都議選が問う「コロナとオリパラ」 ー 実は、「コロナとオリパラ」に問われる都民の意識
(2021年7月2日)
7月4日都議選が目前である。前回選挙時には予想もできなかった、コロナ絡み、オリパラ絡みの、何とも形容しようのない絶妙な首都の議会選挙となっている。
コロナの蔓延はいったん収まるかにみえて、今、疑うべくもなくリバウンドの途上にある。この最悪の時期、しかも酷暑の東京でのオリパラ開催のデメリットは誰の目にも明らかである。一方、オリパラ開催のメリットや意義は霞の彼方、主催者の説明すら二転三転して定かではない。それでも、オリパラは強行されようとしている。そのオリパラ強行の是非についての民意を問う、はからずも絶好のタイミングでの都議選である。
国威発揚と商業主義と売名と、そして民衆を愚民化する意識操作と。オリンピックの本質が、これほどに深く鋭く問われ論議され断罪されたことはかつてなかった。権威を剥奪されたオリンピック開催とコロナの蔓延とが重なって、以前から日程が予定されていた選挙がはからずも命の重みを問う選択になっている。偶然とは言え、何という興味深い展開であろうか。
このような非常事態には、平時に用意された手垢のついた常套句は用をなさない。それぞれの政治グループや候補者がもっている、イデオロギーや基本姿勢が露骨にあぶり出されることになる。
「コロナとオリパラ」という組み合わせられた論点への解は、基本的には二つ。一つは「コロナ対策徹底のために、オリパラを中止せよ」であり、もう一つは、「オリパラ開催を前提に、必要なコロナ対策を」というものである。前者は、都民の命と健康を最優先する考え方であり、後者は国威発揚と商業主義と売名を優先させる考えである。
今、都議選は、「コロナとオリパラ」を巡って、基本的に3グループの争いになっている。一方に「オリパラを中止して、コロナ対策に専念せよ」という共産、その対極に「オリパラ開催を当然として、安全・安心な大会に」という自民。そしてその中間に、「無観客での開催」という都ファ。あとは、そのバリエーションである。
自民のいう「安全・安心」は、まったくの無内容である。具体性がない、科学的根拠がない。言わば、空念仏。それでも、オリパラ開催の方針だけが明瞭なのだ。最近になって、菅が、「(一部)無観客もあり得る」と言い始めた。
水際対策のダダ漏れ、穴だらけのバブル方式、ワクチン調達の挫折、変異株蔓延の恐怖、医療態勢の逼迫、世界各地での再拡大…。勝負に出たはずの菅が、明らかに躊躇し始めている。が、けっして中止とは言わない。
都ファが、「無観客開催」を言っているのが興味深い。前回選挙では吹いた追い風が、今回は期待できない。彼らは、生き残りのために、ひたすら都民の意向を探っている。その都ファが、小池百合子の方針に従っていたのでは全滅しかねない、という判断なのだ。オリパラ中止とは言えないが、「無観客開催」と言わねば生き残れないという結論。
共産の立場はシンプルで分かり易いだけでなく、一貫していてブレがない。これは、人権思想徹底の賜物と言うべきだろう。
都議選では、各党の各候補者が、「コロナとオリパラ」をテーマに政策を競い合っている。しかし、実のところ、「コロナとオリパラ」問題で問われているのは首都の選挙民の意識である。何よりも都民の命を大切にする政治を選択するのか、「安全・安心」の空念仏で「国威発揚と商業主義と売名」の場としてのオリパラ開催を優先させるのか。その中間で良しとするのか。その最悪の選択は、第5波の感染拡大をもたらし、多くの人命を奪うことにもなる。選択の間違いは恐ろしい。
重大な都議選である。選択の間違いは悔やみきれないことになる。