産経と維新、タッグを組んでの悪質な「教育の自由」への攻撃
(2022年2月22日)
言うまでもないことでも、ことあるごとに何度でも繰り返し確認しておかねばならないこともある。今、あらためて大きな声で言わねばならない。国家に教育を統制する権限はない。教育は国家の支配から自由でなくてはならない。教育は国家の統制や支配に服してはならない。これが市民革命後の民主主義社会の普遍的理念であり、我が国の戦後教育法体系の根本にある大原則である。
「教育行政」は、教育のシステムを整備し、学校の施設を整えて教員に給与を支払うなどのハード面の充実に責任をもたねばならないが、「教育」というソフトの面に関しては、「大綱的基準」を示すことを超えた権限をもたない。「教育」と「教育行政」、この両者の厳格な分離の認識が不可欠なのだ。
戦前教育は、ハードもソフトも、徹頭徹尾国家による管理と統制にもとづく教育であった。個人の尊厳を尊重しようとの理念はなく、盲目的に国家に忠誠で、国家目的遂行に有益な人材の育成が教育の目的とされた。そのために、神話が国史として教えられ、教育の名でマインドコントロールが行われ、天皇の神聖性が生徒に刷り込まれた。教育勅語の精髄は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」である。こうして、「臣民」は、「君のため国のために」勇躍して侵略戦争に臨んだ。
現行の教育法体系はその深刻な反省から出発している。教育基本法は、「教育に関する憲法」である。その第16条1項は、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と定める。不当な支配の主体として第一に考えられているものが、国家であり行政権力である。次いで、与党やその議員もこれに含まれる。
ところが、自民党ではなく、「ゆ党」維新の議員が、予算委員会でこの不当な支配の役割をになう質問を行い、総理や文科大臣に国家による教育統制の徹底を焚きつけた。維新たるもの、民主主義や人権にとって危険な存在であることが明確になりつつある。本来は、自民党右派議員の専売特許だった国家主義的教育統制の火付け役を維新議員が買って出ているのだ。
昨日(2月21日)、「教科書ネット21」が、次の声明を出した。さすがに、要領の良い内容なので、まずはこれをお読みいただきたい。
日本維新の会による国会を通じた教育に対する政治的介入に抗議する
「明治憲法 授業で歪曲か」との見出しの『産経新聞』(1月30日付け)をもとに、衆議院予算委員会(2月2日)で、日本維新の会(「維新の会」)山本剛正議員は、オンラインで1月末に開催された日本教職員組合の教育研究全国集会・社会科教育分科会での新潟の小学校教員によるリポートを取り上げ、攻撃しています。
山本議員は、記事の中で「リポートでは、「『五日市憲法の方が民主主義の考え方なのに、なぜ選ばなかったのか』という疑問が生じた」とする授業を受けた児童の様子を紹介。教員が一方的な解釈を示したことで、正しい歴史理解が図れなかった可能性が高い」としていることや、他のリポートでも「早いうちから意図的に子供たちに『護憲』を浸透させようと各地で授業を進めている構図」としていることを取り上げ、岸田文雄首相に次のような質問をしました。
山本議員「総理はご自身の任期中に憲法改正の実現を目指しておられますが、このようなことをどう受けとめますか」「こういった間違った教育が、憲法を国民の手に取り戻す当たり前のことができないなどとの認識があるのか、この問題の真偽の調査と問題があれば、改善させるつもりがあるのか」。
末松信介文科大臣が、学習指導要領に基づき適正な指導が行われるよう新潟県教育委員会と連携して必要な対応をすると答え、岸田首相は、それを追認しました。
憲法改正を推進する岸田首相を持ち上げる政治的意図のもとに、国会質問によって自主的な教育研究や学校現場の具体的な授業実践を取り上げ、「適正な指導」や「必要な対応」などを求めることは、教育内容に対する政治的介入であり、許されるものではありません。それは、政治権力により教育がゆがめられないよう求めた教育基本法第16条の「教育は、不当な支配に服することなく」との規定に抵触するものです。このように教師の教育上の自主的権限や専門性を侵害することは、憲法26条に保障された、子どもたちの教育への権利をも奪うものです。(中略)
政府・文科省が、憲法・教育基本法に違反する教育への不当な政治権力による介入に踏み込もうとしていることに強く抗議し、それを直ちに中止することを要求します。
また、一部マスメディアが、特定の政治的立場と歴史認識にもとづき教育への不当な政治的介入を助長する報道を行うことに抗議するとともに、その是正を求めるものです。
この維新議員の質問を聞く限り、「維新は、自民党と変わらない」などという論評は間違いかも知れない。自民党以上に反民主主義的で、自民党よりも危険な政党と言ってもおかしくない。維新、明らかに異常で異様である。
維新議員が元ネタとした産経記事は、概要以下のとおりである。これこそ、現今のメディアの問題状況をよく表している。学校教育での憲法教育の恰好の素材である。中学生は中学生なりに、高校生は高校生なりに、批判の議論をしてみてはどうだろうか。
明治憲法、授業で歪曲か 日教組集会で実践例
日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会(教研集会)、社会科教育(歴史認識)では、大日本帝国憲法(明治憲法)の制定過程に関して事実を歪曲して伝え、子供たちが正しく歴史を学べていない可能性が浮上。そこには子供のうちから現行憲法に対する?護憲?思想を浸透させようとする教員の政治的意図が見え隠れする。(大泉晋之助)
新潟県の小学校では、明治憲法と、当時の民間人が手がけた私擬憲法「五日市憲法草案」の内容を比べる授業が行われた。発表されたリポートによると、授業を担当した教員は児童に、五日市憲法草案を「日本国憲法と考え方が似ている」として提示。双方の違いを検討させて、児童が「民主主義の憲法が選ばれなかった理由を、当時の時代背景に照らし合わせながら考えた」としている。
ただ、これは前提が誤っている。そもそも、五日市憲法草案は昭和43年に東京都あきる野市(旧五日市町)で発見されたもので、明治憲法制定時に世に知られていなかった。このため、明治政府が双方を二者択一とし、あえて五日市憲法草案を選択せずに明治憲法を制定したかのように進めた授業は、歴史を大きく捻じ曲げている。
また、五日市憲法草案は基本的人権に触れており「現行憲法に通じる」と評価する研究者がいる。この教員も「国民主権を謳(うた)っている」先駆的内容だったとの認識で授業を展開した。
しかし、五日市憲法草案は天皇主権の立憲君主制をその中心に据え、天皇が国会での議決を拒否したり、刑事裁判のやり直しを命じたりできるなど、明治憲法に比べても強権的な要素が強い。さらに人権面でも障害者差別が明記され、女性参政権が認められていないなど、現行憲法とはかけ離れた内容が盛り込まれている。
私擬憲法に関する著作がある関東学院大社会学部の中村克明教授は五日市憲法草案を「反民主的」とした上で「人権の部分をいたずらに高く評価することは誤りだ」と指摘。「現行憲法とはまったく異なった思想で作られており、同一視するのは間違っている。両者が同じ思想にもとづいているかのような強引な解釈は歴史の歪曲だ」と授業のあり方に疑問を呈している。リポートでは、「『五日市憲法の方が民主主義の考え方なのに、なぜ選ばなかったか』という疑問が生じた」とする授業を受けた児童の様子を紹介。教員が一方的な解釈を示したことで、正しい歴史理解が図れなかった可能性が高い。
社会科に関するほかのリポートでは、現行憲法について「絶対に憲法を変えてはいけない」「戦争をしないで憲法を守る」といった記述もあり、早いうちから意図的に子供たちに「護憲」を浸透させようと各地で授業を進めている構図が浮かび上がる。五日市憲法草案を現行憲法に結びつけようとする新潟の授業も、「護憲」を植え付ける意図が背景にありそうだ。
この産経記事は、イデオロギー色が出過ぎて押し付けがましく、それでいて論旨不明瞭なものになってしまっている。出来が悪いのだ。タイトルが、「明治憲法、授業で歪曲か 日教組集会で実践例」というのだから、どのように大日本帝国憲法を批判し貶めた教育実践が報告されたのかと思って読むと、拍子抜けするほどにそれはない。強調されているのは、五日市憲法草案がけっして民主的というべきほどの内実をもたないという指摘。
可哀想に、産経記事に引用された中村教授(専攻・平和学)、確かに「五日市憲法草案は現行憲法とは異なった思想で作られている」ことを持論としてはいるようだが、けっして旧憲法肯定論者ではない。「五日市憲法草案の防衛構想は,明治憲法(大日本帝国憲法)下におけるそれと大差ない,極めて危険な構想である」という、明確に旧憲法を危険視する平和主義の基本的立場。
それはともかく、産経や中村教授の五日市憲法草案観は少数派だろう。むしろ、下記の前皇后・美智子が述べているような「感想」が一般的なもので、新潟の教師が前提とした五日市憲法草案観もこれと軌を一にしている。
「かつて、あきる野市の五日市を訪れたとき郷土館で見せていただいた『五日市憲法草案』…。 明治憲法の公布に先立ち、地域の小学校教員、地主や農民が、寄合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障、及び教育を受ける義務、法の下の平等、さらに言論の自由、信教の自由など204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。 当時、これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40箇所で作られてきたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。」
新潟の教育実践は、明らかに、このような一般的で平凡な五日市憲法観を前提とするものである。これを「前提が間違っている」「正しい歴史理解が図れなかった」というのは、牽強付会も甚だしい。ましてや、「明治憲法、授業で歪曲か」は極端な決めつけである。
産経記事では、この前皇后の感想も、「五日市憲法草案を現行憲法に結びつけ、「護憲」を植え付ける意図が背景にありそうだ」ということになろうか。
「民主主義の憲法が選ばれなかった理由を、当時の時代背景に照らし合わせながら考えた」は、ことさらに「明治政府が双方を二者択一とし、あえて五日市憲法草案を選択せずに明治憲法を制定したかのように進めた」とは考えがたい。
当時から、憲法には、「民権尊重の民主主義型」と、「国権重視の権威主義型」のものがあった。五日市憲法(素案)と、大日本帝国憲法とをその代表格として比較し、なぜ「民権重視型」ではなく、「国権重視型」の憲法制定に至ったのか。その理由や背景事情に目を向けさせることは、素晴らしい歴史教育ではないか。これに悪罵を投げつける産経も産経なら、維新も維新。
政府は、こんな連中に焚きつけられて、教育に不当な介入をするような愚を犯してはならない。