「愛国」この唾棄すべきもの。
(2021年5月29日)
またまた、野蛮な中国の姿が際だっている。一昨日(5月27日)の香港でのことだ。文明からほど遠いこの国には、大国の風格も余裕もない。法の支配も、人権の尊重も民主主義の片鱗もない。自由な選挙さえも許容できないのだ。まざまざとそのことを見せつけられて溜息が出るばかり。
5月27日、香港立法会(議会)は、選挙制度改正の条例案を可決した。実は、中国政府の意向は本年3月の全人代で決まっていた。その北京の指示が、そのとおりに香港で実行されたのだ。恐るべきことというべきか、あるいは馬鹿馬鹿しいというべきか、「愛国者」でなければ立候補できないというトンデモ選挙制度ができあがった。
いかに馬鹿馬鹿しくても、世界のもの笑いであっても、当局が「非愛国的」と判断した人物は香港立法会の議員選挙に立候補できないのだ。こんなことが今現実に起こっている。いったい、今は何世紀であったか。
「愛国」とはいったい何だ。その内容はどうでもよい。「候補者資格審査委員会」が「非愛国者」と認定すれば、立候補はできない。事実上中国共産党の判断と指示次第で、立候補者が決められる。こんなものを選挙とは呼べない。
選挙とは民意の選択によって立法府ないしは権力機構を構成することである。その民意の選択の前に、党の意思、政府の意思が立ちはだかる。党の意思に反した民意の反映などあってはならないとするのが、新「選挙」制度である。
雨傘運動の高揚以来、香港の圧倒的な民意は中国と闘ってきた。その民意がどこにあるか、自由・民主主義・人権の尊重・法の支配・三権分立を求めていることは明らかである。野蛮な中国は香港の文明を許せないのだ。香港の文明は、野蛮な中国の武力によって蹂躙された。21世紀の大国の蛮行として記憶にとどめておかねばならない。
林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、「審査委員会は立候補者を政治観で差別しないと述べた一方、あらゆる『非愛国者』を除外する」と述べたという。何という野蛮で露骨な物言いであろうか。言うまでもなく、『非愛国者』とは、中国共産党・中国政府から見て、望ましからぬ人物、弁えぬ人のことである。一方、『愛国者』とは権力におもねり、権力にへつらう人物を言う。『非愛国者』とは節を曲げない廉潔の士を意味し、『愛国者』とは阿諛追従の俗物のことである。いかなる境遇にあろうとも、けっして「愛国者」にはなりたくない。
我が国の戦前、野蛮な天皇制下の衆議院議員選挙法が改正されて普通選挙法が制定されたのが、1925年である。治安維持法などの弾圧法規とのセットではあったが、天皇制すら「愛国」を立候補の条件とはしなかった。中国共産党恐るべしである。
同じ、5月27日。香港の警察当局は、民主派団体が6月4日に計画していた天安門事件の犠牲者を追悼する集会について、開催不許可とした。
野蛮な中国本土では天安門事件を口にすることもできない。これに反して、文明の香港では、毎年の追悼集会が開かれてきた。これが、昨年初めて不許可となった。表向きの理由はコロナ対策だが、信じる者はない。続いて今年も、である。警察を管轄する李家超保安局長は同日、記者団を前に「いかなる者も未許可の集会に参加したら違法だ」と強調。「違法行為には厳しく対処する」と警告したという。
かくて、これまで香港に保障されていた「集会の自由」「政治活動の自由」が、中国本土の圧力でなくなった。香港が、限りなく中国化されつつあるのだ。
そして、昨日(5月28日)香港の民主活動家「リンゴ日報」の創業者らに、無許可集会を組織した罪で、再び実刑判決が言い渡された。集会の自由がないだけではない。中国化した香港には、裁判の独立もなくなったのだ。
一昨年(2019年)10月1日、中国建国70周年の国慶節に、香港で行われた抗議デモをめぐり無許可の集会を組織した罪などに問われた民主派の活動家ら10名に対し、香港の裁判所は禁錮1年2月から1年6月の実刑判決を言い渡した。
民主活動家として著名な李卓人氏や中国政府に批判的な論調で知られる香港の新聞「リンゴ日報」の創業者黎智英氏ら8人に対し禁錮1年2月から1年6月の実刑判決を、残る2人に執行猶予の付いた有罪判決をそれぞれ言い渡した。この結果、李氏と黎氏の刑期については、別の抗議活動に関連してすでに言い渡されている実刑判決と合わせて禁錮1年8月が科せられるという。
民主主義の理想を求めた香港の多くの活動家が獄につながれ、あるいは逼塞を余儀なくされている。89年の天安門事件後の中国本土の事情と変わらない。胸が痛むが、この民主化を求める市民のエネルギーは沈静することはない。沸々とたぎったマグマが、いつの日か噴出することになるだろう。そう、願わざるを得ない。