澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

朝日バッシングの異様に対抗言論を

滅多にないことだが、時に寸鉄人を刺すごときコラムにぶつかって膝を打つことがある。9月21日付東京新聞25面の「本音のコラム・日本版マッカーシズム」(山口二郎)ははまさにそれ。そして、その下欄に続く「週刊誌を読む・池上さん『朝日たたき』にクギ」篠田博之)も、池上彰コメントを紹介して、実に的確に朝日バッシングの風潮を批判している。その姿勢に学びたい。

山口コラムの冒頭は、以下の通り。
「このところの朝日新聞攻撃は異様である。為政者とそれを翼賛するメディアのうそは垂れ流され、権力に批判的なメディアのミスは徹底的に叩かれる。」

まったくその通りだ。記事が不正確だからたたかれたのではない。朝日だから、従軍慰安婦批判だから、反原発の論調だったから、「徹底的に叩かれた」のだ。だから、まさしく異様、まさしく常軌を逸した、たたき方になっているのだ。

「為政者とそれを翼賛するメディアのうそは垂れ流され」の例示として、山口は、「安倍首相は『福島第一原発の汚染水はアンダーコントロール』と世界に向かって大うそをついたことについて、撤回、謝罪したのか。読売や産経も、自分の誤りは棚に上げている」という。指摘の通り、為政者のうそは、汚染水同様に垂れ流され、右派のメディアはこれを批判しようとはしない。

篠田が紹介する池上彰コメントは、週刊文春に掲載された「罪なき者、石を投げよ」というもの。今、朝日に石を投げているお調子者にたいして、「汝らにも罪あり」と、その卑劣さをたしなめる内容だという。

そのなかに、「為政者を翼賛するメディアのうそ」の具体例として、次のくだりがある。
私(池上)は、かつて、ある新聞社の社内報(記事審査報)に連載コラムを持っていました。このコラムの中で、その新聞社の報道姿勢に注文(批判に近いもの)をつけた途端、担当者が私に会いに来て、『外部筆者に連載をお願いするシステムを止めることにしました』と通告されました。‥後で新聞社内から、『経営トップが池上の原稿を読んで激怒した』という情報が漏れてきました。‥新聞社が、どういう理由であれ、外部筆者の連載を突然止める手法に驚いた私は、新聞業界全体の恥になると考え、この話を私の中に封印してきました。しかし、この歴史を知らない若い記者たちが、朝日新聞を批判する記事を書いているのを見て、ここで敢えて書くことにしました。その新聞社の記者たちは、『石を投げる』ことはできないと思うのですが。

「ある新聞社」とは朝日のライバル紙。いま、朝日たたきをしながら「自社の新聞を購読するよう勧誘するチラシを大量に配布している」と、苦言が呈されている社。固有名詞こそ出てこないが、誰にでも推測が可能である。

山口は、現在の朝日たたきの現象を「日本版マッカーシズム」と警告する。
この状況は1950年代の米国で猛威を振るったマッカーシズムを思わせる。マッカーシーという政治家が反対者に「非米」「共産党シンパ」というレッテルを貼って社会的生命を奪ったのがマッカーシズムである。今、日本のマッカーシーたちが政府や報道機関を占拠し、権力に対する批判を封殺しようとしている。

ここで黙るわけにはいかない。権力者や体制側メディアのうそについても、追求しなければならない。マッカーシズムを止めたのは、エド・マーローという冷静なジャーナリストだった。彼は自分の番組で、マッカーシーのうそを暴いた」「いまの日本の自由と民主政治を守るために、学者もジャーナリストも、言論に関わるものがみな、エド・マーローの仕事をしなければならない。権力者のうそを黙って見過ごすことは、大きな罪である」
全くそのとおり。深く同感する。

篠田コラムは次のように終わっている。
池上さんは、『売国』という表現が、戦時中に言論封殺に使われた言葉であること指摘し、こう書いている。『言論機関の一員として、こんな用語は使わないようにすることが、せめてもの矜持ではないでしょうか』。池上さんに拍手だ

マッカーシーは、「非米」「共産党シンパ」という言葉を攻撃に用いて「赤狩り」をやった。いま、日本の右派メディアは口をそろえて、「売国」「反日」「国益を損なう」という言葉を用いてリベラル・バッシングに狂奔している。

マッカーシズムが全米を席巻していた頃、多くのメディアは、マッカーシーやその手先を批判しなかった。「共産党シンパ」を擁護したとして、自らが「非米活動委員会」に呼び出され、アカの烙印を押されることを恐れたからである。威嚇され、萎縮した結果が、マッカーシズムの脅威を助長した。ジャーナリストは、肝心なときに黙ってはならない。いや、ジャーナリストだけではない。民主主義を標榜する社会の市民は、主権者として声を上げ続けなくてはならないのだ。

私も、山口や篠田の姿勢に倣って肝に銘じよう。
ここで黙るわけにはいかない。権力者や体制側メディア、あるいは社会的強者の嘘やごまかしを、徹底して追求しよう」「いまの日本の自由と民主政治を守るために、言論に関わる者の一人として、私もエド・マーローになろう。権力者の嘘を黙って見過ごすことは、大きな罪なのだから
(2014年9月23日)

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