亡き父と母とに捧げる感謝の言葉
(2023年1月1日)
元日には、父と母のことを語りたい。
私の父澤藤盛祐は、1914年1月1日に黒沢尻に生まれた。尋常小学校6年を飛び級で旧制黒沢尻中学の2期生に合格している。将来を期するところがあったろうが、家業の零落で中学卒業後の進学の夢がかなわなかった。株屋に就職して真面目に働いたが樺太の支店長の時代に株式不況で株屋が倒産。その後盛岡市の吏員として職を得たところで徴兵され、敗戦まで合計7年余の兵役と徴用を余儀なくされる。満州にも送られているが、幸いに実戦に参加することなく帰還して内地で終戦を迎えた。戦後はある宗教に帰依し、盛岡市職員の地位を捨てて教団の布教師となった。後半生は教団に奉仕し尽くした生涯だった。
母・光子(旧姓赤羽)は盛岡の人。兵役にあった父の求婚に応じた。結婚式など望めぬ時代、挙式は40年後になっている。敗戦直前、小規模ながら盛岡にも空襲があった。母は、ハシカで泣き止まぬ私を背負って、防空壕で心細い思いに耐えたと繰り返し語った。戦後は父の転身を受け容れ、教団の中で4人の子を育てている。
二人が相次いで亡くなって25年になる。私たち兄弟の父と母への感謝の気持ちを「歌集 『草笛』 澤藤盛祐・光子 追悼」の巻頭に記した。
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お父さん
お母さん
まことに遅ればせではありますが、
お二人に感謝の言葉を捧げます。
何よりも命を授けていただいたことに。
健康な身体と心とを育んでいただいたことに。
そして、この上なく慈しんでいただいたことに。
お父さん
お母さん
きっと私たちは、
お二人を選んでこの世に生まれました。
私たちがものごころついたころには、
お二人と私たち兄弟が世界のすべてでした。
私たちは、その温かい世界でのびのびと
それぞれの自分をつくりました。
生きていくための芯となるものを得たのです。
お父さん
お母さん
私たちはよく覚えています。
お二人の手のひらの温もり
ゆっくりと語りかけるその声や
まなざしのやさしさ。
お二人が亡くなった後も、
私たちは決して忘れることはありません。
あらためて、心からの感謝を捧げます。
お父さん
お母さん
若くはつらつとしていたお二人も。
齢を重ね、やがて老いを見せて、
そして生を全うされました。
私たちはお二人の後を追い
その後姿を見ながら齢を重ねてきました。
常に、お二人の昔の姿に、
今の自分を重ねています。
お二人を忘れることのないよう、想い出の歌集をつくろう。
そう提案して作業を進めてきたのは、次男の明でした。
その作業が完成せぬまま、
明はお二人の後を追って帰らぬ人となりました。
残された私たちは無念でなりません。
明の作業を完成させて、今、この「草笛」をお二人に捧げます。
お二人が生きてこられた証しを残すために。
私たちの尽きせぬ感謝の気持を表すために。
そして、明の遺志を生かすためにも。
2022年 万緑の頃