(2022年4月20日)
いつからだろうか、何を切っ掛けにしてのことかの覚えはない。私のメールボックスに「産経ニュースメールマガジン」が送信されてくる。ときにその論説に目を通すが、愉快な気分になることはなく、なるほどと感心させられることも一切ない。とは言え、怪しからんと思うことも、黙らせたいと思うことも通常はない。そもそも思想信条も言論も自由なのだから。
しかし、昨日送信を受けた「榊原 智コラム・一筆多論」には、看過し得ない危険を感じる。一言なりとも批判をしておかねばならない。ことは、自衛隊という軍事力=組織的暴力装置の取り扱いに関わるもの。この危険物の取り扱いに失敗すると、軍国主義復活につながりかねない。維新と産経がその先導役を買って出ているような臭いがするのだ。なお、榊原智とは産経の論説副委員長だという。
論説の内容は、共産党委員長志位和夫の「新・綱領教室」出版発表会見での言説に対する批判である。「ロシアのウクライナ侵略があっても目が覚めないのか―」「日本の政党の防衛政策は合格点にあるとはいえないが、共産党と立憲民主党という左派政党の姿勢はとりわけ嘆かわしい」という調子。こういう批判・非難はいつものことで、とるに足りない。
産経が問題にしたのは、志位委員長が言ったという「急迫不正の主権侵害には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守り抜く」という発言。
産経は非難がましく、《共産は綱領で、「憲法9条の完全実施(自衛隊の解消)」「日米安保条約の廃棄」を目指している。一方、2000(平成12)年の党大会で、自衛隊の段階的解消を掲げつつ、侵略があれば自衛隊を「活用」すると打ち出した》と解説している。誰が見ても、共産党の綱領は憲法に忠実な姿勢であろう。産経の批判は、「共産党は憲法遵守の姿勢を貫いて怪しからん」と聞こえる。
また産経は《日本維新の会の馬場伸幸共同代表が14日、「国防という崇高な任務に就く自衛隊を綱領で『違憲だ』と虐げつつ、都合のいい時だけ頼るとはあきれる」と批判したのはもっともだ」と言う。フーン、維新と産経、話が合うんだ。ここまでは、聞き流してもよい。問題は次の一文である。
《自衛隊は政治の命に服すべき組織だが、政治家も含め国民は、諸外国の人々が軍人に対するのと同様に、自衛隊員に敬意を払い、支えるべきだろう。命がけで日本を守る決意をしてくれた人たちだ。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」ると宣誓している。》《共産は自衛隊攻撃を自衛隊と隊員に謝罪し、敬意を払うのが先だ。それなしに自衛隊「活用」を唱えても真剣に防衛を考えているとは思えない。参院選対策の戦術的擬態だと国民に見透かされるのがオチだろう。》
国民に《自衛隊員に対する敬意》を要求し、共産党には《自衛隊と隊員に謝罪せよ》と言うのが産経の態度なのだ。
ことさら確認するまでもなく、《平和を望むのなら、さらなる防衛力の増強と軍事同盟の強化に邁進せよ》というのが、自民・維新・産経の立場である。このことについては、論争あってしかるべきである。しかし、《自衛隊員に敬意を持て》《自衛隊と隊員に非礼を謝罪せよ》と言い募る産経の論調は、それ自体厳しく批判されなければならない。これは、危険な言説である。
軍事力とは厄介なもの、日本国憲法はこれを保持しないと定めたが、現実には自衛隊という「軍事力」がある。暴走すれば、国民の人権も民主主義も破壊する。このような組織的暴力装置は、徹底した文民(主権者国民)の管理下に置かねばならない。だから、自衛隊について、「存在自体が危険」とも、「違憲であるが故に存在してはならない」とも、「直ちに廃止すべき」とも、「段階的に縮小すべき」とも、意見を言うことにいささかの遠慮もあってはならない。この点についての国民の批判の言論は、その自由が徹底して保障されなければならない。
「国防という崇高な任務にまず敬意を」「命がけで国を守る人に批判とは何ごとぞ」という論説は、けっしてあってはならない言論封殺である。権力者にも、権威にも、そして危険物である自衛隊についての論議においても、国民の意見表明の権利は徹底して保障されなくてはならない。
自衛隊のあり方に対する批判に躊躇せざるを得ない空気が社会に蔓延したときには、軍国主義という病が相当に進行していると考えざるを得ない。その病は、国民にこの上ない不幸をもたらす業病である。軽症のうちに適切な診察と治療とが必要なのだ。産経のように、これを煽ってはならない。
(2022年4月19日)
来月15日で、沖縄の本土復帰から50年となる。その企画記事が目に付くようになったが、毎日の「沖縄の人々は日の丸の向こうに何を見ていたのか」という連載に注目したい。「沖縄の人々が日の丸を通して見ていたもの」は、時代によって違うのだ。そのことのレポートとなっている。
昨日の記事のタイトルは、「基地の街に並んだ日の丸 あれから半世紀『沖縄の真の復帰まだ』」という、複雑なニュアンス。
「その数日間は戦後の沖縄で日の丸が最も盛んに振られた日々だったのかもしれない。1964年9月、日本本土に先駆けて沖縄に到着した東京オリンピックの聖火は、日の丸の小旗で熱烈に迎えられた。そこは当時、米国が統治する島だったのに、だ。」
取材対象となったのは、当時大学2年生だった岸本義弘さん(77)。「沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)のセンター通りで聖火を引き継いだ。沿道に詰めかけた観衆から拍手と「頑張れー」の声援が湧いた。米兵相手の飲食店が建ち並ぶコザ。そんな基地の街にも日の丸が等間隔で並び、小学生たちも竹ざおに日の丸の旗を付けて振った。
岸本さんは太平洋戦争の末期、米軍が沖縄に上陸する直前の45年2月に生まれた。生後まもなく、父は戦場で、母は空襲で亡くなった。戦後、島を占領統治したのは両親の命を奪った米軍だった。「ほとんど植民地扱いでしょ。米軍が憎たらしかった」。だからこそ、聖火を囲む無数の日の丸に感激した。「これで日本国民になったと思った。復帰はもう間近だと」
その岸本さんが今はこう呟く。「沖縄の人がいくら反対しても基地は県内に押しつけられる。沖縄は日本になりきれていない。本土の人ももう少し一緒になって考えてほしい。それが本当の意味での復帰ではないか」
そして、本日は、もう少し遡った時代についての記事。「日の丸、御真影がよりどころ 士気高揚、皇民化…結末は沖縄戦」というおどろおどろしいタイトル。
「戦後27年間の米国統治下の一時期、沖縄で「祖国復帰」への願いを込めて盛んに振られた日の丸。だが、時代をさかのぼると、その旗は県民を巻き込んだ太平洋戦争末期の沖縄戦に至る経過の中で、重要な役割を担ったものでもあった。」
1879年のいわゆる「琉球処分」で、約450年にわたる琉球王国が廃止され、県が設置された沖縄。約20年後には沖縄でも徴兵制が始まり、日中戦争(1937年開戦)では沖縄からも兵士が前線に派遣された。集落の人々は日の丸の小旗を振って兵士たちを見送った。
1941年12月、日本軍による米ハワイの真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争。當真嗣長(とうましちょう)さん(91)が通っていた国民学校の教室には世界地図が貼られ、日本軍が南方の地域を占領する度に、子供たちが紙に描いた日の丸を貼り付けていった。當真さんの心は高揚した。
子供たちの心を震わせたのは日の丸だけではなかった。1887年以降、沖縄の学校には順次、天皇の写真「御真影」が配られ、奉安殿と呼ばれた建物などに納められた。現在の那覇市にあった沖縄師範学校女子部の生徒だった黒島奈江子さん(98)は「絶対的なものだった。恐れ多くて、奉安殿の前ではせきさえできなかった」と証言する。祝日は奉安殿に日の丸が掲げられ、生徒たちは敬礼を求められた。
沖縄では、日本との同化を図るため、学校を拠点に皇民化が強力に推し進められた。日本は天皇を中心とする国家体制を造り上げ、大陸へと進出していった。その結末が沖縄戦だった。
沖縄では、時代によって「日の丸」のもつ意味が変わってきたのだ。かつては、新興天皇制政府の専制のシンボルであり、皇国にまつろわぬ人々への弾圧のシンボルであった。やがては県民がこれに服属を表明するシンボルとなり、本土から捨て石とされた沖縄戦では皇国に対する忠誠心のシンボルとなった。
新憲法制定後に、まだ主権者気取りだった天皇(裕仁)から捨てられた沖縄は日本が独立したあとも、米軍の統治下におかれた。このような事態において、「日の丸」はその意味を変えた。横暴な占領者アメリカに対する抵抗のシンボルとなり、当時の沖縄における本土復帰運動のシンボルともなった。
私は、66年暮れの1か月余復帰前の沖縄に滞在する機会を得てそのことを実感している。64年東京オリンピックの「日の丸」を打ち振った沖縄の人々の思いが痛いほど分かる。が、琉球処分やその後の沖縄の歴史を思えば、「日の丸」を打ち振った人々の胸の底にある切なさも思わずにはおられない。
「本当の意味での復帰」は、まだない。そもそも、沖縄が「復帰」を求めた日本とはどんな国あるいは社会だったのだろうか。そして、これから沖縄にとって、「日の丸」とはどんな意味をもつことになるのだろうか。復帰50年、答は見えてこない。
(2022年4月18日)
ロシア国防省は、17日包囲攻撃を続けるウクライナ南東部の要衝マリウポリで、製鉄所構内に立てこもったウクライナ部隊に降伏を勧告し、ゼレンスキーはこれを拒否した。局地的には絶望的な戦況での、部隊の殲滅を覚悟しての降伏拒絶である。本日夕刊の報道では「マリウポリ抵抗続く」とされてはいるが、希望は見えない。胸が痛む。
全軍の士気高揚のために、また国民の戦意を持続するためにも、徹底抗戦あるべきだろうか。あるいは人命尊重の見地からは降伏を受容すべきか。どちらが正しい選択なのだろうか。
旧帝国には大元帥である天皇が兵に与えた心得である『軍人勅諭』が、「死は鴻毛より軽しと心得よ」と教えた。さらに、陸軍大臣東條英機が示達した『戦陣訓』は、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」として、「降伏よりは死を」強要した。
盛岡で親しくした柳館与吉さんを思いだす。私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた人。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父・澤藤盛祐も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされている。もっとも、柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。
柳館さんは、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。
戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。
戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながらの投降は可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。
しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1947年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸・海軍刑法第7章「逃亡罪」は、敵前逃亡を死刑としていた。「出て来い。ニミッツ、マッカーサー」と叫んでいた時代に、当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、自ら投降して生き延びた。見つかれば、確実に銃殺となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。
ロシア軍の占領地での蛮行がなければ、ウクライナ軍司令部も降伏勧告受容の選択が可能であったかもしれない。投降しても、捕虜に対するロシア軍の苛酷な扱いは避けられないという判断もあるのだろう。暴力に対する憎悪と不信のエスカレートが、ウクライナ軍兵士の投降を阻んで、戦争をさらに凄惨なものにしている。
戦争になれば、戦闘も降伏も、敵も味方も、兵も民間も、勝利も敗北も、何もかもが悲惨極まりない。戦争を避けるあらゆる努力を惜しんではならない。
(2022年4月17日)
本日の赤旗社会面に、要旨以下の記事が掲載されている。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-17/2022041713_01_0.html
《元社員向け広報に「国民」参院候補チラシ同封》
東電が元社員に定期的に郵送している社内報(『TEPCOmmunity(テプコミュ)』)に、7月の参院選に国民民主党から比例代表で立候補する竹詰ひとし・東京電力労働組合委員長への支援を求めるチラシが同封されていた。
チラシには、「先輩の皆さまへ」として、「東京電力労働組合は『竹詰ひとし』を電力の代表として国政へ送り出すため、組織の総力を挙げて取り組んでまいります」と書かれている。
竹詰は自身のツイッターで原発について、「日本もより安全性や信頼性等に優れる革新的な炉へのリプレース・新増設や研究開発等の必要性をエネルギー政策に明確に位置づけるなど、原子力の将来ビジョンを国の意思として打ち出すべき」だと述べ、原発推進を訴えている。国民民主党も原発の早期再稼働を主張。2022年度政府予算に賛成し、事実上の与党となっている。
赤旗は、「東電は福島第1原発事故後、実質国有化されている。公的性格がきわめて強い企業が、事実上の与党となった政党の候補を支援する」ことへの批判を紹介している。が、それだけが問題なのではない。
東電労組の「『竹詰ひとし』を電力の代表として国政へ送り出す」という一文が衝撃である。「電力の代表」とは、電力業界の代表の謂いである。労働者・労働組合の代表でも、労働界・労働運動の代表でもなく、電力業界の代表だというのだ。
労働組合が臆面もなく企業・業界代表の姿勢を公言し、だからこそ企業が選挙に協力する。いや、実のところは、企業の代表者が労組の仮面を被って選挙に出馬しているとみるべきだろう。
この竹詰という候補者のホームページには、こんな政策の訴えがある。
??「環境と経済の両立」に向けた現実的な政策を政治へ?
「S+3E」を基本とした現実的なエネルギー・環境政策の実現
資源に恵まれない日本の「エネルギー安全保障」を確保するため「S+3E」の考えのもと、再エネや原子力・火力等、既存の人材や技術を最大限活用した現実的なエネルギー・環境政策の実現に取り組みます。
「S+3E」とは、2021年10月に閣議決定された第6次エネルギー基本計画での基本コンセプト。安全性(Safety)を前提としつつ、安定供給(Energy Security)を確保し、経済性向上(Economic Efficiency)と、環境への配慮(Environment)を図るとする。要するに、「S+3E」は原発再稼働容認とセットになって使われ、原発推進OKというお札となっている。
福島第1原発事故の責任者である東電自身が言いにくい原発再稼働推進を、東電労組と、候補者竹詰に言わせている図である。東電は労使協調を旗印とする典型的な御用組合である。だから、東電労組委員長が立候補する選挙は、企業ぐるみ選挙であり、業界ぐるみ選挙であり、労使渾然一体ベッタリ選挙とならざるをえない。
この予定候補者の最近のツィッターにも、「法令に基づく安全基準を満たした原子力の早期再稼働が必要! (午前8:58?2022年4月15日)」と露骨である。
ところで、この人の肩書は、「東電労組・中央執行委員長、関東電力総連・会長、全国電力総連・副会長」であるという。言うまでもなく、電力総連は連合の有力単産である。この電力総連の姿勢は、連合の姿勢でもある。
こうして、企業に支配された労使協調の労働運動は連合に束ねられ、さらに国民民主党をパイプとして保守政権につながり、飲み込まれている。
資本主義社会においては、使用者と労働者の対峙という基本構造がある。真に労働者の利益を守ろうという労組・労働運動は、使用者から独立していなければならない。これが、労働運動の大前提であり、労働法のキホンのキである。ところが、連合・電力総連の「労働運動」は、資本や使用者と対峙する姿勢をもたなない。むしろ企業や財界の意を忖度して、その代弁者として活動する。
東電労組委員長で「電力代表」という、国民民主の予定候補者・竹詰よ。君はいったい、誰のために、誰と闘おうというのか。本来は、労働者のために、東電や財界や、財界の意を政策としている政権と闘わねばならない。しかし、現実にはそうなっていない。
君は、東電と電力業界の利益のために、連合や国民民主の一部隊として闘おうというのだ。君が闘う相手は、立憲民主党であり、日本共産党である。そして、その政党を支えている、資本から独立した自覚的労運動であり、中小零細の未組織労働者であり、厖大な非正規労働者である。君の当選は財界には歓迎されるが、今の世に苦しんでいる弱い立場の人々をさらに不幸にするだけだ。君の落選を願ってやまない。
(2022年4月16日)
一般には、「現状」の墨守は革新への妨げである。とりわけ、「不合理な現状」であれば変更して悪かろうはずはない。だが、どんな方法を用いてでも「現状」を変えてよいことにはならない。むしろ、実力による現状の変更は、通常は違法となる。また、現状が変更を合理化するほど不合理であるか否かの判断は難しい。間違いのないことは、力の強い者が一方的に決めてよいことではないということ。
国家が力づくで不満とする現状を変えようとすれば侵略戦争になる。かつて、旧日本帝国は朝鮮を侵略し、続いて満州を占領して中国に攻め入り、遂には真珠湾を攻撃して太平洋戦争の引き金を引いた。そして今、現状を不満とするプーチンのロシアが、隣国ウクライナの主権を侵している。
どの戦争についても言えることだが、開戦を合理化する理屈はどうにでも拵え上げることができる。戦争を起こした側の国民の大多数はその理屈を受け入れて、圧倒的に戦争を支持する。自国に正義があると思い込みたいのだ。その基礎をなす愛国心だの祖国の栄光を讃える心情などほど危険なものはない。
さて、香港である。「一国二制度」とは、中国自身が受容した「現状」であったはず。これが、一方では中国の独裁体制が深刻化し、もう一方では香港の民主化の進展が著しく、「二制度」の乖離が大きくなった。この「現状」を容認しがたいとする中国共産党が実力で「変更」に乗りだした。相手が独立国ではないから、戦争にはならない。野蛮な弾圧となっている。
権力とは人民から委託され、人民に奉仕すべきものという文明世界の共通原理はここでは通用しない。剥き出しの暴力と、暴力による威嚇が、文明社会では大切にされる言論の自由、政治活動の自由を遠慮なく蹂躙する。蛮族の支配さながらに、全ては実力を掌握した一党の幹部の思いのままである。
香港には人民の意思を政治に反映するシステムとしての三権分立の制度が整備されており、近年まで立派に機能していた。その文明が、無惨にも野蛮の暴力に屈せざるを得ない。中国共産党は、香港議会の選挙に介入し、司法に圧力をかけ、民主主義を支える言論の自由を古典的な手口で弾圧した。そして今、総仕上げとして、行政のトップを意のままになる人物に変更しようとしている。
香港政府トップの行政長官選挙は5年に1度行われる。新型コロナの感染拡大の影響で延期されたが、5月8日予定となり、立候補の受け付け期間は4月3日から2週間とされ、14日夕に締め切られた。立候補は、党の眼鏡にかなった李家超ただ一人。既に「当選確実」である。その去就が注目された現職の林鄭月娥も立候補しなかった。
この選挙の投票権は、一般の市民にはなく、親中派が99・9%を占める1500人の選挙委員が投票して選ぶ仕組みだという。しかも、立候補には188人以上の選挙委員の推薦を受けることが必要とされ、李は13日に届け出をした際、半数を超える786人の推薦者名簿を提出している。
李家超(ジョン・リー、64)とは、警察出身で現政府ナンバー2だった人物。民主派に対する「弾圧の急先鋒」「強硬派」として知られ、「選挙の形骸化も決定的」と報じられている。
香港メディアによると、「中国政府は、李氏が唯一の候補者だと選挙委員に伝えて結束を求めており、投票前から当選者が事実上、決まったも同然」だという。
さらに朝日が伝えるところでは、李は、「香港の治安機関トップとして、2019年の逃亡犯条例改正案をめぐる反政府デモの後、民主活動家らに催涙弾を使って取り締まりを指揮。中国共産党に批判的だった香港紙「リンゴ日報」を廃刊に追い込んだ強硬派として知られる。こうした中国政府の方針に忠実な態度が評価され、昨年6月に政府ナンバー2の政務長官に抜擢されていた」とのこと。なるほど、さもありなん。
プーチンはウクライナに侵攻し、習近平は香港の民主主義を蹂躙した。ともに、文明社会のルールを無視して、現状を実力で変更した。いつの日か、歴史の審判を受けるであろうか。
(2022年4月15日)
ウクライナ戦争のさなか、情報戦も熾烈である。何が真実か、真実をどう見極めるべきか、そもそも真実とはいったい何だろうか。錯綜する情報にどう向き合うべきか。多くの人の悩みを反映して、アンヌ・モレリ著「戦争プロパガンダ 10の法則」(草思社・永田千奈訳、初版2002年3月刊)が話題となっている。この「10の法則」を岩月浩二さんが、メーリングリストに次のとおり紹介してくれた。
1 われわれは戦争をしたくはない
2 しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3 敵の指導者は悪魔のような人間だ
4 われわれは領土や覇権のためにではなく、偉大な使命のために戦う
5 われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる
6 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7 われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
8 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9 われわれの大義は神聖なものである
10 この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である
この法則は、イギリスの軍人でもあり政治家でもあったアーサー・ポンソンビー著の「Falsehood in Wartime(戦時の嘘)・1928」に出てくる、第一次世界大戦当時のプロパガンダを分析したもの。アンヌ・モレリは、その後に起こった第二次世界大戦やさまざまな戦争の情報を盛り込んで、1法則1章の章立で解説している。なお、モレリの肩書は、ブリュッセル自由大学歴史批評学教授となっている。
そして、モレリは11番目の法則を付け加えている。
「新たにもうひとつ法則を追加しよう。
『たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ』」
この本については、NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」4月8日の「ヒミツの本棚」でも取りあげられている。その最後の部分の高橋の解説が興味深い。
モレリさんは書いています。「戦争プロパガンダの法則について考えてゆくと、最後には次のような根本的な疑問にたどりつく」「真実は重要だろうか。」
本当のことって分かんないんだから、もうどうでもいいみたいになるのか、それでも本当の事を探すべきなのか。
何が本当かわからなくなってくるっていうときに、我々はどうしたらいいのか。「なにもかも疑うのもまた危険なことではないだろうか」
これメディアリテラシーの話なんですよね。いま皆さんもいろんなメディアの情報にさらされてて、そういう時にどうしたらいいのかと。「これまでの歴史のなかで、戦況を左右した「情報」が、その後あっさりと否定され、しかもその否認が何の反響も引き起こさないとなると、真実には何の価値もないのだろうかという疑問がうかぶ」
モレリさんはこういうふうに言ってます。
「行き過ぎた懐疑主義が危険であるとしても」、「盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアは日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭のなかまで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。」
モレリさんの最後の結論は最後の1行に出てきます。
「疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、漠とした対立が続くときも。」
今の目の前の戦争もそうだけれども、こういったことは戦争だけじゃないよね。だから本当にいま困難な中で、明せきでいられるにはどうするか。絶えず自分で注意して、でも自分が取っている情報が本当かどうかもわからない中で、どうしたらいいのか、っていうときに、こういうプロパガンダの法則があるというのを知っていると、ちょっと我に返るためには、僕はすごくいいことだと思いました。
戦争目的の聖化や敵の悪魔化は、皇軍やナチスの専売特許ではない。そして、過去のことでもなく、戦争遂行に限られたことでもない。リテラシーを研ぎ澄まして、プロバガンダに対する強い免疫を獲得せねばならない。
(2022年4月14日)
今朝の毎日の第11面「激動の世界を読む」シリーズに、酒井啓子・千葉大教授の骨太の論説。ネットでは有料記事のようだが、読むに値する内容。こんな論説を読めるのだから、新聞というものは実に廉い。
https://mainichi.jp/articles/20220414/ddm/004/070/017000c
《「侵攻」をめぐる二重基準》《ゆがめられる国際規範》という二つの大きな主見出しに、『難民対応でも違い』『「現状」とは何か』そして、『論理酷似する米露』という小見出しが付いている。
キーワードの第1は、「二重基準」である。
アフガニスタン戦争、イラク戦争など米国の軍事介入と、今回のロシアのウクライナ侵攻。同じ「大国による現状変更の軍事介入」でありながら、国際社会は「よい介入」と「絶対悪としての介入」と極端なダブルスタンダードの評価をした。
そのことが難民対応の違いともなる。ウクライナ難民に対して、日本などはもろ手を挙げて受け入れを表明した。一方、シリアやイラク、イエメンなど、同じく外国の介入が原因で難民化し、受け入れを何十年も待ち続けている人々が、ウクライナ難民優先で放置される。
キーワードの第2は、「現状変更」。
「武力による現状変更」というときの「現状」とは何か、という問題。欧米の言う「現状」がソ連崩壊後の国際秩序であるのに対して、ロシアにとっては、帝国期からソ連時代に至るロシア文明圏の維持が、あるべき「現状」なのだろう。
何が「維持されるべき現状」なのかを決めるのは、戦争の勝利者である。勝利者のルールに阻まれて失地が回復できないなら、自らが勝利者となるしかないと考える力の論理が横行する。
キーワードの第3は、「米露の論理酷似」。
20年間の「対テロ戦争」で多大な負担と損害を被って、米国は介入先から撤退した。だが、米国が多用した正当化の論理は、そのままロシアに引き継がれている。自派勢力に武器と義勇兵を投入し、それを正当化するために人道と正義をかざすなど、そうした軍事介入での手法が常とう化され、米国からロシアに継承されている。
そして結論が《ゆがめられる国際規範》を正さねばならないということ。
国際規範が大国によって徹底的にゆがめられ、恣意的に利用されてきたために、規範としての信頼性が失われている。今、国際規範が無力なのは、大国の武力による利益追求を正当化する口実でしかないと、矮小化されているからである。
ロシアのウクライナ侵攻と、アメリカの「対テロ戦争」の反省は、私たちに、欺まんにまみれた国際規範を正し、その汎用性を高める努力の必要性を訴えている。
要約すれば以上のとおりだが、若干の感想を付け加えたい。
私は、ベトナム戦争以来、軍事超大国アメリカこそが不合理な世界秩序における不正義の元兇と考え続けてきた。湾岸戦争ではその立場で、「ピースナウ・市民平和訴訟」に取り組んだ。不正義なアメリカの戦争に加担してはならない、との基本姿勢である。その後のアフガン戦争、イラク戦争と、私の信念は強化された。
酒井教授の言う、「二重基準」はそのとおりである。が、今批判を集中すべきはプーチンのロシアであって、アメリカではない。ウクライナやNATOの不手際でもない。
プーチン・ロシアの手口は、アメリカの軍事介入にも、皇軍の侵略にも酷似していることを忘れない。徹底してプーチン・ロシアを批判し、その侵略批判の国際世論の高揚をもって、アメリカも旧日本軍も、あらゆる国の侵略と人権侵害を許さない平和をつくるよう努めたい。国内の動きにも、「そりゃ、まるでプーチンの論理や手口とおんなじだ」と批判できるようにしたいのだ。
そして、少なくともウクライナ難民の受け入れの程度には、我が国の難民対策を改善しなければならない。「二重基準」の解消は、平和と人権を尊重する方向で行われなければならない。
(2022年4月13日)
昨日が東大の入学式。なんと東大は、あの河瀬直美に祝辞を述べさせたと聞いて驚愕した。いや、驚愕したという自分の感性が愚かなのだと思い直す。オリンピックとNHKと東大と河瀬直美。みんなお似合い、俗世のシンボル。
その河瀬の祝辞の内容が、物議を呼んでいる。朝日が「ロシアを悪者にすることは簡単」と紹介した内容。東大のホームページに、「令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河? 直美 様)」として、全文が掲載されている。相当に長い。こんなもの聞かされる新入生は、さぞかし退屈で辛かろう。が、東大とは、こんな俗世の匂い芬々のところなのだと学ぶ意味はあったかも知れない。
朝日は河瀬の祝辞の内容をこう記事にしている。((A)と(B)は、私(澤藤)が付けた符号で記事にはない)
(A)「ロシアを悪者にすることは簡単」としたうえで「なぜこのようなことが起こっているか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないか。誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで私は安心していないか」と述べた。
(B)そのうえで「自分たちの国がどこかの国に侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある。そうすることで自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したい」と語りかけた。
(A)は、典型的な「プーチンにも3分の理」という論。「『どっちもどっち』という姿勢に過剰にこだわった結果、結局はものの本質を見誤ってしまっていないか。誤解を恐れずに言えば、『悪』を断罪することを恐れて自分の立場の確立を捨て去ってはいないだろうか」
(B)は、朝日の記者の上手な筆のさばきで、河瀬がそれなりに真っ当なことを言った印象を読者に与えている。その部分を抜き書きすると下記のとおり。この部分だけを掬い取って評価する向きもあるようだ。
「人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」
彼女なりの人間一般と国家一般との関係について意見を述べ、脈絡なく唐突に「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と言う。歴史性や、国際環境をまったく捨象して、どの国も侵略国へ転化の可能性があるとして、その自覚を求めている。悪いことを言っているわけではないが、人を集めて聞かせるほどのことではない。
よく分からないのは、(A)と(B)とのつながりである。(A)が「どっちもどっち」だから、(B)の「日本を侵略国としてはいけない」という自制論に結びつかない。
むしろ、(A)で「どう弁解しようとロシアは悪である」と結論し、(B)で「我が国もどのような理由あろうとも他国の侵略をしてはならない」「君たち、一人ひとりが日本をそんな国にしてはならない」とすれば論理は整合する。が、これが彼女の言いたかったことであろうか。定かではない。
私には、彼女がこう言っているように聞こえる。
「人間は弱い生き物です。当然映像作家という人間も。だからこそ、とある国家や社会に上手につながって、その中で生かされているともいえます。ですから、東京オリンピックの映画を作れと言われれば、注文者の意図を汲み忖度もして、望まれた映画を作るのです。たとえ、それが「国威発揚プロパガンダ」と揶揄されても。また、NHKから依頼があれば協力を惜しまず、「五輪を招致し喜んだのは私たち」と述べるのです。もっとも、「五輪反対デモは金で動員」のテロップがデマだと批判の声が上がれば、私は関係ないと逃げますがね。だって、人間は弱い生き物なんですから。
そうして「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある。自制心を持ってそれを拒否する選択をしたい」は、私の判断として、まだ安全な範囲にある言論なのです。せめてこれくらいのことは言っておかないと、作家としての値打ちはない。でも、この言葉に責任をもつかどうかは別問題。繰り返しますが、だって、所詮人間は弱い生き物なんですから」
(2022年4月12日火)
皆様、こちらは「本郷・湯島9条の会」です。少しの間耳をお貸しください。
2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始して以来の深刻な事態に胸が痛んでなりません。この事態であればこそ、平和を大切しなければならないと痛切に思い、そのための平和憲法の擁護、とりわけ9条の堅持を、声を大にして訴えます。
この事態に悪乗りし便乗した「9条無力論」「緊急事態条項論」、さらには「核武装論」までが飛び出す始末。昨日は、自民党安全保障調査会が、「敵基地攻撃能力」の保有を求める意見を政府に提案することで一致したと報道されています。その議論の中では、「『専守防衛』というこれまでの政府の基本方針を変更すべきだ」という意見さえあったといいます。今、自民党や維新などの右派勢力が、とても危険な方向にこの国を引っ張ろうとしています。
自民党や維新は、護憲派の主張を「憲法に9条さえ書き込んでおけば、他国からの侵略はない」と曲解して宣伝しています。しかし、そんなことはありません。
話しを分かり易くするために、戦争を「侵略戦争」と「自衛戦争」に二分することにします。9条の徹底遵守は「侵略戦争」を確実に防止します。我が国は、侵略戦争を重ねた反省から、再び「侵略戦争」を繰り返さないと決意して、平和憲法を制定しました。武力をもたなければ他国への侵略はできない。戦争とは人殺しですから、9条を持つ限り日本が他国に押し入って、人殺しをすることはけっしてない。
では、自衛戦争はどうでしょうか。新憲法制定を議論した最後の帝国議会で、時の首相吉田茂は、こう答弁しています。
「近年の戦争は多く自衛権の名に於いて戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然りであります。今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分らないということが、日本に対する大なる疑惑であり、また誤解であります。先ず此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一の事であると思うのであります」
この答弁は、「我が国は自衛のためと称して侵略を行ってきた」から、新憲法では侵略戦争だけでなく自衛戦争をも放棄することにしたと言うのです。ここには、「憲法に9条さえ書き込んでおけば、他国からの侵略はない」という思想はありません。「憲法9条があれば日本はウクライナのように他国から攻められることはないのか」と問われれば、当然に答えはノーなのです。
考え方としては、「自衛のための軍備を持っていれば、他国からの侵略を受けたときには自衛戦争をすることができる。そのことが、軽々に他国から攻め込まれることを防ぐことになる」とも言えるでしょう。しかし、憲法はそのような考えを否定しました。むしろ、《自衛のためという名目の軍備》が《侵略のための軍備》となることの恐れ、世界からそのような疑惑の目で見られることの危惧を防止しようとしたのです。
75年も経過して事態は変わっているのではないか。いいえ、いまだにこの国では、「敵基地攻撃能力保有論」や「核共有論」がまかり通っているではありませんか。「日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分らない」との疑惑を持たれてもやむを得ない現実があると言わざるを得ません。
では、他国からの侵略に備えて自衛のための軍備をもたなくてもよいのか。戦後長く続いた保守政権は、「自衛のための最小限度の実力」は、憲法9条で保持を禁じられた「戦力」に当たらない、としてきました。ですから、実は「自衛のための軍備」を既にもっているという現実があります。しかも、自衛隊というこの実力組織は、世界第5位の精強な軍事力なのです。侵略されることよりは、侵略する軍隊にならないかを危惧しなければならない存在というべきでしょう。
憲法が本来想定した他国からの侵略に対する予防措置は、国際間の協調を深化し、戦争を引き起こす原因をなくす努力を尽くし、どこの国とも等距離の親密な外交関係を樹立することで、平和な国際社会を築くということであったでしょう。「9条さえあれば何もしなくてもよい」ではなく、「武力をもたないからこその懸命の外交努力によって、国際的な尊敬を勝ちうる」ことだったはずです。しかし、残念ながら、今、日本は国際的にそのような尊敬を勝ちうる立場にありません。
現在日本がもっている軍事力は、一面近隣諸国からの侵略抑止の効果を持つものであるかも知れません。しかし、その軍事力が近隣諸国を刺激し、国際緊張を高める要因になっていることも否定できません。
何よりも、現有の軍事力が万が一にも侵略されるという有事を想定して、その場合に自衛戦争が可能であるか。おそらくはノーと言わざるを得ません。
日本には52基の原発があります。このいくつかを狙われて爆破されれば、日本全体が壊滅します。原発だけではなく、太平洋沿岸に連なるコンビナートを標的にされても同様です。日本を戦場にする戦争は成り立ち得ません。
「ウクライナは軍事力が不十分だから侵略を受けた」「ウクライナにもっと強大な軍事力があれば侵略を防ぐことができたはず」「日本も軍事力が不十分だと侵略を受けるぞ」「日本にもっと強大な軍事力があれば侵略を防ぐことができるはず」というのは、実はなんの実証もありません。
軍事の増強ではなく、どこの国との間にも深い友好関係を築くことを通じてこそ平和を築くことができます。憲法から9条を削り、緊急事態条項を入れ、敵基地攻撃能力をもち、核武装までを容認することは平和に逆行する危険なことです。ウクライナの事態に乗じた危険な火事場泥棒的議論に気を付けましょう。
(2022年4月11日)
1993年2月、自由法曹団が「カンボジア調査団」を派遣した。私もその調査団10名の一人として、内戦直後の現地をつぶさに見てきた。国連(UNTAC)の活動あって、平和は回復していたとされた時期ではあった。しかし、小さな紛争は頻発し、私たちがプノンペンに到着する前日(2月10日)に、ポルポト派がUNTACのシェムレアップ(アンコールワット近くの街)事務所を襲って12人の死傷者を出すという事件も起きていた。その4日前には、同じシェムレアップで銃撃戦があり、死者6人、負傷者16人と報道されていた。
そんな時期だったがプノンペンの市場は賑わっていた。そこで地雷も買えると聞かされて驚いた。金持ちは夜間の侵入者に備えて、毎晩屋敷の門に地雷を仕掛け、朝には取り外すのだという。銃も手榴弾も入手できるとか。人々は、信頼できる刑事司法や警察制度が整備されるまでは、武器を手放すことができないのだと説明された。
国際関係も似たようなものだ。今、各主権国家が、他国への不信感故に、自衛のための武力を手放すことができないと言っている。もし、国際的に「信頼できる刑事司法や警察制度が整備され」たら、各国は互いに武器を捨てることができるのではないか。国際刑事裁判所(ICC)が創設されたとき、そんな感想をもって大いに期待した。
「国際刑事裁判所(ICC)とは、国際社会にとって最も深刻な罪(集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人を国際法に基づき訴追し、処罰するための常設の国際刑事法廷」「国際社会における最も深刻な犯罪の発生を防止し、もって国際の平和と安全を維持する」(外務省の解説)なのだから、これが実行されれば、世界の平和はすぐそこに来ることになる。
今、その期待が試されている。プーチンを罰することができるかどうか。プーチンを処罰することができれば、各国が互いに武器を捨てる展望が大きく開けることになる。プーチン処罰までには至らずとも、どこまで迫れるかが問われている。
各国国内の刑事作用は、国家権力によって創設され運営されている。実体法としての刑法が作られ、手続き法としての刑事訴訟法が作られ、これを運用するシステムとしての、警察・検察・裁判所・刑務所が作られている。ところが、国際的な権力というものはない。各国の合意によって、刑事法をつくり運用することしかできない。
国際刑事裁判所(ICC)は、「国際刑事裁判所に関するローマ規程」と呼ばれる条約によって創設された。その条約の発効が2002年、現在締約国数は123か国を数えている。が、大国が未加盟である。
他国に武力を行使し他国を侵略し戦争犯罪を起こしてICCによる訴追を受ける可能性が高い国は、当然のことながらICC加盟に消極的となる。そのような国の筆頭がアメリカをはじめとする軍事大国であることは論じるまでもない。
アメリカ・ロシア・中国、この3か国が世界の軍事大国ビッグ・スリーである。侵略国となるべき条件を備えている最も危険な国家である。国連の常任理事国でもあるこの3か国が、ICCに加盟しようとはしない。第4位の軍事力を持つインドも未加盟。これらの軍事大国にこそICC加盟が必要なのだが、これを強制する手段がない。
ウクライナも条約未締結国なのだが、過去にICCの管轄権を受け入れる宣言をしており、ウクライナ国内でのICCの捜査が可能となっている。ICCの主任検察官は、ウクライナで「戦争犯罪」などが起きている可能性があるとして、既に捜査開始を発表している。
任意捜査が済めば、被疑者プーチンを逮捕し、勾留して法廷への出廷を確保し、法廷で戦争犯罪についてのプーチンの関与を立証して、有罪判決を言い渡し、収監して刑の執行をしなければならない。確かにこれは難事である。何重にも壁がある。何しろ軍事大国のトップに、実力を行使しなければならないのだから。
ICCは、2016年に、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦でセルビア人勢力の指導者だったラドバン・カラジッチ被告に対して、ジェノサイドの罪を認定し、禁錮40年の判決を言い渡した実績がある。
難事ではあっても、被疑者プーチンに対して、できるだけの訴追の努力を期待したい。成功すれば、素晴らしいことだ。そのことが、「国際社会における最も深刻な犯罪の発生を防止し、もって国際の平和と安全を維持する」ことにつながる。
プーチンの訴追に頓挫すれば、何がネックとなったのか、具体的にどうすれば訴追可能であったのかを国際世論に訴えてもらいたい。いつの日か、機能するICCが実現し、そのことによって、各国が安心して武器を置く日がやって来ることを期待したい。