不敬の勧め ― 不敬であれ、不敬を貫け、不敬を誇りにせよ。
(2023年5月6日)
本日,新英国王の戴冠式だという。いい大人が、何という滑稽でバカバカしい儀式。奇を衒った装飾やら衣装やら勲章やら、パレードやら。恥ずかしくないか。いまどき、もったいぶってこんなことをやっている連中の正気を疑わねばならない。
その戴冠式はウェストミンスター寺院で行われ、英国国教会の最高位聖職者であるカンタベリー大主教から王冠を授けられるという。王権の神授を、被治者の目に見せようという魂胆である。
これを「目くじら立てるほどのことでもなかろう」という世の良識に,敢えて異を称えよう。王位も王冠も、くだらぬ無意味なものではない。この上なく有害なものなのだから。もちろん英国の王位ばかりではない、我が国の天皇制についても同じことだ。民主主義を語るほどの者は、すべからく不敬に徹しなくてはならない。天皇に対する批判の言論に,いささかの萎縮や躊躇もあってはならない。
40年ほども昔、岩手靖国違憲訴訟に取り組んでいたころ。「不敬言動監視委員会」とか、「不敬摘発取締本部」などと名乗るグループから、何通かの警告文を頂戴したことがある。私の以下のような発言が「天皇陛下に対する不敬」に当たるということだった。
「天皇は、国民主権・民主主義の敵対物である。しかし、特殊な歴史的事情から民主主義を根幹とする『日本国憲法』の不徹底部分に生き残った。憲法に明記されている以上は、将来の憲法改正が実現するまで、天皇の存在を違憲とは言えない。しかしそれは、人権と民主主義に人畜無害な形としてあるものと運用し,解釈しなければならない」
「天皇という危険物を、その有害性の発動に歯止めを掛け、人権や国民主権・民主主義に人畜無害な存在にとどめるための憲法上の安全装置が、政教分離にほかならない」
「かつて天皇は神聖な神として臣民に君臨し、国民精神を支配した。日本国憲法は、天皇の主権と軍事大権を剥奪しただけでは足りず、精神的権威の根源たる国家神道(天皇教)を厳格に禁じた。これが日本の政教分離である。再び天皇を神としてはならないとする保証の制度である」
右翼グループから不敬と指摘されて、私はあらためて不敬の大切さを認識した。そうだ、象徴天皇の危険を見くびってはならない。不敬に徹しなければならない。
宮武外骨というジャーナリストがいた。晩年の彼は、その自叙伝の表題を『予は危険人物なり』とした。そのような覚悟で、天皇制権力としたたかに対峙しながら、生きてきた人である。不敬罪での逮捕の経験もあり、投獄は3年8か月に及んだという。また、その著書の中で、敢えて「予の先祖は備中の穢多であるそうな」とも書いている。尊敬に値する人物。
天皇とは旧社会の諸悪の残滓にほかならない。何よりも家父長制温存の悪しき象徴である。世襲制度や血に対する信仰の愚かさとその害悪は、今さら言うまでもない。世襲が何代も続いたことを何か素晴らしいことのようにもてはやす価値観は愚かの極みと言わざるを得ない。また、天皇は、出自での差別を容認する社会の象徴でもある。人は、生まれで貴賤を判別されてはならない。そのことを徹底する最も確実な方法は、天皇制を廃絶することである。天皇をなくして、民主主義社会は何の痛痒も受けない。天皇がないと社会の安定が壊れるという論説は、我が国の民主主義の未成熟を嘆いて見せているだけのことである。
英国の戴冠式、他人事として眺めていないで、まずは不敬の覚悟を固めよう。