弁護士としての初心を思い起こす旅に ― 23期の仲間たちと
本日(10月24日)から2泊3日、司法修習生時代の同期の仲間と旅をする。どこに出向くか、降るか晴れるかはさしたる問題ではない。久しぶりに、気のおけない仲間と顔を合わせてお互いの健在と変わらぬ立場を確認し、とりとめもなくしゃべる時間があればよい。これが近年恒例の楽しみ。だから、今日から3日間のブログは予定稿のアップということになる。ご承知おきを。
仕事が忙しかった時代には、懐かしい昔の仲間で集まろうとか、一緒に旅をしようなどという贅沢な時間は作れなかった。そんな気分にもなれなかった。いま、みんな年齢相応に第一線からは少し退き、昔を懐かしむだけの余裕ができてきたということだ。
私の司法修習期は23期になる。新憲法下、新法曹養成制度発足以来23年目の採用年度に当たるということだ。戦前の官尊民卑時代には、判検事と弁護士とは、採用選考も研修もまったくの別コースだった。天皇の司法が国民の司法に転換したことを象徴する制度の変化の一つが、統一試験・統一修習の法曹養成制度だった。弁護士・判事・検事の法曹三者を志望する者は、統一の司法試験によって資格を得、最高裁が運営する司法研修所で統一した司法修習を受ける。そのあと、それぞれの志望に従った法曹のコースを選ぶことになる。
当時、修習期間は2年、最初の4か月を東京の司法研修所で授業を受け、全国に散って各地の裁判所・検察庁・法律事務所で1年半の実務修習を受ける。そのあと再び研修所に戻って起案中心の授業の後に、卒業試験(通称「2回試験」)を受けて卒業となる。当時、2回試験は長時間のハードなものながらも、不合格は殆どなかった。
研修所は、紀尾井町にあったオンボロ木造の庁舎。我々がここを最後に使って、次の期からは湯島の新庁舎に移っている。その23期の入所が、1969年4月のこと。同期の修習生は500人だった。あれから、ちょうど50年、半世紀にもなるが、けっして往時茫々ではない。むしろ、茫々にしてなるものか、という思いでの半世紀だった。
当然のことながら、同期の500人がみんな懐かしいわけではない。気の合う仲間は、自ずから限られる。当時、修習生運動として、「司法反動」への反対運動をともにした一味徒党が,今も交流の続く気の合う仲間たちなのだ。
私が、弁護士を志した60年代の半ばには、司法権の独立・裁判官の独立は常識とされていた。それが、23期の修習が始まった頃には、急激に危うくなった。それを「司法反動」あるいは「司法の危機」と呼んだ。23期は、司法反動のただ中にあって、これに果敢に抵抗した。その理念と運動が、同期の紐帯となっている。
司法反動は、明らかに当時の判決内容に対する資本や保守勢力の不満に端を発していた。自民党(その先鋒が、田中角栄幹事長)や、反共・右翼メディアがそのことを露骨に表明していた。そして、裁判所内部からこれに呼応したのが、当時最高裁長官だった石田和外である。今でも、この石田和外という名を目にすると、アドレナリンが噴出する。
裁判所内部の動きが外に見えるようになったのは、1969年9月の「平賀書簡問題」から。23期の実務修習が始まったばかりの頃のこと。この事件をきっかけに、公然たる青法協攻撃が始まる。
当時、札幌地裁に「長沼ナイキ基地訴訟」が係属していた。長沼に新たな自衛隊基地を建設して地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」を配備しようという計画があり、これを阻止しようと地域の住民が提起した訴訟。基地建設のための保安林の解除という処分の取り消しを求める行政訴訟だった。本格的に自衛隊の合違憲を問う訴訟として、全国に注目されていた。
その事件を担当したのが福島重雄裁判長。この人に、当時札幌地裁所長だった平賀健太が“一先輩のアドバイス”と題する詳細なメモを手交した。その内容は、訴訟判断の問題点について原告の申立を却下するよう誘導し示唆したもので、明らかな裁判干渉だった。そのため、札幌地裁の裁判官たちは、裁判所法の手続に則った裁判官会議を開いて、平賀所長を厳重注意処分とした。
ところが、事態は思わぬ方向に展開した。事件発覚の直後、鹿児島地裁の所長だった飯守重任(田中耕太郎の実弟)が所信を発表して、一石を投じた。何しろ、この人は筋金入りの反共右翼。「青法協は革命団体で、最高裁は昇給のストップ、判事補は判事に昇格させないようにすべきだ」という確信犯。後には、所内の裁判官の思想調査までして地家裁所長職を解職され判事に格下げされ、結局は裁判官を辞めた人。
この人が、「問題は、平賀にではなく革命団体青法協に所属している福島にこそある」と口火を切った。これ以後、右翼や自民党の青法協攻撃が続くことになる。これに呼応したのが「ミスター最高裁長官」石田和外(在任1969年1月11日?1973年5月19日)だった。裁判官は政治的団体への加入は慎むべきとの立場から、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。
70年春、22期司法修習修了生の裁判官任官希望者の内、2人が最高裁から任官を拒否された。我々は、所属団体あるいは思想信条による差別と確信し、由々しき事態と認識した。23期にとって明日は我が身のこと。のみならず、このままでは、憲法や人権擁護を口にする裁判官が裁判所にはいなくなるのではないか。ことは、日本の民主主義や人権にかかわる大問題。同期修習生の過半数が青法協の会員であり、当然のことながら裁判官任官希望者も大勢いた。
議論が巻きおこり、「任官拒否を許さぬ会」が結成され、集会が持たれ、そのための同期の署名活動や、弁護士からの支援の署名活動にも取り組んだ。
そして迎えた、71年の春。同期修習生の裁判官志望者7名の任官拒否(うち6名が青法協会員)という惨憺たる結果となった。これに抗議の発言をした阪口徳雄・23期司法修習生の罷免にまで発展した。また、考えもしなった、13期宮本康昭裁判官の再任拒否事件も起こった。
我々23期にとっては、7人の任官拒否と阪口君罷免が、法曹人生出発点における原体験となった。昔の仲間と会うことは、あの頃の自分と出会うこと。あの頃の自分を思い出し、あの頃の志と向かい合うことでもある。
確かに、みな髪は薄くなり、白くはなったが、話を始めればすぐにあの頃に戻る。みんな、昔と少しも変わっていない。その変わりのなさに驚ろかざるを得ない。権力にも資本にも迎合することなく、ひたすら強者に抵抗を試みてきた弁護士たちだ。
昨年の集まりのあと、メーリングリストにこんな発言が重ねられている。
「あの頃、司法行政は我々の運動を弾圧して、7人の裁判官希望を拒否し、さらにその抗議の声をあげた阪口徳雄君の罷免までした。しかし、同時にそれは我々を鍛え、団結させることでもあった。」「23期が初志を貫いてこられたのは、政権と一体になった反動石田和外や最高裁当局のお陰でもある。」「あのときの怒りは、個人としては持続しているが、その怒りを次に伝え切れているだろうか。あの時代と比較して、司法は少しはマシになったと言えるだろうか。」
もう50年に近い昔のことなのに、あの頃のことを思うと、新たな怒りが吹き出してくる。理不尽なものへの憤り。負けてなるものかというエネルギーの源泉。
その男、石田和外。青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。そして、青年法律家協会裁判官には、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」と言った。
ところが、何と彼は、定年退官後に新設された「英霊にこたえる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。さらに、彼は、自ら「元号法制化実現国民会議」を結成してその議長ともなり、79年3月の防衛大学校卒業式において、軍人勅諭を賛美した祝辞を述べて物議を醸している。筋金入りの反動なのだ。
なお、「元号法制化実現国民会議」の後継団体が「日本を守る国民会議」であり、これが右翼の総元締め「日本会議」となっている。
私は、学生運動の経験はない。修習生運動の中で、反権力の立場の法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を決定したたとも言える。まぎれもなく石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。
さて、2泊3日。久しぶりの懐かしい面々と、そんな来し方をとりとめなく話し合おう。
(2019年10月24日)