コロナと五輪とバブルと、そして都議選と。
(2021年6月27日)
三題噺は即興で行われた寄席芸である。名人と言われた噺家は、客から三つのお題を頂戴して、即座に一席の噺をまとめオチまで作ったという。『鰍沢』や『芝浜』は、こうして作られた噺だと伝えられている。その名手として初代の可楽や圓朝の名が残るが、今、こんなことのできる芸人がいるのだろうか。
三題噺は、一見無関係なお題をどうつなげるかが腕の見せどころ、聴きどころである。「コロナと五輪とバブルと、そして都議選」は自分で選んだ四題、一見も二見も関係性十分で底が割れている。常識的なことしか語れない凡俗な話者の仕業。その四題の関連は、常識的にはこう語るしかなかろう。
「コロナ」感染の蔓延は人の生命と健康に関わり、社会に壊滅的な打撃を与えかねない。感染拡大防止は喫緊の重大事であって、そのために社会の総力を傾注しなければならない。これに比して、「五輪」の開催は明らかに些事である。金儲けやナショナリズム鼓吹の機会ではあっても、社会全体の要請ではない。コロナ拡大阻止にいささかなりとも支障をきたすのであれば、五輪開催を中止すべきが正常な判断である。
この判断を狂わせるために持ち出されたのが、「バブル」方式である。シャボン玉の泡の如くに、選手や関係者を包み込んで外部との接触を遮断する。だから、コロナ禍のさなかでも、安全・安心に五輪開催が可能だという。権力者と金の亡者の安全安心論を打破して、「五輪は中止、コロナ対策に集中を」という世論を示すことが、この「都議選」の主要な課題だ。
誰が名付けたか「バブル」方式。この命名がコロナ対策としての自信のなさを表している。バブルは脆弱さの象徴。実体なく膨らんで、容易にはじけるもの。薄く弱い頼りのないものである。外界との遮断の壁が、壊れて消えるシャボン玉では、「安全」でも、「安心」でも、「しっかり」でもあり得ない。
オリンピック選手や役員に籠城の真似はできない。兵糧米を蓄え、井戸を堀り、野菜も植えて、外部からの侵入を防御したその真剣さはない。従って、バブルはけっして完結し得ない。多くの人が、バブルの中の集団を生存させるために、壁の内外を行き来しなければならない。コロナは容易にバブルの中へ侵入もし、またバブルの中に発生したコロナの感染は外へも拡大する。形だけ、やってるフリだけの感染対策でしかない。
「無観客開催」にしても、選手を包んだバブルが抜け穴だらけなのだから事情は基本的に変わらない。海外からの選手と関係者の入国を一切拒絶した「無選手・無関係者開催」であって初めて、コロナ蔓延防止対策となるだろう。コロナ対策とオリンピック、本質的に相性が悪いということなのだ。
さて、四題噺の続きである。都議選の結果で、ストーリー展開は極端に分かれることになる。望むべくは、都議選で東京オリパラ反対の圧倒的民意が示され、オリンピックは中止、政府も都政もコロナ対策に専念しました、となって欲しいもの。しかし、その反展開展開も、ないではない。
政権と、IOC・JOC・組織委と都政は、「バブル」方式の有効性を徹底して宣伝した。オリンピックで金儲けをたくらんでいる連中がこれに呼応して、大宣伝がおこなわれた。シャボン玉の泡は強固でけっしてこわれるはずはないと言うのである。その結果、しっかりと安全・安心に「五輪」開催が可能だという気分が都民に横溢し、なんと、「都議選」では、五輪反対派が惨敗した。その結果、意気揚々と、東京五輪は開催となった。その結果として、オリンピック競技のさなかに、デルタ変異株を中心に東京を第5波のコロナ感染蔓延が襲うこととなった。
各国選手団に相次いでクラスターが発生したが、医療態勢はたちまち崩壊した。病床は不足し収容先の施設は溢れ患者は放置された。あらためて、「コロナ」感染の猛威を世界は知ることになった。日本社会の壊滅的な打撃を心配せざるを得ない事態に、人々はあらためて、「オリンピック開催は明らかに些事であった。金儲けやナショナリズム鼓吹のための東京オリパラを開催してコロナ拡大対策を疎かにしたことは愚策だった」と深く反省した。
このことが菅政権の大失態と意識され、目前の総選挙で自公政権崩壊に至ることを疑う者はいない。