卒業式直前・五者(原告団・元原告団)総決起集会で
弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、冒頭のご挨拶を申しあげます。
本日はやや冷えておりますが、確実に春が近づいています。春は万物にとっての希望の季節。とりわけ学校にとっては、若者たちの巣立ちを祝い、また新しい生徒たちを迎え入れる、慶事の季節。
しかし、石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されて以来、希望の春は憂鬱な春に変わってしまいました。それから年を重ねて今年は14度目の憂鬱な春。
この間、梅が咲けば重苦しい卒業式が間近となり、桜が咲けばまた重苦しい入学式。これは、きっと短い悪夢だ。いつまでもこんなことが続くはずはないと念じつつ闘いを続けながら、時を過ごしてまいりました。
この間、屈することなく闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。
この恐るべき事態がこんなにも続くとは、当初は思ってもみないことでした。これは、極右の知事が選挙で思いがけなくも308万票もとって舞い上がり、教育委員会を側近で固めてやってのけた、突出したできごとだと思っていたものです。知事が代わるまで教育委員が交替するまでの我慢…。ところが、今その知事の権勢は地に落ち、3代目の後継知事となっています。「10・23通達」発出当時の教育委員は、一人も残っていません。それでも、日の丸・君が代強制の「10・23通達」と卒業式入学式の「実施指針」は生き延びています。
じつは、私たちは「トンデモ知事」や、「トンデモ都教委」と闘ってきたのではなく、安倍政権の基本性格に見られるような、この時代の趨勢と切り結び闘ってきたのではないかと思うのです。
安倍政権は、明らかにこれまでの保守政権とは違います。従前の自民党の改憲案とは明確に質を異にする「自民党改憲草案」を掲げて、戦後レジームからの脱却を呼号する右翼政権。特定秘密保護法を成立させ、内閣法制局長官の更迭までして集団的自衛権行使容認の解釈改憲を強行し、戦争法成立を強行採決した暴走内閣。
このような国民主権や平和主義に背を向けて暴走する政治勢力が必要とするのが、ナショナリズムにほかなりません。ナショナリズムがもたらす、自国の優越意識と、他国への差別感情と排外主義。これらがなくては、改憲も軍事大国化もできることではありません。
ナショナリズムの第一歩。それこそが、日の丸・君が代の強制なのです。今は、そのようなナショナリズム鼓吹の時代なのではないでしょうか。
東京都に限らず、全国にナショナリズム鼓吹の風が吹いています。国旗国歌は小中学校高校だけでなく、保育園・幼稚園から国立大学にまで、事実上の強制が行われています。国家主義横行の時代には、平和も人権も蹂躙されていく。「国権栄えて民権亡ぶ」の図となるのです。
私たちの、日の丸・君が代強制との闘いは、そのような国家意思と切り結ぶ重大事なのだと考えざるをえません。
この間、法廷の闘いでは、まず予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。
法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。
また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。
しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。
時あたかも、第4次処分取消訴訟の東京地裁審理が結審を迎えます。来たる3月15日が結審の法廷となります。2月末〆切で、今弁護団は最終準備書面を作成中です。
その事件の判決が目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審理して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。
また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。
国旗国歌は、国家と等値できる存在です。国旗国歌への敬意表明とは国家に対する敬意表明にほかなりません。ですから、公権力が国民に国旗国歌への敬意表明を強制することは、国家が主権者である国民に対して「オレを尊敬しろ」と強制していることなのです。主権者国民によって作られた国家が国民に向かって「オレを尊敬しろ」と強制することなどできるはずがない。それは、憲法的には背理であり倒錯だというのが、私たちの主張です。
現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言うべきなのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。
第4次訴訟では、ほぼ全員の原告が法廷で意見陳述をし、原告本人として証言しました。毎回の法廷が感動的なもので、裁判官も真面目によく聞いてくれたという印象でした。原告のみなさんが、悩みながらも、生徒の前で教師としての生き方が問われているとの思いから、不当な職務命令には従えないとした心情をよく理解してもらえたのではないかと思っています。
闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。
私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2017年2月18日)