「国家の威信を発揚する」五輪だけでなく、「大観衆が一心となってアスリートを鼓舞する」五輪も無用である。
(2021年6月18日)
昨日(6月17日)の毎日新聞夕刊。花谷寿人論説委員の連載コラム「体温計」欄に、「祭典は誰のために」という落ちついた一文。「スポーツの祭典は誰のために開かれ、何を残すのか」を問うて、目前の東京五輪の開催意義に疑問を呈している。その論旨の半分には敬意を表しつつも、その余の半分には同意しかねる。
前回64年東京オリンピックの公式記録映画の製作を指揮したのが、市川崑監督だった。その映像について、花谷はこう言う。「空前の大ヒット映画を見返すと気づく。日の丸が掲揚されるシーンが少ない。試写を見た当時の五輪担当相、河野一郎氏は「記録性を無視したわけのわからんひどい映画」と言い放った。予想とあまりに違い、腹にすえかねたようだ。」「アジア初の五輪成功を高らかにうたい上げる。政治家はそんな作品を期待したのだろう。」
また、花谷はこう呟く。「当時『記録か芸術か』の論争になった。だが論争の本質は『国家か個人か』だったのではないか。」
なるほど、そのとおりなのだ。国費を投じた国策映画である。期待されたものは、国威の発揚であったろう。戦後の復興を遂げたこの国家の、国家としての勢いや自信の映像化であったはず。国家を描くとなれば、「日の丸」は必須のアイテムとなる。
しかし、市川が描いたものは国家ではなかった。敢えて「日の丸」掲揚のシーンを避けて、国家の威信を飾ろうという姿勢を捨てた。結局描かれたものは、個人たるアスリートの内面だったという。
国家に個人を対置させて、個人こそが存在の根源という思想を描いたのだろうか。そんなことを意識することもなく、『単なる記録ではなく芸術性を指向した』結果が、国家を捨象した個人の映像となったのだろうか。いずれにせよ、ここまでの花谷の立論には何の違和感もない。
続いて花谷はこう述べている。「映像はアスリートが大観衆に鼓舞され躍動していく姿を伝えている」と。大観衆とアスリートとの関係は、明らかに肯定的に描かれている。この「大観衆」には、国籍がないのが救いだが、個人としてのアスリートは大集団に鼓舞される存在であり、また競技場での大観衆の一人ひとりも一人のアスリートの活躍によって、集団に統合された存在となる。
花谷は、国家は否定しても、大観衆という集団は肯定的に描く。「五輪は他の大会以上に選手と観衆が一体となって作り上げる祭典だ」という。オリンピックには、大観衆の存在が不可欠なのに、目前の大会はそのような大観衆を動員できない。とすれば、本来のオリンピックではない。それでも開催するという東京オリパラ2020は、結局のところ「国の威信や政治の都合で」開催されるというしかない。
オリンピックは、ナショナリズムを高揚させ、観客の一体感を醸成させる恰好の舞台なのだ。大観衆の大声援は、通常ナショナリズムと結びついている。その大声援に鼓舞されて超人的な力量を発揮するアスリート、そんな姿を素晴らしいと思える人々が大勢いるからこそ、オリンピックは人心収攬のツールとして使えるのだ。パンデミックがあろうとなかろうと、オリンピックは無用に願いたい。