参勤交代があってな、
領国の領民たちを江戸に呼び出してな。
盛大に花見だの、酒盛りなどやったんじゃそうな。
そのためにな、江戸のお城の近くに、
2軒の大きな宿屋があっての。
このお殿様は交互につかっておった。
一軒は、昔相撲取りだったお人がはじめた宿で、
もう一軒は、なんでも外つ国のお宿とかいうことじゃった。
殿様は、一年ごとにこのふたつの宿を交互に使っておったが、
ある年の桜の満開の頃よ。
領民たちを800人も呼び集めてな、
安い値段で、飲み食いさせたんじゃ。
ところが、これが将軍家のご法度に引っかかった。
安い値段で、飲み食いさせてはいかんのだ。
そこで、この殿様はこう言った。
「ワシが飲み食いさせたわけではない。
みんなが勝手に宿屋と契約したではないか」
こんな風に口裏を合わせたのじゃな。
宿屋の一軒は、これでおさまった。
なにせ客商売。上得意の殿様に、逆らうわけには行かない
とまあ、そう考えた。
ところが、もう一軒は、口裏を合わせには加わらなかった。
「殿様のいうとおりではございません」と言ったんじゃ。
殿様は青くなった。
「ワシのウソがバレちゃった。」
殿様の取り巻きは怒った振りをして見せた。
「もう2度とあの宿は使わない」
だけど、江戸っ子はヤンヤの喝采だ。
「たいしたもんだよ」
「スッキリしたぜ」
「あの殿様に負けずに筋を通すなんてね」
「一寸の虫にも五分の魂だよね」
「これからは贔屓にするぜ」
忖度した宿屋と、忖度なしの宿屋。
さて、短い目でどっちがどうなる?
長い目ではどうなりますやら?
(2020年2月19日)
昨日(2月17日)の衆院予算委員会質疑は苦しかった。ホテルニューオータニの方は、事前に丸め込んでおいたから、まあ、何とかボロを取り繕ってここまできたが、ANAインターコンチネンタルには十分な手当をしてこなかった。手薄のところから手痛い一撃。虚を突かれて嘘がばれちゃった。私が、「書面はないが、内閣総理大臣として責任をもって答弁している」なんて恰好つけて、我ながら、みっともないったらありゃあしない。
立憲民主の黒岩宇洋議員を「嘘つき」呼ばわりし、「人間としてどうなのかな」とまで言ってきたのに、全部自分に返ってきちゃった。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
問題は、2019年の「桜を見る会」前日の「前夜祭」だったはず。ホテルニューオータニと久兵衛は話が分かる。ところが、ANAインターコンチネンタルは、堅物の朴念仁だった。これが計算外。
17日の午前中には、辻元清美から、ANAホテルからの回答メールを突きつけられた。2013年以降に同ホテルで開かれたパーティーについて、「明細書を主催者に発行しないケースはない」「政治家だから例外としたことはない」などと、はっきりとしたものだ。だから困った。
午後の関連質疑では、少々不安だったが、強気で行くしかなかった。「安倍事務所がホテル側に問い合わせたところ、辻元氏への回答は一般論で、個別の案件については営業の秘密に関わるため、回答に含まれていないとのことだ」と答弁した。何とかこれで切り抜けたかと思ったら、その日の内に、朝日と毎日が余計なことをした。ANAホテルに問合せをしたというんだ。私を窮地に陥れようという、新聞社も新聞社だが、ホテルもホテルだ。新聞社の取材にまたまたメールで回答したのだという。内閣総理大臣の私に忖度なしだ。
「直接(首相側と)話をした者が『一般論として答えた』という説明をしたが、例外があったとはお答えしていない。私共が『個別の案件については、営業の秘密にかかわるため回答に含まれていない』と申し上げた事実はない」と、これはまたはっきりした言い分。「弊ホテルとしては、主催者に対して明細書を提示しないケースはないため、例外はないと理解している」とまで書いてあったそうではないか。これじゃ、かたなしだ。私が嘘つきだとバレちゃった。
安倍事務所がオータニの広報部長ら二人を議員会館に呼び出したのが、昨年11月15日のことだ。ここで、公職選挙法・政治資金規正法の違反を免れるスキームを作ったはずだ。安倍後援会・安倍事務所は契約の主体じゃない。参加者一人ひとりが契約主体で、会費は5000円と確認した。この報告を受けて、私はその日に安心してぶら下がり会見をやった。
さらに、産経が「銀座久兵衛」を取材して、「桜を見る会」前日の後援会夕食会には、「うちの寿司は出していない。報道は間違いだ」とする記事を書いたのは、その日の深夜のことだ。これで、防戦できるかと思っていた。
ところが昨日以来、明らかに私の方の旗色が悪くなった。ニューオータニも久兵衛も、サービス業の常道として、客の顔を立ててくれている。どうして、ANAは、ああ頑なにホントのことを言っちゃうんだろう。忖度もサービスのうちじゃないか。もう、安倍政権に尻尾を振っても商売にはならないということなのか。それとも、ホテルマンにも矜持があるということなのかね。プライドなんて、商売にならないのにだ。
しょうがない。また、もう一本、尻尾を切ることにするか。
(2020年2月18日)
「自己実現する予言」あるいは「予言の自己成就」という社会学上の概念がある。社会に発信されなければ実現するはずのない「予言」が、多くの人に共有され、多くの人の確信になることによって、その予言が成就する現象を言う。
今年(2020年)は十二支の始まりの子年(ねどし)である。「子年には政権交代が起こる」は、根拠のない単なるジンクスに過ぎない。しかし、このジンクスが、多くの人に語られ共有され、「子年なのだから、今年はきっと政権交代が起こる」とみんなが思うようになれば、安倍政権が崩壊することも起こりうる。
毎日新聞のネット版「デジタル毎日」に、『政治プレミア』というサイトがある。なかなかの充実ぶりで、読み応えがある。
https://mainichi.jp/premier/politics/
昨日(2月16日)、そのサイトに『荒れる子年 起きるか安倍退陣と奪権闘争』という記事がアップされた。筆者は、中川佳昭・編集委員。このタイトルだから、目を通さずにはおられない。
子年は12年に1度やって来るが、必ず「荒れる」年になるという。戦後の子年は今年で7回目となるが、これまで「戦後の子年は例外なく、内閣の交代、奪権闘争が起きている。」のだそうだ。その記事によると次のとおりである。
1948年=芦田均内閣→第2次吉田茂内閣、
1960年=第2次岸信介内閣→第1次池田勇人内閣、
1972年=第3次佐藤栄作内閣→第1次田中角栄内閣、
1984年=第2次中曽根康弘内閣下での二階堂進自民党副総裁擁立未遂、
1996年=村山富市内閣→橋本龍太郎内閣、
2008年=福田康夫内閣→麻生太郎内閣
なるほど、確かに、「子年は荒れる」「子年には政変が起きる確率が限りなく高い」。さて、今年はどうなるのであろうか。
このネット記事の中で、過去の子年政変の典型である「岸→池田の1960年」を振り返るところが興味深い。
1960年、岸首相は国民的反対の強かった安保改定をやり終え、退陣する。…退陣した岸は池田、そして弟の佐藤が自分の亜流として、岸がなし得なかった憲法改正を実現してくれるだろうと期待していた。ところが池田は側近の前尾繁三郎や大平、宮沢喜一らの進言で「寛容と忍耐」をキャッチフレーズに打ち出し、憲法改正など見向きもしなかった。佐藤栄作は池田の後、1964年に首相になり、7年8カ月の長期政権を打ち立てるが、「沖縄返還」一色で、憲法改正を完全にお蔵入りにしてしまった。
「岸信介証言録」(毎日新聞社、2003年)に、次の岸の発言があるという。
「もういっぺん私が総理になってだ、憲法改正を政府としてやるんだという方針を打ち出したいと考えたんです。池田および私の弟(佐藤)が『憲法はもはや定着しつつあるから改正はやらん』というようなことを言っていたんでね。私が戦後の政界に復帰したのは、日本立て直しの上において憲法改正がいかに必要かということを痛感しておったためなんです」
これを踏まえて、中川編集委員はこう言う。
「60年政権移動によって生み出された岸の欲求不満。60年たった2020年今日、首相返り咲きを果たし、今年8月には佐藤の連続在任記録を抜き、名実ともに首相在任最長となる安倍氏にしっかり受け継がれている。」
この記事の基調に同感である。保守ないし自民党も、一色ではない。一方に、「憲法はもはや定着しつつあるから改正はやらん」という勢力があり、もう一方に「日本立て直しの上において憲法改正がいかに必要か」を強調する勢力がある。
池田・佐藤・前尾・大平・宮沢らが前者で、岸と安倍とが後者である。2020年子年の政変は、保守から革新への政権移行でなくてもよい。せめては、「積極改憲保守」から「改憲はやらん保守」への政権移行でよいのだ。
「子年だから政変が起こる」「子年の政変を起こそう」と言い続けることによって、これを「自己成就」させたいものである。
(2020年2月16日)
去る1月10日、NHK経営委員会に赴き、「新体制のNHK経営委員会に対する意見と質問」書を提出してきた。同書面は、同日付けの当ブログに掲載した。当然に、深い反省が求められる新体制のNHK経営委員会に、反省の姿勢が見られないのではないか、という危惧にもとづいてのことである。
「クローズアップ現代+」の制作フタッフは、郵政グループによるかんぽ生命不正販売の事実を生々しく暴いた。これを日本郵政の上級副社長鈴木康雄が、元総務次官の肩書にものを言わせてもみ消しに動いた。情けないことに、NHK経営委員会がこれに同調し、NHK会長がこれに屈した。この事件の後、かんぽ生命不正販売の事実は「クロ現+」の報道の通りであったことが確認され、2019年暮れに、日本郵政グル―プ3社の社長が引責辞任することとなり、更に鈴木康雄の辞任も発表された。また、NHK経営委員会も、石原経営委員長から森下俊三新委員長に交替した。この新体制の真摯な反省の有無が問題なのだ。
この質問に対して、1月29日付で、「回答」が寄せられた。しかし、その形式も内容も、およそ「回答」の名に値するものてははない。具体的な質問項目には「無回答」。「不真面目、不誠実な貴委員会の態度に失望と憤りを感じざるを得ません」と再質問せざるを得ない内容である。国会における安倍首相のはぐらかし答弁を彷彿とさせるもの。
昨日(2月15日)付で、あらためて最質問書を提出した。われわれは、主権者国民や視聴者を代表して、NHK経営委員会にその姿勢を問い、質問をしている。是非とも、誠実にこれに答えていただきたいと思う。公共放送事業の健全性は、国民の知る権利にも、日本の民主主義にも関わる重大問題なのだから。
以下に、本年1月10日付「質問書」、同月29日付「回答」、2月15日付「最質問書」を各掲載する。
なお、私は、「経営」と「制作」の分離は当然と考えている。分離とは、「制作」が「経営」の意向を気にすることなく、思う存分活動できること。そのためには、「経営」は、外部から制作への圧力を受けとめる防波堤でなければならない。
NHKにおけるコンプライアンスとは憲法と一体となった放送法の理念を忠実に守って、国民の知る権利に奉仕すること。ガバナンスとは、そのために必要な制度の運営に幹部が責任を果すべきことにほかならない。上命下服の経営秩序をコンプライアンスと言い、あるいはガバナンスと言って現場を締めつけているのなら、明らかに、そんなものはメディア本来のありかたには有害というしかない。
**************************************************************************
2020年1月10日
NHK経営委員長 森下俊三 様
同経営委員各位
「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える
11. 5 シンポジウム」実行委員会
世話人:小林 緑(国立音楽大学名誉教授・元NHK経営委員)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐 聰(東京大学名誉教授・「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)/田島泰彦(早稲田大学非常勤講師・元上智大学教授)/皆川 学(元NHKプロデューサー)
新体制のNHK経営委員会に対する意見と質問
2019年12月27日、日本郵政グル―プ三社長が引責辞任し、更に鈴木康雄日本郵政上級副社長の辞任も発表されました。私たちは、鈴木副社長がNHK「クローズアップ現代+」の「かんぽ不正問題」続編放送に対し不当な圧力を掛け続けたことを批判してきましたが、それとともにNHK経営委員会が、副社長の「かんぽ不正」もみ消しに加担した責任は重いと考えます。
ところが、2018年9月25日、鈴木副社長と面会し、日本郵政からの抗議を経営委員会に取り次ぐなど続編の放送中止に加担した森下俊三氏が、あろうことか新しい経営委員長に選ばれました。しかも森下氏は、反省するどころか、今なお筋違いな「ガバナンス論」を盾に、上田NHK会長への厳重注意を正当化し続けています。森下氏は、12月24日の経営委員長就任記者会見で、次のように発言しました。「現場が”経営と制作は分離している”と認識しているとしたら、ガバナンス上の大変な問題である」。私たちはこの発言は重大な誤りであり、NHK経営委員長としての資格に欠けた認識であると考えます。
以下、私たちの見解を述べ、貴職と経営委員会の回答を求めます。
別の市民団体が2019年10月15日に、石原NHK経営委員長(当時。以下、同じ)、森下委員長職務代行者(同上)、経営委員各位に提出した質問書、「日本郵政によるNHKの番組制作への介入に係る経営委員会の対応に関する質問」に対して、石原経営委員長と貴委員会は10月29日、回答をされました。そこでは、経営委員会は、NHKの自主自律を損なった事実はないとして、次のように表明されています。
「去年9月25日に森下委員長職務代行者が鈴木副社長と面会した後、経営委員会は、昨年10月に郵政3社から書状を受理し、10月9日、23日に経営委員で情報共有および意見交換を行った結果、経営委員会の総意として、ガバナンスの観点から、会長に注意を申し入れました。 なお、放送法第32条の規定のとおり、経営委員会が番組の編集に関与できないことは十分認識しており、自主自律や番組の編集の自由を損なう事実はございません。」
この回答に対する私たちの見解は以下のとおりです。
森下職務代行者は、日本郵政三社の社長が連名で経営委員会あてに文書を送った10日前に日本郵政鈴木康雄上級副社長と個別に面会し、NHKへの不信を聞き取り、正式に経営委員会に申し入れるよう伝えたとされています。こうした行為は、経営委員が、自社商品の不正販売が社会的に大きな問題となり、当該問題を取り上げたNHK番組の取材対象となった法人の首脳と非公式に面会し、そこで聞き取ったクレームを経営委員会に取り次ぎ、続編の放送計画に影響を与えた行為ですから、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることはない」と定めた「放送法」第3条に抵触します。また、NHKの全役職員は「放送の自主・自律の堅持が信頼される公共放送の生命線であるとの認識に基づき、全ての業務にあたる」と定めた「NHK放送ガイドライン2015」に明確に違反しています。
「ガバナンスの観点」とは、当初当該番組幹部が郵政に出向いて「番組制作と経営は分離し、会長は番組制作に関与しない」と発言したことを批判してのことと思われますが、放送法第51条は、「会長は協会を代表し、・・・業務を総理する」とあって、これはいわゆる「編集権」が意味する番組内容に関する決定権が会長にあることは意味していません。実際の業務の運営は、放送総局長に分掌され、その上で個別の番組については、番組担当セクションが責任を持って取材・編集に当たっています。
「経営と制作の分離」とは、個別の番組に対して経営者が介入し、政治的判断でゆがめることのないよう、長い言論の歴史の中で培われてきた不文律で、一部の独裁的国家を除いて、世界のジャーナリズムではスタンダードのシステムです。経営委員会が放送法で個別番組への介入を禁じられているのも同様の所以です。
森下俊三新経営委員長は、職務代行者時代、「ガバナンスの強化」を理由とすれば、行政や企業が経営委員会を通して放送に介入できる回路を作ってしまいました。また経営委員会は「総意」としてそれを追認してしまいました、「コンプライアンスの徹底」が求められるのは、経営委員会自身だと考えます。そこで質問です。
[質問―1] 今後も、個別の番組について、「ガバナンスの問題」として申し入れることはあり得ますか?
[質問―2] 森下氏は、経営委員会の席上で、「ネットで情報を集める取材方法がそもそもおかしい。非はNHKにある」と発言しました。しかし、ネットで情報提供を呼び掛けることは「オープンジャーナリズム」の名で放送業界では広く定着している手法です。森下氏は今も「非はNHKにある」と考えていますか。
また、取材も番組編集の一環ですから、上記のような森下氏の言動は、「放送法」が禁じたNHKの番組編集への経営委員の干渉に当たると私たちは考えます。森下氏の見解をお聞かせ下さい。
[質問―3] 今回経営委員として異例ともいえる三選をされた長谷川三千子氏は、「2012年安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」の代表幹事に名前を連ね、経営委員就任時に自らを「安倍氏の応援団」と公言されました。政治的公平が求められる経営委員として、真に適格性があるとお考えですか。
「経営委員会委員の服務に関する準則」は不偏不党の立場に立つことを謳い(第2条)、「経営委員会委員は、日本放送協会の信用を損なうような行為をしてはならない」(第5条)と定めていますが、上記のような発言を公開の場で行うのはNHKの不偏不党、政治からの自律に対する視聴者の信頼を失墜させるものだと私たちは考えます。長谷川委員の見解をお聞かせ下さい。
以上の質問に別紙住所宛に、1月23日までに各項目に沿ってご回答下さるようお願いします。誠実な回答をお待ちします。
以上
**************************************************************************
2020年1月29日
貴会より、経営委員長、経営委員宛てにいただいた質問書に対し、森下経営委員長の指示を受け、以下のとおり回答させていただきます。
本件は、郵政3社からの書状に、「クローズアップ現代+」のチーフ・プロデューサーの発言として「番組制作と経営は分離しているため番組制作について会長は関与しない」とあり、ガバナンスの問題についての指摘があったため、あくまでガバナンスの問題として検討、対応したものです。放送法32条の規定のとおり、経営委員会が番組の編集に関与できないことは十分認識しており、自主自律や番組の編集の自由を損なう事実はありません。
なお、経営委員は、放送法31条で、「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ」ることが、その資質として求められており、経営委員会は、放送が公正、不偏不党な立場に立って国民文化の向上と健全な民主主義の発達に資するべきであるという考えにおいて一致しており、各委員ともさまざまな課題に対して、公正に判断していると認識しております。
以上
日本放送協会経営委員会事務局
**************************************************************************
2020年2月15日
NHK経営委員長 森下俊三 様
同経営委員各位
「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える
11. 5 シンポジウム」実行委員会
世話人:小林 緑(国立音楽大学名誉教授・元NHK経営委員)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐 聰(東京大学名誉教授・「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)/田島泰彦(早稲田大学非常勤講師・元上智大学教授)/皆川 学(元NHKプロデューサー)
1月29日回答への私たちの意見表明と再質問
1月29日付けの貴委員会からの回答を拝見しましたが、私たちが提出した3項目の質問には「無回答」です。こうした不真面目、不誠実な貴委員会の態度に失望と憤りを感じざるを得ません。
私たちは、1月10日付の「意見と質問」で、「経営と番組制作の分離」は、長い言論の歴史の中で培われてきた不文律で、世界のジャーナリズムではスタンダードの原理であることを指摘しました。さらに、貴委員会が「ガバナンスの強化」を理由に「制作」に介入できる前例を作ったことを批判しました。
ところが貴委員会の回答では、「経営と制作の分離」原則は認めていながら、貴委員会の森下職務代行者(当時)が、「クローズアップ現代+」の取材対象者である日本郵政副社長(当時)の鈴木康雄副社長の求めに応じて同氏と個別に面会し、鈴木氏の意向を取り次いで、当該放送番組の続編放送の見合わせを図った行為に対して、「ガバナンスの問題として検討、対応したもの」と論点をすり替えています。これは「ガバナンス」を口実にした制作現場への介入行為を追認したものです。
私たちは、現実に起きた続編番組の「放送見合わせ」が、貴経営委員会が「ガバナンスの問題として検討」した結果で起きたことと回答されたことに注目します。
「ガバナンス」とは、株主や経営者による企業統治の手法です。自主・自律を旨とする放送事業体に適用するものでは本来ありません。2006年8月3日、貴委員会が公表された「NHKのガバナンスの在り方」についての見解でも、「民間営利企業と公共放送事業を同列に位置付けて論じることには違和感がある」と記されています。ジャーナリズムの現場では、その記事や放送が、時には「社論」や「経営方針」と対立することがしばしば起こりえます。その時に優先されるものこそ、現場の記事や放送なのです(1970年山陽新聞地位保全仮処分訴訟)。公共放送としての使命を託されているNHKでは、政権や行政との距離を保つため、特にこのことが求められます。
「経営と制作の分離」でいえば、「経営」こそが、外部からの「制作」への圧力を受け止める防波堤でなければなりません。あえてNHKにとっての「コンプライアンス」とは何かといえば、「憲法と一体である放送法の理念を忠実に守り、国民の知る権利に奉仕すること」、ガバナンスとは「そのために必要な制度の運営に、幹部が責任を果たすこと」です。上命下服の民間営利企業の経営秩序をコンプライアンスといい、ガバナンスと称して番組制作現場を締め付けるのなら、そのような統治・統制はメディアの世界では有害以外の何ものでもありません。
戦前の社団法人日本放送協会が大本営放送局として、どれほどの日本人とアジアの人々を無惨な死に追いやったか。その反省の上に戦後のNHKは特殊法人としてスタートを切ったことをNHK経営委員会は肝に銘ずべきと考えます。
2019年12月9日の記者会見で、石原進経営委員長(当時)は、NHK会長を上田良一氏から前田晃伸氏に交代させる理由として「かんぽ報道」についての「ガバナンス問題」があったことをあげ、次期会長には「ガバナンス強化に期待が持てる」と述べました。私たちは、5代続けて財界出身者がNHK会長に就任するという事態に危惧を覚えます。「ガバナンス強化」を名目に、放送現場を監視し、「ボルトとナットで締め付ける」ことを期待されるような営利企業出身の会長、経営委員長は公共放送にとって有害でしかありません。
昨年、貴委員会は、「かんぽ不正問題」をいち早く報道した番組について、郵政三社の意を受け、続編放送の見送りを図るという戦後放送史上恥ずべき背信行為を行いました。私たちの「意見と質問」に対しても、「経営と制作の分離」原則を認めながら、「ガバナンス」を理由とした介入行為を追認しています。2重基準です。
改めてそれぞれの質問項目(下記)を提出しますので、誠実な回答を求めます。
書面によるご回答の締め切り日は3月5日でお願いいたします。
<記>
【質問?1】「ガバナンスの問題」の共通理解について
公共放送としてのNHKは、「憲法と一体である放送法の理念を忠実に守り、国民の知る権利に奉仕すること」こそがその使命であり、ガバナンスとは「そのために必要な制度の運営に、幹部が責任を果たすこと」、つまり、外部からの「制作」への圧力を受け止め3
る防波堤であることがその中心であると考えますが、貴委員会のお考えは異なりますか。異なる場合にはどう異なるのかをお答えください。
【質問―2】今後も、本件同様の個別の番組について、「ガバナンスの問題」として申し入れることはあり得ますか?
【質問―3】森下氏は、経営委員会の席上で、「ネットで情報を集める取材方法がそもそもおかしい。非はNHKにある」と発言しました。しかし、ネットで情報提供を呼び掛けることは「オープンジャーナリズム」の名で放送業界では広く定着している手法です。森下氏は今も「非はNHKにある」とのご発言を維持されていますか。
また、取材も番組編集の一環ですから、上記のような森下氏の言動は、「放送法」が禁じたNHKの番組編集への経営委員の干渉に当たると私たちは考えます。森下氏の見解をお聞かせ下さい。
【質問―4】今回経営委員として異例ともいえる三選をされた長谷川三千子氏は、「2012年安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」の代表幹事に名前を連ね、経営委員就任時に自らを「安倍氏の応援団」と公言されました。
政治の各分野の人事で首相との距離が問われていますが、政治的公平が求められる経営委員として、真に適格性があるとお考えですか。
以上
(2020/02/16)
ワタクシ・アベシンゾウは、日本国の総理大臣でございます。「大臣」とは、畏れ多くもヘイカの臣民の中で重きをなす者の意味でございますが、なんと言っても私がソーリダイジン。大臣の中の大臣、つまりは権力者なのです。権力者とは、行政府の長であるのみならず、最高裁裁判官の任命権者でもある。つまり、なんでもできる立場にあるということ。現に私は閣議でなんでも決めてまいりました。
野党の皆さんには、その点のご認識がない。まるで私が、ペイペイの政治家と同様であるかのような印象操作を繰り返していますが、そういう無意味な発言はやめていただきたい。
皆さん何か勘違いなさっているのではありませんか。昨年の10月22日には、高御座のテンノウヘイカを仰ぎみて皇室の弥栄をお祈り申しあげ、万民を代表して「テンノーヘイカ、バンザイ」を三唱したワタクシですよ。ワタクシをないがしろにすることは、ヘイカを軽んじること。こんなこともお分かりにならないのでしょうか。嘆かわしい極みではありませんか。
ワタクシは権力者ですから、下々を揶揄したり、悪口を言ってもよいのです。でも、こともあろうに、下々の者がその分を弁えず、ワタクシに罵詈雑言など許されるはずがないではありませんか。
もちろん、ワタクシは野党の皆様には遠慮なく「嘘つき」と言いますよ。でも、ワタクシが「嘘つき」と言われることは許さない。ワタクシへの攻撃が間違っていれば、謝罪を要求します。でも、ワタクシが謝罪することはあり得ない。だって、ワタクシは、内閣総理大臣であり権力者なのですから。
考えても見ていただきたいのでございます。民主主義の世の中ですよ。選挙で選ばれた者が権力を握る、これがルールではありませんか。ワタクシは選挙で勝っているのですから、権力者として振る舞うことに、何の問題がありましょうか。
ワタクシに対するイヤガラセがひどいと思いませんか。ワタクシに対するイヤガラセは、日本に対するイヤガラセであり、ヘイカに対するイヤガラセでもあることが分からないのでしょうかね。
一番のイヤガラセは、ワタクシを犯罪者だという極端な印象操作です。森友事件、加計学園事件、桜疑惑、IR疑惑、菅原蟹メロン香典事件、河井1億5000万円事件などなどが、いかにもワタクシの周辺の犯罪だと言わんばかりの大騒ぎ。もちろん、ニッキョーソや、キョーサントーの怪しげな人びとの煽動によるものに決まっています。
すべては、これまでワタクシが丁寧に説明を尽くしてきたことで十分に解明されているところです。ワタクシが青天白日の身であることに一点の疑義もないことは明々白々ではありませんか。にもかかわらず、敢えてイヤガラセの告訴や告発をする人びとがまだいるのです。きっと、日教組の教育に毒され、破防法適用対象の共産党の宣伝を真に受けているような人たちですよ。
ですから、ワタクシもですね、降りかかる火の粉は払わねばならない。そのためにはですね。警察も、検察も、反日分子の策動にウカウカと乗せられるようでは困るのですよ。仮に、ワタクシの行為が、客観的な証拠に基づいて判断した場合には犯罪に当たるとしてもですね、これを形式的な判断で、強制捜査したり、起訴するような軽率な検察では大迷惑なのです。
いや、もっと正確に言えば、「桜、IR、菅原、河井」そのすべてについて、客観的な証拠に基づいて判断した場合には犯罪に当たるものであるからこそ、これを真っ当な判断で、強制捜査したり、起訴するような検察ではたいへん困るのです。そんなことをされたら、安倍内閣は瓦解します。安倍内閣が瓦解されたら、憲法改正も永遠にできなくなる。反日分子がほくそ笑むばかりではありませんか。
ですから、検察のトップには、信頼できる人物を据えておかねばなりません。危機管理上、当然のことですよ。もちろん、常識的な忖度のできる人物でなくてはなりません。現職の稲田伸夫検事総長が勇退してくれれば好都合なのですが、これが忖度をしない困った人。でも、その任期は8月14日まで。もう半年ほどで定年退職する。すると、そのあとは林真琴名古屋高検検事長か黒川弘務東京高検検事長かということになるのでございますが、黒川こそ信頼できる忖度官僚のお手本。「官邸の番犬」とか、「安倍内閣のお庭番」とか言われる人物。これを検事総長にしなければならないのでございます。
ところが、稲田検事総長の定年前に、黒川検事長が2月7日に定年になってしまう。彼を定年で失職させてしまうと、万事休すでございます。ここはひとつ、権力者として、黒川を検事総長とする策を講じなければなりません。こうして、黒川の定年を延長する閣議決定を1月31日に行ったのでございます。
もちろん、前代未聞。まったく前例のないことでございます。しかし、前例のないことは問題ではありません。うるさい連中が、「検察庁法には定年延長の規程はない」「違法だ。無効の人事だ」と騒ぎはじめました。こうなると、チト面倒。
で、「検察庁法には確かに定年延長の規程はない。しかし、検察庁法の一般法である国家公務員法にある定年延長の規程は検察官にも適用できる」で押し通そうとしたのですが、ちょっと具合が悪くなった。人事院が、上手に忖度してくれないのでございます。
国家公務員法が改正されて、定年や定年延長の制度を導入したのが1981年のこと。その際の衆院内閣委員会の議事録には、人事院事務総局任用局長が、「国家公務員法の定年延長を含む定年制は検察庁法により適用除外されている」。従って、「今次法案の定年制は、検察官については適用がない」ことを明確に答弁しているということが分かりました。
だから、当時の改正法提案者の意思も、これを審議して立法した国会の意思も、「検事に定年延長はない」ということだったということは、認めざるを得ません。もちろん、その後に、内閣にも国会にも法解釈変更の機会はございません。
ここで引き下がったのでは権力者の名が泣きます。現実にそれでは困ることになりますから、ワタクシは、2月13日の衆議院本会で、これまでの公権解釈では、検察官は定年延長ができないとされてきたことを認めたうえで、「今回従来の法解釈を変更した」と言明したのでございます。
閣議決定ってなんでもできるのです。都合が悪くなれば、憲法でも法律でも解釈を変更すればよいのです。それまで不可能だった集団的自衛権の行使。これを「憲法上集団的自衛権の行使は可能」と、憲法解釈だって変更したワタクシです。検察官の定年延長をやるくらいたいしたことじゃございません。
もちろん批判は覚悟の上、「1981年に国家公務員法改正を審議し成立させた国会の意思は、『検察官には定年延長を認めない』というのだったはず。閣議で法を破ることができるのか」という批判が噴出するでしょうね。でも、大丈夫。…多分。だって、ワタクシが、最高権力者で、ヘイカの信任厚いソーリダイジンなのでございますから。
それに、それにでございますが。これからの、我が身に及ぶ刑事訴追リスクを考えますと、こうするよりほかは方法がないのでございます。だから、…多分、…大丈夫…なはずなのでございます。
(2020年2月15日)
メディア総合研究所が発行している「放送レポート」に、スポーツジャーナリスト谷口源太郎氏が、「スポーツとマスコミ」というコラムを連載している。最新号(2020年3月号)が、その第174回。
「オリパラ翼賛を煽動する安倍首相の狙い」と表題するシリーズで、「2020東京五輪」を論じている。以下は、その中の一節である。
強調される日の丸カラー
日本オリンピック委員会(JOC)と日本パラリンピック委員会は1月23日、2020東京オリンピック・パラリンピックで日本選手団が着用する公式服を発表した。
それは、1964年大会での赤のジャケットに白のズボンを逆に白のジャケットに赤のズボンにしたものだが、狙いは同じ「日の丸カラー」ということだ。
この公式服が象徴的だが、オリンピック・イヤーということで「日の丸」が目いっぱい強調されるような事態になるのは間違いなかろう。
とりわけ、目立つのは、メディアの扇動もあって国威発揚の道具にされることに無自覚な代表選手たちの「日の丸」へのこだわりだ。
今、改めて「日の丸」にどのような真実が隠されているのかを知る必要があるであろう。
その意味から、原爆詩人として知られる栗原貞子さんの詩「旗」の一部を紹介したい。
日の丸の赤は じんみんの血
白地の白は じんみんの骨
いくさのたびに
骨と血の旗を押し立てて
他国の女やこどもまで
血を流させ骨にした
いくさが終わると
平和の旗になり
オリンピックにも
アジア大会にも
高く掲げられ
競技に優勝するたびに
君が代が吹奏される
千万の血を吸い
千万の骨をさらした
犯罪の旗が
おくめんもなくひるがえっている
「君が代は千代に八千代に
苔のむすまで」と
そのためにじんみんは血を流し
骨をさらさねばならなかった
今もまだ還って来ない骨たちが
アジアの野や山にさらされている
日の丸の赤は じんみんの血
白地の白は じんみんの骨
日本人は忘れても
アジアの人々は忘れはしない
日の丸を背負うことを誇りにするのが、いかに愚かで誤ったことか、この詩は教えてくれるのではないか。絶大な影響力を持つメディアがこうした「日の丸」の真実に背を向けていることで生み出される負の大きさは計り知れない。
報道によると、自国開催ということで、中継など放送枠が増える民放では、従来の各キイ局が競技ごとにバラバラに放送する方式を各局集中方式に変えるという。
新聞報道によると、1月23日に日本民間放送連盟(民放連)が発表した内容は「7〜8月に開かれる東京五輪の期間中、民放地上波テレビ各局が担当日を決め、各日で基本的に午前9時〜午後11時、生中継を中心とした長時間放送を行う」というもの。
従来、オリンピック放送については、NHKが独占的な存在で、民放の存在感を示せなかった。そこで、2020東京大会では、なんとしても民放を目立たせたいとの思いから集中放送方式に踏み切った、ということのようだ。NHKに、民放の集中放送が加わることで「がんばれ日本!」の翼賛報道が極限までエスカレートするのは間違いなかろう。
谷口源太郎の健筆の冴えに敬服せざるを得ない。「日の丸・君が代」の氾濫も、「『がんばれ日本!』の翼賛報道」の跋扈も、御免こうむる。そして、栗原貞子の詩を、もう1編紹介しておきたい。
『ヒロシマというとき』
〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない
国旗国歌の強制に服することができないという人の中には、実は国旗国歌の理解に関して大別して2種類の見解がある。国家や権力の象徴としての国旗国歌一般に対して受容しがたいとする一群がある。この人たちは、どんな歌詞や曲の歌であろうとも、あるいはいかなるデザインの旗であろうとも、国家というものの象徴である限りは、人権主体の個人の尊厳を懸けて、あるいは主権者の一人としてその強制には服しがたいとする。
もう一群は、国旗国歌一般ではなく、「日の丸・君が代」だから受容しがたいとする。言わば歴史にこだわるのだ。大日本帝国憲法・天皇制国家・侵略戦争・植民地主義・軍国主義・差別・個人の尊厳の否定・政治的弾圧…等々の負の遺産とあまりに緊密に結びついたこの歌と旗。無反省に、この歌と旗を用い続ける今の世に我慢がならず、その強制に服してはならないと自分に命じるのだ。そう、わたしたちの汚れた手を、さらに汚してはならない、と。
谷口源太郎は、「目立つのは、メディアの扇動もあって国威発揚の道具にされることに無自覚な代表選手たちの『日の丸』へのこだわり」という。そして、「改めて『日の丸』にどのような真実が隠されているのかを知る必要がある」という。『日の丸』に隠された真実、それが栗原貞子の詩のとおりなのだ。
(2020年2月14日)
本日(2月13日)正午より、参議院議員会館会議室で、「『桜を見る会』を追及する法律家の会」の結成集会が開かれた。その式次第は、以下のとおり。
〇 開会宣言
〇 法律家の会結成の趣旨
? 泉 澤 章(弁護士、呼びかけ人)
〇 呼びかけ人から
小野寺 義 象
(弁護士、「桜を見る会」を追及する弁護士の会・宮城共同代表)
澤 藤 統一郎
(弁護士、背任罪告発代理人共同代表)
毛 利 正 道
(弁護士、「桜」私物化!怒り満開 市民の会チーフスタッフ)
〇 国会議員の方々から
〇 今後の会の活動と行動提起
南 典 男(弁護士、呼びかけ人)
**************************************************************************
「『桜を見る会』を追及する法律家の会」結成の趣旨
1 全国から湧き上がる「桜を見る会」私物化と情報隠蔽への怒り
昨年の臨時国会以来、安倍総理が主催してきた「桜を見る会」に関連して様々な問題が噴出し、国政上の重大な焦点のひとつとなっています。
特に「桜を見る会」の前夜祭として行われたホテルでの夕食会は、この間判明した事実からだけでも、安倍総理の事務所が主体となって開催された後援者向けの宴会であり、公職選挙法、政治資金規正法に抵触する疑いが極めて強いことが明らかになっています。また、本来国の行事として開催されるはずの「桜を見る会」を、自らの支援者に向けて権勢を示し、今後の政治的地位を固めるため、私的に流用した疑いも濃厚になっています。
安倍総理は、一国の総理が違法行為をしていたのではないかという疑いを払拭するため、本来であれば、自ら積極的に客観的な事実を示して、合理的な弁明をすべき義務があるはずです。
ところがこの間の国会論戦をみると、安倍総理は合理的な弁明どころか、ホテルとの契約は後援者個々人である、明細書は出せない、招待者名簿もないなどと、非合理的な弁明に終始しています。さらに政府も、「桜を見る会」の招待者名簿は、管理簿への記載もなく、事前同意手続もなしに廃棄したなどと説明し、公文書管理法違反の事実を認めながら、更なる調査やデータ復旧の試みはしないと居直るなど、ひたすら逃げ切りをはかろうとしています。
このように、「桜を見る会」を私物化し、自らに不利な証拠は隠蔽する安倍総理と政権への怒りは、全国各地で湧き上がっています。
2 いま、私たち法律家に求められていること
このような安倍総理による「桜を見る会」の私物化と政権の情報隠蔽に対し、政治的・道義的責任を問う声が高まっています。しかし、ことは政治的・道義的責任だけに止まるものではありません。なぜならこの問題は、前述した公職選挙法や政治資金規正法、公文書管理法等々といったわが国の法律に違反する“違法行為”を、わが国の総理大臣が行ったのではないか、ということが問われているからです。
独裁国家下ならまだしも、立憲民主主義の下で暮らしているはずの私たちは、為政者の違法行為疑惑を目の前にして、これを些細なこととして済ますわけにはゆきません。特に私たち法律家は、日本国憲法における法の支配のもと、法律がこの国において公正・公平に適用されるべく日々業務を行い、研究をしています。そのような法律家としては、為政者の違法行為疑惑を目の前にしつつ、これをただ座して眺めていることは到底許されないのです。
いまこそ、私たち法律家が率先して声をあげ、「桜を見る会」問題の真相を究明し、真に責任ある者の法的責任を追及することが求められているのです。
3 「『桜を見る会』を追及する法律家の会」の結成とこれからへ向けて
そこで今般、私たちは、全国の法律家に呼びかけて、「『桜を見る会』を追及する法律家の会」を結成することにしました。
これからは、すでに全国で「桜を見る会」問題の取り組みを進めている人たちや団体と相互に協力し合い、さらにこの問題で精力的に事実関係を追及してきた野党の対策チームにも協力を仰いで、「桜を見る会」問題の真相を徹底的に究明するとともに、刑事告発を含めた法的責任を追及する手段を慎重に検討し、早期に実現してゆこうと考えています。
本会の目的と活動が、国民各層の支持を得てさらに全国各地に広がり、わが国の立憲主義と法の支配が回復するよう、法律家として全力を尽くしてゆく所存です。
**************************************************************************
私(澤藤)の発言は、「内閣総理大臣たる者による政治の私物化に法的な形を与えるには背任がふさわしいとする」趣旨のもの。
去る1月14日、「桜を見る会」についての公私混同疑惑を背任罪(刑法247条)に当たるものとして、内閣総理大臣・安倍晋三を東京地検特捜部に告発いたしました。告発人は、上脇博之さんら研究者グループ13名。代理人弁護士は、阪口徳雄君を筆頭とする51名。
「桜疑惑」については、公職選挙法違反、政治資金規正法違反、公用文書毀棄などが論じられてきました。背任派は少数意見にとどまっています。それでも、なぜ今あえて背任罪での告発なのか。私見を申しあげます。
◆私は、背任こそが国民の怒りの根源をとらえた告発だと思うのです。
森友・加計疑惑を曖昧にしたままの「桜疑惑」です。広範な国民のこの疑惑に対する怒りの根源は、内閣総理大臣たる者の国政私物化にほかなりません。
国政私物化とは、内閣総理大臣たる者が国民からの信頼を裏切り、私の利益のために国民から与えられた権限を悪用する行為です。国民はこの人物を信頼し、当然に国民全体の利益のために適切に権限を行使してくれるものと期待して、権力を預け権限を負託しました。にもかかわらず、この人物は国民の信頼を裏切って私益のために権限を悪用したのです。
このことを、法的に表現すれば、内閣総理大臣たる者の国(ないし国民)に対する「信任義務違反」というほかはありません。他人から負託された信頼を裏切る行為を本質とする犯罪が背任である以上、背任罪告発はことの本質を捉え、国民の怒りに形を与える刑事責任追及として最も適切と考えられるのです。
にもかかわらず、これまで首相の背任を意識した議論が少ないと言わざるを得ません。この告発によって、まずは大きく世論にインパクトを与え、世論を動かしたいと思うのです。単に、「安倍首相は怪しからん」というだけの漠然とした世論を、「安倍首相は国民の信頼を裏切った」「これは背任罪に当たる」「背任罪で処罰すべきだ」という具体的な要求の形をもった世論を喚起したい。そうすることではじめて、忖度で及び腰の検察にも本腰を入れさせることが可能となると考えます。
◆ 具体的に背任成立の要件について、述べたいと思います。
(1) 主体
背任罪は身分犯であって、その主体は、「他人のためにその事務を処理する者」です。憲法第15条に基づき、「全体の奉仕者」として公共の利益のために職務を行うべき公務員が、身分犯としての背任罪の主体となり得ることは判例通説の認めるところです。内閣総理大臣の職にある者においてはなお当然というべきで、この点に疑問の余地はありません。
本件の場合、「他人」とは国であって、被告発人は、各年の「桜を見る会」の主催者です。同「会」の遂行について国の利益のために適切に企画し実行すべき立場にある者として、構成要件における「他人のためにその事務を処理する者」に当たます。
(2) 図利加害目的
背任罪は目的犯であって、「自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的」が必要とされます。本件の場合は、被告発人自身の利益、ならびに第三者である被告発人の妻・被告発人の政治的後援会員・被告発人と所属政党を同じくする国会議員らの利益をはかる目的があっての任務違背であることは、自明のことというべきです。
(3) 任務違背
背任罪の本質は背信であると説かれます。被告発人の国に対する任務に違背する行為が、構成要件上の犯罪行為です。当該任務は、具体的には「法令、予算、通達、定款、内規、契約等」を根拠とします。その根拠にもとづく「任務に反する行為でその行為が、国に財産的損害を生ぜしめる性質のものである限り原則的に任務違背が成立する。」と説かれます。
被告発人は内閣府の長として、本件各「桜を見る会」を企画し実施して必要な経費を支出するに当たっては、「桜を見る会開催要領」と予め定められた歳出予算額とを遵守すべき義務を負っていたものです。
歳出予算は拘束力を持ち、いわゆる「超過支出禁止の原則」にしたがって、予算計上額を上回って超過支出することが禁止され、予算外支出も認められません。にもかかわらず、被告発人は、「桜を見る会開催要領」を無視して、招待者の範囲を恣に拡大し、約1万名と限定されていた範囲を大幅に逸脱して無原則に招待者を拡大し、予算の制約を大幅に超えて費用を支出した点において、その任務に違背したものです。
(4) 国の財産的損害
背任罪は財産犯ですから、被告発人が国に幾らの損害を与えているかが問題となります。被告発人は総理大臣になって以来、毎年「桜を見る会」への招待者数を増やし、国に予算を超過する支出を余儀なくさせて、毎年予算超過額に相当する損害をあたえました。その金額の総計は、公訴時効完成前5年分で1億5200万円となります。
◆ 政府側の弁明
予算超過に関する内閣府大臣官房長の説明は、「最低限必要となる見込みの経費を前提に予算を計上し、結果的に支出額が予算額を上回った分については、『一般共通経費』で補填している」というものです。つまりは、予算で最低限必要なことはできるのです。「桜を見る会開催要領」に従って、招待者1万人枠を遵守していれば、「一般共通経費」の「活用」は不要なのです。国会が承認した予算を漫然と超過することは許されありません。どのような事情で、何に、幾らかかったかの特定と、しかるべき理由と証明がなければ、「一般共通経費」からの支出が許されようはずはありえません。
以上のとおり、「桜疑惑」とは,その本質において、まずは「総理大臣の国民に対する」背任だというのが私たちの主張です。
弁護士 澤藤統一郎
**************************************************************************
黒岩宇洋(立民)、池田真紀(同)、奥野聡一郎(国民)、山井和則(無所属)、田村智子(共産)、山添拓(共産)の各議員から、それぞれに熱のはいったご挨拶があった。
こもごも熱く語られたことは、「いったい、これが法治主義国家か」「法の支配はどこへ行ったのか」「民主主義の根幹が揺らいでいる」「権力者は法を破ってもよいとでも思っているのか」「こんなことが許されてはならない」「徹底した追及が必要だ」「そのために、法律家の協力を期待する」ということ。
**************************************************************************
今後の方針と行動提起
南典男
1 「桜を見る会」の問題は、安倍首相による国政の私物化という問題ですが、同時に、民主主義や法治主義を壊すという問題でもあります。安倍首相は、国民の血税を使って地元の後援会員に便宜を図るだけでなく、前夜祭では本来なすべき収支報告をなさない、これは政治資金規正法に違反すると思われます。また、ホテル側が通常よりも低い金額で料理等を提供しており、これは公職選挙法に違反すると思われます。
安倍首相は、違法行為であることを弁解するために、ホテルと800人の参加者が個別に契約しているとか、安倍事務所はホテルと合意はしたが契約はしていないとか、説明にもならない、非常識かつ不合理な弁明に終始しています。
本来、率先して法を守るべき立場に立たなくてはならない首相が、率先して違法行為をする、弁解にもならない不合理な弁明に終始する、これでは私たちの国は法治国家の体をなしていないと言わざるを得ません。
2 私たち弁護士や法学者は、法の支配を回復するために、法の専門家として「「桜を見る会」を追及する全国法律家の会」を立ち上げました。今後の行動を提起します。
? 96人が呼びかけ人になりました。これから全国から千を超えるような賛同者を幅広く募ります。
? 刑事告発を視野に違法行為に基づく法的責任をはっきりさせます。集めた多くの証拠資料を分析し、また、新たな証拠の収集を行い、論点を絞り込んで法的責任を明確にします。
? 「桜を見る会」の問題について、全国津々浦々で集会などの企画を成功させます。既に、仙台、長野、沖縄などが先頭に立って走って頂いていますが、全国で企画を立てて頂ければと思います。3月に桜が開花するのとともに、違法責任を追及する運動を展開し、追及運動の季節にしていきましょう。
? 国民世論を高め、立憲野党の議員の皆さんと連携して国会での追及を強め、事実と真相を明らかにしていきます。
? 以上4つのことを実践して、3月12日午後5時から大きな規模で院内集会を行います。場所は衆議院第2議員会館多目的会議室です。
3月12日まで1か月、お互いに頑張りましょう。そして、違法責任の当事者である安倍首相の法的責任を明確にするまで、追及運動を大きくしていきましょう。
(2020年2月13日)
夕刻に近い時刻にチャイムが鳴った。はて何の配達かと扉を開けると、玄関前に見慣れぬ女性お一人と自転車が一台。
臆するところなく、「れいわ新選組の活動をしているボランティアです。ポスターを貼らせていただけませんか」とおっしゃる。凛としたその口調は、正しいことをしているという自信に満ちている。言外に、「当然貼らせていただけますよね」という響きがある。立派なものだ。私にはこういう振る舞いはできない。
2週間ほど前にも、れいわ新選組の若者の訪問があった。あのときは男女3人組だったが、今回はお一人。礼儀正しく、不愉快な若者たちではない。前回と同様のことを申しあげて結局はお引き取りいただいた。
「山本太郎さんに不快感は持っていませんが、『れいわ新選組』というネーミングに、たいへん違和感をもっています。このネーミングが最悪。とうてい真面目な活動をしていこうという政治団体の名前ではない」
「えっ? どうしてですか」
「まずは『令和』。これが最低で最悪。国民主権尊重のセンスがあれば『令和』を党名に付けるはずがない。押し付けられて渋々使うならともかく、積極的にこんな名前を選ぶのは、天皇制におもねる保守政党宣言としか考えられない」「そういえば、山本太郎さんは、天皇への直訴をしようとして話題になったよね。ああいうセンスには、到底付いていけない」
「うーん、そうですかね」
「『新選組』もいただけない。これは幕末の右翼テロ集団でしょう。ふざけたネーミングとしか思えない」
「見方によっては、そういう風にも言えるんでしょうかね」
「えっ? そうでない見方もできるの?」
「歴史の見方は、いろいろだと思いますが」
「私には、『令和・新選組』という組み合わせは、親天皇制のアナクロニズムで、しかも狂信的なテロ集団というイメージ」「ふざけたネーミングとしか思えない。もっと真面目にやっていただきたい」「そういう意見があったと、お仲間にお伝えください」
「分かりました」
「でも、自民党や公明党、維新なんかよりはずっとマシだと思っていますよ。消費税はなくして、税金は大企業や金持ちから取ればよいという主張には大賛成ですし、障がいのある方を議会に送り込んだのも評価できる。もし、7月の都知事選に山本太郎さんが野党統一候補として出馬することになるなら、応援しますよ」
「そうですか。そうなればよろしくお願いします」
ともかく、対話は成立した。
**************************************************************************
1年以上も前のことだが、東京2区で立候補を予定している立憲民主党の松尾明弘の運動員が来たことがある。やはり、ポスターを貼らせてくれという戸別訪問。こちらはボランティアではなく、事務所の雇われ人の男性だった。若者とはいいがたい齢の人柄良さそうな方。
かなりの時間対応した覚えがある。「ダメだよ。立憲民主党には違和感ないけど、松尾明弘だけは絶対にダメ」「彼は隠れ改憲派じゃないか」「主要紙の候補者アンケートに、堂々と改憲賛成・9条改憲賛成と言っている。原発再稼働にも賛成だ」「自民党並みか、それ以下だ」「こんな候補者を野党の共闘候補として推せるわけがない」「この人には、切実に訴えるものがない。なぜ、選挙に出たいのか、さっぱり理解できない」
私一人がしゃべって、対話にはならなかった。
この人に関しては、過去何度か当ブログに取りあげている。詳しくは、下記URLを参照いただきたい。
市民と野党の共闘候補に「隠れ改憲派」はふさわしくない。
https://article9.jp/wordpress/?p=9523
「隠れ改憲派」松尾明弘は、野党共闘候補としてふさわしくない。
「隠れ改憲派」松尾明弘は、野党共闘候補としてふさわしくない。
もちろん、松尾は、堂々と9条改憲の持論を述べればよい。改憲論者であることは、罪でも恥でもない。しかし、有権者を誤解させることは、罪が深い。改憲論者が立憲民主党から立候補し、あまつさえ野党共闘候補者となって、9条改憲反対の善男善女の票を掠めとろうとすることが怪しからんのだ。
念のため、松尾明弘の政策をネットで検索してみた。この人、自分の政策を練り直す情熱は持ち合わせていないようだ。うすうすの政策羅列の第8項に次のように記載されている。
https://www.matsuoakihiro.jp/message/
8. 憲法 ?憲法を尊重し、21世紀の日本にふさわしい憲法について広く議論を進めます。
・「憲法によって権力の濫用を防止する」という立憲主義の理念を守ります。
・従前の司法手続きで解決できない憲法上の問題(自衛権、解散権、1票の格差等)について、国民とともに積極的に議論します。
「平和憲法を守ります」も、「護憲」も、「改憲阻止」も、「安倍9条改憲阻止」もない。「9条死守」とまでは言わずとも、「安倍改憲反対」くらいは言うべきだろうが、それすらないのだ。あるのは、「21世紀の日本にふさわしい憲法について広く議論を進めます」なのだ。これは改憲派のメッセージである。現行の日本国憲法が「21世紀の日本にふさわしい憲法」ではないと宣言しているに等しい。
「従前の司法手続きで解決できない憲法上の問題(自衛権、解散権、1票の格差等)について、国民とともに積極的に議論します。」とは、現行憲法では、「自衛権、解散権、1票の格差等について解決できないから、積極的に改憲議論を開始します」という宣言にほかならない。
ホスターをはさんで、至るところで意見交換が盛り上がることを期待したい。
(2020年2月12日)
本郷にお住まいのみなさま、ご通行中の皆さま。こちらは、「本郷湯島九条の会」です。毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、憲法改悪阻止と憲法理念の実現を訴えています。私は近所に住まいする弁護士ですが、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前の毎月の行動に参加して、人権・平和・民主主義の大切さを訴えています。
本日は、「建国記念の日」です。ご存じのとおり、戦前の紀元節の日、つまりは初代天皇・神武が即位したという日であります。近代天皇制国家は、伝説上の初代天皇即位の日をもって、日本という国の始まりと決めたのです。虚構に虚構を重ねてのことですが、見逃せないことは、強引に天皇即位を日本という国の誕生と重ね合わせたということです。
国家の統治に必要なものは何よりも権力です。権力は武力によって担保されます。イザというときには、国家は実力の発動をもって統治の妨害を排除できなければなりません。しかし、権力だけでは国家統治はできません。統治のための権威が必要なのです。できることなら、人民を自発的に国家に服従させたい。人民を自発的に国家に服従させるものが、権威です。権力は、利用できる権威を欲するものなのです。
権力が利用できる権威とは、呪術であったり、神話であったり、宗教であったり、学問や文化、道徳体系など、なんでも総動員されます。しかし、日本の場合、天皇、あるいは天皇制こそが、権力にとってこの上なく重宝な利用可能な権威であり続けました。
万世一系の皇統という血に対する信仰が、権威の根拠となりました。その血が高貴なものとされ、権威の根拠とされてきたのです。しかし、皆さん、この世に生きとし生けるものにして、万世一系ならざるものはありません。私もあなたも、オケラもミミズも、万世一系今につながって、ここに生きているのではありませんか。秦の打倒に決起した陳勝の名言「王侯将相いずくんぞ種あらんや」に拍手を送りたいと思います。
ところが、天皇の神聖性が人民統治のための権威として使えると構想した、維新期の西南諸藩連合は、幕府方と天皇の取り合いをしました。自ら、天皇を崇拝したのではなく、天皇を統治の道具として取り合ったのです。結局、天皇という「玉」を取った側が、天皇を権威の根源として徹底して利用し尽くしました。こうして、天皇制と国家とは一体化し、紀元節は天長節とならぶ祭日とされたのです。
明治維新から敗戦まで、この体制が続きました。そして、敗戦と日本国憲法の制定によって、天皇の権威を利用して国民を統治する政治の在り方は清算されました。天皇の権威による統治に代わって、国民主権原理に基づいて、国民自身が自らを統治する政治体制に移行したはずなのです。ところが、天皇制は廃絶されずに象徴天皇制として生き残りました。民主主義体制への移行は、このことによって不十分なものとなって今日に至っています。
私は、日本国憲法にとって何が最も根源的な問題なのか。ときどき考えざるを得ません。人権の主体としての個人と、権力を担う国家と、そのどちらが根源的な価値なのかという問題で、本来その解答は明らかなはずなのです。
個人と国家、人権と権力、「個人主義・自由主義」と「国家主義・全体主義」。あるいは、人権尊重か秩序維持か。そのどちらが優越するかは、憲法上自明のことだと思うのです。ところが、なかなか、日本国憲法の原則が貫徹する時代にはなっていないことを、無念に思わずにはおられません。象徴天皇制もそのような問題の一つです。
天皇とは歴史的に、権力にとって重宝な利用可能な権威として存在し続けてきました。その事情は今も変わりません。国政私物化を専らにする総理大臣が、利用可能と思えばこそ、「テンノーヘーカ・バンザイ」とやって見せているのです。
国民主権原理からも、すべての個人の平等という観点からも、天皇制が憲法のコアな部分と相容れないことは自明と言わなければなりません。私たちが今心がけるべきことは、主権者として天皇の行動も存在もできるだけ目立たない、小さいものにしていく努力だと思います。
明治政府は、天皇制と国家を重ね合わせました。それゆえに、個人の尊厳に対抗する国家を考えるときには、権力にとって重宝なものとして利用可能な権威である天皇の存在を、考えざるを得ません。
本日は、主権者として国を考えるとともに、天皇制についても大いに考え議論する日にいたしましょう。
(2020年2月11日)
日本政府と各地の教育委員会、とりわけ東京都教育委員会は、ILO・ユネスコ勧告の基本理念をしっかりと理解しなければならない。国旗国歌の強制、しかも懲戒処分までしてする「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、世界標準からみて非常識なものであることを真摯に受け止めなければならない。
教育の場から思想・良心の自由が失われ、国家の統制のみが横行することとなれば、やがて民主主義は死滅することになるだろう。ちょうど、「日の丸・君が代」と「ご真影」への敬意表明が当然とされた、あの暗黒の時代のごとくに。
大きな市民運動によって、「ILO/ユネスコ勧告」の完全実施を求め、「日の丸・君が代」強制の是正を実現しようという構想の下、《「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告》実施市民会議が発足する。
下記が、「3・1発足集会」の次第である。
日時 2020年3月1日(日曜日)
13時40分?16時40分(開場13時20分)
会場 日比谷図書文化館(B1)
日比谷コンベンションホール
〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-4 03-3502-3340
資料代 500円
主催「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ!」などの「職務命令」に従わなかった教職員は戒告・減給・停職処分を受けています。また「起立斉唱は儀礼的所作であり、思想良心の自由の侵害にはあたらない」という司法判断が繰り返されています。
起立斉唱強制は子どもにも及んでいます。
こうした状況に対して2019年春、ILO(国際労働機関)とユネスコから日本政府に、「日の丸・君が代」の強制を是正するように、という勧告が出されました。画期的なことです。
しかし、文科省は、(起立斉唱は)「適切に行われている」として、勧告を無視し、実施に動こうとしません。都教委担当部署は話し合いに出てこようともしません。
私たちはこうした事態を看過できず、勧告実現のため《「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議》を立ち上げることにしました。教育の未来のために、勧告実現に一緒に取り組みましょう。
プログラム
シンポジウム
「それでもまだ歌わせますか??教育の中の市民的不服従」
寺中誠(東京経済大学・国際人権法 司会)
志田陽子(武蔵野美術大学一憲法学)
中田康彦(一橋大学・教育学)
中原道子(VAWW RAC共同代表)
発言
前田朗(東京造形大学・刑事人権論)
布施恵輔(全労連・国際局長)
本山仁士郎(「辺野古」県民投票の会元代表)
朴金優綺(在日本朝鮮人人権協会 事務局)
教育現場の声
君が代5次訴訟原告予定者
アイム’89東京教育労働者組合
連絡先 潭藤統一郎法律事務所 03-5802-0881
共同事務局長 金井知明(弁護士)・寺中誠(東京経済大学)・山本紘太郎(弁護士)
呼びかけ人(50音順)
阿部浩己(明治学院大学教授)/荒牧重人(山梨学院大学教授)/池田香代子(翻訳家)/石山久男(子どもと教科書全国ネット21代表委員)/岩井信(弁護士)/内田雅敏(弁護士)/大森直樹(東京学芸大学教授)/岡田正則(早稲田大学教授)/落合恵子(作家、クレヨンハウス主宰)/小野雅章(日本大学教授)/児玉勇二(弁護士)/小森陽一(東京大学名誉教授)/佐野通夫(大学教員)/澤藤統一郎(弁護士)/島薗進(上智大学教授、東京大学名誉教授)/清水雅彦(日本体育大学教授)/白井劍(弁護士)/鈴木敏夫(子どもと教科書全国ネット21代表委員・事務局長)/醍醐聡(東京大学名誉教授)/高鳴伸欣(琉球大学名誉教授)/高橋哲哉(東京大学大学院教授)/田中重仁(弁護士)/角田由紀子(弁護士)/中原道子(VAWW RAC共同代表)/成鳴隆(新潟大学名誉教授)/新倉修(青山学院大学名誉教授、弁護士)/野田正彰(精神病理学者)/朴保(ミュージシャン)/花崎皋平(哲学者)/堀尾輝久(東京大学名誉教)/前田朗(東京造形大学教授)/森川輝紀(埼玉大学名誉教授、福山市立大学名誉教授)
あなたも運動サポーターに!
運動への協力金を
個人 1口500円 / 団体 1口1,000円(何口でも結構です)
郵便振替口座 番号00170?0?768037
「安達洋子」又は「アダチヨウコ」(市民会議メンバーの口座を利用)
**************************************************************************
なお、ILOとユネスコの日本政府に対する勧告は、以下の6点で、「日の丸・君が代」強制を是正するよう求めるものとなっている。
(a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
(b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
(c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。
(d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。
(e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。
(f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること
ILO・ユネスコ勧告が、「日の丸・君が代」強制の入学式・卒業式を「愛国的な式典」と呼んでいることが興味深い。「愛国的な式典」に関する教員の義務については、都教委が一方的に命令するのではなく、教職員組合との合意で規則を制定せよという。そして、その規則は「国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容とする」というのだ。これこそが、世界標準なのである。
(2020年2月10日)