献金も 平たく言えば 賄賂なり
(2021年12月12日)
一昨日の維新の政治資金規正法違反告発について、足りないところを補いたい。
政治資金規正法の理念は、大きくは二つある。
一つは、《(1) 政治資金の動きを透明化し、国民の目に見えるようにすること》であり、もう一つは、《(2) 政治資金の流れに一定の縛りを儲けて、カネの力で政治を動かすことに歯止めをかけること》である。
(1)の目的は、各政治団体の収支や資産状況を明らかにすることによって、その政治団体を経済的に支えている人や団体を明確にすることにある。そのことを明らかにすることによって、それぞれの政党や政治団体の性格の把握が可能となる。それが、国民の次の投票行動に結びつくことが期待されている。
たとえば、DHC・吉田嘉明やフジ住宅から献金を受けている政党や政治家は、ヘイト体質だと考えてよい。アパホテルからの寄附を受けていれば、歴史修正主義と親和性が高いと判断されるだろう。
今回話題となった維新の政治資金収支報告では、金融市場でのマネーゲームで大儲けをしていた人物から、年に2150万円もの政治献金を受けていることが明らかとなった。維新とはそういう性格の政党なのだ。そういう勢力から、献金を受けて恥じない政党なのだ。しかも、村上世彰といえば、インサイダー取引で有罪確定した人物ではないか。
(2)の目的は、極端な不公正が生じることのないように、政治献金の量的・質的取締りを行おうというというものである。村上世彰の維新への政治献金は法が取り締まらざるを得ない巨額なのだ。
貧者の一灯が集まって支えている政党であるか、マネーゲームの上がりを原資とする献金を集めて運営されている政党であるか、国民は目を凝らして注視し、そして判断しなければならない。自分にとって、誰が味方で、誰が敵なのかを。
しばらく前に、私のブログに「そのカネが無償の愛のはずはない」という表題の記事を書いた。DHC・吉田嘉明の渡辺喜美(当時・みんなの党)に対する8億円貸付に関してのものだが、村上世彰の維新への政治献金についても当てはまる。
毎日新聞「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、2015年2月10日掲載の末尾18句目に、
民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。
その民意反映句として、第4句に目が留まった。
出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
思わず膝を打つ。まったくそのとおり。
過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)
選に洩れた「没句供養」欄の
献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という句も実に面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。
国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。
村上ファンド・村上世彰から維新・馬場伸幸への政治献金として渡ったカネは、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。
前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この2150万円は、「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「無償の政治献金」と、「私益を求めての賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。