「敬愛する元帥の愛と配慮」と言わせる閉鎖社会の感覚
「仁川・アジア競技大会」が始まっている。やや盛り上がりに乏しいようだが、国境を越えて「45の国や地域から9700人を超える選手、監督・コーチ、取材陣、役員らが参加」し交流する大舞台。大規模な人と人との交流を通じて、相互理解と平和を構築する機会として意義のないはずはない。
各大会にスローガンが設定されるそうだ。今回の仁川大会は、「Diversity Shines Here(多様性がここで輝く)」だという。歴史・文化・伝統・宗教の多様性を認め合おうとの趣旨で、それ自体に文句のあろうはずはない。しかし、参加各国において少数民族抑圧の歴史や、男尊女卑の文化、体制順応の伝統、寛容ならざる宗教等々が横行している現実がある。その負の多様性を「輝く」ものと称えることはできない。多様性の名のもとにこれをも尊重すべしとしてはならない。
そのような文脈で北朝鮮選手団に目を向けざるを得ない。その北朝鮮が大会序盤に、「重量挙げで連日の世界新記録」と話題になっている。
「仁川アジア大会第3日(21日)重量挙げ男子は北朝鮮勢の連日の世界新記録に沸いた。男子56キロ級のオム・ユンチョルに続き、この日は62キロ級のキム・ウングクがスナッチとトータルで世界新をマーク。2人のロンドン五輪金メダリストが絶対的な強さを見せつけた」「北朝鮮勢は女子75キロ級にも、ロンドン五輪69キロ級女王のリム・ジョンシムがエントリーしており、旋風は収まりそうもない」(共同)と報道されている。その成績自体には、私は何の興味も関心もない。
私の関心を惹くものは、たとえば次の毎日の記事である。
「表彰式後に世界記録更新の感想を聞かれると、ユニホームの胸に描かれた国旗を誇らしげに示し『敬愛する最高司令官、金正恩(キム・ジョンウン)元帥(第1書記)の愛と配慮がそれだけ大きいから』」
北の体制を支えている国民と指導者の精神構造は、おそらく旧日本の天皇制によく似ている。しかし、戦前の日本臣民も、さすがに外国に向けては「金メダルは天皇陛下のおかげです」「この栄誉を陛下に捧げます」などとは口にしなかったのではないか。
「元帥を敬愛する」も、「元帥の愛と配慮のおかげ」も、「北」を一歩出れば恥ずかしい限り。これをも 「輝く多様性」として認め合おうと言うべきか。
毎日の記事は、「金正恩体制は、今まで以上に国際大会での活躍を重視している。22日の労働新聞は、キムが表彰式で国旗に敬礼する写真とともに『栄誉の金メダル奪取、連続新記録樹立』と報じた」と続いている。あきらかに、北朝鮮はアジア大会を国威発揚の機会ととらえている。そして、国威発揚と個人崇拝とは、彼の国では一体のものなのだ。
おそらく、オム・ユンチョルやキム・ウングクは、元帥様を中心とする北の体制の「支配の側」に組み入れられることになるのだろう。だから、元帥様礼賛は本心からのものに違いない。しかし、むきつけの国威発揚や個人崇拝が、この上なく格好の悪いことであるという感覚には乏しいようだ。そのような感覚が国外では通用せず、却って冷笑されるものと考え及ばない閉鎖された歴史・伝統・文化の中にあるようだ。
もっとも、スポーツを国威発揚の手段としている国は北朝鮮にとどまらない。また、国威の発揚が時の政権の威光として意識されることも言を俟たない。アジア大会参加の各国と「北」との違いは、五十歩百歩。北や元帥様を笑う資格はどの国にもなさそうだ。もちろん、日本にも。
国際スポーツ競技会とは、一面人々の交流の機会でもあるが他面ナショナリズム高揚の機会でもある。前者の側面を意識的に強調して充実させ、後者を意識的に抑制する方針を採らないと、しらけた偏頗な意味のないものに成り下がってしまうだろう。
(2014年9月22日)