「僕の方が強いぞ」っていうと「僕の方がもっと強い」っていう。
(2022年4月3日)
花冷えである。しかも本格的な雨。せっかく咲いた花が、かじかんで震えている。気持ちも晴れない。ウクライナの停戦が実現しそうで実は困難なことが見えてきて胸がふたぐ。ロシア侵略軍の蛮行によるウクライナの人々の甚大な被害、その報道に落ち着かない。これからどうなるのか。そして、日本への影響は。おろおろするばかり。
同じ出来事を経験しても、教訓として得るものは人によって大きく異なる。アジア太平洋戦争の惨禍を経て、「二度と戦争をしてはならない」と教訓を語る人が大多数なのだが、実はそのような人ばかりではない。「もっと周到な準備の下に、国防体制を立て直して、今度こそ勝つ戦争をしなければならない」という反省の仕方もあるのだ。どちらも、論理としては成立しうる。
ロシアのウクライナ侵略の推移を見て、「自衛のための軍備が必要」「防衛予算を増額しなければならない」「国家への忠誠心がなくてはならない」「強国との軍事同盟が不可欠」「敵基地攻撃能力があればさらに安心」「非核三原則を見直して核共有も」と、「教訓」を声高に語る人がいる。
しかし、果たしてそうだろうか。むしろ、汲むべき教訓は、「軍事力で国民を守ることはできない」ということではないのか。ウクライナに「9条」はない。むしろ、相当の軍事力を持った国である。洗練された兵器をもち、兵の練度も高い。それでもなお、ロシアの軍事侵攻を防ぐことはできなかった。また、ウクライナのNATO加盟への強い意思が、ロシアの侵略を決意させたともいわれている。
この度のウクライナ侵攻に、ロシアは、そしてプーチンは、どう教訓を得ただろうか。国民に対する情報操作による世論誘導の危うさ、そしてその破綻の危惧におののいてはいないか。国際世論を敵にまわすことの重圧を感じてはいないか。経済制裁による国家財政のデフォルトの危険を認識してはいないのか。なくもがなの侵略を敢えてした愚を後悔しているのではないか。この侵略がどのような結末になるにせよ、ロシアの権威も経済力も凋落することが目に見えている。世界の諸大国もこのロシアが陥った現実を見据えて教訓としているだろう。
日本は、維新直後から第2次大戦まで、侵略戦争を繰り返してきた。9条に象徴される敗戦時の「不戦の誓い」は、侵略戦争の放棄という気分であったろう。日本が侵略戦争さえしなければ、日本に攻め入る侵略国があろうとは考え難かった。こうして自衛戦争まで放棄し、戦力不保持を明記した9条が成立した。
その後、日本が侵略の対象となる現実的な危機の経験はなく、むしろ、日米安保の存在は、アメリカの戦争に巻き込まれる危険の文脈で語られ続けてきた。今、ロシアから侵略対象とされたウクライナを、中国からの侵攻の危険に曝されている台湾になぞらえ、あるいは日本に喩えて、「侵略される危険」が語られている。憲法制定時とは、日本周辺の国際環境が大きく変化してきたというのだ。
しかし、だからと言って、軍事力の増強、軍備拡張の路線に走ってはならない。ましてや核の保有などと短絡するのはもってのほか。特定の国家を意識して、侵略防止のための軍備拡張は、実は相手国を刺激して二国間の緊張を高め、戦争を誘発することにもなりかねないのだ。
金子みすゞの「こだまでしょうか」をこう解したい。
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「仲良くしよう」っていうと「仲良くしよう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「もう遊ばない」っていう。
「僕の方が強いぞ」っていうと「僕の方がもっと強い」っていう。
「僕の方がもっともっと強いぞ」っていうと「僕の方がもっともっともっと強い」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、どこの国でも。