澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

第49回司法制度研究集会 ― 「国策に加担する司法を問う」

本日(11月17日)は、日本民主法律家協会が主催する第49回司法制度研究集会。テーマは、「国策に加担する司法を問う」である。

独立した司法部存在の意義は、何よりも立法部・行政部に対する批判の権限にある。立法部・行政部の活動が憲法の定めを逸脱し国民の人権を侵害するに至ったときには遠慮なくこれを指摘し、批判して国民の人権を救済しなければならない。たとえ、国策の遂行に対してでも、司法が違憲・違法の指摘を躊躇してはならない。当然のことだ。

それが、「国策に絡めとられる司法」「国策に加担する司法」とは、いったいどうしたことだ。日本の司法は、そう指摘されるまでに落ちぶれたのか。

われわれは、違憲審査権行使をためらう裁判所の司法消極主義を長く批判し続けてきた。「逃げるな最高裁」「違憲判断をためらうな」「憲法判断を回避するな」と言って来たのだ。

ところが、最近の判決では、司法部が積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた「人権擁護の司法積極主義」ではなく、「国策加担の司法積極主義」の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。言わば、「人権侵害に目をつぶり国策遂行に加担する司法」の実態があるのではないか。これは社会の根幹を揺るがす重大な事態である。

冒頭、右崎正博・日民協理事長の開会の挨拶が、問題意識を明瞭に述べている。

これまでの長期保守政権下における裁判官人事を通じて、行政に追随する司法という体質が形成された。その結果として、国策を批判しない司法消極主義が問題とされてきた。しかし、昨今の幾つかの重要判決は、むしろ政権の国策に積極的に加担する司法の姿を示しているのではないか。

国策は民主主義原理によって支えられているが、民主主義原理の限界を画するものが立憲主義の原理、すなわち人権という価値の優越である。日本国憲法は、民主主義原理と立憲主義とのバランスの上に成立している。そのような憲法のもとで、はたして現実の司法は日本国憲法の理念を実現しえているのか。

この問題意識を受けての基調報告が、岡田正則氏(早稲田大学・行政法)。「国策と裁判所―『行政訴訟の機能不全』の歴史的背景と今後の課題」と題する講演。そして、国策に加担した訴訟の典型例として、沖縄・辺野古訴訟と原発差し止め請求訴訟の2分野からの問題提起報告。「国策にお墨付きを与える司法─辺野古埋立承認取消訴訟を闘って」と題して沖縄弁護士会の加藤裕氏と、「大飯原発差止訴訟から考える司法の役割と裁判官の責任」と題する樋口英明氏(元裁判官)の各報告。その詳細は、「法と民主主義・12月号」(12月下旬発行)をお読みいただきたい。いずれの報告も、有益で充実したものだった。参加者の満足度は高かったが、同時に現実を突きつけられて暗澹たる気持にもならざるを得ない。

たいへん興味深かったのは、辺野古弁護団の加藤さんと、大飯原発差止認容の判決を言い渡した樋口さんの語り口が対照的だったこと。淀みなく明晰で理詰めの語り口の加藤さんと、人柄が滲み出た穏やかな話しぶりの樋口さん。鋭い切れ味の加藤さんと、抗いようのない重い説得力の樋口さん。加藤さんは沖縄の民意を蹂躙する政権の国策に加担した判決を糺弾する。樋口さんは国策加担という言葉を使わないが、誰にもそのことが分かる。お二人の話しぶりの対比を聴くだけても、今日の集会に参加の甲斐はあった。

私は樋口さんには初めてお目にかかった。この人なら、当事者の言い分に耳を傾けてくれるだろうという、裁判官にとっての最も必要な雰囲気を持っている。その樋口報告は、私が理解した限りで次のようなものだった。

3・11福島第1原発事故後の原発差し止め訴訟では、認容判決は私が関わったものを含めて2件しかない。棄却判決は十指に余る。「どうして原発差し止めを」と聞かれるが、原発は危険で恐い物だという思いがまずある。差し止めを認めなかった裁判官に、「どうして恐くないのか」聞いてみたい。

また、自分の頭で考えれば当然にこの危険な物の差し止めの結論となるはず。自分の頭で考えず、先例に当てはめようという考え方だから差し止め請求棄却の結論になるのではないか。

危険とは(1)危険が顕在化したときの被害の大きさ
    (2)被害が生じる確率
の2面で測られ、通常この2面は反比例する。一方が大きければ他方が小さい。ところが、原発は両方とも大きい。

原発事故の桁外れの被害の大きさは福島第1原発事故で実証されている。普通、事故の機械は運転を止めれば被害の拡大を阻止できるが、原発はそうはいかない。「止める⇒冷やす⇒閉じ込める」が不可欠で、福島の6基の事故ではそれができなかった。だから、福島第1原発事故の被害があの程度で済んだのは、いくつもの好運の偶然が重なった結果に過ぎない。その僥倖の一つでも欠けていれば、首都東京も避難区域に入っていたはずなのだ。

また、原発事故が起こり被害が生じる確率はきわめて高い。そもそも、基準地震動を何ガルに設定するか極めて根拠が薄い。地震学は未成熟な学問分野というべきで地震予測の成功例はない。気象学に比較してデータの集積もごく僅少に過ぎない。しかも、原発の規準地震動は、通常の木造家屋よりも遙かに低い。その設計において耐震性は犠牲にされている。それが、世界の地震の巣といわれる危うい日本の地層の上にある。

差し止め認容判決の障害は行政裁量といわれるが、既に日光太郎杉事件判決(東京高判1973 年)で十分な批判がなされている。自分の頭でものを考えれば、人格権に基づく原発差し止めも同様の結論になるはず。

会場からは、「日の丸・君が代」強制問題原告からの訴えもあった。これも国策だ。しかも軍隊の匂いがする国策の強制。自分の頭でものを考えず、先例追随のコピペ判決裁判官が、国策加担判決を積み重ねている。「先例追随主義」と「国策加担」とは紙一重というべきものなのだろう。

あらためて思う。事態は深刻である。
(2018年11月17日)

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