「週刊ポスト」の嫌韓・差別特集を憂うる。
出典は知らないが、「国民はそのレベルにふさわしい政治しか持てない」という。何ともシニカルな表現だが、安倍政権の長期化を許している現状を、有権者の一人として腹ただしくも情けなくも思う。
?「国民はそのレベルにふさわしいメディアしか持てない」というもじりもある。嫌韓本や、DHCテレビのヘイト番組横行など、まことに恥ずべき現状である。右翼メディアは、「嫌韓・ヘイトの需要があるから供給がなされる」と開き直るのだろうが、民衆がこれほどに政権とメディアに操られやすい存在であることが、空恐ろしい。
9月2日の各紙朝刊に掲載された「週刊ポスト」の宣伝文には驚いた。その特集が、「韓国なんて要らない!」「「嫌韓」ではなく「断韓」だ―厄介な隣人にサヨウナラ 」「『10人に1人は要治療』―怒りを抑制できない『韓国人という病理』」という徹底した嫌韓ヘイトぶり。今こう書けば、売れ行きが良くなるという判断での編集なのだ。購買者が「この程度のレベル」と舐められている。これが、弱小零細のキワモノ出版社ではなく、大手・小学館の出版物なのだ。出版ジャーナリズムは、競い合ってここまで堕ちたか。そう落胆せざるを得ない。
さすがに、これには心ある人びとから抗議が殺到した。2日夜、小学館は自社サイトに、『週刊ポスト』編集部名義の以下の「お詫び」を掲載している。
週刊ポスト9月13日号掲載の特集『韓国なんて要らない!』は、混迷する日韓関係について様々な観点からシミュレーションしたものですが、多くのご意見、ご批判をいただきました。なかでも、『怒りを抑えられない「韓国人という病理」』記事に関しては、韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ、誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました。お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります。〉
しまりに欠けた「お詫び」である。誰に対して、何をどう詫びているのかよく分からない。意識的に曖昧にしているようにも読める。「誤解」とは何のことだ。「広めかねず」とは「広めてはいない」ということなのか? 「配慮に欠け」とは、誰に対するどのような配慮が必要だったというのだろうか。
「ポスト」は、日本人の民族差別意識に一面迎合し、一面煽って、どぎつさ丸出しのヘイト記事で部数を稼ごうとしたのだ。そのさもしい根性をこそ率直に吐露して、まずは韓国と在日の人びとに謝罪しなければならなかった。そして、不快を感じた日本人の読者にも、である。
もちろん、この小学館のこの程度の「謝罪」を快しとしない連中もいる。たとえば、百田尚樹であり、門田隆将などである。これらは論外として、もう一つ、こういう論調もある。少しやり過ぎだが、全部を反省する必要はないとし、「週刊ポストは『断韓』記事を堂々と載せるべし」と言うのである。
「韓国なんて要らない」という週刊ポストの特集に、作家たちから怒りの声だという。深沢潮は「差別扇動を見過ごせない」として連載休止。柳美里は「人種差別と憎悪をあおるヘイトスピーチ」と批判して小学館と仕事しないと言う。内田樹は「今後、小学館の仕事はしない」と明言。
わしの見解を言うと、「怒りを抑えられない韓国人の病理」という記事は、ネトウヨっぽい、差別に繋がる記事だと思うが、「断韓」という政治的意見は「言論・表現の自由」の範囲内だろう。
この立論は、「ネトウヨっぽい、差別に繋がる記事」と、「政治的意見」とを区別せよ、というごとくである。前者は謝罪に値するが、後者は「言論・表現の自由の範囲内だろう」という。その区別の規準は明確に示されてはいないが、「ポスト」記事の一部を問題ないものとして、ポストの差別性を批判した良識ある人びとを激しく逆批判している。
ポスト批判の議論は、けっして法的な言論許容の限界を論じているのではない。問題は、「ポスト」の編集姿勢が、民族差別・ヘイトに当たるものとして批判に値するものか否かにある。当然のことだが、「言論・表現の自由」の範囲内にあって、違法とは言えない言論にも、ヘイトの批判は成立する。
しょせん韓国と断交なんかできやしない。そう言いたくなるほど、腹に据えかねてるという気持ちを表出するのも、「表現の自由」だろう。
これでは、議論が噛み合っていない。「表現の自由」の範囲は広い。問題は、当該の表現が「言論・表現の自由の範囲内」にあるか否かではなく、その表現に込められた差別性を批判するのか支持するのかなのだ。言い換えれば、9月2日宣伝に象徴される、「ポスト」の『ヘイト悪乗り』を許すか否かが問われている。
そして、重要なのは、結論もさることながら、その理由の説得力の有無である。「政治的な意見ないし論評だから、違法とは言えない」は、法廷での論争であって、平場の意見交換での論理ではない。
(2019年9月4日)