領土出れば身に王位なし春の風
大正期の俳人渡辺水巴の句である。水巴は、高浜虚子に師事した職業俳人。その虚子の「俳句はかく解しかく味わう」(1918年原著刊)に、この句が以下のように解題されている。
王位は人間の第一位と考えなければならず、また王位に在る人の幸福も思いやられるのであるが、いずくんぞ知らん、その位置に在る人になって見ると、その王位にあることが非常の苦痛で、どうかして暫くの間なりともそれを離れて見たいような心持がする。この句は別に王位を退いたものとは見られぬが、とにかく自分の領土を離れて単に一人の旅人となれば、もう自分の身にはその王位はなくなって、いかにも気軽な一私人となったのである、折節時候は春の事であるから、うららかな春風はその一私人の衣を吹いて、心も身ものびのびとするというのである。
王位は皇位と読み換えてよい。100年前のことではなく、今の世のことに置き換えることができる。そして、表からだけではなく、裏からも読み解かねばならない。
皇位は生まれながらの日本国民統合の象徴と考えなければならず、誰の目にもその地位に在る人の好運と幸福が思われるのであるが、いずくんぞ知らん、その立場に在る人になって見ると、神ならぬ生身の人間の悲しさ、その皇位にあることが非常の苦痛で、どうかしてそれを離れたいという心持になる。しかも高齢になれば、なおさらのことなのである。
この句は皇位を退いた者について詠んだものではなく、とにかく自分を縛るこの領土を離れて単に一人の旅人となれば、もう自分の身にはその皇位はなくなって、ひとときなりともいかにも気軽な一私人となれるのではないか、との空想と願望とを、皇位にある者に代わって詠んだものである。そのようなことが実現すれば、折節時候は春の事であるから、うららかな春風はその皇位を離れた一私人の衣を吹いて、心も身ものびのびとするというのであるが、それは空想の世界におけるだけのこと。現実には、たまさか領土を離れても、一私人とはなり得ぬこの身に冷たい秋風が心に沁みる不運・不幸を、皇位にある者に代わって嘆く句と読み解くべきなのである。実に不幸の形は多様で多彩なのだ。
天皇の生前退位希望を100年前の水巴が予見していたとも言えるし、皇位にあることの苦痛やプレッシャーはいつの時代でも誰の目にも「お気の毒さま」と同情するしかないのだ、とも言えるだろう。
(2016年10月19日)