澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

むちゃくちゃな維新の対共産議員懲罰動議 ー 見えてくる維新の本質

(2022年2月18日)
 今通常国会の予算審議が、はや大詰め。2月15日に衆院予算委で中央公聴会が開かれ、これが異様な進行となった。正確に言えば、公述人の一人の発言が異様だった。その公述人の名は原英史、国家戦略特区ワーキンググループの座長代理である。一般民間人ではなく、安倍政権の規制緩和路線を支えてきた人。安倍の行政私物化と言われる加計学園獣医学部設立認可にも、責任を負うべき立場の一人なのだ。公述人として推薦したのは、自民党ではなく日本維新の会。

 原は冒頭、「今日は、国会における誹謗中傷の問題に絞ってお話ししたい」と切り出し、どう幅広く解釈しようとも今年度予算案とは無関係の発言に終始。その内容は、加計学園の獣医学部設置にからむ国家戦略特区疑惑について報道した「毎日」記事や、これに関連した野党合同ヒアリングのあり方を問題とし、「毎日」や野党議員との間の訴訟についての自分の主張を読み上げたもの。さらに、映画「新聞記者」のストーリーが間違っているとの見解についても述べられた。とうてい、予算審議の公聴会における公述としてふさわしいものとは考えがたい。

 この異様な公述について、共産党の宮本徹が原英史を批判した。「自らの抱える案件について私的な反論をとうとうと述べられた。公聴会の在り方としてふさわしいのかという点で言えば、甚だ疑問だ」という趣旨。公述人として推薦した維新の「責任も問われる」とも述べた。私もこのときのビデオを見たが、宮本の発言は穏やかでまったく違和感は感じられない。この発言で紛糾した事実もない。

 このとき、宮本は原に対して一問だけ質問している。ワーキンググループが加計学園の獣医学部設置に関して特別扱いをしたのではないかという疑惑を前提に、要となるピンポイントの質問。「平成30年4月開学という重要条件が加計学園にだけ知らされ、競合する京産大には知らされなかった。そのため、最も有力視されていた京産大は断念に追い込まれた。いったい誰の指示で『平成30年4月開学』という重要条件が付け加えられたのか」。原はこれに答えず、明らかなはぐらかしに終始した。宮本から「質問にはお答えにならない。ですから、国家戦略特区とは行政私物化につながる仕組みになっていると、私たちは申しあげているわけです」と釘を刺されている。

 この公聴会に出席していた維新の議員は足立康史。原の面目が潰されたとでも思ったのか、日本維新の会は17日この中央公聴会での宮本発言を、「院の品位を著しく毀損する」ものとして、懲罰動議を提出した。これでは、議論が成り立たない。

 日本維新の会側の懲罰動議の理由は、同日(2月17日)藤田文武幹事長が記者会見でこう語っている。
 「15日の衆院予算委員会の公聴会で維新の会推薦の公述人に対する宮本氏の発言を巡って、大変、失礼な発言があった。推薦した、わが党の責任を問うようなことをおっしゃられた。宮本議員の方が反省すべき、撤回すべきだ」

 また、維新の馬場伸幸共同代表は、「一般の方の意見への誹謗中傷は社会人としておかしいのではないか。度重なれば公述人が意見を正々堂々と述べることに臆する場面も出てくる」と説明している。原を「一般の方」と同列に置いての立論である。

 宮本の「弁明」は以下のとおり。

 「中央公聴会は以下の衆議院規則にのっとって運営されるべきです。
 衆議院規則第76条 公聴会は、議員又は議長から付託された議案の審査のためにこれを開くことができる。
 同第83条 公述人の発言は、その意見を聞こうとする案件の範囲を超えてはならない。

 予算委員会の公聴会の案件は、いうまでもなく、新年度予算案です。
 公聴会の朝の理事会で、『国会における誹謗中傷について』と題する原公述人のペーパーを見た理事から、公聴会の趣旨にそってなされることを期待するという、旨の発言がありました。しかし、朝の理事会で表明された期待のようには、公聴会は、運びませんでした。様子は、衆議院のインターネット配信でご覧になれます。
 そこで、私は、議会人としての責任を果たすべく、公聴会での質疑に際し、
・予算委員会での公聴会は、予算案について国民の意見をきき、その後の審議にいかす場であるということ
・原公述人の公述は、自らの抱える案件について私的な反論をとうとうと述べられるものであったということ
・予算委員会の公聴会のあり方としてふさわしいのかという点でいえば、甚だ疑問に感じていること
・推薦した会派の責任も問われること

を述べました。
 原公述人の公述後の予算委理事会でも、あらためて宮本から、原公述人の公述について、予算委員会公聴会にふさわしくないと、前代未聞の事態ではないかと指摘しました。予算委員会ベテランの理事からも、長い間予算委員会をつとめてきた経験から、予算委員会の公聴会の性格について、大事な指摘がなされました。一方で、維新会派の理事の方からは、宮本の発言は公述人に失礼であり抗議すること、推薦会派への言及があったので議事録を精査して対応する旨の発言がありました。
 その後、16日、17日と予算委員会理事会がひらかれましたがその場で、この問題について、維新会派からは発言がないままでしたが、突然、本日、17日、維新会派のみなさんから、宮本徹への懲罰動議が提出され驚きました。
 公聴会のあり方としてふさわしいのか、宮本の問題的を受けとめないばかりか、逆に、威圧的に懲罰動議をだし、自らへの批判を封じようとするやりかたは、いかがなものでしょうか。」

 以上が、昨日までの話し。本日(2月18日)の赤旗を見て少し驚いた。維新と、原とのつながりの深さにである。新自由主義・規制緩和路線は、自民党や安倍政権の専売特許ではない。維新も大きく積極的に関与してきたのだ。維新の会が、原が主宰する会社に、政党助成金から毎年数千万円もの資金を提供し、その額は16?20年の5か年分で、1億5000万円にものぼるという。以下、その抜粋である。

 日本維新の会が、15日の衆院予算委員会中央公聴会で陳述した原英史氏(維新推薦)が代表取締役を務める政策コンサルティング企業「政策工房」(東京都)に対し、税金が原資の政党助成金から毎年数千万円もの資金を提供していたことが、総務省が公表した政党交付金使途等報告書でわかりました。

 原氏は現在、大阪府・市の特別顧問。2011年に橋下徹大阪市長、松井一郎府知事が立ち上げた府市統合本部の特別顧問に就任するなど、維新と深いつながりがあります。また、13年に安倍晋三内閣のもとで設置された国家戦略特区ワーキンググループでは発足当初から委員に就任し、17年以降、座長代理を務めるなど安倍元首相ともつながりのある人物です。

 16?20年分の使途等報告書によると、日本維新の会が「政策業務委託料」として、政策工房に毎月200万?300万円を提供。16年分の総額は3888万円、17年分は3564万円、18年分は2916万円、19年分は2608万円、20年分は2640万円で、5年間の合計は1億5616万円にのぼります。

 分かり易い。維新とは、こんなにも深く新自由主義路線に取り込まれ、こんなにも親密に国家戦略特区ワーキンググループとも結びつき、結局のところ安倍国政私物化政策ともつながっていたのだ。今回、はしなくもその一端を印象づけられることとなった。

 それにしても、維新の懲罰動議はむちゃくちゃである。こんなことを許してはおけない。議会制民主主義の健全化は、世論の監視の成否にかかっている。維新が、何をしても許されると勘違いして暴走するとき、議会制民主主義が壊れていくことになる。多くの国民の目と耳とで維新の本質を把握し、きちんと批判しなければならない。手遅れにならぬうちに。 

十五の春の悲哀。逃れようのない監視圧力の脅威。

(2022年2月17日)
 「志学」と言えば、15歳。学問を志す15歳は稀少でも、誰もが高校入試の試練を受けなければならない歳。かつて、高校全入をスローガンに「15の春は泣かせない」と言ったのは、京都の蜷川虎三革新府政だった。が、現実には、当時も今も15の春は悲喜こもごもである。

 悲喜こもごもは切実で、入試の選考には厳格な公平性が求められる。カネやコネでの入学には社会の拒否感が高い。「裏口入学」という言葉には、許されざる悪事というニュアンスが感じられる。また、カネやコネで合格した当人のプライドが傷つくことにもなろうし、周囲の目が弾劾し軽蔑し続けることにもなろう。

 のみならず、高等教育や後期中等教育を受ける権利についての公正の確保は、この社会の階層の固定化防止の基本である。金持ちやコネのある者の子女には高等教育を受ける道が広く開かれ、カネやコネのない者には障壁が高いということになれば、この社会の階層の流動化が阻害され、社会の不公平な構成を固定化することになる。
 
 秋篠宮の長男が15歳である。宮内庁は昨日(2月16日)、お茶の水女子大付属中学に在籍している彼が、筑波大付属高(東京都文京区)に合格し、4月に入学すると公表した。注目されるこの「合格」、果たして公正であろうか。疑問なしとしない。

 彼の筑波大付属高への「進学」は、お茶の水・筑波両校間の「提携校進学制度」を利用したものと公表されている。一般受験での合格ではない。しかも、この「提携校進学制度」は、彼の高校卒業時までの時限的なものだという。万人の見るところ、この「天皇職就位予定者」のために特別に作られた制度と言わざるを得ない。

 宮内庁の発表では、「成績などの条件を満たしたことから「提携校進学制度」を使って出願し、学力検査を受けた上で16日に合格が確定した」となっている。しかし、「提携校進学制度」を利用しての出願の要件は明確にされていないし、彼の受けた学力検査成績が一般入試の合格水準に達しているかどうかについての言及もない。彼のために特別に作られた制度を利用しての「合格」であった可能性を認める内容の発表なのだ。つまり、彼は「皇族というコネで国立校に入学」という疑惑を生涯抱え込んだことになる。

 いま、彼の義兄がニューヨーク州の司法試験に挑戦している。誰も、そこに「皇室関係者特別優遇枠」があろうとは思わない。だから、実力をもってするその挑戦はすがすがしい。すがすがしさは、リスクと裏腹である。それに比較して、15歳の挑戦はすがすがしさに欠けるのだ。

 折も折、同日(2月16日)宮内庁は、秋篠宮家の長男のコンクール入選作文の一部が、「他の文献の表現と酷似していた」「引用元を明記せず、不十分だった」と明らかにした。このことについて、意地悪く「盗用」「剽窃」という報道も見受けられる。これは、15歳には厳しい指弾であろう。

 問題が指摘された作文は、昨年3月に北九州市主催の「第12回子どもノンフィクション文学賞」中学生の部で第2位の佳作に選ばれた「小笠原諸島を訪ねて」と題した旅行記、だという。選考委員だった那須正幹が「紀行文のお手本のような作品」と言っており、最相葉月も褒めているのだから出来はよいのだろう。だが、これも、「ほんとに自分で書いた?」「どこまで自分で書いた?」という疑惑に晒されることになった。

 この15歳、出自によって良質の教育を受ける機会に恵まれ、同時に出自によって国民からの厳しい疑惑の目に晒されることになった。意地の悪い監視圧力の脅威と言ってよい。皇族として生まれることは、実は辛いのだ。

 同じ日、同じ15歳が、北京で涙を流した。ドーピング問題の渦中にある、カミラ・ワリエワ。2か月前彼女の検体から検出された薬物は、禁止物質トリメタジジンだけでなく、禁止薬物には指定されていない「ハイポキセン」と「L―カルニチン」を含む、いずれも強心効果をもつ3種類の薬物であったという。

 反ドーピング機構は、「3種類を組み合わせた服用の利点として『持久力の向上、疲労の軽減、酸素の消費効率を高める』ようだ」と指摘しているという。複数の医師による「いずれも15歳が常用しないもの」「3種組み合わせで競技力向上につながる」とのコメントが報道されている。常識的には、ロシアのスポーツ界が、いまだにドーピングの悪弊を払拭し得ていないものと見られる。

 もちろん、秋篠宮家15歳の脱法合格も、ロシア選手15歳のドーピングも、飽くまで疑惑である。しかし、疑惑を招いたことに、いずれも無責ではない。本人も周囲も、敢えて瓜田に沓を入れ、李下に冠を正したことを重く受けとめなければならない。 付言すれば、ワリエワはこの立場から逃れる術をもっている。選手をやめて他の道を選択することは自由だ。この若さである、人生の再出発が十分に可能なのだ。それに比較して憐れむべきは秋篠宮家15歳である。彼には、当面この境遇から逃れる術が見出し難い。二人の姉とは立場が違うのだ。痛ましい悲劇というしかない。

「法と民主主義」4月号の特集は、「維新の本質と問題点と危険性(仮)」

(2022年2月16日)
「法と民主主義」4月号(3月下旬発行)特集は維新問題となる。その特集の表題は、今のところ、「維新の問題点と危険性(仮題)」。

 維新の問題点と危険性は、漠然ではあるが自明であろう。我々が、イメージする維新とは、橋下徹の粗暴な発言の数々、自治体職員や教員に対する異様なバッシング、保健所を筆頭とする公的設備や人員の削減、維新議員や関係者のスキャンダル、大阪都構想の重ねての失敗。そして、コロナ禍における雨ガッパとイソジン、その結果としての棄民と患者の自宅放置死亡事故…。

 最近顕著になっているのは、自民党を右へ右へと牽引する役割。野党を分断させようという「ゆ党」ならではのたくらみ。何よりも、性急で乱暴な憲法改正の姿勢。

 しかし、この危険な存在ではある維新というものの本質や正体がよくつかめない。なにゆえ、大阪でこれだけの地盤を築き、集票し得たのだろうか。どんな階層が、どんな理由で、いったいこの党のどんな面を魅力として支持したのだろうか。

 そのうえで、万博、カジノ、コロナ対策、教育、福祉などの政策の実態を明らかにしてみたい。大阪の現場を中心に執筆陣がほぼそろった。研究者・弁護士・ジャーナリスト・労働運動の活動家など。これは豪華なラインナップ。この号、たくさん売ろう。大阪だけでなく、全国に。

論稿の表題(仮題)
1 維新とは何か。その支持層の分析。(研究者)
2 大阪府民、市民はなぜ維新を支持するのか。(ジャーナリスト)
    ※読売新聞との包括連携協定にも触れて。
3 大阪カジノ構想の問題点
4 大阪都構想の問題点とその後維新の動き
5 維新の地域経済政策の誤り【医療・教育・福祉】(研究者)
6 コロナ対策と維新の医療行政(大阪府職労)
7 維新による教育破壊(大教組)
8 法律家の大阪維新との闘い―この10年を振り返って(弁護士)
9 維新の労働組合攻撃に対する反撃(弁護士)
10 改憲勢力としての日本維新の会の危険性(弁護士)
11 国会の中の維新(ジャーナリスト)

ところで、友人宮武嶺氏のブログ。維新問題では、群を抜いた充実ぶり。
https://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/8ac639c19f019d1a39efcb0d1faa8ba3

その本日付記事の冒頭が次の一文。

【#維新に殺される】全国のコロナ死者数が過去最多の236人(2月15日)のうち日本最悪死者数の大阪府は42人。緊急事態宣言を出すはずの重症病床使用率40%を超えても維新の恥だと逃げる吉村氏は歴史上最悪の知事だ

 10万人の人口に対するコロナ死者は、東京23・5人、神奈川15・7人、愛知県17・1人に対して、大阪府は37・5人。

 このブログで言い続けていることですが、橋下府政以来の大阪の医療・保健・福祉・教育破壊と吉村・松井維新の無能無策の新自由主義政策のつけが、またも一気に出ているわけです。

 松井大阪市長が代表で、吉村府知事が副代表という無能の象徴二人が幹部の日本維新の会がよく大きな顔をしていられると、その面の皮の厚さには橋下氏を含めて呆れかえるしかありません。

 宮武さんは、【#維新に殺される】とハッシュタグを付けて発信しておられるようだ。最近、似たものをよく見かける。少し探したら、これだけ見つかった。

#吉村はんはよう殺っとる
#吉村洋文に殺される
#吉村と松井仕事でけへんねんしやる気ないねんから辞めたらええやんどんだけ市府民殺すねん博打ばっかり夢中で
#維新のままでは大阪が危ない
#維新に騙されるな
#維新は日本に必要ない政党
#維新は最悪の選択肢
#橋下徹は維新の関係者なのでTV出演は不偏不党に反します
#平熱パニックおじさん
#大石パニックおじさん
#吉村知事のコロナ失政
#吉村と松井を許すな
#吉村辞めろ

こんなツイートのやり取りもあった。

「大阪だけが(コロナ死者数)異常に多いのはなぜなんだろう。維新のせいにするのは簡単だが、行政だけでこんなに差は出るとは思えない。何が原因か分かれば予防にも役立つのだが。」

「いや「行政だけ」でこれだけ差が出るんだよ。検査、隔離、診断、入院、全ての過程に「行政」がかかわる。本当に、マジで、維新支持者は反省して。大阪の過大な死者数は全部あなたたちのせい。」

「ネオリベ自治体」という何とも的確な言葉も出て来る。ウーン、維新を批判する人々もこれほど分厚く存在するのだ。そして、その批判の言葉が鋭く的を射ている。

汲むべき教訓に満ちた、「お粗末極まる反共主義」の跋扈

(2022年2月15日)
 昨年暮の12月22日、自民党は今夏の第26回参院選・岩手県選挙区公認予定候補を決定した。広瀬めぐみという新人、第二東京弁護士会所属の弁護士だというが、まったく無名の人。何者であるか知られていないし、もちろん私も知らない。
 
 この人、はからずも自らのツイートで、自分が何者であるかを自己紹介するところとなった。正確に言えば、2月4日朝のツィートの内容と、その日の夕刻のツィート削除によってである。

 2月10日の赤旗に、要旨以下の記事が載っている。
 「自民候補 共産党に中傷ツイート」「『まず綱領を読んで』党県委の批判文に反響」という見出し。赤旗が紹介する「共産党に対する中傷」の内容は、
 「個人の資本を否定する共産党」
 「自分や他人が稼いだものすべてを党が管理し、分配する共産主義」
 「本質は個人の自由を認めない共産主義」
というもの。

 「共産党員から『まず綱領を読むべきでは』と批判されると、『拝見します』と返事をしたものの、4日夜には全文を削除し」たそうだ。

 この人、悪い人ではなさそう。でも、軽率で、およそ社会科学の素養に欠ける人。軽々に自信のないことを発言して、叩かれると直ぐに引っ込める。朝令暮改を地で行く自民党岸田政権の候補者としては、まことにふさわしいのかも知れない。

 日本共産党岩手県委員会の抗議文は、「党の綱領は、社会発展のあらゆる段階を通じて生活手段としての私的財産が保障されると明記」「共産党がめざす社会主義・共産主義は、人間の自由と全面的な発展が保障される社会」だと強調。「戦前の絶対主義的天皇制の下で平和と民主主義を掲げて不屈にたたかい、戦後も同じ党名で活動することができ、今年で創立100周年を迎える」というもの。この岩手の自民党候補、初めて耳にしたのではないか。

 この人が言う「個人の資本を否定する共産党」とは、「共産主義社会=私有財産制の否定」「共産主義=資本主義の否定」という、どこかで聞きかじったフレーズがごちゃまぜになってのわけの分からぬ文章。共産主義は生産手段の社会化を目指すものではあるが、消費生活に必要な財貨の私有化を否定するような愚を犯すものではない。

 「自分や他人が稼いだものすべてを党が管理し、分配する共産主義」とは、何を根拠とした妄想であろうか。この予定候補者、4年制大学の出身者で弁護士であるというが、ギラつく反共意識だけの人で、知性のかけらもない。慎重にものを言う姿勢もなければ、弱者に対する優しさも感じさせない。

 「本質は個人の自由を認めない共産主義」は、陳腐な反共スローガンだが、無内容。「共産主義の本質}をこう語るからには、その根拠を示す責任があろう。

 ところで、この件はいくつもの教訓に満ちている。

 大学教育を受けた者の知的水準の低下を思い知らされる。
 司法試験の合否は社会科学の素養や理解とはまったく無縁なのだ。
 こんな程度の人物が自民党の候補者になり、もしかしたら議員にもなる。恐るべきことではないか。
 「反共」とは、この程度の底の浅いものなのだ。
 深刻なのは、わけも分からずに「反共」を叫ぶのは、それが集票効果をもつと思わせる状況があるからだ。
 本来の社会主義・共産主義は、人間の解放を目指した思想であり運動である。なによりも、この社会において貧困や格差に苦しむ人々の寄るべきもの。
 だから、「反共」は、支配体制の宣伝による反知性の所産。おそらくは、スターリニズムや中国共産党の専制支配の悪影響なのだろうが、これが功を奏する現状を嘆かざるを得ない。
 しかし、歴史が教えるとおり、反共は、平和や人権や民主主義を擁護する運動の破壊物である。そのことを知らしめなければならない。このお粗末な岩手の候補者にも。

「NO WAR IN UKRAINE」「NO WAR IN THE WORLD」「FUNDAMENTAL RIGHT IN CHINA」

(2022年2月14日)
 北京オリンピックで大きく印象に残るものといえば、中国当局の強権的姿勢、それに対する各国の宥和的態度、不公正な審判、ドーピング等々、白けることばかり。人権を無視したこの国でのこんなオリンピック、どこにやる意味があるのか。何ともつまらぬと思っているところに、たった一つだけ興味のある「事件」が生じた。

 2月11日のスケルトン男子に出場したウラジスラフ・ヘラスケビッチ(ウクライナ)が3回戦のレース後、「NO WAR IN UKRAINE(ウクライナに戦争はいらない)」と英語で書いたプラスターをテレビカメラに向けた。ロイター通信などによると、2度目の五輪となる23歳のヘラスケビッチは「私は戦争を望んでいない。母国と世界の平和を願っている。それが私の立場だ」と訴えたという。

 言うまでもなく、ウクライナはロシア軍による軍事侵攻の危険に曝されており、米国のサリバン大統領補佐官は、「五輪期間中にもロシア軍による侵攻が始まる可能性がある」と表明している。その危機のさなかでの、「NO WAR IN UKRAINE」である。インパクトは大きい。

 五輪憲章第50条は、「政治、宗教、人種的な意思表示」を禁じている。が、昨夏の東京五輪では、試合前や選手紹介中などであれば、節度ある範囲での行為は容認する方針に変わったとされる。東京五輪では、サッカー女子の試合開始前に人種差別に抗議するために片ひざをつく所作(ニーダウン)が見られた。

 ヘラスケビッチのこの日の行動について、「IOCは『選手とこの件について話し合った。一般的な平和への願いなので、この件は決着した』としている」(朝日)。あるいは、「『平和を求める一般的な呼びかけだ』として、処分の対象にはならないという見解を示したということです」(NHK)と報じられている。

 平和を求めることを「政治的意思表示」というだろうか。さすがにIOCも『平和を求める一般的な呼びかけ』を「政治的意思表示」として禁止するとは言えなかった。その意味するところは大きい。

 「NO WAR IN UKRAINE」が許されるのだから、「NO WAR IN THE WORLD」が許されないはずはない。平和を求める一般的な呼びかけだけでなく、自由や人権や人種間の平等という普遍的な価値を求める一般的な呼びかけが、許されないはずはない。

 オリンピックは世界から切り離された特殊な空間ではない。ここでも、人間の尊厳が確保され、人権が尊重され、差別が禁止され、そして表現の自由が保障されてしかるべきではないか。

 とすれば、「世界に基本的人権を」「中国に表現の自由を」「新疆ウイグル自治区になきなき民族間の平等を」などというスローガンの意思表示が禁止されてはならない。

岡口基一判事の弾劾裁判・初回期日は3月2日 ー 罷免の判決をさせてはならない

(2022年2月13日)
 仙台高裁の岡口基一判事(55)が、国会に設けられている裁判官弾劾裁判所(裁判長・船田元)に罷免訴追されたのが昨年(21年)の6月。その第1回公判期日が3月2日に指定され、召喚状が送付された。

 弾劾裁判所は衆参両院の議員7人ずつ計14人の「裁判員」で構成され、3分の2以上の賛成で罷免される。罷免以外の処分はなく、仮に罷免判決となれば不服申し立ての手続はない。罷免の効果として、岡口判事は法曹資格を失う。弁護士としての登録もできない。

 報道によれば、罷免訴追は、2012年に盗撮事件で罰金刑を受けた大阪地裁の判事補以来で9人目(10件目)となった。そのうち過去7人が弾劾裁判で罷免判決を受けているという。また、初公判では人定質問や訴追状朗読などの手続きが行われ、2回目以降の期日は未定だが、判決は今国会中に言い渡されると言われている。

 法廷は公開である。傍聴手続は以下のとおり。
  ○事  件  名   罷免訴追事件(令和3年(訴)第1号)
  ○開 廷 日 時   令和4年3月2日(水)午後1時30分
  ○場 所     裁判官弾劾裁判所(参議院第二別館南棟9階)
  ○傍 聴 席 数   19席
  ○申込み方法等  2月24日(木)の正午までにメール又ははがきで申し込まれた方を対象に抽せん。
   メールで申し込まれる方はこちらから
    https://www.dangai.go.jp/info/boucho.html
 はがきで申し込まれる方は、住所、氏名、電話番号を明記の上
  郵便番号 100?0014
  東京都千代田区永田町一丁目11?16参議院第二別館内
  裁判官弾劾裁判所事務局総務課宛てに申し込みを

私は、昨年8月にこの件についての記事を当ブログに掲載した。目を通していただけたらありがたい。

弾劾裁判所は、岡口基一裁判官を罷免してはならない。
(2021年8月28日)

https://article9.jp/wordpress/?p=17458

「不当な訴追から岡口基一裁判官を守る会」が作られ、罷免に反対する共同声明への賛同者を募集し集約している。

 https://okaguchi.net/
 https://okaguchi.net/?page_id=93

岡口基一裁判官の罷免に反対する共同声明

 本年(2021年)6月16日、仙台高等裁判所判事である岡口基一氏が、裁判官訴追委員会により裁判官弾劾裁判所に罷免訴追された。訴追状によれば、都合13件にわたる訴追事由が挙げられているところ、いずれも職務と関係しない私生活上の行状であり、その全てがインターネット上での書き込み及び取材や記者会見での発言という表現行為を問題とする訴追となっている。
 訴追事由13件のうち10件は、殺人事件被害者遺族に関するものであり、その中には遺族に対してなされたものもあり、内容的あるいは表現的に不適切なものもないわけではなく、この点同判事にも反省すべき点があるのかもしれない。しかしながら、弾劾裁判による罷免は、裁判官の職を解くのみならず退職金不支給、法曹資格の剥奪という極めて厳しい効果をもたらす懲罰であり、裁判官の独立の観点から、軽々に罷免処分がなされてはならない。重大な刑事犯罪により明らかに法曹として不適任な者に対してなされてきた従前の罷免の案件とは異なり、本件には刑事犯罪に該当する行為はなく、行為そのものも全て職務と関係しない私的な表現行為であって、従前の罷免案件に比べ明らかに異質である。このような行為に対する罷免は過度な懲罰であり、岡口氏個人としての人権上も極めて問題であるばかりか、裁判官の独立の観点から憂慮すべき事態である。また、本件が先例となることにより、裁判官の表現行為その他私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。本件行為に不適切性があるとするなら、話し合いや直接の謝罪等で解決されるべきであり、罷免とすることは相当ではない。
 私たちは、裁判官弾劾裁判所に対し、従前の案件との均衡や弾劾裁判所による罷免の重大性等を十分考慮の上、罷免しないとする判決をされるよう要請する。

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 現在、元裁判官(21人)と、弁護士(985人)、および「裁判所職員、司法書士、その他の士業、司法修習生」が賛同者として名を連ね、コメントを寄せている。

まず私のコメント
澤藤統一郎 司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。司法行政の統制に服することなく市民的自由を意識的に行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。その貴重な裁判官を訴追し罷免することは、司法の独立の核心を揺るがすことであり、政治権力による司法部に対する統制を許すことにもなる。けっして罷免の判決をさせてはならない。

そして、元裁判官の何人かのコメントをご紹介したい。

井戸謙一
 弾劾裁判による罷免は、比例原則に違反します。更に他の裁判官は、表現活動で枠を踏み越えると強烈なサンクションが待っていると学習すれば、今以上に、内に閉じこもることになるでしょう。裁判所全体に与える悪影響は図り知れません。

森野俊彦
 「私たちの主張」にもあるとおり、岡口氏の言動中には不適切なものもあるが、これに対して死刑ともいうべき「弾劾罷免」に処することは、到底納得し難く、それでなくとも社会に対して発言しない裁判官をますます萎縮させることになるから、百害あって一利なしというべきである。

山田徹
 岡口君ほど,法律関係の最新の情勢をフォローし,調べた上で自ら考え,臆さずに発信してくれる現役の裁判官はいない。だからこそ今回の件では言い過ぎたところがあるかもしれないが,裁判官としての能力や資質は、明らかに人並み以上である。彼を罷免することなど,法曹界だけでなく社会にとって大きな損失であるし,戒告処分で終わったはずのことである。たくさん物を言ったからといって,そのごく一部分だけをとらえて,これも表現の自由を体現している白ブリーフ写真などと適宜リンクさせるなどして,出る杭は打つかのごとく,自由に物を言える雰囲気を,国家が奪おうとするのであれば,ヒラメ裁判官の養殖こそが優先されることにもなり,貴重な情報に市民が触れることもできなくなり,これこそ表現の不自由展を国が主宰しているようなものだ。訴追委員会や弾劾裁判所を構成する国会議員は,そういったことをわかっているのか。

仲戸川隆人
 裁判官弾劾法2条2号は,「その他職務の内外を問わず,裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行があったとき」を弾劾による罷免の事由と規定している。弾劾による裁判官の罷免は,裁判官を失職させるばかりか,法曹資格を5年以上の長期にわたって喪失させるもので,その法律効果が極めて重大な制裁であるから,その法律要件である同号の「裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行」の解釈適用にあたっては,『著しく』を厳密に解釈し,過去に弾劾裁判で罷免された事案の様に,刑事罰に該当する行為や明確な違法行為に匹敵する行為に限定して適用すべきものである。そうすると,本件で,仮に,訴追状記載の13の各事由が認められたとしても,また,これらを総合して評価をしたとしても,同号の「裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行」に該当すると判断することはできない。万一,本件で岡口基一裁判官を罷免する判決がなされた場合,同号の構成要件を幅広く拡張して解釈して適用する悪しき先例となるから,裁判官の表現行為にとどまらず,裁判官の身分保障,裁判の独立,裁判官の市民的自由に対して計り知れない深刻な影響を与えると考える。

下澤悦夫
1 岡口基一裁判官が、2015年11月12日発生の強盗殺人、強盗強姦未遂刑事事件及び犬の返還請求民事事件に関して、インターネット上で発言した行為は、いずれも憲法が保障する表現の自由に基づいて裁判官に許された行為である。
2 したがって、岡口基一裁判官の前記表現行為は、裁判官として、裁判官弾劾法第2条第1号所定の職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったときに該当せず、また、同条第2号所定の裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったときに該当しない。
3 裁判官弾劾裁判所が岡口基一裁判官に対して、前記刑事事件及び民事事件に関してインターネット上で発言したことを理由に罷免の裁判をすることは違法かつ不当である。

なお、裁判官弾劾裁判所裁判員等名簿は以下のとおり。

裁判長 船田 元(衆・自民)
第一代理裁判長 松山 政司(参・自民)
第二代理裁判長 階  猛(衆・立民)

衆議院選出裁判員
山本 有二(自民)
稲田 朋美(自民)
山下 貴司(自民)
杉本 和巳(維新)
北側 一雄(公明)

参議院選出裁判員
有村 治子(自民)
野上 浩太郎(自民)
鉢呂 吉雄(立憲)
古賀 之士(立憲)
安江 伸夫(公明)
片山 大介(維新)

産経の「主張」は、戦前の文部省と同じことを繰り返している。再びこれに騙されてはならない。

(2022年2月12日)
 「建国記念の日」にこだわりたい。昨日付の産経社説(「主張」)が、「建国記念の日 子供たちに意義を教えよ」というもの。この非論理、このバカバカしい論調が危険極まりない。陳腐なアナクロと看過するのではなく、批判や非難が必要である。「現在の滴る細流が、明日は抗しがたい奔流となりかねない」のだから。私も、子どもたちに語りかけてみよう。産経に騙されてはならないと。

 皆さん、誰もが自分の意見を言ってもよい社会です。この世にはいろんな意見が入り乱れています。ですから、とんでもない意見も堂々と述べられていることに気を付けなければなりません。自分の頭で考えて、納得できるものでことを選ばなくてはなりません。たとえば、産経のような大新聞の社説を読むときにも、とんでもないことが述べられているのではないかと批判の目を失ってはいけません。もちろん、私(澤藤)の意見についてもです。

 「辛(かのと)酉(とり)の年の1月1日、初代の神武天皇が大和の橿原宮で即位した。よってこの年を天皇の元(はじめ)の年となす―と、日本の建国の由来が、日本書紀に記されている。」

 ここには、「日本の建国の由来」が書かれていますが、二つのことに気を付けてください。一つは、「日本の建国の由来」が史実に基づくものではなく、神話をもとに語られていることです。そしてもう一つは、初代天皇の即位を「建国」としていることです。

 未開の時代にはそれぞれの部族がそれぞれの神話を作りあげましたが、文明が進歩するにつれて、考古学や歴史学に基づく客観的な史実を重視するようになりました。いまだに、国の成り立ちを神話に求めて「これこそ自国のプライドの源泉」とメルヘンを語ることは、独りよがりではありますが微笑ましいとも言えましょう。しかし、神話に基づいて「日本=天皇」と言いたくてならない産経のような主張には警戒を要します。悪徳商法の騙しに警戒しなければならないように、です。

 明治維新以来敗戦まで、日本は紛れもなく「天皇の国」でした。そこでは、天皇の天皇による天皇のための政治が行われ、天皇の命令として国民は軍隊に組織され、侵略戦争が行われました。また苛酷な植民地支配も行われたのです。「天皇の国」は、軍国国家、侵略国家でした。戦後の憲法は、その反省から出発しています。

 今、強調すべきは、天皇の支配する国であった日本を徹底して清算することで、「平和を望む国民が主権者の日本」の姿をき近隣諸国に見てもらうことではないでしょうか。戦争を起こした天皇(裕仁)はその責任を認めず、謝罪しないまま亡くなりました。いま、「日本=天皇」と繰り返すことは、とんでもない時代錯誤だと言わざるを得ません。

 「この日は今の暦の紀元前660年2月11日にあたり、現存する国々の中では世界最古の建国とされる。科学的根拠がないから必要ないという批判はあたらない。大切なのは、日本が建てられた物語を私たちの先祖が大切に語り継いできた積み重ねである。」

 「科学的根拠がないから必要ない」の意味上の主語は、「建国記念の日」のようです。しかし紀元節復活反対は、「建国記念の日は科学的根拠がないから必要ないという批判」をしているわけではありません。少なくも私は、「必要ない」ではなく、「有害だから認めない」と批判をしているのです。なぜ有害なのか、天皇という存在、天皇を戴くという制度が、諸悪の根源だと考えるからです。

 「日本が建てられた物語を私たちの先祖が大切に語り継いできた」は、大嘘だと思います。神武東征の物語とは架空のものにせよ、勝者が敗者を武力で制圧した物語です。勝者の物語だけが残りましたが、敗者の怨みの物語は消えていったのです。

 明治期にまったく新しく作られた近代天皇制は、暴力に支えられたものでした。大逆罪、不敬罪、治安警察法、治安維持法、国防保安法、新聞紙法、出版法…。天皇の権威を認めない者にはいくつもの弾圧法規による重罰が科せられました。正式な裁判を経ることなく、特高警察に虐殺された人も少なくありません。この史実に目を背けることは許されません。

 「建国神話を軍国主義と強引に結びつけた批判が一部に残っているのは残念である。日教組などの影響力が強い学校現場でも、建国の由来や意義はほとんど教えられていない。」

 「建国神話と軍国主義とは、故なく強引に結びつけられた」ものではありません。「日本書紀」には、神武天皇が大和橿原に都を定めたときの神勅に、「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」とあります。ここから「八紘一宇」(世界を、天皇を中心とする一つの家とする)というスローガンが生まれ、朝鮮・満州・蒙古・中国への侵略を正当化したのです。

正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる

 国民は、これに乗せられました。今、同じことを安倍晋三や産経がやろうとしています。批判の精神が必要なのです。

 「中学校学習指導要領は「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家及び社会の形成者として、その発展に努めること」と定めている。国の成り立ちを知らなければ、真に国を愛せようか。」

 このような立場を歴史修正主義と言います。あるいは、「愛国史観」と言ってもよいでしょう。本来、大切なのは客観的・科学的に歴史的真実を見つめる姿勢です。ところが、産経の態度はそうではありません。まず、「国を愛する」ことが求められています。そのうえで、「国を愛する」立場から「国の成り立ち」を学べというのです。しかも、その国の成り立ちが、非科学的な架空のものであることは産経とても認めざるを得ません。要するに、史実も科学もどうでもよい。大事なのは、神話を信じて伝承することだ。そうすれば、子どもたちに、天皇制の素晴らしさを植え付けることができる、と言っているのです。

 「きょう、子供たちに日本の建国の由来と意義を教えよう。そして私たちに繁栄した祖国、ふるさとをバトンタッチしてくれた先人に感謝しよう。」

 産経新聞の立場は、基本的に戦前と変わらないものです。私はこう言うべきだと思います。「きょう、子供たちに、日本の建国の由来とされているものが、実は後の世の政治権力が捏造したまったくのウソであることをしっかりと教えよう。さらに、そのウソが国民を戦争に駆りたてるために利用された危険なものであることも教えなければならない。そして、天皇制政府の暴虐に抵抗して虐殺された先人を悼み、それでも抵抗を続けた人々を讃え感謝しよう。」

本日は、天皇制の罪悪を再確認すべき日である。

(2022年2月11日)
 「建国記念の日」である。言わずと知れた旧紀元節。かつて、この日が当てずっぽうに「初代天皇即位の日」とされ、それゆえに「建国の日」とされた。天皇制の発祥と、日本の建国とは同義だった特異な時代でのこと。また、この日は大日本帝国憲法公布の日ともされた。いまどき、こんな日をめでたがってはならない。

 ところが、この日を奉祝しようという一群の勢力がある。いまだに、天皇制という洗脳装置によるマインドコントロール状態を脱しきれていない哀れな人々と、この哀れな人々を利用しようとたくらむ輩と。その勢力にとっては、本日こそが「褒むべき天皇制起源の祝祭日」であり、「歴史修正主義奉祝記念日」でもある。

 本日を我が国の「建国記念」の日とすることは、我が国を「フェイク国家」と貶め、明治期に急拵えされた天皇制絶対主義のチャチな欺しを容認しているという証しにほかならない。

 我が国の近代は珍妙な宗教国家であった。ようやくにして1945年8月に、あるいは遅くとも1947年5月には、旧国家から断絶して国家存立の基本原理をまったく新たにする「普通の価値観国家」となった。が、この断絶にはいくつもの穴があって、往々にして戦前と戦後が相通じている局面に遭遇せざるを得ない。戦前と戦後の断絶を明確に認識する史観と、連続性を強調する史観とがせめぎあっている。本日は、そのことを意識させられる日。

 本日、《「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ》なるものが官邸のホームページに掲載された。その幾つかの節を取りあげたい。

 「「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、国民一人一人が、遠く我が国の成り立ちをしのび、今日に至るまでの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う国民の祝日です。」

 典型的な連続史観の表白である。「愛すべき国の成り立ちは、連綿たる遠い過去にある」として、そのように位置づけられた国の発展を願う、という。国民主権国家、平和国家、人権尊重国家として生まれ変わったこの国の大原則を大切にしよう、とは言わないのだ。

 「長い歴史の中で、我が国は、幾度となく、大きな困難や過酷な試練に直面しましたが、その度に、先人たちは、勇気と希望を持って立ち上がり、明治維新や戦後高度経済成長など、幾多の奇跡を実現してきました。」

 これにも驚かざるを得ない。神権天皇制を拵え上げ、その集大成としての欽定大日本帝国憲法制定に至った明治維新を「勇気と希望をもってする奇跡」と全面肯定し、戦後民主主義と日本国憲法の価値には言及しない。「建国記念の日」とは、明治政府がデッチ上げた皇国史観再確認の日のごとくである。

 岸田メッセージには、わずかに「自由と民主主義を守り、人権を尊重し、法を貴ぶ国柄を育ててきました」とあるが、いかにも歯切れが悪い。「自由と民主主義を守り」は、自由民主党という党名の枠内のものであろうし、「人権を尊重し、法を貴ぶ」は、大日本帝国憲法の法律の留保を連想させる。たとえば、第29条「日本臣民は法律の範圍?に於て言論?作集會及結?の自由を有す」のように。せっかく「人権を尊重し」と言いながら、これに「為政者の作った法を貴ぶ」をくっつけることによって、人権制約を強調しているのだ。
 
 「先人たちの足跡の重みをかみしめながら、国民の命と暮らしを守り抜き、全ての人が生きがいを感じられる社会を目指す。「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、その決意を新たにしております。」

 この岸田の決意の内容が、悪かろうはずはない。しかし、「建国記念の日」を迎えるに当ってのメッセージとなると、どうしても違和感を拭えないのだ。ちょうど、「靖国に詣でて平和を祈念する」「伊勢神宮で民主主義を語る」がごとくの甚だしい場違いなのだ。

 言うまでもないことだが、明治政府は天皇の権威を拵えあげ、これをもって国民を統合し統治しようとの設計図を描いた。天皇は神であり、道徳・文化の源泉であり、しかも大元帥であって、それ故に統治権の総覧者とされた。神権天皇制とは、この壮大なデマとフェイクに基づくマインドコントロールの体系であった。このフィクションを国民に対して刷り込むために国家権力が総力をあげた。学問・教育とメディアを徹底して国家統制とした。そのための弾圧法体制を幾重にも整備した。理性を持つ者は、沈黙するか面従腹背を余儀なくされ、あるいは非国民として徹底して弾圧された。

 紀元節とは、そのような諸悪の根源であった天皇制の起源と意味付けされた日である。言わば、「天皇制の誕生日」なのだ。とうてい穏やかには迎えられない。

 赤旗が、本日の主張で「負の歴史刻んだ過去の直視を」と、紀元節問題を取りあげている。要旨以下の通り。

 「きょうは「建国記念の日」です。もともとは戦前の「紀元節」でした。明治政府が1873年、天皇の権威を国民に浸透させるため、「日本書紀」に書かれた建国神話をもとに、架空の人物である神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位した日としてつくりあげたもので、科学的・歴史的根拠はありません。

 朝鮮半島の支配をロシアと争った日露戦争の宣戦布告も1904年2月10日におこなわれ、11日に新聞発表されました。国民を侵略戦争に駆り立てるために「紀元節」を利用することは、1941年12月8日に開始されたアジア・太平洋戦争のもとでいっそう強められました。

 負の歴史を背負った「紀元節」は戦後、国民主権と思想・学問・信教の自由を定め、恒久平和を掲げた日本国憲法の制定に伴い、48年に廃止されました。ところが佐藤栄作内閣が66年、祝日法を改悪して「建国記念の日」を制定し、「紀元節」を復活させて今日に至っています。

 日本政府が侵略と植民地支配の負の歴史を認めようとしないのは、根深い歴史修正主義の考えがあるからです。登録推薦を行うのなら、戦時中の朝鮮人強制労働の歴史を認めるべきです。

 今こそ歴史の事実と向き合い、憲法9条にたったアジアの平和外交への転換が求められています。」

 ここに間違ったことは書かれていない。まったくそのとおりではある。が、教科書を読ませられるような淡々たる印象はどうしたことか。この文面には、天皇制に対する怒りのほとばしりがない。天皇制に虐殺された多くの共産党員の怨念が感じられない。社会進歩を目指した真面目な活動家たちや、その思想・信条や信仰のゆえに天皇制に弾圧された人々への、苦悩や怒りへの共感が感じられない。

 そして、今なお権力の道具として危険な存在である象徴天皇制への警戒心もみられない。本来は、今日こそ天皇制の危険を訴えるべき日ではないか。

真実と法的正義に唾する検察官の言 ー「確定判決の法的安定性を損なうから再審の証拠開示には応じられない」

(2022年2月10日)
 救援新聞2月15日号(旬刊)が届いた。国民救援会元会長・山田善二郎さんの訃報が掲載されている。享年93、私もこの記事のとおり、「生前のご活躍に深く感謝するとともに、謹んで哀悼の意を捧げます」と心から申しあげる。

 同じ号に、いくつもの重要な弾圧事件・再審事件の動きが報道されている。倉敷民商・禰屋事件、鹿児島・大崎事件、静岡・袴田事件、東京・乳腺外科医師事件など。そして、日弁連の再審法改正に関するシンポジウム紹介が充実している。このシンポで、冤罪犠牲者を代表して発言した桜井昌司さん(茨城・布川事件再審無罪の元被告)は、こう語っている。この人の言葉は重い。

 「証拠を捏造する警察、無実の証拠を隠す検察官、それらの経過を見逃し、科学的証拠を無視して有罪にする裁判官。今の日本は法治国家とは言えない。法の改正を議論する際に、冤罪体験者の声をなぜ聞かないのか。あなたが冤罪になったとき、今の制度でいいのか、ということです。一日も早く、再審法改正が実現できるようがんばります」

 「無実の証拠を隠す検察官」の実例として、東京・小石川事件が取りあげられている。「検察の証拠隠しに抗議 誤判究明を妨害するなと宣伝。東京高裁」という見出し。この事件、日弁連が再審支援をしている事件の一つだが、まだ十分に知られていない。

 私がこの記事に目を引かれたのは、次の一行である。再審弁護団からの証拠開示請求に対して、検察官はこれを拒否する理由としてなんと言ったか。
 「証拠を開示することは確定判決を全面的に見直すことになり、確定判決の法的安定性を損なう」

 なんという言いぐさだろう。「再審請求人の人権」よりも「確定判決の法的安定性」が大切だというのだ。私の耳にはこう聞こえる。「せっかく苦労して獲得した有罪判決だ。隠していた証拠をさらけ出して無罪となったら、これまでの苦労が水の泡じゃないか。再審事件の裁判所は、これまで検察側で選んで出した証拠だけで判断してもらいたい」

 刑事事件における法的正義とは、単純明快である。「無実な人には無罪の判決を」「厳格な有罪の立証ができない限りは無罪の判決を」ということに尽きる。このことは、「被告人の人権を尊重し、権力の抑制を求める」ことでもある。被告とされた人の人権は、再審手続においても、大切な人権であることに変わるはずはない。

小石川事件の概要
http://www.kyuenkai.org/index.php?%BE%AE%C0%D0%C0%EE%BB%F6%B7%EF

 2002年8月、東京都文京区小石川のアパートで、一人暮らしの女性(当時84歳)の遺体が発見されました。約1カ月後、同アパートで恋人と同居していた伊原康介さんが、アパートの別の部屋から現金8万円を盗んだ件で逮捕・起訴され、ほか2件の窃盗容疑で追起訴されました。その勾留中に強盗殺人の犯人だと取調べを受け、否定しましたが、嘘や暴力をともなう執拗な取り調べで約4カ月半後に「自白」をさせられました。裁判では無実を訴えましたが、無期懲役刑が確定し、千葉刑務所に収監。獄中から訴えを続け、日弁連がえん罪事件として支援を決定し、2015年、東京地裁に再審請求を申し立てました。東京地裁は2020年3月不当にも再審請求を棄却し、現在東京高裁に即時抗告をしています。

情況証拠のみで有罪
 原審によれば伊原さんは、2002年7月31日午後9時10分ごろ、アパート2階に住む女性の居室において、整理タンス上の小物入れを物色中、女性に気づかれたので、女性の背後からタオル等を口部等に押し当てて引き倒し、口の中にタオルを押し込むなどして窒息死させ、現金約2千円が入った財布を強取したとされています。
 有罪の根拠は、?被害者宅の小物入れ内のスキンローションの瓶から伊原さんの指紋が採取された ?死亡推定時刻にアリバイがない ?外部から侵入した形跡がない ?100万円以上の借金があり、財政的にひっ迫していた ?所持金がなかったのに、事件翌日にコンビニで買い物をしたなどの状況証拠と「自白」だけです。

残るはずの痕跡なし(再審請求の新証拠)

●犯人のDNA型と一致しない
 確定判決では「自白」を根拠に、伊原さんが被害者女性と激しくもみ合い、女性を仰向けに倒し、柔道の袈(け)裟(さ)固めのような体勢にして、タオルを口の中に押し込んだとされています。このような犯行態様であれば、タオルに犯人の皮膚片や垢等が付着するため、DNA型が検出される可能性が高くなりますが、弁護団の鑑定結果によると、タオルから検出されたDNA型は伊原さんのものとは異なることが判明しています。
●着衣の繊維が検出されていない
 被害者を倒して、自身の身体を被害者に強く押しつけた場合、被害者の手指や着衣に、犯人の着衣の繊維が付着します。ところが検察側提出の鑑定書には、被害者の手指等から、伊原さんのシャツに類似する繊維が付着していたと記載があるのみでした。弁護団の鑑定によれば、伊原さんの着衣の繊維は1本も検出されませんでした。
●物色したタンスに指紋がない
 確定判決は、伊原さんが整理タンスの小物入れを開けて、中を物色したとしています。伊原さんの指紋が付いたとされるスキンローションの瓶は、小物入れに入っていました。しかし、小物入れの前にはラジオが置いてあり、どかさなければ戸の開け閉めはできません。ラジオからも物色したとされるタンスからも、伊原さんの指紋は検出されていません。瓶の指紋は、事件の1カ月前に伊原さんが窃盗で同女宅に侵入した際に付いた可能性が高いものです。

 伊原さんは、逮捕以来3カ月半以上も勾留され、犯行に関わりのない昏睡強盗の別件を持ち出され、殺人を認めれば別件は起訴しないとの利益誘導や偽計、脅迫を受けました。「自白」をした日は、トイレも行かせてもらえず、取調べの警官から平手で殴られる、胸倉をつかまれるなどの暴行が加えられました。
 確定判決の根拠とされた「自白」は客観証拠と矛盾し信用できず、取調べの経過から任意性も認められません。情況証拠はいずれも弱く、伊原氏を本件犯行と結びつける証明力はありません。

不当な東京地裁の再審棄却決定
 ところが、再審を担当した東京地裁は、弁護団の度重なる証拠開示の要請に対して、充分な開示を行わず、事実調べも行わないまま不当な再審請求棄却決定を送りつけてきました。
 この決定は、弁護団の新証拠に対して充分な検討もせずに、あれこれと難癖をつけて、「採用できない」とする不当なものです。伊原さんは「充分な証拠開示や審理を尽くさず、何も調べようとしないのは悲しい」と述べています。
 弁護団は即時抗告を行い、たたかいは東京高裁に移ります。引き続きご支援をお願いします。

そこかしこ同じ穴のムジナがうようよ ー 石原慎太郎の毀誉褒貶

(2022年2月9日)
 石原慎太郎の死去が2月1日だった。「棺を蓋いて事定まった」はずなのだが、この人の場合、生前にもまして毀誉褒貶のブレが大きい。石原の同類や同類へのへつらいが、こんな人物を褒めたり、懐かしがったり、持ち上げたりしている。この際、石原の死に際して、誰がなんと言ったかをよく覚えておこう。 「自分は石原なんぞとの同類ではない」と声をあげている人が清々しい。たとえば、本日の東京新聞「本音のコラム」欄、斎藤美奈子の「無責任な追悼」という一文。抜粋しての引用。爽やかに辛辣である。

 「石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。『文明がもたらしたもっとも有害なものはババア』『三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している』。暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。
 …作家としての石原慎太郎の姿勢にも私は疑問を持っている。朝日新聞の文芸時評を担当していた2010年2月。「文学界」3月号掲載の『再生』には下敷(福島智『盲ろう者として生きて』)。当時は書籍化前の論文)があると知り、両者を子細に読み比べてみたのである。
 と、挿話が同じなのはともかく表現まで酷似している。三人称のノンフィクションを一人称に書き直すのは彼の得意技らしく、田中角栄の評伝小説『天才』も同様の手法で書かれている。これもまた『御大・石原慎太郎だから』許された手法だったのではないか。
 各紙の追悼文は彼の差別発言を「石原節」と称して容認した。二日の本紙(東京新聞)「筆洗」は『その人はやはりまぶしい太陽だった』と書いた。こうして彼は許されていく。負の歴史と向き合わず、自らの責任も問わない報道って何?(文芸評論家)」


 浮かび上がる石原像は、基本的に汚い。そして、弱い者イジメを売り物にした唾棄すべき男。

 もう一つ、紹介しておきたい。本日配送された週刊金曜日に、斎藤貴男の「弔辞」が掲載されている。「ヘイトやフェイクの時代の先駆者、石原慎太郎氏への弔辞」というタイトル。その記事の中に、こんなことが書かれている。私は、初めて知って仰天した。

 「石原氏は16年東京五輪の招致活動で、IOC(国際オリンピック委員会)のロゲ会長(当時)に手紙を書いている。〈忌まわしい戦争〉から解放された少年時代に、〈民族を違えても人間は人間としてある〉と痛感したとする回顧から書き起こされ、わが祖国はその戦争への反省から〈戦争放棄を謳った憲法を採択し〉て今日に至った、日本で〈民族の融和、国家の協調を担う大きなよすがとなるオリンピックを行うことは、世界の平和に大きな貢献ができるものと信じます〉と結ばれていた。

 大嘘だった。近頃の若者がダメな理由はと問われた彼が「60年間戦争がなかったから」「『勝つ高揚感』を一番感じるのは、スポーツなどではなく戦争だ」と断じたのは五輪招致を言い出す半年前(『週刊ポスト』05年1月14・21 日号)。招致失敗後も何も変わらなかった。」

 斎藤貴男による石原評は、さすがに鋭く的確である。「石原氏は安全圏から標的を見下し、せせら笑って悦に入る。思えばヘイトやフェイクが猖獗を極める時代の、彼は先駆者だった。」「権力者にとって便利な人だった。躊躇のない差別は、新自由主義や、もちろん戦争の大前提であり、“理想”でもあるからだ。都政を私するコソ泥三昧が許された所以か。」「慎太郎的なるものの定着などあってはならない。合掌。」

 一方、こちらは、石原慎太郎と同じ穴のムジナか、ムジナへの迎合者たちの弁である。NHK・Webnewsに掲載された、「石原氏の死去を受けて、各界から悼む声が上がっています」という、延々たる記事の見出しを並べてみただけのもの。

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