「検証・司法の危機」(鷲野忠雄著)の出版を祝う
今日から8月。誰が詠んだか、「8月は 6日9日15日」。これで、特別なあの年の「夏」を思い起こさせる優れた句になっている。毎年8月は戦争を振り返るときだが、今年の8月は例年にもまして、深く熱く戦争を想わねばならない。
本日午後、鷲野忠雄さんが上梓した「検証・司法の危機 1969?72」(日本評論社)の出版を祝う会が催された。私の司法研修所入所が1969年4月。研修所を出て弁護士登録をしたのが71年4月。まさしく、「司法の危機」のまっただ中だった。「激動の司法」「司法の嵐」とも言われた時代。私も司法の危機をめぐるその時代の若い法曹の一人だった。けっして時代の傍観者ではなく、当事者の一人としてせめぎ合いの渦の中にあった。
司法の「危機」とは護憲派やリベラルの立場からの「危機」であるが、その発端は戦後続いた保守政権の側における「危機」意識にあったと思う。戦後改革の洗礼を受け、戦後教育や安保闘争の中で育った世代が、比較的リベラルな憲法感覚や人権意識を身につけて司法界にはいり、次第にしかるべき地位を占め始めた。この若い法律家群が、憲法理念に忠実な立場でする裁判に、保守政権は驚愕したのだろうと思われる。こうして保守政権と、財界、右翼ジャーナリズムの「偏向判決」批判が始まった。
鷲野さんは、こう述べている。
「ここで、『偏向判決』として非難されているものは、第一に、いうまでもなく砂川(伊達)判決(その後の長沼訴訟福島判決)など国家の軍事防衛政策ないしその具体化を違憲ないし違法とする判決、第二に、国民の政治・選挙活動、大衆行動など表現の自由を禁圧する法令(人事院規則、戸別訪問禁止、公安条例等)を違憲とし、あるいは、その適用を厳格に絞ろうとする判決、第三に、官公労働者のストライキにおける刑事免責や、ピケッティング、団体交渉、不当労働行為等をめぐる事件で、労働者側の権利や正当性を認めた判決、第四に、教育、学問の自由への国家の介入を批判した判決(学力テスト事件、後に出た教科書裁判など)、第五に、思想信条を理由とする不利益処分(解雇、配転等)を無効とした判決、第六に生存権保障を単なるプログラム規定ではないとする判決(朝日訴訟)などである。これらはいずれも、広範な世論・運動を背景に、当事者やこれを支える人たちの血のにじむような努力、学者・研究者らの旺盛な研究活動、報酬を度外視した弁護士たちの献身的弁護活動、そして憲法と人権の擁護に忠実であろうとする裁判官ら(青法協会員か否かに関りなく)の決断によって生み出されたもので、どれ一つをとっても、常識的表現としての『偏向』というレッテル貼りになじまないものだ。
『偏向』宣伝における『偏向』とは、憲法を敵視する攻撃側の立場から見て『偏向』しているにすぎないもので、彼らは、判決内容について説得力ある批判をするのでなく、これら諸判決を『共産主義の産物』というデマゴギーで染めあげ、これをもっともらしく見せるために、公安情報を利用した青法協等への徹底したアカ攻撃、レッテル貼りを常套手段としてきた。」
この「偏向判決」批判に対して、最高裁が良心的裁判官擁護の姿勢を見せることはなかった。それどころか、最高裁司法行政当局は、保守勢力の走狗と化して良心的裁判官に対する統制に乗りだした。建前として、裁判内容への批判や介入はできない。だから、裁判官への統制手段は、人事権を通してのものとなった。これが、「司法の危機」の正体である。
いま、誰もが常識として知っている。「最高裁は権力追随の判決がお好き」「最高裁お好みの判決を書く裁判官はつつがなく出世できる」「最高裁に逆らう内容の判決を書く裁判官は冷遇を覚悟しなければならない」
このような常識を確立したのが、「司法の危機」の時代にほかならない。最高裁が好ましくないとしている「憲法に忠実に」などと青臭いことを言っている青年法律家協会の会員修習生は任官を拒否されて裁判官として採用されない。10年目の再任時には、再任拒否の憂き目に遭うことを心配しなければならない。最高裁ににらまれたら、「支部から支部へとまわされる」。それを露骨にやってのけたのが、石田和外、矢口洪一らに代表される司法官僚である。
鷲野忠雄さんは、この司法の危機の時代に、青年法律家協会の事務局長として、最高裁やその背後の勢力とのせめぎ合いの中心にいた。そして、今日の祝う会には、当時の青年法律家協会の議長だった佐々木秀典さんや、再任拒否をされた宮本康昭元裁判官などの顔も見えた。
全司法労働組合の輝けるリーダーだった93歳の吉田博徳さんが、ハリのある声で印象に残るスピーチをした。
「私は、憲法ができた直後に裁判所職員となりました。まったく法律の素養の無い私たちに、裁判官が新しい憲法を語ってくれました。裁判所は立法権からも行政権からも独立して、憲法の理想を実現すべき舞台となったのだと情熱を込めて語られたことが忘れられません。私も、素晴らしい職を得たものだと感動したものです。
一つ、こんなことを覚えています。なぜ、裁判官には10年ごとの再任の制度があるのか。それは、裁判官がパージにならず、戦前天皇の名における裁判をしていた裁判官が皆戦後の新憲法下の裁判官になってしまったことと関係がある。つまり、旧憲法感覚の裁判官をこの制度で一掃して、新憲法に馴染んだ裁判官だけを再任しようという制度なのだと言うのです。当時私は、なるほどこれは素晴らしい制度だと思ったのです。ところが、現実には、この司法の危機の時代に、再任制度は裁判官の統制制度としてはたらいた。憲法感覚豊かな立派な裁判がこの制度によって切られ、あるいは威嚇されてしまった」
どんな制度も、その運用の実権を握る者の一存で、良くもなり悪くもなる。権力の総体を民主化し得ずに、司法部だけを理想化することはできない。さはされど、権力総体の民主化のために、司法の独立は欠かすことのできない課題というべきでもあろう。
今日の祝う会でスピーチをした人の多くが、司法の危機の時代と、憲法の危機の今とを重ねあわせて語った。権力の理不尽なムチは、人を震えあがらせる効果だけをもつことにはならない。必ずその不当に屈せず闘う多くの人を生む。さらに、粘り強く闘う人々を育てることになる。司法の危機の時代の闘いがそうだった。そして、安倍政権の理不尽とそれとの闘いもきっと同じことになるだろう。
私も、「司法の危機」の時代に、最高裁の横暴に心の底から怒って、その後の職業生活の基本方向を定めた。その後、40年以上大きくぶれることがなかったのは、最高裁のおかげでもある。いま安倍政権も、その暴走によって多くの活動家を育てているのだと思う。
(2015年8月1日)