「相手選手を潰してこい」は皇軍における上官の命令だ
日大アメフト部の選手が、関学との定期試合において、相手チームの中心選手に傷害行為に及んだ。これは、「不祥事」ではない。「体質露呈事件」と言うべきだろう。日大アメフト部の体質の問題にとどまらない。学生スポーツとは何なのだ。いや、そもそも人はなぜスポーツをするのか。スポーツとは、本来美しいものなのか。いったい、憧れたり持ち上げたりするに足りるものなのか。大金を投じて、オリンピックなどやるに値することなのか。広く深く、そして暗い問題の一端を垣間見た思いである。
既視感が二つある。一つは、アベ政権の忖度文化だ。森友問題でも加計学園問題でも、総理自らは特別の便宜をはかるよう指示したことを頑強に否定している。しかし、総理の意を忖度した官僚たちによる忠義立ては明らかになっている。総理のお友達への便宜をはかって、総理の行政私物化実現に邁進した官僚たちの情けなさ。日大アメフト部事件も、これによく似ている。
戦前の天皇制もそうだった。天皇はけっして自ら命令を下さない。しかし、東条をはじめとする群臣は、例外なく天皇(裕仁)の意向を忖度して、オオミココロに沿ったのだ。そうしてこそ、天皇の意思を実現しながらも、天皇の法的政治的責任を免じることができたのだ。
もう一つの既視感。この選手の傷害行為は、監督とコーチの強い示唆で行われたという。コーチは監督の意を受けて、選手に敵愾心を煽り、闘争心の欠如をなじり、「試合に出たければ相手チームのQBを潰してこい」と言ったという。また、「関学の選手がけがをすれば秋の試合で有利になる」とまでも。これは、敵に対する皇軍のありかたと何とそっくりではないか。
監督は将校、コーチは下士官、そして選手は一兵卒である。将校の意を体して下士官は兵に命じる。「民間人をスパイ容疑者として殺せ」「捕虜になった敵兵を切れ」「縛られた敵を殺せ」と。上官の命令はヘイカの命令だとする強要なのだから、いささかでも兵が躊躇すれば制裁が待っている。大和魂がないとなじられる。「私は貝になりたい」の世界だ。こうして、凡庸な悪によって限りない残虐行為が繰り広げられた。
今回の事件が大きな反響を呼んでいるのは、上記二つの既視感による。とりわけ、日本人の精神構造が実のところ敗戦以前とすこしも変わってはいないのではという漠然たる不安からなのだろう。
私は、とりわけ傷害の実行犯となった凡庸な若者に注目する。この若者は、われわれ日本人の平均的な精神構造の持ち主ではないか。それなりの常識も倫理観も備えている。正義観もあるに違いない。しかし、主体性がない。上から命じられ、「闘争心が欠けている」「このままでは試合に出してやらない」と言われると、断れない。その気になって、躊躇なく相手選手の背後から突進してぶつかっていく。その従順な姿勢が、かつての皇軍の兵士像と重なるのだ。
その意識構造は、朝鮮で、中国で、南方で、暴威を振るった皇軍兵士と変わらない。彼ら、その時代の平均的日本人が、平時暴力的であったはずはない。むしろ、多くは温厚で腰が低く、礼儀正しい市井の人々だったはず。しかし、上からの命令によって、いとも容易に凡庸な悪事が重ねられたのだ。
我々は、このことをつきつめて反省してこなかった。天皇の戦争責任を曖昧にした我々は、天皇の対極にある下々の責任をも曖昧にした。個々の兵士の平時なら犯罪となる残虐行為の責任を、お互いのこととして許し合ったのだ。英霊として奉られさえもした。関東大震災のあとの自警団員が朝鮮人を大量虐殺して、日本人同士ではその罪をお互いに許し合ったごとくにである。
それゆえ、凡庸な悪は無反省に今の社会に生き残った。今の日本の若者が戦場に行けば、かつての皇軍兵士と同じ蛮行を繰り返すに違いない。戦場に行かずとも、そそのかされば、ヘイトスピーチもヘイトクライムにも走ることになるだろう。
日大アメフト部の愚かで従順なこの選手や、財務省の愚かで従順な官僚こそ、実は他人事ではない今の我々自身の姿ではないか。
日大のこの選手には次の言葉を耳に入れておきたい。
あとの後悔する前に 思いとどまれ さきの忖度
(2018年5月26日)