「司法はこれでいいのか」と問い続けた50年
(2021年4月24日)
本日は、下記のとおりの「司法はこれでいいのか」(現代書館)出版記念集会。望外の多くの人々にご参加いただいた。改めて50年前のことを思い出し、あのときの怒りを抱きつつ過ごした50年であったと思う。司法を憲法が想定するものに糺す課題は以前と変わらない。改めて、「司法はこれでいいのか」と問い続けなければならない。
「司法はこれでいいのか ― 裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」出版記念集会
日時 2020年4月24日(土) 13時30分?17時
会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)・6階「霧島」
主催:23期弁護士ネットワーク
共催:青年法律家協会 弁護士学者合同部会
協賛:日本民主法律家協会
プログラムと担当
☆総合司会・開会挨拶 ・澤藤統一郎
☆出版と集会の趣旨説明・村山 晃
☆挨拶 ・阪口徳雄
☆メッセージ(代読) ・宮本康昭氏(13期再任拒否当事者)
第1部 パネルディスカッション(司法の現状把握と希望への道筋)
☆司会 梓澤和幸
☆パネラー冒頭発言
・西川伸一氏 司法の現状:制度と運用の実態をどう把握するか
・岡田正則氏 司法の現状:司法はあるべき職責を果たしているか
・伊藤 真氏 司法の希望への道筋をどう見い出すか。
☆各パネラーへの質疑と意見交換
第2部 具体的事件を通じて司法の希望を語る
☆司会 北村栄 豊川義明
1 東海第二原発運転差止訴訟弁護団 丸山幸司弁護士
2 生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟 小久保哲郎弁護士
3 同性婚人権救済弁護団・札幌訴訟 皆川洋美弁護士
4 建設アスベスト京都1陣訴訟弁護団 谷文彰弁護士
5 東京大空襲訴訟弁護団 杉浦ひとみ弁護士
☆フリーディスカッション
※冒頭発言 森野俊彦(23期・元裁判官)
※23期オンライン発言者 山田万里子
※どうすれば、裁判官の共感を獲得できるか。
※個別事件での獲得課題と司法を変えていく課題とはどう結びつくか。
※司法の独立・民主化に向けて今何が課題なのか など。
☆議論のまとめ 「司法の希望を切り開くために」 豊川義明
☆青法協弁学合同部会議長 挨拶 上野 格
☆閉会あいさつ 梓澤和幸
集会のコンセプトは以下のとおり。
※飽くまでも「司法はこれでいいのか」を問う集会。
※「司法」を語り、「これでいいのか」という批判の視点が基調となる。
※もちろん、批判を批判のまま終わらせず、司法の希望を見い出したい。
※結論はともかく、そのような問題意識を次の世代に伝える集会としたい。
開会のご挨拶 澤 藤 統一郎
今から50年前、1971年の4月5日。その日は司法修習23期生の修習修了式でした。修習を終えた500人が全国に散って、弁護士・裁判官・検察官としてそれぞれの職業生活を始める希望の門出の日。
ところが、この500人の中に、どうしても納得できない無念の思いを胸に秘めた7人がいたのです。彼らは、裁判官を希望しながら、採用を拒否されました。
その直前には13期の宮本康昭裁判官に対する再任拒否もあり、私たちはこの任官拒否は不当な思想差別であり、裁判官全体に対する思想統制が狙いだと考えました。
憲法の砦たるべき最高裁が、自ら思想差別を行い、裁判官の独立をないがしろにしている。法律家になろうとする私たちが、身近に起こっているこの違憲違法な事態を看過してよいはずはない。せめて、終了式の場で任官を拒否された彼らに、一言でもその思いの一端を発言する機会を与えてもらおうではないか。これが同期の総意でした。誰かが式の冒頭で、研修所長に同期の総意を伝えなければならない。その役割を担ったのが、クラス連絡会の委員長だった阪口徳雄君でした。
彼、阪口徳雄君は、この修習修了式の冒頭、式辞を述べようとした所長に対して発言しました。このときの彼の態度は、けっして無作法なものではありません。所長は明らかに黙認しており、制止をしていません。この点は、「司法はこれでいいのか―裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」の第1章に手際よくまとめられています。また、巻末の資料「阪口司法修習生罷免処分実態調査報告書」(東京弁護士会)にも詳細に記述されています。是非お読みください。
所長からの許しを得たと思った阪口君が、マイクを取って「任官不採用者の話を聞いていただきたい」と話し始めた途端に、「終了式は終了いたしまーす」と宣告されました。開会から式の終了まで、わずか1分15秒でした。
けっして、式場が混乱したわけではありません。阪口君が制止を振り切って発言したわけでもありません。何よりも、この事態を招いたことには、最高裁にこそ大きな責任があるではありませんか。
それでも、最高裁はその日の内に阪口君を罷免処分としました。私たちは、権力というものの本質に触れ、怒りで震えました。
それから50年です。あの怒りを原体験として私たちは法律家として人生を送ってきました。そして「司法はこれでいいのか」と思い続けてきました。
阪口君は、2年後に法曹資格を回復します。最高裁を批判する市民運動の高揚があればこその成果でした。阪口君を中心に、あらためて50年前を思い起こし、この50年を振り返って、私たちは一冊の書物を作りました。本日はその出版記念集会です。飽くまでも、「司法はこれでよいのか」との問いかけで貫かれた集会になるはずです。ぜひ、ご一緒に、司法の在り方をお考えください。
出版と集会、その目的と思い(抜粋) 弁護士 村 山 晃
問答無用で罷免された阪口氏だが、2年後には法曹資格を回復し、弁護士としてめざましい活躍をすることとなった。罷免処分は、未来永劫資格を奪う究極の処分である。最高裁が取った資格回復の措置は、事実上の処分撤回であり、それをわずか2年間でやりとげた力とは一体何だったのか。
そのことについて、きちんとした整理がされていなかった。
阪口氏が罷免処分のあと、全国で巻き起こった司法反動を許さないとする大きな運動は、前にも後にも例をみないものとなった。その力が2年間で資格を回復させた最大のものだったと思われる。
そして運動は、2年で終わらない。弁護士や市民は、こうした運動のなかから行動力を強め、反動化を進める裁判所と対峙して、これを食い止め、権利を守る判決を出させることを通して、自由と人権、平和と民主主義を守るために戦線を拡大していくこととなった。司法反動を許さず、司法の民主的変革をめざして闘い続けてきた50年であった。
先ごろ検察庁法の改正問題をめぐって、多くの市民が批判の声をあげ、ついには廃案に追い込んだ。信頼できる司法であって欲しいという市民の願いは強い。
その力について、私たちは確信を深めるとともに、今こそ、司法を変えるためのより大きな運動を作り上げていくために、私たちが何をなすべきかをともに考えたい。
弁護士・裁判官として歩んだ50年
法曹人生50年を超えた23期の弁護士たちが、阪口罷免や大量任官拒否と闘いつつ、この50年間、どんな活動を積み重ねてきたか、そこにも光をあてたいと考え多くの弁護士が執筆し、インタビューを受けた。本書に登場した人たちの名前は、表紙を飾っている。
それぞれが、多様な分野で様々な取り組みを積み重ねてきている。まさにそれこそが司法を変え、民主主義を実現する力である。
裁判官として最後まで頑張り、弁護士となったあとは、23期の弁護士ネットワークにも参加してきた森野元裁判官も執筆し、インタビューを受けている。裁判所の中で、裁判官はどんな苦闘を続けたか、その大変さは、容易に推し量れない
集会をへて新たな闘いへ
書籍では、50年前の出来事やこの50年を振り返りつつ、若い人たちへのメッセージも意識した記述になっている。今日の集会では、このメッセージを受け止めてもらい、司法の現状を明らかにしながら、困難な状況をどのように切り拓いていくのかを明らかにしていってほしいと思っている。
困難と思われた裁判で勝利できた要因はどこにあったのか、司法を変えていく力はどこにあり、どのように闘っていけばよいのか。もとより正解がすぐそこにあるわけではない。しかし、希望を見いだし、エネルギーが出る集会になれば、それに勝る喜びはない。そして、語りつくせなければ、改めて機会を作ることも難しくはない。むしろ今後につながる集会であってほしいと強く願っている
50年前に何があったか、当事者としての感想と挨拶(抜粋)
弁護士 阪 口 徳 雄
1 50年前の4月に法律家の常識では想定できない事態が発生した。
10年目の再任期を迎えた宮本康昭さんが再任拒否され、23期の7名の裁判官の採用が拒否された。卒業式で発言した私は弁明の機会も与えられることなく法曹界からの「永久追放」というべき罷免処分となった。露骨な権力むき出しの処分は法律家の常識では想定外であった。なお、23期の任官拒否については「裁判所はこれで良いのか」の18頁以下に、私の罷免当日の行動などは25頁以下に詳細に記載しているのでお読み下さい。
当時の事件について佐藤栄作総理は4月6日の日記で「1名を再採用しない事と、もう一つは青法協の為に資格を与えぬこととした例の研修終了を認めない事」としたことが記載されていると西川先生の論文(338頁)で指摘されている。この日記の文言から見て石田和外か、その意向を受けた再任、罷免処分の権限者が佐藤栄作に報告したのであろう。当時の石田長官一派らが政権とここまで癒着していたかの事実を証明する日記である。
2 当時の裁判所を巡る状況と司法への期待
当時の司法状況は、戦前の司法官僚達は戦争責任が追及されないまま戦後の司法に
無反省のままで居座った。他方では戦後の民主化運動の中で啓発された年輩の裁判官達や、憲法下の教育を受けた若き裁判官たちとの間で、双方のせめぎ合いの状態が続いていた。戦後の民主主義教育の中で育った者は司法に期待をもって司法試験を受験した者が多かった。私などは、戦後、政権交代がなく、立法の改正などは簡単ではないが、公務員の政治活動を認めた都教組事件、公務員のスト権を認めた全逓中郵事件などにおいて判例を通じて立法の改正をなすことが出来るという淡い期待を抱いた。
法律家の役割が大きく、それへの期待を抱いた時期であった。
裁判官になった私の先輩は鳥取地裁に初任地を命じられたが、鳥取に最高裁鳥取支部を作るという気概もって赴任して行ったと聞いた。ある意味、法律家はどこにいても憲法を守ることで「生きがい」を見出そうとしていた時期であったと言える。
3 自民党政権の危機感と青法協への攻撃
自民党政権はこのような司法の方向に「危機感」を抱き、右翼雑誌を通じて、この背景には青法協=アカというレッテルを貼り、攻撃を開始した。石田和外をトップとする最高裁事務総局の官僚達はこれに反対、抗議するのではなく、これに屈服し、迎合し、同じように青法協攻撃を開始した。
西川先生の論文の334頁に、1970年1月に最高裁事務総局の局付判事補に対する脱会勧告を行なった。この延長戦上に同年4月に22期の3名の任官拒否が強行され、翌年4月の宮本再任拒否があり、任官拒否があり、罷免へと続いた。西川先生の寄稿論文を読ませて貰うと石田こそ、自民党以上に司法に危機感をもっていたのかも知れないと教えられた。彼こそ極端な「超国家主義者」であったので、彼から見れば殆どの裁判官たちは「アカ」であり「共産主義者」と映ったのであろう。石田の攻撃の「異常」な思想的背景がここにあった。
4 最高裁判事がタカ派に牛耳られ判決統制への道を開いた。
石田は1969年1月最高裁長官に就任したが、その4月に都教組大法廷判決で9対5の多数意見で原審の判決が取り消され逆転無罪になった。1966年10月全逓中郵最高裁大法廷判決に続き公務員のスト権解放への道が司法上定着するかに見えた。
石田はこの反対意見の4名に入っていたが,これらのスト権容認判決の流れに危機感を抱き、露骨に最高裁判事をリベラル判事の退任の都度、保守派に入れ変えた。石田長官は在任中11名の入れ替えがあったが、当初はリベラル7名、保守派4名であったが最後は2対9に逆転させたという。(西川338頁)この結果、1973年4月全農林警職法事件で8対7でスト権を認めない大法廷判決で自民党の認める方向に舵を切った。(以下略)
23期へのメッセージ(抜粋) 宮 本 康 昭
ちょうど50年前、13期の再任拒否、23期の大量新任拒否と阪口さんの罷免、青法協会員裁判官をおよそ半分にまで激減させた脱会工作、と一連の出来事は、わが国戦後司法の転換点でした。
その転換点を23期の皆さんと共有した、という気持が私にはあり、23期に生じたできごとを自分のことと一体のものとして感じて来ました。
あれから数年にわたる、さらに現在に至る、23期の同期の連帯を維持した活動に今日まで変わらぬ敬意を抱いています。
いま、50年の節目に、私たちはどういう場面に際会しているのでしょうか。「司法の危機」の再来はあり得る、と私はあちこちで言っております。政治権力の強さは、50年前の比ではなくなっており、それに比して司法の分野の強権的体質は顕著でなくなっているのですが、それ故にむしろ政治権力のいうままに流れる危うさを抱えこんでしまっています。最高裁の、政治的事件での判決姿勢や、最高裁判事選任過程での政治従属ぶりにもそれを見て取れます。
司法の危機再来のときに局面を左右するのは国民の力です。「50年経ってこれだけのものなのか」という思いはたしかにありますが、もう一度力を振りしぼって国民の運動の下支えになっていくことを決意しようと思います、23期のみなさんと共に。