「五黄の寅の元日生れ」であった、私の父。
(2022年1月1日)
2022年、「五黄の寅」年の元日である。私の父・澤藤盛祐(1914年1月1日生?1997年8月16日没)のことを語りたい。父は、「五黄の寅の元日生れ」である。
「五黄の寅」も「元日生れ」も誇るべきほどのことでもなさそうだが、父は「だから、自分は最も強い運気に恵まれている」と言っていた。もっとも、その生涯は必ずしも運気に恵まれたものではなかったようだ。
元号でいえば大正3年の生まれ。父は、その時代の空気の中で、「お国のために」真面目に生きようとした庶民の一人であった。「大正生まれの歌」というものがある。小林朗 作詞・大野正雄 作曲でレコードも出ているそうだが、おそらくは多くの替え歌バージョンがあるのだろう。いくつか目に留まった歌詞が下記のとおりで、なんともうら悲しい世代の歌である。「五黄の寅」よりは、こちらの方が父にピッタリのように思えてならない。いかにも運気隆盛ではない。
☆大正生まれの俺達は
明治の親父に育てられ
忠君愛国そのままに
お国の為に働いて
みんなの為に死んでゆきゃ
日本男子の本懐と
覚悟は決めていた なぁお前☆大正生まれの青春は
すべて戦争(いくさ)のただ中で
戦い毎の尖兵は みな大正の俺達だ
終戦迎えたその時は 西に東に駆けまわり
苦しかったぞ なぁお前☆大正生まれの俺達は
明治と昭和にはさまれて
いくさに征って 損をして
敗けて帰れば 職もなく
軍国主義者と指さされ
日本男児の男泣き
腹が立ったぜ なあお前☆大正生まれの俺達は
祖国の復興なしとげて
やっと平和な鐘の音
今じゃ世界の日本と
胸を張ったら 後輩が
大正生まれは 用済みと
バカにしてるぜ なあお前
父は岩手県黒沢尻(現北上市)の生まれ。小学校6年を飛び級し旧制黒沢尻中学を受験して合格、同校の第2期生となっている。子どもの頃は秀才だったのだろう。卒業後は上級学校への進学を望んだが生家が零落して希望は叶わず、「株屋」に就職している。その樺太支店に勤務し、支店長も務めたというが、勤務先の株屋が破産。どうも「運気」旺盛とはいいがたい。
その後、中学時代の教師の伝手で盛岡市役所に職を得、商工会議所設立の準備をするが、召集令状が届いてこれも中断する。
父が残したメモによると陸軍に応召が2度、海軍にも徴用されている。
第1回招集 3年7か月
帰郷 10か月
海軍徴用 9か月
第2回招集 1年3か月
第1回の招集は1939年5月のこと。弘前の聯隊からソ満国境の愛琿(アイグン)の守備隊に配属された。地平線から昇る満州の仲秋の名月を2度見ている。除隊になってから長子である私が生まれたが、その直後に横須賀海軍工廠造兵部に徴用されている。そして、第2回の招集で横須賀から弘前に直行して青森の小さな部落で終戦を迎えたようだ。
これも父のメモである。「軍隊生活とは」とされており、「戦争とは何であったか」という問にはなっていない。
「軍隊生活とは、私にとってなんであったろうか。
まったく聖戦だと思っていたし、
実弾の下をくぐったこともなく、
白刃をふるったこともなく、
演習につぐ演習。
辛くはあったが、軍隊を地獄と思ったことはない。
身体を鍛えてもらっただけでも、
私は恵まれた星の下において頂けたのだと思う。」
父は実戦の惨劇に遭遇することはなく、現地の人々に危害を加えることも加えられることもなく、郷土部隊の中で居心地悪からぬ軍隊生活を送ったようなのだ。兵から軍曹になり、最後は曹長になった父の軍隊内の地位も影響しているのだろう。
生年月日で決まった父の運気は、戦争には駆り出されたが戦闘を経験することはなく生き延び、戦後は穏やかに過ごすことに費やされたのかも知れない。
戦後父は、思うところあって、宗教団体「PL教団」の布教師となり、生涯を教団に捧げた。晩年、「教えと出会えたことが人生最大の幸運」「教えに人生を捧げたことに一点の悔いもない」と言っていた。
父は自らの意思で教団に飛び込んだが、私は宿命として教団の中で育った。教団が経営する私立高校を卒業後、教団を離れて自立し上京して進学したいという私の希望を父は、受け入れた。
進学先は、国立大学しか考えられなかったが、それでも清貧を余儀なくされている父の経済状態では仕送りなどは望むべくもなかった。私は、高校在学中に幾つかの奨学金受給の申請をし合格した。そのとき、学校からの手続への協力が必要だったが、必ずしも学校(教団)は協力的ではなかった。籠から鳥が飛び立つことを歓迎しなかったのだ。
そのとき、父は敢然と学校に抗議をしてくれた。おそらく、父のたった一度の教団への反抗であったろう。私は、そのお蔭で大学に進学し、奨学金とアルバイトで学生生活を送った。仕送りを受けたことはないが、父には感謝している。
あのとき父は多くを語らなかったが、進学を断たれた自分の無念の思いを反芻していたのだろう。「五黄の寅の元日生れ」の運気は、長男の私には御利益をもたらしたのだ。
遺された子どもたちも高齢になった。今年こそは生前の父の追悼歌集を作ろうと企画している。もとは次弟の明が発案し、資料を集めて選歌もし版組までの作業をしていたのだが、昨夏急逝した。替わって末弟の盛光が編集をしている。
その盛光の提案で、歌集の題名は「草笛」となった。歌集の冒頭に掲載の第一句からの命名である。
校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ
中学生であった父は、校庭で草笛を吹きながら自分の将来やこの社会の行く末をどのように考えていたのだろうか。